ミケランジェロ

ミケランジェロ・ブオナローティ

(1475年〜1564年 88歳)

  ミケランジェロはイタリアのルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人である。彫刻以外の作品は決して多くはないが、様々な分野で優れた芸術作品を残している。その多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく「万能人」と呼ばれている。
 ミケランジェロは88歳の長寿を保ったが、彫刻で最も有名と思われる「ピエタ」「ダヴィデ像」は、どちらも20歳代の作品である。

 また絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えたシスティーナ礼拝堂の「システィーナ礼拝堂天井画」と祭壇壁画「最後の審判」を描いている。

 さらに建築家としてもフィレンツェのラウレンツィアーナ図書館の設計を行い、74歳のときにサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されている。
 ミケランジェロは存命中に彼の伝記が出版されていて、ヴァザーリはミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用すると述べている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 」と呼ばれ、当時の人々からは偉人として見られていた。作品に見られる情熱的で独特の作風は後続の芸術家たちの模範になっている。

幼少期

 ミケランジェロは、1475年イタリアフィレンツェ共和国のフィレンツェから東南約60キロメートルにあるカプレーゼという町に生まれた。ブオナローティ家は古い家柄を誇りにして、フィレンツェで銀行業を営んでいたが、ミケランジェロが生まれた頃は、父親が銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていた。誕生当時、父親はカプレーゼの判事職と首席行政官を務めていたが、かつての栄華は既になく貧しい暮らしを余儀なくされていた。

 誕生から数ヶ月で、一家はフィレンツェへ戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで過ごした。ミケランジェロが6歳の時、母親が死去。次男であったミケランジェロは石切工の家に里子に出された。雄大な山々や、そこに産するしたたかな石の塊、また人間の技巧の素晴らしさに接して成長した。切り出された石塊が、ノミとツチによって人間の顔にも天使の姿にも変えられてゆくことは、幼い子供にとって興味深く不思議な作業であった。ミケランジェロは「私が幸運だったのは、乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と、人物彫刻 のコツをつかむことができた」と述べている。
 当時の芸術活動は小手先の技に過ぎない低級な仕事と見なされ、身分のある人間が行う価値ある仕事とはみなされていなかった。父はミケランジェロに学問を学ばせようとしたが、彼は学問には興味を示さず、 教会の装飾絵画の模写や画家たちとの交際を好んだ。父親は息子の意志が堅かったため、13歳の時、画家ギルランダイオに弟子入りすることを許した。弟子入りてジョットやマザッチオなどの絵画を模写し、その技術は親方も羨むほどで、14 歳で一人前の画家と認められた。フィレンツェの最大権力者であるメディチ家の当主が ギルランダイオに、最も優れた弟子を自分のところへ寄こすように求め、このときにギルランダイオはミケランジェロを選び派遣している。

 イタリア・ルネッサンスの最も懸命な人物として歴史に名を残しているメディチ家のロレンツォ公は、ミケランジェロの才能を見抜き、自分の屋敷に少年を寄宿させていた。この時以来、ミケランジェロの生涯は、このフィレンツェのメディチ家と深い因縁関係を持つようになる。1490年から2年間、メディチ家が創設したプラトン・アカデミーに参加し、ジョヴァンニのもとで彫刻を学んだ。この時期にミケランジェロが制作したレリーフとして「階段の聖母」(1490年 - 1492年)、「ケンタウロスの戦い」(1491年 - 1492年)がある。「ケンタウロスの戦い」はギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、メディチ家の当主が彼に依頼した作品だった。

 17歳の時、同じ彫刻の勉強をしていた3歳年長のピエトロ・トッリジャーノに顔を殴られ、鼻骨が曲がってしまい、ミケランジェロの肖像画で曲がった鼻を見ることができる。

『階段の聖母』(1491年頃)
カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)



『ケンタウロスの戦い』(1492年頃)
カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ



青年時代
 1492年(17歳)、後援者のメディチ家の当主が病死したことから、メディチ家の庇護から離れ、て父親の元へ帰った。その後、数ヶ月をかけてフィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の「キリスト磔刑像」(フィレンツェ、サント・スピリト教会)を作成している。この修道院長は、修道院付属病院で死去した人の身体を、解剖学の勉強のためにミケランジェロに提供した人物だった。ミケランジェロは1493年頃、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの立像制作のために大理石の塊を購入している。1494年、メディチ家の後継者から雪像制作の依頼が舞い込み、メディチ家宮廷に迎えられることとなる。
 しかし同年、フィレンツェを支配していたメディチ家は、フランス軍の侵攻をうけ追放され、ミケランジェロもフィレンツェを去り、ヴェネツィア、ついでボローニャへと居を移した。移住先のボローニャでミケランジェロは、サン・ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる。

 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝らが軍事同盟を結んだことからフランス軍は撤退した。そのためミケランジェロはフィレンツェへ戻ったが仕事がなく、フィレンツェ外のメディチ家から庇護に頼らざるを得なかった。ミケランジェロがフィレンツェで制作した彫刻に、「幼児洗礼者ヨハネ」と「キューピッド」の2つの小作品があるがどちらも現存していない。

ローマ時代
 ミケランジェロがローマに到着したのは21歳のときだった。同年ミケランジェロをローマに招いた枢機卿ラファエーレ・リアーリオからの依頼を受け、ローマ神話のワインの神をモチーフとした「バッカス像」 の制作を開始した。しかし、この作品はリアーリオから受け取りを拒否され、後に銀行家ヤコポ・ガッリのコレクションとして庭に飾られた。
 1497年11月にミケランジェロは教皇庁のフランス大使から、代表作の一つである「ピエタ」の制作をたのまれた。完成した「ピエタ」は当時、「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価され、「奇跡といえる彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは思えない、あたかも実物を目の前にいるかのような完璧な作品」とされた。

 またバチカン美術館が所蔵する有名な古代彫刻「ラオコーン像」は、この時代のミケランジェロの作品と主張する者もいるが少数派である。「マンチェスターの聖母」は、この時期にローマで描いた作品だと考えられている。


ピエタ(サン・ピエトロ大聖堂)


 ミケランジェロが決定的な名声を手にしたのは、初期の最高傑作ともいうべき「ピエタ」を完成させた25歳の時であった。ピエタ像とは、磔刑にされ十字架から降ろされた我が子イエス・キリストの亡骸を腕に抱き、別れを告げる聖母マリアを描いた彫刻である。

 この美しい聖母マリアは大げさな身振りや嘆きの表情を見せることなく、内に秘めた感情に、静かに身をゆだねているようである。すでに息絶え、横たわる我が子を 膝に抱きながら、そっとマリアは語りかけているようにみえる。私たちはこれまで、これほどまでに美しく静けさに満ちた女性を見たことがあるだろうか。聖母の柔らかな表情、衣装の光沢、あの硬い大理石をどのようにすれば風合いが得られるのか。大理石という物質からどのようにしてこの悲哀感を生み出したのか、まさに驚嘆するばかりである。

 ある評論家がミケランジェロに、聖母の美しさは死せるキリストの母としては若すぎるのではないか指摘すると、「罪ある人間は歳をとるが、無原罪の聖母は歳をとらないのだ」とミケランジェロは反論したとされている。若いミケランジェロがすでにキリストの神聖な死や聖母マリアの清楚な生の悲しみについて、彼自身の感性を働かせていたのである。このような逸話を聞くにつけ、ミケランジェロの不器用なほど真摯で真面目な性格を感じてしまう。

 ローマのサン・ピエトロ大 聖堂に収蔵されているピエタ像は、調和、美、抑制というルネサンスの理想の到達点ともいうべき完成度を誇っている。ミケランジェロの作品の中でも洗練され精緻さを極めていていた。

 ミケランジェロは、ピエタを題材とする彫刻を4体制作しており、1548年フィレンツェのピエタ(下左 ドゥオーモ博物館)、1550年代にパレストリーナのピエタ(下中央 アカデ ミア美術館、フィレンツェ)。1559年の晩年にロンダニーニのピエタ(下右 スフォルツァ城博物館)を作成している。時代とともにミケランジェロのピエ タ像が変化していくことがわかる。

 マンチェスターの聖母ナショナルギャラリー、ロンドン)


 1857年にマンチェスターで開催された大展覧会に出品されたことから「マンチェスターの聖母」と通称される、この作品は向かって左、聖母が手にする本 を見つめる天使たちがまだ描かれていない未完の作品。中央に聖母の本を見るため乳を飲むことをやめて膝から滑り降りた幼児イエス、そして、イエスを見守る 聖母が力強いタッチで描かれ、未完ながらもミケランジェロを実感させられる。


ダヴィデ像

 メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした、聖職者ジロラモ・サヴォナローラは失脚し処刑され、以前とは状況が変わったフィレンツェ共和国 に、1501年ミケランジェロは、再びフィレンツェに戻る。
 当時のフィレンツェは、支配者メディチ家が追い出され、市民による共和制へと移行しつつあった。その共和国政府の悩みが、数年前にカッラーラの山から掘り出してきた巨大な大理石だった。政府当局は多くの芸術家に、その石を利用して彫像を製作して欲しいと依頼するが、その巨大さに誰もが尻込みをしてしまった。しかしミケランジェロはこの巨大な石に挑んだのである。
 通常なら等身大の石膏像を作り、それを見ながら大理石にノミを振うが、ミケランジェロは直接ノミを振い出したのである。一気に彫り進む彼の作業は、他の彫刻家の数倍も速かった。

 作品はイスラエルの青年王ダビデであった。イスラエルの民を解放し、国を建国したという旧約聖書の英雄である。石投げ器の革帯を肩にして、敵を睨み付ける4メートルにも及ぶ巨像は、青年王らしい純粋な心意気が表れた作品に仕上がった。1504年、この最も有名なミケランジェロの代表作といえる「ダヴィデ像」が完成した。この像は当初大聖堂に飾られる予定であったが、素晴らしいでき映えゆえに、共和国の誇り高きシンボルとしてフィレンツェ共和国の政庁舎の入り口前に置かれた。人々を解放し新しい国家を作った英雄、それはまさに民主主義という新しい形の政治を目指す共和国政府に相応しいもので、フィレンツェ市民にとって、自由を求めて戦う高潔な旧約聖書の英雄ダビデこそが、自分たちを重ね合わせたいと願っていた姿だったからである。この「ダヴィデ像」が、ミケランジェロの彫刻家として 才能を決定的なものとした。


聖家族

フィレンツェ ウフィッツィ美術館蔵

 ミケランジェロがフィレンツェに滞在していた時期に聖母マリア、聖ヨセフ、幼児キリストを描いた円形の絵画「聖家族」を完成させている。この作品はアニョロ・ドーニとマッダレーナ・ストロッツィの結婚記念に注文された絵画で、フィレンツェ庁舎(現在のウフィツィ美術館)の通称「護民官の間」と呼ばれる部屋に飾られていた。

 この時代の女性は長い青のマントで身を包み、つつましやかにたたずんでいるのが一般的であるが、ここに描かれている聖母マリアはこれまでの聖母マリアのイメージとは違っている。この作品の聖母マリアは筋肉隆々で陽気な女性を感じさせる。ヨセフから肩越しに幼いイエスを受け取ろうとして、袖を肩までたくし上げた腕は筋肉質で男性のようである。
 イエスもマリアの頭を両手で押さえつけ、活発な幼児として描かれ、年をとったヨセフが困惑しながらイエスをマリアに渡そうとしている。背景にはギリシャ彫刻を思わせる人物像が並んでいることから、聖書を離れたルネッサンスの自由な世界であることがわかる。健康で生活感のある聖母子像もいいものである。


システィーナ礼拝堂
(ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂、正面が最後の審判)

 1505年にミケランジェロは、新しく選出されたローマ教皇ユリウス2世にローマへと呼びもどされ、ユリウス2世が死後に納められる霊廟の制作を命じられた。ローマ法王は「神の代理人」として世界の頂点に立つ者であり、宗教的な意味においては皇帝をも凌ぐ存在である。特に中世末期になると、ローマ法王は精神界の主であるばかりでなく、巨大な政治力や軍事力を持った。「軍人法王」と呼ばれたユリウス2世も、強い政治力・軍事力を背景として権勢を誇示しようとした。彼は自分自身の壮大な墓廟の建設計画をたて、その製作をミケランジェロに依頼した。

 ユリウス2世が「神の代理人」ならば、ミケランジェロも「神の如き」技を備えた誇り高い芸術家である。ミケランジェロは法王の望みをはるかに上回る設計図を具体化させた。記録によれば、もはや墓というよりも教会に近い総大理石の建物で、四辺には40体以上もの彫像がはめ込まれた巨大な墓廟であった。ミケランジェロはカッラーラの大理石の山にやって来て、この法王廟建設のための石を切り出した。切り出された石材は船でローマに運ばれ、サン・ピエトロ大聖堂の近くに山積されました。

 さらにユリウス2世だけではなく後継の歴代教皇からも多くの芸術作品制作を命じられ、当初の目的だったユリウス2世の霊廟制作を何度も中断せざるを得なかった。このため、ユリウス2世の霊廟の完成までに40年を要している。当のユリウス2世が当初の熱意を失ったためミケランジェロは逆に深い挫折感を味わい、1513年にユリウス2世が死んだ後、当初よりはるかに小規模な墓碑を建立した。司教座聖堂サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリに安置され、中央にミケランジェロの彫刻「モーゼ像」が配されたこの壮麗な霊廟は、ミケランジェロ自身には満足のいくものではなかった。

 ユリウス2世がミケランジェロに依頼したもう一つの大型プロジェクト、システィーナ礼拝堂の天井画の製作にあたり、ミケランジェロは天井18mの高さにまで櫓を組み、東西41.2m、南北13.2mの天井を描き切るのに、4年間この作業に掛かり切りになった。足場を組んで、その上でずっと上を向きながら一日中描く。落ちれば命に関わるほどで、不自然に捻られた身体は悲鳴を上げ、絵の具は容赦なく顔の上に滴り落ちてくる。これは、ミケランジェロの肉体にとってまさに絶叫の4年間であった。もともとミケランジェロに与えられた計画は、システィーナ礼拝堂の天井に空を背景とした十二使徒を描くというものだった。しかしミケランジェロはこの当初 計画を破棄し、「創世記」のエピソードをもとにした人類の堕天と救済を、預言者たちとキリストの家系に連なる人々によって描き、はるかに複雑な構成を採用 した。システィーナ礼拝堂天井画は「創世記」の九つのエピソードを主題として構成されており、描かれている人物像は300を超えている。これらは「人類創 造」、「楽園追放」、「ノアとその一族に仮託した人類の現状」の三つに大別できる。描かれたのは、それは何とも美しく、情緒的で、ここに生み出された絵画世界は新しい精神の創生であった。その主題は旧約聖書中の「創世記」であり、人間世界の描写から始まり、神の創造の偉大な源泉へと向かっゆく。つまり天井画は、聖書で読む物語の順序と逆に展開していた。想像を絶するでき映えで、天井画が公開されると、たちまち人々の称賛を浴び、ミケランジェロは37歳という若さにもかかわらず、世界で最も偉大な芸術家となった。
 そして後年にミケランジェロが描いた祭壇画「最後の審判」などとともに、ローマ・カトリック教会の教義を描きだすという壮大な計画の一部を担う作品となっている。

天井部分


最後の審判

システィーナ礼拝堂正面奥の部分


    最後の審判(1537年 - 1541年)から晩年まで
 1535年60歳になったミケランジェロは、かつて天井画を描いたシスティーナ礼拝堂の奥壁に「最後の審判」を描くように依頼される。「最後の審判」は、ローマ教皇クレメンス7世の注文であったがが、ローマ教皇パウルス3世もこの祭壇画制作を望んだため、ユリウス2世の霊廟制作を中断して、「最後の審判」の壁画に取りかからざるを得なかった。

 こ高さ13.7m、幅13.2mの広大な壁面に描き出された巨大なキリストは、善き魂を天上へと導き、悪しき魂を地獄へと落とす選択する神であるが、救い難いこの世の諸々の存在に対して怒りを向けている荒ぶる神のように見える。その傍らでおびえたように控えている聖母マリアのみが、清純さと哀れみを見せて、唯一の救いのきざしを留めている。「
 1534年から7年間、ミケランジェロはこの困難な壁画制作に従事した。「最後の審判」は1370cm×1200cmにおよぶ非常に大規模な作品で、すべての死者と生者が集められ、人々は生前の行いによって裁かれ、天国と地獄に送られる。キリストの再臨と現世の終末を、天使に囲まれたキリストが生前の行いによって人々の魂を裁いている情景であった。
 ミケランジェロが完成させた「最後の審判」は、キリストも聖母マリアも裸体だった。しかし裸体が不信心、不道徳であるとして、カラファ枢機卿とマントヴァ公国公使セルニーニが、壁面から除去するなどの処置を講じるべきだと主張した。パウルス3世はこれに応じなかったが、ミケランジェロの死後に、裸体で描かれた人物の局部を隠すことが決定された。この仕事を任されたのが、ミケランジェロのもとで絵画を学んでいたダニエレ・ダ・ヴォルテッラだった。その後、1993年に『最後の審判』が修復されたときにも、ダ・ヴォルテッラが加筆した下穿き部分が除去されてはいない。これは、歴史的資料として一部保存するという意味合いと、後世の画家たちの加筆によってミケランジェロのオリジナル部分がすでに削り取られて失われていたことによる。
 道徳的、宗教的な検閲は、ミケランジェロについてまわり、「わいせつ美術の考案者」とまでいわれたこともあった。16世紀の対抗宗教改革が推進した、絵画や彫刻の裸身を隠そうと試みる「イチジクの葉運動」は、ミケランジェロの作品が契機となった。大理石彫刻「ミネルヴァのキリスト」(1521年、ローマ、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会)の下半身には彫刻に布が後からかぶせられており、現在に至るまでこの状態で所蔵されている。さらに、彫刻「ブルッヘの聖母)」(1501年 - 1504年、ブルッヘ、聖母教会)の、裸体の幼児キリストには数世紀にわたって覆いがかけられていた。また、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館キャストコート展示室が所蔵するダヴィデ像の複製彫刻の背後には箱に納められた「イチジクの葉」があり、女性王族が気を悪くしないようにダビデ像の局部を隠すために使用されていた。
 1546年、ミケランジェロはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂改築の設計とドームのデザインを一任された。ミケランジェロはドームの完成を待たずしてこの世を去っているが、ドーム全体の基本的なデザインはすでに完成していた。ミケランジェロは1564年、88歳でローマで死去した。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言により、遺体はローマからフィレンツェへと運ばれて、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬されている。