レオナルド・ダ・ビンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチ

(Leonardo Da Vinci 1452年~1519年 67歳) 

  イタリアのルネサンス最盛期を代表する天才で、ミケランジェロ、ラファエロと並ぶルネサンスの三大巨匠の一人とされているが、名実ともに芸術史上最大の画家である。

 レオナルドは画家であるほかに、彫刻家、建築家、科学者としても有名で万能人であった。ルネサンス期は芸術、科学、哲学などの分野は細分化されていなかったので、レオナルド自身も異なる分野で活躍したという意識はなかったであろう。博学者であり、真理の探究者であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人類史上もっとも多才な人物とされる。レオナルドが関心を持っていた領域の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性は超人的かつ神秘的であった。ものの見方は極めて論理的で、その手法は時代を遥かに先取りしていた。

 いかなる人間も生きた時代の制約から逃れることはできない。これは歴史の鉄則であるが、レオナルドだけは500余年後の現代にタイムスリップしても、全く動じないように思われる。レオナルドは多才であるが画家としての名声がもっとも高く、肖像画「モナ・リザ」と、宗教画「最後の晩餐」に匹敵しうる絵画作品はないといわれている。

 現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と少ないが、これはレオナルドが完全主義者で何度も自分の作品を描き直しては破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけたこと、作品を完成させるのに何度も手を加えたことによる。

 レオナルドは「ものには輪郭線がない」ことに気付き、輪郭線を用いずに、陰影の微妙なぼかしを用いたスフマート技法を考案した。この「スフマート(ぼかし技法)」を用いた作品は、彼以降の画家に多大な影響を与えた。さらに遠くのものほど小さく見えるという線遠近法だけではなく、遠くのものほど白く霞んで見えることを知り、距離によって色を変化させる空気遠近法を生み出した。

 このような緻密な完璧性は絵画だけでなく、ドローイング、科学においても同じであった。ドローイングの「ウィトルウィウス的人体図」は人類の文化的遺産とされている。科学的創造面でも、ヘリコプター、戦車、太陽エネルギー、計算機、二重船殻構造などを考案しており、これらのうちで存命中に実行れたものは僅かだが、製造業に黎明期をもたらした。

 レオナルドは「画家は万能でなければ賞賛に値しない」と言っている。つまり人類の英知の結晶である膨大な研究は、絵画という表現を完成させるためにあるとしていた。

 


   誕 生

 レオナルド · ダ · ビンチ は裕福な公証人レオナルド.セル・ピエーロと 農夫の娘(カテリーナ)との間に私生児として、イタリアのヴィンチ村に生まれた。母親カテリーナは貧しい小作人の娘で持参金を用意できなかったので結婚できずにいた。

 レオナルドの名前の「ヴィンチ」とはヴィンチ村 出身という意味である。ヴィンチ村はフィレンツェから北西約40キロの田園地帯にあり、アルノ川下流に位置しており、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。

 父親セル・ピエーロは、カテリーナが臨月を迎えていたのに、フィレンツェの良家の娘アルビエーラ・アマドーリとの結婚をしたため、レオナルドは私生児という烙印を背負うことになる。しかし当時は女性の産褥死亡率が高かったため、富裕層の夫は子を絶やさないため次々に妻を娶るのが普通だったので、父親セル・ピエーロもそれに従っただけと言える父親には4人の女性がいたので、レオナルドは4人の義理母を持つことになる。

 レオナルドの幼少期についてはほとんど分かっていない。私生児として誕生したため正規の教育は受けず、左利きのままであったが、私生児だからといっていじめられたわけではない

 最初、レオナルドは、実母カテリーナの愛情を一身に浴びて育つが、父が正式に結婚したアルビエラとの間に子供が生まれなかったため、レオナルドは幼くして父の手元に引き取られ、祖父母と継母に育てられた。実母カテリーナは、間もなく村の職人と再婚したことから、レオナルドは作品を通じて母の面影を追い求めることになる。
 幼少の頃のレオナルドの遊び友だちといえば、豊かな自然といなごやカエルなどの動物だけであった。父は公証人として忙しく、母は継母だったため、一人で遊ぶことが多かった。幼少期から動物や植物、自然現象に興味を示し、鋭い観察眼を持ち合わせていた。好き嫌いや美醜などの判断をする前に、冷静な観察力を持っていたことが、レオナルドの個性となった。

 レオナルドの少年時代について多くは伝わっていない。しかしながら、絵の才能にまつわる逸話がある。ある時、近所の農夫が自分の作った木の楯を持ってきて「この表面を美しく装飾したいのだが、どうしたらいいか」とレオナルドの父に相談した。父はフィレンツェの工房に持ち込もうと思ったが、試しに息子に楯を渡して装飾を任せた。するとレオナルドは、今にも飛びかかってきそうな迫力ある龍を描いた。あまりの出来栄えに驚いた父は、息子の作品を有名な工房を営む知人で、当時の有名な画家であったヴェロッキオのもとへ持ち込み、それを見たヴェロッキオはすぐに息子を連れてくるように言った。このようにしてレオナルドは13歳頃にフィレンツェに出てヴェロッキオの弟子になった。

 ここから本格的な絵画の修行を開始し、「万能の天才」への道を駆け上がってゆく。

 

ヴェロッキオの工房時代1466年 - 1476年)

 ヴェロッキオは当時のフィレンツェで最も有名な彫刻家であり画家であった。レオナル ドはヴェロッキオの工房へ入り才能を発揮する。鋭い観察力と写実に徹するレオナルドであるが、同時に温かく情緒的表現を用いることができた。それまでの幼年時代、ひたすら愛に飢えていた少年が、工房で多くから認められ愛されたからであろう。これが歓びとなり、生来の優しさが花開いたのである。レオナルドの67年間の生涯を辿ってみると、工房での生活が最も穏やかに思える。
 レオナルドの才能は芸術分野であるドローイング(デッサン)、 絵画、彫刻ただけでなく、設計、化学、金属加工、石膏鋳型鋳造、機械工学など幅広い分野に及んだ。

 当時の工房は、絵画、彫刻の注文を受けると、ヴェロッキオの弟子たちや雇われた画家たちが共同で作品を完成させた。ヴェロッキオの工房には有望な若い弟子たちが集まり、ポチィチェッリやベルジーノも彼の工房から生まれている。レオナルドが20歳の時、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得た。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、 芸術だけでなく医学も対象にしていた。


キリストの洗礼

1472~76年頃 177x150cm

フィレンツェ  ウフィツィ美術館

 「キリストの洗礼」は イエス・キリストがヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面を描いている。天使に導かれてイエス・キリストが洗礼者ヨハネのもとを訪ねた時、ヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきです」とイエスの足元にひれ伏した。聖書の中の有名なこの場面は、多くの画家によって描かれてきたが、その中でも特にこの作品は有名である。

 この「キリストの洗礼」は 師匠のヴェロッキオとレオナルドの合作である。当時の工房では師匠の作品を実力のある弟子が手伝うのはあたりまえで、レオナルドが受け持ったのは絵の左端の天使とやわらかに霞む遠方の風景だった。レオナルドが描く人物像は他の画家とどのように違っているのだろうか。

 レオナルドが描いた天使は、閉じた口はわずかに緩み、眼の輝きは生き生きとして、波打つ金髪が繊細に描かれている。さらにキリストが脱いだ衣を抱きかかえ、洗礼の様子を温かく見守っている。師匠ヴェロッキオが輪郭のくっきりした天使(右)を描いたのとは対照的であった。ヴェロッキオは天使の出来映えが余りに素晴らしかったの見て仰天し、これはかなわないとベロッキオは筆を折り、以後彫刻の道に専念した。レオナルド20歳頃のことと伝えられている。

 師匠のヴェロッキオは、このレオナルドの天使を見て、もはや自分をはるかに超えていると感じ、二度と絵画を描くことはなかった。レオナルドはのちに「人物を描くときは、その人物が心に抱いていることを表現することだ。さもなければ、その芸術は賞賛に当たらない」と語っている。この制作哲学を実践していたのである。

 「キリストの洗礼」はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆されている。近代の分析によると、風景、岩の大部分がレオナルドの筆によるものとされている。


受胎告知 

1472-1473年頃 98×217cm

フィレンツェ  ウフィツィ美術館

 ヴェロッキオの工房で修業を積んでいた時、20歳を過ぎたダヴィンチが、初めて単独で制作した作品。実質的なデビュー作である。

「受胎告知」は神の子イエスを宿す聖なる聖母として、聖胎したことを告げる大天使ガブリエルと、それを静粛に受けとめる聖母マリアの厳粛な場面である。左側が受胎告知に降臨した天使ガブリエルで、祝福のポーズでマリアへキリストの受胎を告げる。右側の気品に満ちた穏やかな表情の女性が聖母マリアである。

 天使ガブリエルは、右手の人差し指と中指を立ててピースサインのような形をつくり、聖母マリアへの祝福の意を表し、左手には聖母マリアの純潔の象徴である白百合を捧げている。
 受胎告知は新約聖書に書かれており、
天使ガブリエルが処女マリアに「聖霊によってイエスを身ごもった」ことを告げ、マリアがそれを受け入れる場面である。別名「聖告」「処女聖マリアのお告げ」「生神女福音」とも言われている。キリスト教の芸術作品の中で、マリア崇敬を背景に、繰り返し用いられるモチーフであるが、これまでの描かれた受胎告知の絵画とは異なり、横長の画面で、天使ガブリエルと聖母マリアの距離感が荘厳な雰囲気を醸し出している

 ダヴィンチは「見たことのないものは描かない」という信念を持っており、他の画家による天使の羽は非現実的な虹色、あるいは黄金で描かれているが、ダヴィンチは「空を飛ぶのだから鳥と同じ羽が生えているはず」と鳥の羽を丹念に観察し天使の羽を描いている。また植物については多くのスケッチが残っており、マリアの足元のタイルは焼生時にできる小さな空気の穴を忠実に描いている。

 さらに衣服の襞は、その下にある生身の肉体まで感じさせる。レオナルドは工房で粘土を溶かした水に衣を浸し、それを固めたものでひたすらデッサンの練習を行ったとさせていた。

 ダヴィンチは「美は善ではない」との言葉を残している。美しさよりも物理的正確さを重んじていたのである。事実上のデビュー作であるが、駆け出しのデビュー作とは思えないほどの完成度である

 父なる神によって遣わされた大天使ガブリエルが主イエスの受胎を聖母マリアに聖告する場面である。聖胎を受けとめる聖母マリアの表情は能面のように硬く、驚きや喜びを生き生きを描いているとは言い難い。

 白百合はダヴィンチ「受胎告知」に限らず、聖母マリアが描かれる他の画家の作品にも描かれている。白百合は聖母マリアの処女・純潔・貞操を象徴する物として、約束事のように絵の中に登場する。聖母マリアに白い百合の花が描写される場合、男性を象徴する雄蕊(おしべ)は描かないことが多いが、ダヴィンチの「受胎告知」の白百合を見ると、おしべが描かれている。このことは「教会への反発心・反抗心の表れ」と説明されることがある。

 また聖母マリアの純潔・処女性を暗示するものとして、「閉ざされた庭」が描かれることが多いが、ダヴィンチの「受胎告知」では、塀がなく開かれていて、奥の風景へと繋がっている。いずれにしてもダヴィンチの豊かな才能が随所に垣間見れる

 空気遠近法

 レオナルドが遠景に使った技法が、彼自身の命名による「空気遠近法」である。幾何学的な線遠近法(透視図法)とは異なり、遠くのものほど白く、さらに青いもやにかすむように描く、色彩の強弱で遠近を感じさせ、さらに輪郭や色のぼかしを加えることによって、いっそう精緻な仕上がりとなった。これはルネサンス絵画の大革命だった。この「空気遠近法」はダヴィンチの作品で頻繁に用いられている。

 見えたままに描く彼の観察力の高さを物語るが、空気感に富んだ遠景、遠景の巨大な岩山や連なる山々は、「山の中の山」として主イエスの象徴との解釈がなされている。この作品以降、「モナ・リザ」の遠景に至るまで同様な描き方をしている。

足元の花々の風景にも遠近法が用いられている。モンテオリヴェート聖堂が旧蔵していた本作は、画家の師であったヴェロッキオの工房時代に描かれたがれ、記録はないが異論なく真筆であると認められている

 右側の聖母マリアをみると、純潔や信仰を表す青色のローブ、天の愛情を表す赤い色の衣服をまとい、右手は聖書のページを押さえ、左手は驚きを表すようなしぐさである。
 天使から受胎告知を受けた際、聖母マリアは最初に驚き、胸騒ぎを感じ、やがて天命を受け入れ、最後に神のしもべとして従順になっていくという精神状態のプロセスをたどるが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」を見ると、左手では驚きの心情を表しているものの、その気品が漂う表情には落ち着きが見られ、既に神の意向に恭順の姿勢を見せているようである。この点については様々な解釈の余地がある。

 聖母マリアが直前まで読んでいたとされる書物は、紀元前8世紀の預言者イザヤに関する旧約聖書の「イザヤ書」で、預言者イザヤが「見よ、乙女がみごもって男の子を産み その子をインマヌエルと呼ぶ」と救世主イエスの誕生を予言した部分とするのが一般的である。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」では、その読みかけのページに指を挟んだ形で描かれている。


ヴェネチア時代

 1476年(24歳)、レオナルドら3人の男色行為を告発する投書がなされた。当時は罪だった男色行為を密告され、証拠不十分で無罪になったとフィレンツェの裁判記録に記載されている。レオナルドの手稿には「私の最も親しい友人」と書いてあるが、いっぽうでは「私には友と呼べる者はいない」とも書かれており、交友関係は広いものの孤独だったと想像される。女性嫌いのレオナルドは生涯結婚はしていない。

 1478年(26歳)にはヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行く。同年、初めて絵画制作の依頼を受ける。依頼はヴェッキオ宮殿の礼拝堂の祭壇画と修道院の「東方三博士の礼拝」であるが、未完成のまま終わっている。1480年、レオナルドはメディチ家の庇護を受け、メディチ家が主宰する学者会員になり、サン・マルコ広場庭園で芸術家、詩人、哲学者らと交流する。


荒野の聖ヒエロニムス

 1480年頃
ヴァチカン美術館、未完

 レオナルド27歳時、ヴェロッキオの工房から独立し、未完成の作品「荒野の聖ヒエロニムス」を作成している。聖ヒエロニムスとは、聖書をラテン語に訳したことで知られている実在した人物である。ヒエロニムスがシリアの荒野で修行中、性的欲望を追い払うため身体を石で打ったという伝説を描いている。苦悩する聖人の人間的な面を表している。

 レオナルドが描いた作品との資料はないが、解剖学的な描写の正確さから彼の作品であることに異論はない。構図を自分の意志で描きながら、色づけされずに左背景を薄い緑であしらっているだけである。未完の作品ではあるが、聖ヒエロニムスの表情は、単なる写実を超えたすさまじさがある。色づけがなくても、むしろ単色の方が、作品の重みがあると思わせる。


ミラノ時代

 1482年、馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作すると、フィレンツェの支配者メディチ家が、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へ向かわせる。その時にミラノ公国に送ったレオナルドの自薦状が残されている。そこには「レオナルドは自然科学分野で驚嘆すべき業績を挙げ、さらに絵画分野でも非凡な能力を有している」と書かれている。

 レオナルドはフィレンツェでは芽が出なかったが、1482年(30歳)から1499年までの時代には、ミラノ公(イル・モーロ)に仕えながら、自分の工房を開いて独立した。彼の名声はこの18年間のミラノ時代で確立された。

 サン・フランチェスコ教会のために描いた「岩窟の聖母」、とサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会の食堂に描いた壁画「最後の晩餐」が、レオナルドをルネサンス芸術の第一人者にのし上げた。この頃のレオナルドは「ある出来事や人物の瞬間を捉えるべき」と主張し、絵を描く場合には、顔の筋肉の動き、特に口のまわりに注意を払うべきといっている。この原則を応用して描かれたのが名画「モナ・リザ」であり、ミラノ時代に限定するならば「最後の晩餐」である。

 レオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用の明細から、カテリーナがレオナルドの生母とされている。

 1499年10月(47歳)、フランス国王ルイ12世の軍がミラノを占拠。ミラノ公イル・モーロは逃亡し、ミラノは戦わずに陥落した。ミラノ公はのちに捕らえられて獄死する。レオナルドは弟子や友人共にミラノを離れ、マントヴァ、2か月後にはヴェネツィアに滞在し、さらに1年後にフィレンツェに戻った。
 1502年8月から、レオナルドは教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者となる。しかし8ヶ月でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画や、ヴェッキオ宮殿の壁画・アンギアーリの戦い(未完)などの仕事をする。1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、ミラノに戻った。


岩窟の聖母(パリ版)

1483-86年  199×122cm  ルーヴル美術館

 

 本作の主題は原罪(SEX)を犯さずにイエスを宿した聖母マリアの姿(無原罪の御宿り)と、2歳以下の嬰児を虐殺するヘロデ王からエジプトへ逃れるため岩窟に逃げ込んだ(嬰児虐殺)場面とされている。

 岩窟の聖母は、ほぼ同じ構図構成で描かれた2点の作品がある。最初に描かれたのがパリのルーヴル美術館が所有するもので(上記)、後に描かれたのがロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているものである(下記)。両方ともに高さが約 2 m という大きな作品で油彩で描かれている。

 ルーヴル版の「岩窟の聖母」は、聖母マリア(中央女性)と幼児キリスト(左)、そして幼い洗礼者ヨハネ(右)と天使ガブリエル(右女性)が岩窟を背景に描かれている。洗礼者ヨハネの側にいる天使(右女性)が、幼子イエスを指差し、「あちらの子供がイエスですよ」と、幼い洗礼者ヨハネに教えている。また天使の視線は絵の外側にもむけられ、絵を見る者たちに向けても「あちらの子供がイエスです」と表現している。

 このルーヴル美術館版は画面全てがレオナルドの真筆とされ、本来ならばミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会の礼拝堂を飾る作品であった。しかし当時、レオナルドとこの祭壇画の依頼主(教会側)との間で作品の構成や報酬を巡りトラブルがあった。制作にあたって教会と交わした契約書には人物の配置など、細かい指示がなされていた。教会側は、構図から光輪や十字架の有無など様々な指示を出していたが、大胆な解釈でリアリティー追求するレオナルドはこの指示に従わなかった。そのため協会側は作品の受け取りを拒否、20年以上にわたる裁判沙汰となり、妥協案として描かれたのがナショナル・ギャラリー版だった。

 当時の芸術家は、注文主の依頼に応じて製作するのが常であった。自分の創造意欲に従って製作する例はなかったと言ってもよい。また、依頼されたらどんな状況でも完成させるのが当然で義務でもあった。しかし、レオナルドは30歳の頃からそのような立場を意に介さない意識を持ち始めていたのである。

岩窟の聖母
1495-1508年 189×120cm | 油彩・板 |
 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

  ルーブル版とナショナルギャラリー版の「岩窟の聖母」の違いは、イエスと洗礼者ヨハネが左右逆になっている。そのためナショナルギャラ リー版の天使ガブリエル(右女性)は指差しをしていない。また視線の向きも違っている。何故、イエスと洗礼者ヨハネの位置が違っているのか。ルーヴル版は画面全てがレオナルド の真筆とされていたが、依頼主の教会と作品の構成や報酬を巡りトラ ブルがあった。それを仲裁した(当時ミラノを治めていた)フランス王ルイ12世がルーブル版を買い上げ、レオナルドに献上したとされている。

 さらにルーヴル版との違いは、幼児洗礼者聖ヨハネに十字の杖と衣を与え、幼子イエス との間に明確な区別がなされている。また大天使ウリエルを除く聖母マリア、幼子イエス、幼児洗礼者聖ヨハネには、神的人格の象徴である光輪が描かれている。

 ナショナルギャラリー版は、クレームを つけられたダ・ヴィンチが嫌気がさし、弟子のデ・プレーディス兄弟に描かせたとされている。そのため、2つの「岩窟の聖母」は色使い、明るさ、植物、スフ マートと呼ばれる輪郭のぼかし技法に違いがある。

 ルーヴル版がのフランス王ルイ12世に献上され、ナショナルギャラリー版がサン・フランチェスコ・グランデ聖堂へ納められたのである。ナショナルギャラリー版の「岩窟の聖母」はレオナルドの関与は少なく、そのためやや硬質的な表現で明暗対比の大きい陰影表現が見られ。デ・プレディス兄弟が依頼者の望みにより則した表現を用いたとされている。


最後の晩餐

サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院食堂(ミラノ)
下図はコピー(作者不明)

 「最後の晩餐」はキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれている。キリストが「あなたがたの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と裏切り者を告げる聖書の中でも最も重大な瞬間である。このキリストの裏切り者を指摘する強烈な言葉に弟子たちが狼狽し、その瞬間の劇的で複雑な心理を描いている。この最後の晩餐についてはヨハネによる福音書13章21節に描かれている。


 イエスは数々の奇跡を起こし、神の国に入るための教えをわかりやすく説明したため、大衆からの人気を獲得していた。そのためユダヤ人社会の権威であるユダヤ教の司祭や学者からの反感を買う。そうしたなか聖地エルサレムで過越祭の夜、キリストが敵対者によって十字架にかけられることを自ら予言する。これは「ヨハネによる福音書」の一場面で、裏切り者ユダは、キリストから左へ3人目の後ろに体を引いた黒髪の人物である。


  今から500年前、壁画「最後の晩餐」はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼によりミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の装飾画としてに描かれた。420 x 910 cm の巨大な壁画で、北側の壁一面を覆っている。1495年から制作に取りかかり、遅筆で有名なレオナルドが3年という短期間でこの絵を完成させている。遠近法、明暗法、解剖学を駆使し、それまでとは違った新しい芸術をうみだしている。ほとんどの作品が未完とも言われるダヴィンチの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つである。


 当時のミラノはイタリアでもっとも繁栄した商業都市国家で、ミラノの皇国ルドビコがダ・ヴィンチに「最後の晩餐」を依頼したが、完成した「最後の晩餐」は完成直後から絶賛を浴び、この絵はキリストと同じように神聖な存在となった。また通常、「最後の晩餐」は過越祭(ユダヤ教の祝日)の夜におこなわれたことから、子羊料理が描かれるはずであるが、本作では魚料理が描かれていたことが修復作業で判明した。


 「最後の晩餐」の完成から1年後、フランスがミラノを侵略し、ルドビコはルイ12世に捕らえられ獄中で死去、ミラノはルイ12世の統治下におかれた。ドメニコ会修道院を訪れたルイ12世は、最後の晩餐に心を奪われ、この壁画をフランスに持ち帰ろうとしたが壁からはがせず、壁から引き離す事が出来ないゆえに損傷が激しくなる。レオナルドはこの壁画を制作するのに通常用いられるフレスコ技法ではなく、油彩とテンペラによって描いている。ほとんどの作品が未完とも言われるダヴィンチの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、最も損傷が激しい絵画としても知られている。

 西洋絵画では、通常、壁画や天井画にはフレスコ画の技法を用いる。フレスコ画は古代ローマ時代から用いられており、漆喰を塗り、それが乾ききる前に顔料を載せる技法である。この技法で描いた絵画は壁や天井と一体化し、ほぼ永続的に保存される。しかしこの「最後の晩餐」はフレスコ画を用いていない。フレスコ画は漆喰と一体化させるため、使用できる色彩に限りがあり、漆喰を塗ってから乾ききるまで8時間程度で、その間に絵を仕上げる必要がある。重ね塗りや修正ができないことをレオナルドは嫌ったのである。写実的な絵画にするためには時間が短すぎ、重ね塗りができない。そのためレオナルドはフレスコ技法ではなく、油彩とテンペラによって描いている。
 このテンペラ画は卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶き、キャンバスや木の板などに描く技法で(卵を使用せず、油を主たる溶剤にすれば油彩となる)、時間的制約は無く、重ね塗り、書き直しは可能である。しかしテンペラは温度や湿度の変化に弱いため、壁画には向いていない。レオナルドは壁面からの湿度などによる浸食を防ぐために、乾いた漆喰の上に薄い膜を作りその上に絵を描いた。
 しかしこの方法は結果失敗し、湿度の高い気候も手伝い、激しい浸食と損傷を受ける結果となった。壁画完成後まもなくから絵具の剥離を招き、完成から20年足らずで、レオナルドが存命中であった1510年には目に見えるほどに顔料の剥離が進んでしまっていたと、当時の記録からわかっている。

 作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いたのである。また「最後の晩餐」が描かれたのは食堂で、壁の裏側には修道院の台所があり、下には地下水が流れていた。湿気は壁の中を伝わり絵を損傷し、やがて絵の具は少しづつ剥がれ、完成から20年足らずで腐り始めた。食べ物の湿気、湯気などが、まずこの絵を浸食したのである。

 17世紀には修道士たちは、絵の下部の中央部分に扉を設け、その絵の部分を剥がしてし、キリストの足は永遠に失われた。失われた足の部分は無名の画家の模写で知ることができる。
 17世紀末のナポレオンの時代には、食堂ではなく馬小屋として使用され、動物の呼気、排泄物によるガスなどで浸食がさらに進んだ。湿気に晒され、急速に劣化し、百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった。さらにこの間、ミラノは2度大洪水に見舞われており、壁画全体がその都度水浸しとなった。
 1943年8月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍がミラノを空爆し、スカラ座を含むミラノ全体の約43%の建造物が全壊する。その際にこの食堂も破壊されたが、ダヴィンチ「最後の晩餐」の壁画がある壁は奇跡的に残った。しかしこの絵は天井の無い場所に3年間も放置された。

 このように大きな損傷を被っているが、「最後の晩餐」はもっとも有名な絵画である。その後の度重なる修復・加筆により絵のオリジナルの部分がほとんど見えなくなってしまうが、しかし現代になって、持てる技術のすべてを尽くして修復がおこなわれ、当時の姿を取り戻すに至っている。

 現在「最後の晩餐」を鑑賞することは可能であるが、「最後の晩餐」の鑑賞時間は15分と制限されている。「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」は世界遺産に登録されている。

【裏切り者がいることを指摘するイエス】

 ダ・ビンチはイエスを中心に12人の弟子を3人ずつに分け、左右対象に配置し、十二人の使徒に対し「この中に私を裏切るものがいる」と裏切り者を指摘する。この言葉に弟子達の間に衝撃が広がってゆく様子が表現されている。


【ユダ、聖ペトロ、福音書記者聖ヨハネ】
 左から主イエスを裏切ったユダ、十二弟子の筆頭である聖ペトロ、聖ヨハネ。寝ているような姿の人物はヨハネとされるが、女性的な容貌から、密かにイエスと結婚をしていたマグダラのマリアとする説がある。

 


【ナイフが握られる謎の手】
 ユダの背後に描かれたナイフが握られる謎の手。本作で最も謎めいた描写である、この誰の手とも捉えることのできない謎の手の意図と解釈は、現聖ペトロの手とする説が唱えられているが、確証を得るには至っていない。


【聖バルトロマイ、小ヤコブ、聖アンデレ】
主イエスの言葉に身を乗り出す弟子達。左から生皮を剥がされ殉教した聖バルトロマイ、イエスの従兄弟とも言われる聖小ヤコブ、聖ペトロの実弟で兄と共に主イエスの最初の弟子となったガラリヤ出身の聖アンデレ。



【聖トマス、聖大ヤコブ、聖フィリポ】

主イエスによる裏切りの指摘に我かと問う弟子。左から主イエスや聖母マリアの復活を疑った逸話で有名な聖トマス、漁師ゼベダイの子で聖ヨハネの実兄である聖大ヤコブ、聖バルトロマイを主イエスに紹介した聖フィリポ。


【聖マタイ、聖タダイ、聖シモン】
 盛んに議論する弟子たち。左から主イエスに召命されるまで収税吏をおこなっていた聖マタイ、磔刑後はシリアやメソポタミア等で布教活動をおこなった聖タダイ(聖ユダ・タダイ)、ローマ支配に抵抗した熱心党員であるカナン人の聖シモン。



モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)

1503~1506

77x53cm

 (パリのルーヴル美術館)

 モナ・リザは「絵画史上、世界で最も多くの人に見られ、最も論評され、最も著名な美術品」である。この女性のモデルは、フィレンツェの富裕な商人ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドとされている。モデルについては弟子のカプロッティ(通称サライ)との同性愛説、自画像説など、多くの説が挙げられていたが、2008年ドイツのハイデンベルグ大学図書館で、ジョコンドの妻をモデルにした説の証拠が見つかったことからモデル論争は落ち着きを見せた。

 1503年から1506年に、ポプラ板に油彩で描かれたとされている。レオナルドは52歳の頃から描きはじめ、67歳でこの世を去る間際まで、丹念に思いを込めて少しずつ加筆していた。レオナルドが最も大切にした作品で、依頼主には渡されず、フランソワ一世の招きで終焉の地・フランスへ行ってからも手元に置き加筆していた。レオナルドが生涯に完成させた作品はわずか10点ほどだが、モナ・リザには何らかの思いが込められていたのであろう。レオナルドの作品の中で、他者の手が加わっていない唯一の作品とされ、レオナルドの芸術を純粋な形で見ることができる。

 モナ・リザが浮かべる「とらえ所のない微笑」、「モナリザ・スマイル」と呼ばれる「謎の微笑み」が謎めいた雰囲気を醸し出している。この口元と目の微妙な陰影は「スフマート」あるいは「レオナルドの煙」技法と呼ばれ、輪郭線を描かず、陰影のみで描き筆跡を残さずに輪郭をぼかすことで立体感をもたせている。さらに背景は遠くを青白く描き、空気の無限の広がりと幻想性を感じさせる「空気遠近法」を用いている。これはレオナルドが独自の技法で、線遠近法だけではたりなかった情景を表現することができた。

 肖像画は15世紀から描かれてきたが、モナ・リザ以前の肖像画は横顔で描かれるのが定番だった。例外はキリストのみで、神でない人間は横顔という約束事があった。しかしモナ・リザ以前以降は、この3/4正面を向いたポーズが踏襲された。

 「モナ・リザの微笑」は魅力的で、神が浮かんでいるように、あるいはモナ・リザが生きているようにみえる。表情も顔の左右で違うようで、左半分が悲しみをたたえ、右半分が喜んでいると捉える者もいる。さらに「モナ・リザ」が他の女性の肖像画と著しく異なるのは、喪服を着てるように飾り気のない衣装で、さらにその背景の非現実的な山や川である。

 「モナ・リザ」はフランス王フランソワ1世が購入したが、現在はフランスの国有財産としてパリのルーヴル美術館に常設展示している。さまざまな点においてこの作品は人々を魅了し続けている。ルネサンス期から500年以上経っているが、保存状態はよく修復加筆の痕跡は見られない。

 

 ルーヴル美術館に「モナ・リザ」を見に行くと、人だかりができていて「モナ・リザ」の絵にたどり着くまでに相当の時間を費やす。疲労困憊でようやく対面しても、意外に絵は小さく、防弾ガラスケースに入っていて、遠くから鑑賞するだけである。ルーヴル美術館の来館者の7割が「モナ・リザ」に直行するとされ、対話の時間など無いに等しい。残念であるが、見たい人が多いのだからしかたがない。ルーヴル美術館の警備人になって、夜間、ひとりで鑑賞したいものである。

 名画中の名画と言わしめているのは、一切の筆跡を残さない、スフマート技法で輪郭を表現しているからである。輪郭線を用いずに陰影のみによって対象を表現する薄塗り技法は膨大な時間と手間がかかる。このスフマート技法を用いて謎の微笑をつくったのか、微笑を表現するためスフマート技法を用いたのかは分からない。

 モナ・リザで最も印象的なのは微笑んだ唇である。モデルについてはジュリアーノ・デ・メディチの愛人説、コスタンツァ・ダヴァロス説、自画像説、イザベラ・デステ説、高度に理想化した人物説、弟子サライ説など諸説が挙げられており、今なお議論が続いている。

 画面左右へ当時レオナルドが滞在していた同教会の廻廊が描かれていることが明らかになっている。モナ・リザのように斜めに人物を配するのは初期ネーデルランド絵画で用いられていた構図である。ルネサンス三大巨匠のラファエロは本作「モナ・リザ」のスケッチを残している。

 交差に組まれる手。

「モナ・リザ」は「聖アンナと聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」と共にフランスでの最晩年まで手元に置いていた。このことからもレオナルドにとっても重要な作品であったと考えられている。

 レオナルドは、距離によって遠くのものの色を変化させる空気遠近法を生み出した。本作品でも岩山、荒野、農道、石橋、河、そして空と背景は簡素な構成ではあるが、極めて繊細に描写されている。観る者を惹きつけるが、退廃的な背景の風景は非現実的な背景で、東洋の山水画を思わせる。

リッタの聖母
1490
エルミタージュ美術館

ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像
1474 - 1478年
ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

  フィレンツェ貴族ジネーヴラ・デ・ベンチを描いた肖像画である。この肖像は南北アメリカ大陸で一般公開されている唯一のレオナルドの作品である。1474年に、当時16歳だったジネーヴラの結婚記念として制作された。裏面にはこの作品に関する銘「美は徳を飾る」がラテン語で記されている。赤外線解析によると詩人ベンボの「徳と名誉」の文字が、裏面の銘のそばに記されていることが判明している。
 この肖像はジネーヴラの気質まで表現した肖像画として高く評価されているが、描かれているジネーヴラは美しいが表情は厳しく引き締まっている。微笑みはなく、前を向く視線は超然としている。過去に損傷を受け画面下部が切断されているので、失われてしまった両腕がどのように描かれていたのかは、この作品の数点のデッサンから推測できるに過ぎない。
 ジネーヴラは当時のフィレンツェでも有名な美女で、メディチ家が主宰する文芸サークルでもジネーヴラを主題とした詩歌が数多く作られている。

東方三博士の礼拝
1480 - 1481
ウフィツィ美術館

 本作品はフィレンツェ郊外の修道院の注文により制作された。神の子イエスの降誕を告げる新星を発見した東方の三人の博士が、星に導かれベツレヘムの地で神の子イエスを礼拝する場面(東方三博士の礼拝)が描かれている。
 本作は1482年にレオナルドがミラノへと向かったため、未完のままフィレンツェに残されている。前景では中央に聖母マリアと幼子イエスを配し、東方の三王や民衆たちが円状に囲みながら平伏す姿で聖母子を礼拝している。そこでは様々な人物の性格や行動性が示されていて、レオナルドの自然主義的側面が表されている。さらに後景左側には廃墟的な階段や建築物、後景右側には騎馬の一団が描かれ、空間構成や構図展開において革新性を見ることができる。

未完成の男

 レオナルドは大画家として讃えられているが、絵画は20点程度しか残していない。しかもその多くが未完成で、有名な「モナリザ」や「最後の晩餐」ですら未完成とされている。遅筆だったが絵や彫刻の素描はかなりの数を残しているので筆が遅いだけではなく、気持ちが乗らなければ描けない気質だったのだろう。

 同時代の大芸術家としてミケランジェロがいるが、20歳年下のミケランジェロはレオナルドのライバル的な存在であった。顔を合わせることはほとんどなかったが、名声を高めてゆくミケランジェロをレオナルドが意識していたのは確かで、自著の中に彼の欠点を述べる記述も残されている。ミケランジェロもレオナルドに対して挑発的な評価を行っている。この二人が直接対決する機会が一度だけあった。フィレンツェ政庁の会議室に壁画を描くよう、レオナルドとミケランジェロ両方に依頼が出たことがあった。壁画を描く壁は向かい合わせの壁で、二人の才能がぶつかり合う大競作になるはずだった。しかしこの計画は途中で消滅する。レオナルドの絵が嵐で流れてしまい、塗料が不備だったなどの諸説がある。


聖アンナと聖母子
1508-1510年 168×112cm | 油彩・板 |
ルーヴル美術館(パリ)

 完成していればレオナルドの最高傑作として数えられていたであろう、晩年期に制作された未完の大作「聖アンナと聖母子」である。マリアの母アンナがその膝に聖母マリアとキリストを抱いている。本作品はレオナルドの生涯で二度目となったミラノ滞在中に、当時のフランス王ルイ12世のために描かれた作品である。未完であるが、人物の柔らかく甘美さを併せ持ち、スフマートで描かれた表現技法などから、多くの画家がこの作品を絶賛している。

 キリストに手を差し伸べる聖母マリアは、夫となる聖ヨセフと婚約中に大天使ガブリエルから受胎告知を受けた。聖母マリアは神の母、あるいは無原罪の女性として五世紀前半から崇敬の対象となっていた。なおこの世の終焉に現れるメシア(救世主)とされる幼子キリストの名称は、油を注がれた者の意味を持ち、もともと預言職・祭司職・王職に与えられる称号であった。聖母マリアは母である聖アンナと夫であるヨアヒムとが20年連れ添って始めてできた子供であった。聖母マリアの母として知られる聖アンナが、我が子マリアと孫のキリストを見つめる表情は穏やかさと慈しみに満ちている。まさに聖者に相応しく、レオナルドは晩年まで手元に置いていた。この作品が未完とされているのは背景の完成度が低いためで、レオナルドは最後まで筆を入れていた。なおレオナルドが「聖アンナと聖母子」を構想して、デッサンを描いたのは15年以上も前のことであった。このデッサンは現存しないが「あらゆる芸術家を驚嘆させ、レオナルドのなした奇跡にすべての人々は驚嘆した」との記載が残されている。

 ルネサンスは科学と芸術は同一のレベルで見られていた。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じぐらい革新的なものだった。これらの研究は芸術と自然哲学が融合したものとされていた。

 手稿には日々の暮らしや興味をもったことが記録されていている。レオナルドの手跡は、ほとんどが草書体の鏡文字で書かれている。これはレオナルドの秘密主義によるものではなく、左利きのため、単に書きやすかったせいである。
 レオナルドの手稿とそのドローイング(スケッチ、デッサン)には、レオナルドが興味を持ったあらゆる分野のものが書かれている。食料品などの日常的なものから、極めて幅広いジャンルにまたがり、絵画の構成案や詳細表現、衣服、顔、動物、乳児、解剖、植物などのデッサンや研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが書かれている。これらの手稿はレオナルドの死後に散逸していたが、現在ではウィンザー城のロイヤル・コレクション、ルーヴル美術館、スペイン国立図書館、ヴィクトリア&アルバート博物館などに所蔵されている。

 レオナルドの多くの手稿には様式や順番が整理されている。このことから出版を意識して書いたと考えられている。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている(上図)。


レオナルドのノート

 レオナルドは画業だけでなく、さまざまな分野において非凡な才能を発揮した。彫刻や音楽など絵画以外の芸術分野においても才能を発揮し、解剖学などの医学分野、工学分野、建築分野、思想・哲学分野、数学分や天文学分野とあらゆる分野の研究を行っていた。その成果は膨大な量のノートにまとめられているが、その詳細な研究が進んだのは近代に入ってからである。

 それらは驚くべきもので、例えばヘリコプターやグライダー、潜水艦、自動計算機やロボットのどのアイデアもあった。数学、物理学など学問上の発見もあり、その他数え上げればきりがないほどのアイデアや発見が含まれていた。その中には使い物にならない、間違ったアイデアもあるが、現在の技術や理論に通じるものも多くあった。彼が「万能の天才」と呼ばれるゆえんである。

 これらのノートに書かれた文字は左右が反転し、右から左へと書かれている。これは鏡で見ると正しく見える「鏡文字」で、左利き手だったからとも、中身を盗み見られないようにするためとも言われますが真意は分からない。ノートの研究が遅れた理由の一つとしてこの鏡文字の存在があった。


洗礼者ヨハネ

ルーブル美術館

 

 制作の経歴は不明だが、最晩年の62歳ごろに描かれた実質的な遺作。ヨルダン川でキリストの洗礼を行なった洗礼者聖ヨハネは、救世主イエスの存在を知らせる使者であり、天を指す指がそのことを伝えている。

 驚くことは、ヨハネが中性的な美少年として描かれていることである。端正な顔立ちと微笑みは、ダ・ヴィンチが同性愛者だったという推測に基づき、寵愛していた弟子のカプロッティ(通称サライ)をモデルにしたという説がある。

 また性別のない天使に近い存在を表しているとの説がある。当時「人間はもともと男性、女性の区別はなく、一体であった」とする考えがあり、「完全な存在であった人間を神ゼウスが嫉妬し切り離し、そのため男性女性はお互いを求めるようになった」という説があった。ダビンチがヨハネを中性的な美少年に描いたのは、その意味を理解していたせいかもしれない。ダビンチは本作と「モナリザ」「聖アンナと聖母子」の三作品を生涯手元に残している。


晩 年

 1513年(61歳)、レオナルドはローマ、ミラノ、フィレンツェを行き来していた。当時のヴァチカン(ローマ)ではミケランジェロや若きラファエロが活躍していたが、彼らとの接触はなかった。1515年フランス国王ルイ12世がなくなり、フランソワ1世が再びミラノ公国を征服する。レオナルドはボローニャで行なわれたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に指名され、このとき初めてフランソワ1世に出会った。

 以後、フランソワ1世の庇護を受け、1516年、弟子とともにフランスに向かう。フランス国王の居城アンボワーズ城に隣接した、クルーの館 に招かれ、年金を受けて死去するまでの3年間を、弟子や友人たちとクルーの館で過ごした。

 1519年5月2日、レオナルドはクルーの館で息を引き取った。フランソワ1世の腕の中で息を引き取る絵画が残されているが、その真意は別としてもフランソワ1世とレオナルドの親交の深さが分かる。67歳であった。

 レオナルドの遺言状には、葬式に60人の貧乏人に60本の松明を持たせ参列させ、フランチェスコ・ダ・メルツォの裁量にて彼らに参列代として銭を与えること。またさらに、その松明を四つの教会に分けることが遺されていた。アンボワーズにあるサン・ユベール教会堂に埋葬されたが、その後、墓が暴かれ遺骨の行方は分からない。

 レオナルドは若い頃は「この世で最高の美男子」と呼ばれるほどの美貌の持ち主だったらしいが、生涯特定の女性と親しい関係になることはなく独身だった。

 レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロは「ルネサンス三大巨匠」と称されるが、同年代の人ではない。お互いに意識した可能性はあるが会ってはいない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは23歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは31歳だった。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳で死去しているが、ミケランジェロが死去したのは1564年で88歳であった。

   サン・ユベール教会堂        レオナルド・ダ・ヴィンチの墓

「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」 ドミニク・アングル 1518年
 レオナルドはフランス王フランソワ1世に看取られながら死去したという伝承をもとに描かれた作品。

その他、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品(諸説あり)

 ルネサンスは文芸復興と同時に人間の復興の時代であった。あらゆる分野で業績を残したレオナルドは、人間という存在に不変の万能性が求められていたルネサンスの最もルネサンスらしい人物でルネサンスを象徴する存在だった。

 1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチはその生涯を閉じた。晩年は母国の政情不安もあってヨーロッパを転々とし、最後の地はフランスだった。