星影のワルツ

星影のワルツ
星影のワルツは昭和41年に千昌夫が発売した6枚目のシングルで、当初のA面曲は「君ひとり」であった。オリコンチャートの集計では170万枚を超える売上を記録した。発売当初はヒットにはならなかったが、約2年が経ってトップ10に初登場し、6週間後に1位を獲得。1度はダウンするものの8週間後には再び1位にランクインし、25週の間トップ10内にとどまった。
千 昌夫本名:阿部健太郎、1947年 - )は岩手県陸前高田市出身。農家の次男に生まれた。父親を小学校4年の時に亡くした。高校中退から1965年以前まで北海道岩見沢市にて同郷の左官業者のもとで左官職人志望として働いていた時期がある。1965年に作曲家の遠藤実に入門。同年「君が好き」でデビュー。「星影のワルツ」が1967年秋頃より大ヒット、ミリオンセラーとなり、1968年『NHK紅白歌合戦』に初出場する。その後「君がすべてさ」、「アケミという名で十八で」「懐かしの人」などが10万枚を超えるヒットとなる。1972年、アメリカ人歌手ジョーン・シェパードと結婚したが、1988年に離婚した。後に18歳年下の外国人女性(アマンダ夫人)と再婚し、3人の子供をもうける。1979年、1977年4月5日発売の「北国の春」が大ヒット、二作目のミリオンセラーとなり、第21回日本レコード大賞ロングセラー賞受賞。その他に「望郷酒場」「夕焼け雲」「味噌汁の詩」「津軽平野」などのヒット曲も生まれ、歌手としての黄金時代を迎える。
 1970年、仙台市に五万坪の土地を四千万円で購入し、東北新幹線の着工決定により、購入した土地の地価は10倍にも上昇した。このことがきっかけとなり、。次第に不動産業に手を出し、やがてバブル期には不動産会社を設立し歌手を休業。不動産業に専念した。この時期「歌う不動産王」「ホテル王」と呼ばれるほど、世界各地にマンションやビルなどを所有していた。一時はホノルルの殆どのホテルが千昌夫の持ち物と呼ばれるほどだった。しかし1991年のバブル崩壊とともに借金が膨れ上がり、2000年2月4日に個人事務所「アベインターナショナル」は経営破綻した(東京地裁に特別清算を申請、負債総額は1,034億円)。歌手活動を再開するが、近年は大きなヒットもないが、代名詞とも言える「星影のワルツ」「北国の春」「望郷酒場」などが国民的愛唱歌として歌番組で歌われ続けている。借金の殆どは旧長銀から借り入れた金であり、一時国有化による公的資金投入で一時期3,000億円を超えた借金は、1,000億円にまで棒引きされた。自己破産は行っていない。その後、民事再生法の適用により2002年「6年間で約1億5,000万円を返済すればよい」ということになった。
エピソード
歌手活動
 大ヒット曲「北国の春」は発売当初の売れ行きは低調だったが(1977年度オリコン年間シングルチャート139位)、同曲を歌い続け、1978年(同年度オリコン年間シングルチャート55位)、1979年の紅白で歌った結果じりじりと売れ始め、1979年度オリコン年間シングルチャート5位の超ロングヒットとなった。「北国の春」をテレビで披露する際は、よれよれのレインコートと古びた中折れ帽、丸縁の眼鏡、長靴、手ぬぐいを着用し、くたびれたトランクを提げるという奇抜なスタイルで歌唱していた。師匠である遠藤実からは「みっともないから止めろ」と言われていたが、それにも関わらず千は、「演歌歌手は滅多にテレビに出られないから、出た以上は目立たなくちゃ」とこの格好で歌い続けた。
バブル期
 人気絶頂時に超高級車、ロールス・ロイスを所有していたが、真夏の暑い時でもクーラーは切ったまま運転していたという。千の事業はホテルや不動産投資が有名だが、その他にも居酒屋も経営しており、「安くて旨い」と業界内外を問わず評判が高く、かなりの繁盛であったが前述の借金から店を閉めざるを得なくなった。不動産投資の失敗で膨れ上がった借金について、「利子は一日5,000万円です」と本人が困った様子もなく、開き直ったようなコメントを当時のテレビ番組で語っている。マスコミの借金報道が過熱した結果、「俺はマスコミのおもちゃじゃない。男は余計なことをしゃべらない!」と激怒。以来しばらく、マスコミとは距離を置いていた。陸前高田市には「キャピタルホテル1000」という千昌夫が関与したホテルが存在するが2011年の東日本大震災により被災、犠牲者こそ出なかったものの営業を停止した。