ミレイ

サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ

(1829年〜1896年)ラファエル前派を代表するイギリスの画家。ラファエル前派とは、1848年に作られた画派で、フランスのアカデミーに通っていた画家たちによって作られた。イタリアルネサンスの巨匠ラファエロが登場する前のルネサンス芸術を理想としている。中世の伝説や聖書を題材にし、細かい描写が特徴である。ミレイは歴史的・文学的主題を写実に基づいて明るい色調と細密な手法で多くの作品を手がけた。

 ミレイは1829年にイングランドのサザンプトンの裕福な階級層の息子として生まれた。幼少時から優れた画才を示し、彼の才能を確信した両親は、息子に優れた教育を受けさせるためロンドンへ転居する。11歳の時、ロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に史上最年少で入学、以後さまざまな賞を受賞する。

 ラファエル前派の創立メンバーとして歴史画、宗教画を中心に次々と作品を制作した。ラファエル前派は「芸術は自然に忠実でなければならない」という考えであり、その考えが作品を創作する上で主軸になった。

 ミレイが革新的な画法で描いた最初の作品が「ロレンツォとイザベラ」である。1850年に制作した「両親の家のキリスト」には非難を浴びたが、1852年の「オフィーリア」は高い評価を得た。
 1853年、ラファエル前派がマスコミによって攻撃されると、評論家ラスキンはタイムズ紙上でラファエル前派を擁護した。感激したミレイはすぐにラスキンへ礼状を出すと、ラスキンは新妻のユーフィミアを伴ってミレイを訪ねてきた。ミレイはユーフィミアをモデルに「除隊」や「ジョン・ラスキンの肖像」を製作し、ラスキン夫妻との親交を深めていった。ユーフィミアはミレイに惹かれ、彼女はラスキンとの婚姻無効の訴訟を起こした。しかし当時は妻が夫を捨てる事は極めて稀なことで、彼女の行動は恥ずべきことと受け止められた。

 1855年、ミレイとユーフィミアは結婚するが、ミレイを寵愛していたヴィクトリア女王はユーフィミアとの謁見を拒否し、以後ミレイに肖像画を描かせる事はなかった。
 1857年、ロイヤル・アカデミー展で「浅瀬を渡るイザンブラス卿」を発表した時、不評を買っただけでなく、作品を嘲笑した漫画が新聞に掲載された。ミレイを擁護していたラスキンまでも、「単なる失敗ではなく、破局である」と非難した。結婚後8人の子供を養わなければならなかったミレイは、これ以後ラファエル前派から遠のいていった。
 1860年に展示された「ブラック・ブランズウィッカー(黒い制服を着たドイツのブラウンシュヴァイク騎兵)」でミレイは失いかけた名声を取り戻した。以後は一貫して大衆の好みを意識して描くことになる。1863年にロイヤル・アカデミーに出品した「初めての説教」でイギリスに少女画ブームが捲き起きると、ミレーは少女画を描くにあたって「ただ、微妙で静かな表情のみが完璧な美と両立する。誰が見ても美しい顔を描くなら、人格が形成され表情が決まる前の8歳前後の少女が一番よい」と語っている。
 ミレイは肖像画家として成功し、当時の著名人の多くが彼に肖像画を依頼した。1896年、ロイヤル・アカデミーの会長に選出されるが、その年の8月に他界した。死の数日前に、ミレイはヴィクトリア女王から「何か出来ることはないか」という伝言を受け取る。ミレイが妻ユーフィミアの謁見の許可を願うと、女王は聞き入れ、謁見が赦された。ユーフィミアもミレイの後を追うように、翌年12月に他界した。

オフィーリア

Ophelia 1851-52年 76.2×111.8cm | 油彩・画布 | テート・ギャラリー(ロンドン)
 ミレー自身及びラファエル前派の絵画の中でも傑作中の傑作として知られる。ヴィクトリア朝の最高傑作と名高いこの作品は、1862年のロイヤル・アカデミー展に出品したもので、シェイクスピアの四大悲劇「ハムレット」の 第4幕7章の一場面である。デンマーク王子ハムレットが、父を毒殺して母と結婚した叔父に復讐を誓うものの、その思索的な性格のためになかなか決行できず、その間に恋人オフィーリアは小川で溺死してしまうという内容である。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後にラファエル前派の画家ロセッティの妻となるエリザベス・シダルである。細密な写実描写で表現される死の直前のオフィーリアの姿は、生と死の狭間にあってなお神々しいまでの美しさに満ちている。モデルを務めたシッダルは水風呂の中でポーズを取り続け、風邪を拗らせてしまい、モデルの父親から治療費の支払いを請求されたという逸話も残されている。夏目漱石の小説『草枕』 にこの絵に言及した箇所がある。 また、日本画家の山本丘人がこの絵画の影響を受けた「水の上のオフェリア「(原題:『美しき屍』)を描いている。

 生と死の狭間にあってなお神々しいまでの美しさに満ちているオフィーリアの姿。本作に描かれるのは世界で最も著名な劇作家ウィリアム・シェイクスピアが手がけた四大悲劇「ハムレット」第4幕7章の一場面である。

 溺死したオフィーリアの力無い手。後に同じラファエル前派の画家ロセッティの妻となったエリザベス・シッダルをモデルに、細密な写実描写で表現される死した、又は死の直前のオフィーリアの姿は、生と死の狭間にあってなお神々しいまでの美しさに満ちている。

 小川の水面に揺らめく花々。自然主義的な美的理念に基づき本背景の中に描写されるヤナギは見捨てられた愛、イラクサは苦悩、ヒナギクは無垢、パンジーは愛の虚しさ、首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折、ケシの花は死を意味している。

 

盲目の少女
1854-56年 82.6×62.2cm | 油彩・画布 |
バーミンガム市立美術館

 1857年にリヴァプール・アカデミーの年間最優秀賞を受賞した本作は、画家の新居の近くに住んでいた少女をモデルに、盲目の少女たちが雨上がりの牧草地で佇む情景を描いた作品である。画面中央では盲目を思わせる少女が大地に腰を下ろし、雨上がりの空気や差し込む陽光の温もりを味わうかのように休んでいる。傍らにはさらに幼い少女が、盲目の少女に凭れ掛かっている。このような盲目の人物を描く場合、教訓的な内容や悲愴感などを観る者が感じられるようにするのが通例であるが、本作に描かれる盲目の少女の己が背負う障害に対する態度は非常に穏やかであり、卑屈な雰囲気や戒告な様子は微塵にも感じられない。この二人の少女の屈託の無い子供らしさこそ、最も大きな魅力である。また雨上がりの美しい風景は、近景をミレイが新居を構えたスコットランドの風景に、遠景をイングランド南東部の小村ウィンチェルシーの風景に描かれたことが知られており、この詩情性豊かな風景表現は、画面全体を包み込む明瞭な光の描写や、輝きに満ちた色彩表現、遠景で暗い雨雲の中にかかる二本の虹が大きな要因となっている。なお本作のモデルと推測されるミレイの新居の近くに住んでいた少女は、画家が同時期(1855-56年)に手がけた『枯れ葉(秋の葉、落ち葉)』でもモデルを務めている。

姉妹達
1868年 | 油彩・画布 | 106.7×106.7cm |
個人所蔵(ロンドン)

 ミレイが自分の3人の娘たちを描いた作品である。3人とも非常に可愛らしく描かれている。