函館の女

北島三郎(1936年〜)
 「函館の女」に始まる「女」シリーズ、「兄弟仁義」などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲がある。函館の女は、北島三郎の14枚目のシングルで140万枚を記録する大ヒットとなった。発売当初はA面が「北海道恋物語」、B面が「函館の女」だったが、後にA面とB面が入れ替えられた。
 北島三郎は本名は大野穣で愛称サブちゃん。北海道上磯郡知内村(現:知内町)出身。北海道函館西高等学校に進学。高校時代に海で溺れた小学生を救助したことが当時の新聞に載っている。高校在学中に函館で開催された「NHKのど自慢」に出場するが鐘は2つだった。高校を卒業すると上京し、東京声専音楽学校に入学。しかし歌謡曲志向だったため、渋谷を中心に流しの仕事をしながらデビューを目指した。この頃、アパートの大家の娘雅子と結婚する。北島三郎がデビューする3年前の挙式だったため、出席したのは両家あわせて21人だけだった。北島三郎は定収がなく、夫人の両親は結婚に反対だった。
 1960年、流しの収入は3曲100円だったが、ある日、客が1000円を出してくれた。礼を言い1曲歌うと「明日、新橋の喫茶店で待っているから来なさい」と声をかけられた。声をかけたのは北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、喫茶店で引き合わされたのが作曲家・船村徹だった。これを契機に船村門下となった。
 1961年、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった「なみだ船」だった。この頃、正統派の歌謡曲の新人はなかなか需要が無く、船村自身「あんなに売り込みに苦労した弟子は他にはいなかった」と述べている。
 1962年、村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで、歌手としての初舞台を踏み、「北海道(北の島)生まれの三郎」という意味で芸名を北島三郎とした。日本コロムビアから「ブンガチャ節」でデビューしたが不発に終わった。「ブンガチャ節」は渋谷などの繁華街で流しが歌っていた春歌(猥歌)の歌詞を変えたもので、1週間で放送禁止となった。そこで急遽発売となった「なみだ船」がヒットし出世作となる。この年紅白歌合戦に初出場。
 1965年、この年「兄弟仁義」「帰ろかな」、「函館の女」と3曲が大ヒットし、演歌歌手としての人気を確立した。『兄弟仁義』は東映で映画化され自らも出演している。演歌の大御所として、その後、「平成音頭」「風のロマン/弁慶岬」「出逢い」「あの日時代」を発表している。
 2010年 第61回日本放送協会放送文化賞を受賞。「北島三郎 特別公演で座長公演4000回」の大記録を樹立した。また結婚50周年を迎え「夫婦一生」をリリースした。2013年、第64回NHK紅白歌合戦を最後に紅白への出場を「引退」することを発表した。美空ひばり、五木ひろしと並ぶ、歴代最多の13回目となる大トリを務めることが内定した。北島は「50回目の出場を区切りに1本の線を引きたい」としたのだった。歌手活動については、80歳でも90歳でもやっていきたい」と引退を否定している。