坂本 九

坂本 九
(本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年〜昭和60年、43歳没。)は、神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん。
妻は女優の柏木由紀子。『上を向いて歩こう』や『見上げてごらん夜の星を』、『明日があるさ』など数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など活動は多岐に渡り、日本航空123便墜落事故に巻き込まれるまで精力的な活動を続けた。
 川崎市の荷役請負業「丸木組」社長・坂本寛と妻・いくの第9子として誕生。9番目に生まれたので「九」と命名された。誕生日である1941年12月10日は、第二次世界大戦のマレー沖海戦が起こった日である。第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある茨城県笠間市に疎開した。
 戦争中のに発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために坂本は母と乗り合わせていた。ただ事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。周囲の人々にこの一件を聞かされ、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として終生信仰していた。後にこの笠間稲荷神社で結婚式を挙げるている。日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった。
 高校生の時に両親が離婚、九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。
 1958年5月、日大横浜学園在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していたザ・ドリフターズに加入しボーカルを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する。半年後にドリフターズを脱退。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが[1]、ヒットしなかった。
 無名時代、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、全く知られることはなかった。
 1960年7月に、東芝音楽出版(東芝レコード)に移籍。移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ初ヒットとなった(この曲は、日本航空123便墜落事故の慰霊式における鎮魂曲となる)。
 1961年「上を向いて歩こう」日本国外でも大ヒットし、作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。さらに1963年には、SUKIYAKIというタイトルでアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得した。"Billboard Hot 100" で1位を獲得した日本人アーティストは坂本だけである。この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版だった。また、この「上を向いて歩こう」は米国内でのレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため、坂本は日本人初の「ゴールドディスク」を受賞した。
 1971年12月8日に女優の柏木由紀子と結婚。
 「上を向いて歩こう」がヒットする最中、夕張市を中心に当時流行していた小児麻痺の為の「チャリティーショー」が札幌市で開かれ、坂本は無報酬で出演した。以来、毎年10年間北海道でチャリティーショーを続けた。
 1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた。8月9日には、中村八大のコンサートにて「もう一度、六・八・九としてやり直したい、歌手としてやり直したい」という意志を伝え、中村と再度の意気投合を誓っていたという。8月12日、坂本はNHK-FM放送で『歌謡スペシャル 秋一番!坂本九』の収録を行っており、これが生前最後の仕事となった。なおこの番組は同年9月1日に放送され、冒頭で坂本の死去を伝えるアナウンスが流れた。
 大阪府にいる友人(坂本の元マネージャー)の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中、日本航空123便墜落事故に遭遇し死去した。坂本は本来、国内移動には日本航空(JAL)ではなく必ず全日空(ANA)を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していた。しかし、当日は全日空便が満席で、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった由紀子は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故が起こるまで特に気に留めていなかった。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。
しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。
 事故翌日の8月13日、事前収録の坂本本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否不明の状態であったため敢えて放送され、番組の最後ではブラックバックに「坂本九さんの無事をお祈りします」というコメントが寄せられた。墜落から99時間後、家族らによって遺体が確認された。
 戒名は「天真院九心玄聲居士(てんしんいんきゅうしんげんせいこじ)」。墓所は東京都港区西麻布二丁目の長谷寺。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。
 坂本の不慮の死は、日本音楽界・歌手界にとって大きな損失と言われたほか、福祉界においても大きな損失と言われた。例えば、彼の死によって手話が市民権を得るのが5年は遅れたと言われている。坂本は前述の「サンデー九」の一環で北海道栗山町と交流があったことから、逝去後栗山町に坂本九思い出記念館が設立され、関連の展示がなされている。
坂本を記念して、小惑星ナンバー6980の固有名はKyusakamotoと命名されている。ナンバーの6980も「六八九トリオ」に由来する。
 坂本が最後に歌った「心の瞳」は、現在では混声3部合唱として主に中学生に歌われている。また、「明日があるさ」は2000年8月より約1年半間にわたりジョージアのコマーシャルに起用され、CMソングを歌ったウルフルズによる『明日があるさ』はオリコン4位を獲得し、坂本の楽曲が再び注目されるようになった。
 2007年3月4日より、茨城県笠間市の常磐線友部駅で「明日があるさ」・「上を向いて歩こう」・「幸せなら手をたたこう」が発車メロディとして使用されている。さらに2012年7月24日には、常磐線岩間駅の橋上駅舎完成に合わせ、「幸せなら手をたたこう」・「レットキス」の発車メロディーを導入している。2014年4月29日には、水戸線笠間駅でも岩間駅と同じ発車メロディーが導入された。
 九の曲は、日本航空の機内オーディオサービスでは絶対にかけられない。雑誌報道によれば、事務所側が拒否しているのは勿論のこと、他のアーティストが歌っている「明日があるさ」がかかっただけでも、日航へ乗客からクレームが殺到したためと言われている。
 2008年12月20日からは、「上を向いて歩こう」が坂本の出生地である神奈川県川崎市の京浜急行電鉄京急川崎駅にて、電車接近メロディ(駅メロディ)に使用されている。茨城県笠間市笠間地区では正午に「上を向いて歩こう」、午後5時に「見上げてごらん夜の星を」のメロディが流れている。