モディリアーニ

アメデオ・モディリアーニ(1884年〜1920 35歳没)
 モディリアーニはエコール・ド・パリの画家。イタリアトスカーナ地方のリヴォルノで生まれれ、両親はともにユダヤ系のイタリア人でだった。当時モディリアーニ家は林業や銀鉱を経営していたが、モディリアーニが生まれた年に倒産している。幼少期に話し相手になったのは母方の祖父イサーク・ガルシンで、裕福な祖父の援助により経済的には安定していた。また祖父は博学でモディリアーニに芸術や哲学の話を聞かせていた。
 幼い頃から絵画に興味を持っていたモディリアーニは、14歳のときにデッサンの指導を受ける。1900年結核に冒され、転地療養のためナポリ、ローマ、フィレンツゥエ、ヴェネチアなど気候の良い土地を巡る旅に出かける。この際訪れた芸術都市で教会などで見てイタリア美術に強い感銘を受ける。1901年、故郷リヴォルノを離れ、フィレンツェの裸体美術学校で学び始め、1903年から3年間、ヴェネツィアに滞在して美術学校に通う。同地でマッキア派や後期印象派、グスタフ・クリムト、エドヴァルド・ムンク、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど象徴主義や分離主義などの作品にも強く惹かれる。
 1906年1月、芸術の都パリへと向かう。当時若い画家が数多く居住していたモンマルトルでアトリエを借りるが、1909年からモンパルナスに拠点を移した。この頃パブロ・ピカソ、ディエゴ・リベラ、モーリス・ユトリロ、藤田嗣治など同時代を代表する画家と交友する。しかしキュビスムなどの時代の先端をゆく絵画様式には拒否反応を示している。キュビズムは「手段」だけで「生」を問題にしない「抽象画は人を疲れさせ、駄目にする」と言っている。また自堕落な生活であった為、パリの美術界で孤立ししていた。東欧や北欧からの異邦人が多かったパリ社会でユダヤ系のイタリア人は特異な存在といえた。病弱な体質、極貧の生活、前衛的美術に対する違いなどが複雑な孤独を招き、酒に溺れる毎日を招いていた。

 1907年、サロン・ドートンヌに出品するが、同所でセザンヌを知り強い衝撃を受け、セザンヌの「赤いチョッキの少年」を模写するようになる。当時のモディリアーニの評価は低く、作品も売れなかった。1909年から1914年まで彫刻家として精力的に活動するが、病弱だったため体力的な理由で彫刻活動を断念する。
 1914年、パリで画商の勧めもあって絵画に専念する。当時シャイム・スーティン、藤田嗣治、モーリス・ユトリロとも交友があった。

 同年、英国人の女性ビアトリスと知り合い、その後2年間交際する。彼女の名前「ビアトリス」が、モディリアーニが敬愛するイギリスの詩人ダンテの永遠の恋人と同じだったので運命を感じたとのことだった。しかしビアトリスは従順で献身的な家庭的女性とは言えなかった。パリでジャーナリストとして活躍し、人前で平気でタバコを吸い、当時の女性のたしなみである帽子をかぶらず、窮屈なコルセットも付けず、サンダルで動きまわる女性だった。モディリアーニより5歳年上だった。モディリアーニはビアトリスに捨てられた。

 同じ頃、第一次世界大戦が起こるが、モディリアーニは病弱のため兵役は不適格となる。また本格的に絵画の制作活動をおこなうが、画家としては依然として異端視されていた。1916年には、ポーランド人の画商ズボロフスキーと専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに画材などを提供してもらう。

 

ジャンヌ・エビュテルヌとの出会いから死まで

 1917年の謝肉祭の日、モディリアーニが33歳の時、当時19歳の画学生だったジャンヌ・エビュテルヌと知り合う。二人は出会ってすぐに安ホテルを転々としながら共同生活を始める。エビュテルヌはビアトリスとは違い、心優しく、慎ましく美しい女性だった。物静かで控えめで、非常に色が白く、そのため「ヤシの実」とあだ名されていた。エビュテルヌは厳格なカトリックの家に生まれ、父親は会計士で文学研究家で兄は画家だった。モディリアーニはユダヤ人だったので宗教上とても結婚が許される環境ではなかった。もちろんジャンヌの両親の猛反対を押し切ってのことだった。1918年に子供が生まれるが、モディリアーニは相変わらず破滅的な生活だった。エビュテルヌと一緒に暮らしても、モディリアーニはその放埒な生活態度を少しもあらためなかった。彼女はじっと耐えて夫を待つ毎日だった。
 同年12月、ベルト・ヴァイル画廊にて生前唯一の個展を開催したが、裸婦画を出展したため個展前日に警察が踏み込む騒ぎになり、裸婦画を撤去することになった。1918年転地療養のためニースに滞在する。同年エビュテルヌとの間に長女が誕生。エビュテルヌに結婚を誓うが、貧困と肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの荒廃した生活の末、1920年に結核性髄膜炎により死去した。享年35。

 恋人エビュテルヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って集合住宅の5階の窓から身を投じた。この時エビュテルヌは二人目の子供を宿しており妊娠9ヶ月だった。エビュテルヌの遺族は、彼女の自殺はモディリアーニのせいだとして、エビュテルヌの亡骸を別の墓地に埋葬した。それからおよそ10年後、エビュテルヌの家族は渋々ながらもモディリアーニの墓にエビュテルヌの亡骸を一緒に埋葬することに同意した。墓碑銘には「究極の自己犠牲を辞さぬほど献身的な伴侶」とある。


作風
 モディリアーニの絵画の代表作の大部分は1916年から3年間に集中している。絵画のほとんどは油彩の肖像と裸婦であり(風景は4点、静物はなし)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多い。これは自身の彫刻の影響が指摘されている。また驚異的な集中力で作品を一気に仕上げる(早描き)で知られており、モデルを前に4時間足らずで作品を仕上げたこともある。なお、初期にはピカソの「青の時代」やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作している。


後年の評価
 モディリアーニの作品は死後、急速に値段が高騰し、死から10年後の1930年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレでの回顧展で、ようやく20世紀を代表する画家として評価を受けることになった。モディリアーニの生涯は半ば伝説化しており、「モンパルナスの灯」(1958年)フランス映画。「モディリアーニ 真実の愛」(2004年)で映画化されている。

エピソード
 ピカソに12年前の借金を返済されたとき、5フランの借金に対して「利子」と称して20倍の100フランを請求した。
 1歳2ヶ月で両親に先立たれた長女ジャンヌはモディリアーニの姉フローレンスに引き取られ、フィレンツェで育てられたが、はじめは両親をめぐる事実を知らなかった。後年、自らも美術に携わり、ドイツ表現主義やエコール・ド・パリなどの研究を経て、父モディリアーニの研究にも従事し1984年に死去した。
 モディリアーニはしばしばカフェで臨席した客の似顔絵を描いて、それを半ば無理やり売りつけ。それを酒代にして夜の街を徘徊し、身重のジャンヌが一晩中探し回ることもあった。


 大きな帽子をかぶった

ジャンヌ・エビュテルヌ(1918)

 つばの広い帽子をかぶって、人差し指と中指を頬に当て、瞳の描かれていない水色の目を虚空に漂わせている。すべてを受け入れているような、それでいてとても悲しそうな表情は見る者の心をとらえる。頬に当てた指の所在なさ、中心線を少し外れて傾いた頭部に、彼女の心理的な深さが読みとれる。

 黒目のないアーモンド形の瞳、縦に引き伸ばされた面長の顔、妙に長くくねった首、静謐なようで、どこか躍動感のある独自の人物画である。

 これらモディリアーニが描く女性像の特徴は、彫刻家を志望していた影響なのか、アフリカの原始美術の影響なのか、あるいはモディリアーニ特有の人物の普遍化、永遠化のためだけだったのか、ジャンヌの悲しみをわかっていながら幸せにできない彼には、瞳のない目を描くことしかできなかったのかも知れない。「私が描く人物は見ることができる。たとえ瞳をつけてやらなくても….」。モディリアーニはこの言葉を残している。

 モディリアーニの描いた女性の肖像画は数多くあるが、もっとも有名なのは「ジャンヌ・エビュテルヌ」の一連の肖像画である。24枚という数の多さは、ジャンヌがモディリアーニにとって大切な伴侶だったかが分かる。


   ジャンヌ・エビュテルヌ

ペール・ラシェーズ墓地にある

モディリアーニとジャンヌの墓石



背中を見せて横たわる裸婦

 1917年
64.5×99.5cm | Oil on canvas |
Barnes Foundation, Merion

 モディリアーニは1916から3年間に、24点の裸婦を描いている。裸婦はベッドなのか長椅子なのか分からないものに横たわっている。それまでの他の裸婦絵は小道具があり室内装飾もあったが、モディリアーニはそれらを拒否している。1917年、ベルト・ヴェイユ画廊でのモディリアーニ展で、5点のヌードが 警察に押収された。絵画の歴史を無視した裸婦像だったかがわかる。

腕を広げて横たわる裸婦

ミラノ 個人蔵

 タイトルの通り両腕を広げて大胆に横たわり、目を半分開き、幸せの中でかすかな微笑んでいるように見える。
 モディリアーニの描く裸婦は世間一般で言う「官能的」という言葉とは違いいやらしく見えない。健康的で生命の力が満ちあふれている。女性というより、人間の生命そのものが描かれている。
 この作品のポーズは、右側の乳房は上から見たものなのに、左側は側面から描かれている。さらに胴体と脚部の接合部分は、両脚が前に出すぎて不自然である。
 モディリアーニはは写実よりも抽象的に裸婦を描こうとしたのであろう。

 モディリアーニ独特の長い首、卵形の青白い顔、生気の乏しい青一色の目。そしてやや斜めにかまえたポーズ。単なる肖像画ではあるが、何度見ても飽きない。この魅力はどこからくるのか。
 モデルとなったズボロウスキーは、モディリアーニのために最後の最期まで献身的に働いてくれた画商である。画商だけでなくモディリアーニの死の翌日に自殺した恋人、ジャンヌの埋葬にも参列しており、モディリアーニを真に理解した友人であった。
 1916年にズボロウスキーはモディリアーニと初めて会うのが、モディリアーニの絵を売ることだけに専念したのではない。友人たちを紹介し、多くのモデルを世話し、自分の一番大きな部屋をアトリエとして提供し、心身ともにモディリアーニを援助した。
 さらにズボロウスキーは、夫妻とも容姿が最も理想的なモデルであった。