シャガール

マルク・シャガール(1887年〜1985)
 ロシア(ベラルーシ)出身のフランスの画家。故郷は人口の大部分をユダヤ人が占めていて、シャガール自身も東欧系ユダヤ人である。生涯、妻ベラを一途に敬愛し、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多いことから「愛の画家」と呼ばれる。
 当時のロシアの首都サンクトペテルブルクの美術学校に入り、1909年にバクストのズヴァンツェヴァ美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。
 1910年の晩夏、23歳のときシャガールはパリに赴き、5年間の滞在の後に故郷へ戻る。その時を回想してシャガールは、「わたしは1910年に故国を離れ、どうしてもパリに行かなくてはと決心していた。わたしの芸術を養ったのはヴィテブスクだったが、わたしの芸術は、木が水を必要とするようにパリを必要としていた。ヴィテブスクよわたしはお前を捨てる。いつまでも鰊だけと暮らすがいい」と言っている。この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。また「ロシア時代の絵には光がなかった。ロシアではすべてが暗く、褐色、灰色だった。フランスに来て、わたしは色の千変万化の輝き、光のたわむれに打たれた」と語っている。狂熱的な色彩の洗礼を受けたシャガールが、想像力のおもむくままに心の世界を明るい色調で描くことに目ざめた。

 1915年にベラと結婚。10月革命後のロシアでしばらく生活するが、1922年、ふたたびパリへ戻る。 ロシア時代のシャガールはロシア・アバンギャルドに参加して構成主義やデザイン的作品を制作したが、出国後の作品は「愛」への傾斜が認められる。 第二次世界大戦が勃発するとアメリカへ亡命した。なお最初の妻ベラはアメリカで病死した。
 1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住するため、フランス国籍を取得している。当時60歳代のシャガールは、ユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。1960年、オペラ座の天井画をシャガールは依頼され4年後に完成。シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランスに寄贈、ニース市が土地を提供して、シャガール86歳の誕生日に国立マルク・シャガール美術館が開館した。
エピソード

 詩人アポリネールは、シャガールの作品を見て「超自然だ」と評した。超自然というのも当然である。しかしシャガールは、自分の絵を「これは私の思い出、私の人生そのもの」と説明した。シャガールにとっては超自然など関係なく、頭のなかの思い出をそのまま描写しただけだった。

 ホンダの創業者、本田宗一郎とパリで会った時、本田は日本からのお土産は何にしようかと迷いに迷った末、毛筆、墨、硯の一式を持っていくことに決めた。いざシャガールに会いに行くと、「これはどう使うのか」という話になり、あれこれ説明しているうちに、いきなり席を立って画室にこもってしまった。何が起きたのかわからず戸惑う本田に、シャガールの妻は「もう、主人の出てくるのを待っていても、いつになるかわかりませんよ。あなたからもらった筆を実際に試しているのでしょうが、こうなったら何時間でも画室にこもったきりになってしまうのです」と説明した。

ニューヨーク近代美術館蔵

 

 シャガールの内的世界が美しく結晶された、幻想的で限りなく優しい代表作の一つである。シャガールの好きな赤、朱、黄、青、緑が全体を分割させ互いの色調を際立たせ、見る者に明確な印象を与えている。牛と顔がほぼ同じ大きさで向き合い、上には故郷ヴィテブスクの風景、下にはヴィテブスクの樹が描かれているが、この樹には幸福を象徴する花が咲いていて、それをの指で大切に支えている様子が、故郷に対するシャガールの優しい想いを示している。パリを第二の故郷と呼びよりも鮮やかな心境で描いた。牛の顔に、乳をしぼられている牛の全体像が重ねられ、家や女性が倒置され、シャガール的要素が故郷への想いとともに、画面いっぱい詰め込まれている。

  生きる歓びを表すときシャガールはしばしば人体を浮遊さる。あまり嬉しかったり幸せなときは、思わず飛び上がって喜んでしまうので、このの表現方法にはとても自然で親しみをおぼえる。

 シャガールはこの作品について、「1915年のわたしの誕生日に、花束を持ってベラが来てくれた。この現実はわたしの中でたちまち変容し、化学変化が行われた。わたしは具体的で精神的な最初の衝動・明確な事物から出発し、そして何かもっと抽象的なものに向かうのだ」と書いている。花束を持って行っただけで化学変化を起こしてしまうなんて、なんだか少し大げさな気もしますが、このアクロバティックな表現を見るとシャガールの喜びがとてもストレートに伝わってくる。ベラの表情とつつましい花束、そして鮮やかな朱色の床が印象的でロマンティックな作品である。

 シャガールがベラ・ローゼンフェルトと知り合ったのは、女友達のテア・ブラックマンの家でした。のちに彼は、「彼女の沈黙はわたしのものだ。彼女の眼はわたしのものだ。まるで彼女はわたしをずっと以前から知っているようだった。少年の頃のわたしも、現在のわたしも、わたしの未来をもすっかり知っているようだった」と書いている。それから6年後に二人は結婚し、ベラが死ぬまでの30年間の結婚生活は歓びと幸福に満ちあふれたものだった。そんな出逢ったばかりの二人の心情を表している。

 この絵の床の朱色、右手の壁掛けやベッド・カバーのの表現にはマティスの影響がうかがえる。シャガール自身が独自のレアリスムを確立するのに、フォービスムのマティスのほか、ゴッホやゴーギャンといった後期印象主義の画家たちから色彩の自立的な美しさを強調する方法を学び、また現実をさまざまな角度から自由に描くキュビスムから複数の視点ということを学んだことが大きかった。