ピカソ

パブロ・ピカソ( 1881年 - 1973年)

 Pablo Picassoは20世紀を代表する美術界の巨匠である。スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市に生まれ、フランスで活躍した画家であるが、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶器、衣装までも手がけ、女性関係を含め超人的芸術家であった。生涯におよそ1万3500点の油絵とデッサン、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な芸術家としてギネスブックに登録されている。

 ピカソの青の時代の前後、バラ色の時代の作品を観ると、ピカの芸術性の高さに感心するが、ピカソが芸術史上大きな足跡を残したのは、ブラックとともにキュビスム(立体主義:キュービックと同じ語源)を創作したことである。

 キュビスムというと、「あの訳のわからん絵のことか」と思う人が多いであろうが、キュビスムは絵画に革命をもたらした。それまで絵画で描かれるのは「3次元の対象物を2次元のキャンパスにいかに表現するか」であった。ピカソ以前の絵画は三次元的リアリズムを求めてきたが、ピカソがたどり着いたのは「複数の視点からの画面をひとつの平面に描写し、断片化した視点を二次元に再構成する方法」であった。それは複数の視点からの画面をモザイクのように重ね合わせる方法だった。

幼年時代〜青の時代前

 パブロ・ピカソは1881年10月25日、スペイン南部アンダルシア地方の港町マラガで、父ホセ・ルイス・ブラスコ、母マリア・ピカソ・ロペスの長男として生まれた。生まれたばかりのピカソは死産と間違われ、テーブルの上に放置されていたが、叔父である医師サルバドルのとっさの処置により産声をあげた。

 闘牛で有名な港町マラガでは、先祖の名前や神聖な名前をつないで名前を付けていたので、長い名前がマラガでは普通であったが、ピカソの本名はとても長く本人も全部を覚えきれないでいた。マラガ市役所にある出生届には「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」と書かれている。ピカソという名字は母方の名字で、父方の名字「ルイス」はピカソが生まれたマラガでは、よくある名字だったので、途中からピカソ姓を名乗ることになった。

 幼児期のピカソは言葉を覚えるより先に絵を描いていたとされ、最初にしゃべった言葉が「ビス、ビス(鉛筆の幼児語)」だった。「子供のころから、ラファエロのように描いていた」「子供の時に、子供の絵を描いたことはない」とピカソ自身が語っている。これらの逸話の真意は別として、幼少時代から絵が得意たったことは間違いがない。

 ピカソの父親ドン・ホセは、アンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師の教師で、同時に画家でもあった。ピカソが8歳の時、父親ドン・ホセがピカソにリンゴの絵を描かせると、とてつもなく上手だったので、ピカソの才能に驚き、ドン・ホセは自分の絵の道具をピカソに譲り、自ら絵を描くことをやめてしまった。

 このように天才と呼ばれるピカソは、幼いときから絵画に特別な才能があり、その才能を活かすため本格的な勉強をさせようと、ピカソが14歳(1895年)のときにピカソ一家はバルセロナに引っ越し、ピカソはバルセロナ美術学校に入学する。バルセロナ美術学校で伝統的な絵画の技法を学び、 16歳で官立美術学校の最高峰であるマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学する。入学時、1ヶ月で作成する入学試験の課題作を1日で完成させている。官立美術学校に入学するが、学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退するとプラド美術館に通い、名画の模写で絵画の道を極めようととしていた。
  1899年、バルセロナに戻り、若い芸術家たちと交流しながら、店のメニューをデザインしたり、ポスターを描いたりしていた。

 

    長生きしたピカソは、時代によって絵画の雰囲気が違っている。ピカソの絵画は、その特徴ごとにそれぞれの時期に分類されている。ピカソの絵画はどれも有名なものばかりで、一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作している。一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた。ここではピカソの人生をたどりながら作品を紹介してゆく。


初聖体拝領

1896 166×118cm

バルソローナ ピカソ美術館

14歳時のデビュー作

 ピカソ14歳時のデビュー作。バルソローナ美術工芸展に出品された。

素足の少女

油絵 75×50

パリ ピカソ美術館

 左右非対称の両眼はまっすぐ鑑賞者を見つめている。手や足が実際より大きく描かれ、このことで重量感と安定感をもたらしている。1895年、妹のコンチータがジフテリアに罹り死去。この作品には、妹の死がモチーフにあった。またピカソの人生において死が主題になることが多いが、そのきっかけとなった。ピカソにとって思い入れのある作品で、晩年まで手離さなずに大切にしていた。

大きな帽子を被った少女(1901年)

 ピカソは小さい頃から絵を描く才能をもち、先人たちの作品をすぐ吸収する。そのためときどき一見ピカソ的でないものがでてくる。「大きな帽子を被った少女」はおどろくほど印象派的でルノワールの絵と間違える。同じスペインの画家、あのベラスケスのマルガリータが重なってくる。ピカソは偉大な画家たちの絵をよく知っており、その描き方を自分のものにする。つまりなんでも描けることがすごい。

科学と慈愛

1897年 油絵 197×250

バロセローナ ピカソ美術館

 瀕死の患者を前に脈をとることしかできない近代医学に対し、子供を抱いた修道女が末期の水を差し出す。近代医学とキリスト教的慈愛の対峙を、アカデミック技法で表現している。16歳のときに描いたこの作品は、スペインで数々の賞をとりピカソが画家として初めて認められた記念すべき絵画である。脈をとる医師は父親ホセがモデルである。


青の時代

 1900年10月、初めてパリを訪れる。当初の予定ではロンドンに向かう予定であったが、ちょうど新世紀を祝うかのように万博が開催されており、芸術の都パリの持つ華やかな街の雰囲気にすっかり魅せられてしまう。しばらくはバロセローナとパイを往復を繰り返する生活を送るが、1904年、家族から独立してモンマルトに居を構えると、人生の大半をパリで暮らすことになる。

 そこでロートレックの絵画に出会い影響を受けた。多くの友人とともに刺激的な日々を過ごしたが、当時のピカソはまだ無名で貧しい生活を送っていた。ピカソの画風は友人ガザジェマスの死をきっかけに大きく変わることになるが、ガザジェマスの死以前にもその先例を見ることができる。「青の時代」の描かれたのは、娼婦、乞食、盲人など不幸な人々 を題材にして、薄暗い陰気な青色を用いて孤独や貧困、不安や絶望を表現している。「青」によって社会から見放され人々の、悲劇的で憂鬱な側面を描きだした。1901年、パリの個展から「青の時代」が始まる。

  何故、青を使ったのかに対しては、エル・グレコの影響、青色の絵の具が安かったから、故郷マラガの空や海の色が心に残っていたからとか様々な憶測がなされている。いずれにしてもピカソはその「青」によって、悲哀、苦悩、不安、絶望、貧困、社会から見放されて最底辺で生きる人々など、人生の悲劇的で憂鬱な側面を描きだした。それには、これから絵を売って生きていくピカソの、作品購入者の心理や時代状況を読んだ、ある「ねらい」があったとも憶測され、それが、ピカソを若くして成功させた要因になっているとされている。
 青は本来、西洋では「神の色」であり「高貴な色」として使われてきた。後に抽象絵画を創始したカンディンスキーは、「天上の色」とまで表現している。西洋絵画の伝統において、青が憂鬱さや貧しさなどと結びつき表現されたことはない。このように、当時の人々が持つ青のイメージは、「遥かなる憧れの色」であり「希望」の色でもあった。ピカソは、そのような人々が抱く青のイメージを悲哀に満ちた作品に描いた。「神の色である青」で絶望や悲しみ、打ちひしがれた人々を表現することによって、憂鬱で悲しみに満ちた画面の中に、気品や深い精神性を感じさせている。


ラ・ヴィ 人生

1903年 196.5×128.5

オハイオ クリーブランド美術館

 1903年の春ピカソは「人生 」と題する絵を描くが、その題名にかかわらず、描かれているのは親友カザジェマスの死であった。

 左側には親友とその恋人のジェルメーヌが抱き合う姿が描か れている。右側には、子供を抱く痩せた母親を描いている。中央には失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟まれている。この二枚の絵は、上には抱き合う男女が、下にはうちひしがれる人物像が描かれている。裸のカップルが示す性愛に対して母子愛が置かれ、愛の裏側に存在する孤独や苦悩が中央のキャンパスに描き込まれている。

 カザジュマスの性はヴェールによって蔽いかくされているが、彼の自殺の動機は性的不能を悲観してのことだった。

 母はカサジェマスを見つめ、カサジェマスは赤ちゃんを見つめ、ジェルメールは下を向いている。そのため母の視線は慈愛的な視線でカサジェマスに向けられ、性的不能に振り向かないジェルメールは視線を下に落としている。

 この頃ピカソは学生生活も終わり、本格的に自立を始めた時期である。バルセロナ(故郷)とパリ(自立)の2つの時間が分離し始めている不安な時期であった。

 19歳のピカソは親元を離れ、親友カザジェマスらとともに初めてパリを訪れた。カザジェマスとはアロリエを共有するほどの友人であった。翌年、ピカソの人生に突然、悲しい出来事が起きる。

 親友カザジェマスはモデルのジュルメールに熱烈な恋をするが、ジュルメールは既婚者であり、カザジェマスは性的不能者であった。

 失恋に落ち込むカサジェマスをピカソは元気づけようとするが、カサジェマスの精神はどんどん悪化し、最後はジェルメールを誘い出すと拳銃で撃ち、自らもこめかみに銃口を当て自殺する。精神的に不安定だった友人をうまく助けられなかったとして、ピカソは自責の念に苦しむ。なお、ジェルメールは撃たれたふりをしていて死んでいない。。

カザジェマスは友人を集めての夕食中に、ピストルを取り出し自殺を遂げた。
 この事件にショックを受け、心は悲しみに覆われ、「青の時代はカザジェマスとともに始まった」と称されるほど、暗青色を基調にした絵を描くようになっ た。それから3年もの間、ピカソの描く絵はまるで深い悲しみを表すかのように青い色で包まれている。鬱屈した心象からをカザジェマスの死はもたらしたので あった。

 ピカソの死後、アトリエから1枚の絵(左上絵)が発見された。それは死後の青ざめたカサジェマスの顔をローソクの光りが金色に映し出す絵画であった。額を打ち抜いた弾の痕が描かれている。生涯に数万点といわれる作品を創作しなら、ピカソはこの絵を70年間、誰にも見せることなく持ち続けた。カザジェマスの死、青の時代がなければ、ピカソは画家として違う道をたどっていたであろう。また同時期、構図をエル・グレコの作品にならい、地上における死と昇天の上下の二層的表現になっている作品(左)を残している。

 

自画像

油絵 81×60

パリ ピカソ美術館

 1901年(20歳)の自画像。20歳の若者らしさは無く、どこか年老いた感じがする。社会の底辺に押し込められた弱者を描いた時代で、自分もまた貧困であり、早くして味わった人生の厳しさ、深い悲しみや苦悩を抱えた心理が静かに表れている。しかし量感の重みと輪郭線の単純化によって、暗いものに包まれているが、空腹や寒さになどの環境に負けない強い意思を感じさせる。繊細に描かれた顔が、青い画面の中でアクセントとなっている。


シュミーズ姿の少女

1905年

  青の時代からバラ色の時代へ移行していく時の作品。何か考え事をしている少女の表情が印象的である。背景は暗い青が塗られていて、見ている人を不安な気持ちにさせる。ここに描かれている少女は平たく描かれていて、ピカソのキュビズムへの変化を見ることができる。また首から顔にかけては美しく立体的に描かれ、それ以外は軽くスケッチ風に描かれている。その強弱さが表現の深さと結びつく。

  ラ・セレスティーナ 1904年
  売春宿の女主人の肖像画。残酷そうな表情の女性は、若きピカソにとって、現実の厳しさとの出会いを象徴している。隻眼ではあるが、物事を見透かすような鋭い眼光で描かれている。青い色調から浮かび上がる顔の色が美しく、作品全体の青色と調和している。またコートの深い青色が、三角形の構図とともに女性の存在感を高めている。

     うずくまる女性と子供  1901年
 梅毒に罹った売春婦たちが多く収容されていたサン・ラザール収容所を、ピカソは特別の関心を持ってよく訪れた。包み込むように子供を抱きかかえ、目を閉じて子供に寄り添う母親、目を伏せてじっと下方を見つめる子供。その姿に悲しみや絶望感が伝わってくる。不安な母親の気持ちを表すかのように、衣服や背景が青くうねるように表現されている。


老いたギター弾き

1904年 

シカゴ美術館

  ボロボロの擦り切れた服を身につけ、やつれた盲目の老人がスペインのバルセロナの通りでギターの演奏を弾いている情景を描いている。描かれた時期は、モダニズム、印象派、後期印象派といった絵画スタイルが融合し、エル・グレコのマニエリスム的な歪み、表現主義的なスタイルがピカソに影響を及ぼしてきた頃である。さらに、ピカソの貧しい生活、親友カサジェマスの自殺がピカソに強い影響を与えている時期である。

 全体的に抑えられた青色は憂鬱なトーンを引き出し、悲劇的テーマを強調する効果をもたらしている。ギター弾きにはすでに生命力が見られず、死が迫っている男の状況の悲惨さを強調している。一方で、手に持つ大きな茶色のギターは、青みがかった背景から最も離れた色で、鑑賞者の視点を中央に引き寄せる効果を持つだけでなく、ギター弾きにとって、唯一の小さな希望を象徴している。


バラ色の時代(1904年~1907年)

 それまでの暗い「青の時代」から急に明るい赤系統の色調の絵画を描きだした。そのきっかけは、1904年に恋人フェルナンド・オリビアと出会い、同棲したことによる。オリビアはピカソの絵のモデルであり恋人であった。つまり「バラ色の時代は、オリビアとの恋愛時代」だった。

 ピカソはパリのバトー・ラヴォワール(洗濯船)と呼ばれる建物にアトリエを構え、オリビアをモデルにして、オレン ジやピンクを用い、明るくにぎやかな絵画を描いた。家族、兄弟、少女、少年などが題材になったが、サーカスの人々(道化師・軽業師)を多く描いたことから、「サーカスの時代」ともいわれている。

 オリビアは教養のある女性で、ピカソにフランス語を教えたり、精神的な安定を与えて、ピカソがひたすら絵に打ち込めるようにした。彼女と暮らすようになってから「青の時代」の影は潜め、ピカソは彼女の美しい裸像、身近な人々、サーカスの芸人たちを、バラ色を基調にした暖かい色で描くようになった。「バラ 色の時代」の始まりだった。1906年、画商ヴォラールが大量に作品を購入してくれたので、スペインへの旅行が可能になった。オリヴィエは、次の新しい恋人エヴァが現れるまでの7年間をピカソの伴侶として過ごした。



サルタンバンクの家族 
1905年

  バラ色の時代、あるいはサーカスの時代の代表的大作。この作品では砂漠を背景として、巡業するサーカス芸人のサルタンバンク一家が描かれている。常に一緒に行動しているように見えるサーカス芸人たちだが、絵の中の6人は互いに目を合わさず、コミュニケーションは感じられない。サルタンバンクとは旅芸人のことで、通常のサーカス団とは違って、おもに路上で大道芸を披露していた人たちである。つまり芸人のなかでも最下層に属していた集団である。

 ピカソらしく人物それぞれの手に表情を付けているが、なぜ家もなく観客もいない広々とした大地を背景としたのか、なぜ二人を後ろ向きに描いたのか幾多の解釈を呼んでいる。道化師の衣装の菱形模様や襟元などのV字形が画面に変化をつけ、少年の服の青色と肩掛けの赤色との対比が画面を引き締めている。美術批評家たちの多くはこの作品について、サルタンバンク一家はピカソのポートレイトであり、サルタンバンク家族を通して「独立精神」「孤独」「貧しさ」「放浪」といったさまざな要素を表現していると指摘する。そのため背景はパリではなく砂漠に設定されている。

 この作品は、1910年のヴィネツィア・ヴィエンナーレでスペインのブースから出展されたが、委員会の判断で不適切と見なされブースから取り除かれた。


キュビスムの時代( 1907年~1916年)

 ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画であろう。人や動物をカラフルな色彩に変形させて描いている。この時代のピカソの絵画を見た人は「ヘタ」と思う人も多いだろう。上手なのか下手なのかよくわからず、子供の絵を思い浮かべる人もいるだろう。キュビズムは決して抽象画ではない、概念としての世界を描いたものである。


アフリカ彫刻の時代( 1907年~1908年)
    アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代で、キュビスムの端緒となる「アビニヨンの娘たち」を描いた。

セザンヌ的キュビスムの時代(1909年~1912年)

 スペインのオルタ・デ・エブロに旅し、セザンヌ的な風景画を描いた。対象を立方体を中心にした単純な形態に解体した。

分析的キュビスムの時代(1909年~1912年)

モチーフを徹底的に分解し、多視点から描いた。分解した面を再構築した。

総合的キュビスムの時代(1912年~1918年)
    緑色を基調にした装飾的な表現で、色彩の豊かさが特徴である。ロココ的キュビスムとも呼ばれる。このころ新聞紙や壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ技法を発明した。

新古典主義の時代(1918〜1925)
   ピカソはキュビズムの絵画をずっと描いていたわけではない。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっている。古典的で量感のある母子像を描いた。

シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年~1936年)
    この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れている。キュビズムの名残もあり、独自の絵画をうみだしている。 特にこの時期は化け物のように描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。代表作は「ダンス」「磔刑」など。

ゲルニカの時代(1937年)
    コンドル軍団のゲルニカ爆撃を非難した大作「ゲルニカ」および、そのための習作「泣く女」などを描いた。

晩年の時代(1968年~1973年)
    油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。このころ自画像を多く手がけている。


アヴィニョンの娘たち
1907年
ニューヨーク近代美術館

 バルセロナのアヴィニョ通りに存在した売春宿にいた5人の売春婦のヌード画である。1916年に最初に展示されたときは「アビニヨンの売春宿」と題されていた。しかし絵を見てもモラル上問題があったのに、タイトルまであからさまで、大衆を刺激しすぎるということで、題名は「アヴィニョンの娘たち」に変更された。

 1907年夏頃、パリで完成した油彩画「アヴィニョンの娘たち」は、ばら色の時代の明るい雰囲気を受け継ぎつつ、アフリカ彫刻・古代イベリア彫刻などの 影響を受けて製作された。画面左側の女性たちは、ピカソの故郷スペインの古代イベリア彫刻の影響でと言われている。

 1907年に民族博物館で見たアフリカ黒人彫刻に感銘を受け、画面の右二人の女性の顔をアフリカ黒人部族の仮面のように描いた。中央の腕を上げた二人の女性は、イベリア彫刻から得た印象で、アーモンドの形をした目で描かれている。原始美術の探求と作品への応用は、「アヴィニョンの娘たち」以後も続けられ、「ニグロ時代」として素朴な表現へと変化してゆく。ピカソによれば「プリミティブ芸術は、野蛮であっても驚嘆せざるを得ない説得力とパワーがある」という。伝統的な西洋画のセオリーを否定し、後にキュビズムの原点として発展していく。

 量感を表す影や、空間を表す遠近法が無視され、前後感が不確かな空間が創り出されている。人物表現は、一人の人物のいくつもの姿や形が一人の人物として組み立てられ、「多視点による描写」というキュビスムの手法で表現されている。

 25歳のピカソが「いかにして自分の名前を美術史に刻むか」、前衛芸術として「誰も見たことのない絵」を描こうとしている。描かれた当初、革新的な表現を理解できず、友人や画家仲間からは「ピカソは気が狂った」とさえ言われた。1916年までアトリエの壁に裏返しで立て掛けられたままだった。

 同作を見た友人のブラックは、ピカソの作品に同調し、二人は共同でキュビズムを追及して行くことになる。

 

母と子

1921年

 1917年、ピカソは「ロシア・バレエ団」の舞台衣装をデザインするためにローマを旅行している。その際にピカソは古代ローマやルネサンスなどの古典様式に感銘を受け、自分の作品に古典様式を導入した。これがピカソの新古典主義と言われるスタイルで、ドミニク・アングルの「オダリスク」や、ルノワールのヌード絵画から影響を受けていた。

「母と子」はその影響を受けて描かれた作品で、また描かれた年は、ピカソがロシアの踊り子であるオルガと結婚し、第一子が生まれた年でもある。新しく父となったピカソは1921年から1923年にかけて「母と子」を主題とした作品を多数描いている。

 この作品では母の膝の上に子どもが座って、母に触ろうとしている。ギリシア風ガウンに身を包んだ母親は、膝の上の子どもをじっと見つめている。背景はシンプルに描かれた砂場と海と空である。母と子に対するピカソの視点は感傷的なものではなく、この時代のピカソ自身の人生を絵に反映化している。家庭的な平穏性と安定性が見られている。

ゲルニカ
1937年 油彩、壁画 349 cm × 777 cm
ソフィア王妃芸術センター(マドリード)

  ゲルニカは、白と黒、グレーだけで描かれたモノクロの作品である。スペイン内戦に介入したドイツ空軍がゲルニカを空襲したことに対する抗議として描かれた。縦3.5m横が7.8mもある巨大な絵画で、恐怖や暗黒、人の残酷さが描かれている。この巨大な絵画をピカソは、攻撃のニュースを聞いてから20日程度で完成させた。
 当時のスペインは第一次世界大戦後の混乱が続いていて、民衆の不満が高まり、王制打倒を目指す共和派(ソ連が支持する社会主義)が選挙で躍進した。国王アルフォンソ13世は退位を余儀なくされ、1931年に無血革命の形で共和制となる(スペイン第二共和政)。
 1936年、スペイン人民戦線(社会主義政党)が政権を取るが、政治的混乱や治安悪化は収まらず、政教分離政策によりカトリック信者が大半を占める民衆の支持を失った。
 1936年7月、保守派の中心人物カルボ・ソテロが暗殺されると、スペイン国内の保守派は結束を強めた。そして7月17日、カナリア諸島へ島流しになっていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデターを起こす。軍部、地主、カトリック勢力などがこの保守派を支持し、社会主義政府に対して大規模な反乱を起こした。

 社会主義政府はソ連が支持し、フランコを中心とした右派の反乱軍をドイツ・イタリア・ポルトガルが支援し、イギリス、フランスは中立の立場をとった。これがスペイン内戦の勃発となった。
 フランコ軍はドイツ・イタリアから支援を受け、スペイン北部を次々と制圧し、1937年春には大西洋に面するバスク地方を分断・孤立させた。1937年4月26日、ドイツが義勇軍として送り込んだ航空部隊コンドル軍団による爆撃型編隊がバスク地方の都市ゲルニカを空爆した。
 スペイン北部のバスク地方は孤立しており、ゲルニカには共和国軍の部隊は存在していなかった。しかしゲルニカは通信施設などの軍事目標があり、前線へ通じる交通の要でもあった。この戦略的価値の高い要衝だったことからドイツ軍による空爆のターゲットとなった。なおゲルニカは空爆以前にも無差別爆撃は双方から行われており、バルセロナではより多数の死傷者が出ている。
 ピカソの絵画「ゲルニカ」は、社会主義政府の立場からフランコ軍側を非難する意図で描かれている。ゲルニカ空爆の約3か月前、ピカソはフランコ側を貶める内容の風刺画「フランコの夢と嘘」を描いていて、ゲルニカ以前にもピカソによる反フランコの態度は明白になっていた。
 1939年、フランコ軍がスペインの首都マドリードを陥落させ勝利を収めた。フランコ将軍は国家元首として独裁体制を敷き、ピカソは追放され死ぬまでフランコ政権と対立した。1944年、ピカソはマルクス・レーニン主義を掲げるフランス共産党に入党し、1973年に亡くなるまで共産党員として活動を続けた。友人の依頼で1953年には絵画「スターリンの肖像」を描き上げた。ちなみにピカソが入党したフランス共産党員としては、フランスの作曲家エリック・サティや、シャンソン歌手イヴ・モンタンなどがいた。
 1937年4月26日、パリでゲルニカ空爆を知ったピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館に展示される予定の壁画を製作していたが、急きょテーマを変更し、ゲルニカを題材に取り上げた。油彩よりも乾きが速い工業用ペンキを用いて、縦3.5m、横7.8mの大作「ゲルニカ」を約1か月で完成させた。。
 白黒で表現されたモノクロームのキャンバスには、人間のような目を持つ闘牛の頭、その下には空爆の犠牲となった子供を抱えて泣き叫ぶ母親、狂ったように叫ぶ馬、天を仰ぎ救いを求める者など、逃げまどい苦しみ叫ぶ人々や動物の様子を描いている。左下で倒れている人物はピカソ自身であるという。
 なお闘牛をファシズム、馬を抑圧された人民とする解釈や、牛を人民戦線、馬をフランコ主義とする解釈などがある。これに対してピカソは、「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。本能的に、そして無意識に、私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描く」と述べている。さらに「解釈は鑑賞者にゆだねる」という意思を伝えピカソは口を閉ざした。

 現在はスペインの首都マドリードにある国立ソフィア王妃記念芸術センターで見ることができる。 

 ピカソは多く女を遍歴したことでで知られているが、ゲルニカ製作当時はバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァと結婚していたが、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係にあった。
 ピカソと仲睦ましくいるドラ・マールに対して、もう一人の愛人フランソワーズ・ジローが猛烈に嫉妬し、ピカソが「俺が欲しければ、ここで戦え」とけしかけた。そのため「ゲルニカ」を描いている背後で、二人が取っ組み合いのケンカを始めたという。このドラ・マールとフランソワーズ・ジローの修羅場を見たピカソは「ゲルニカ」の中 で、両腕を掲げて泣き下げぶ右上の女性がドラ・マール、絵の中央でランプを持ち室内を覗き込んでいる女性がフランソワーズ・ジローを描いたとされている。

 上図の絵は「泣く女」1938年 油彩、61 cm × 150cm (テート・ギャラリー)であるが、この迫力ある泣き顔の女のモデルは愛人ドラ・マールを描いていて、しかも描いたのが「ゲルニカ」の完成直後とされている。ピカソは取っ組み合いのケンカでなく愛人を作品にしてしまうのである。これはピカソの型破りの個性の表れであり、その奇抜で自由な生き方、天賦の才能には驚いてしまう。

 


 ピカソの絵は難しすぎて分からない。下手な絵なのになぜか有名、と思っている人が多いのは確かである。しかしピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才と実感できる。ピカソが紙切れに軽く描いたものも、飛び抜けて上手である。目で見たものをそのままに描くのは、ピカソにとっては当たり前のことだった。だからこそキュビズムに変化していったのではないか。ピカソは、「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほうがましなくらいだ」と言葉を残している。


ピカソは、ドラクロワやマネなどの巨匠の作品のアレンジや、銅板画を多く 制 作するようになる。そして1973年、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で死去。享年91。ピカソは作風が変化した画家であり、それぞれの時期が 「◯◯の時代」と呼ばれている。


 ピカソは、ジャン・コクトー監督の映画「オルフェの遺言(1960年)」に、自身の役で出演している。ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺している。フランソワーズ・ジローは、画家として創作を続けている。

ピカソ女性関係の激しさ

 ピカソ92歳で死去するが、わかっているだけで9人の女性と深い関係を持った。4人の子供が生まれ、2人の女と1人の孫が自殺し、2人の女が狂った。交際する女性が変わると画風が変わると言われたが、これだけ女性関係が多いと、画風を変えたのが女性なのか、単なる時の流れなのか分からなくなる。

 最初の恋人はジェルメーヌ・ガルガーリョである。パリでピストル自殺をした親友カザジェマスは、このスペイン系フランス人の絵のモデル・ジェルメールに恋をして、失恋したためピストルでジェルメールを撃ち、自分もその場で自殺した。この青の時代を象徴する親友の失恋相手ジェルメールは一命をとりとめるが、 こともあろうにピカソは彼女と恋愛関係になる。ここからピカソの異常な恋愛歴がはじまる。

1. フェルナンド・オリヴイエ

  1881-1966 85歳没

  ピカソ23歳〜同棲

 ある日、フェルナンドがアパートに入ろうとすると、同じアパートのピカソが子猫を抱いて立ちふさがり、子猫をひょいと渡し部屋へ誘った。彼女はユダヤ系 フランス人で、妊娠して恋人と結婚したが、子供が生まれると相手は失踪。彫刻家と再婚するが、それも破局を迎え、ピカソと恋愛関係になった。

 1904年、暗い絵画を描いていたピカソの画風が、このオリビアという恋人ができ大きくかわる。ピカソがパリに出てから最初の6年間付き合った。「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソの描いた絵はよく売れ、ピカソは有名な画家になった。1933年に「ピカソとその友人達」を出版する。

2. マルセル・アンベール/エヴァ・グエ
      1885-1915 30歳没

      ピカソ30歳〜同棲

 もともとマルセルは知人の画家と同棲していたが、ピカソと親しい関係になる。マルセルとの関係を知ったフェルナンドは怒って若い画家と当てつけに駆け落ちをする。ところがピカソもマルセルを連れて駆け落ちしてしまう。

  1907年「アビニヨンの娘たち」を製作してからキュビスム時代に入るが、ピカソがキュビズムに変化したのは、恋人エヴァの存在が大きい。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す」、「私の素敵な人 」などの言葉を書き込んだ。しかし1915年に恋人エヴァは癌で亡くしてしまう。



3. オルガ・コルオーヴァ
      1891-1955 64歳没

   ピカソ36歳で結婚

 エヴァを失い。一人になっピカソをローマに連れだしたのがコクトーという人物であった。彼はピカソをバレエの舞台装置や衣装を担当させ、ピカソに元気を取り戻させ、そして1916年、ピカソはロシア・バレエ団の舞台美術を担当し、そこでバレリーナで貴族出身のオルガと知り合う。オルガはバレリーナとしては平凡でだったが、父親はロシア帝政時代の将軍であった。ピカソがこれまで出会ったパリの街の女たちとは違っていて、
ピカソはオルガと初めての結婚をする。

 オルガはピカソをパリの上流階級の社交界で華やかな生活を送らせる。「これからは、私の顔がはっきりとわかる絵を描いてほしい」と彼女はピカソに注文した。オルガの理想はブルジョワな生活を送り、社交界に出入りすることだった。二人のあいだには息子(パウロ)が生まれたが、ピカソは次第に結婚生活に息苦しくなってくる。1920年代の後半から価値観の相違からオルガとの生活がうまくゆかず、ピカソはアトリエに閉じこもり挿絵を描くようになる。1933年に別居。
 オルガはピカソに捨てられ、精神病になったが、死ぬまで離婚に応じなかった。なおパウロとその妻、その長男も自殺している。

 5.ドラ・マール
 1907-1997 90歳没

 ピカソ54歳から交際

 マリーテレーズは1935年にマヤという女の子を生むが、ピカソは1936年から9年間、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係となる。ユダヤ系の血をひくユーゴスラビア人で、青春時代をアルゼンチンで過ごしたためスペイン語を流量に喋れた。ドラは芸術に関しても、社会や人生に関しても、ピカソと対等に話ができる自立した女性であった。彼女はピカソ芸術のよき理解者であり、「ゲルニカ」の制作過程を写真に記録している。

 しかし、オルガ、マリーとの四角関係の中で、ドラは精神的に不安定となっていく。
ピカソに捨てられた後は修道女となる。

7.ジャクリーヌ・ロック
 1926 -1986 60歳没

 ピカソ79歳で結婚

 ピカソはフランソワーズと別れると、すぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロックを見つけ、オルガの死後結婚した。この時期ピカソは陶芸に熱中していて、その工房で働いていたジャクリーヌ・ロックは離婚して娘を抱えながら、陶房の手伝いをしていた。

 ピカソはジャクリーヌと結婚、その後のピカソは、ドラクロワやマネなどの巨匠の作品のアレンジや、銅板画を多く制 作するようになる。

 ジャクリーヌはピカソが亡くなるまで最後の妻だった。ピカソが91歳で亡くなった後、遺産相続の問題を解決したのちピストルで自殺している。

 4.   マリーテレーズ・ワルテル

       1909-1977 68歳没

       ピカソが46歳のとナンパ

 ある日ピカソはデパートの前を歩いていた17歳のマリー・テレーズの腕をつかんだ。
そして彼女に「君の絵を描きたい。私はピカソだ」と言った。テレーズはスポーツ好きで芸術にはまったく興味がなかったが、欲のない彼女との生活はのびのびとしたものであった。テレーズの丸みを帯びた健康的な肉体と、はじけるような若さに魅了される。
 マリー・テレーズが妊娠したため、オルガに離婚を申し入れたが、彼女は承知しなかった。また離婚には資産の半分を渡さねばならないこともあり断念した。ピカソはマリー・テレーズと密会を続けながら、オルガとの長い別居生活が始まる。オルガは死ぬまで離婚に応じなかった。
 マリー・テレーズは女児マイアを生むが、母となった肉体にピカソは創作意欲を失った。ピカソの死後首つり自殺する。

 

 

 

 


 

 

6.フランソワーズ・ジロー
 1921-現在

 ピカソ61歳から交際

 1943年、パリがドイツ軍に占領されていた時、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い同棲を始める。そしてクロードとパロマが生まれる。しかしフランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、2人の子を連れて他の男性と結婚した。

 彼女はピカソと生活を共にしながらも自分を失わなかった。フランソワーズはピカソが共に暮らした女性の中で最もバランスのとれた人物で、ピカソを捨てた唯一の女性である。
 当時フランソワーズはクロードとパロマの2人の子供の認知をしてもらうため努力をしていた。フランソワーズが二人の子供の認知をピカソに求めてきたので、ピカソはフランソワーズに「今の夫と離婚すれば入籍する」と言った。そんためフランソワーズは夫と離婚したが、ピカソはフランソワーズを裏切りジャクリーヌと再婚した。後にフランソワーズはアメリカ人科学者と再婚した。
 下記はフランソワーズ・ジローの傘持ちするピカソ。