サルバドール・ダリ

サルバドール・ダリ(1904年 - 1989年)

 Salvador Dalí sはスペインの画家。シュルレアリスム(超現実主義)の代表的な画家として知られている。彼の芸術は意味深いレベルにあり、数々の奇行や逸話を持ち、「天才」を自称するがトンデモない画家のイメージもある。
 1904年、ダリはスペインのカタルーニャ地方のフィゲラスという町で、裕福な公証人の息子として生まれた。母親も富裕な商家出身で、一族は自らをユダヤ系の血筋と信じている。

 ダリには幼くして死んだ兄がいて、両親は兄と同じ名前をダリにつけている。兄の死がダリに大きな心理的影響を与えている。5歳の時ダリは兄の墓に連れて行かれ、両親から兄の生まれ変わりであることを告げられた。それ以降、自分はキリストのように復活したのだから、それだけ価値がある人間と思うようになった。子供の頃は情緒不安定なところがあり、怒りやすく、意味もなく友人を橋から突き落としたことがあった。ダリの母親は優しく、ダリも母親に懐いていた。しかしダリが16歳の時、母親は乳がんで亡くなっている。ダリは母の死に落ち込むが、父親はすぐに母親の妹(ダリのおばさん)と再婚してしまった。

 少年時代から絵画に興味を持ち、画家ピショットから才能を認められ、1922年、マドリードのサンフェルナンド美術学校に入学する。入学したばかりのダリは、教授の選考に大学側と対立し、学生の暴動を扇動した罪で放校処分となる。同時期にブニュエル(映画監督)と知り合う。1928年にシュルレアリスムの代表的映画「アンダルシアの犬」をブニュエルとは共同制作する。

 1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた。この頃のダリは印象派的な作品からキュビズムまで、あらゆるスタイルの絵を描いている。翌年、大学に戻るも、試験を前に「自分を評価できる有能な教授はいない」と言って、今度は永久追放になる。1927年からパリに赴き、ピカソらシュルレアリスムの人たちと面識を得ている。

 1929年夏、詩人のポール・エリュアールが妻とともにダリを訪ねてきた。これが後にダリの妻となるガラ・エリュアールとの出会いであった。ダリとガラは強く惹かれ1934年に結婚した。ガラとダリの信頼関係は絶大なものだった。
 王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生時代には、印象派やキュビスムなどの影響を受けていたが、シュルレアリスムに自分の進む道を見出した。1929年に、正式にシュールレアリスト・グループに参加するが、1938年に思想に基づくトラブルから除名される。
 ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法」と称し、多重なイメージで夢や心象風景を写実的に描写した。またフェルメールを高く評価し、画家たちを採点したときフェルメールに最高点をつけている。「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるなら、この右腕を切り落としてもいい」と述べたことがある。第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てて宗教画を連作した。
 第二次世界大戦中はアメリカに移住したが、1948年にスペインに帰国。1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と落ち込み、ジローナのプボル城に引きこもり、1983年を最後に絵画制作をやめている。1989年に故郷のフィゲラスにあるダリ劇場美術館の隣、ガラテアの搭にて心不全により死去、85歳であった。


逸話
・1936年に描いた「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」がスペイン内戦を予言したとし、「完全なダリ的予言の例」と自画自賛している。ほかにも講演会で潜水服を着て登壇し、酸素の供給が上手くいかず死にかけたことがある(1936年、ロンドン)。

・ 象に乗って凱旋門を訪れたり、また「リーゼントヘア」と称してフランスパンを頭に括りつけて取材陣の前に登場するなど、マスコミに多くのネタを提供した。

・ こうした人気取りとも思える一連の行為は、同時代の画家達のひんしゅくも買った。また政治的な意味での奇行には、ピカソら同時代の芸術家たちからも反感を買った。
・ ダリの上向きにピンとはねたカイゼル髭と目を大きく見開いた顔は、「アート」そのものとして認知されるほどで、スペインのシンクロナイズドスイミングチームが水着の柄に採用して競技会に出場したことがある。口ひげの形をどうやって維持しているのかと質問された際に「これは水あめで固めるのだよ」と答えた。
・ ダリはペットとしてヒョウ(オセロット)を飼っていた。彼は旅に出るときもよくこのヒョウを連れて行き、いっしょに撮ったポートレイトが何枚か残っている。

・ ダリはイメージを得るため、ドラッグを使用していたのではないかと言われたが、「私はドラッグは使っていない。なぜなら、私自身がドラッグだからだ!」と否定している。

・ ダリはレストランでお勘定を払わない、新手のペテンを開発している。彼は大勢の友人たちを高価なランチに招待し、支払いの段になるや、意気揚々とその全額の小切手を切ってみせた、このときウェイターの目の前で、さりげなく小切手の裏に落書きするのだった。考えてみればサルヴァドール・ダリのオリジナル・スケッチが描かれた小切手を手にして、それを現金に変えようとする人間がいるだろうか。小切手はレストランの支配人の応接間にうやうやしく飾られるか、あるいは画商やコレクターに高値で売られた。ダリにすれば、どうでもいいイラストで、友人たちに大盤振る舞いができるのだった。
・ 若い頃、鉛筆と紙を買いに出たのに魚屋に行ってしまったとか、地下鉄の乗り方・降り方を知らず、友人が先に降りたら泣き出したとか、作品を持って移動する際、作品をひもで体にくくりつけていたなどのエピソードがある。しかし、実際に奇人というわけではなく、本当に親しい友人の前では非常に繊細で気の行き届いた常識人だったる。つまり彼のこうした「アート」は現実世界と対峙するためのよろいであり、顕示される自己が必ずしもダリ本人そのものではない。奇行や変人ぶりも芸術家としてのパフォーマンスの一つだった。


 ダリの最も有名な記憶の残渣。別名「溶ける時計」とも呼ばれている。溶けている時計はダリの大好きなカマンベールチーズとのダブル・イメージになっている。真ん中に横たわっている変な生き物は、ダリ自身、背後の風景はダリの故郷カダケスである。左に群がるアリは腐敗を表している。腐ったものにはたくさんの虫が寄ってくるので、ダリの絵ではアリ、ハエなどの虫は腐敗や死を意味している。現在の自分は、明確な時間の流れの中にいるが、過去の記憶の中の時間はゆっくりと崩れ溶けてゆく。腐敗した時間の中で残った過去の記憶は、「記憶の残渣」として心の留まり、自己の深層を形成していく。

 神話に基づいた「聖アントニウスの誘惑」を制作している。聖アントニウスは修道士の元祖とされる聖人で、3世紀ころエジプトで生まれました。アントニウスは20歳で全財産を捨て砂漠で修行に入る。砂漠で修行していると、悪魔が次々と幻覚を見せてアントニウスを誘惑する。この作品では砂漠で修行するアントニウス(左の素っ裸の人)が悪魔の誘惑に打ち勝とうとしているところを描いている。象は欲望を馬はその強さを象徴します。最初の象の上には裸の女性、2番目の象の上にはベルニーニに影響されたオベリスク、3番目の象の上にはベネチアの大伽藍、そして遠方の象の上には雲を突き破る塔が描かれている。塔は男根を象徴していると言われている。





 ダリの有名な上の写真は、椅子をワイヤーで吊るし、水と猫を放り投げ、ダリは飛び上がる瞬間を撮影している。簡単そうに見えるが、28回も撮り直した。