南国土佐を後にして

 武政英策が作詞・作曲したこの曲は、もともとは大陸に出兵した地元の陸軍歩兵236連隊内(通称「鯨部隊」)で歌われていた。高知県の兵士たちが他県出身者に教えたことから、戦後、四国一円に広まっていた。

 酒の席でこれを聞いて、心惹かれたのが作曲家の武政英策だった。空襲で大阪の自宅を焼かれ、先妻の縁で南国市に疎開していた武政は、戦後は大阪に帰らず、高知で楽団の指揮をするなど音楽活動を続けていた。この歌をなんとか世に出したいと思い、そこで新たに歌詞を書き、メロディを一部生かして自分の曲とした。完成したのが昭和27年、鈴木三重子が民謡調に歌ったがヒットしなかった。

 昭和33年、NHK高知放送局開局記念番組として、高橋圭三司会の歌番組「歌の広場」が放送され、ジャズ歌手・ペギー葉山がこの曲をテレビで歌い大反響を呼び、テレビの普及に乗って空前のヒットとなった。昭和34年5月にペギーの歌でレコードが発売されると、1年で約100万枚を売る大ヒットとなった。また小林旭主演・浅丘ルリ子共演で同名の日活映画が製作され、ペギー葉山も登場している。

 この曲がヒットした昭和34年の数年前からテレビが爆発的に増え、昭和33年に100万台だったテレビが昭和34年には一挙に倍増し200万台に達した。それは皇太子の結婚があり、結婚パレードを見ようと多くの人びとがテレビを買い求めたのだった。さらに、このころから高度経済成長が始まり、多くの人びとが明るい見通しをもつようになった。そのような世相にペギー葉山の明るく屈託のない曲がアピールしたのである。この曲は、テレビの普及と密接に絡んでおり同年の「第10回NHK紅白歌合戦」でも曲を披露した。

 ペギー葉山(本名は森繁子)は昭和8年に東京都新宿区で生まれ、青山学院女子高等部を卒業。当初はクラッシック志望であったが、ポピュラー・ジャズへの転向を決意し、友人の紹介で進駐軍のキャンプで歌い始める。本名が示すようにペギー葉山はハーフではなく、進駐軍で歌っていた時の愛称を芸名にした。

 昭和39年にヒットした「学生時代」(平岡精二作詞・作曲)はペギー自身の学生時代がモデルで、当初の曲名は「大学時代」だった。しかし「自分は大学へは行っていないから」と現在の曲名になった。同歌の歌詞中に出てくる「蔦のからまるチャペル」とは、青山学院にある礼拝堂のことである。

 昭和49年、ペギー葉山は司馬遼太郎に続き高知県名誉県人の称号が贈られた。ペギーが歌手生活60周年を迎えた平成24年には、高知市のはりまや橋公園に本曲の歌碑が設置され、ペギーも除幕式に出席した。