テネシーワルツ

 江利チエミ(昭和12年〜昭和57年)

 本名は久保智惠美。東京市下谷区に生まれる。父は失職、母は病床、また3人の兄がいて、江利チエミは生活のため歌手になった。12歳から父がマネージャー、長兄が付き人として芸能活動をスタートする。進駐軍のキャンプをまわり歌を歌うことであったが、進駐軍のアイドルとなりジャズへの志向を高めた。進駐軍の兵士から「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされ、この曲でデビューしようと各レコード会社をまわり、キングレコードから「テネシーワルツ/家へおいでよ」でデビューした。「テネシーワルツ」は、昭和23年にアメリカでパティ・ペイジがカバーして大ヒットした曲で、「恋人とテネシーワルツを踊っていたら、旧友が来たので恋人を紹介したら、その友達に恋人を盗まれてしまった」というものである。またB面の「家へおいでよ」はローズマリー・クルーニーの「Come On-A My House」でありビルボードで8週に渡り1位を記録している有名な曲である。

 チエミの「テネシーワルツ」は和田壽三の訳詞によって「日本語と英語のチャンポン」だったが、このことがそれまで都市部でのみのブームであった「ジャズ」を全国区にした。またペギー葉山、カントリーの小坂一也、ロカビリーブームなど、日本における「カバー歌手」のさきがけになった。
 昭和28年春、アメリカで録音、ヒットチャートにランキングされる。なおチエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビュー。チエミの帰国第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だった。しかしいづみが空港まで出迎え、可憐な姿にチエミの心は和み、やがて二人は終生の親友となった。美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ一世を風靡した。映画の『サザエさん』もヒット。後にテレビドラマ、舞台化もなされ生涯の当たり役となる。昭和34年、東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入り3年後には妊娠するが、妊娠中毒症を発症して中絶。チエミの義姉(異父姉)による横領事件などもあって、高倉健に迷惑をかけてはいけない、とチエミ側から高倉に離婚を申しでた。チエミは数億に及んだ借金を返し、その活動範囲は、歌手・女優に留まらず、司会業でも活躍した。NHK『連想ゲーム』の紅組キャプテン、テレビ朝日『象印クイズヒントでピント』でも女性軍キャプテンを務めた。
 昭和57年、港区高輪の自宅マンション寝室のベッドで、うつ伏せの状態で倒れているのを発見された。死因は脳卒中で吐瀉物が気管に詰まったことによる窒息だった。享年45。高倉健は葬儀に姿を見せなかったが、本名の「小田剛一」で供花を贈り、会場の前で車を停めて手を合わせた。