異国の丘

異国の丘
 第二次大戦の最末期、ソ連軍は日ソ中立条約を破り満州に侵攻してきたた。日本軍は終戦後に武装解除して降伏したが、武装解除された日本軍兵や民間人約65万人は、ソ連によって主にシベリアの収容所に送り込まれ、長期にわたる奴隷的強制労働をさせられた。これを一般に「シベリア抑留」と呼んでいる。収容された日本人たちは、劣悪な居住環境、厳寒と粗悪な食事のなかで、過酷な強制労働に従事させられ、最長11年間抑留され3割近くが死んでいった。このソ連の行為は、武装解除した日本兵や民間人の復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。

 昭和23年8月1日のNHKラジオ放送「素人のど自慢演芸会」で復員兵らしい青年が登場して歌い出した。初めて聞く歌だった。一瞬シーンとなり、やかて感動が合格の鐘とともに広がった。シベリアから復員した当時27際の中村耕造が「異国の丘」を歌ったのである。アナウンサーの質問に、「この「異国の丘」はシベリアに抑留されていた兵士たちが望郷の思いで歌っていた曲で、この歌を歌って励ましあって、生き抜いてきたのです」と答えた。さらに番組で、「作詞、作曲者は名乗り出てほしい」と放送された。やがて「異国の丘」は増田幸治が作詞し、吉田正が作曲したことが判明した。陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、部隊の士気を上げるため昭和18年に作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲で、抑留兵のひとりだった増田幸治が詞をつけたのである。

 のど自慢で歌った中村耕造と竹山逸郎がデュエットで「異国の丘」を切々と歌い大ヒットしたが、ほかにも様々な歌手によって歌われている。昭和24年に映画化され、上原謙(加山雄三の父)が主役を努めた。

 なおかつて引き揚げ者が第一歩をしるした桟橋を見下ろす舞鶴市の高台に、「異国の丘」と「岸壁の母」の歌碑が対になって建っている。


1 今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よ辛かろ 切なかろ
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る 春が来る

2 今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る

3 今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで