かえり船

田端義夫(大正8年〜 平成25年)

 三重県松阪市生まれ、歌手でギタリスト。気さくな人柄からバタヤンと呼ばれていた。ギターを胸の高い位置で水平に構え、「オースッ!」と威勢のよい挨拶がトレードマークだった。

 田端義夫は3歳の時に父を亡くし、小学校3年の半ばで中退。赤貧のため慢性的な栄養失調で、トラコーマにかかり右目の視力を失う。13歳より名古屋で丁稚奉公。昭和13年に新愛知新聞社主催のアマチュア歌謡コンクールに出場し優勝する。昭和14年、「島の船唄」でデビュー。その後も「里恋峠」、長津義司昨曲「大利根月夜」、「別れ船」「梅と兵隊」とヒットを続け、東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を築いた。
 昭和21年に累計180万枚を売り上げた「かえり船」のヒットを出した。この歌は敗戦によって南方諸島や台湾、朝鮮、満州、樺太などから引き揚げてきた人びと、いわゆる引揚者の心情を歌ったものである。

 筆舌に尽くしがたい苦難を重ねた末、やっとたどり着いた日本を、引揚船からその影を見たとき、万感胸に迫っていた人も多かったはず。さまざまな思いが胸の中で渦巻いていただろう」。引揚者が上陸したのは、博多港、佐世保港、舞鶴港、浦賀港、仙崎港、大竹港、鹿児島港、函館港などですが、この歌の舞台になったのは博多港だとされています。
 田端義夫は、昭和35年、山口組組長田岡一雄らと会食中、店に偶然居合わせた明友会構成員に歌うことを要求され、これに端に山口組組員と明友会構成員との殴り合いが起きた(明友会事件)。当時は暴力団と芸能人の付き合いは問題にならず、興行を仕切る暴力団と関与なしの芸能活動は困難な時代であった。昭和37年、「島育ち」(有川邦彦 作詞・三界稔 作曲)をレコーディング。40万枚を超える大ヒットでカムバックを果たし、昭和38年にNHK紅白歌合戦に初出場した。
 平成元年に勲四等瑞宝章を受章。平成25年、肺炎のため東京の病院で死去。享年94。