東京ブギウギ

東京ブギウギ
 鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌によってヒットした。笠置シヅ子の歌と書いたが、ほとんどラジオを爆発させるような歌い方だった。焦土化した戦後を突き破るような迫力があった。なんせ歌詞が「東京ブギブギ リズムうきうき、心ずきずき、わくわく」である。スイングしない方がおかしくなる。

 ブギブギとはジャズの演奏形式で,左手で繰り返えすリズムにのって、右手で旋律を変奏させてゆく。このアメリカで流行していたブギのリズムに合わせ、日本の歌として作った曲である。作曲した服部良一が「電車に乗っている時、レールの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急いで駅を降り、飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた」との逸話がある。東京ブギウギの大ヒットは、当時笠置が日劇で公演していた「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く」の挿入歌として歌われたことがきっかけとされている。

 笠置シヅ子(大正3年〜昭和60年)本名亀井静子は香川県大川郡相生村に生まれ、生後間もなく大阪市福島区の米屋の養女となる。昭和2年に小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験するが、背が小さく極度の痩せ型であったため不合格となる。しかし同年「松竹楽劇部生徒養成所」を受験し合格、娘役・三笠静子の芸名で「日本八景おどり」で初舞台を踏む。しかしその後の昭和10年に、崇仁親王が三笠宮を名乗ったことから、三笠を名乗るのは恐れ多いと笠置シズ子に改名した。

 なお誤解が多いが、ジャズは戦後GHQが持ち込んだのではなく、大正時代つまりモボ・モガの時代(それぞれ「モダン・ボーイ」「モダン・ガール」を略していった語)にはすでにジャズクラブ、ジャズダンスクラブなどが日本に存在していた。ただメデアがなかったのでジャズは東京などの都会に限られ、日本中に普及していなかったのである。

 昭和13年、笠置シヅ子はすでにジャズ歌手として派手な身振りで警視庁ににらまれていた。激しく踊り歌うステージは、マイクの周辺の1メートルの範囲内で歌うことを強要され、昭和14年には丸の内の劇場への出演を禁じられた。

 終戦後、昭和22年の日劇のショーで「東京ブギウギ」が大ヒットさせた。以後、「大阪ブギウギ」や「買物ブギ」などをヒットさせ「ブギの女王」と呼ばれた。笠置シヅ子のレコード吹き込み時には、スタジオに米軍関係者が詰めかけ、彼らの声援の中で行われた。また同曲はアメリカでもシングルレコードとして発売された。

歌:笠置シヅ子     作詞:鈴木 勝     作曲:服部 良一

東京ブギウギ リズムウキウキ
心ズキズキ ワクワク
海を渡り響くは 東京ブギウギ
ブギの踊りは 世界の踊り
二人の夢の あのうた
口笛吹こう 恋とブギのメロディー
燃ゆる心のうた 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も月の下で
東京ブギウギ リズムウキウキ
心ズキズキ ワクワク
世紀のうた心のうた 東京ブギウギ
ヘイー


さあさブギウギ たいこたゝいて
派手に踊ろよ 歌およ
君も僕も 愉快な東京ブギウギ
ブギを踊れば 世界は一つ
同じリズムとメロディーよ
手拍子取って うたおうブギのメロディー
燃ゆる心のうた 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ今宵も 星をあびて
東京ブギウギ リズムウキウキ
心ズキズキ ワクワク
世界のうた楽しいうた 東京ブギウギ
ブギウギ陽気なうた 東京ブギウギ
ブギウギ世紀のうた 歌え踊れよ
ブギウギー