憧れのハワイ航路

憧れのハワイ航路
 戦後の日本に明るさを届けた曲といえば「リンゴの歌」、「東京ブギウギ」そしてこの「憧れのハワイ航路」であろう。当時の人々は、敗戦直後で「あこがれ」という言葉そのものを忘れていた。また真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、敗戦国の日本にとってハワイは忘れ難い地名のはずであった。当時の港は復員者や海外からの引き揚げ者でひしめき合い、しかも海外への自由な渡航は許されていなかった。このような時期に、ハワイを憧れの対象にしたのである。この明るさは何なのだろうか。

 もしこれが中国大陸へのノスタルジーが題材であれば進駐軍は侵略思想の賛美として発売は中止させられていただろう、しかし進駐軍の故郷を憧れとしたのだから文句の言いようがなかったのである。憧れのハワイ航路は新東宝で映画化されているが、当時は、海外旅行などまさに夢のまた夢の時代だった。

 昭和24年週刊「平凡」が行った「花形歌手ベストテン」で第1位が岡晴夫で、以後3年連続第1位だった。岡晴夫の明るい歌声が、戦後の暗く沈みがちな日本人の心を浮き立たせたのであろう。岡晴夫は愛称、おかっぱれであった。

 岡晴夫は大正5年に千葉県木更津市で生まれ、本名は佐々木辰夫。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。16歳の時に上京し、浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。流しの生活をから、昭和13年キングレコードからデビューしたちまち人気歌手となった。岡晴夫は戦前に「上海の花売娘」、戦中に「パラオ恋しや」、さらに戦後「憧れのハワイ航路」や「啼くな小鳩よ」、そして昭和30年代にはいってからの「逢いたかったぜ」と歌手として長い間、活躍した。しかし昭和45年、読売テレビ公開歌番組「帰ってきた歌謡曲」の収録中に倒れ逝去。54才の若さだった。