悲しき口笛

美空ひばり(昭和12年〜 平成元年)
 本名は加藤和枝。神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれる。
 幼い頃より歌が好きで、8歳のときには、母親が近所の公民館や銭湯に舞台を作り、歌わせていた。昭和21年、NHK「素人のど自慢」に出場し「リンゴの唄」を歌ったが、審査員は「うまいが子供らしくない」と鐘を鳴らさなかった。昭和22年、横浜の杉田劇場で前座歌手として出演。以来、地方巡業にでるようになる。高知県に巡業した際、ひばり母子が乗っていたバスが、前方からのトラックを避けようとして崖から転落。運よくバンパーが桜の木に引っかかりとまったが、ひばりは仮死状態だった。偶然村にいた医師が救命措置をして、その夜にやっと意識が戻った。横浜の家に戻った時、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切ったらしい。
 11歳のひばりは横浜国際劇場で公演。横浜国際劇場に演出していた宝塚の岡田恵吉が、美空ひばりと命名した。横浜国際劇場の支配人だった福島通人が、ひばりのマネージャーとなって舞台の仕事を取り映画を企画した。純粋に「かわいい」と見る層がいた反面、詩人であり作詞家のサトウハチローは、当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と批判的な記事を書いている。このように美空ひばりに対して、可愛いとか可愛くないとか、子供とか大人とかの評価があったが、それはそれまでの常識の線を超えた「天才少女」だったからだろう。

 悲しき口笛は作詞:藤浦洸、作曲:万城目正で、美空ひばりのシングルA面である。前作「河童ブギウギ」はB面の収録だったため、本曲がひばりにとってA面デビュー作となった。当時12歳のひばりが初の主演を務めた映画の主題歌で、当時としては戦後最高記録となる45万枚を売り上げ、ひばりにとって初のヒット曲となった。この曲はひばりにとって出世作となった。また本曲の売り上げ枚数は美空ひばりの全シングル売り上げランキングの第10位で、「悲しき口笛」の映画も歌も横浜市が舞台になっている。シルクハットに燕尾服」で歌う姿は「天才少女歌手」と呼ばれていた頃のひばりを象徴するものである。

1 丘のホテルの 赤い灯(ひ)も
  胸のあかりも 消えるころ
  みなと小雨が 降るように
  ふしも悲しい 口笛が
  恋の街角 路地の細道
  ながれ行く

2 いつかまた逢う 指切りで
  笑いながらに 別れたが
  白い小指の いとしさが
  忘れられない さびしさを
  歌に歌って 祈るこころの
  いじらしさ

3 夜のグラスの 酒よりも
  もゆる紅色 色さえた
  恋の花ゆえ 口づけて
  君に捧げた 薔薇の花
  ドラの響きに ゆれて悲しや
  夢と散る





(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正、歌:美空ひばり)