リンゴの唄

 戦後の歌謡曲ヒット第1号となったのは、作詞サトウハチロー、作曲万城目正(まんじょうめただし)による「リンゴの唄」であった。リンゴの唄は戦後初めて作られた松竹映画「そよかぜ」の挿入歌で、主演の並木路子が映画の中で歌っている。なおオリジナルでは霧島昇が並木路子とデュエットで歌っていた。

 映画のストーリーは、劇場の照明係の少女(並木路子)が楽団員に助けられながら歌手になってゆくスター誕生物語であった。

 映画が公開されたのは、終戦からおよそ2ヶ月後の10月10日である。それまで空襲警報を流していたラジオの電波に乗って、全国津々浦々に「リンゴの唄」が流れた。敗戦に打ちひしがれた人々に、空腹でひもじいい思いをしていた人々に、この歌が流れたのである。確かに曲は明るく、並木路子のさわやかな歌声が気分を明るくし、空前のヒット曲となった。

 可憐な少女が赤いリンゴに思いを託して歌う曲である。その歌声は敗戦直後の焼け跡の風景や、戦争の重圧からの解放感をうまく表現していた。そのためテレビなどで終戦直後の焼けの原、闇市、買い出し列車などが流れる際、必ずと言っていいほどバックサウンドにこの曲は使われている。

 当時は、敗戦後の暗い世相だった。そのため明るい曲が求められていたのである。当時のラジオは、この曲を何度も繰り返し流した。なおサトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中であったが、「戦時下に軟弱すぎる」との理由で、検閲で不許可になり、終戦後に日の目を見たのである。

 並木路子は東京浅草出身で台湾育ち、本名は南郷 庸子(なんごう つねこ)であった。昭和20年3月の東京大空襲(死者約10万)で母を亡くし、彼女自身も瀕死の重傷を負い左目に後遺症を残している。次兄と父は、乗っていた船が潜水艦に撃沈されて死亡している。また初恋の人・立教大学の学生上田四郎も学徒出陣による特攻隊出撃で亡くなっていた。

 「リンゴの唄」吹き込みの際、作曲者の万城目正は何度もダメを出し、「もっと明るく歌うように」と指示した。しかしこのような事情で暗い気持ちでいる並木路子を知ると、万城目は「君ひとりが不幸じゃないんだ」と励まし、あの心躍らせる明るい歌声が生まれたのである。

 リンゴの唄からデュエットで歌っていた霧島昇がいつしか消えたように、米軍占領下の日本の歌謡界では、女性の歌手が多かった。戦前の男性社会から、戦後の女性社会の幕開けを感じさせた。

 平成7年、並木路子が阪神・淡路大震災の被災地である神戸市長田区へ慰問に訪れた際、新聞には「焼け跡に再びリンゴの唄が流れ」という見出しで紹介された。阪神・淡路大震災が起きたのは、奇しくも戦後50年目の年であった。並木路子は平成13年永眠、享年79であった。

1 赤いリンゴに唇よせて
  だまってみている青い空
  リンゴはなんにもいわないけれど
  リンゴの気持はよくわかる
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

2 あの娘(こ)よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴに良く似た可愛い娘
  どなたがいったか うれしいうわさ
  かるいクシャミもとんで出る
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

3 朝のあいさつ 夕べの別れ
  いとしいリンゴにささやけば
  言葉は出さずに小くびをまげて
  あすも又ねと夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

4 歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えばなおたのし
  みんなで歌えばなおなおうれし
  リンゴの気持を伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ