名文(古文)


 平家物語(作者不明)

 

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

 

 

 

ぎおんしょうじゃのかねのこえ
しょぎょうむじょうのひびきあり
さらそうじゅのはなのいろ
じょうしゃひっすいのことわりをあらわす
おごれるひともひさしからず
ただはるのよのゆめのごとし
たけきものもついにはほろびぬ
ひとえにかぜのまえのちりにおなじ



 意味

祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは常に変化し、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは必ず滅びるという道理を表している。権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それはちょうど春の夜の夢のようである。強い力を振るった者も結局は滅んでしまう。それは風の前にある散っていく塵と同じである。


解説
「祇園精舎」はインドにあるお寺の名前を日本語に音訳したもの。「声」は「音」の意。
「諸行」は「万物」、つまりこの世に存在するありとあらゆる物という意味の仏教用語。鐘をついたとき、音はだんだんと小さくなゆき永遠に続くものではない。沙羅双樹は「まんじゅしゃげ」のこと。「春の夜の夢」は、短時間に終わってしまう幸せな時間を表現すしている。「たけき者」は「猛き者」、つまり自分の権力や腕力を振りかざしている者ということで、「ついに」は「終に」、つまり「最後には」とか、「結局は」ということを意味する
「偏に」は「ただ」と同じ意味で、権力を振るった者が滅びるのは、風の前のちりが飛ばされるのと同じで、運命的なのだという意味。

解釈

 この有名な冒頭の文面から、はかなさをうたっているようであるが、実際には、平家の栄枯盛衰を描いた軍記物語であり派手なストーリにあふれている。平清盛が太政大臣となり栄華を極めた時から、平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの約二十年間をもとにしている。

 平家物語が名文なのは、ひとえに琵琶法師が、琵琶を弾きながら語ることから、リズム感があるのだろう。

 


枕草子(清少納言)

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。

 

清少納言

 平安時代の女流作家であり歌人。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、家集『清少納言集』に42首が伝わっている。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集している


春は明け方が良い。日が昇るにつれてだんだんと白くなる、その山の辺りの空が少し明るくなって、紫がかっている雲が長くたなびいている様子が良い。
夏は夜が良い。月が出ている夜はもちろんのこと、(月が出ていない)闇夜もまた、蛍が多く飛び交っている様子も良い。また(たくさんではなくて)、蛍の一匹や二匹が、かすかに光って飛んでいるのも良い。雨が降るのもおもむきがあって良い。
秋は夕暮れが良い。夕日が差し込んで、山の端がとても近くなっているときに、烏が寝床へ帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽と飛び急いでいる様子さえしみじみと感じる。ましてや雁などが隊列を組んで飛んでいるのが、(遠くに)大変小さく見えるのは、とてもおもむきがあって良い。日が落ちてから聞こえてくる、風の音や虫の鳴く音などは、言うまでもなくすばらしい。
冬は早朝が良い。雪が降っている朝は言うまでもなく、霜が降りて辺り一面が白くなっているときも、またそうでなくてもとても寒いときに、火などを(台所で)急いでおこして、(部屋の)炭びつまで持っていく様子も、たいそう冬にふさわしい。昼になって暖かくなると、火桶に入った炭火が白く灰っぽくなっているのはよくない。





方丈記(鴨 長明)

行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。
玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年焼けて、今年造れり。或いは大家亡びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。

参考

鴨長明が「方丈記」を書いた時代は、平安から鎌倉幕府へと政権が移譲した「戦乱・混迷の時代」であり、「方丈」とは一丈四方の部屋、つまり鴨長明が出家して住んだ庵が四畳半の広さであった。俗世から離れた長明はそこでの静かな暮らしを楽しんだ。

漢字と仮名の混ざった『和漢混淆文』の最初の文学作品とされている。


 

 

河の流れは絶えることがなく、しかも、一度流れた水は、同じ水ではない。川のよどみに浮かんでいる水の泡も、消えたかと思うと、別のところで泡が出来たりしてが、同じ場所に留まっている泡などはない。世の中にある人間と住まいも、河の流れや泡の動きと同じようなものである。

 宝石を敷き詰めたかのように美しい京の都に、棟を並べて家が建ち、屋根の高さを競い合っているが、身分の高いも人、身分の低い人の住居は、何世代が経ても消え去ることはないものだが、これが本当かと調べてみれば、昔からあった家は珍しい。ある家は去年火事で焼け今年建て直している。裕福な家柄の豪邸であった家が、貧しく小さな家になってしまっている。そこに住んでいる人も同じである。家が建っている場所も変わらず、人間も多いのだけれど、昔見たことがあるという人は20~30人のうちわずかに1~2人くらいである。朝に誰かが死に、夕べに誰かが生まれるのが人の世の習い(無常)である。こういった人の世のあり方は、ただ、浮かんでは消える水の泡にも似ている。



徒然草(吉田兼好)

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

 

吉田兼好

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人、出家したことから兼好法師とも呼ばれる。清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。「徒然草」の作者としてあまりにも有名。また私家集「兼好法師家集」がある。


 手持ち無沙汰でやることもなく、硯に向かって心に浮かんでくる取りとめも無いことを書いていると、妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになる。



土佐日記(紀貫之)

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
それの年の十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に門出す。
そのよし、いささかにものに書きつく。
ある人、県の四年五年はてて、例のことどもみなし終へて、
解由などとりて、住む館より出でて、船に乗るべきところへ渡る。
かれこれ、知る知らぬ、送りす。
年ごろ、よくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりにとかくしつつののしるうちに夜ふけぬ。


紀貫之(872~945)
 承平4年土佐国司の任を終えて京の都に帰るまでの旅程を、男性である紀貫之が女性の筆に託し、女性の立場で仮名文字で書いたものである。当時、男性は仮名文字を使わなかったので、後の仮名文化に、仮名文学に新しい形式を開拓したといえる。

 土佐日記は日記文学(紀行文)のさきがけとなった。歌人としては一流だったが、藤原氏に勢力争いで負けた紀氏である貫之は官人としての位は低かった。貫之が京に帰ったときには、もとの自分の家は荒れ果ていた。世の無常を感じるのだった。

 

  男も書くという日記というものを女である私も書いてみようと思います。
 ある年の十二月の二十一日の午後八時ごろに出発するので、そのことを多少書いてみましょう。
 ある人が、国司としての四五年の任期を終えて、きまりとなっている引き継ぎなどもみなし終えて、
 解由状などを受け取って住んでいた館から出て、船に乗ることになっている所に移る。
誰も彼も、知っている人も知らない人も、見送りをする。
 数年来、親しくつきあった人々が別れがたく思って(やって来て)、一日中あれこれして大騒ぎするうちに夜が更けた。



奥の細道(松尾芭蕉)

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。

月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年も また同じように旅人である。船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬の轡(くつわ)を引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅を住処(すみか)とし ているようなものである。古人の中には、旅の途中で命を無くした人が多くいる。わたしもいくつになったころからか、ちぎれ雲が風に身をまかせ漂っているの を見ると、漂泊の思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は、隅田川のほとりのあばら屋に帰ってクモの古巣を払い、しばらく落ち着いて いたが、しだいに年も暮れて、春になり、霞がかる空をながめながら、ふと白河の関を越えてみようかなどと思うと、さっそく「そぞろ神」がのりうつって心を 乱し、おまけに道祖神の手招きにあっては、取るものも手につかない有様である。そうしたわけで、ももひきの破れをつくろい、笠の緒を付けかえ、三里のつぼ に灸をすえて旅支度をはじめると、さっそくながら、松島の名月がまず気にかかって、住まいの方は人に譲り、旅立つまで杉風の別宅に移ることにして、その折 に、人の世の移ろいにならい、草葺きのこの家も、新たな住人を迎えることになる。これまで縁のないことではあったが、節句の頃には、にぎやかに雛をかざる光景がこの家にも見られるのであろう。と発句を詠んで、面八句を庵の柱にかけておいた。