はじめに
振り返れば、サリドマイド、スモン、クロロキン、大腿四頭筋短縮症など様々な薬害がこれまで繰り返されてきた。平成の時代に入ってからも、薬害エイズ、ソリブジン、薬害ヤコブと悲劇は連続して発生している。さらに薬害ばかりでなく、効果のない抗ガン剤や抗痴呆剤に数兆円もの貴重な医療財源を食い物にされてきた歴史がある。
私たちは医学の進歩というと、その言葉に惑わされてしまうが、健康や病気を利用して儲けようとする者が、医学や医療の周辺に狼のごとく取り巻いていることを忘れてはいけない。テレビでは愚にもつかない健康情報が流され、新聞では怪しげな健康食品の宣伝が紙面をにぎわし、それらがいかに国民の健康を害し、人々の精神を蝕んできたかを知るべきである。
医学は真実を求める科学の1分野であるが、科学と医学が根本的に違うのは、医学には嘘が紛れ込んでいることである。そして長い医学の歴史の中で、真面目な医師が行ってきたことは、医学の常識とされてきた嘘をいかに排除するかであった。膨大な医学情報の中には、金儲けのための企業戦略、我田引水と地位保全のための学者の発言、些細なことで舞い上がる医師の発言、これらが混在していて、正しい情報、有益な情報、重要な情報を知ることは意外に難しいのである。このような情報洪水の中で医学を患者に応用するには、まず医学の常識を疑ってみることである。
医療は医学を患者に応用した実践学といえるが、この医療は医学以上に困難をともなう。それは対象となる患者が喜怒哀楽を持つ人間であること、病気には多くの不確定要素が含まれ、病状や治癒過程が患者によって違っていること、患者の家庭環境、社会観、宗教観、社会的背景もまた患者によって違っているからである。さらに医療には、人道的な面や福祉的な側面をもちながら、限られた医療財源という制限が設けられていることも問題を複雑にしている。教科書に記載されているような単純な対応では現実にそぐわないことばかりである。
このような医療に対し、医師に求められるのは医学的な知識はもちろんのことであるが、患者を尊厳に満ちた人間として常に意識して対応することである。さらには患者を納得させるための説得力、知性に基づいた人格形成、人間味あふれた医師としての魅力、患者を助けようとする熱意などが医師に求められている。そして患者に不利益を与えないこと、患者を傷つけないことを常に念頭に置かなければいけない。
もし医師の仕事が患者の病気を診断し治療を行うだけならば簡単である。それは机に向かい医師国家試験の問題を解くようなものだからである。しかし、それでは医師は務まらない。医師には患者の気持ちに配慮しながら、時には厳しく、時には優しく、患者の心を探りながらきめ細かい対応が求められる。そして何よりも病気という苦しみを背負った患者を哀れみ、弱者に対する同情の心、そして人間を愛する気持ちが大切である。
患者にとって最良の治療は何であるのか。それが本当に正しい治療なのか。そしてそれが患者を幸福にするのか。医師は患者の経過をみながら常に自問し、喜びと反省の日々を繰り返している。このように医学常識を疑いながら、患者のために最良の方策を考えることが医師の習性となっている。
この医師の日常診療のスタンスを、患者からその周辺に向けてみると、つまり患者から医療、患者から社会、患者から政治などへ視線を向けてみると、世の中にはおかしなこと、矛盾したこと、間違っていること、病的なことが数多く目に入ってくる。それはまるで社会全体が重篤な病に冒されているような、放置すれば死を迎えるような重篤な状態と感じることがある。そして目の前に病的なことがあれば、それを分析して診断するのが医師の習性であるから、この医師の本能に従い、病んだ社会の病巣を分析することも筆者にとっては特別なことではない。
日本の社会のどこに問題があるのか、人々の不満は何に起因するのか、なぜ人々は幸せになれないのか、このような社会にひそむ病巣は曖昧のまま明確にされていない。また学問的にも体系化されていない。そして真面目を装ったマスコミの表層的分析により、一時的な分析祭りに終始しているようにみえる。人々は右往左往しながらマスコミが指摘するスケープゴートに責任を負わせ、目先の解決を求め安心を得ようとする。しかし真面目な分析を伴わない安易な解決法は、国全体を間違った方向へ導くことになる。これまで政治家が介入するたびに社会が悪くなったように感じるのは、社会病巣の特定とその解決法が間違っているからである。
社会の閉塞を招いているものを列挙すると、国民レベルでの間違った思いこみ、がっちりと組まれた政官経の悪のトワイアングル、意味不明の言葉で煙に巻く官僚たち、法律の不備を知り尽くした悪党ども、国際戦略の欠如による国益の低下、規制に縛られた不平等な競争、マスコミによる情報汚染、このようにさまざまな要因が考えられる。医師の診断が間違えば病気が悪化するように、たとえ政治家が社会を良くしようとしても、問題の分析を間違えれば、社会全体は悪い方向へ進むことになる。
この日本に住む以上、社会の病巣を的確に分析し、人々を苦しめる悪の病巣を排除することも大切である。少しでも社会を健全なものにして、次世代の人々を幸せにすることが私たちに課せられた責任といえる。
人間社会の問題は、その是非を数値で示すことはできない。そのため政策、法律、教育などが改正されても、それが改正なのか改悪なのかは数年後でなければ判断ができない。そして数年後に改悪であったことが明確になったとしても、国民は改悪に気づかず、また立案者の責任が問われることはない。政策の間違いや責任は不明瞭のまま、人々の不満だけが蓄積されることになる。政治家や官僚は政策の是非とは無関係に政策の立法化が業績になるので、政策の内容よりも立法化された政策の数、根回しにたけた人脈によって評価される。そのため理念を持たない政治家であっても、政界では実力者になることができるのである。
日本人の顔が欧米人の顔と違うように、日本の習慣や文化は欧米とは違っている。そのため欧米の成功例を日本に応用できるとは限らない。たとえ茶髪にしても、青色のコンタクトレンズを入れても、猿顔の日本人が欧米人になれるはずがない。もしなれるとしたら、世界的視野で物事を考える気概であるが、しかし残念なことに、それが今の日本に1番欠けているのである。欧米を手本にできたのはバブルの時代までで、それ以後の日本は手探りのまま新しい方向を模索する時代に入っている。
では先の見えない将来を探るためにはどうすればよいのだろうか。それは人間の過去の歴史から将来を知ることである。古代人の考えることも、現代人の考えることも人間の考えに違いはない。古代人の欲望も、現代人の欲望も基本的には同じである。そして人間は同じような考えから同じような間違いを犯し、同じような戦略で成功を得てきた。つまり人間の歴史に刻まれた成功例や失敗例から人間の欲望やずるさを知ることができる。さらに人間の本質や心理、利害に満ちた社会のシステムがどのように形成さられたかを知ることができる。先輩が残した歴史という貴重な遺産を学び、その英知から将来を構築させることである。偏見に満ちた考えを排し、固定された観念を洗い直し、純粋な目で社会を見つめなおすことである。日本の国が閉塞しているのは、社会を変革できないという先入観が国民に浸透し、改善させようとする熱意よりも諦めの気持ちが勝っているからである。
最近、医療事故が頻発し医師への不信感が大きくなっている。また偏見に満ちたマスコミの報道、医療に対する厚生労働省の間違った認識、医師どうしの悪口などが重なり、患者の医療不信は大変なものになっている。医療にとって最も大切な「医師と患者の信頼関係」が低下したことは、患者にとっても医師にとっても大変な不幸である。医療不信という根深い状況を解決させるためには、一人ひとりの医師が目の前の患者に対し心から親身になり、医師としての使命感をもちながら対応する以外に方法はない。マスコミが情報公開を求めるのも医療不信が根底にあるからで、これを解決させる方法は、情報公開よりも医療不信の根底にある患者の信頼を取り戻すことである。マスコミが述べていることも重要であるが、マスコミはマッチ・ポンプ的な手法で医療問題をあおりたてる傾向がある。そのため彼らの手法は常に無責任であり、彼らの方策が正しいとは限らない。患者の信頼を取り戻すには、医師自らの努力以外に方法はない。最近、医療はサービス業に分類されるようになった。しかし医療従事者の患者に対する気持ちは、金銭を前提としたサービスではなく、むしろ金銭とは無関係の自己犠牲的ボランテア精神に近いものである。この精神を常に堅持することである。
筆者は日本を構成する1人として、1人の家庭人として、1人の医師として多くのことを考えてきた。患者を苦しめる病気を診断するつもりで、社会を見つめてきた。中国には、「小医は身体を癒し、中医は人を癒し、大医は国と社会を癒す」ということわざがある。私は人間として、医師として、決してうぬぼれた考えを持っているとは思わない。目の前の患者をみつめ患者を幸せにすることが医師の職務であるならば、社会のことを考え、社会を良くすることも目的は同じである。冷静に人間を見つめ、社会を見つめ、正しいと信じることを正しく伝えようと努力したつもりである。
本書は平成10年からメディカル朝日に連載されたものである。私に連載を勧めてくださった海江田裕紀様、さらには多くの助言をいただいたメディカル朝日や文光堂の方々に心から感謝の気持ちを伝えたい。また日常生活の中で七難八苦の困難を引き起こし、身近な生活の現実的厳しさを教えてくれた愛すべき妻子にも深く感謝している。
カラスの勝手と勝手なカラス
カラスの勝手を主張する身勝手なカラスが街に溢れている。黄色い声を張り上げながら走り回る子供たち、うんこ座りの茶髪の若者たち、迷惑駐車を繰り返すおばさん連中、タバコの投げ捨てを平気とするおじさんたち、まったく勝手なカラスが街に溢れている。今回は勝手なカラスの生態学が話題である。
勝手なカラスが街に出没するようになったのは、つい最近のことである。かつての日本人は礼儀正しく控えめで、忠犬ハチ公のごとく主人の為なら命を惜しまぬことを美徳としていた。しかしこの美徳が太平洋戦争の遠因と非難され、道徳よりは個人の自由を、倫理よりは個性を優先させる教育がもてはやされ、この敗戦からの二世代にわたる不道徳教育の結果が勝手なカラスの繁殖につながった。かつての日本人は、お天道様に申し訳ないとする自己規律があった。恥という言葉を知っていた。これをカラスたちに教えてやりたいのだが、不気味な瞳に思わず竦んでしまうのである。
「誰にも迷惑をかけず楽しいことをしているのに、何が悪いの?」。これは援助交際で補導された女子高生の言葉である。このような疑問を平然と抱く女子高生、さらにこの疑問に答えられず当惑する大人たち、この両者の存在こそが戦後教育の結果である。
カラスにもカラスなりの理屈はあるだろう。しかし彼らの根本的な間違いは「自由の意味の取り違え」なのである。元来、自由とは勝手気ままを意味する言葉ではない。自由とは三つの制約に縛られた厳格な意味を持つ言葉なのである。
その制約のひとつは、他人に迷惑や危害を加えないこと、つまり個人の自由が他人の自由を侵害してはいけないことである。大人が自分の部屋でポルノを見ることも、誰もいない野原で大声を出すことも、他人に迷惑をかけなければ個人の自由として保護されることになる。たとえ他人から蔑まれても、愚かな行為と非難されても、人間には愚行権と呼ばれる権利を有するのである。しかし、電車の中でエロ本を広げたり、公衆の前でタバコを吸う行為は絶対的な間違いである。それは他人に不快な害を与えるからである。このように他人に迷惑をかけないことが自由の最大の原則である。しかし勝手なカラスはこれを理解しない。法律に触れなければ、すべてが許されると本気で思っている。
自由における二番目の制約は、規則や法律による社会的制限である。この社会的制限の中でも刑法は社会ルールを文章化したものだから理解しやすい。しかし子供の義務教育、シートベルトなどのような個人を保護する法律は個人の自由と常に対立をきたし議論を引き起こす。シートベルトの着用は本来は個人の自由のはずであるが、国が罰則を設けるのは国が個人を守ろうとするためである。決められたルールは守るべきであるが、この個人を守るための法律が行き過ぎると国家による迷惑なお節介、全体主義とのレッテルを張られることになる。
この社会的制限で特に問題になるのは「未成年者の自由」である。子供の自由はワガママにすぎないが、大人と同じ体格の未成年者の自由をどこまで認めるかが問題になる。未成年者に善悪を判断する能力が無いとすれば、彼らは社会によって制限を受け、また同時に社会によって守られる存在になる。その境界線は二十歳という年齢であるが、この法的年齢を厳密に適応するかどうか、子供と未成年、未成年と大人、この保護すべき年齢の線引きが問題になる。
彼らへの対応策は法律よりは家庭の教育である。しかし子供の教育の資格が親にない場合がやっかいになる。勝手なカラスの親は、同じ勝手なカラスである場合が多いからである。このような親ガラスの代わりに社会が子供を教育すべきであるが、教育の資格のない親ガラスがカァーカァーとうるさいため手が付けられない状態にある。このような教育体制により、善悪の判断のつかない子供が援助交際と称した売春に走ることになる。
自由に伴う三番目の制約は、その自己責任である。自由と責任を論じる場合、医療におけるエホバの証人が最も適切な例になる。医師にとって輸血を拒否するエホバの証人は愚かに思えるが、それは患者の自己決定権のひとつであり、たとえ患者のためであっても医師は患者の自由を侵害してはいけない。医師が最も良い治療法を選択するのは患者がそれを望むからであって、患者が望まない医療行為はたとえ最良の治療であっても違法行為となる。自己決定権による結果が自己責任となるが、カラスたちの精神構造には責任という言葉さえ欠如している。この日本人特有の甘えと無責任を排除するのが自由に伴う責任なのである。
これらの三つの制約を守れば、自由主義社会は個人の自由を保障している。しかしこれほど簡単な制約が理解されていない。これを勝手なカラスたちに理解させるためには二つの方法が考えられる。未成年者カラスには教育で、成人カラスには刑罰で対応することである。これで退治できないのならば、それは現在の教育が悪いのであり、また刑罰が甘すぎるせいである。カラスたちを馬鹿な連中、下品な連中と蔑むだけでなく、教育あるいは刑法を変え勝手なカラスの繁殖を抑える努力が必要である。
統計騒乱節
もし癌が克服されたならば、日本人の寿命はどれだけ延びるであろうか。癌で死なずに済んでも、他の疾患で死ぬことになるので平均寿命は意外に延びず、男性は4歳、女性は3歳の延長だけである。いっぽう日本の男女の平均寿命の差は7歳であるから、寿命の性差がいかに大きいかが分かる。寿命の性差は癌の壁より2倍も厚く、男性の癌がすべて克服されても女性の寿命にはとてもおよばない。この数値を知れば、性同一性障害の患者でなくても、世の男性は去勢願望をきたすことであろう。
この歴然とした数値の差を誰も言わないのは何故だろうか。それは世の中の真実を示す重要な数値であっても、商売としての利用価値がないからである。いっぽうコレステロール値が220 mg/dl を越すと心筋梗塞になるとする統計は、脂肪学者や製薬会社の商売になるので必要以上に宣伝される。彼らはエビデンス・ベースト・メヂスン(EBM)を大袈裟に振り回すが、臨床上の有為差は宣伝以下と予想する。
昭和30年以降、心筋梗塞死は増加しているが、これは高齢者の増加が原因であってコレステロールの関与は少ない。年齢を補正した死亡統計では心筋梗塞死は横ばい、日本人のコレステロールは欧米並に増加したが、心筋梗塞死は欧米人の1/4のままである。コレステロールを悪玉にしたい気持ちは理解できるが、220 mg/dl でクスリをのませるような宣伝は誇大広告であろう。現在の死亡統計第2位は心疾患であるが、これは心筋梗塞ではなく老化による心不全が大部分である。彼らの宣伝のままであれば高齢者のほとんどが高脂血症のクスリをのむことになる。
環境の悪化を癌の増加原因とする宣伝も心筋梗塞と同様に間違いである。年齢補正の死亡統計では癌もまた横ばい、女性では減少傾向を示している。これらは年代別による母集団の年齢分布の違いを利用した統計の詐術といえる。老人の割合が増えれば、全体では老化による疾患が増えるからである。
医学は確率の科学であるから統計を知ることは重要である。しかし本当に必要なことは統計の作為性を知ることである。統計はある仮説を科学的に証明する手段であるが、実際には無益なものを有益と錯覚させるために用いられている。学会抄録を読めば、有意、有効、有用のオンパレードであるが、臨床上の有益性は取るに足らない。EBMが最近の流行語であるが、かつて治験で有効だった脳代謝改善薬が、追試で無効となるのが統計である。統計は水戸黄門の印篭のごとく、都合の良い方向へ歩み出す性格がある。
統計は木を見せて森を見せず、森を見せて木を見せずの詐術が多い。最も多いのは価値の少ないものを重要と錯覚させることである。その方法は、全体の比較を示さず修飾語を多用した文学的表現で騒ぐことである。
昭和62年、日本初の女性エイズ患者が認定された時、東京都のエイズテレフォンサービスへの問い合わせが1日2万件であった。あの日から10数年後の今日、日本のエイズ患者は1917人、累積死亡数1130名、献血による陽性者は27/306万2562でしかない。幸いなことではあるが、高校生にコンドームを配ったあの馬鹿騒ぎは何だったのか。発表の度に悲壮な顔で危機を煽った学者は何だったのか。薬害エイズの実体を隠していた厚生省は何だったのか。
今年、緊急事態宣言を出した日本の結核患者は4万人、結核死亡者数は年間2千人である。結核患者急増との発表に驚き調べてみれば、前年より243人新規患者が増えただけ、増加率はたったの0。5%である。この数値に厚生省は仰々しく緊急事態宣言であるが、どこに緊急事態の根拠があるのか疑問である。緊急事態宣言は決して結核菌の逆襲ではない、日陰に置かれた結核学者の逆襲である。約10年前、年間100万人のツ反陽性小中学生の胸部X線を撮影し、年間5名の結核患者を見つけたと喜んでいた結核学者の逆襲である。非常事態宣言などは北朝鮮が攻めてきたかのような盛り上がりであった。
これらの数値に比べれば交通事故死は年間1万人、日本人100人に1人の死亡原因である。また自殺は年間3万2千人、日本人40人に1人の死因である。事故死や自殺がこれほど多いのに、大本営の発表にマスコミも踊らされ、世の中は結核だらけとなった。
科学者を自負する医師でさえ統計に惑わされるのだから、一般人は簡単に騙される。テレビでゴマが良いと言えば3食ゴマづくし、水道水が危ないと言えばガソリンより高い値段のミネラルウォーターを買い、太陽がカルシウム代謝に良いと言えば日光浴、皮膚癌が増えていると言えば外出禁止令となる。ごく例外的なものを脅しの材料に、国民に不安という病気をばらまいている。
当たりもしない宝くじで1等の当たる確率は、東京と名古屋間に千円札を並べ、目をつぶってその中の一枚を取り出す確率と同じである。宝くじは夢を売る商売だからまだ許される。しかし不安神経症を増やすだけの緊急事態宣言などは騒乱罪に値する。
厚相が音頭をとって、マスコミが提灯持てば、夏の夜空にソーラン、ソーランである。
私説日本医療史
混迷する現在の医療を何とかするため歴史書を紐解いてみた。「故きを温ねて新しきを知る」、この孔子の言葉にすがってみることにした。しかし医学史の書物に書かれていることは、ヒポクラテスから北里柴三郎まで、つまりギリシャ時代から明治時代までのことばかりで、これら医学偉人伝、医療考古学から混迷する今日を知ることはできず、試みはあえなく挫折するに至った。
数日後、学ぶべきは戦後の医療史ではないかと思いつき、再度考察を試みた。
戦後の医療史の10大事件を自選し、現代医療の解明に再び挑戦してみた。
森永砒素ミルク事件(昭和30年)、水俣病(昭和34年)、サリドマイド薬害訴訟(昭和38年)、ライシャワー大使輸血後肝炎事件(昭和39年)、千葉大病院チフス菌人体実験事件(昭和41年)、筋肉注射による大腿四頭筋短縮症(昭和48年)、エホバの証人輸血拒否事件(昭和60年)、東海大学安楽死事件(平成4年)、ソリブジン薬害事件(平成6年)、薬害エイズ事件(平成8年)。
このように医療事件を並べてみたが、現在の医療を暗示する関連性は浮かんでこない。事件の多くが製薬会社と行政が中心になった薬事事件であり、医師の直接関与した事件が意外に少ないことに多少の安堵を覚えた。しかしこの10大事件を眺めてみても、今日の医療を知るためのヒントは得られず、歴史をたどれば今日が分かるという孔子の言葉、ここに再び挫折する。
翌朝、これは阿部定事件や酒鬼薔薇事件から日本の将来を予測するような愚かな方法であったことに気づき、再度考察に挑戦、ここから本題に入る。
日本の医療は繰り返しのない一方通行の道を歩んできた。そして、これまでに3度の記念すべき日があった。国民皆保険制度(昭和36年)、保険医総辞退(昭和46年)、そして点滴記念日(平成4年)がそれである。この点滴記念日が現在の混迷する医療を解き明かすキーワードになると思われる。
国民皆保険制度は最良の医療を国民に与えたが、医療はタダだと国民に思わせてしまった記念日である。そして武見太郎による保険医総辞退は医療の主体が行政ではなく医師にあることを確認した記念日といえる。
問題は平成4年4月1日の点滴記念日である。その日は、前日まで黄色だった点滴の色が全国いっせいに透明色に変わった日である。前日までビタミン混注のため黄色だった点滴が、入院患者へのビタミン投与は保険適応外との厚生省通達により、この日を境に点滴の色が黄色から無色に変わったのである。そしてこの点滴記念日が、医師が医療への主体性を失った記念日になった。
点滴の色が変わったことが何を意味しているのか。ひとつは医療に行政の介入を許したことである。さらに行政の医療への介入が正しかったことである。
医師が常識的な医療をやっていれば、このような事態にはならなかった。ビタミンの効用などの屁理屈を述べたことが間違いの元である。医師が医学知識をいかに駆使しても、ビタミンの必要性など常識外と通用しなかったのである。経営手段にすぎないビタミン混入を、医師が理屈を述べれば述べるほど、自らの信用を落とす結果になった。この行政指導を受ける前に医師が自主的に使用を制限すればよかったのである。
この点滴記念日を境に武見太郎の呪文から解放された行政の反撃が始まった。まるで子供を指導する教師のごとくである。医師に自浄作用が無いから行政の指導を許すことになった。訳も分からずに検査をするから、何も考えずにクスリを処方するから、行政が包括医療としてのマルメを始めたのである。この流れは勢いを増しながら今も続いている。院外処方、レセプト開示、すべて医師の非常識、あるいは医師への不信から生じた世の流れである。
移植法案もまたしかりである。人間の生死を決めるのは医師の仕事であるが、医師が信用できないから生死を法律で規制する移植法案ができたのである。医師に自浄作用がないから、法律の網を被せられたのである。まさに医師の敗戦記念日、屈辱記念日である。これを統制経済による日本の医療の宿命と思ってはいけない。世の常識に背を向け、自らを律することが出来なかった医師の宿命である。医師の理屈は保身のための屁理屈、医師の笑顔は金儲けのための笑顔、このような世間の評価は9割は誤解であるが、1割は正論といえる。
このような医療の流れを知り、日本の医療の宿命を変えるためには対策が必要である。医師が医療を変えなければ、さらに法律の網はきつくなり日本の医療そのものがガンジ搦めになってしまう。学校が父兄と教育委員会に監視されながら崩壊したように、医師の一挙一動が行政に縛られ、法律に縛られれば、医療は立ち行かなくなってしまう。
まず成すべき事は、医師が如何にして国民の信頼を得るかである。そしてその実現のためには、まず身を正し、不正行為、不正請求があれば医師が身内を厳しく罰することである。法律に反することはもちろんのこと、世の倫理や常識に反する行為は医師が自ら正すことである。クスリ漬けとの非難があれば反論するか、反論が出来なければクスリの使用に関する自主規制をつくることである。自ら不正行為を正さないと、正しい行為も不正に見えるものである。泣いて馬謖を切り、二十数万の医師を救うことが必要である。医療に哲学をもち。正しい医療を、正しい信念の元で行うことである。
この日本の根底にある大きな流れをくい止めるには、医師が自らを正し、国民の信頼を得る以外に方法はない。古代聖人の無言の言葉がここにある。
日本人の宗教と臓器移植
入院患者が読んでいる本を横目で観察すると面白いことが分かる。若い患者は漫画ばかりで、そこには若きウェルテルの青年像を見ることはできない。成人も同様で、週刊ポスト、週刊現代、女性自身が院内愛読書ベスト3となる。宗教への関心が薄いことは承知しているが、病気という不幸を背負った患者でさえ、聖書や仏典にすがろうとする発想はみられない。
そもそも宗教が存在するのは、人間に死がともなうからで、もし人間に死がなければ宗教は存在しない。人間の死は大昔からの問題であるのに、死を前にした患者でさえ宗教よりは女性の裸体あるいは芸能情報なのである。
「あなたの宗教は何ですか」と外国人に聞かれた場合、多くの日本人は戸惑いを覚えることであろう。仏教と言うには後ろめたく、無宗教と答えれば神の存在を認めない無神論者と誤解されることになる。キリスト教やイスラム教を信じている外国人には理解できないだろうが、日本人は無宗教でありながら神の存在を認めているのである。そしてきちんとした宗教心や信仰を持っているのである。
日本の所々の街角には鎮守の森があり、その数は数万ヶ所にのぼる。正月には初詣、子供がいれば七五三、秋には御神輿を担ぎ、お盆には渋滞を苦ともせずに帰郷する。これらは日本の風物詩であるが、同時に日本人の宗教心を表している。神社に行けば自然に手を合わせるが、祈りを終えた人に「あなたは誰に祈ったのですか」と尋ねれば、多くの人たちは答えに窮してしまう。日本人は神を信じているが、その神が誰であろうと違和感をもたないのである。
東郷神社、乃木神社、上杉神社、豊国神社、護国神社、日光東照宮。これらは死んだ人が神様になった例である。人間死ねばゴミになる、これは伊藤元検事総長の言葉であるが、元検事総長の言葉はむしろ日本人としては例外的で、日本人は死ねば神様になるのである。また日本には稲荷神社のように自然界を霊的存在と崇めた例が数多くみられる。まさに八百万の神である。
これに対し私たちがステレオタイプに思い込んでいる宗教とは、崇める教祖がいて、教祖の教えを書いた教典があり、教典を信じる集団が教義を唱えるものである。これが宗教のイメージであるが、多くの日本人が宗教に対し身構えてしまうのは、宗教のもつ強制力、うさん臭さ、独善性、排他性を知っているからで、死後の世界を脅しの材料とするような宗教に対し反射的に構えてしまうからである。
多くの人たちは日本人の宗教を仏教と思っているが、それは大きな間違いである。現在、仏教は墓を提供するだけの儀式宗教にすぎない。日本人は死ねば仏教徒となるが、それはお寺以外に墓がないからで、神社や教会に祖先を祭る墓があれば仏教徒になる必然性は生じない。仏教の檀家制度は江戸幕府が治安維持とキリシタンを禁じるために全国に設けた政策であって、それが風習として残っているだけである。
日本人の身体には仏教伝来以前からの神道が宿っている。日本人の一人ひとり宗教体質を数値で表せば、神道70%、仏教15%、儒教10%、キリスト教5%の混合された割合となるであろう。日本人の宗教心はひとつの宗教に限定されたものではなく、各宗教が混合した混合宗教なのである。そして神道は日本人の心にとけ込んでいるので、そのために神道を宗教と感じていないだけである。
神道は現世中心主義であり、他の宗教と違い死後の世界について深く考えないのが特長である。死ねば黄泉の国に行くだけで天国も地獄もない。つまり死後の世界を考えないのは日本人の太古からの伝統であって、死を自然なもの、あるいは死を考えないことを賢明としているのである。
日本人の宗教観をこのようにとらえると、臓器移植が行き詰まっている理由が分析可能となる。もともと生死観をもたない日本人に生死の議論はできないのである。また興味もないのである。人間の死を自然なものととらえる日本人は、他人の臓器を利用することに抵抗を感じるが、と言って臓器移植を否定しているわけではない。臓器移植に積極的に賛成でも反対でもないのである。知り合いが臓器移植が必要となれば、すぐにでも賛成派となり募金運動を始めることになる。
臓器移植の論争は、議論を職業にしている人たちによって議論されてきた。彼らがどれほど議論を繰り返しても、所詮は水と油の議論である。いつまで経っても水と油は混濁するだけで結論には至らない。そして汚れた混濁を見せられた一般国民は、臓器移植という汚れた言葉そのものに拒否反応を起こしているのである。
臓器移植は難しい手術と誤解されているが、欧米では心臓移植が年間4000例、肝臓移植が年間6000例も日常的に行われている。しかも心臓移植を受けた8割の患者が10年以上生存しているのである。先進国で日本だけが臓器移植を行わず、患者を外国に輸出している現状を考えると、臓器移植を躊躇するわけにはいかない。
日本人が寺や神社で祈りを捧げる理由は、現世の利益と血縁者の繁栄のためである。けっして他人の幸せのためではない。臓器移植の普及を望むならば、この日本人の宗教観を理解すべきである。生命と金銭を結びつける議論はタブー視されているが、臓器移植を促進させるためには臓器提供者に金銭的な優遇策を設け、さらに提供者の血縁者が将来臓器移植の適応になれば最優先とするような制度を作ることである。
運命の確率
ロスタイムのボールがゴールに吸い込まれた瞬間、日本人の多くが言葉を失い呆然となった。サッカーアジア予選におけるドーハの悲劇である。そして短い静寂が過ぎた後、この運命の1球をめぐりさまざまな論評がなされることになった。解説者は日本サッカーのレベルの低さを、さらには選手の練習態度から気象条件に至るまで敗因を分析したのである。日本サッカーを賞賛するはずだった内容が、数秒後には批判する内容に変わったのである。
原因があって結果が生じるのが物事の因果関係である。しかしながら、私たちの生活においては、結果があって次に原因を導こうとする逆の思考が働く場合がある。あの1球を偶然の1球とは言わず、何々がなければあの1球は生じなかった、と意味づけをしたがるのである。これは不都合な運命を因果関係で納得させようとする人間の習性といえる。
この無意識の習性が顕著にみられるのが、政治、経済、スポーツなどの解説である。まず結果を知り、次にスケープゴートを探し、両者をもっともらしい理屈で結びつけ、最後に結果の責任をスケープゴートに押しつけるのである。
数年前に現在の政治や経済の混乱を誰が予測したであろうか。神戸の大震災、横浜ベイスターズの優勝、笑顔に満ちた新婚カップルの離婚を誰が予想したであろうか。一カ月後の天気を予報できないように、未来を予測することは人間の英知では不可能なのである。
このような将来予測のなかで、偏差値による大学の合格率、明日の天気、競馬の勝敗などは、確率の範囲内においては予測可能である。しかし、これが病気の予測になるとこれまた不可能に近い。
肺癌の原因をタバコと言いながら、喫煙者全員が肺癌になるわけではない。タバコを吸いながら肺癌にならない方が圧倒的に多いのである。ストレスやヘリコバクターを消化性潰瘍の原因と言いながら、これらが関与しない潰瘍の方が多いのである。コレステロールを動脈硬化の原因と言いながら、年齢がくれば全員が動脈硬化をきたすのである。このように病気の危険因子は、いかめしい名称の割には運命の確率を多少上げているにすぎない。
医療において、気まぐれな運命の支配を最大に受けているのは偶発する医療事故である。予防接種後の脳炎、手術の麻酔から覚めない患者、クスリの副作用、分娩時の事故などは、どれほど注意しても一定の確率で生じるものである。問診や予診を厳密にやったからといって事故を防げるものではない。事故が起きた場合、問診や予診の有無を問題にするのは、それがスケープゴートとして適切かどうかを問いているのであって、儀式の有無に責任を負わせているのである。
医療事故が起きた時、一般の人たちは事故を偶発とは考えず、何らかの因果関係に起因すると思っている。ああすれば事故は起きなかった、と信じ込むのである。また科学的な説明が困難な場合でも、医師の不注意や不誠実な態度が引き起こした事故と理論づけるのである。この一般人の反応は医療事故ばかりではない。治療によって病気が改善しない場合にも同様の心理状態となる。
病気の原因については、患者はある程度運命と納得している。これは自分と病気の間に誰も介在していないからである。しかし病院を受診していながら病気が改善しない場合には、これを運命の結果とは考えずに医師のせいにしたがる。これは患者と病気の間に新たに医師が介在してくるので、当然医師がスケープゴートになるのである。
これほど医学が進歩しているのに、なぜ病気が治らないのか。この素朴な不満の原因を医師の能力や誠実性の違いに求めることになる。もちろん医師の腕に違いはあるが、運命に支配された病気の経過を変えるほどの差ではない。
病気の原因の大部分は不明であるが、治療後の経過も複雑かつ不確実である。Aという物質にBという物質を加えればCになる。このような化学式で説明できるのが科学である。しかし病気の治療については、Aという病気にBというクスリを投与すれば、改善するのが何%、改善しないのが何%というように偶然性に支配されているのである。もし医学を科学と呼ぶならば、医学は複雑系における確率の科学なのである。この点が一般人の考える医学の科学性とは異なっている。
医学は科学である。このように医師が世間に宣伝し過ぎた結果、患者は病気のすべてを科学的手法で説明がつくと思い違いをしている。医師にとって科学的思考は大切であるが、病気の大部分は非科学的な偶然性に左右されている。
偶然とは運命であり、そこには因果関係は存在しない。このデタラメに発生する悪い結果に対し、理不尽にも医師が責任を負わされることになる。まさにスケープゴートである。
これは不都合な運命を第三者に責任転嫁させようとする世相が、一般人の心にまで染み渡っているせいかもしれない。
薬屋栄え医療廃る
私たちの周りにはへそのゴマほどにも役に立たないモノが溢れている。業者を保護するだけの車検制度、ゴミを増やすだけのダイレクトメールや過剰包装紙、雰囲気だけの風邪薬の宣伝、等々である。さらに身の回りには有害でありながら善意を装った無駄も大いに溢れている。寄生する天下り官僚、余計なお世話の行政指導や公的規制、カルテルの集まりである業界団体、金を出さずに口ばかり出す厚生省、等々である。
日本が経済大国になっても豊かな生活を実感できないのは、これら無駄な部分に財源を奪われているせいである。さらに無駄を容認する社会への失望感が人間の心の豊かさまでも奪う結果になっている。この誰もが認める社会の無駄が改善しないのは、無駄が一部の人たちの利権になっているからである。美味しい利権に群がる越後屋とタダ酒や保身ばかりの代官とが悪知恵を出し合っているからである。
人間の考えることは今も昔も変わりはしない。経営倫理を失った営利中心の世の中では、すべての動機は損得勘定である。越後屋は代官をおだて、代官は将来の保証を見返りにコメの値段を上げようとする。新たな政策は新たな利権を生み、代官は法案を複雑にして一般人が容易に反対できない構造にしている。最近、規制緩和が叫ばれるのはこのような官民癒着を防止することが目的なのである。
製薬会社の役員名簿を見れば元厚生省役人がゴロゴロしている。もちろん特殊法人はほとんどが元厚生省役人で占められている。政治の大綱を決める審議会などは、省庁が人選を含んだ運営をしているので官僚の隠れミノ的存在に他ならない。もちろん審議会の委員は官僚OBとその仲間たちである。このように日本は国の隅々まで官僚に支配され、もはや日本の国は自由主義の国家とはよべない。官僚自由主義の国家になっている。
日本国の財政は補助金バラマキ政策により、地方を含めると700兆円の借金財政である。タヌキしか通らない林道の舗装工事、年に数回の利用しかない市民ホールの建設、議員たちの大尽遊びの公費旅行、このような無駄が積もり積もっての700兆円である。贅沢による財政難が医療財政を圧迫し、医療費抑制政策が病院の取り分を圧縮し、その結果多くの病院が赤字経営を余儀なくされている。さらに行政は日本の医療費を高すぎると国民を洗脳し、医療費高騰の罪を病院になすりつけ、医療費抑制政策を当然とする雰囲気を作り出している。これは情報操作を得意とする役人の悪知恵である。
国の政策は子供の治療費を値切る女郎屋通いの父親と同じである。お人好しの医師は、相手は貧乏人だからと自腹を切って治療をするが、遊び人の親は今日もこっそり吉原通いである。女郎や飲み食いに金を払っても、医療に金を払うつもりは毛頭なしである。とても悪い父親である。
厚生省は現在30兆円の医療費が10年後には68兆円に倍増すると宣伝している。そしてこのような嘘で固めた脅しをかけると同時に、医療費の自然増まで抑制するのだから歪みの生じないはずはない。育ち盛りの子供に小さな服を着せたまま我慢させているのと同じである。しわ寄せは子供と医療現場が負うことになる。とても、とても悪い親である。
日本の医療の元凶はこの医療費抑制政策であるが、医療現場に薄く、クスリ屋などの医療周辺に厚く医療費が配分されていることが問題である。日本の医療費の三割は病院を素通りして製薬会社に流れ、あるいは医療機器や検査会社へ流れ、そして病院には赤字だけが残る構造になっている。医師は患者を助けるつもりで医療周辺産業を太らすばかりとなっている。
日本の医療をクスリ漬けと人々は医師を非難するが、クスリの使用量は欧米とそれほどの差はない。問題なのはクスリの量ではなく値段なのである。クスリの副作用をあれこれ言うが、最大の副作用は高額な薬剤費である。もちろんこの高薬価によって製薬会社は儲け、そして医師の技術料は低く設定されたまま病院経営は危機的状態に陥っている。これが越後屋と代官が密室で設定した日本の医療のしくみである。
戦後、日本の産業界において倒産の経験がないのは製薬業界だけである。バブル後も経営利益率は二桁を維持し、その証拠に大手製薬会社はこの不況下に株価を上げている。その結果、医療周辺産業は儲かるという熱い視線が集まり、タバコやビール会社までもが医療に参入してきている。彼らの動機はもちろん国民の健康を害してきた罪滅ぼしではなく、単に儲かるからである。医療周辺にはビジネスチャンスとばかりに様々な業種が乱入し、貴重な医療財源の奪い合いを呈している。
国の医療への姿勢は消費税の仕組みを見てもよく分かる。国は消費税でひとり丸儲け、製薬会社や医療器具メーカーは消費税を値段に上乗せして影響なし。そして病院は消費税を患者に転化できずに損失を受けている。この構図を見ても、医療現場だけがいかに虐げられているかが分かる。
国が医療に介入するのは国民の生命と健康を守るためである。しかし今の国のやっていることは薬屋などの医療周辺産業を栄えさせるだけで、患者のための医療機関は痩せ衰えるばかりである。
まさに薬屋栄え医療滅びるである。
愚人か賢人か?
日本人は愚人か賢人か? このような質問を受けたら、あなたはどのように答えるであろうか。次に、あなたは愚人か賢人かと問われたら、果たしてどのように返答するであろうか。この回答はともかくとして、自分は賢く周囲は愚かと考えるのが現代人の本音である。
なぜ自らを上位に位置づけ、世間を見下す精神構造になったのだろうか。それはマスコミによる刷り込み効果の影響といえる。茶髪、ヘアヌード、援助交際、怪奇事件、さらには無節操な週刊誌、愚にもつかない街頭インタビューの内容、低俗なテレビ番組、このようなマスコミが作る愚かな映像が人々の脳裏に蓄積し、虚構の世界が現実の社会を押しやり、いつしか周囲を愚人に、反作用として自らを賢人と思い込ませることになったのである。
もちろん日本人は愚かではない。愚かに見えるのはマスコミが愚かな日本人像を作っているからである。もし違うと言うならば、あなたの知人を思い浮かべればよい。彼らのほとんどは常識人であり、愚人と呼べる者がいかに少ないかに気づくはずである。マスコミによるこの錯覚が現代人の深層心理を作っている。
もしテレビ局がNHKだけで、週刊誌が新聞系列だけであったならば、周囲を愚集団とする現象は起こりにくい。しかし同時に、娯楽性のないつまらない世界となるのも事実である。
テレビのスイッチを押せば、にこやかなホステスが飛び出し、ご機嫌を伺ってくる。そして優越感と自己満足の時間を与えてくれる。競争社会におけるストレスを癒し、夢を与えてくれる。まさに視聴者は王様気分となる。この視聴者の満足度が視聴率として現れてくる。
愚かな映像、と高所から批判しても、それは人々が無意識にそれを求めるからで、批判への支持は得られない。難しい話より笑える話のほうが面白いからである。尊敬よりは軽蔑が、偉人伝よりはスキャンダルが、人格よりは下半身が興味をそそるのである。他人の幸せよりは不幸のほうが甘い蜜となる。テレビを見て文句を言うのは、街頭で貰ったティッシュペーパーの質が悪いと怒っているのに似ている。
企業にとって視聴率は広告効率、民放にとっては総収入である。私たちは民間放送が広告料金だけで運営されていることを忘れている。文句を言うなら見ないこと、あるいは自分が金を出すことである。
人々はマスコミに良識を求めるが、漫画本を持たない出版社は倒産し、裸を載せない週刊誌は売り上げを低下させている。この現実を前に、彼らの志ばかりを問うのは酷である。
このマスコミの低俗化競争は民衆が求める無意識の要求であるが、低俗に接すると低俗が伝染するから恐ろしい。特に無垢な子供ほど伝染しやすい。その対策は、禁酒、禁煙と同様、親が見せないことだけである。
マスコミの低俗化は問題であるが、大人にとって問題は違う所にある。大人にとっては、むしろマスコミが偉そうなことを言い出すことが問題になる。
マスコミが政策に賛成、あるいは反対のキャンペーンを行えば、国民の意思は簡単に流される。そして無責任な情報操作により政策が決定されることになる。ニュースキャスターの批判的な言葉にうなずき、無意識のうちに評論家と肩を並べ、世の中を分かったつもりになる。マスコミの言葉を検証もなく信じてしまうのである。
マスコミが広い視野で日本の将来を考え、問題を提示するだけならかまわない。しかし視聴者におもねるマスコミは、泣き顔や笑い顔を意図的に作り、国民を感情的に扇動するのである。世論と言いながら世論を誘導するのがマスコミである。
マスコミは不偏不党、政治的公平をとなえるが、政治に対する影響力は大きい。第四の権力と呼ばれる由縁である。細川内閣誕生時に、「自民党の長期政権を崩壊させるため意図的に番組を作った」と公言した報道局長が解任されたことがその証拠といえる。
多くの人たちはこのマスコミの無責任な作為性を熟知している。しかし世間で耳にする日常会話の多くがマスコミの受け売りであることを、受け売りと気づかずに人々は話しているのである。そして度が過ぎると、まさにマインドコントロールとなる。
日本のテレビの広告総収入は3兆円である。新聞の総収入は2。5兆円で、6割が購読料4割が広告代金である。放送業界も新聞業界も広告がなければ成り立たない。逆を言えば、商業主義がマスメディアを牛耳っているといえる。経済界にとっては国民は愚かな方が都合がよい。何でも欲しがる愚集団の方が購買力を持つからである。
もし商業主義による愚人化現象を変えたければ、ひとつは不買運動による企業への圧力である、さらには企業と同様にマスコミを金銭で利用することである。
これまでの医師はマスコミに利用されるだけであった。これからは正しい医療を宣伝するため、必要な健康情報を提供するため、マスコミを利用する発想が必要である。
日本の総広告費はGDPの1%、7兆円と巨額であるが、日本の医療費30兆円に比べれば意外に小さな金額である。患者を治すだけでなく、ゆがんだ社会を正すことも医師の使命とするならば、マスコミを利用することも大きな手段のひとつである。
神々の遺産
アダムとイブが林檎をかじったことよりも人類にとって重大なことがある。原子爆弾を作ったことよりも、月に足跡を残したことよりも、人類にとって重要なことがある。それは1996年、クローン羊「ドリー」を誕生させたことである。
アダムとイブが子供を作って以来、人間の歴史は常に男女の営みによって受け継がれてきた。しかし現在、クローン技術により男女の営みとは関係なく1つの細胞から人間が生まれようとしている。同性愛者からも、未婚者からも、そして死者からも、人間の生命を自由に誕生させることが可能になった。この生命科学の勝利とも呼ぶべき技術が、人類最大の危機を導こうとしている。
DNAが遺伝子の本体と解明されてから、遺伝子工学は加速度的なスピードで進歩をとげている。ウイルスから人間に至るまで、生きとし生きる物の遺伝子配列が解読され、人間は神が創った生命の設計図を勝手に変えようとしている。患者の要望、不妊治療のため、人類のためと言いながら、踏んではいけない神の領域を人間は侵し始めている。
体細胞を卵子に組み込んだクローン羊「ドリー」の誕生は世界中を驚かした。そして驚きの中で、遺伝子工学はさらに勢いを増している。翌97年には人間の血液凝固因子を組み込んだクローン羊「ポリー」が誕生。ポリーの誕生は人間の構成蛋白を羊乳から大量に生産する技術の完成を意味している。インスリン産生大腸菌と同様、家畜にすぎなかった羊が薬物産生動物になったのである。同97年、日本においてクローン牛が誕生。クローン牛は現在数百頭をこえ、高品質の牛を大量に生産する実用段階に入っている。
クローン技術は臓器移植に関しても大きな成果を上げている。人間に移植をしても拒否反応を示さないクローン豚の開発。患者の体細胞から移植に必要な臓器のみを作るES細胞の開発。まさに臓器移植に革命が起きようとしている。脳死の議論を延々としている間に、生命科学は想像を越えたはるか高いレベルに達したのである。
クローン操作は危険性を指摘されながらマウス、サルと相次ぎ、中国ではパンダ増産計画が実施されている。また1999年、東京農大では人間の体細胞を牛の卵子へ移植し非難を浴びた。
クローン技術は人類に大きな夢を与えていることも事実である。シベリア凍土に眠るマンモスからDNAを抽出、マンモスを復活させることも可能になった。同様に、アインシュタインや夏目漱石の保存臓器から彼らのコピーを誕生させることも夢ではない。
遺伝子工学は身近な日常生活にまで迫ってきている。農業の分野では、農作物の生産性を上げるため、除草剤や害虫抵抗性の遺伝子を組み込んだ作物が開発され、すでに私たちの口に入っている。米国ではつい最近まで話題になっていた体外受精が年間3万件を越え、不妊治療として既成事実になっている。生物学的親、生みの親、育ての親の議論はもう遠い昔の話になった。もちろん日本でも相当数の体外受精が行われている。
このようにクローン技術が拡大し、遺伝子操作が日常的になった現在、生命科学の是非を問う議論がなおざりになっている。大腸菌にヒトのインスリンを合成させた頃までは、遺伝子操作の議論は十分になされていた。しかし生命科学の猛烈な競争は、議論する余裕を持たせないまま進行している。そして誰の目にも、遺伝子工学の恩恵よりは、危険性のほうがはるかに高い状態に達したのである。
脳死の議論にあれだけの時間をかけながら、クローン人間の議論は限られた話題でしかない。倫理規定はあっても罰則を設けないルールはないに等しい。生命科学に罰則規定を設け、科学者の暴走をどのように防ぐかが人類最大の課題である。
クローン人間を誕生させる可能性、遺伝子操作が未知のウイルスを誕生させる可能性、可能性のあることはいつか起きることである。そして1度起きれば取り返しのつかない事態になる。
科学者の倫理観を信じないわけではない。しかし数いる科学者の中には必ず間違いを犯す者が含まれている。原子爆弾のボタンを押せるのは世界で数人にすぎないが、人類の将来を破壊するスイッチを持つ科学者は何万人もいるのである。暴走する前に科学者の手からスイッチを奪い取ることである。科学者の動機は、どうせ好奇心、功名心、商業主義、これらを患者のためと言い換えた理屈にすぎない。
人間が他の動物と違うのは、意思と尊厳をもつことである。クローン人間が誕生した場合、人間の尊厳と人格をどのように位置づければよいのだろうか。この問題は時間をかけて議論しても解決はできない。それは神の領域だからである。禁じられたパンドラの箱は、理屈を言わず厳重に鍵をかけるべきである。クローン人間は夢の中の話で十分である。
神が創った生命という遺産に手を加えるべきではない。それは踏み込んではいけない神の領域だからである。世界遺産に人間の手を加えてはいけないように、神の遺産である人間の遺伝子に操作を加えるべきではない。クローン人間は議論の余地のない、当然の禁止事項である。
情報化時代の憂鬱
街に飢える者なく、銭湯には醜い脂肪の塊があふれている。人類を悩ましてきた飢餓の時代は去り、飽食の時代と呼ばれすでに久しい。この時代に栄養学は無用となり、ダイエットのみが必要となった。いかに食事を減らし痩せるかが現代人の課題であり、今どき栄養不足を嘆く者は妄想家のみである。
またこの数年、インターネットや携帯電話が急増し、情報化時代ともてはやされている。しかし情報も食事と同様、適切な質と量が大切である。悪い物を食べれば下痢をおこすように、歪んだ情報は精神の腐敗を招く。また過度の情報は精神の衰弱を導くことになる。過食が健康を害するように情報過多が健全な精神をもたらすことはない。情報過食症が新たな弊害になろうとしている。
私たちが情報化時代に過度の期待を抱くのは、湾岸戦争におけるテレビ生中継の影響が大きい。情報の即時性と一般共有化への期待である。また薬害エイズに象徴される「官僚の恣意的な情報隠し」からの解放も期待に花をそえた。権力が独占していた情報が公開され、これを「情報の民主化」とバラ色に受け止めたのである。情報が増えれば生活がより知的に、社会が豊かになると思い込んだのである。しかし実際にはどうであろうか。情報化時代は人々の期待とは裏腹に荒涼とした灰色の世界をもたらそうとしている。
それは「情報を持つ者が情報を持たない者より優位に立つ」という政治家や商売人のための戦略的な情報の概念を、一般人までもが自分に当てはめようとしているからである。この言葉が引き起こす情報不安症がすべての間違いのもとである。
情報に乗り遅れまいとする強迫観念が平穏な日々に侵入し、日常生活を撹乱させている。携帯電話を離さず、コンピュータのスイッチを切らず、顧客名簿のごとき住所録を作る。これらは商売人のまねから始まった。1億総ビジネスマン、1億総手配師気分である。情報が多ければ選択の幅が広がるという妄想が人々を情報の前に縛り付けている。しかし実際には、比較する物が多ければ判断はにぶり、交錯する情報に混乱するばかりとなる。一般人にとって他人より優位に立つ情報などほとんどないにも関わらず、優位な情報を求めようとするのである。
かつての母親は知識はなくても知恵があった。今の母親は知識があっても知恵も常識もない。子育ての本を探し、胎児教育、英才教育、子供の才能は3歳までという情報に振り回され、親子そろってノイローゼとなる。「子供の才能は親の遺伝子に拘束される」という真の情報を知らず、親心を狙った業者のニセ情報に騙され金をせしめられている。これが情報化時代の撹乱である。多くの人たちは情報を利用しようとして、むしろ情報に利用され、しかもそのことに気づいていない。
医療に関しても多くの情報が街にあふれ、本屋に行けば健康雑誌が並び、病気やクスリの解説本、学会名簿を写した名医案内本が幅をきかせている。そして医療情報の量に比例して生かじりの誤解が増加し、医療不信が増える結果となっている。医療の分野においてこうならば、他の分野においてもおして知るべしである。
情報化時代は人間の心にも変化をもたらしている。かつての若者は恋文に精魂をこめ、恋愛が成就しなくても、自らの精神の高まりを得ていた。これが時代とともに恋文は電話となり、E-mailとなり、便利になったが精神の高揚を失った。恋愛はマニュアル化され心の機微を失った。相手の趣味や誕生日を入力しても、瞳の奧にひそむ言葉を探ろうとしない。気分が乗らなければリセットボタンを押すだけである。人間関係は即物的となり深みを失った。仲間意識はあっても、仲間外れを恐れる表面的な絆である。仲間の数を誇っても友情は希釈化している。人間の精神を充実させるための情報が人間性を崩壊させている。
若者は世界の情報を集めるが、世界へ飛び出す気概を持たない。新たなものを創造する気力を持たない。彼らが自慢するのは買い物情報、スキャンダル情報、イベント情報にすぎず、かつての若者が持っていた瞳の輝きを失っている。
情報化時代はこれまでの工業化社会を飛躍的に発展させると期待されている。しかし多くの情報は役に立たず、まさに情報公害を引き起こそうとしている。インターネットは電子チラシの巨大なゴミ箱にすぎず、ゴミ同然の情報を集めてもゴミの量を増やすだけ、情報オタクを増やすだけである。
情報が増えても知恵とはならず、むしろ情報と知恵、情報と情は逆比例の関係に近い。情報と引き換えに失ったものが大きいのである。この情報化時代を平穏に生きていくには、まず雑多な情報に振り回されないことである。
かつて「テレビを見すぎると馬鹿になる」という言葉が日常生活の中にあった。昭和31年、大宅壮一はテレビ時代を前に「1億総白痴化」という言葉を流行させた。もし大宅壮一が生きていれば、今日の情報化時代をなんと表現するであろうか。「1億総脳死状態」と言われないように、情報に流されず自分を見つめる余裕がまず必要である。
知識人の罪
有識者、見識者、知識人、文化人、賢人会議、このような言葉を聞くたびに気恥ずかしい思いに駆られるのは何故だろうか。それはこのように称せられる人たちの多くが、この名称に相応しい知性と真面目さを欠いているからである。彼らはもっともらしい言葉でその場を飾りつけるが、それは飾る技術であって本質を見抜く知力ではない。また発言に責任を持たない点においても不真面目かつ恥を知らない。
政府の審議会、新聞の論説、テレビの解説、様々な分野に自称知識人が登場するが、彼らは知性ゆえに選ばれたわけではない。彼らを登場させる行政やマスコミにとって都合が良いから選ばれたにすぎない。行政の提灯持ち、マスコミの広告塔として彼らは利用されている。
体制側、反体制側、いずれの知識人であれ、彼らは行政権力やマスコミ権力への迎合と追従ばかりである。体制側の知識人はたとえ政策が不合理であってもそれを支持し、反体制側の知識人は説明を聞く前から反対を表明する。この二つの力は「赤子の手を両方から引っ張る」ように日本をダメにした。もちろん良識ある知識人も多数存在するが、彼らは発言する力と場を与えられていない。
知識人は突飛なことを言うが、責任ある考えを示さない。保身のための発言、本音を言わない形式論、裏を知りながら善人を演じ、不正を知りなが正義面をする。世間を欺き、世間に媚び、世間の陰に怯え、そして行政とマスコミの顔色ばかりをうかがっている。知識人の責任は、知性によって日本国をリードすることであるが、彼らがそれを演じたことはかつてない。むしろ日本のミスリーダーの旗振りとなっている。日本を良くすべき知識人が日本と日本人を悪くしている。
医療に関しても、素人の評論家がしたり顔で批判を繰り返すが、彼らの発言は表層思考、トンチンカンな考えばかりである。そして何よりも、彼らは医療や医師の悪口に終始する。評論家は相手の悪口を言えば自分の地位が高まり、相手をほめれば逆に低下することを知っている。だから相手を良く言わない。悪口ばかりである。悪口ばかりの世の中では、全体が悪い方向へ向かうのも当然である。
彼らはヒステリックに言葉を荒立てるが、それは周囲の目を意識したポーズである。しかしこの堂々としたポーズにより、彼らの発言は世の矛盾を正す正論と誤解されることになる。
一般庶民にとって、知識人の発言に疑問を感じても、それを問う相手もいなければ時間もない。一方的に受け入れるだけである。そのため知識人の発言に扇動された一般人は、漠然とした不満と神経衰弱をきたすことになる。いかに評論家がいい加減なことを述べてきたかは、数年前の新聞や週刊誌を読めば分かることである。
世の中には様々な問題がある。しかし物事の本質は極めて単純である。歴史の教科書を読めば、どの事件、どの政策でも、その本質は数行の言葉で説明されている。現在、様々な問題について一般庶民が理解できないのは、打算を含んだ問題を純粋な議論のようにすり替えているからである。政治家や評論家は「日本国全体の利益」を口に出すが、それは彼ら自身の利益を主張する場合の枕詞にすぎない。
問題が複雑に見えるのは、物事を複雑にしているからで、複雑にしているのが知識人である。世の中にある様々な問題を解決するには、問題を単純化させることが必要である。多くの人たちの利害が絡んでいる問題は、彼らの理屈を排除することが必要である。
日本の政治において多数決の原理は機能していない。また少数意見も尊重されていない。文句を言う者、利害関係を主張する者、既得権にしがみつく者、彼らに対する調整テクニックが政治になっている。政治家や官僚は利害の調節が主な仕事となり、汚れた手で理念を唱えても何ら良き政策は生じない。日本の良き監視人となるべき評論家は批判、悪口という職業病におかされたまま、日本の足を引っ張っている。
日本のオピニオンリーダーがこのような迷走状態にあるが、日本人の多くはまだ良識を持っている。理屈は言えなくても善悪を知り、知識はなくても常識を持ち、学歴はなくてもスジを通すことを知っている。
落語に登場する熊や八、ご隠居のような庶民こそが、日本人の良識を代表する人たちである。熊や八の抱く素直な疑問、ご隠居の的確な解説。世の中が複雑になっても、熊や八に理解できないものはない、ご隠居に説明できないものはないのである。問題の解決にはご隠居レベルの多少の知識、熊や八の良識的直感があれば、理屈などは聞くだけ害である。およそ庶民が理解できないものは、間違ったこと、あるいは議論に値しないものである。
熊や八のような純朴な人々、ご隠居のような当たり前の人々。このような日本人が以前に比べ次第に少なくなっている。良識ある日本人が、悪意ある知識人のテクニックを真似、知識人の傲慢さを真似、人間を悪くしている。これもまた知識人がもたらした害である。
知的破壊、知的傲慢、知的怠慢ばかりで、知識人は知的な誠実さ、知的な真面目さを持たないでいる。
現代の魔女狩り
差別用語というものがある。これは社会的弱者に対する偏見を助長し人間の可能性を否定する言葉として使用が制限されている。この差別用語については基本的人権に関する教育や法律の整備によりある程度の使用制限がなされ、また弱者に対する差別を悪とする考えが理解しやすいため、差別用語に反対する者はいない。
身体的差別、男女差別、人種差別などは、これらを意識しても口に出すことは少なくなった。しかし弱者に対する差別とは別に、私たちはあらゆる人や職業に対し正のイメージで相手を批判する特性を持っていることに気づいていない。この特性から生じるもっともらしい批判が、得てして問題解決の障害になるのである。
他人を評価する場合、自分が抱く理想的イメージを尺度に相手を批判することがある。この正のイメージによる差別は社会的にまだ認知されていないだけに問題である。
妻は妻らしく、夫は夫らしく、子供は子供らしくという言葉がある。これはそれを理想とする者にとっては当然の概念であるが、当事者にとっては余計なことである。男は男らしく、女は女らしくの言葉も同様に、自分のイメージを相手に押しつける身勝手な考えである。
自分の妻・夫が、理想とする伴侶像と違う場合、我慢するか我慢できずに離婚となる。離婚の原因の多くは相手の現実を認めず、架空の伴侶像が正しいと固守することにある。そしてイメージを批判せず現実を批判する。相手は何も変わらないのに裏切られたと勝手に憤慨し悲劇が生じることになる。しかも過度の期待が過度とは意識されず、ごく常識的な考えと思い込むため争点はすれ違いのままとなる。
個々の人間はそれぞれが独立した存在で、互いに違う考えを持っていることを忘れている。相手への理想が高いほど、相手への期待が強いほど、あつれきが生じることになる。
個々の人間はそう変わるものではない。立場により表面上変わったように見えるだけである。職業意識という言葉があるが、職業によって人間の本性が変わるはずはない。立場によって人間が変わるのではなく、立場に合わせ人間が無理をしているのである。しかし世間はこの現実を許さない。教師は教師らしく、医師は医師らしくである。
学校の教師が犯罪を犯すと大きなニュースになる。そして教育者が何たることかと批判が集中する。批判は当たり前だが、教師を必要以上に批判するのは聖職のイメージとの隔たりに驚き憤慨しているからである。犯罪を犯した学校の先生は普段評判の良いことが多いが、これは教師として表面を装っても、教師もひとりの人間であることを表している。
医師についても、一般人の思い込みが激しい。医師は人間愛に満ち、患者のために自己を犠牲にして尽くさなければいけない。このような善のイメージに加え、医師は傲慢で非人間的、権威を振りかざし金権主義との悪のイメージがある。一般人にとってこの二つのイメージが交錯し、何か不都合が起きると二つのイメージが相乗効果を起こし、一般人のみならず社会全体が切れてしまうことになる。
医療事故が起きるたび、「医師は患者に対する思いやりがない」との言葉で批判される。社会全体がこのように医師を見るのである。そして事故の真の原因を追及せず、社会全体が医師をバッシングする。さらに権威者と称する者が、世間の先頭に立ちバッシングを煽り立てる。これが看護婦の場合は、看護婦は人間愛に満ち医師に虐げられているイメージがあるので世間からの批判は少ない。
医師も人間である、事故を減らす努力は当然であるが、人間である以上間違いもあれば落とし穴もある。人間は事故を起こす存在と考え、その対策を図るべきで、医師にだけ責任を押しつけ安心してはいけない。
現在、ひとたび医療事故が起きると、事故に学ぼうとする姿勢よりも、むしろ犯人探しの興味だけで終わることが多い。このような魔女狩り的発想では事故を減らすことはできない。地下に潜るだけである。なぜ事故が起きたのか、その本質を探る冷静な姿勢が必要である。医療事故が起きるたびに医師を血祭りに上げ、事故を減らすにはあらゆる事故の報告が必要という。しかし事故のたびに血祭りに上げられる羊としては、誰が好んで祭壇に上がろうとするだろうか。問題解決には問題を共有することである。
医療事故が多忙によるミスならば、問題の本質は院長が頭を下げることではない。医師や看護婦の多忙を主張し医療従事者の良好な心身状態をつくりあげることである。そのためにコストが必要ならばコストを主張することである。安全に対するコストを考えず、医師だけに責任を押しつける発想では何ら解決には結びつかない。
日本の夜間診療は、医師がふらふらの中で行っているのを一般人は知らないでいる。誰も知らないから待遇は改善されず、また事故も減らない。
架空につくられたイメージに基づき他者が相手を批判する行為を差別と呼ぶならば、医師を始めとした期待度の高い職業人も正の差別を受けている。そしてこの差別に基づく魔女狩り的集団ヒステリーが物事の解決を歪めてしまうことが問題である。そろそろ目を醒ます時であろう。
間違いだらけの医療用語集
気象衛星ひまわりが雲の状態をリアルに伝え、地域気象観測システム(アメダス)が全国840カ所のデータを瞬時に集めるようになり、ようやく天気予報は正確さを増してきた。しかしそれでも外れることがある。降水確率が0%でも大雨に降られることは珍しいことではない。
天気予報は確率の世界である。コンピューターを駆使して降水確率を予測しても、ある確率で予報は外れるものである。予報は予測にすぎず、100%正確な予測などあり得ない話である。
しかし、もし予報官の天気予報を報道機関が間違って伝えた場合にはどうなるであろうか。これは予報ではなく誤報であるから、野球場の弁当屋から訴えられても不思議ではない。このように予報と誤報とは言葉の意味に大きな違いがある。
医療における診断は天気予報と同様に確率の世界である。患者の訴え、身体所見、検査結果、これらの情報を駆使して診断しても、これは予測であるから当然外れることがある。鑑別診断を考慮しても、結果的に診断が違っていれば、予測違いと言わずに誤診となる。不可抗力の見込み違いでも誤診と表現される。
風邪と診断した患者が肺炎であることは珍しいことではない。患者の話を聞いても、心窩部痛の心筋梗塞もあれば、胸痛だけの胃潰瘍もある。また病歴を聞くだけで白血病と診断できる医師など世の中に存在しない。天気予報が外れるように、途中で診断が変わっても何ら不思議なことではない。見込み違いと誤診とはまったく違う意味であるが、医療においては予測が外れれば誤診と言われてしまう。
昭和38年、沖中重雄東大教授は退官講演で誤診率14。2%と発表し世間を驚かせた。人々は誤診率の高さに、医師は誤診率の低さに驚いたのである。この両者の驚きの違いは誤診という言葉がいかに誤解を招いているかを表している。不可抗力の予測違いを医師が自戒をこめて誤診と呼ぶのを、人々は単なるミスあるいは医師の未熟に基づく悪い結果と受け止めるのである。
人々は医療が天気予報と同じ確率の世界であることを知らない。そして誤診を誤報と同じ様に悪い意味に受け止めている。このように誤診という言葉の使い方が両者で違っている。
大病院で医療ミスが重なれば、一般病院ではさらにミスが多いと思うであろう。医療ミスが頻発すれば、誤診もまた同様と当然思うであろう。このことから結果的に不利益が生じた場合、すべてが誤診との疑いが向けられることになる。一般人にとって病気の不確実性は頭になく、結果が悪ければすべてを悪く判断することになる。もともと「誤」は誤りであるから、誤診は誤解を受ける表現である。
不正請求も言葉の使われ方に問題がある。不正請求とはレセプトの審査員が不正と判断したものを不正と呼んでいるだけで、人々が日常使用する不正の意味とは違っている。
大学教授の解答を小学生が点数をつけているような、カナヅチのコーチが水泳選手を指導しているような、不思議な世界である。アマがプロを指導し、従わない者を不正と呼んでいるにすぎない。フルブライトで留学し、40過ぎまで大学で勉強した者が事務員に叱られる光景を不正請求という。不正という言葉が不正に使用され、しかも堂々と市民権を得てしまっている。
人々はその実状を知らず、患者のための行為を医師による不法行為とみなしている。この言葉の間違いを誰も指摘しないから、国民はその現実を知らないでいる。信頼関係で成り立つ医療にとってこれほど悪い影響を及ぼす言葉はない。
厚生省の見解では、減点審査の患者負担分は民法の不当利得返還請求権に基づき病院が患者の返済請求に応じるべきとしている。
何と言うことであろうか。これは国家のために命をささげた者を売国奴と罵るのに似ている。不正とレッテルを貼られた者や売国奴と言われた者の悔しさを人々は知らないであろう。悪意ある宣伝に乗せられ、善が悪と罵られるのを国民は知らないでいる。
不正という言葉はすべて悪い意味で使われている。この悪意ある宣伝用語をやめさせることである。脱税企業でさえ税務署との見解の相違という表現を用いている。クリントンはホワイトハウスの不純行為を不適切な行為と言った。医療においては患者のための善意ある行為を不正と言うのだから、これはひどい言葉である。「不正請求」を「不正支払い拒否」と最初に叫ばなかった医師の負けである。
言葉は大切に使うべきである。誤解を招くような言葉を使わせるべきではない。各医学学会では医学用語の適正を検討する部会がある。赤沈と血沈、胸部X線と胸部レントゲン、このような言葉の使い方を議論しているならば、誤診や不正請求などの言葉を早く取りやめさせることである。
他人のための善意ある行為を不正と呼ぶ国に未来はない。もちろん医師の行為がすべて性善説から来ているとしての話ではあるが。
ふたりの喜助
森鴎外外の小説「高瀬舟」は病気で自殺を図った弟にとどめを刺し、遠島流刑となった喜助の心情を同心の目を通して語ったものである。弟を死に至らしめた喜助に罪の意識はなく、流刑の罰に悔恨の念を感じさせない、妙に爽やかな小説である。
もし私たちが喜助の立場に置かれたら、どのような行動をとるであろうか。人情に従い喜助と同じ行動をとれば、人間として許されても法律からは罰せられることになる。従来の法律は患者を苦しませ放置することを命じ、患者に手を差し伸べることを殺人としている。しかし人情はそれを良しとしない。このように人情と法律には相入れぬ差違が存在する。
人間社会を守るための刑法の目的は、被害者に代わり加害者に制裁を加えることである。また見せしめの刑罰を与え犯罪を予防することである。喜助の流刑に違和感を覚えるのは、喜助への刑罰がこの刑法の理念からかけ離れ、またこの小説が妙に爽やかなのは人間の情に従った喜助がそれを後悔していないからである。
安楽死に加害者も被害者も存在しない。加害者と被害者のいないところに、犯罪が存在するのだろうか。法律になじまない人情を法律で裁くことに無理がある。
老婆はポックリ往きたいと言う。早く迎えがくればよいと言う。死は怖くはないが、痛いのはいやだと訴える。医師の使命は患者の望むことを行うことであるが、老婆の心情に反し濃厚治療で満足しているのが現在の医療である。老婆がどれほど苦しんでも、面倒に巻き込まれたくない医師の心理が老婆の尊厳を無視することになる。
東海大附属病院の塩化カリウム事件、国保京北病院の筋弛緩剤事件、これらの安楽死事件を振り返るたびに、2人の医師を擁護する医師が1人もいなかったことが不思議でならない。この事件でだれが被害者だったのか。加害者とされた医師が最も大きな被害者だったのである。
この事件でコメントを求められた医師の多くは、カリウム、筋弛緩剤を用いた積極的安楽死に異論をのべた。そしてそれが鎮痛剤などの消極的方法であったならばと理屈を言った。心の中で「もっと上手くやれば良かったのに」と喜助の不手際の悪さに同情しながらも、外に向かってはしたり顔のコメントをのべた。しかし積極的安楽死と消極的安楽死とに、倫理上、道徳上の違いがあると言うのだろうか。それは形式上の違いだけである。
マスコミは安楽死の過去の判例を並べ、世の見識者はその定義に一致しないから喜助を違法と責めた。法律的にも人間的にも2人の喜助を犯罪者とした。しかしその場にいない者が喜助の心情をどれだけ理解できたであろうか。マスコミが伝える喜助の心情脚本など信じるほうが浅はかである。
この問題に最も冷静な判断を下したのは、私たちのような傍観者の医師ではなかった。法律学者でも、裁判官でも、マスコミでもなかった。それはひとりの検事であったと想像している。
京都地検は殺人容疑で書類送検された京北病院前院長について、「死因は進行性がんによる多臓器不全。投与された弛緩剤は致死量に達せず、死亡との因果関係は認められない」とした。京都地検はこの事件を嫌疑不十分で不起訴処分とし、裁判で決着することを断念したのである。
この検事の判断は、文字通り証拠不十分で立件を断念したと受け止めるよりは、証拠不十分を理由に安楽死を法律で裁くことを回避したと考えられる。まさに大人の判断、人間の知恵である。この地検の判断によりこの事件は決着をみたが、異を唱える者がいなかったことがまさに英断と評価するところである。
人間の情、愛、倫理、道徳、宗教は法律より優先されるべき部分がある。人間社会のすべてを法律の網で覆うことは、人間のあるべき姿を失わせることになりかねない。このことを京都地検は考えたのであろう。
現在の医療は、何本ものクダを入れ死んだ者を生かし続けることができる。遺体に呼吸をさせ、心臓を動かすことができる。このような医療技術の進歩の中で、人情を理解しない法律が医療を機械的医療に追いやる恐れがある。
死は敗北との考えもあるだろう。最後まで全力を尽くすという考えもあるだろう。しかし国民の8割以上が安楽死・尊厳死を受け入れている常識的世論を忘れてはいけない。そして生命維持装置を使用するのも、そのスイッチを切れるのも医師しかいない現実を忘れてはいけない。
安楽死の定義を裁判所が明示しても、2人の喜助を傍観した医師たちは法的責任に関わりたくないと思うのが自然である。そしてそのことが冷たい医療、非人情的医療、機械的医療に移行させる可能性が危惧される。
法的責任を恐れ、苦しむ者に何もしない医療を全人的医療と呼ぶことはできない。また人情を理解しない社会を法治国家と誇ることもできない。ここに人情を拘束する法律の副作用を感じるのである。
天国の中の不幸
天国にいる者は、天国以外の場所を知らないので天国の良さが分からない。地獄にいる者は、地獄以外の場所を知らないので地獄の苦しみが分からない。天国にいる者も、地獄にいる者も、ほかを知らなければ自分の幸・不幸を測ることはできない。
全員が貧しかった時代には貧しさを不幸とは思わなかった。交通の便が悪くても、当たり前と思えば苦にはならなかった。冬はこたつに入り、夏は風鈴で涼をとり、春夏秋冬の風を受けながら青年は遠い世界を夢見ていた。冒険小説に胸を躍らせ、恋愛小説に心を熱くさせ、まだ見ぬロマンに胸を膨らましていた。物質的に貧しくても心は豊かだった。生きるための目的が明確で、しかも未来への希望に溢れていた。
生活の快適性だけを比べれば、今の生活は以前よりはるかに快適である。凍えるような寒さ、貧しい食事、衛生環境の悪さ、あのような生活レベルに戻すことはできない。
まさに今の生活は天国そのものである。休日は倍になり、大半が携帯電話を持ち、ウォークマンで音楽に浸り、海外旅行も日常生活の一部になった。冬は暖房、夏は冷房、食卓にはかつての正月よりも豪華な料理が並び、毎日が宮廷生活のごとくである。しかし、だからと言って今の人たちが幸せとは限らない。幸福度を比較すれば、昔の人たちの方が今よりも幸福だったと思えるのである。
いつの頃からであろうか、重苦しい雰囲気が世間を覆うようになった。年末恒例のアンケート調査では「来年は今年より悪くなる」という予想が毎年のように繰り返され、そして「昔は良かった」とかつてを懐かしむ声をよく耳にする。これは単なる年長者のノスタルジーではなく、以前の人たちのほうが今よりも幸福度が高かったからであろう。現在、このように贅沢な生活の中で、幸福をあまり実感できないのは、幸福感は他との比較による相対的感覚だからである。では、何が私たちの幸福度を低下させたのだろうか。
歴史を振り返ると、以前は生きることの意味が単純であった。江戸時代は士農工商の身分制度の枠の中で生きていればよかった。明治時代からはお国の為、立身出世が生きる目的になった。そして終戦からバブルまでは何も考えず、ただがむしゃらに働くだけでよかった。命じられるままに、あるいは模範となる手本通りに生きていればよかった。その意味では生きることが楽な時代だったといえる。思い悩む必要がなかったからである。
しかし現在に至り、命じられてきた生き方が、選択の自由とともに方向性を失い、あれやこれやと迷いが生じるようになった。選択肢が複数になり、余計な悩みや不安が増加したのである。「お好きなように」と言われても選択の自由ほど面倒くさいものはない。これは自由を得たことによる不幸である。
さらに時代とともに価値観が変化し、私たちは「心の支えを次々に失う」という思いがけない不幸を経験することになった。
日本という国家意識は軍国主義のイメージとともに遠くに追いやられ、欧米に追いつけ追い越せの目標はバブルとともに消失してしまった。立身出世の夢は政官財トップの不祥事とともにかすみ、宗教はオウムとともに崇高性を失い、さらにイデオロギーはソ連の崩壊とともに希薄となった。信じてきた価値観がひっくり返り、精神を支えてきた大きな支柱を次々に失ったのである。科学技術の進歩がユートピアを作るという理想も、生活レベルの向上が幸福につながるという考えも空虚となった。それまで信じてきたものが幻想となり、この幻想から醒めてしまった不幸である。
表面をチャラチャラ飾るブランド品が心のプライドを追いやり、家族団欒の時間は主婦のパートにより崩壊し、贅沢のために大切なものを失った。人々を支えてきた概念は次々に変化し、愛という言葉さえも商品化されその意味を変色させている。
個人主義が過度にもてはやされ、その結果として全体主義が自分主義となり、利他主義から利己主義へと心の構造が変化した。そして好き勝手な生活が可能になったが、そのために見苦しい生き方、怠惰な生活が目立つようになった。これは民主主義が個人レベルまで浸透したことによる不幸といえる。
民主主義がしだいに完成に向かい、民衆は主権を得ると同時に、1人ひとりが王様同様の気分を味わえるようになった。そして欲望ばかりが強くなり、他との比較ばかりを気にするようになった。終わりのない欲望による不幸である。
現在の社会は天国と呼べるほど快適な環境の中にある。しかし快適にはなったが、このような新たな不幸が私たちを待ち構えていた。
多くの人たちは他人との僅かばかりの差異に悩み、我が儘同然の不満を持ち、そして先の見えない変化に漠然とした不安を抱いている。
これを「天国の中の不幸な時代」と呼べばよいのだろうか。
国民病としての健康不安
医師が扱う疾患は悪性腫瘍、感染症、脳卒中などの重篤なものから、風邪、便秘、水虫などの軽微なものまでさまざまである。患者を悩ますこれらの疾患に対し、医師は患者を癒し患者の苦しみを取り除くことを使命としてきた。しかしこの医師の思い入れとは反対に、愛にあふれた医師の使命感が新たな疾患を作ろうとしている。それはかつて医学書に記載されたことのない「健康不安病」という新たな疾患である。
日本人の過半数がこの疾患に罹患しており、健康不安病は治療を要する通常の患者よりもはるかに多い状態にある。その病因には部分的ではあるが医師の関与があるので、疾病分類では医原病となる。しかも医師の関与だけでなく厚生行政を含めた社会全体がその原因になるので社会的医原病と呼ぶにふさわしい。
医原病とは医療行為が患者に不利益をたらすことであるが、健康不安病は社会全体の善意が原因になるので、その不利益がわかりにくいことが特徴である。健康を煽り立て、それを糧とする健康食品、健康器具、スポーツクラブなどの健康産業もこの疾患の大きな要因になっている。健康不安病は社会全体が生みだした疾患といえる。
経済が安定し、国民皆保険となり、日本ではだれもが適切な医療を受けられるようになった。衛生環境が整い、伝染病の脅威が薄れ、生活習慣病が国民的疾患となった。そして病気は予防するもの、健康は作るものとの考えが一般的となった。
この段階においては、健康への考え方は健全であった。しかし健康が人々の願いの第1位となり、テレビ、新聞、雑誌などのメディアがこの健康欲望に便乗するようになり問題が生じてきた。過剰な健康情報が、過熱した健康神話が、健康不安を逆に引き起こす結果となったのである。
健康に必要なことは、禁煙、禁欲、摂生など数行の標語で十分である。これ以上は必要ではない。しかし数行の標語ではメディアは商売にならないので、親切そうな素振りで情報を過度に修飾し混乱を引き起こしている。
過剰な健康情報が健康をもたらすことはない。それは間違った情報、無意味な情報、健康願望に便乗した商売が数多く混在しているからである。医師がマスコミで病気について解説しても、行政が健康事業に取り組んでも、その期待とは裏腹に健康不安を増加させるばかりである。健康を与えるべき情報が、皮肉にも健康不安の原因となっている。
人々の健康不安はつきることはない。そして健康を求める群衆心理が、これまでの定期的な健康ブームを作ってきた。「紅茶キノコ」から「抗菌グッズ」に至るまで、健康ブームは繰り返され、絶えることはない。
現代人は自分が健康かどうか分からない不安を常に抱いている。そしてその解決法として人間ドックを利用しようとする。しかし人間ドックが彼らの健康不安を解決させることは少ない。健康を確かめるための人間ドックでは、異常なしと言われるのは全体の2割弱、残りの8割強の人たちは何らかの異常を指摘される。また正常と言われた人たちも、調べた範囲の中での正常であるから何ら健康を保証するものではない。
早期発見、早期治療との宣伝により検診・人間ドック産業は成り立っているが、その有効性は明確にはされていない。明確なのは健康不安によって年間7000億円もの金額が検診・人間ドック産業を潤していることである。
日本の医療の特徴は医療機関と国民との垣根が低く設定されていることである。この医療システムは、素晴らしいシステムゆえに注意を必要とする。健康不安によりちょっとした身体の不都合でも国民は医療機関を受診するからである。そしてこのような人たちに対し、医師は優しさゆえに検査を行いクスリを処方しかねないのである。
日本における人口当たりの外来患者数と入院患者数は、両者ともに欧米の約2倍の数である。この2倍の患者数を長寿国日本の要因と自慢すべきか、病人大国と悲しむべきか。その評価は個人に任せるとして、患者によって成り立つ医療機関が病人を作っているとの批判が聞こえてくる。
医療情報が健康への意識を高め、病気の予防に本当に役立っているならば素晴らしいことである。しかし医療産業の善意が治療の必要のない病人を増やしている可能性を否定することはできない。
学問が社会に通用しないように、医学上の真理と人間社会における真理は別次元のことである。コレステロールの基準値を220mg/dlとすることも、糖尿病の血糖値を126mg/dlとすることも、血圧を140mmHg以下とすることも医学的には正しいことである。しかしこの基準値を人間社会に当てはめた場合、正しい結果をもたらすとは限らない。人間社会においては「善が時として悪をなす」ことがある。学会が作る基準値を不安材料に、それに便乗し、それを悪用する者がいるからである。学会のお墨付きは健康不安という社会的医原病を増やす恐れが大きいのである。
善意の仮面を被りながら、この社会的医原病は国民全体の生活の質を落とし、医療財源の悪化をまねきかねない。健康不安は現代の国民病といえる。
ジョークで迎えよう21世紀
外人が講演をする場合、ジョークをかませてから本題に入ることが多い。いつもはニコリともしたことのない仏頂面のお偉方は、なぜか外人のつまらないジョークになると身体を震わせほどの大袈裟な反応を示す。いっぽう英語の不得意な私ども聴衆は、ジョークの意味がわからず下を向きながらひきつった笑いをつくるのが精一杯となる。緊張を取るためのジョークが、むしろ、針のムシロ状態となる。英語のジョークに私的な恨みを持つ筆者は、今回、21世紀を記念して逆襲のジョークに挑戦する。
内科でジョーク
■ 神経内科学会で脳血管障害が激減した原因についてお偉方による議論がなされていた。廊下で議論を聞いていた製薬会社の営業マンは、「脳卒中が激減したのは血圧のクスリが良くなったせいだよ」と鼻で笑った。そばで聞いていた掃除のおばさんは「暖房がよくなったせいだわ」と軽くつぶやいた。
■ 重症感染症に罹患した男がいよいよ末期状態となった。病室で妻や親戚に囲まれていた夫に妻はいった。
「最後だから、あなたの愛人を呼びましょうか」男は、最後の力を振り絞って答えた。
「それだけはやめてくれ、病気がうつったらどうするんだ」
■ 末期癌患者を前に、看護婦は神父さんを呼びましょうかと尋ねた。
「神父もお坊さんも必要ありません、どうせ2、3日で彼らの親分と話ができるのだから」と患者は答えた。
■ 医師から処方されたクスリによって劇的な改善を得た患者が、喜びいさんで診察室に入ってきた。
「先生、あのクスリは良く効きました。また同じクスリをもらえませんか」
「あなたにあのクスリを処方することはできません。あのクスリは間違って処方されたクスリです」
■ 高血圧で通院中の患者が検診で肺癌と診断された。
「先生あんまりじゃないですか、何のために10年も真面目に通院したというのですか」
患者のクレームに医師は沈痛な表情を浮かべながら次のように答えた。
「病院に通っているから、他の病気にならないという保証はありません。私も、毎日顔を合わせていた妻を先日癌で亡くしたばかりです」
■ カンファランスに転移性肺癌の症例が呈示された。議論を重ねた結果、いつものように癌の原発部位を徹底的に精査することになった。そして最後に教授の同意を仰ぐことになった。教授の発言は医局員の予想とは異なり、「何もせず、患者を家へ帰しましょう」と弱々しいものであった。教授が自宅で亡くなったのはそれから2カ月後のことであった。
■ 癌病棟の大部屋に、職業の違う患者が入院していた。そして、それぞれ自分の最も希望することを喋り出した。
「一度でいいから、ピストルを撃ってみたい」と患者の警察官はいった。
「朝は納豆、昼はざるそば、夕は寿司を死ぬほど食べてみたい」と患者のフランス料理人はいった。
「札束を思いっきり破ってみたい」と患者の銀行員はいった。
「望むものは何もない、検査だけは拒否したい」と患者の医者はいった。
■ 改築したばかりの病院では、改築を機会に全面禁煙が約束事になった。ある日、3人の研修医が医局でタバコを吸っているのを運悪く院長に見つかってしまった。院長室に呼ばれた研修医は院長の詰問にこのように答えた。
「禁煙とは知らなかったもので、すみませんでした」
「禁煙を忘れてしまって、申し訳ありませんでした」
「ドアに鍵を掛けるのを忘れてしまいました。すみません」
疫学でジョーク
■ 美人になる源水が山奥で売られていた。訪ねてみると、美人とはほど遠い女性が源水を売っていた。
健康になる源水が山奥で売られていた。訪ねてみると、顔色の悪い男性が源水を売っていた。
■ プリオン病の調査隊がニューギニアで疫学調査を行った。その際、調査員の一人が運悪く人喰い人種に捕まり釜ゆでとなった。湯がしだいに熱くなっていった。しかし調査員はなぜか苦笑を繰り返していた。不思議に思った酋長がその理由を尋ねた。
「お湯の中にウンチをしたんです、あなた方がこのスープを飲むかと思うと、おかしくて」と調査員は笑いをこらえながら答えた。
外科でジョーク
■ 肺癌の患者が増え胸部外科医は大忙しである。「手術、手術で先生も大変ですね」と患者が尋ねた。医師は次のように答えた。「手術の後の一服がたまらないのです」
精神科でジョーク
■ 精神科の教授は「分裂病患者には病識がない」ことを講義でしつこく学生に教えていた。後日、この教授が分裂病になったが、やはり病識はなかった。
泌尿器科でジョーク
■ 禁断の果実を食べてからアダムとイブは裸体の自分たちに羞恥を覚えるようになった。そして2人はカエデの葉で前を隠すようになった。
では問題です。どうやって前を隠しましたか? 答えはヘアピンです。
学会でジョーク
■ 世界で一番多く使われている言葉は? 英語、中国語、スペイン語、すべで違います。答えはブロークン・イングリッシュです。
甘口ジョーク、辛口ジョーク。ジョークで迎えよう明るい21世紀。
倦マサラシメンコトヲ要ス
バブルの崩壊以降、本来尊敬されるべき官僚、警察官、教師、そして医師たちの不祥事が連続し、フラッシュ・ライトを浴びながら頭を下げるトップの姿が毎日のように報道されている。
いっぽう不祥事を追求する側は、世の不正を正す義憤のつもりだろうが、しかし結果として世の中を良くしているとは思えない。それは不祥事の報道が社会に生きる人間の信頼関係を低下させ、社会で働く者のやる気を削いでいるからである。1人の不祥事が、それとは無関係の同職の人たちの使命感とやる気を失わせている。
日本はかつての共産主義国家が達成しえなかった無階級社会である。無階級資本主義においては、社会は営利を目的としない人たちの使命感に負うところが大きい。本来尊敬されるべき職業の人たちは、少なくとも他人に尽くす気概を持ちその職業を選んだはずである。この人たちのやる気に依存している社会では、周囲が理屈を言いすぎると、正義ぶって叩きすぎると彼らは職務に嫌気がさすことになる。そしてそのことが大きな社会的損失につながるのである。
これだけ叩かれれば、何もしない方が得だと思うであろう。休まず、遅刻せず、何もせずの世界となる。防衛医療、後ろ向き医療の心理となる。社会は活力を失い、萎縮した医療になってしまう。そして閉塞した暗い雰囲気が全体を覆うことになる。これが果たして良い社会と言えるのだろうか。
正義の仮面をかぶりながらバッシングする側は叩くことの正義を強調する。しかし彼らは過ちを許す勇気に乏しい。相手が弱点をみせるとバッシングを加速させ、謝るほどに追い打ちをかけようとする。これは人間を育てようとする叩き方ではない。相手を潰そうとする叩き方である。相手を許す気持ちがないので、叩きかたが陰湿である。
社会全体が他人のことよりも自分のことばかりで、他人を叩くこと、あるいは自分を守ることに終始する。このような社会では「相手を思いやる気持ち」と建前の言葉で相手を批判しても空しく響くだけである。相手を思いやる気持ちのない者が、そのように批判しても空しいだけである。
現在、政治、財政、経済、教育、医療、このように多くの分野が危機的状態にある。そして少年犯罪を始めとした多くの奇怪な事件が相次いでいる。この歪んだ社会を是正するために多くの提言がなされているが、ますます歪みは強くなるばかりである。
政府もまた対策を講じようとするが効果はみられない。歴代首相の施政方針を聞いても、厚生省や日本医師会の文章を読んでも、美辞麗句で飾った八方美人の言葉ばかりで、混沌とした世の中を是正しようとする真摯な気持ちがみられない。各々の理念を読んでも、誰からも批判を受けないような玉虫色に飾られた文章ばかりである。形だけのアリバイ作りの文章である。
これらの意味不明の理念はさておき、ここに目の醒めるようなすばらしい名文があることを紹介しておく。
それは明治政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」である。この文章は明治維新という大変革を前に作られたもので、新政府の基本精神が示されている。数行の文章であるが非常に的確である。この五箇条のひとつが「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」である。現代文に訳せば「文官、武官から一般の国民に至るまで、それぞれに志を遂げさせ、しかも嫌気を起こさせないことが肝要である」となる。
なんと的を射た言葉であろうか。世の中を良くするには、やる気を起こさせることが肝心としている。国家の危機的状況にあった明治維新の人たちは人間の心情をよく理解していたのである。改革に当たって最も大切なことが、「倦マサラシメン」である。これほど人間を理解した言葉はない。
世の中が停滞し危機的状況にある時、相手を批判するだけでは何も生じない。相手を批判しても、批判した相手を伸ばすことが必要である。嫌気を起こさせてはいけない。各自の職種に希望を与え、職務にやる気を起こさせる社会全体の優しさが大切である。一生懸命に働く者を評価し、個々人が社会に貢献しようとする気持、さらにその使命感を満足させるような社会全体の体制が必要である。
学校における「いじめの構造」と同じように、他人を叩くだけの陰湿な気持ちがまん延している。他人の間違いを許し、相手に希望とやる気を起こさせる暖かい気持ちが現在の社会には欠けている。
天皇の位置づけは別として、五箇条の御誓文には、民主主義のあるべき形、人間社会のあるべき姿が数行の文章で表現されている。その普遍的心を現在に生かすことが危機的なこの社会に必要と思われる。
竹槍精神論
かつての日本人は手に竹槍を持ち、鬼畜米英のかけ声で戦争に勝てると信じていた民族である。そして精神論だけでは戦争に勝てないことを痛感しながら、今でも精神論に捕らわれている民族である。何か問題が起きると科学的分析は二の次になり、精神論うんぬんに原因を求めようとする。これではいつまでたっても本質は見えず、同じ過ちを繰り返すことになる。
精神論はスポーツにおいて著明である。またその解説においてもきわだちをみせている。「勝てば精神力の勝利、負ければ精神力が欠如していたから」と言えば、何となく解説らしく聞こえてくるから不思議である。野球で三振を取れば気持ちがまさっていたから、ホームランを打たれれば気合い不足と解説される。このように勝敗の原因を精神論に求めようとするのは、相撲、柔道、サッカー、マラソン、いずれのスポーツにおいても同じである。勝敗の原因を精神論に置き換え、そして観客までもそれで納得してしまう。これでは負けた選手が可哀想である。
医療事故が毎日のように報道されている。そして医療事故についても医師の精神論に原因を求めようとする傾向がある。医師としての思いやりの欠如、患者に対する驕りの表れ、自覚のない怠惰な注意力、このような医師としての精神の腐敗が医療事故を招いたと解説される。そして、それで何となく納得してしまうのが恐ろしい。個人に責任を負わせ、それで問題が解決したと錯覚するのが恐ろしい。これは問題を安易に解決させ、安心を得ようとするスケープゴートの心理である。
では本当はどうであろうか。医療事故を冷静に分析してみよう。評論家の多くは問題を分析する場合、米国との比較をおこない、日本と異なる米国のシステムを無条件に賛美し、そしてそのシステムの導入が解決に結び付くと解説するのが常である。では彼らに習い、日米の医療事故を比較してみよう。
国民1人当たりの入院日数は日本は米国の約4倍、外来受診率は約3倍である。そして日本の人口当たりの医師の数は米国の0。7倍である。いっぽう医師が患者から訴えられる確率は、米国の医師は日本の医師の約10倍である。この数値を基に計算すると、日本の医師は米国の医師よりも約50倍医療訴訟が少ないことになる。どのような計算をもってしても、米国の医師が日本の医師より優れているという科学的証拠はでてこない。
医療事故に対する反省を忘れてはいけないが、この数字を見れば日本の医師は何と真面目に働いているかが理解できると思う。誰もほめてはくれないが、日本の医師は神業に近い精神力で医療を行っているのである。まさに神経をすり切らせて働いているのに、日本の医師全体が志の低下などと精神論で非難されたくはない。
日本人は精神論が好きである。また好きゆえに何でも精神論で片づけようとする。かつて10倍の物質的優位にあった米国と無謀にも戦争を行ったが、50倍の医療訴訟の差をもってしてもまだ日本の医療に精神論を持ち出すのだろうか。ちなみに日本の医師の収入はアメリカの医師の約半分である。
医療事故に対し危機管理が必要だという。確かにそうであろう。しかし、不眠不倒で働く医療関係者に間違いを犯すなというのは酷である。問題はアリバイ作りの危機管理の議論ではなく、事故を未然に防ぐための労働環境の整備である。医療にとって最も必要なマンパワーの整備を行い、医療事故を未然に防止することが先決である。生命を守る医療関係者の精神的ゆとりを確保することが、医療事故防止には何んとしても必要である。
物忘れをしない人、計算違いをしない人、転んだことがない人、このような人間などどこにもいない。ミスを犯すのが人間であり、ミスをいかに防ぐかが人間の知恵である。
毎年、1万人弱の人たちが交通事故で亡くなっている。この人たちの大半は怠慢ゆえに事故を起こしたわけではない。だれもが事故の可能性を持ちながら、運悪く事故に遭遇したのである。事故を防ぐため、車の運転は40分、間に20分の休憩を挟むことが推奨されている。6時間ぶっ通しの外来診療、12時間立ちっぱなしの手術、注意力の必要な医療においてなぜこの推奨が言われないのだろうか。
徹夜で働く医療関係者の労働環境を改善せずに、精神論を持ち込むのは問題のすり替えである。竹槍で戦争に勝てと言うようなもの、南方の島で玉砕した英霊に精神力が足りなかったと言うようなものである。医療事故を防ぐためには様々な方策が提言されている。しかし生命に関することは、生命に関することゆえに、生命に見合うだけの財源の確保が何よりも必要と思われる。
医療財源優先論
第2次世界大戦当時、召集令状(赤紙)の郵送代が1銭5厘だったことから、1銭5厘が生命の値段としてたとえられていた。このように紙切れ1枚と同価値であったヒトの生命が、戦後急速に高まり「ヒトの命は地球より重い」との名言に至っている。
自動車事故などによる補償金は億単位に高騰し、ヒトの生命は世の中で最も優先すべきものとなった。この生命の尊重はあまりに当然すぎる考えなので、これに反対する者はいないであろう。
しかしこれがヒトの生命を担う医療費のことになると、話はまったく別になる。生命の価値は軽視され、医療財源の議論があたかも医療機関を儲けさせる話のようにイメージがすり替えられ、生命に関する抽象的な議論はなされても、生命を担う具体的財源の議論は停滞したままである。
医療費を考慮しない医療の議論は、医療を考えない空論に等しい。生命尊重を口で唱えながら生命を軽視しているのと同じである。このように「生命の価値と生命を守るための医療財源」をリンクさせない空気が日本全体を覆っている。
日本人は金銭に関することを人前で話すことをこれまで卑しい行為としてきた。金儲けを得意とする商人は蔑視され、清貧に生きる武士を美しい生き方としてきた。この美意識は周囲から尊敬される職業の者に強く求められ、また尊敬される側もその美徳のなかで安住してきた。政治家は国家のことを、教師は教育のことを、学者は学問のことを、医師は医学のことだけを論ずべきで、金銭を口にしないのが普通とされてきた。尊敬される人は金のために働くのではなく、国民、学生、学問、患者のために働いているとみなされたからである。
医師はこの美意識に縛られ、病気のことを口に出しても治療費については口を閉ざしてきた。地球よりも重いヒトの生命に金銭を挟むことをはばかったからである。しかし一般人はこの医師の美意識を知らず、医療には医療費がともなうことを、医療財源が困窮していることを知らずにいる。医療をタダとする感覚のなかで、相変わらず医療への不満だけが溢れている。
この金銭に関する美意識は、一般の人々からは既に失われた感覚である。日本人のつつましい生き方は別世界となり、いかに楽をして金を儲けるかが人々の関心事となった。他人に清貧を求めても、自分だけは贅沢に生きることが人々の新たな生き甲斐となったのである。
この自己中心的な金銭第一主義は自己の贅沢だけに関心を持つため、他人のことは文字通り他人事でしかない。肺癌が怖くてタバコを止めても、国の政策、医療財源などには関心は及ばない。医療財源が自分たちの健康を守るための必要経費であるとは考えない。そして「医療に不満が多いのは医療財源が乏しいからで、医療財源が乏しいのは国の医療費抑制政策が原因である」という単純な構図すらわからずにいる。医療費は医療機関の儲けと邪推するばかりである。
このような医療財政に対する一般人の無知と無関心、さらには時代遅れの美意識に縛られた医師たち、この両者が医療の価値を財政の面から取り上げない体質を作り上げた。
金銭が関与しない医療は存在しないにもかかわらず、議論はいつも医療財源ぬきの議論である。救急医療が整備されず、小児医療が困窮しているのは国が適正な医療費を出し渋っているからで、医療の歪みが政策の歪みに起因することを人々は知らないでいる。救急患者がたらい回しされても、批判の矛先は病院に向かうばかりで、救急医療の根本を変えようとしない。そして医師は相変わらず紳士然として危機感を表に出そうとしない。
このような金銭第一主義の風潮のなかで、医療不況に乗じた経済人が医療に口を出すようになった。彼らは医療不況を立て直すような期待を抱かせているが、それは大きな間違いである。目先の計算しかできない経済人が、自己犠牲を知らない企業人が、生命を効率で考える商売人が、医療を正しい方向へ導く可能性はゼロに等しい。病院の赤字体質は真面目な医療を行うと赤字になる医療システムが悪いのであり、院長の経営能力のせいではない。
医療への営利企業の参入は、貴重な医療財源を奪い合う医療商売学の導入につながる。生命や医療に関することはそれを知る者、すなわち医師が中心になるしかない。生命の価値を知らない者、患者を札束とみなす者は、医療から即刻退場願いたいと思う。
「高齢化社会に伴う国民医療費の自然増」が過剰なまでに宣伝され、医療費抑制の洗脳的空気が日本を支配している。そして国民医療費の2倍以上の公共投資を行いながら、国民医療費以上の金額を公的年金に使いながら、国民医療費をさらに抑制しようとしているのである。
借金財政や経済不況を理由に医療費を削減する考えが、そもそもの間違である。国の歳入から必要な国民医療費を差し引き、残りを医療以外に支出するのが生命の価値を知る者の財政であろう。
4人にひとり
同病相憐れむの言葉のごとく、患者どうしの会話のなかで最も頻度の高い話題はもちろん病気についてである。患者は使い慣れない専門用語を並べながら互いに病状を説明しようとするが、病気の本質がどこにあるか分からないため会話の内容はチグハグとしてかみ合わないことが多い。この現象は医学の奧の深さを示しているが、しかし医師と言えども専門外の分野になれば知識は患者と五十歩百歩の差であるから、患者の無知を無下にさげすむことはできない。
患者が交わす会話のなかで病気の次に多いのが、「医師を非難する悪口」である。大多数の医師は自覚のないウヌボレ屋だから、まさか自分の悪口とは想像していないだろうが、病院の待合室に腰を下ろし患者の話に耳をそば立てると、雄弁に語られる医師への悪口が耳に入ってくる。患者の会話を遮り、「それはあなた方の誤解ですよ」と弁解したい気持ちになるが、じっくり話を聞けば、医師への悪口もあながち嘘ともいえず、思わず相づちを入れうなずく自分に困惑する。医師の立場からいえば、それは「医師への悪口」であるが、患者の立場でいえば「真実を含んだ本音」そのものなのである。
患者への医師の思い入れにもかかわらず、なぜ患者はこれほどまでに医師への不満や悪口を言うのだろうか。
医療に対する患者の不満について、これまで多くの意見を述べてきた。医学の進歩が生んだ冷たい医療、一般人には理解しがたい病気の不確実性、薄利多売医療による患者との会話不足、悪意あるマスコミの煽動、などなどである。しかし患者の悪口に本音で意見を加えるならば、「医師としての個人的資質」の問題を挙げないわけにはいかない。誤解に基づく悪口も多いが、患者に不満をもたらす医師、悪口に相当する医師が現実に存在していることを否定することはできないのである。
冷静に周囲を眺めれば、医師としての資質に欠いた者が意外に多く混在していることに気づくであろう。「病気になったら、あいつにだけは主治医になってほしくない」と思う医師が意外に多いのに驚くであろう。
もちろんこれは医師の世界だけでない。汚職に走る政治家、破廉恥な教師、威張る警察官などようにどのような集団においても困った人たちは必ず含まれる。そして日本の医師二十数万人のなかには様々な「困った医師」が含まれていても不思議ではない。しかし医師の前で裸体をさらす患者にとって、処方された薬を忠実に内服する患者にとって、さらには手術台に横たわる患者にとって、目の前の「困った医師」は大きな迷惑といえる。
ある医師へのアンケート調査によると、「4人にひとりの医師が患者を診るうえで不適切」と医師どおしが評価しているらしい。4人にひとりが不適切ならば、患者が医師の悪口をいうのも当然すぎることになる。
周囲には様々な「困った医師」がいる。患者よりも医学知識の少ない医師、逆に医学知識に溺れている医師。感情面で言えば、すぐにパニックに陥る医師、フリーズする医師、怒りん坊のプッツン医師などがいる。さらに弱者に対し温かい気持ちを持てない者、医師としてのセンスがない者、外科医として不器用な者、患者への説明が下手な者、人間嫌いの医師、そして何を考えているのか分からない不気味な医師。・・・・彼らが含まれている以上、患者の医療不信も当然といえば当然である。
研修医を指導していると、人間としての当然の気持ちを欠く者、社会人としての当たり前の常識を持たない者、大人としての良識、さらには医師としての自覚すら欠いている者が混在している。そして「困った医師」ほどその病識に欠け、自分の欠点にすら気づいていない。
このように「困った医師」を放置している医学会全体の責任を痛感するが、不適切な医師を排除するシステムがない以上どうにも仕方がない。昨今の医療不信に対し、「あなたの主治医を信じなさい」と言いたいが、その前に信じられない医師をどのようにするかが問題である。
これまでの医学教育は学力や知識ばかりを重んじてきた。医学教育は人間としての基本的なことはすでに備わっているとの前提のもとで行われてきた。しかし医師として未熟なだけでなく、人間として未熟な者があまりに多くいる。なさけないことであるが、医師としての常識を教える前に、人間としての常識、倫理性をまず教える必要がある。
医学部の入試では学力の選別はできても、医師としての適性までは分からない。医師の適性を選別できない以上、入学した者に対し正しい人格形成のための教育を行い、医師としての自覚を徹底的に身につけさせるしかない。二十歳を過ぎた者に教育や説教がどれだけ効果があるか分からないが、しかし教育以外に良い方法があるだろうか。
サッカーのごとく医師へのイエローカード制の導入、坊主がお経を唱えるように毎朝ヒポクラテスの誓いを暗唱させる方法、・・・情けないが名案は浮かばない。
無策ではあるが、まず対策を練る前に、自分が4人にひとりの医師に相当しないかどうかを自問し、「困った医師」と周囲から思われていないことを確認することが必要である。
医師を見る目が年々厳しくなってきている。「あなたと同じ人間である医師の人間性にあまり期待するな」などとはとても言えない状況にある。
主婦的金銭感覚
家庭を預かる主婦は、家計に優先順位をつけやりくりをする。余裕があれば財布の紐を緩めるが、余裕がなければ生活のレベルを落としわが家の難局を乗り切ろうとする。カネがないのにあれもこれもと買えるものではない。もし支出を間違えれば家族全員が路頭に迷うことになるので、主婦の金銭感覚は真剣かつ慎重となる。これは主婦が家族全員の状態を把握し、どの部分にカネを使えば良いのかを十分に分かっているからできることである。
世の中には多くの専門家がいるが、彼らのなかにはこの当たり前の金銭感覚を持たない者が意外に多い。彼らは細部の知識に詳しくても全体を見ようとしない。自分のことしか考えず、自分の専門分野の拡大ばかりを画策する。
農政を得意とする政治家は農政に財源をよこせという。金融を得意とする者は金融機関への資金導入を主張する。外務省は海外援助が少ないといい、国土交通省はまだ道路が足りないという。皆が皆、わが身のために理屈を述べ、あれもこれも必要といっては財団を作り勢力の拡大をはかろうとする。このような自己中心専門家に振り回され、何が正しく、何が必要かが分からずに予算はゼロシーリングとなった。
今の世の中、端から端まで自己中心主義で満ちている。見識を求められる専門家も同様に、いやむしろ彼らこそが国民の自己中心主義をリードしてきたといえる。利権を守ろうとする政治家、省益を守ろうとする官僚、業界を守ろうとする各団体、彼らのずるさが自己中心社会を作り上げてきた。彼らは自分たちが満たされていれば全体がどうなろうと関心がない。専門家という言葉に守られ、自分たちのわがままを実現させることが自分たちの実力と威張っている。
また専門家の中にはまた別の種類の専門家がいる。それは知ったふりをして勝手なことを言うエセ専門家である。彼らはシロウトでありながら聞きかじった知識で専門家のような顔をする。そして浅い知識がばれないように偉そうな顔をする。エセ専門家は傲慢ゆえに多くの意見に耳を傾けることはなく、被害が自分に及ばないことを知っているので無責任なことばかりを言う。エセ専門家はなめらかな弁舌により人々を惑わすことになる。
世の中が複雑になり、人々は専門家の考えを知りたいと願う。また専門家が適切な意見を言うと信じている。しかし無責任で傲慢な専門家ほど世間では幅を利かせ、勝手な妄想で国民を惑わすことが多い。そして彼らの肩書が偉ければ偉いほど、人々は彼らの意見が正しいと思うので被害が大きくなる。
この日本を家庭に例えれば、屁理屈ばかりを言う放蕩息子によって国全体のバランスが崩れ、収集のつかない状態にあるといえる。そして全体を統制する主婦的感覚の欠如により、日本はご存じのように借金大国、混迷大国となった。
いっぽう医学の分野ではどうであろうか。医学の進歩は医学の細分化をもたらし、人間を作るパーツの専門医ばかりとなった。そして患者全体を診る能力の低下が問題になっている。彼ら専門医の多くは謙虚でかつ責任感が強いが、患者や医学に考えが及んでも、日本の医療、医療費全体には考えが及ばない。
そして最近、彼ら専門家のなかで医学の進歩を自慢するような宣伝を言う者が目立つようになってきた。宣伝が多ければ、その恩恵にあずかろうとするのが一般人の心理である。そしてその心理から必要もないのに病院を受診する健康人が増えている。
学会が作った高血圧、高脂血症、糖尿病などの診断基準、この錦の御旗によって健康人が病院につながれようとしている。そして健全な肉体に宿るべき国民の精神までもが不安神経症に冒され、必要を要する患者の対応が手薄になってしまう。
はたして現在、医学の進歩がどれだけ国民の健康に貢献しているだろうか。日本男子の平均寿命は、1992、1995、1998年に前年より低下している。これは日本人の平均寿命が頭打ちになったせいであろう。つまり科学的なEBMに従えば、この数年来の医学の進歩は長生きについては期待ほどの貢献をしていないことになる。医学の進歩は特定の疾患、特定の患者に限定した貢献と評価せざるを得ない。非侵襲手術、白内障手術などが生活の質を向上させてはいるが、医学の進歩をあえて美化するほどではない。
健康に留意するのは良いことである。そして主婦的感覚からすれば必要な医療費は何よりも優先すべきである。しかし医療費という財政面、副作用という医原病、患者の時間的損失、などを考慮すれば、たとえ医学的に正しいことでも患者全体、国民全体の不利益をも考慮すべきである。
あれも良い、これも良いの医療では医療財源は簡単に枯渇してしまう。医師にも主婦的感覚、優先すべき医療を考える必要がある。最近、くしゃみ三回でかぜ薬を買わせるような専門家の宣伝が多いように思えてならない。
国民医療費を1割節約すれば、日本国民全員が豪華一泊温泉旅行に行ってお釣りがくる計算になる。1割の節約と温泉旅行、どちらが良いかは価値観の違いによるが、いずれにしろ国民の医療費は大切に使うべきである。
誠意ある占い師
ジョギングの効用を提唱した作家がジョギング中に心臓麻痺で死亡したり、内科の大御所が数年間の植物状態の後に死亡したり、アガリクス広告塔であった農学博士が癌で死亡したり、何が起きるのか分からないのが人生である。
予測が難しいのは病気や死ばかりではない。人生には多くの幸、不幸が待ちかまえており、恋愛や結婚、就職や転職、投資やギャンブル、これらの成否を予想しようと悩んでみても、とても予想できるものではない。それは人生そのものが謎に包まれ、不確実性に満ちているからである。このことから占いが流行ることになる。
人生の岐路に立った時、悩み抜いて出した結論とサイコロで決めた結論、このふたつの結論にどれほどの違いがあるだろうか。このサイコロにそれらしい理屈を付加したのが占いである。占いが当たる当たらないは問題ではない、占いが持つ抗不安作用こそが人間にとって重要なのである。
占いの歴史を辿れば、人間は有史以前から占いの力に依存してきた。亀甲を焼いてヒビの様子から吉凶を占うのは 約5000年前の中国古代文明から、 占星術も同時代に世界各地で発生している。易占、四柱推命は約4000年前の中国が起源である。またタロット占いは古代エジプトに原形があるとされている。このように古代人は占いによって神意を聞き、それに従い生活をしていたのである。
近年においては、血液型占いはフランスのブールデル博士の著書「血液型と気質」に基づくもので、フロイトは夢占いを精神分析に応用していた。ヒトラーは占星術師のアドバイスを重視し、レーガン大統領も重要な決定の前には占星術師の意見を聞いていたとされている。 もちろん、日本でも縄文の昔から最近に至るまで占いは日常的な習慣になっている。
姓名判断、水晶占い、人相、手相、家相、方位、おみくじ・・・、さらには迷信、ジンクス、このように並べてみると、人生のすべてが運命によって定められているような錯覚に陥ってしまう。占いは統計学と心理学を合体させた遊びと考えられるが、今日でも相変わらず廃れないでいる。テレビでは今日の運勢が毎朝放映され、週の運勢は週刊誌の定番となっている。
占いは将来への不安、未知への不安が作り上げたものであるが、それを逆から言えば、人間の弱みにつけ込んだインチキと言うこともできる。
占いの話題を医学に移して考えてみよう。かつての医療は祈祷などの宗教と深く関わっていた。「治そうと念じる力によって、病気は退散する」というのが祈祷の考えであった。そして「病気が改善しないのは祈りが足りないため、病気が完治したのは祈りが届いたせい」このように都合のよい理屈が長い間くり返されてきた。
現代医学は科学を基礎としており、占いの入り込む余地はないように思われる。医学の知識は飛躍的に増え、最新医療が次々に導入されている。しかし、いつ病気になるのかが分からない、誰が病気になるのかが分からない。誰の病気が治って、誰の病気が治らないのかが分からない。このように病気の肝腎な部分が分からないため、医師は占い師に近い存在になることが多い。
治療は上手くゆくのか、余命は何日か、自宅安静は何日か、いずれも分かるものではない。しかし分からないでは話が進まないので、医師は思いつきでいい加減な予測をいってしまう。
科学に基づいた予測を述べたくてもデータがないのである。たとえあっても集団のデータを目の前の患者に当てはめるのは妥当ではない。集団のデータは数値の幅が大きすぎるからである。
患者にとって一番知りたいのは病気の予後である。そして病気の不安から逃れるために医師に楽観的な予測を求めてくる。そして医師は、「安心してください、大丈夫です」などと根拠のないことを言ってしまう。
医師の断定的で楽観的な話し方、気弱で否定的な話し方、この医師の2つの話し方によって患者の心理は大きく左右する。そして医師の話し方によって病状や予後に大きな違いがもたらされることになる。これを「医師のプラシーボ効果」と呼ぶが、これも立派な医療行為のひとつとである。
この医師のプラシーボ効果は、患者が医師を信頼する程度によって効果はまるで違ってくる。患者が医師を信頼すればするほど、医師がまじめな顔で言えば言うほど効果は大きくなる。もちろん医師のプラシーボ効果についての明確なデータはないが、多くの人たちはその効果を信じていると思う。
しかし、占いが将来の不安を取り除くプラスの面とインチキ性のマイナスの面を兼ね備えているように、医師の予測が間違っていた場合、医師はうさん臭い存在と誤解される。あの医師はこう言った、別の医師はこう言ったと非難される。しかし医師は分からないことを分かったように答えるのだから仕方がない。理屈があるようで理屈どおりに行かないのが医学である。
医師は科学者であるが、病気には分からないことが多すぎる。患者は医師を「病気を治すスーパーマン」と誤解しているが間違いである。医師は「弱い患者に勇気を与える誠意ある占い師」の役割を兼ねているのである。
ノー・モア・サンキュー
私たちはすでに生まれてしまった存在であり、かつこれから死んで行こうとする存在でもある。この気が狂いそうな運命を背負いながら私たちが平然と日常を過ごしているのは、生死があまりに他人事だからである。
誕生を喜び、死去に涙を流しても、それは他人の生死であって自分の生死ではない。誰も自分の生死を自覚的に経験できず、他人の生死からわずかにそれを想像するだけである。私たちは自己を選択できず、また死に方さえも選択できない。
「不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る」これは鴨長明の「方丈記」の一節であるが、鴨長明が言うように人間はどこから来てどこへ行くのか分からない。主発点も終点も分からないまま私たちは日常を過ごしているのである。
かつての日本人は神道や仏教などの宗教から死をとらえていた。それは無常観であり、また輪廻思想であった。明治以降は国家のために死ぬことが美化され、死ぬことに意味づけがなされていた。しかし戦後になって死は意味づけを失い、死を語ることはタブーになった。そして死という現実を避けようとする心理が強くなった。
宗教を持たない日本人は心臓死、脳死の議論をしても、患者の死に方をどうするかの議論を避けてきた。死の意味を曖昧にしたまま放置したのである。
現在、畳の上で死ねる日本人は15%にすぎない。死は本人の意思とは無関係に周囲の都合によって迎えられている。生命を形式的に重要視するあまり、生死を病院に押しつけたのである。
死を考えるべき文学者も、哲学者も、宗教家も、延命の手段しか持たない病院に死を押しつけた。「病院が生命を何とかしてくれる」と思う間違った期待感と、生死を専門家に任せようとする歪んだ合理主義である。
本人が家で死にたいと願っても、その願いは受け入れられない。法律も社会も家族も、患者が家で死ぬことを拒んでいる。死を前にした厄介者は病院に送られ、生死を任された医師は見込みのない患者にも御仏前療法を行うようになった。
本人のいやがる治療を周囲が行うのは、救命という名の暴力である。人格を持つ人間への冒涜ともいえる。この不幸は誰もが分かっていることである。しかし周囲がうるさい、法律がうるさい、そのため本人の尊厳は軽視され、周囲の都合によって終末医療が行なわれている。生命至上主義が生命の尊厳を言い過ぎたため、逆に生命の尊厳が奪われたのである。生命の責任を言い過ぎたため、誰もが責任を取りたくないので、このような事態になったのである。
これまで人間はモノよりも精神を重んじてきた。法律よりも情を優先させてきた。もちろん現在でもそうである。しかし近代医学は目に見えぬ人間の精神を相手にせず、人間の心の苦痛を探らず、肉体の数値ばかりを優先させてきた。人間の存在が肉体にあるのではなく人格にあることを忘れている。そして人格よりは脳波、会話よりは検査となった。
人間の存在は本人のものである。元来、死に方は本人が決めるべき問題である。しかし私たちは死の直前まで死にざまを考えない。これらは死を他人事としてきた私たちへのツケである。人間にとって最も大切な精神の存在を軽視したため、私たちは医学と法律に縛られ人間そのものを失うことになった。自分たちの健康を守るべき医学が、生活を守るための法律が終末医療の不幸を招いている。
人間は精神的活動を持つ点において他の動物とは明らかに異なっている。美しい花を美しいと感じ、楽しい日々に喜びを感じ、醜いものを嫌い、卑劣な話に憤りを持つ動物である。この心の動きを数値化できないように、人間を医学の数値や法律の条文で閉じこめることはできない。
生から死への移行は逆らうことのできない自然現象の1つである。脳死だろうが心臓死だろうが問題外である。最後くらいは人間らしく死にたいと思うのが多くの人たちの願いであろう。そして人間らしい死とは、人工的産物である医療器機の介入をなるべく避けることである。
「ねがわくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」これは西行法師が800年以上前に吉野で詠んだ句である。時代が変わっても私たちの心は変わらない。たとえ桜の木の下で死ねなくても、せめて穏やかな死を迎えたいものである。
「ノー・モア・サンキュー」これは治療を行おうとする医師にライシャワー元米国大使が述べた言葉である。
自分にしてほしくない治療を他人に行ってはいけない。死を押しつけられた私たち医師は、「人間らしい死に方」について、自分自身のこととして考え直すべき時期にきている。
医療サービス
環境保護、減税、社会保障、このような耳に心地よい言葉がある。そして誰もが心地よく感じる言葉のひとつに「医療サービス」という新顔が登場した。
もしアンケート調査を行ったとしたら、医療サービスという言葉に反対する者は誰もいないであろう。医療に対し多くの不満を持っている国民は、医療サービスという言葉に喝采を上げ迎え入れるにちがいない。
反対する者がいないので、この言葉が流行ることになる。また流行に乗り遅れまいと、それまで高飛車だった病院までもが医療サービスを口に出すようになった。しかし医療がサービス業かと言われると、何となく違うものを感じてしまう。
それは医療サービスという言葉の裏に、利潤を追求する医療機関の宣伝を感じるからである。医療機関どうしの競争の中で、患者を顧客ととらえた場合、サービスという言葉は患者の来院意識を高めるのに適しているからである。患者の利便性、快適性を優先させる努力は必要である。しかし患者優先の医療をうたい文句に、収入を目的とした患者への迎合行為を感じてしまうのである。
私たち医療機関は安定した患者にも様々な検査を行う。病院が検査を行うのは患者の健康不安を解消させるための検診サービスであるが、サービスと称して病院が利潤を求める行為でもある。そしてこのような無駄な行為が医療財政悪化の原因と非難されている。サービスという言葉に、小さなパイを奪い合う医療機関の姿を連想してしまうのである。
平成7年、厚生省は厚生白書に医療をサービス業と明示した。しかし「金を出さずに口ばかりだす厚生省」が本気で医療をサービス業と捉えているのだろうか。
現行の診療報酬は検査や薬剤に金を出しても、患者サービスへの金はわずかばかりである。医師の増員が医療サービスにつながるのに、医師過剰時代として医師を減らそうとしている。基準看護で看護婦を増やせと言いながら、その財源を示さない。そして極めて少ない現在の国民医療費をさらに抑制しようとしている。
厚生労働省の言葉と実際とは常にチグハグ矛盾している。
病院、診療所の役割分担についても同様である。診療所の初診料を病院より高く設定しているが、これは診療所の医療サービスの方が病院よりまさっているからであろうか。開業医優先の政策であろうが、これでは病院の待ち時間解消など到底無理である。
患者の大部分は医療の現状を知らずにいる。医療機関がぎりぎりの経営で苦しみ、医師や看護婦が過労で倒れそうなのに、患者は何も知らずにサービスばかりを求めてくる。そして医療機関は医療で儲けているのにサービス感覚が欠如していると憤慨している。医療費抑制政策の現状を知らずに、自分へのサービスばかりを求め憤慨している。
昭和36年に国民皆保険制度が設立されてからすでに40年の歳月が経っている。保健医療の目的は貧富に関係のない平等な医療の実現であった。しかしこの問題はすでに設立当時から十分に解決している。むしろ問題は、自由な時間を持つ者が医療において常に優先されている新たな不公平、不平等である。税金も保険料も払っている多忙な人たちが、時間的束縛から医療を利用しにくくなっているのである。
新幹線にグリーン車が、航空機にもファーストクラスがあるように、もし国民医療費を抑制したままサービスを求めるならば、医療サービスの突破口として混合診療の導入も選択肢のひとつであろう。
現状の国民皆保険制度を変えずに医療サービスという言葉を用いるのは違和感がある。保険医療は最低の医療を保障するもので、医療の快適性までを保障するものではない。もしサービスという言葉を医療に持ち込むならば、サービスに見合う財源の議論が必要である。快適性をサービスというならば、サービスに金を払うという当然の感覚が必要である。
医療サービスという意識改革には反対はしない。迷惑そうに患者を診察する医師がいることも事実である。長時間患者を待たせることも心苦しい。しかし現在の医療費抑制政策を変えずに、薄利多売の医療を変えずに、患者が望む医療サービスを実現させるのは困難である。
コンビニ感覚で医療を利用できれば、それにまさるものはない。しかし医療機関に犠牲を強いるサービスは、現場に疲労と嫌気をもたらすだけであろう。財源を考えずにサービスという心地よい言葉を使うべきではない。むしろ強制的ボランティアと表現すべきである。
現在の医療にサービスを求めるのは、一流ホテルのサービスを民宿に求めるようなものである。もう少し現実的な議論が必要である。
30万人目の責任
DNAの分析によると、私たち人間は約600万年前にサルから別れて進化したとされている。人間の出産年齢を20歳と仮定すると、600万割る20で、私たちは初めての人間から30万人目の子孫に相当することになる。
またミトコンドリアの分析から人類の系統を調べた研究では、私たちは20万年前にアフリカで誕生した1人の女性に由来するとされ、最近ではこのミトコンドリア・イブ説が人類進化の有力な学説になっている。猿人、原人、旧人、新人、現生人類、このように長い時間をかけ、私たちは進化をとげてきた。
人間の誕生から今日までの歴史を1年の時間に当てはめると、キリストが誕生したのは12月31日午後9時ごろ、私たちが誕生したのは12月31日の最後の7分間という計算が成り立つ。いかに有史以前の歴史が長いかがわかる。
私たちの祖先たちは弱い自分たちを守るために群をなし、風雪に耐えながら歩んできた。狩猟、採取の原始的生活から集落をつくり、共同作業をおこない生活の安定を図ってきた。やがて農業を中心とした文明が起こり、安定した生活を築くために様々な道具が工夫されてきた。
そして農業革命から産業革命へと移行し、飛躍的な変化が日常生活を変えていった。蓄積された発明が生活レベルを確実に向上させていった。このようにして人間は、情報革命と命名された今日へと歩んできたのである。
29万9999番目の人々は、便利になった生活を人間の英知が生んだ進歩と自慢していた。集積された知識と機械化された毎日が知的で快適な日々を導くものと、さらには理想的社会が目前にあるものと期待した。
しかし、現世代である30万人目の現状はどうであろうか。溢れる情報は多くの混乱を招くばかりである。仕事を減らすはずのコンピュータは仕事を増大させ、楽チンな生活をもたらすはずの機械化は毎日をより忙しくさせている。そして人々は時間に追いまくられ精神の安定を失おうとしている。この生活のどこに以前の人々が夢見た生活があるのだろうか。
30万人目の私たちは30万1人目のことを考える余裕を失っている。明日のことを考えず、目の前のおいしい話に関心を奪われ、問題の回避ばかりを考えている。いったい30万人目の私たちは何をしているのだろうか。30万人目の後には30万1人目が控えている。そして 30万2人目、30万3人目、30万4人目、30万5人目、・・と続いているのに、景気の変動に右往左往し、私たちは彼らのことを考える余裕すら持てないでいる。
良いものを次世代に残すことがこれまでの人間の歴史であった。たとえ悪いものでも、教訓としてそれを残してきた。そしてこの人類の歴史の中で 、1番から29万9999番目までの遺産を次の世代に引き渡すことが、私たちに課せられた当然の責任といえる。
この責任を果たすためには、今を基準にものを考えるのではなく、将来を基準に現在を考え直す必要がある。そして次世代に迷惑を残さず、未来を破壊しないことを第1に考えるべきである。
ふたたび話題を人間の誕生へと戻すと、人間の誕生にはご存じのように進化論と創造論の2つの考えが対立している。もし創造論が正しいと仮定すれば、神が宇宙と人間を創造したのは6、000年前となる。この創造論にそって計算をし直すと6、000割る20で、私たちは300人目の子孫に相当することになる。
この創造論の弱点を述べれば、6、000光年以上離れている星雲の存在が否定されてしまうこと、さらに人間の盲腸、クジラの大腿骨、ヘビの後ろ足のような進化の退行を説明できないことである。では進化論が正しいかといえばそうでもない。
進化論者は生命の誕生を、「化学反応による偶然」が数億年単位で起きたと説明している。しかしこの説では、コンピュータの部品を箱に入れ、振っているうちにコンピュータが完成したというような話の飛躍が感じられる。また進化論者は「サルが木から下りて二本足で歩行したこと」が人間への進化のきっかけとしている。しかし二本足歩行がそれほど重要ならば、エリマキトカゲがなぜ人間に進化しなかったのか、疑問とともにそうならなかったことを思わず感謝したい気持ちになる。
35年ローンの計算に疲れ、気分転換に電卓をたたいてみたが、考えてみれば35年ローンなどは小さな問題である。 ローンの自己責任以上に、30万人目あるいは300人目の責任を私たちは背負っているのである。
目の前の環境問題、借金問題、医療問題、これらの問題を現世代で解決しないと、私たちは無責任の世代として後世に恥をさらすことになるであろう。
泣く子と地頭
当たり前のことであるが、人間社会は人間によって構成されている。この人間社会を構成するさまざまな人間を2つに分類するとしたら、どのような分類が可能であろうか。
男性と女性、大人と子供、日本人と外国人、自分と他人、さまざまな分類が可能であろう。しかしたとえどのように人間を分類したとしても人権は誰も同じであるから、分類によって人間が差別されることはない。
才能のある者とない者、裕福な者と貧しい者、高学歴と低学歴、美人と不美人、健康人と病人、このように分類しても、それは人間の差異であって差別には相当しない。勉強ができなくても、音楽の才能がなくても、俳優にほど遠い容貌であっても、それは誰もが認める人間の個人差であって、権利としての人権に変わりはない。この分類によっても差別問題は生じない。あるいは人間の個人差によって差別を生じさせてはいけない。
患者と医師、学生と教師、弟子と師匠、この分類では有形無形の供与関係が生じるので、与えられた者は感謝の気持ちを、授けた者はそれを喜びとすることができれば、両者はよい関係を保つことができる。問題が生じるのは、授けた者が傲慢になり、与えられた者が感謝を忘れた場合である。道を譲る者と譲られる者、介護する者と介護される者、この関係もまた同様である。このように感謝の気持ちが人間社会の潤滑油の働きをしている。つまり感謝の気持ちがなければ人間社会は成立しない。
では次の分類はどうであろうか。迷惑をかける者と迷惑を受ける者、自己チュウ人間と協調性を大切にする者、ゴネ得を得意とする者とそれを恥とする者。このように分類しても人権問題は生じない。しかし生じないところに人間社会の大きな問題が隠されている。それは迷惑をかける者が人並み以上の人権に守られているからである。
どの社会においても迷惑人はごく少数である。しかし全体に及ぼす影響はきわめて大きい。それでいて迷惑人は周囲に迷惑をかけている自覚はない。むしろ不快な問題を糾弾する正義を自認していることが多い。そのため被害者が多数いても迷惑人が社会問題になることはない。傍若無人、変わり者、ワガママ人間、非常識と陰で言われても、彼らは人権に守られその自覚をもたない。
人間社会の困り者は迷惑人やクレーマーばかりではない。良識ある一般人が無意識のうちに困り者になっていることがある。簡単な例を示そう。
流れに逆らい、制限速度を守りながら運転する車を見ることがある。彼らは後ろに何十台も車が連なっていてもスピードを上げようとはしない。法的正義は困り者の先頭車にあるので、後続の車はクラクションを鳴らすことはできない。馬鹿じゃないのと心で叫んでも、ただじっと耐えるだけである。
「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざがある。泣く子に理屈を言っても通用しないという意味である。しかし理屈が通用しないのは泣く子ばかりではない。知的な理屈屋もいれば暴力を振りかざす者もいる。このような場合、論争を挑み消耗するか、勇気をもって立ち向かうか、じっと耐えてやけ酒を飲むくらいしか方法はない。
懐かしい話になるが、日本には沈黙を美徳とするよき伝統があった。民は黙ってお上に従い、女性は黙って男性に従い、男は黙ってビールを飲むのがよいとされてきた。文句を言わず、言われたままに従うことを美徳としてきた。この美徳は人間の従属関係を悪とする人権の考え方により廃れてしまったが、この沈黙はお互いの信頼関係の上に成り立っていたといえる。
この沈黙が消失し、世の中が騒がしくなった。そして人間の信頼関係も希薄になった。
理屈を言い合う世界よりは黙ってわかり合える社会のほうがよい。契約社会よりはナアナア社会のほうが住みやすい。毎朝、愛してると言いながら離婚する夫婦より、何も言わず信頼で結ばれた夫婦の方が良いに決まっている。日本人の古い考えをいけないとする何でもアメリカ主義、何でも西欧主義に押され、ブラックバスに追われたフナのように日本のよき伝統がまた失われたように思える。
世の中、泣く子が増え、みんなの世界が「私は、私は、・・・」の世界になった。ワガママや理屈を言う者、声の大きな者が多くなった。そしてそれを恥とする多数の人々にとって住みにくい世の中になった。
当たり前のことであるが、人間社会に必要なことは、感謝の気持ちと信頼関係である。また人権も大切であるが、迷惑人の人権を恐れ、人並み以上の人権を与えるのもいけない。
泣く子と地頭、この言葉は最近めったに聞かなくなった。それは地頭であっても泣く子には負ける時代になったからであろう。
60歳の赤ん坊
星の寿命、人間の寿命、イヌの寿命、蜻蛉の寿命、世にあるすべてのものは時間の支配を受け、与えられた時間の枠の中に押し込まれながら生きている。古今東西、老若男女、動植物を問わず時間は誰の上にも平等に流れている。時間とは不思議なものである。そしてときとして残酷でもある。
ある日のことである。鏡に映った自分の顔が自分のものでないのに驚き、思わず目を伏せたことがあった。鏡に映っていたのは、あの父親の顔だった。
少年は青年となり、青年はいつしか白髪となり父親に近づいた。走れるはずが走れない。登れるはずが登れない。視力は衰え、気がつくと身長は子供に追い越されていた。気持ちは変わらないのに、肉体だけが時間の洗礼を受け衰えた。そしてまた若い女性は幼女に見え、異性への熱い視線はいつしか絵画を見るような穏やかな視線に変わっていた。
年齢とともに増えるはずの友人や知識は次第に少なくなり、輝かしいステップアップの日々が、いつしかステップダウンの黄昏に変わっていた。友人と飲み明かしながら交わした激論も今はテレビ相手の愚痴となった。年齢相応といわれればそうである。当たり前といえば当たり前である。しかしこのステップダウンはどこまで続くのだろうか。
老化に驚き、このような戸惑いを覚えていた。そして最初は、この現実を受け入れられずにいた。しかし老いの現実を受け入れなければ、人生はより悲劇的となる。そして本人にとって悲劇的であっても、他人の目にはただの喜劇に映るのが悲しい。
目をつぶれば、ランニングシャツを着た少年の日々が鮮明に蘇ってくる。ふと心を許せば、ほろ苦い青春の思い出に浸っている自分に気づくことがある。懐かしい映像は日ごと遠ざかってゆくのに、まるで昨日のように思い起こされる。少年には無限の時間と可能性があった。そしてあの青年には健康な肉体と大きな夢が与えられていた。時間と健康こそが何よりの財産としみじみと思う。
ギリシャの神聖ヒポクラテスの言葉「Art is long、Life is short」が思い起こされる。またかつて覚えた「少年老いやすく学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」の言葉もまさにそのとおりと感じられる。日暮れて道遠く、時は速く人生はあまりに短い。
果たして人生の適齢は何歳ぐらいなのだろうか。「人生50年。下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。この世に生を受けて、滅せぬもののあるべきや」。織田信長が好んで舞った敦盛は人生50年と謡っている。そして敦盛を愛唱した織田信長は48歳で自刃している。適齢人生は50年なのだろうか。
江戸時代の寺院に残された記録によると、村人の死亡者の7割が乳児だったとされている。乳幼児死亡率が高ければ当然平均寿命は短くなる。しかし乳児期を幸いにも乗り越えた場合、人の寿命は意外に長いことがわかっている。歴史上の著名人の平均死亡時年齢を調べた研究では、奈良時代のような古い時代でも平均死亡時年齢は63。6歳、明治時代では63。0歳である。平安、室町、江戸、どの時代をとっても平均死亡時年齢は60歳から65歳の間で変わらない。つまり人生60から70年が適齢人生といえるであろう。
統計としての平均寿命が急速に伸びたのは、乳児死亡率や妊産婦死亡率が低下した戦後のことである。抗生剤の登場、社会環境の整備、栄養状態の改善などが加わり、人生50年の時代は瞬く間に過ぎ去り、還暦(60歳)の時代、古希(70歳)の時代、喜寿(80歳)の時代へと突き進むことになった。
還暦とは生まれた年と同じ干支に戻る年齢のことである。そして赤いちゃんちゃんこを着て赤い頭巾をかぶるのは、還暦に達すると人間は赤ん坊に戻り、新しい暦に入るためとされている。還暦を過ぎても若々しく活躍している人は多い。また年寄り扱いされるのも嫌であろう。しかし年老いて赤ん坊に戻るというのは何とも微笑ましい考えである。古人は的確なことをいったものである。40歳にして惑わず、50歳にして天命を知るというが、なかなかそのように悟ることは難しい。還暦を過ぎてもジタバタしている者、欲ぼけに固まった老人も多く見られる。
老化を自然なものと受け入れ、老いを老いとして納得することが必要である。「日暮れの道もまた楽しい」このような気分になれれば黄昏の日々も楽になる。ひとりでは生きてゆけない大きな赤ん坊には周囲のサポートが必要であるが、赤ん坊と割り切れない老人が多いことも事実である。
還暦で赤ん坊というのは早すぎるが、いずれ赤ん坊に戻るのは事実であろう。欲をもたず、我に縛られず、老醜をさらさず、そして老害を自覚し、赤ん坊のように愛らしく生きてゆければどんなに良い人生だろうか。
村の特産品
日本の国は何によって、あるいは誰によって支配されているのだろうか。総理大臣であろうか、自民党であろうか、あるいは官僚であろうか。もちろん彼らはそれほどの存在ではない。では何が日本の国を支配しているのだろうか。それは経済界でも、マスコミでも、法曹界でも、もちろん特定の人物でもないであろう。家庭、隣組、学校、医局、会社、医師会、官僚、政党、・・・これら日本を構成する各集団を眺めてみるとこの疑問への答えがみえてくる。
集団のなかの1人ひとりは組織のなかでもたれ合い、ぬるま湯的感覚に浸っている。また集団のなかの安住が外部への無関心を引き起こし、井の中の蛙的感覚が自然に作り上げられている。各自が考えるのは自分のことばかりで、それ以外には関心がない。同族意識と排他意識、あるいは利己主義と他人への無関心、このような日本人の意識が目に見えない形で日本全体を支配している。1人ひとりの狭い了見によるムラ意識が日本全体を支配しているのである。
戦後、農業から工業へと産業が変化するとともに、田舎から都市へと人口は移動した。古い因習や近所付き合いが希釈され、地縁・血縁によるムラ意識は一時失われたかのようにみえた。しかしこれは単に「地域としての村」から「各自が所属するムラ」へと意識の重心が移動したにすぎなかったのである。会社などの集団が新たな共同体としてのムラを形成したのだった。
この新たなムラ社会は葬式の形態に顕著に反映されている。かつて地域が仕切っていた葬式は会社が仕切るようになり、面識のない上司の親の葬式に出ることが日本社会の掟になった。本人ではなく、本人の親の葬式にかり出されることが共同体としてのムラ社会を表している。そしてこの掟を破る者は会社のなかでは生きてゆけない雰囲気が作られた。人々は集団というムラの中で、ムラに縛られ、ムラに安住し、そして村八分を恐れながら生きている。
海外から見れば日本は近代国家とされている。国民総生産は世界第2位、海外援助金は世界第1位となっている。そして情報化時代が国境を取り除き、国際化の波が目の前に押し寄せている。しかし日本人の意識はムラ社会から脱せず、ひたすら自分たちのムラ社会に安住しようとしている。日本をリードすべき政治家や官僚も、そしてビジネスマンもひたすら自分のムラ社会に留まりながら意識の変化はみられない。IT革命と騒いでみても、頭髪を金色に染めてみても、日本人の脳ミソは江戸時代と変わらずに鎖国状態のままである。
日本は高度経済成長をとげ裕福な生活を得ることができた。これはアメリカの傘に守られ、世界の紛争に巻き込まれなかったからである。この単なる国際情勢の幸運を日本人は幸運だったと実感していないので、偶然に得られた平和のなかで、これからも何とかなるだろうと思っている。ムラ社会にはぬるま湯に浸っているような快適性がある。これを平和な社会といえばそうかもしれない。だが食糧や資源の大部分を海外に依存している日本だけが、1国平和主義に安住できる可能性は低いと考えるのが常識であろう。
日本人の海外旅行者は1600万人に達し、ほとんどの日本人が海外を経験している。しかしその大部分は観光が目的なので日本人の脳ミソには海外事情はインプットされない。現在、グローバルスタンダードという言葉が叫ばれている。そして日本の村人たちは医師も含め何も考えずにアメリカン・スタンダードをグローバルスタンダードだと思っている。しかしこれは井の中の村人が陥る最も大きな間違いである。そして意識までも他人に依存している指導的立場の村人たちが全体を間違った方向に導く可能性がある。
WHOは2001年、世界各国の医療を比較して日本の医療を世界1位と評価した。そして評論家が大好きなアメリカの医療を世界36位と位置づけたのである。日本人の多くはアメリカの医療を知らないので日本の医療を低レベルだと思い込んでいる。しかし実際には逆である。医療以外に日本が世界に誇れるものがいくつあるだろうか。
このように高い評価を受けている日本の医療が、何故これほどまでに誤解され不満にみちているのだろうか。それは「医療こそが世界に誇れる日本最大の特産品」であることを日本の村人たちが知らないからである。井の中の村人たちは評論家の悪口に乗せられ不満ばかりを言うが、このままでは日本の特産品は腐るだけであろう。日本の医師たちは村人たちに特産品のよさを堂々とアピールして、日本の医療が世界1位であることを宣伝する必要がある。
わかっているけど
糖尿病患者の食事制限、肺気腫患者の禁煙、肝炎患者の禁酒、人間は馬鹿ではないから病気のために何をすべきかを十分に理解している。しかし悲しいことに、身体に悪いとわかっていても止められないのが、これまた人間である。頭で理解していても、今回だけはと言いながら止められずにいる。自分の病気についてさえこうである。ましてや自分に関係ないことについては、それ以上にわかっているけど止められない。
ゴミを捨てれば環境が悪化する。自動車に乗れば排気ガスをまき散らす。違法駐車は渋滞を引き起こし、合成洗剤は河川を汚染する。これらは誰でもわかっていることである。しかしわかっているけど止められない。
公共の場を汚してはいけない。このようなことは説教されなくても誰でも承知していることである。だから入試の小論文になれば多くがいっぱしの文章を書く。面接試験でも理想的な解答しか返ってこない。日本の若者が礼儀正しくなるのは入社試験の時だけで、嘘が上手な者ほど面接では高得点を得るという矛盾を生じさせている。
小論文や面接で人物評価が難しいのは、人間は平気で嘘をつく動物だからである。人前では偉そうな建て前でモノを言い、ひとりになると悪魔の誘惑に負け本音で行動する。そして目の前の欲望が公共心よりも優先されることになる。この建前と本音のギャップが、環境破壊などの社会問題が解決しない1番の原因である。
性善説と性悪説の2つに人間の本性を分け論じることがあるが、それ以前のこととして、善悪を判断できない人間は存在しない。問題は善悪がわかっていても楽なほうへ流されてしまうことである。人間は集団の利益を理解しながらも、自分の利益と快適性を求めてしまうズルイ動物なのである。みんなの社会の自分だけの利己主義である。
かつての日本人は、世間様が、あるいはお天道様が人間としての行動を見張っていた。しかし地域社会が崩壊し周囲が見知らぬ他人となって、毎日が旅の恥のかきすて状態となった。宗教的倫理観をもたない日本人は、周囲の相互監視が薄れるとともにモラルや恥を失い、品性まで落とす結果となった。
日本は民主主義の国といわれている。しかし正確にはワガママ民主主義の国である。このワガママ民主主義を改善させる方法はあるだろうか。まず刑罰あるいは強権によって解決させる方法について考えてみよう。
ゴミを捨てた者に100万円の罰金を科せば街のゴミは確実になくなる。学会で時間を守らない演者にはマイクのスイッチを切る方法がある。これらの方法は一見よさそうにみえるが、このような監視と統制の社会ではギスギスした全体主義社会になってしまう。強権による政治の代表は独裁政治であるが、この政治形態が機能しないことはすでに歴史が証明していることである。
そして最後にたどりつくのが教育論となる。しつけや教育によって現状を変えようとする方法である。しかし教育改革を行うたびに教育がおかしくなったように、教育体制が同じであれば改善は期待できない。本来、教育とは教え育てることであるが、現在の教育は暗記ばかりで、すべての試験は暗記大会となっている。重箱の隅を重視し、人間の品性や創造性を育てなかったので子供たちは学年を増すごとに人間性と学力を低下させている。
教育が受験という競争を内在させ、さらにテレビによる社会汚染が進行している現状では、教育者の言葉は効力をもちにくいことであろう。また子供たちが教育によって愛他的になったとしても、利己的な人たちに利用される危険性が生じてくる。このような問題はあるが、みんなの社会を守るためにはしつけと教育以外に何があるだろうか。
その教育とは利己主義の醜さ、愛他主義の尊さを刷り込ませ、他人の痛みを教えることである。学芸会よりはゴミ拾い、修学旅行よりは病院でのボランテアである。そして何よりも大切なことは、「他者に危害や迷惑をかけない」という、自由主義社会の大原則を教育の場で教えることである。幼い時から甘やかされてきたワガママ子供たちを矯正させるにはワガママ親の抵抗が強いだろうが、これを教えなければ現状のままである。
自分の病気をどうするかは個人の自由である。しかし自分たちの社会をどうするかは全員の問題である。そして愛他主義は無理としても、害他主義の厳禁ぐらいは最低限教えなければいけない。
自分を含め多くの人たちが社会的問題を解決できないのは、わかっていることを解決できない弱さとズルさを合わせ持つからである。いずれにしても学校という小社会のなかで正直者が馬鹿をみない社会を実現させてやることが必要である。
善き秋田県人
あるユダヤ人の旅人が強盗に襲われ瀕死の重傷を負い道に倒れていた。この旅人を見て、ユダヤ人のエリートである祭司やレビ人たちは旅人を避けるように道の向こう側を通るばかりで誰も助けようとしなかった。そして息も絶え絶えの旅人を助けたのは1人のサマリア人であった。旅人を介抱しながら宿まで運び、当座のお金まで旅人に置いていったのである。サマリア人は混血の民で、ユダヤ人にとっては血を汚した民と白眼視されていた。ユダヤ人の旅人を助けたのは日頃から蔑んでいたそのサマリア人であった。これが新約聖書・ルカ福音書に書かれている善きサマリア人の1節である。
この善きサマリア人の名前をつけた法律がアメリカの「善きサマリア人法(グッド・サマリタン・ロー)」である。この法律は善意で救命行為を行った者には基本的に治療に関するミスを問わないと定めている。この善きサマリア人法が定められるまでは、医師が善意の救命行為を行い不幸な結果になった場合に訴えられるケースが頻発していたのである。そのため街で人が倒れていても医師は関わりを避け、知らないふりをするという悪習があった。この不条理をなくすために設けられたのが「善きサマリア人法」である。
秋田県で5年間に1、500件以上の気管内挿管を救急救命士が行っていたというニュースが飛び込んできた。何でも医師まかせ、何でも法律優先、このような理不尽な現状に憤りを覚えていたので、このニュースは痛快かつ感動的であった。救命士は気管内挿管が医師法違反であることはもちろん承知の上である。法律よりも目の前の患者を優先させた救急隊員の美談である。もちろんアメリカでは救命士の挿管や薬剤投与は認められている。
しかしこの事件に厚生労働省は大騒ぎになったらしい。そして救命士の医療行為はまかりならんとの結論が下された。法律を盾に救急車から気管内挿管の器具が外されたのである。
馬鹿な話である。1500人の命を救った救急救命士の職業倫理こそ表彰すべきなのに、石頭の人々によって患者の生命が吹き消されてしまった。
秋田県では心肺停止から蘇生処置を行った人の救命率は11。4%であり、全国平均(3。3%)の3。4倍も高かった。しかし秋田県のこの栄光も昨年までであろう。秋田県の実績を正当に評価する健全な精神を私たちは失っていたのである。そのために救われるべき私たちの生命が死に至ろうとしている。
似たような杓子定規の話はいたるところに転がっている。神戸の震災で外国人医師を拒んだのも医師法であった。在宅介護におけるヘルパーにも医療行為の壁が立ちふさがっており、褥創の処置、痰の吸引、浣腸などはできないらしい。家族に認められている医療行為であっても法律が邪魔をしてダメとなっている。患者を預かるヘルパーや看護婦の現状を非現実的な法律がじゃまをしている。
医療事故で最も頻度の高いのは患者の転倒、転落である。これらが医療事故の4分の1を占めている。また食事の介助による誤飲の頻度も高い。そしてひとたび事故が起きると大変なことになる。家族の反応は2種類にわかれ、本人の不祥事であるとわびる家族と、病院の管理をなじる家族である。そして最近、後者の頻度が増している。
元来、法律は悪人を罰するためにつくられたものである。この法律が善意の者を罰するならば法律などないほうがましである。法律を盾に取る人間ほど醜悪なものはない。
善意の医療行為については、たとえ悪い結果をもたらしても、悪意や重過失がない限り責任を問わないという「善き秋田県人法」が切望される。そうでないと、食事をさせずに点滴だけ、リハビリをさせずに抑制だけの防衛医療、萎縮介護となってしまう。そして患者のために現場で働く者がすさんだ気持ちになることが危惧される。
医師法は病気という可哀相な立場の患者を助ける目的で制定されたはずである。医師法の条文がその目的を凌駕するようでは医師法の意義が薄れてしまう。法律の枠内でしか判断できない私たちの悪習である。
救命士の問題で秋田県の医療や行政関係者、住民たちから声があがらなかったのが残念である。この問題が秋田県から国レベルに発展しなかったことが悔やまれる。なぜかというと、厚生労働省の見解よりも私たちの生命のほうが大切だからである。自分たちの生命を守るための救急医療に対する意識が恥ずかしいほど低いのである。自分たちの生命さえも他人事である。
イエスは善きサマリア人の話を終えると、群衆に向かい次のように言った。「あなたたちも、サマリア人と同じようにしなさい」。これが人間を愛するイエスの言葉である。
若きヒポクラテスたちの夢
きらめくような夢があった。眩しいばかりの夢があった。誰にでも成功のチャンスが与えられ、才能がなくても才能以上のことが発揮できる。そのような明るい希望に溢れていた。
焼け野原のバラックにはリンゴの歌が流れ、人々の生活は貧しくてもその瞳は輝いていた。街並は汚れていたが生気と笑い声に満ちていた。少年たちは青い山脈の歌を口ずさみ、キューポラの街の映画に胸を熱くした。青年たちは意味もわからずに宗教や哲学を語り、文学論や恋愛論に舌戦を闘わせた。そして学生たちは義憤と激情を抑えきれず、スクラムを組み安保闘争や安田講堂で血を流した。あの時代の活力はどこへ行ったのだろうか。不可能なことを可能にしようとしたあの青年たちの気概はどこへ消えたのだろうか。夢は生きる希望であり、夢を失った人間は動物園の檻の中のうつろな動物と同じである。
人生論よりはビジネス本、恋愛論よりはデートのマニュアル本、学問よりは学歴、夢よりは預金通帳、このように私たちは目先の現実ばかりを探るつまらない動物になってしまった。
自分の利益しか考えず、ただ乗りばかりを期待している。評論家と同じように問題を分析しても、愚痴ばかりで現状を変える気力がない。ものの本質を求める力、世の中を変えようとする情熱を失っている。行動する前に利益と安全性ばかりを考え何もできないでいる。
現在の日本は先の見えない閉塞感で何とも息苦しい。経済が傾いているが、不況だけがこの息苦しさの原因ではない。正義の仮面をかぶった者が健全な人々を攻撃し、他人の不幸を喜ぶような陰湿な空気が漂っている。また得体の知れない黒いシステムが日本を支配し、これらが日本人の夢と活力を奪っている。
かつて青年であった今の年寄り連中は幸せだった。人々に貢献しようとする使命感、あるいは豊かな生活を追求できる成功の夢があった。将来への希望があり、努力した青年にはそれなりの評価が与えられていた。見果てぬ夢を追えたのだからかつて青年は幸せだった。問題は今の少年、今の青年たちのことである。はたして彼らに夢と希望はあるのだろうか。
私たちの後輩である医学部の学生についても同じことがいえる。若きヒポクラテスたちの将来はどうなるのだろうか。今の医学部の学生には、残念ながら夢も希望もないように思える。まず医師になるには覚えるべき医学情報が多すぎる。また医師になっても過酷な労働と低賃金が彼らを待っている。医師は以前ほど社会からの評価は得られず、また経済的な待遇もそれほどではない。そして反対に責任ばかりが重くのしかかっている。かつての医師はたとえ無給医局員であっても将来に希望があった。周囲がそれなりに評価した。だから過酷な労働にも耐えることができた。
偉い人たちは患者のために働けと言う。そんなことは十分承知しているが、大半の患者は研修医より顔色がよい。徹夜で働いている研修医に患者は寝むれないと何度もコールを繰り返す。寝食を忘れて働く研修医に食が原因の糖尿病患者が診察が遅いと文句を言う。何時間寝たかが研修医の挨拶言葉となり、わずかに医師としての誇りだけが彼らを支えている。
研修医も患者と同じ人間である。奉仕者の自己犠牲ばかりを求める歪んだ考えは捨てるべきである。人間の命を救う聖職としての誇りを支えるには周囲の適切な評価が必要である。それが金銭であれ、名誉であれ、やりがいであれ、評価を与えずに彼らをゾウキンのように使うのはよくない。
平成16年から卒後2年間の研修必修化がはじまろうとしている。この新しい制度の中で1番肝腎なことは研修医の給料をどうするかである。この予算と過重労働の問題をあやふやにしたまま制度だけが先走らないことを願いたい。研修医の給料を看護婦より高くしなければ研修医の誇りを支えることはできないであろう。また患者への責任も給料に見合うだけの責任とすべきである。私たちの共通した願いは次世代の人々が幸せになってほしいことである。そして私たち年寄り医師の責任は次世代の医師に夢を与え、生き甲斐のある毎日を送らせることである。年寄り医師は若きヒポクラテスたちに夢と希望を与える責任がある。
かつてインターン制度や無給医局員制度で日本中が大混乱をきたした時代があった。あの当時、旗を振り、ピケをはり、デモをおこない、ストを決行したのが研修義務化を計画している今の年寄り連中である。
研修必修化がインターン制度の二の舞になれば、もし若きヒポクラテスたちの夢を摘むような制度になれば、それは私たち年寄り医師の大きな責任である。昔の言葉でいえば、切腹覚悟で制度をつくってほしいものである。
医療の効率化と医療難民
経済を基盤とする現代社会は常に生産性や効率が求められている。企業はベルトコンベアーで無駄を減らし、カンバン方式で在庫を減らし、リストラで人件費を削り利益を上げようとしている。資本主義社会における効率化は良い製品をより安く売るための競争であるが、この効率主義を別の言葉で言い換えれば金儲けのための企業の論理と表現することができる。
最近、この企業の論理を医療に持ち込もうとする動きがある。医療財源が困窮しているのは医療に無駄があるからで、効率化によって医療の無駄をなくそうという発想である。また病院が赤字なのは経営に無駄があるからで、経営のプロが病院を経営すれば黒字になるという理屈である。しかし彼らの理屈は根本的に間違っているだけでなく、国民を不幸のどん底に陥れる危険性を含んでいる。
医療財源が困窮しているのは国が医療財源を出さないからで、欧米の2倍以上の患者を欧米より安い医療費で運営している日本の医療に、非難されるような無駄など存在しない。医療において効率化が可能なのは白内障の手術や整形美容などの生命に関与しない部分に限られ、しかも効率化が可能な部分はすでに効率化がなされている。病院が赤字なのは病院が赤字になるように医療が統制されているからで、赤字を非難するならば赤字を誘導している医療体制を非難すべきである。
このように経済人が医療の効率化を言うのは、医療ビジネス参入のための口実にすぎない。動機が不純なだけでなく、彼らの発言は日本の医療に無駄が多いという誤解を国民に与えている。
ところで人間の身体は巨大な化学コンビナートにたとえることができる。そしてこの巨大な化学工場が故障した場合に、その原因を診断し正常な状態に戻すことが医師の務めとされている。そのため医学部では化学工場の仕組みが教えられ、学生たちは壊れた部分の診断やその治し方を学んでいる。
この医学の役割を示す当たり前の文章は、また同時に現代医学の最大の欠点をも表している。それは現代医学が人間を部品の集まりと捉え、故障した臓器にだけ目を奪われているからである。現代医学も経済人が考える効率的医療と同じ様に、医療をシュミレーションゲームのように捉えている。
人間の身体はたしかに巨大な化学工場の集まりである。しかし人間は無機質のサイボーグではない。人間は喜怒哀楽の感情を持ち、数値では表現できない様々な要因によって左右されている。もし壊れた化学工場を治すだけならば、修理不能と患者を突き放すだけならば簡単である。しかし実際の医療が難しいのは、それを必要としている患者が人間であり、壊れた部品を交換するようにはいかないからである。
現在は高齢化社会である。そして医療を必要とする大部分の患者も高齢者である。このような高齢化社会の医療には企業の論理も現代医学の論理も通用しない。70年以上も酷使した老人の身体はある部品だけが壊れているわけではない。経済人ならば廃車にするようなボロ自動車を丁寧に扱うのだから容易なことではない。老化を基盤とした疾患にはマニュアルも教科書も通用しない。一人ひとりへのオーダーメイドになるので、時間も費用もかかることになる。老化に関した疾患にはむしろ非効率的医療が求められている。
高齢化社会には高齢者に適した医療、つまり医療に医学と福祉を融合させた考えが必要である。しかしこれらは別物であるかのように、統一されずバラバラのままとなっている。
医療への市場原理の導入は患者の利益が目的ではなく、企業の利潤追求が目的である。修理工場や金貸しと同じ様な商売の発想である。患者の人間性や福祉の部分を削除した考えで、多くが望んでいる全人的医療とは逆行している。また効率化によってマンパワーが減少すれば患者へのケアーはなおざりになり、多忙による医療事故も多発することになるであろう。
利益のために従業員の首を切る企業が、悩める患者のために何をするのだろうか。医療制度の美味しい部分だけを食い荒らし、儲からない患者を突き放すだけである。医療を必要とする患者が医療から追い出され、福祉の恩恵も受けられず、医療難民が路頭に迷うことになる。
人間を札束で数えるような医療、人間を数値で評価するような医療、このような医療など誰も望んでいない。倫理性のない企業の論理、このような貧困な精神が医療に持ち込まれれば、患者はただ不幸になるだけである。
元気な者にはわからないだろうが、いずれ年齢を重ねれば我が身のこととして医療難民を実感するであろう。
石打の刑
聖書は世界最大のベストセラーである。なぜ聖書が世界最大のベストセラーなのか、それは聖書を読めば自ずとわかるはずである。聖書にはキリスト教徒でなくても興味深い話が数多く書かれているのである。今回は、ヨハネによる福音書8章に書かれている「石打の刑」の話を紹介しよう。
旧約聖書のモーセ律法によると、人妻の不倫は相手男性とともに死刑が決まりであった。婚約中の女性も同様で、群衆から石を投げられ殺されることになっていた。これが石打の刑である。
物語は姦通の現場で捕らえられた女性が説教中のキリストの前に連れてこられたことから始まる。ユダヤの役人がキリストに次のように尋ねたのだった。「あなたならば、この姦淫した女性をどうしますか」。これは意地の悪い質問だった。もしキリストが女性を許すと答えれば、キリストは旧約聖書の戒律を破ることになる。逆に死刑を認めれば、それはキリストが教える隣人愛に反するだけでなく、当地を支配していたローマの法秩序を無視することになった。いずれを選んでもキリストには不利である。これはキリストを陥れるための巧妙な罠であった。
石を手にした群衆が女性を殺そうとキリストの周囲を取り囲んでいた。返答に窮したキリストは、長い沈黙の末に次のように言った。「石を投げる資格のある者だけが石を投げなさい」。このキリストの言葉を聞いて、1人また1人と石を置き、群衆はその場から立ち去っていった。
日本人の不倫については、残念ながら正確な統計はない。しかし厚生省人口動態統計によると年間77万人が結婚して、25万人が離婚するとしている。そして司法統計年報は離婚の3割が異性問題が原因と指摘している。既婚者でさえこの数値である。まして婚約者の数値は推して知るべしである。マスコミは著名人の不倫を犯罪のよう報道するが、それ以前のこととして、私たちの多くは石打の刑を受けるべき罪人なのである。
駅前には自転車が放置されている。街のいたるところにはゴミが捨てられている。相手を思いやる気持ちは希薄になり、街行く人たちの人相も悪くなった。犯罪統計によると、裁判で有罪判決をうけた者は昨年だけで約100万人に達したそうである。
最近の事件を振り返ると、国会議員の公設秘書問題、検察官の裏金疑惑、警察のもみ消し不祥事、企業ぐるみの嘘つき商品、このようにその犯罪性よりも人間性が、あるいは組織としての倫理性が問われる事件が相次いでいる。そしてモラルが問われているのに、事件が発覚すると嘘をつき罪を逃れようとする。また運良く逮捕を免れた同類者たちは、自分たちの腐敗を隠すかのように潔癖そうな顔をしている。
さらにこれらの事件が非倫理的に感じられるのは、事件が密告という手段によって発覚していることである。マスコミは内部告発という言葉を使うが、これらは告発ではなく密告である。密告は他人を陥れる快楽と私的な恨みの解消が目的であるから、それは公的な正義に見せかけた私的リンチである。自分の地位を捨てる覚悟で悪を告発した潔癖例などはまれのまたまれである。
犯人が登場すると、周囲は待ってましたとバッシングする。しかし時として泥棒が人に説教するような、売春婦が人に教育を語るような違和感を覚えることがある。また精神的な障害を受けたと怒鳴る被害者が、それ以上の苦痛を加害者に与えていることもまれではない。
マスコミは犯人を追及するが、しかし追及する者が必ずしも倫理性が高いわけではない。石を投げる資格をもたないだけでなく、リンチを期待する群衆を扇動しているようにみえることがある。
このような現象は、私民に堕落した市民が自分に欠如している潔癖性と倫理性を他人に求め批判しているのである。罪人に罪以上の罰を求め、欲求不満の解消を計っているのである。このような私民に他人を批判する資格などあるはずはない。
厚生労働省は全国82の特定機能病院の医療事故発生状況をまとめた。そしてこの2年間に計1万5003件の事故が発生し、死亡や重体などの重篤な状態が367件に達したと公表した。日本を代表する特定機能病院で1病院あたり年間100件の医療事故である。もはや医療事故は特定の人間レベルの問題ではない。道路のあるところに交通事故が起きるように、医療行為のあるところに医療事故が起きるという冷静な認識が必要である。医療現場のバッシングで物事を解決せるのではなく、事故を防止するための医療システムを冷静に考えるべきである。
私たちの多くは罪人である。それゆえに相手の罪を許す心の優しさと物事を見きわめる冷静な判断が大切である。
悲しい勘違い
医師の仕事は患者から信頼を受け、患者との共同戦線で病気を治すことである。しかし残念なことに医師は世間を知らず、患者の心理分析も劣っている。医師は医学的に正しい治療を行えば周囲は自分を評価すると自惚れており、患者は医師の善意を信じるべきとする独善的思考から脱していない。そのため医師はつまらない誤解を受けることになる。
いっぽう詐欺師の仕事は相手をいかに騙すかであるが、詐欺師の心理分析能力は心理学者以上の実力がある。詐欺師の言葉使いは丁寧で、身なりはきちんとしており、相手を信頼させる説得力と笑顔に満ちている。詐欺師は悪党であるが、医師は詐欺師の心理学や演出を学ぶことも少しは必要である。それは患者を騙すという意味ではなく、医師と患者のよき共同戦線を構築させ、患者とのよき信頼関係を築くためである。現在の医師に欠けているのは、患者の心の動き、人間の心理をあまりに知らないことである。
昭和37年、若き脳外科医の活躍を描いたアメリカABCテレビの連続ドラマ「ベン・ケーシ」が日本でも放映され爆発的な人気となった。ベン・ケーシはロサンゼルスのカウンティ病院に勤務する正義感あふれる脳外科医で、50%以上の視聴率を越えていた。ベン・ケーシは人間の尊厳を重んじ、妥協を許さない熱血医師を演出していた。医学の良心にしたがい、医師の情熱と正義感、医師としての誠実さと人間味が視聴者の人気を得ていた。現在、医師の半数近くが半袖の「ケーシスタイルの白衣」を着ているが、これはケーシが着用していた白衣をまねたものである。当時はケーシスタイルの白衣に似せたケーシブラウスまで売り出され、女性の人気を得ていた。
ベン・ケーシの成功以来、「ドクター・キルデア」「ER緊急救命室」「シカゴ・ホープ」などの医者ものドラマがはやることになる。日本でも同じように医者ものドラマは途切れることなく放映されている。日本のドラマは馬鹿げた演出が多く腹立たしいので見ないことにしているが、知人の話ではドラマに出演する医師の服装は2種類に分類できるらしい。
ひとつはTシャツに白衣をひっかけ、白衣のボタンをかけない医師である。これはアメリカのテレビ番組の影響で、医師は服装ではなく生命に立ち向かう意気込みを評価すべきであると暗に要求している。かつてはこのような医師の服装が多かった。しかしそれは、高校生がわざと制服を着くずして精一杯の自己主張をしているようなもので。滑稽にみえることが多い。
次のタイプの医師は、髪をきれいにそろえ、ネクタイをしめ、まるで銀行員風の医師である。このての医師は、かつてはドラマの脇役か悪徳医師の役柄が多かった。つまり表面的な服装で内面の悪徳を隠そうとする手法である。しかし時代は変わり、清潔できちんとした服装の男性が女性にもてる傾向となり、銀行員風の医師の出演も多くなってきた。そして知性的、あるいは不器用であっても真面目な医師のイメージづくりに成功している。
アメリカのドラマではジーパンにTシャツの医師がまだ放映されているが、アメリカの患者アンケートでは、医師にはきちんとした服装を希望している患者が大部分なのである。ラフな服装を素敵と思う患者は、自由の国アメリカでさえ少ないのである。
企業が顧客を失うのは7割が従業員の態度とされている。患者の医師への信頼も同じであろう。医療訴訟も技術的なこともあるだろうが、根底には医師の服装や態度が関係していることが多い。誠実そうな態度や服装は医師の実力のなさを補う作用があるのに、実力のない医師ほど服装は乱れている。
また手術着のまま病院内を歩くのはよくない。これは不潔なだけではなく、術着のサイズが共有なので、お仕着せの服を猿や豚に着させたように、だらしなく見えるからである。フリーサイズのくたびれた術着を素敵に着こなすことは不可能にちかい。俳優がテレビで着る術着は、オーダーメードの高級品である。
医者もののドラマは現実とは違っている。しかしそのフィクションに引きずられている医師がいる。医師は医療の主役ではあるが、映画の主役ではないのだから、俳優を真似てTシャツでカッコをつけても患者はそうは思わない。俳優は何をやっても、何を着ても、あるいは何も着なくてもカッコよい。それは俳優だからである。
医師は自分の顔を鏡に映し、悲しい勘違いと服装を正さなければいけない。医師は患者から信頼を得るための努力を真面目に演出することも大切である。演出という言葉はあまりよいイメージをもたない。しかし演出の心がけによって、誠実な態度が自然に身につくものである。
当たり前のこと
現在、国民1人当たりの医療費は世界7位、対国民総生産比では世界19位である。いっぽうオリンピックの金メダル数は冬のソルトレークシティーではゼロ、夏のシドニーでは5つで世界15位、日本のサッカーは世界16位となった。
このことから日本の国民医療費もこの程度で良いだろうと思う人がいるかもしれない。しかしこの医療統計には目には見えない巨大な医療較差が隠されている。与えられた数値による医療の国際比較などで騙されてはいけない。
日本の医療は皆保険制度のため、医療機関と患者との垣根が低くなっている。そのため国民1人当たりの年間医療機関受診回数は約21回である。いっぽう欧米諸国は風邪などでは受診しないので国民1人当たりの受診回数は年間約5回である。この数値から日本の医師が診察する外来患者数は欧米の医師の約4倍、その診療単価は1/4以下と計算される。
患者は待ち時間が長く、診察時間が短いと文句を言う。しかしそれは患者数が多いための当たり前の現象なのである。この日本の患者数を欧米の医師に話をすると、クレイジーという言葉が必ず返ってくる。
このように日本の患者数は極めて多い。そしてそれを知らない日本の評論家は、医師のカルテの書き方が乱雑でメモに近いと指摘する。しかし欧米の医師がカルテをきちんと書いているかといえば嘘である。欧米の医師はカルテには何も書かず、テープに吹き込んだ患者との会話を秘書がカルテにタイプしているだけである。日本とはまったく方法が違うのに、方法の違いを議論せず、日本では何でも医師に仕事を押しつけようとする。もちろん医師が暇ならよいだろう。しかし医師過剰時代が嘘であるかのように日本の医師は忙しいのである。
日本では医師の責任を重くすれば何でも問題が解決すると思われている。そのため何か問題が起きると医師は会議、会議で対策を検討させられる。そのため患者への少ない対応時間がさらに削られることになる。医療が複雑化するたびに書類が増え、雑用が増え、患者との接触時間が短くなってゆく。
医療にとって最も大切なことは最新医療でも、消費する医療費でもない。もちろん病状や治療の説明は大切である。また最新医療や医療費も重要ではある。しかし尊厳ある人間として患者に対応しているかどうか、病気という不幸を背負った患者に安らぎの時間を与えているかどうか、そして患者への同情心をどれだけ持っているかどうか、これらは数値や金額では表せないが私たちにとって最も大切なことである。
人間は敏感な動物である。そのため自分がどのように扱われているかを患者は敏感に感じ取るものである。自分の臓器をポンコツとみなすことは許しても、自分そのものをポンコツ扱いにされれば無性に腹が立つものである。
医学的に正しいことを行っていれば非難されないと思っている医師がいる。しかしそれは大きな間違いである。むしろ多少の間違いがあっても、患者を診る目に人間らしい暖かさと優しさが欲しいものである。最近の医療訴訟をみると、訴えられる医師は運も悪いのだろうが、患者を無情な態度で扱っていたからではないだろうか。
患者を人間として扱うことは、それほど難しいことではない。それは患者のそばにいて、病気とは関係のない無駄話をすることである。孫の話、故郷の話、戦争の話、患者はそれぞれに豊富な体験を持っている。患者の体験から人生を学ぶ気持ちで時間に余裕を持ちながら接することである。無駄話は無駄話ゆえに気持ちが和らぐものである。病気の話も最低限は必要であるが、病気の話で互いのきずなを強めようとしても無理である。病気の話は抽象的で心と心を結びつける作用は弱いからである。
川が上流から下流に流れるように、切りだった崖から石が落ちるように、物事には一定の自然の法則がある。
人間の身体や人間のきずなも同じように一定の法則に支配されている。それは人間は加齢を重ね、いつの間にか老人あるいは病人になることである。また人間の心のきずなは無駄話から強くなることである。
生死を扱う医師は、そのことを緊張したり自惚れる前に「臓器障害をきたした人間を扱う職業」と常に自分に言い聞かせることである。それだけで患者への対応が違ってくる。そして同情の気持ちを合わせ持つことである。
これらはすべて当たり前のことである。しかし時間に余裕がないと、この当たり前のことを忘れやすくなる。そして時間に追わると怒りっぽくなるので注意が必要である。なにせ欧米の医師の約4倍の患者を診ているのである。
説明と同意
今日までの日本を振り返ると、民主主義教育が学生を甘やかし学力の低下と非行をつくり、民主主義を目指していた市民は欲の突っ張った私民となり、さらに護送船団方式が日本経済を沈没させ、そして汚職防止法案によっても政治家は汚職体質から脱していない。
現在は情報化時代と呼ばれ、多くの人たちは世の中のをわかっているつもりになっている。しかし日本の堕落を問われた場合、どれだけの人がその原因について答えられるだろうか。
本当のところは当然わからない。しかし日本という国が自由主義の形を装いながら、少しずつ社会主義あるいは官僚主義の道をたどってきたことが堕落の原因ではないだろうか。優秀とされる官僚に卓上の政策を押しつけられ、その規制に縛られて自由がきかなくなったのであろう。許認可権を持つ行政が鬼のように強く、よけいなお節介を押しつけ、規制が社会の強直化と閉塞をもたらしたのであろう。
この日本型社会主義の典型例が日本の医療制度といえる。医療報酬は2500種類に分類され、1万以上の薬剤が点数化され、すべての医療行為は行政によって監視され自由を奪われている。たとえ正当な医療行為であっても査定という罰金刑を受け、自由のきかない統制医療となっている。
厚労省は、彼らの怠慢から薬害エイズや薬害ヤコブを引き起こしながら、それらが表面化すると輸血の承諾書などの事務手続きを医療機関に押しつけてきた。その他、同様のことで予算を増やさずに膨大な仕事だけを増やしている。そのため忙しい病院はさらに忙しくなり、医療にとって最も大切な患者との会話の時間を奪われてしまった。
日本の医療システムは複雑である。しかも毎年コロコロと変わるので、医療事務を専門にしている者でさえ医療報酬の内容を正確に説明できる者は少ない。また現場の医師も押しつけられた医療制度を理解できず、目先の不条理に愚痴をこぼすだけとなっている。
医療は誰にとっても身近な問題である。しかしこの医療制度が欠陥だらけと感じながらも、それが議論できないほど複雑になっている。真面目な医師ほど、医療が何故これほど非難されるのかわからずにいる。
昭和50年代後半までの医療は父権主義であり、医師は患者に説明や同意などの必要はなかった。それが、医師の社会的地位の低下とともに、医療の主体が医師から患者に移り、説明と同意を求められるようになった。
いっぽう日本の政治家や官僚は、優秀であるがゆえにまだ父権主義のままである。医師には説明と同意を求めながら、政治家、官僚は国民に対し医療のあり方の説明と同意を行っていない。アリバイ作りの対話集会を開いても、決定された結果だけを押しつけてくる。国民は医療のあり方を説明されず、納得のできないまま医療費負担だけを宣告された。
医療事故が毎日のように報道され、国民の多くは日本の医療に不信感を抱いている。そしてそれを医師や看護婦の資質の問題にすり替えているが、それは間違いである。日本の医師がアメリカの医師の約8倍の外来患者を診察していながら、日本の医師が裁判沙汰になる確率はアメリカの医師の10分の1程度である。
国民が政府に望むことのアンケート調査では医療が1番であり、道路整備などはベスト10にも入っていない。それなのに公共事業費が国民医療費の倍以上もあり、また国民医療費の倍以上の金額で銀行を救済している。
高齢化社会といわれているが、この30年間で年金/国民総所得が8倍に増えたのに、国民医療費/国民総所得は2倍に増えたに過ぎない。そして国民年金(40兆円)は国民医療費(30兆円)より多額であることを誰も知らないでいる。
人の生命を守る研修医の給料が犬猫病院のお姉さんの給料より安く、医師の生涯収入は一般サラリーマンよりやや多い程度である。これらのことを政府は国民に説明しているのであろうか。
医療費の負担が必要なら仕方がない。しかし医療費困窮の実態と原因を国民に説明し、医療費値上げに同意してもらうことが必要である。
高齢化社会、医療の高度化などの自然増のため、医療の質を維持するだけでも医療費の増額が必要である。国民は医療の質を期待しているのに、医療の質と医療費、医療の質と人件費が相関することを知らないでいる。知らないので、ない物ねだりの不満に国中が満ち溢れている。
政府は堂々と医療の現状を説明すべきである。国民は馬鹿ではない、きちんと説明すれば、納得して同意するはずである。優秀である政治家、官僚の説明に期待したい。
マッカーサー待望論
将来、子供をどんな職業につかせたいのか。かつての人たちはこの問いに即座に答えられていた。しかし今の親たちはその返答に困ってしまうだろう。このことを別の言葉で言い換えれば、日本は生きるための夢と希望を失っているのである。
内閣府の調査によると、青少年の社会への満足度はアメリカが72%なのに日本は9%と圧倒的な違いがある。「高い社会的地位や名誉を得ること」を人生の目標と答えた青少年はアメリカが41%なのに、日本は 2%である。「社会への貢献」が目標と答えたのはアメリカが12%、日本は4%であった。日本の青年が最も望んでいるのは「人生を楽しんで生きること」で62%、アメリカは 4%だった。
夢と理想を追い求めるのが青少年の生きる目的と思っていたが、日本だけは世界の中で例外らしい。このことは青少年の希望する職業にも表れている。アメリカでは医師が19%、日本 3%、政治家はアメリカが16%、日本 0。6%、法曹人はアメリカが11%、日本 が1%である。アメリカは努力を要する職業が上位を占めるのに、日本は10%以上の職業はなく職種は幅広く分散していた。また「21世紀は希望に満ちた社会」と答えたのはアメリカ86%、韓国71%、フランス64%に対し、日本は34%となっていた。
アメリカの青少年には明確な問題意識と上昇志向が感じられる。しかし日本の青少年はまったく逆で、日々の享楽が生き甲斐なのである。
かつての日本人はもちろん違っていた。人生において目指すものがあった。それが博士であれ、大臣であれ、軍人であれ、目標とあこがれを持っていた。たとえかなわぬ目標であっても生きる活力になっていた。
この情けない青少年の悲観的享楽主義は何に由来するのだろうか。考えられることを列挙すると、あまりに平等すぎて努力に見合うだけの報酬がないこと。尊敬すべき人たちにそれなりの評価が与えられていないこと。努力によって成功した人を心から称賛する者は少なく、嫉妬する者の方が多いこと。このようなことから自分主義に拍車がかかり、他人への感謝の気持ちや思いやりが喪失したのであろう。物質的な豊かさの中で、人間として最も大切な「社会への使命感、社会への志と正義感」が失われたのである。
教師が理屈を言うたびに公徳心は乱れ、親が子供を大切にするほど子供は親不孝者となる。政治家が改革を唱えるたびに日本人はずるくなり、知識人が世界への貢献を述べても、何とか会議で決議文を表明しても、日本の若者は世界旅行のバカンスしか頭にない。無資源の国である日本が生き残るためには人材の育成しかないのに、すねかじりの世界の遊び人ばかりでは将来は暗くなる。
今の青年に活力はみられない。入試への活力はあっても、それはいつか楽になれることが目標であり、大学に入っても教えられたことを覚えるだけで、創造性もなければ学問、研究へのあこがれもみられない。
活力の低下や不満の増加は青少年だけに限らない。世論調査では国民のあらゆる世代に不満が広がっている。これは努力した者が報われず、また努力しない者は何でも他人のせいにするからである。「もらえるものはもらわなければ損」とする他人依存型の社会では、平等を装った政策や補助金が不公平を引き起こし、それが不満をより大きくしているのである。
医療においても同じである。医療サービスに満足している高齢者はアメリカ76。5%、スウェーデン49。0%、ドイツ41。3%、日本32。2%となっている。日本は最も安い値段で最高の医療を提供しているのに、医療サービスが良くないと感じている人が多いのである。
今の日本には、戦国時代、明治維新、終戦直後のような活力はない。不景気、犯罪の多発、環境悪化などの悲観論の中で、青少年は自分の損得と遊ぶことばかりを考えている。ではどうすればよいのだろうか。
日本のサッカーの監督は連続して外国人である。日産、マツダ、三菱自動車の社長も外国人である。それは外国人が優れているわけではない。外国人は義理やしきたりを無視するという先入観があるため、下が無抵抗に従うからうまくいくのである。
青少年に夢と希望を与えられないのならば、日本人の多くが不満をもっているならば、政治家や官僚を外国から輸入するのがよい。戦後の日本を大きく変えたマッカーサー元帥、誰よりも日本を愛したライシャワー元駐日アメリカ大使が頭に浮かんでくるが、政治家の人選は簡単である。人間として、日本人として、誇りと自信を与えてくれる人物なら誰でもよいのである。
Dr。鈴木の
辛口トーク
廃国置県
政府の医療改革、医療改正は国庫からの医療費を削減することが目的なので、患者負担は増額され、医療報酬は減額され、日本の医療は悪くなるだけである。
欧米並に日本の公共事業を半分に減らせば、日本の医療費は全額無料になるのに、政府はそれをいわない。もしそれが国民的議論となれば大変なことになるからである。日本は低負担で高福祉というが、国家予算の配分を欧米と比較すれば、日本は低負担で低福祉の国である。政府は国民の健康や生命よりも道路建設、銀行救済、海外援助などを優先させている。
国民は自分たちが選んだ政治家が、国民の生命と健康を軽視しているとは考えていない。また医療制度に対する国民的意識が低いため、医療のあり方を求める機運さえ起きようとしない。そして政府の医療改革、医療改正という言葉に騙され、政府は何の苦労もなく国民医療費を削減できたのである。
医療における最大の問題は国民医療費の総額である。そしてそれを患者、保険組合、国庫がどのように負担するかである。しかしいずれにしても、それらは国民の金であり、それを政府に委託しているにすぎない。政府は国民から委託された予算の配分を国民に説明し同意してもらう義務を怠っている。
日本の国民医療費(30兆円)が建設投資額(85兆円)の半分以下、公的年金(40兆円)より低額、パチンコ産業(30