永井隆(浦上の聖人)

永井隆(浦上の聖人)

 

 原爆投下

 昭和20年8月9日11時2分、長崎に投下された原爆は、長崎上空500メートルで炸裂した。それは小さな太陽が地上に落ちたような衝撃であった。強烈な閃光が走り、9000度の超高熱と、秒速2000メートルのすさまじい爆風が一瞬にして長崎の街を破壊した。美しい長崎の街並みは廃墟となり、7万人の尊い生命が瞬時に奪われた。爆心地から600メートルの距離にあった長崎医科大学は木造建築だったため倒壊し、学生、教員は建物の下敷きになった。そして火災により長崎医科大学は全焼した。大学ではちょうど講義がなされていた。教授は教壇で、学生は椅子に腰を掛けたまま死亡した。

 原爆が落ちた時、物理的療法科(放射線科)の永井隆助教授(37歳)は大学附属病院の二階の自室でレントゲンフィルムを整理していた。大学附属病院は鉄筋コンクリート造りだったため倒壊はまぬがれたが、爆風はガラス窓を窓枠ごと吹き飛し、部屋中の椅子、机、戸棚、フィルム、鉄かぶと、書類、すべての物を空中に投げ飛ばした。永井隆はピカッと閃光が走った瞬間、病院の玄関に爆弾が落ちたと思い、とっさに身体を伏せようとした。しかしその瞬間、身体ごと猛烈な爆風に吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。気づいた時には、窓ガラスの破片や木片に埋もれ、身動きのとれない状態になっていた。

 舞い上がった粉塵が視界をふさぎ、粉塵によって息がつまった。外はみるみる暗くなり、電灯の消えた部屋は暗い闇に包まれた。山嵐のような重い音が何度も聞こえてきた。永井隆は助けを求めようと闇に向かって「おーい」と声をあげた。しかしその声は暗闇の中で空しく消えていった。「早くここから抜けださなければ、そして被害者を助けなければ」彼はそう思ったが、瓦礫が身体を覆い、埋もれたまま脱出することはできなかった。このまま死んでしまうのだろうか。心は焦りながら、どうすることもできなかった。

 時間ばかりが過ぎていったが、やがて永井の声に気づいた橋本看護婦(17歳)が真っ暗な部屋の中で埋没している永井を見つけてくれた。そして身体を覆っていた瓦礫や木片を取り除き、生き埋め寸前の永井を救い出してくれた。橋本看護婦は、厚いコンクリートで仕切られたレントゲン室にいたので、かすり傷ひとつ負わずにいた。

 永井は橋本看護婦の助けをかり、やっと瓦礫の中から這い上がった。永井隆は生きていた。しかし割れたガラスで右の側頭動脈を切り、生温かい血液が顔面から首へと流れていた。右半身にはガラスの破片が無数に突き刺さっていた。

 

 この世の地獄絵

 永井は散乱した瓦礫を踏みながら、窓枠のなくなった窓に近づいていった。次の瞬間、自分の目を疑った。目の前の家屋は倒壊し、あるべきはずの兵器工場が見えなかった。窓の下に連なっていた街並みは巨大なローラーをかけたように粉砕され、長崎の街は見渡す限り消えていた。樹木の葉はそがれ、木々は裸となって斜めに傾いていた。青い木々で覆われていた稲佐山も赤茶けた岩山に変わっていた。病院の前を歩いていた人たちは倒れたまま、声もなく動こうとしなかった。そして無惨にも黒く焼けただれた者もいた。数え切れない裸体の遺体、目の前はまさにこの世の地獄だった。あらゆる生物は焼きつくされ、それは死後の世界だった。

 永井は廊下に出て、他に生き残った者がいないかどうか、声を上げて仲間を捜した。病院の中には倒れたままの遺体がいたる所に転がっていた。遺体は性別も年齢も分からないほど損傷を受けていた。そして遺体の間から「助けてください」とすがりつく重症者、わずかばかりの軽症者が病院の廊下に混在していた。物理的療法科(放射線科)はコンクリートの壁が厚かったので、怪我を負いながらも生き残った医師や看護婦が比較的多かった。数人の医師と看護婦は互いの無事を確かめ合うと、すぐに負傷者たちの治療の準備にとりかかった。

 看護婦に切れた側頭動脈に包帯を巻いてもらうと、永井は汚れた手を洗い、負傷者たちの応急手当を始めた。負傷者は助けを求め次々に周囲を取り囲んだ。着物は剥ぎ取られ、皮膚は焼けただれ、ガーゼ、包帯、三角巾はすぐに使い果たしてしまった。包帯の代わりに病棟から持ち出したシーツを切り、それも使い果たすと自分の着ているシャツを切り裂き患者の傷の手当てに使った。永井隆は自分の側頭動脈からの出血が止まっていないのに気づいていた。しかし自分のことはどうでもよかった。目の前の患者の治療だけを考えていた。

 

 自己犠牲の患者救助

 永井の頭部の出血は、静脈からではなく動脈からの出血だったので、圧迫しただけでは血液は止まらずガーゼをすぐに赤く染めた。看護婦がガーゼを取りかえようとガーゼを外すと、血液が飛ぶように噴き出し、看護婦の白衣や壁を赤く染めた。

 医師である永井は自分のけがの状態を理解していた。そして大けがにもかかわらず冷静に患者の治療にあたっていた。それは医師としての使命感だけではなく、敬虔なキリスト教徒として、自己を犠牲とする信念が患者救済を当然のこととしていた。時々、自分の脈を触れ、脈の強さから出血量を想定し、まだ3時間は大丈夫と判断した。永井は放射線医師であったが軍医としての経験も豊富だった。自分が倒れる前に、苦しんでいる患者をひとりでも多く助けなければいけない。それは時間との勝負・・・、と冷静に考えていた。

 もちろん患者の治療を優先させたのは永井だけではない。傷を負いながらも、医師や看護婦は自分のことよりも原爆で傷ついた患者の治療を優先させた。

 ふと窓から外を見ると、崩壊した長崎医大の建物はいつしか火の海となっていた。消毒薬がなくなり、消毒液を探しに地下の倉庫に飛び込んだ。しかし薬剤は散乱し、水道管が破裂し部屋中が水浸しとなっていて使える薬剤はなかった。そして病院にも最悪の状態が襲ってきた。物理的療法科(放射線科)で負傷者の治療をしているうちに、原爆の熱線により病院の各所から火の手が上がってきた。ほとんどの人たちが原爆で負傷しており、消火に参加できる者はいなかった。救護班はふたりが一組となり、燃える病棟をまわりながら負傷者を捜しだすと、患者を背負い、炎に追われるように決死の思いで病院の外へ運びだした。

 水もバケツもない。火の勢いは増すばかりだった。そして原爆投下から3時間後には病院全体が炎に包まれてしまった。永井の部屋の窓からも、黒煙とともに火焔が噴き出していたが、どうすることもできなかった。永井は無念のうちにただ呆然と眺めるしかなかった。放射線医学をこころざして13年、その間の研究資料、貴重な学術標本、フィルムが赤い炎となって燃えていった。

 病院が延焼していても、火の海となった浦上地区から、負傷した住民が次々に助けを求め病院に集まってきた。被爆者のほとんどは着物を剥ぎ取られ裸のままだった。そのうち病院前に設置した臨時救護所にも類焼の危険性が増してきた。

 救護隊長となった永井は直ちに救護所を丘の上にある大学のグランドに移すことにした。グラウンドの丘へ行く道は、倒れた電柱や石垣が道をふさぎ、崩れかけた瓦礫が行く手をはばんでいた。永井ら救護班は負傷者を懸命に背負いながら瓦礫をよじ登り、狭い上り坂をグラウンドへ向かった。やがて4時頃から黒い雨が降ってきた。救護班は黒い雨に濡れ、白衣を重油のように汚しながら、被爆者の救護活動をおこなった。

 被爆者が次々に運ばれてきた。多くは熱線による火傷を負っていた。それは通常の火傷とは違い、触れただけで皮膚が剥け、めくれあがり、赤い皮下組織が露出した。火傷の範囲は広く、半数以上が半身あるいは全身の火傷であった。中には皮膚の表皮が垂れ下がっている患者もいた。永井は救護隊長として医局の部下たちを励まし、患者の傷を縫合し、包帯を巻き、ヨウチンを塗り、血まみれになりながら被災者の治療に当たった。

 

 ついに倒れる

 側頭動脈からの出血は止まっていなかった。包帯を3回変えたが止まらず、貧血で倒れそうになった。看護婦は真っ青になった永井の顔を見て休むように言ったが、永井はそのつど自分の脈を触れ、まだ大丈夫と判断していた。しかし時間が経つとともに意識はしだいに遠くなっていった。かすんだ目には、黒煙に包まれながら燃え上がる病院がぼんやりと映っていた。市内各所から燃え上がる赤い炎と黒煙、そしてそれを怪しげに反射させる赤黒い雲。足元はよろめき、意識が遠くなり、その場に倒れてしまった。

 倒れ込んだ永井の周囲に同僚たちが集まり、必死に止血をおこなったが血は止まらなかった。そして外科の調来助(しらべらいすけ)教授が呼び出され、側頭動脈を縫合する手術が行われた。切れた動脈の断片は頭蓋骨の奥にかくれ、縫合手術には時間がかかった。麻酔薬がなかったので、コッヘルが神経に触れるたび永井の顔は痛みでゆがんだ。そしてやっと動脈の断片を見つけると、引っ張りながらどうにか縫合することができた。意識が戻ったのは倒れてから数時間後の夜のことであった。気がつくと、他の負傷者たちと一緒に板とワラでつくったバラックに寝かされていた。看護婦たちが鉄かぶとをナベがわりにして、カボチャを煮ながら食事の準備をしていた。

 長崎医大附属病院では職員の8割が死亡していた。救助活動を行えたのは医師、看護婦合わせて50人たらずであった。永井隆は翌日から救護活動を再開したが、原爆による放射線障害のせいか、あるいは出血による貧血のせいか、全身のだるさを覚えていた。午後になると、長崎市の周辺から医師たちが次々に到着し、救護活動に参加してくれた。無我夢中で治療を行っていた永井隆は、それまで200人以上の人たちの命を救ったとされている。

 原爆投下から3日目、永井たちは犠牲となった医師や看護婦たちを探し、冥福を祈りながら遺体を火葬にした。遺体の多くは3日前まで親しく話しをしていた同僚たちであった。永井は遺体を粗末にしないように、遺体を抱くように埋葬した。犠牲者の墓は板片に名前を書いただけの粗末なものであった。花を供えたくても、焼土となった長崎には供えるべき花がなかった。犠牲者に捧げる物は何も残されていなかった。

 

 妻の被爆死

 永井隆には妻の緑と幼い2人の子供がいた。子供たちは原爆の3日前に郊外の祖母の家に疎開させていたので無事であった。永井は妻の緑のことを案じていた。しかし次々に運ばれてくる被爆者の治療に尽くしていたので家に帰ることはできなかった。病院から自宅までは1.5キロの距離である。緑の安否が心配だったが、もし生きていたら自分を訪ねてくるだろうと期待していた。しかし被爆から2日が経っても緑は姿を見せなかった。永井は緑の気丈な性格を知っていた、たとえ重傷であっても、這ってでも自分を訪ねてくる妻であった。緑はどうしているのだろうか。死んでしまったのだろうか。永井の脳裏に、自分を見送った、あの朝の緑の笑顔が何度も浮かんできた。しかし多くの負傷者を前にその場を離れることはできなかった。

 その日の夕方、患者の治療に一段落を迎えた永井は救護活動から抜け出し、1.5キロ離れた自宅に向かった。自宅までの風景はそれまでとはまるで違っていた。家々は焼け、崩れた石垣だけが残されていた。目の前を遮る物はなく一面が焼野原であった。うなだれながら遺体を焼く人たちが所々で立ちすくんでいた。どこがどうなっているのだろうか。自宅が近づくにつれ永井の鼓動が高まっていった。

 あたり一面は白い灰に覆われ、自分の家がどこなのか分からなかったが、しばらくして、石垣を残したまま焼け落ちている自宅を見つけることができた。家は燃えつき、灰となって土台だけが突き出ていた。永井隆は焼けた台所の灰のなかから、緑がいつも身につけていたロザリオの鎖を見つけた。緑は自宅の台所で被爆死していた。妻の遺骨は茶碗の欠けらに混じりながら黒くなっていた。永井隆は緑の遺骨を拾いバケツに入れた。遺骨は軽く、まだぬくもりが残されていた。緑はロザリオと骨盤と腰椎の遺骨を残したまま、この世を去っていた。

 永井隆はすべてを失ってしまった。むなしさばかりが胸にこみ上げてきた。緑の遺骨を抱きながら、言葉にならず涙だけが流れてきた。何のために自分は生きてきたのだろうか、緑を灰にするために自分は生きてきたのだろうか、そしてこれから何のために生きてゆけばよいのだろうか。永井は遺骨を抱きしめながら絶望感に駆られた。本来ならば妻の緑が自分の遺骨を抱くはずだった。それなのに緑のほうが自分より先に死んでしまった。「生きることも、死ぬことも神の光栄ある思し召し」と受け止めるしかなかった。そして防空壕に入り、目をつむり、神に祈りをささげた。緑のロザリオの鎖をにぎり、遺骨とともに一夜を過ごした。

 

 三ツ山での救護活動

 永井隆は翌日から救護活動を再開した。被爆3日目の8月12日、12人編成の隊長となって三ツ山の貸家に「長崎医大第11医療隊救護所」を設置し、被爆者の治療に当たることになった。三ツ山には子供たちが疎開している祖母の家があった。永井隆は途中で他の医師や看護婦たちと祖母の家によることにした。誠一(まこと)と茅乃(かやの)の2人の子供は無事であった。

 しかし父親を見て子供たちは後ずさりした。頭部を包帯で巻き、包帯も服も赤黒い血で染まっていた。父親の顔は真っ青で、目だけが光っていた。そして永井が手にしたロザリオに誰もが言葉を失った。子供たちは浦上地区が原爆により火の海になり全滅したことを知っていた。母親のロザリオが何を意味しているのか、何も言わなくても理解できた。永井は子供たちに短い言葉を掛けるのがやっとだった。

 泣きたい気持ちをごまかすように、「さぁ,これから忙しいぞ、患者の治療を始めなければ」と言い残して外へ出た。医療救護隊員たちは浦上川の上流にある三ツ山の川に入り、身体の汚れを落とし、血まみれになった服を洗った。永井は裸になって自分の身体を見ると、身体中が傷だらけだった。身体を川水で洗うと救護班は三ツ山の村に入った。三ツ山はカトリックの村で、村人たちは救護班に献身的に協力してくれた。それまでは野宿の生活であったが、やっと貸家を見つけ、床の上で寝ることができた。永井は頭に包帯を巻きながら、物理的療法科の仲間たちと、次々に運ばれてくる被爆者の救護に尽くすことになった。

 負傷者の多くは原爆による傷を負い、その傷は化膿していた。救護隊は傷を洗い、ガラスや木片などの異物を患者の身体から取り出し、また熱線によって皮膚が裂けた患者、皮下組織が赤く露出している患者にも丹念に消毒を繰り返した。

 救護班が三ツ山を医療救護所に選んだのは、三ツ山の鉱泉が火傷に効くとされていたからである。救護班には使える薬剤はほとんどなく、あるのは消毒液のクレゾールとヨードチンキぐらいだった。患者を鉱泉に入れ治療することが大きな治療法となった。それでも三ツ山の救護所まで歩いて来られる患者はまだ軽傷で、重症患者は家の中で動けずにいた。そのため救護班は朝早くから周囲の地区を一軒一軒巡回しながら、家の中で苦しんでいる負傷者の治療に当たった。

 

 終戦

 原爆の投下から6日目の8月15日、重大放送があると知らされ西浦上国民学校へ向かった。そして玉音放送を聴き戦争が終わったことを知った。救護隊員たちは手をとり合い涙を流した。その涙は、日本が戦争に負けた悔しさよりも、この悲惨な戦争が終わってくれたことへの涙だった。誰も口には出さなかったが、この放送が一週間早ければ、長崎の悲劇はなかったことを悔しい思いで実感していた。

 長かった戦争は終わった。しかし目の前には大勢の患者が溢れている。患者がいる以上、医療救護隊の仕事に終わりはなかった。戦争に負けても、自分たちが守るのは目の前の患者の生命だった。患者がいる限り救護活動に終わりはなかった。このような考えは永井だけではなかった。救護班の医師、看護婦は皆同じ気持ちで患者の治療に当たっていた。

 永井はみんなが寝静まってから、原爆による被害状況、人体の変化、治療方法をランプの下で夜遅くまで克明に記録していった。記録を残すことは原爆に直撃された放射線医師として当然の任務だと思っていた。

 

医療人としての原点

 しばらくして救護班の隊員たちの身体に変調が起き始めた。それは原爆による放射能障害であった。怪我をしなかった隊員の身体も、放射能がむしばんでいた。救護隊員たちは放射能障害によって次々と体調不良を訴え始めた。頭髪は束となって抜け、全身倦怠が彼らを襲ってきた。微熱、嘔吐、下痢が続き、救護隊員たちは過労に加え放射線障害によって消耗していった。永井も同様の症状をきたしていた。肉体はしだいに衰え、歩くことすら困難になった。それでも永井は、朝早くから夜遅くまで、杖をつきながら往診して、動けない患者の傷の消毒などの治療を行った。ある日、往診からの帰り道、永井は坂道を登ることができなくなり、看護婦に背中を押されながら、ふらふらの状態で帰ってきた。そして病床につき、昏睡状態に陥ってしまった。

 永井の症状は一進一退を繰り返し、再び側頭動脈から血がにじみ出てきた。永井はいよいよ最後の時が来たと思った。病床には息子の誠一、娘の茅乃、神父、救援隊の仲間が集まった。永井は彼らに「正しい信仰を持ってください」と最後の言葉を振り絞った。しかし救護隊は諦めなかった。永井を助けるため必死になった。連日連夜、不眠不休の看護に当たった。息子の誠一は父親を助けたい一心で、片道20分以上もかけて何度も鉱水を汲みにいった。

 1週間後、周囲の気持ちと、キリスト教徒たちの祈りが通じたのか、頭部からの出血は止まり、生死をさまよっていた永井の症状は次第に回復へと向かった。永井隆はなんとか生命を取りとめることができた。しかし救護班員にも体調不良を訴える者が続出したため、長崎医大第11医療隊救護所は無念にも解散することになった。

 12人の救護隊員は自分たちも原爆の被爆者でありながら、被爆で傷ついた被害者に8月12日から10月8日まで救護活動を行ったのである。過労、栄養不良のなかで、永井隆をはじめとした救護隊員は、医師として、看護婦として、医療にたずさわる者として、それを当然の行為と受け止めていた。彼らの頭には自己犠牲という言葉はなかった。患者を前にして患者を助ける。この医療人としての原点が当然のように身体と心に刻まれていた。三ツ山での58日間の救護活動は、充分な医療品もない中で、全治した者79人、軽快10人、死亡29人、転出7人と記録されている。

 

 原爆の惨禍

 原爆によって家屋の多くは粉砕され、焼失し、長崎市は甚大な被害を受けた。当時の長崎市の人口は21万人とされていたが、原爆による死亡者は7万3884人、負傷者は7万4909人である。市民の3分の1以上が死亡し、3分の1以上が負傷していた。成人男性の多くは戦地にいたので、犠牲者の65%が老人、子供、女性だった。爆心から1キロ以内にいた人の多くは即死だった。この犠牲者の数は原爆直後の人数で、その後に死亡した者は含まれていない。また放射能障害、火傷によるケロイド、さらに奇形児が生まれるなど、原爆による被害は計り知れないものであった。

 長崎市のなかでもキリスト教徒が多く住んでいる浦上地区の被害がもっとも大きく、浦上地区の半径4キロ四方が焼野原となり、長崎市内の3割が全焼した。犠牲者の多くは、爆心地では体内の水分が瞬時に蒸発して即死状態、爆心地から1キロ以内では爆風、熱線による死亡が多かった。爆心地から2キロ以内で遮蔽物がない場合では、胃腸障害を引き起こし2週間以内に多くが死亡した。

 永井隆の息子・誠一が通っていた山里国民学校は爆心から600メートルのところにあった。校舎は全焼し、28人の教職員が亡くなり、1300人の子供たちも一瞬のうちに犠牲となった。爆心地に近かったので、誠一のように疎開していた生徒だけが生き残った。誠一の同級生で生き残ったのはわずか4人であった。

  また爆心から500メートルの城山国民学校は鉄筋コンクリート3階建てであったが、爆風は校舎を西に傾け、外壁も崩れ落ちた。城山国民学校では30人の教職員が亡くなり、学徒動員で働いていた女子学生ら110人が一瞬のうちに亡くなった。当日、学童は登校していなかったが、城山児童1500人ののうち1400人が家で犠牲になった。12月の授業再開時に出席したのは14人と記録されている。

 長崎には三菱造船所をはじめとして多くの軍需工場があり7500人の従業員や学徒動員の学生が働いていた。三菱造船所は世界最大級の戦艦武蔵をつくった造船所であり、長崎港は兵員と軍需物質を送り出す重要な軍事拠点となっていた。そのため戦争時の長崎の防空体制は強化されていた。また長崎は坂の多い街である。その地形を利用して多くの横穴式の防空壕が掘られていた。そして医療体制は長崎医科大学を中心に整っていた。しかし原爆はこの防衛体制をはるかに上回る被害をもたらした。そして医療の中心となるべき長崎医科大学の全壊は救護体制を根底から覆すものであった。長崎市内には146人の開業医がいたが、その半数は戦地に徴集され、残された70人のうち犠牲者20人、負傷者20人というように、救護活動ができる開業医は30人に満たなかった。長崎医科大学付属病院には入院患者150人、外来患者150人がいたが、このうちの約200人が死亡した。

 

 被爆との中心地、浦上に戻る

 10月15日、歩けるようになった永井は、三ツ山から浦上の焼け野原に戻ってきた。それは放射線医師として原爆の被害を正確に調査しようと思ったからである。長崎県は爆心地帯の町内会会長宛に「浦上一帯は今後70年間は草木も生えず、生命の危険があるから、住民たちは適当な場所に移住するように」という通達を出した。そして長崎市民の間では「この70年不毛説」が真実のように噂されていた。しかし永井は原爆が人体に与える影響、さらに植物や動物などに与える影響を、医師として、科学者として自分の目で観察するために浦上に戻ってきたのだった。長崎県の通達が本当であれば永井の行動は自殺行為である。しかし病苦に耐えながらも、残り少ない人生を原爆の研究に捧げようとしたのである。

 永井は防空壕の入り口にトタン屋根をつくり、一坪にも満たないバラック小屋で生活を始めた。そして放射能測定を行うと、日々放射能の数値が減少してゆくのがわかった。特に雨が降った翌日の放射能の数値は大きく低下した。長崎県の通達があっても、浦上の人たちの中には亡くなった肉親への愛着から土地を離れられない住民がいた。永井は浦上に残っている人たちの身体の具合を聞いてまわり記録していった。

 永井は半年間、妻の緑や犠牲者たちの喪に服すため、髪を切らず、髭も剃らないと決意した。誰もいなくなった浦上の焼け野原を観察する姿は、まるで仙人の風貌であった。頭に包帯を巻き、力なく杖をつきながら廃墟を歩く永井の姿は、偶然にも米軍が撮影した写真に残されている。永井は浦上地区の土を調べ、3週間後にアリが群れをなし、1ヵ月後にはミミズや昆虫が生きているのを発見した。さらに撒いてあった「ほうれん草の種」から芽が出て葉をつけた。この冷静な観察により、永井は昆虫や植物が生きているなら人間も住めるはずだと確信した。

 永井隆は「70年不毛説」をいち早く否定し、浦上に戻って生活をしても大丈夫と人々に伝えた。すぐに誠一、茅乃を呼び寄せたが、浦上のバラック小屋の生活は厳しかった。雪が降ると毛布の上に雪が積もった。生きていける最低限の生活だった。

 

 最初の学術報告書

 永井は原爆が投下された日の状態から、三ツ山での原爆被害者の治療までを記録した報告書「原子爆弾被害救護の作業報告書」を学長代理の古屋野博士に提出した。この報告書は三ツ山救護所で患者を治療しながら深夜の時間に書いたもので、原稿用紙100枚にまとめられていた。この報告書は長崎原爆に関する最初の学術報告書であった。このように永井は科学者として常に冷静であった。

 原爆投下直後から、医師たちは被爆者の救護活動を始めていた。しかしこの悲惨な状況の中で、冷静に被害の事実に目を向け、記録を残した医師は少なかった。永井の「原子爆弾被害救護の作業報告書」は、原子爆弾による被害についての最初の公式記録として注目された。治療を終えた深夜に書かれた報告書は、原爆による被害状況を生々しく伝えていた。永井隆は放射線医師として原子物理学に興味を持っていた。そのため、原爆という未経験の悲惨な体験や治療を、医師、科学者の目で冷静に見つめることができた。この報告書は報道機関の記者によって見出され、昭和45年7月25日の「週刊朝日」臨時増刊号に掲載された。「原子爆弾救護報告書」は、次のような文章で結ばれている。

 「・・・・・・すべては終わった。祖国は敗れた。わが大学は消滅しわが教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福、世界の文明形態は原子力エネルギーの利用によって一変するにきまっている。そうして新しい幸福が作られるならば、多数の犠牲者の霊も亦、慰められるであろう」

昭和20年11月2日、長崎医科大学で犠牲者の合同慰霊祭が行われた。爆心地に近かった長崎医科大学では、角尾学長をはじめ医師、看護婦、学生の8割以上が死亡し848人が犠牲になった。犠牲者の中には物理的療法科の仲間6人が含まれていた。

長崎医科大学で死亡した教授の補充が行われ、1月26日、永井隆は物理的療法科の教授に就任した。大学は破壊されていたので、新興善小学校の校舎を借りて診療と研究が再開された。

 

 被爆地、浦上の歴史

 原爆は長崎の街を破壊し多数の犠牲者を出した。さらに東洋一の美しさを誇っていた浦上天主堂も、原爆は瞬時に倒壊させ延焼させた。ロマネスク様式の浦上天主堂はアーチ型の玄関や二つの塔を誇っていたが、爆風によりレンガの壁の一部と、数本の石柱を残すだけの無惨な姿になっていた。

 小高い丘に立つ浦上天主堂は、明治28年から20年の歳月を経て完成した建物だった。フランスの教会の写真を取り寄せ、信者たちが20年間にわたり一枚一枚レンガを積み上げ、力を合わせて完成させたのだった。浦上天主堂は勤労奉仕と献金活動によって高さ30メートル、奥行き70メートル、4000人が収容できる大聖堂として完成した。

 原爆によって天主堂は壁の一部を除いて全壊した。原爆の数千度の熱線により前庭の聖人の石像は黒くこげ、秒速数百メートルの爆風により石像の手、鼻、頭部は吹き飛ばされた。原爆が投下された時、2人の神父と24人の信者がいたが、彼らは浦上天主堂と運命をともにした。浦上地区は長崎の伝統あるカトリックの街で、住民の半数以上がカトリック教徒だった。その12000人の信者のうち8000人が死亡した。生き残った信者の多くは、従軍や軍需奉仕などで原爆投下時に浦上地区にいなかった者たちであった。

 11月23日、廃墟となった浦上天主堂の広場で、カトリック教会による合同慰霊祭が行われた。白い十字架が8000本並び、十字架の数は集まった人数より多かった。茅乃は母親の名前の書いた十字架を持っていた。永井隆は頭に白い包帯を巻き、伸び放題の髪とひげの姿で出席した。彼は犠牲になった妻とキリスト教徒たちに対して喪に服すつもりで髪とひげを伸ばしていた。手には白い布で包んだバケツを持っていた。バケツには38歳で亡くなった妻・マリナ緑の遺骨が入っていた。

 永井隆は信者総代として弔辞を読むことになった。その弔辞は意味深い内容であった。原爆がキリスト教徒の居住地区である浦上に落とされたことに対して、「原爆はキリスト教という異教徒への天罰であり、異教徒を罰するために原爆が投下された」と噂されていたからである。彼の弔辞の内容を理解するには、浦上地区のキリスト教徒への長い迫害の歴史を知らなければならない。

 長崎は安土桃山時代には貿易の町、キリスト教の中心地として栄えていた。浦上は安土桃山時代からキリシタンの村であった。浦上地区のキリスト教徒への弾圧の歴史は豊臣秀吉の時代から始まる。豊臣秀吉はキリスト教を禁じ、外国人神父6人、日本のキリスト教徒20人を磔の刑に処した。江戸幕府もキリスト教を禁じ、苛烈なキリシタン弾圧政策を続けた。信徒は隠れキリシタンとなり信仰を堅く守ったが、幕府は5人組の隣組制度を作り踏み絵によりキリスト教徒を見つけだし、キリスト教徒がいた5人組は全員が処罰を受けるという厳しい措置をとった。このようにキリスト教徒は何度も弾圧され迫害を受けた。キリシタンの大規模な迫害は「崩れ」と呼ばれていた。1867(慶應3年)に信者68人が幕府により投獄された1番崩れから4番崩れまで大規模な迫害が続けられた。それでもキリスト教徒は信仰を守るため、「帳方」をトップとした秘密組織を作っていた。「帳方」とは宣教師に代わって、教理、祈り、教会暦などを守り、それを伝承する重要な役目を担っていた。その7代目「帳方」である吉蔵の血筋をひいたのが、永井隆の妻・緑だった。

 この迫害は明治時代になっても続き、明治元年には、浦上村のキリスト教徒3394人が捕まり、改宗を拒んだため全国21藩に罪人として流配となった。そして拷問を受け、飢えに苦しみ、疫病に倒れていった。日本の欧米化政策により、また対外的なメンツから、キリシタン禁制は明治6年になってやっと撤廃された。しかし3394人のキリスト教徒のうち613人が殉教した。キリシタン禁制は撤廃されたが、帰郷できたキリスト教徒に対する差別と迫害は終わらなかった。それは天皇という新たな神が日本につくられたからである。

 日華事変を経て、太平洋戦争が始まるとキリスト教徒に対する弾圧は厳しくなった。特高刑事や憲兵がキリスト教徒を尾行し監視下に置いた。また学校では、「お前たちの神様と天皇陛下のどちらが偉いのか」と難癖をつけ、罪のない子供たちにつらくあたることもあった。キリスト教を信仰することは天皇陛下にそむくこととされ、キリスト教徒は非国民、売国奴とののしられた。子供たちは「スパイの子供」と言われ石を投げつけられもした。戦局が悪化し本土決戦が近づくと、キリスト教徒たちはアメリカ兵の味方をするとまで噂された。

 

 永井隆の弔辞

 このような迫害を受けていた多くのキリスト教徒が原爆で死に、そして浦上天主堂までが原爆の直撃を受けて崩壊したのである。なぜ原爆がキリスト教徒の街、浦上に投下されたのか、それはキリスト教徒に対する天罰だとの陰口が公然と言われた。神は原爆という手段でキリスト教徒の罪を罰し、信者の家族を殺し、教会を焼いたと噂された。このことは信者たちの心を動揺させていた。原爆はあらゆるものを破壊したばかりではなく、信仰心も動揺させた。

 永井隆はそのことに心を痛めていた。そして打ちひしがれたキリスト教徒を励ますために、次のような弔辞を読んだ。

 「原子爆弾がわが浦上で爆発し、カトリック教徒8000人の霊魂は一瞬にして天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を廃墟とした。しかし原爆は決して天罰ではありません。神の摂理によってこの浦上にもたらされたものです。これまで空襲によって壊滅された都市が多くありましたが、日本は戦争を止めませんでした。それは犠牲としてふさわしくなかったからです。神は戦争を終結させるために、私たちに原爆という犠牲を要求したのです。戦争という人類の大きい罪の償いとして、日本唯一の聖地である浦上に貴い犠牲の祭壇を設け、燃やされる子羊として私たちを選ばれたのです。そして浦上の祭壇に献げられた清き子羊によって、犠牲になるはずだった幾千万の人々が救われたのです。子羊として神の手に抱かれた信者こそ幸福です。あの日、私たちはなぜ一緒に死ねなかったのでしょう。なぜ私たちだけが、このような悲惨な生活を強いられるのでしょうか。生き残った者の惨めさ、それは私たちが罪人だったからです。罪多きものが、償いを果たしていなかったから残されたのです。日本人がこれから歩まなければいけない敗戦の道は苦難と悲惨に満ちています。この重荷を背負い苦難の道をゆくことこそ、われわれ残された罪人が償いを果たしえる希望なのではないでしょうか。カルワリオの丘に十字架を担ぎ、登り給いしキリストは私たちに勇気を与えてくれるでしょう。神が浦上を選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致します。そして貴い犠牲者によって世界に平和が再来したことを感謝します。願わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀れみによって安らかに憩わんことを、アーメン」

 参列したキリスト教信者たちは、被爆した8000人の信者の冥福を祈りながら、永井隆の弔辞に涙を流した。そして残された苦しみの中で、キリスト教信者としてこの苦しみを神に捧げることを誓い、廃虚から立ち上がる勇気を得た。

 

 アンゼラスの鐘、ふたたび

 浦上地区は見渡す限り焼け野原であった。家もなく、樹木もなく、荒涼とした浦上地区は、風が吹いても風を遮るものはなかった。信者の多くが天に召され、残された者たちも傷を負い、住む家は粗末なバラック小屋であった。心の支えとなるべき浦上天主堂を再建しようにも、資材がなかった。しかし信者たちは少しずつ資材を集め、浦上天主堂の復興のため奉仕することになった。

 昭和20年12月24日、それはちょうどクリスマス・イブの朝のことであった。全壊した浦上天主堂の廃墟の中から「アンゼラスの鐘」が無傷の状態で見つかったのである。アンゼラスの鐘は重さ50トンであったが、爆風により35メートルも離れた瓦礫の下から、土に埋もれた状態で発見された。喜びのなかで、信者たちによる掘り出し作業が始まった。午後3時に掘り出しを完了すると、永井隆は今夜中にこの鐘を鳴らし、廃墟の中で生き残った人たちに勇気と希望を与えようと提案した。急遽、杉の丸太を三本組み合わせた櫓が造られ、信者たちは声を合わせてジャッキで鐘をつり上げた。そしてクリスマス・イブの夜、無音の浦上に聖鐘の音が鳴りわたった。それは新しい希望を含んだ澄んだ音であった。戦時中は鐘を鳴らすことが禁じられていたこともあり、懐かしい鐘の音であった。アンゼラスの鐘は平和の訪れと復興を告げる希望の音であった。このクリスマスの日から、朝、昼、夕の3回、アンゼラスの鐘が鳴らされることになった。永井はアンゼラスの鐘を聞きながら、この長崎の悲劇を世界で最後にしてほしいと神に祈った。そして「新しき朝の光のさしそむる 荒野に響け長崎の鐘」の句を詠んだ。後に執筆された「長崎の鐘」の題名はアンゼラスの鐘を意味していた。

 多くの原爆被害者の尊い命を救い、敬虔なキリスト教徒であった永井隆の経歴をここで振り返ってみる。

 

 医学生時代の永井隆

 永井隆は、明治41年2月3日に出雲の国、島根県松江市で5人兄弟の長男として生まれた。父親・永井寛は隆が生まれた翌年に医院を開業。永井隆は士族の出である母親・ツネの影響を受けながら幼少年期を過ごした。両親とも勉強家で夜遅くまで机に向かっていた。ツネは独学でドイツ語、医学、薬学を学び、夫の診療を助けていた。このような厳格で勉強家の両親に育てられた隆は、両親の影響から勉強は楽しいものと感じていたが、子供の頃は神童、あるいは秀才と呼ばれるほどではなかった。松江中学に入学した時はぎりぎりの補欠入学で、成績で決められる教室の机の順番は最前列の端であった。しかし努力家で負けず嫌いの隆は、卒業時には首席になっていた。13倍の倍率で松江高等学校理科乙類に入学したころは自然科学に興味をもち、唯物論のとりこになっていた。

 昭和3年、松江高等学校を首席で卒業、長崎医科大学に入学。そして浦上地区の森山貞吉の二階を借りて下宿することになった。森山家は江戸時代にキリスト教の「帳方」をつとめた家系である。「帳方」には十字架、ステンドグラス、聖書などを密かに守り通す役目があった。役人に見つかれば火あぶりか、打ち首の刑であった。森山家は命をかけて信仰を守った家系である。

 森山家の家族構成は、貞吉、妻のツモ、1人娘の緑であったが、彼らは永井にキリスト教の話をしなかった。しかし森山家に下宿したことが、後の永井に大きな影響をもたらすことになる。永井は医学を学び、医学は科学と信じていたので、霊魂や信仰などには関心はなかった。遺体解剖では「単なる臓器のかたまりが人間の本質」と教えられた。臓器の巧妙な仕組みは物質の離合集散で、人間が死んだら元素に還るだけと考えていた。彼の頭は自然科学、唯物論に固まっていたが、大学3年生の時に母が死に、霊魂の存在を信じるようになった。窓から見える浦上天主堂の荘厳な美しさ、部屋に飾られた十字架、マリア像、そして毎日祈りを繰り返すキリスト教徒の生活、わずかではあるが、それらが永井の心に影響を与えていた。

 永井は常に優秀な医学生であった。そして長崎医科大学を首席で卒業し、卒業式では学生代表として答辞を読むはずだった。しかし卒業式の5日前に行われたクラスの送別会で、時間の過ぎるのも忘れて大いに飲み、終電に乗り遅れ、雨に濡れたまま帰路についた。酔っていた永井は濡れたまま寝こんでしまい、目を覚ました時、高熱とともに耳の激痛に襲われた。長崎医大付属病院を受診したが、急性中耳炎から髄膜炎を併発し、昏睡状態に陥り手術を受けることになった。

 キリスト教徒のおばあさんが入院している間つきっきりで看病した。こんな若い学生を死なすわけにはいかないと、おばあさんはロザリオを握りしめ病気の回復を聖母マリアに祈った。手術から1週間後、永井は意識を回復し一命を取り留めたが、片方の耳が難聴になっていた。

 永井は大学を卒業したら内科を専攻するつもりだった。しかし難聴となったため聴診器が使えず、病床に伏せたまま内科専攻を断念し、放射線医学を専攻することを決意した。首席で卒業するほど優秀であったが、放射線医学だけは興味が持てず零点だった。その不快感が心に残っていた。不得意な分野を克服したいという気持ちに駆られていた。

 当時、放射線医学は物理的療法と呼ばれ、日本ではまだ馴染みの薄い分野だった。この選択が永井隆の人生を大きく変えた。長崎医科大学ではドイツ留学から帰ったばかりの末次逸馬助教授が物理的療法科部長になっていて、永井の診療や研究の助言を行った。永井は放射線医学の本を読みあさり猛勉強を始めた。放射線医学、原子力の応用はこれからの医学を担う学問であると信じるようになった。レントゲン検査や癌に対する放射線療法について学び、多忙な日々が始まった。

 永井隆が放射線学医師を志して半年後の昭和7年、満州事変が勃発。そのため彼は軍医幹部候補生として広島の歩兵第11部隊に配属され、1年間出征することになった。出征する前日、下宿先の一人娘、森山緑が永井隆の部屋を訪ね、手編みのジャケットを手わたした。このジャッケトには弾丸を防ぎ身体を守ってあげたいという気持ちが込められていた。

 

カトリック入信と結婚

 永井は従軍中に、緑から送られた慰問袋に入っていた「公教要理」を何度も読むようになった。むさぼるように読み返し、その内容に驚き感銘を受けた。「公教要理」とはカトリックの教義を分かりやすく解説した本である。永井は幼児期から軍国教育を受け、また医学も唯物的、科学的なものと考えていた。キリスト教についての憧憬はあったが、キリスト教を積極的に知りたいという気持ちはなかった。

 それまでの永井は、医師として科学のみを信じてきた。しかし戦場には科学では説明できない人間の悲しみや苦しみが溢れていた。悲鳴とともに兵士は傷つき、目の前で人が死んでいった。多くの悲劇を見せられ、彼は人間そのものの真理が医学や科学だけでは説明できないことを悟った。医学や科学では傷ついた人たちの心を癒すことはできない。むしろ、それまで信じてきた科学が兵器となって戦争という悲劇を生み、人々を苦しめていると感じるようになった。

「公教要理」には人間の生きるための意味、また人間の悲しみや苦しみが明確に解説されていた。人間は何のためにこの世に生きてきたのか、死とは何か、霊魂とは何か、罪とはなにか、このような重要な問題に「公教要理」は明快に答えていた。永井は自分が信じていた唯物的思考は間違いであり、聖書の教えが正しいと信じるようになった。それまで求めてきた真理がキリスト教にあると思えてきた。そして医療の本質は人間の魂を救うことであり、魂こそが人間の永遠の価値であると信じるようになった。

 戦地から帰国して数日後、永井は勇気を出して浦上天主堂の神父を訪ねた。そして世俗の罪に汚れてしまった過去を神父に懺悔した。「公教要理」を読むまでは宗教を知らず、罪をわきまえず、芸者をあげて遊んでいた身勝手な自分を神父に告白した。そして「私はカトリックに改宗して、キリストの愛の手に救われたいと思っています。しかし私は大きな罪を数え切れないほど犯しています。このような罪多き者でも信者になれますか」と彼は神父にきいた。

 神父は笑顔を見せ、「傷ついた身体を治すのが医師の務めであり、病んだ心を癒すのがキリスト教です」と述べ、温かい手で永井の手を握りしめた。キリスト教の教義を学び、数ヵ月後に洗礼を受けることができた。永井は「悪魔の仕業とその栄華を棄て、カトリックの教義を信じ、かつ守ること」を誓った。敬虔なカトリック信者となり、パウロという洗礼名が与えられた。キリスト教に入信して、永井は医師の仕事は病人とともに苦しみ、そして楽しむことであると悟った。そして生まれ変わったように無料診察、無料奉仕活動を行った。

 カトリック信者となって2ヵ月後の昭和9年、永井隆は森山緑と結婚。新婚生活はかつて下宿していた新婦の自宅で始まった。緑の父親・貞吉は出兵中に他界しており、森山家に再び活気が戻ってきた。永井は物理的療法科に復帰し医局長に任命され、放射線医学の研究に努めることができた。学生への講義、患者の診察、多忙な日々であったが充実していた。そしてキリスト教の集会には必ず出席した。長男誠一(まこと)が生まれ。幸せな日々が3年続いた。

 

 余命3年の宣告

 昭和12年7月、永井に軍医中尉として2度目の徴集令状がきた。家庭のすべてを緑にまかせ、広島第五陸軍師団衛生隊として中国への2度目の従軍となった。中国では激しい戦闘が続いた。しかし永井隆の行動は前回の従軍のときとは違っていた。前回の従軍では日本の負傷兵だけを治療していたが、キリスト教徒となった永井は敵味方に関係なく負傷兵の治療にあたるようになった。永井の前には日中両軍の負傷兵が並び、さらに現地住民の病気の治療まで献身的に行った。永井隆にとって傷病者には敵も味方もなかった。また病気に悩む者に国籍など関係なかった。ロザリオを手にしながら、2年6ヵ月にわたり目の前で苦しむ人間を分け隔てなく助けることが彼の信念となっていた。また戦地住民の貧困状態を見て、長崎のキリスト教徒に救援物質を要請した。そして戦地住民に古着や食料品を与え、子供たちに日本の童話を語り、戦禍に痛めつけられた人々の心を癒した。それは赤十字精神に徹した人間愛の表れであった。永井を見て現地の人々は生き神様と感謝した。

 永井は中国の従軍を終え、昭和15年2月に帰国した。長崎に帰ると長崎医科大学の物理的療法科の助教授となった。当時の日本は栄養状態が悪く、衛生環境も悪かった。そのため結核が国民病と言われるほど急増していた。結核の診断にはレントゲン写真が必要だった。永井は1日100人以上のレントゲン写真を撮って診断を行っていた。しかし戦時下で物資は不足し、レントゲンフィルムも貴重品となり配給されなくなった。そのためエックス線で透視された画像を直接のぞいて診断を下していた。このレントゲンの透視は放射線を直接浴びることから非常に危険なことであった。しかし永井は患者を断らず、部下に任せることもせず、透視によるレントゲン診断を続けた。また時間を見つけると、貧しい患者のために無料診療も行っていた。

 キュリー夫人をはじめとして、これまで放射線を志した多くの先輩たちは許容量を超える放射線を浴び、放射能障害で死んでいった。キュリー夫人は悪性貧血、英国の放射線学者ジョン・エドワードは両手に癌ができて両腕切断、永井の上司である末次助教授も京都大学に教授として栄転してから放射能障害による再生不良性貧血で亡くなっている。永井はこのような放射能障害を熟知していた。しかし目の前の多くの患者を前にして逃げることはできなかった。フィルムがないのだから、たとえ放射能障害で倒れてもしかたがないと考えていた。

 永井はしだいに放射能障害による体調不良を訴えるようになった。そして自分のレントゲン写真を撮ってみると、脾臓と肝臓が異様に腫れているのが分かった。脾臓と肝臓の腫れは慢性骨髄性白血病を意味していた。永井は内科を受診し、白血球増多の所見から慢性骨髄性白血病の診断を受けた。そして内科部長からあと3年の命と宣告を受けた。慢性骨髄性白血病は放射能障害のひとつで、それまで多くの放射線医師の生命を奪っていた。永井は自分が慢性骨髄性白血病であることを知ったとき、ある種の宿命と受け止めた。原爆が落とされる2ヵ月前のことだった。

 永井隆は自分が慢性骨髄性白血病に冒され、そして3年の余命であることを妻の緑に打ち明けた。妻は子供を抱きしめながらじっと聞いていた。しばらくは何も言えず、身動きもできなかった。そして黙ったまま緑は十字架を仰いで祈りはじめた。祈り終わった緑は、「生きるも死ぬも神さまのご光栄のために」と穏やかな笑みを浮かべながら夫に言った。そしてふたたび十字架を仰ぎ、夫の病気が進行しないことを神に祈り続けた。

 永井の上司である末次助教授は京都大学の教授に栄転が決まっていた。そのため永井は長崎医科大学の物理的療法科を任される立場になった。末次助教授は永井隆に長期休養を説得したが、永井は長崎医科大学の物理的療法科で診察と研究を続けることを希望した。休みながら死を待つよりも、死ぬまで全力を振り絞りたいと考えていた。残り少ない命を放射線研究に捧げることを決意し、ますます研究に打ち込んでいった。

 

 病床の執筆活動

 戦争は終わったが、永井隆は教授として診療、講義と多忙な日々を送ることになった。長崎医科大学は全壊のままだったので、長崎の新興善小学校や木村、諫早の元海軍病院で学生たちに臨床講義を行った。電車で移動するだけでも大変な苦痛であった。しかし残された時間を放射線医学のため、また原爆病の病状を後輩たちに残さなければいけないという使命感を持っていた。

 原爆による放射能障害は永井の慢性骨髄性白血病を悪化させ、脾臓は腫大し妊婦のような腹を手で支えながら授業を行った。学生への講義、患者の診療などの無理がたたって身体は衰弱しきっていた。症状はしだいに悪化し、臥床する時間が長くなった。そして昭和21年7月、浦上駅で倒れ、以後自宅で病床につくことが多くなった。昭和21年11月、長崎医学会で「原子病と原子医学」との演題名で講演を行ったが、それ以降は歩くこともできないほど病状は悪化していった。昭和22年7月、我が身を実験台に原子病の研究に励んでいる永井隆のことを進駐軍が報道、これを全国の新聞が取り上げた。

 長時間座ることもできず、本格的な闘病生活が始まった。2人の子供をかかえての生活は苦しかった。トイレに行くときも、息子の肩につかまって行くのが精一杯であった。身体は動けなかったが、幸い両手も脳も機能している。この2つがあれば原稿を書くことができる。永井隆は自分のなすべき事を考え、仰向けの姿勢で鉛筆をとり執筆活動に入った。  

 まず欧米でベストセラーになった「世界と肉体とスミス神父」の日本語訳を始めた。そして昭和22年12月に主婦の友社から出版することができた。この翻訳本が永井隆にとって初めての本となった。そして印税4万円の大部分を浦上天主堂、病院、学校に寄付、手元には2000円を残すだけであった。浦上天主堂は寄付によってオルガンを買うことができた。

 永井隆の執筆活動はさらに続けられた。この長崎の悲劇を後人に伝えることを自分に与えられた使命と考えていた。原爆の恐ろしさを多くの人たちに知ってもらい、長崎を地球最後の被爆地にすることが原爆で生き残った者の義務と思った。そして二度と戦争を起こさないように、長崎から平和を訴えようと文章を書き始めた。

 その決意は固かった。身体にむち打ちながら原稿を書き始めた。臥床の姿勢で、右手に鉛筆を握り、左手には原稿用紙をのせた板を握り文章を書いていった。長崎の悲劇を二度と繰り返してはいけない、そして平和を長崎から世界に発信しなければいけない。彼の鉛筆にはこの思いが込められていた。科学者としての不屈の研究心、さらにカトリック教徒としての信仰心が永井隆を支えていた。死を前にした過酷な闘病生活の中で、永井のもう一つの戦いが始まっていた。死を前にして彼は憑かれたように次々と書き続けていった。

 

 如己堂での生活

 昭和23年春、カトリック信者たちは永井のためにかつての自宅跡に小さな家を建ててくれた。そしてそこを永井博士の住まいとして提供してくれた。それはわずか二畳一間の家であった。永井隆は贈られた家を如己堂(にょこどう)と名づけ、そこで闘病生活を送ることになった。如己堂とは「おのれのごとく隣人を愛せよ」というキリストの言葉「如己愛人」からとったものである。自分のことのように他人も愛しなさいと教えたかったのである。永井隆はカトリック信者たちに感謝した。

 二畳一間の如己堂から瓦礫のままの浦上天主堂を望むことができた。永井隆は浦上天主堂を望み、アンゼラスの鐘を聞きながら筆を運んでいった。誠一と芽乃の2人の子供と二畳一間の如己堂に住み、時間を惜しんでは執筆に励んだ。一畳は自分が横たわり、残りの一畳で誠一と芽乃が生活をしていた。そして闘病生活の中でひたむきに書き続けた。

 昭和23年、「ロザリオの鎖」が発行されると、永井は印税40万円を浦上天主堂に寄付、天井のなかった天主堂に屋根がかけられた。さらに「九州タイムズ」文化賞を受賞。永井はその賞金で浦上の地を「花咲く丘」にしようと、サクラの苗木1千本を山里小学校、純心女子学園、浦上天主堂、病院、道路などに植えさせ、残りのすべてを教会に寄付した。この千本桜は春になると浦上の丘を美しく彩った。地元の人たちは「永井千本桜」と呼んで喜んだ。

 永井は腹水のため寝がえりも出来ない状態となったが、「長崎の鐘」「亡びぬものを」「この子を残して」「生命の河」「花咲く丘」を矢継ぎ早に書き上げていく。永井が書いた本はいずれも清らかな文章で、原爆と敗戦に打ちひしがれていた当時の人々の心を奮い立たせた。如己堂から発表される作品や言葉は、敗戦で落ち込んだ日本人の心をとらえ、永井隆の名前は日本中に知れ渡った。印税のほとんどは長崎市に寄付され、長崎の復興に使われた。

 

 代表作「長崎の鐘」

 昭和24年1月30日、日比谷出版社から原爆体験の記録「長崎の鐘」が出版された。「長崎の鐘」はすでに昭和21年8月に書き上げていたが、進駐軍の検閲により出版できずにいた。当時は進駐軍が出版物の検閲を行い、米軍にとって都合の悪い書物は出版を止められていた。原爆の惨状を描いた「長崎の鐘」は当初出版を差し押さえられていたが、そのうち「東京タイムズ」に連載されて、評判になると、進駐軍は出版を許可し、脱稿から3年後に発売されることになった。「長崎の鐘」は130円で10万部を売り上げ、昭和24年のベストセラー第一位を占めた。大学で被爆した瞬間から、それに続く被爆者の救出・治療の模様を書いた記録だった。当時の日本人は永井隆の本を競って買い求めた。科学者としての冷静な観察、医師としての自分犠牲による治療の様子、キリスト教徒としての愛に満ちた詩的な文章、これらが全体を包みこんでいた。永井隆の人間愛に溢れた文章が全国の人々の感動を呼んだ。

 代表作であるこの「長崎の鐘」の文章の書き出しは、原爆が投下された日の朝の情景から始まっている。

 

 昭和20年8月9日の太陽が、いつもの通り平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。平地を埋める各種工場の煙突は白煙を吐き、街道を挟む商店街のいらかは紫の浪とつらなり、丘の住宅地は家族のまどいを知らす朝餉の煙を上げ、山腹の段々畑はよく茂った諸の上に露を輝かせている。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔していた。

 

 永井隆の作品全体に言えることは、敬虔なカトリック信者としての立場から原爆の惨状を捉えていたことである。戦争や原爆について誰も恨まず、原爆を神が与えた摂理、天主の恩恵として捉えられていた。浦上天主堂で犠牲になった信者たちへの弔辞を読み上げた時、「犠牲者は儀式にささげられた、生け贄の子羊として選ばれた者である。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理で、神の恵みであることに感謝をささげねばならぬ」と述べたが、これが長崎の原爆に対する彼の考えであった。

 

 原爆は神の摂理か

 長崎に落とされた原爆は当初は小倉に落とされる予定であった。しかし小倉上空は雲に閉ざされていたため、予定を変更して長崎に落とされたのである。しかも長崎の軍需工場に落とすはずが、パラシュートで投下された原爆は風に流され天主堂の正面に落ちたのである。つまり米軍のパイロットは天主堂を狙ったわけでなく、神の摂理によって浦上の地にもたらされたと解釈しても不自然ではなかった。アメリカが主張するように、原爆によって戦争は終結を迎えたことは事実であった。もし原爆を使用しなければ、太平洋戦争は本土決戦となり、日米に甚大な被害を引き起こしたことは確かであった。

 しかしこの考えがアメリカの原爆を正当化するものとして、一部から批判されることになる。戦後の原水爆禁止運動で長崎が広島より低調だったのは、原爆を神の摂理と説く永井隆の本がベストセラーとなり、彼の考えが長崎市民に染み渡っていたからともいえる。そのため原爆について「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉が自然に生まれた。広島にある原爆慰霊碑のほとんどが「犠牲者、死没者、戦没者」という言葉を使っているが、長崎の原爆慰霊碑のほとんどは「殉難者」という言葉が使われている。「原爆は神の摂理」という永井隆の考えがカトリック信徒のみならず長崎市民に影響を与え、原爆を告発する機会は久しく途絶えていた。長崎の「殉難者」という言葉はたまたまそこにいた不運を意味し、死者の冥福を祈るというイメージがあった。広島の「犠牲者」という言葉は、恨むべき加害者の存在をイメージしていた。

 知恵の木の実を盗んだアダムとイブ、弟を殺したカインの血を受け継いだ人間が、戦争という大きな罪を犯した以上、神に犠牲を捧げてお詫びしなければならない。それまで何度か終戦の機会があった。また空襲で全滅した都市も少なくなかった。それでも終戦とならなかったのは、神が終戦を許さなかったからで、浦上が犠牲になって初めて神は人間を許し、終戦に導いた。このような永井隆の考えは、戦争犯罪という後ろめたい気持ちを持つ政治家や軍人たちにとって、過去を清算する上で都合のよい考えであった。また原爆を投下したアメリカにとっても、原爆の大義名分を与えてくれる上で都合がよかった。このように永井隆の考えは日本の戦争責任、アメリカの原爆投下責任を免罪とするものでもあった。原爆をどのように評価するかは大変難しい問題である。もし原爆を大量殺人と非難するならば、トルーマンはアウシュビッツの虐殺を行ったヒットラーと同じ行為を行ったことになる。

 永井隆は戦争や原爆の悲劇を最も知っている人物のひとりであるからこそ、この悲劇を繰り返さないために多くの著書を残した。永井隆が戦争や原爆を神が与えた摂理と捉えたのは、キリスト教の教えには「苦しみも神から与えられた恵みであり、人間の苦しみをキリストの苦しみに合わせることによって価値あるものとする」という考えがあったからである。もちろん神の摂理という言葉を用いたのは、絶望している信徒に対して信仰に基づいた浦上再建への励ましの意味が大きかった。

 永井の本がベストセラーとなったのは、戦争、原爆を政治とは関係のない文章で綴ったからである。政治的なことは何も触れず、戦争を通しての自分の経験、観察、悲哀を語り、それが国民に感動をもたらしたのである。戦争を生き抜いた人々は戦争の悲劇を共有していた。そのため多くの人たちの心を打ったのである。そして「戦争や原爆を二度と繰り返してはいけない」と文中に書かなくても、永井の文章そのものがそれを強く訴えていた。さらに「科学者がつくった原爆が政治に利用されてしまった無念」を知り、「永遠の平和をつくるためには、科学者は政治家の支配から独立する勇気が必要である」という考えが彼の文中から伝わってきた。

 

 歌と映画「長崎の鐘」

 「長崎の鐘」がベストセラーになると、次いで昭和24年には、国民の多くがラジオから流れる「長崎の鐘」の歌を耳にした。サトウハチローが作詞し古関裕而が作曲、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」が大ヒットとなった。

 それは悲しい曲であったが、美しく澄んだ声が多くの国民の心を打った。戦後、日本国民を励ますいくつかの歌が作られたが、その一つが「長崎の鐘」であった。ラジオから流れる藤山一郎の歌声は独特の宗教的雰囲気とともに戦災に打ちひしがれた人々をなぐさめ、励まし、復興へと奮い立たせた。それは長崎市民だけでなく日本国民を勇気づけ、全国で歌われるようになった。「長崎の鐘」は原爆批判というよりも平和を願う希望の歌であった。歌詞を次に示す。

 

1 こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ うねりの波の人の世に 

はかなく生きる野の花よ なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

 2 召されて妻は天国へ 別れて一人旅立ちぬ かたみに残るロザリオの 

鎖に白きわが涙 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

 3 こことの罪をうちあけて 更けゆく夜の月澄みぬ 貧しき夜の柱にも 

気高く白きマリア様 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

 

 うちひしがれた人々の再起を願って前半は短調、そして「なぐさめ、はげまし」の部分から長調に転じて力強く歌いあげられている。この独特の宗教的雰囲気を持った「長崎の鐘」は大ヒットし、その翌年に制作された映画「長崎の鐘」の主題歌になった。日本の歌謡曲史上に残る大きな曲となった。

 「長崎の鐘」の作詞を依頼されたサトウハチローは、そのとき「これは神様がおれに書けと言っているに違いない」と直感した。サトウハチローの父は「あゝ玉杯に花うけて」などで全国の少年少女を感奮させた人気作家・佐藤紅緑であった。5人兄弟のサトウハチローは仲の良かった二歳下の弟を広島の原爆で亡くし、他の二人も戦争で世を去り、残る一人も不遇のうちに服毒自殺という悲惨な死を遂げている。サトウハチローは以前から永井隆と手紙でやりとりをしており、常に彼の病状を案じていた。一気に書いた「長崎の鐘」の詞には、永井隆への思いとともに、同じ原爆で死んだ弟への鎮魂の気持ちが込められていた。

 藤山一郎が歌う「長崎の鐘」の人気は長く続き、多くの国民が口ずさんだ。如己堂の永井隆もラジオで歌を聞くたび、こみ上げるものを隠せなかった。ある日、予告もなく藤山一郎がアコーディオンを手にひょっこり如己堂を訪ねてきた。そして如己堂の前で高らかに「長崎の鐘」を歌った。目を細めて聞き終えた永井隆の目には涙が溢れて止まらなかった。ただただ、「ありがとう、ありがとう」と繰り返すばかりだった。この歌が国民の間で広く愛唱されたのは、悲しみを歌いながらも、慰め、励まし、そして希望を与える暖かさに国民が勇気づけられたからである。

 昭和25年、「長崎の鐘」は新藤兼人らの脚本によって松竹から映画化されることになった。長崎でロケがなされ、若原雅夫、月丘夢二が永井夫婦役を演じた。9月に映画が公開されると日本中に大きな反響を呼びおこした。もちろん主題歌は藤山一郎の歌う「長崎の鐘」であった。当時の人々にとって映画は一番の娯楽だった。映画「長崎の鐘」は、家族愛、復興への勇気を国民に与えてくれた。そして一万通をこえる手紙が永井隆のもとにとどいた。

 

 涙を誘った「この子を残して

 永井隆の作品のうちで最も多く読まれたのは、「この子を残して」であった。自分が死んだ後に残されてしまう、二人の子供の行く末を案じて書いた本である。この死を待つだけの父親が、孤児として残されてゆく子供のために書いた本は、2年間に30万部をこえるベストセラーになった。当時としては異常なほどの売れ行きであった。

 父性愛の切なさと暖かさに溢れる「この子を残して」は次の書き出しで始まっている。

 

 うとうととしていたら、いつの間にか遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほおを私におしつけ、しばらくしてから、

「ああ、・・・・お父さんのにおい・・・」と言った。

 この子を残して・・・この世をやがて私は去らねばならぬのか!

 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。 戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか? 

 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるであろうか?  ・・・・・・一日でも一時間でも長く生きてこの子の孤児となる時をさきに延ばさねばならぬ。一分でも一秒でも死期を遅らしていただいて、この子のさみしがる時間を縮めてやらねばならない。

 

「この子を残して」は講談社から出版され読者の涙をさそい、むさぼるように読まれていった。それは戦争で肉親を亡くした多くの子供たちへの愛情の代弁であった。「この子を残して」は映画化されることになった。加藤剛が永井隆、妻の緑を十朱幸代が演じた。 

 

 あの子らの碑

 永井の著書はいずれも大いに売れた。一流作家が束になっても及ばないほどの人気で、二畳一間の如己堂には読者からの手紙の束が山のように積まれていた。しかし永井は印税のほとんどを天主堂の修復や奨学金のために使った。収入の大部分は貧しい子供たちや原爆症に苦しむ人々のために消えていった。戦後の混乱と貧困の中、浦上には原爆で孤児になった子供たちや、家が貧しくて学校に行けない児童が多かった。

  山里国民学校は、校長以下教員26人、用務員2人が死亡し、生存者はわずか4人であった。当日は夏休みだったため児童は登校していなかったが、児童1581人のうちおよそ1300人が自宅で被爆死あるいは火傷死した。山里国民学校は立て札や張り紙を出して児童を呼び集めたが、9月20日に登校したのは100余人だった。

 児童の着ている衣服はボロボロに汚れ、みすぼらしく栄養失調気味であった。顔色は青白く裸足の者もいた。その日は、「教科書も鉛筆も帳面も、みんな焼けてしもうた」と泣きながら訴える児童を前に、先生たちはもらい泣きするしかなかった。施設も教材も消失しており、授業再開は困難を極めたが、師範学校の3室を借り、どうにか授業らしいものを始められた。

 病床にあった永井は、昭和24年春、原爆の悲劇を広く社会に知ってもらうため、生き残った山里国民学校の児童たちの作文をまとめ講談社から「原子雲の下に生きて」という題名で出版した。この本の表紙、カットは永井隆が描き、児童37名と教師の2名の体験談が載せられた。この本の印税によって山里国民学校には「あの子らの碑」が作られた。昭和24年11月3日、原爆で亡くなった教員、児童の霊を慰めるために除幕式が行われた。「あの子ら」とは原爆で焼け死んだ自分の子どもを思う母親の悲しみの声であった。「あの子らの碑」は燃え上がる炎の中で、ひざまづいたひとりの少女が両手を胸に合わせ神に祈る姿が描かれている。本校では毎年この時期に、全校をあげて碑の前で「平和祈念式」を行い平和の誓いを新たにしている。また、校門下の坂道には、永井から寄贈された50本の桜が植えられ、毎年春にはきれいな花を咲かせている。

 長崎市文教町にあるカトリック系の純心女子学園には、学園の正門から左手に入った木立の中に「慈悲の聖母像」が建っている。原子爆弾により動員先の工場や家庭で死亡した213人の名前が刻まれ、台座には永井隆が詠んだ「燔祭(はんさい)の歌」が記されている。

 「燔祭の炎の中にうたひつつ しらゆりをとめ 燃えにけるかも」

 永井は手紙のなかで、「自分で作った歌に自分で泣いたのは、これがはじめてです」と書いている。 

 

 ヘレン・ケラーの来訪

 昭和23年10月18日、永井隆が闘病生活を送る如己堂にヘレン・ケラー女史が訪ねてきた。予告なしの突然の訪問であった。目の不自由な三重苦のヘレン・ケラーと横臥したままの永井隆は手を取り合った。手を握り合うと、温かい2人の愛情が交流するようであった。2人はキリスト教という絆によって強く結ばれた。

「教授よ、私はあなたの著書のことを聞いていました。病苦をしのいでよく書き上げましたね。おめでとうございます」

「私の肉体は損なわれ、自由を失っていますが、精神は自由に動きます。神のみ栄えのためしっかり働くつもりです」

「私たちは体の不自由な人々に希望を与える光とならなければなりません。どんな障害でも、わずかに残された能力を生かして全力を尽くせば、立派な仕事をすることができるという実例を示すことによって、世の光となりましょう」

「私たちはひとつの神を頭とする、ひとつの体の手と手であることを今実感しています」

「そうです。人類はひとつの神において一致するのです。神は愛です」

 2人は手を握りしめ、このような会話を交わした。そしてこの出会いが永遠であり、天国でまた会えることを無言のまま信じ合った。

 昭和24年5月28日、長崎医大に昭和天皇が見舞いに訪れることになった。永井隆は如己堂から担架に乗せられ、長崎医大に運ばれ陛下を待った。陛下は永井隆の本を読んでいた。そして「病気はどうですか、どうか早く回復するように祈ります」とねぎらいの言葉をかけ、主治医の影浦尚視教授には「治療を頼みます」と言われた。そして子供の誠一と茅乃に「しっかり勉強して、りっぱな日本人になってください」と言葉をかけられた。永井隆は昭和天皇の温かい言葉に感謝した。 

 

 永井を讃えて

 昭和24年5月29日、ローマ法王の特使派遣で、聖フランシスコ・ザベリオが来日し、400年祭を祝う会が浦上天主堂で行われた。3万人という多くの信者が参列した。ザベリオは永井隆が臥している如己堂を訪れる予定であった。しかし永井隆はそれを固辞し、担架に乗り、他の負傷者といっしょに浦上天主堂に出向いた。

 昭和24年10月21日、バイオリニストのモギレフスキーが長崎市を訪ね、お見舞いとして演奏をしたいと申し出た。永井は県立盲学校の学生を如己堂に集めモギレフスキーの来訪を待った。モギレクスキーは静けさの中でシューベルトの「アベマリア」を演奏した。演奏が終わっても長い沈黙が続いた。永井もモギレクスキーも学生たちも目をうるませたままであった。

 多くの国民が永井隆の本を読んでいた。朝日新聞の統計によると、昭和24年に3万部以上売れた本は18点で、「この子を残して」が22万部で第1位、「長崎の鐘」が10万部で第2位、「ロザリオの鎖」が6万5000部で第7位、「生命の河」が3万6000部で第12位であった。

 永井隆は昭和24年12月長崎名誉市民第一号に選ばれた。そして昭和25年6月、国会はこの生きる聖人を湯川秀樹博士とともに表彰した。永井隆の行為は、湯川秀樹博士の業績と同じレベルと評価されたのである。

 国務大臣本多市朗代議士が如己堂を訪ね、表彰状と金杯を永井隆に手渡した。本多市朗代議士は内閣総理大臣・吉田茂に代わって表彰状を持ってきたことを告げ、次のように表彰状の文面を読み上げた。

「常に危険を冒して放射線医学の研究に心血を注ぎ、ついに放射線職業病のひとつである慢性骨髄性白血病に冒されてしまったが、なお不屈の精神力を振るい起こして職務に精励し、学界に貢献したことはまことに他の模範とすべきところである。あなたは原子爆弾のために負傷し、病床につく身となった後は著述に力をつくし、「長崎の鐘」「この子を残して」など、幾多の著書を出して、社会教育上寄与するところ少なくなく、その功績顕著である。よってこれを表彰する。昭和25年6月1日 内閣総理大臣吉田茂」

 永井隆は表彰状を受け取った。国家表彰とは国民から表彰されたことを意味していた。永井隆は起きてお礼を述べようとしたが、もはや起きることができなかった。永井は国家表彰を受けたが、自分が湯川秀樹博士と同じレベルで表彰されることに疑問を持っていた。医学者としての業績は少なく、被爆者の救済を行ったのは自分ひとりではなかった。自分の本がベストセラーになったが、それが社会的な貢献として国家表彰に値するのだろうか、という疑問であった。

 

 最期の執筆

 如己堂に横たわる永井の腹は慢性骨髄性白血病のため妊婦のように大きくなっていた。寝返りもできない状態であった。しかし昼間は多くの人たちと会い、夜は熱と痛みに耐えながら書き続けた。全身の骨は痛み、脾臓が大きくなり他の臓器を圧迫した。食事は摂れなくなり、息苦しさも増していった。弱ってゆく肉体に残された最後の力をふりしぼり書き続けた。執筆に疲れると顔を外に向け庭に咲く花を見て楽しんだ。

 昭和26年3月になると、症状はしだいに悪化していった。発熱が続き腹水が急速に増え、全身の浮腫が目立つようになった。永井隆は自分の死期が近づいてきていることを自覚した。だが目が見えるうちに、手の動くうちに書けるだけのことを書こうとした。そして以前から構想を練っていた「乙女峠」を書き始めた。

 津和野にある乙女峠は、浦上のキリスト教徒が投獄され迫害を受けた牢屋のあったところである。明治2年に津和野に流刑となった甚三郎を中心とした、乙女峠で苦しんだ信者たちの信仰心を永井隆はどうしても描きたかった。一行書いては休み、一行書いては息を整え、4月22日に「乙女峠」を書き上げた。永井隆は4年間で13冊の著作を書き残した。しかし「乙女峠」を書き上げた直後の4月25日、肩胛骨に内出血をおこし、執筆することができなくなった。口腔内に出血が始まり、4月30日には右大腿部に大量の内出血をおこした。大腿部の内出血は慢性骨髄性白血病による病的骨折によるものであった。主治医である朝長教授が入院を決定した。

 5月1日9時、永井隆は戸板で作られた担架に乗せられ、如己堂から長崎大学医学部付属病院に運ばれた。信者たちが担ぐ担架のうしろには自然に30人ほどの市民がつきそい、沿道の人たちも永井に頭を下げた。入院した直後には、看護婦と冗談を言えるほどの状態であった。しかしすぐに痙攣をおこし危篤状態となった。そして昭和26年5月1日9時50分、永井隆は手にロザリオと十字架を持ち、二人の子供たちが看取る中、長崎大学附属病院でこの世を去った。病気に冒されてから死に至るまで、一度も痛いとか苦しいという言葉を口にしなかった。享年43、静かな最期だった。 

 

 浦上の聖人

 永井隆は生前から自分の病気を若い学生に勉強してもらいたかった。そのため死後の病理解剖を希望していた。病理解剖室は大学教授や医師たちで入りきれない状態であった。解剖室の外では多くの看護婦が遺族とともに解剖の終わるのを待っていた。

 永井隆の解剖が終了し、松岡教授は脾臓が常人の35倍。肝臓が5倍の大きさで、死因は慢性骨髄性白血病による心臓衰弱と発表した。遺体は入棺され、白い十字架が描かれた黒い布に覆われ如己堂に戻ってきた。如己堂の周辺には多くの花輪が並べられ、多くの人たちが提灯を持って集まっていた。

 5月14日、浦上天主堂で長崎市公葬が行われた。永井隆博士との別れを惜しむ2万人の長崎市民が浦上天主堂に集まった。浦上教会の聖歌隊が冥福を祈り聖歌を歌った。田川務・長崎市長が祭文を読み、吉田首相、林参議院議長など各界の代表者300通の弔文が奉納された。山田耕筰が作曲し、サトウハチローが永井隆のために作詞した曲「辞世の歌」を純心女子学園の学生たちが合唱した。そして正午にアンゼラスの鐘が鳴り、この長崎の鐘の音に合わせるかのように、長崎市のすべての寺院の鐘、工場や汽船のサイレンが鳴らされ、長崎市民は1分間の黙祷をささげた。

 大十字架を先頭に浦上教会のブラスバンドが永井隆の遺骨を先導した。浦上天主堂から国際墓地までの長い道のほとんどが別れを惜しむ市民たちで埋めつくされた。パウロ永井隆は、マリナ永井緑の霊とともに国際墓地で永遠の眠りについた。

 パウロ永井隆の墓標には「われは主のつかいめなり、おおせのごとくわれになれかし」「われは無益のしもべなり、なしたることをなしたるのみ」と刻まれている。長崎の人々は永井隆の死を悲しみ、今でも永井隆を「浦上の聖人」と呼んでいる。