昭和50年代
昭和50年4月にサイゴンが陥落してベトナム戦争が終わり、世界最強と思われていたアメリカが初めて敗北を味わい、失意のうちに新たな道を歩むことになる。昭和51年9月に毛沢東が死去し、文化大革命が「四人組の逮捕」とともに終息し、失脚していた鄧小平が台頭して、中国は共産主義のまま市場経済へと大きくカジをとった。ソ連は経済が低迷しながらも、軍事力で大国を維持していたが、アフガニスタン侵攻によるモスクワオリンピック・ボイコットを受け、国力が衰退していった。冷戦の時代ではあったが、共産主義の衰退が静かに進行するなかで、資本主義国家、共産主義国家への疑問が混沌としていた。
国内では今太閤と呼ばれた田中角栄首相の人気は抜群で、日中国交正常化、金大中事件、オイルショックなどの難問を乗り越えたが、昭和51年7月のロッキード事件で田中角栄が逮捕され、コンピュータ付きブルドーザーも金脈問題に足をすくわれた。田中角栄は闇将軍と呼ばれ鈴木善幸内閣でも影響を残したが、日米関係は悪化した。
昭和50年に政権についた中曽根康弘はレーガン大統領と「ロン」「ヤス」と呼び、日米関係を強めた。昭和50年代は日航機ハイジャック事件、第2次石油危機などがあったが、経済は安定して、国民は多様な豊かさを求めていた。
日本の産業は鉄鋼から自動車へ移行し、「瑞穂の国は商人の国」になり、貿易黒字が続いた。日本は「Japan as No.1」と賞賛され、日本的経営が世界の手本になった。日本は原料を輸入して製品を輸出する貿易国であったが、日本は経済力を自慢し、傲慢さも加わり、輸出超過が貿易摩擦を引き起こした。アメリカは貿易赤字を解消するため日本に内需拡大を求め、そのため日本銀行は著しい金融緩和を実施。この金融緩和政策が内需主導の景気拡大を誘い、株価や地価を大幅に上昇させた。
夢の新幹線が次々と延長開業し、昭和58年にはディズニーランドが開演し、日本人はまだ夢を膨らましていたが、歴史の裏側では、昭和52年から北朝鮮による日本人の拉致が行われていた。拉致問題は我が国の主権と国民の安全に関わることであるが、政府もマスコミも正面から取り上げることはなかった。
人々は争いを避け、イデオロギーよりも自分の幸福、欲望を求めた。核家族はニューファミリーと呼ばれ、昭和30年代には長屋からアパートへ、昭和40年代にはアパートから団地へ、そして昭和50年代には郊外の一軒家へと移っていった。団塊の世代は企業戦士となって、若者はディスコでフィーバーし、高校への進学率は90%を越え、7割以上の国民が生活に満足していた。国民の満足度を指標にすれば、昭和50年代は日本の歴史上最も良き時代だった。追いつけ、追い越せの目標を達成し、戦後から引き継いできたものが一段落し、がむしゃらに走ってきた生活が落ちついてきた時代だった。たがそれは同時に、目標喪失の入り口でもあった。
昭和50年代後半、日本人は働き過ぎと批判され、週休二日制が導入され、競争を悪とする考えが、勤勉を徳とする日本人の心を変えていった。苦労より楽をすることが、暗黙の了解から理屈を主張する者が社会の主導権を握りはじめた。学校ではいじめが、家庭では家庭内暴力が深刻化したが、それは恥や正義を忘れ、日本人のつつましき優しさが壊れようとしている兆しであった。
CTスキャン 昭和50年(1975年)
東京女子医科大に設置されたCTスキャン(コンピューター断層撮影装置)が、昭和50年8月26日、日本で初めて稼働した。身体の断面図を映し出すCTスキャンは、現在では誰でも知っているが、その開発と実用化は医療に革命をもたらした。
1895年、ドイツのレントゲン博士が真空放電の実験で、蛍光板を光らせる未知の線を偶然に発見、未知の数値を表すXの文字を当てはめX線と名づけた。最初の論文には「妻の手を撮影した写真」が掲載され、その写真には手骨と指輪が写っていた。
この写真は世界中を驚かせ、レントゲンは人類のために特許権を放棄したこともあってX線は急速に広まった。1901年、医学に大きな貢献をもたらしたとして、レントゲンは第1回ノーベル物理学賞を受賞している。
このX線写真では骨の状態は分かるが、筋肉、軟骨、血管などの軟部組織は不明確で、さらに前後に重なった臓器を識別できない欠点があった。この欠点を補ったのがCTスキャンである。CTスキャンの原理は基本的にはX線写真と同じだが、「X線を発生させる管球」と「X線の量を測定する検出器」を身体を挟むように設置し、患者を台に寝かせたまま管球と検出器を1回転させ、多数の角度から身体各部位のX線吸収率を測定し、X線吸収率の違いをコンピューターで処理して、身体を「輪切り状」に画像化する装置のことである。このCTスキャンを開発したのが、英国のハンズフィールドと米国のコーマックで、1979年にふたりはノーベル物理学賞を受賞している。
ハンズフィールドは第2次世界大戦中、サウス・ケンジントン空軍大で無線工学を学び、1951年にEMI社に入社すると、開発されたばかりのコンピューターに興味を持ち、その医学への応用に夢中になった。1972年にコーマックの理論を応用してCTスキャン(Computed Tomography)を開発。X線の情報をコンピューターで計算して、人体の断面の画像化に成功した。なおEMI社はビートルズのレコードの売上げによって研究費が賄われていたので、「CTスキャンはビートルズによる最も偉大な遺産」と言われている。
CTスキャンの登場はまず脳外科の分野で役に立った。それまで脳腫瘍、外傷、脳梗塞、脳出血などの診断には脳血管造影が用いられていた。脳血管造影は「脳の血管にカテーテルを入れて造影剤を流して撮影する方法」であるが、その診断精度は低く、検査には危険性が伴った。検査で死亡することもあれば、麻痺をきたすこともあった。そのほかの検査として、放射性同位元素による核医学検査、脳内に空気を入れて脳の形態を調べる気脳造影検査などがあったが、診断的価値は少なかった。その点、CTスキャンは患者にとって革命的メリットをもたらした。
それまで脳梗塞と脳出血の鑑別は困難で、両者は区別できずに脳卒中と呼ばれていた。それがCTスキャンの登場によって、病変部位が白ければ脳出血、黒ければ脳梗塞と簡単に診断できるようになった。それまでの脳卒中の診断は、発症状況を詳しく聞き、ハンマーで患者の腱反射を調べ、麻痺の部位から病巣を推測していた。しかしそれでは正確な診断は困難であったが、CTスキャンの登場により、神経内科医の病巣診断よりも画像診断の方が正しいことを視覚的に示してくれた。CTスキャンが医師に与えた衝撃は強烈であった。
CTスキャンは脳専用装置から出発したが、すぐに肺、肝臓、膵臓、腸などの各臓器に応用された。CTスキャンは解像度に優れ、多くの病変を描出することができた。情報量が多く、位置情報が正確だったため診断には不可欠の検査となった。
当時のCTスキャンは、X線管と検出器に電力を供給するためのケーブルが付いていた。そのため1回転すると停止し、逆方向に1回転させるため、1回の検査に時間を要した。1回の撮影に時間がかかったため、心臓や肺など動いている臓器の診断は困難で、頭部のように静止した臓器が対象となった。この問題を解決したのがヘリカルCTであった。ヘリカルとはらせんを意味していて、患者が横たわる寝台に対し、X線の発生器と検出器をらせん状(ヘリカル)に連続回転させ、高速撮影を可能にした。
さらに平成10年には、検出器を複数配列したマルチスライスCTが登場。CTは1回転で1スライス(1枚)の断層画像を撮影するが、マルチスライスCTは1度に複数枚の断層画像を撮影することができた。平成14年には、16チャンネルのCTが発売され、16チャンネルは1チャンネルCTの30倍以上の速さで撮影することができ、精度の高い立体画像を数秒で撮影することができた。つまり動いている心臓も静止状態で撮影できるようになった。
CTスキャンは急速に普及し、人口当たりの普及率は日本が世界で突出している。大掛かりな装置であるが、被曝を除けば患者への侵襲はほとんどない。このCTスキャンは医学史上まさにレントゲンのX線発見に次ぐ重要なものとなった。
超音波検査 昭和50年(1975年)
画像診断は医療の中で大きな比重を占め、画像診断の進歩は患者に苦痛を与えず、病変をより正確で安全に診断できる道をもたらした。CT(コンピューター断層撮影法)とほぼ時を同じくして、昭和50年頃から超音波検査が普及した。
超音波とは「ヒトの聞くことのできる音(20ヘルツ〜2万ヘルツ)を超えた高周波数の音」のことである。多くの哺乳類はヒトが聞こえない高周波数の音を聞くことができ、イヌは8万ヘルツ、コウモリは10万ヘルツ、イルカは17万ヘルツまで聞こえ、この超音波によって情報のやりとりしている。
ヒトが耳で聞くことのできる音は四方に広がるが、超音波は直線状に進みモノに当たると反射する性質がある。そのため超音波は海底の地形検査や魚群探知機として、第2次世界大戦では潜水艦を探すソナーとして応用されていた。世界地図を見ると、海の深さが等深線で書かれているが、これは超音波によって測定されたものである。
この超音波の特性を人体に応用したのが超音波検査である。皮膚にゼリーを塗り、超音波送受診器を皮膚に当て、超音波を発射して各臓器から反射してくる反射波の違いをとらえ、画像化する方法である。身体の90%以上が水分なので各臓器からの反射波の違いをコンピューターで処理して臓器の形を描くことができる。
超音波は骨や石などの高密度の組織では強く反射するため、骨の裏に隠れた臓器の観察は困難である。また超音波は空気中で散乱するので、空気を含んだ肺や腸の観察は難しかった。しかし患者にとっては無痛で、X線のような被曝がなく、安全の面で大きな利点があった。
超音波検査が最初に応用されたのは胆石の診断だった。それまで胆石の診断には造影剤を飲む、あるいは造影剤を注射して胆嚢を造影する方法であったが、超音波検査ははるかに副作用が少なく診断の精度も高かった。
超音波は改良が加えられて精度が増し、肝臓、膵臓、腎臓、婦人科のがんの診断に応用できるようになった。機材の持ち運びが容易で、ベッドサイドや外来で気軽に検査することができ、緊急時にも対応できた。超音波検査にはX線のような被曝がないので、産婦人科での胎児の観察にも大きな貢献を果たした。胎児の大きさ、胎児や胎盤の位置の異常、胎児の心拍のモニター、出産前の男女の性別判定が可能になった。さらに超音波検査は進歩し、解像度が増し、臓器の形状を正確に映し出せるようになった。難しかった腸の観察も、現在では炎症の程度を観察することができ、虫垂炎の診断に応用されている。
超音波検査は心臓疾患にも大きな貢献を果たしている。リアルタイムで心臓の動きを動画として観察できるようになり、心臓超音波検査は循環器内科にとって必須となった。医師は超音波を心臓に当て、心筋の厚さや心臓の大きさなどの形態、心臓の収縮からポンプとしての心機能を検査できるようになった。
超音波にはドプラー効果という特性があり、近づいてくる救急車のサイレンの音と遠ざかるサイレンの音が違って聞こえるように、対象物のスピードによって跳ね返る周波数が違ってくる。1842年にオーストリアの物理学者 C・J・ドプラーがドプラー効果を発見し、超音波検査に応用されている。
血管には赤血球などの有形成分が流れているが、血流の方向や速度をドプラー効果で測定できるようになった。心臓内部の血流の方向と速度を測定し、血液の逆流から心臓弁膜症の程度が分かるようになった。血流の方向や速度をカラー画像で表示するカラードプラー法が開発され、応用されている。
心臓専門医の診療には、聴診器、心電図が不可欠だったが、現在では心エコーが必須の医療機器となっている。心臓の動きを観測し、心臓の障害部位が診断でき、心筋梗塞の診断や部位を知ることも可能になった。
最近では血管内超音波法が確立している。これは心臓カテーテルの先端に超音波装置を付け、心臓の栄養血管である冠動脈にカテーテルを挿入して、狭窄部、血栓などの血管壁の病変や血流量を知る方法である。冠動脈造影法は血管内腔のみであるが、血管内超音波法は動脈壁全体の病変を知ることができる。
超音波検査装置は、昭和50年頃から日本で急速に普及し、日本企業の超音波検査装置は米国で60%、欧州で70%、アジアでほぼ100%のシェアを誇っている。平成の時代になってMRI(磁気共鳴画像法)が普及してきたが、超音波検査やCT検査ほどのインパクトはない。MRIは電磁波によって身体の内部を画像化する検査で、解像度が高いため超音波やCTでとらえられなかった病変が分かるようになった。しかし診療上の有用性を考えた場合、超音波検査やCT検査は不可欠の検査であるが、MRIは必須ではない。MRIは脊椎の病変には有用だが、費用対効果では超音波やCT検査の方が勝っている。このように超音波検査やCT検査の登場は、医学上画期的なことで、病気の診断に飛躍的向上をもたらした。