昭和50年代

昭和50年代

 昭和504月にサイゴンが陥落してベトナム戦争が終わり、世界最強と思われていたアメリカが初めて敗北を味わい、失意のうちに新たな道を歩むことになる。昭和519月に毛沢東が死去し、文化大革命が「四人組の逮捕」とともに終息し、失脚していた鄧小平が台頭して、中国は共産主義のまま市場経済へと大きくカジをとった。ソ連は経済が低迷しながらも、軍事力で大国を維持していたが、アフガニスタン侵攻によるモスクワオリンピック・ボイコットを受け、国力が衰退していった。冷戦の時代ではあったが、共産主義の衰退が静かに進行するなかで、資本主義国家、共産主義国家への疑問が混沌としていた。

 国内では今太閤と呼ばれた田中角栄首相の人気は抜群で、日中国交正常化、金大中事件、オイルショックなどの難問を乗り越えたが、昭和517月のロッキード事件で田中角栄が逮捕され、コンピュータ付きブルドーザーも金脈問題に足をすくわれた。田中角栄は闇将軍と呼ばれ鈴木善幸内閣でも影響を残したが、日米関係は悪化した。

 昭和50年に政権についた中曽根康弘はレーガン大統領と「ロン」「ヤス」と呼び、日米関係を強めた。昭和50年代は日航機ハイジャック事件、第2次石油危機などがあったが、経済は安定して、国民は多様な豊かさを求めていた。

 日本の産業は鉄鋼から自動車へ移行し、「瑞穂の国は商人の国」になり、貿易黒字が続いた。日本は「Japan as No.1」と賞賛され、日本的経営が世界の手本になった。日本は原料を輸入して製品を輸出する貿易国であったが、日本は経済力を自慢し、傲慢さも加わり、輸出超過が貿易摩擦を引き起こした。アメリカは貿易赤字を解消するため日本に内需拡大を求め、そのため日本銀行は著しい金融緩和を実施。この金融緩和政策が内需主導の景気拡大を誘い、株価や地価を大幅に上昇させた。

 夢の新幹線が次々と延長開業し、昭和58年にはディズニーランドが開演し、日本人はまだ夢を膨らましていたが、歴史の裏側では、昭和52年から北朝鮮による日本人の拉致が行われていた。拉致問題は我が国の主権と国民の安全に関わることであるが、政府もマスコミも正面から取り上げることはなかった。

 人々は争いを避け、イデオロギーよりも自分の幸福、欲望を求めた。核家族はニューファミリーと呼ばれ、昭和30年代には長屋からアパートへ、昭和40年代にはアパートから団地へ、そして昭和50年代には郊外の一軒家へと移っていった。団塊の世代は企業戦士となって、若者はディスコでフィーバーし、高校への進学率は90%を越え、7割以上の国民が生活に満足していた。国民の満足度を指標にすれば、昭和50年代は日本の歴史上最も良き時代だった。追いつけ、追い越せの目標を達成し、戦後から引き継いできたものが一段落し、がむしゃらに走ってきた生活が落ちついてきた時代だった。たがそれは同時に、目標喪失の入り口でもあった。

 昭和50年代後半、日本人は働き過ぎと批判され、週休二日制が導入され、競争を悪とする考えが、勤勉を徳とする日本人の心を変えていった。苦労より楽をすることが、暗黙の了解から理屈を主張する者が社会の主導権を握りはじめた。学校ではいじめが、家庭では家庭内暴力が深刻化したが、それは恥や正義を忘れ、日本人のつつましき優しさが壊れようとしている兆しであった。

 

 

 

CTスキャン 昭和50年(1975年)

 東京女子医科大に設置されたCTスキャン(コンピューター断層撮影装置)が、昭和50年8月26日、日本で初めて稼働した。身体の断面図を映し出すCTスキャンは、現在では誰でも知っているが、その開発と実用化は医療に革命をもたらした。

 1895年、ドイツのレントゲン博士が真空放電の実験で、蛍光板を光らせる未知の線を偶然に発見、未知の数値を表すXの文字を当てはめX線と名づけた。最初の論文には「妻の手を撮影した写真」が掲載され、その写真には手骨と指輪が写っていた。

 この写真は世界中を驚かせ、レントゲンは人類のために特許権を放棄したこともあってX線は急速に広まった。1901年、医学に大きな貢献をもたらしたとして、レントゲンは第1回ノーベル物理学賞を受賞している。

 このX線写真では骨の状態は分かるが、筋肉、軟骨、血管などの軟部組織は不明確で、さらに前後に重なった臓器を識別できない欠点があった。この欠点を補ったのがCTスキャンである。CTスキャンの原理は基本的にはX線写真と同じだが、「X線を発生させる管球」と「X線の量を測定する検出器」を身体を挟むように設置し、患者を台に寝かせたまま管球と検出器を1回転させ、多数の角度から身体各部位のX線吸収率を測定し、X線吸収率の違いをコンピューターで処理して、身体を「輪切り状」に画像化する装置のことである。このCTスキャンを開発したのが、英国のハンズフィールドと米国のコーマックで、1979年にふたりはノーベル物理学賞を受賞している。

 ハンズフィールドは第2次世界大戦中、サウス・ケンジントン空軍大で無線工学を学び、1951年にEMI社に入社すると、開発されたばかりのコンピューターに興味を持ち、その医学への応用に夢中になった。1972年にコーマックの理論を応用してCTスキャン(Computed Tomography)を開発。X線の情報をコンピューターで計算して、人体の断面の画像化に成功した。なおEMI社はビートルズのレコードの売上げによって研究費が賄われていたので、「CTスキャンはビートルズによる最も偉大な遺産」と言われている。

 CTスキャンの登場はまず脳外科の分野で役に立った。それまで脳腫瘍、外傷、脳梗塞、脳出血などの診断には脳血管造影が用いられていた。脳血管造影は「脳の血管にカテーテルを入れて造影剤を流して撮影する方法」であるが、その診断精度は低く、検査には危険性が伴った。検査で死亡することもあれば、麻痺をきたすこともあった。そのほかの検査として、放射性同位元素による核医学検査、脳内に空気を入れて脳の形態を調べる気脳造影検査などがあったが、診断的価値は少なかった。その点、CTスキャンは患者にとって革命的メリットをもたらした。

 それまで脳梗塞と脳出血の鑑別は困難で、両者は区別できずに脳卒中と呼ばれていた。それがCTスキャンの登場によって、病変部位が白ければ脳出血、黒ければ脳梗塞と簡単に診断できるようになった。それまでの脳卒中の診断は、発症状況を詳しく聞き、ハンマーで患者の腱反射を調べ、麻痺の部位から病巣を推測していた。しかしそれでは正確な診断は困難であったが、CTスキャンの登場により、神経内科医の病巣診断よりも画像診断の方が正しいことを視覚的に示してくれた。CTスキャンが医師に与えた衝撃は強烈であった。

 CTスキャンは脳専用装置から出発したが、すぐに肺、肝臓、膵臓、腸などの各臓器に応用された。CTスキャンは解像度に優れ、多くの病変を描出することができた。情報量が多く、位置情報が正確だったため診断には不可欠の検査となった。

 当時のCTスキャンは、X線管と検出器に電力を供給するためのケーブルが付いていた。そのため1回転すると停止し、逆方向に1回転させるため、1回の検査に時間を要した。1回の撮影に時間がかかったため、心臓や肺など動いている臓器の診断は困難で、頭部のように静止した臓器が対象となった。この問題を解決したのがヘリカルCTであった。ヘリカルとはらせんを意味していて、患者が横たわる寝台に対し、X線の発生器と検出器をらせん状(ヘリカル)に連続回転させ、高速撮影を可能にした。

 さらに平成10年には、検出器を複数配列したマルチスライスCTが登場。CTは1回転で1スライス(1枚)の断層画像を撮影するが、マルチスライスCTは1度に複数枚の断層画像を撮影することができた。平成14年には、16チャンネルのCTが発売され、16チャンネルは1チャンネルCTの30倍以上の速さで撮影することができ、精度の高い立体画像を数秒で撮影することができた。つまり動いている心臓も静止状態で撮影できるようになった。

 CTスキャンは急速に普及し、人口当たりの普及率は日本が世界で突出している。大掛かりな装置であるが、被曝を除けば患者への侵襲はほとんどない。このCTスキャンは医学史上まさにレントゲンのX線発見に次ぐ重要なものとなった。

 

 

 

超音波検査 昭和50年(1975年)

 画像診断は医療の中で大きな比重を占め、画像診断の進歩は患者に苦痛を与えず、病変をより正確で安全に診断できる道をもたらした。CT(コンピューター断層撮影法)とほぼ時を同じくして、昭和50年頃から超音波検査が普及した。

 超音波とは「ヒトの聞くことのできる音(20ヘルツ〜2万ヘルツ)を超えた高周波数の音」のことである。多くの哺乳類はヒトが聞こえない高周波数の音を聞くことができ、イヌは8万ヘルツ、コウモリは10万ヘルツ、イルカは17万ヘルツまで聞こえ、この超音波によって情報のやりとりしている。

 ヒトが耳で聞くことのできる音は四方に広がるが、超音波は直線状に進みモノに当たると反射する性質がある。そのため超音波は海底の地形検査や魚群探知機として、第2次世界大戦では潜水艦を探すソナーとして応用されていた。世界地図を見ると、海の深さが等深線で書かれているが、これは超音波によって測定されたものである。

 この超音波の特性を人体に応用したのが超音波検査である。皮膚にゼリーを塗り、超音波送受診器を皮膚に当て、超音波を発射して各臓器から反射してくる反射波の違いをとらえ、画像化する方法である。身体の90%以上が水分なので各臓器からの反射波の違いをコンピューターで処理して臓器の形を描くことができる。

 超音波は骨や石などの高密度の組織では強く反射するため、骨の裏に隠れた臓器の観察は困難である。また超音波は空気中で散乱するので、空気を含んだ肺や腸の観察は難しかった。しかし患者にとっては無痛で、X線のような被曝がなく、安全の面で大きな利点があった。

 超音波検査が最初に応用されたのは胆石の診断だった。それまで胆石の診断には造影剤を飲む、あるいは造影剤を注射して胆嚢を造影する方法であったが、超音波検査ははるかに副作用が少なく診断の精度も高かった。

 超音波は改良が加えられて精度が増し、肝臓、膵臓、腎臓、婦人科のがんの診断に応用できるようになった。機材の持ち運びが容易で、ベッドサイドや外来で気軽に検査することができ、緊急時にも対応できた。超音波検査にはX線のような被曝がないので、産婦人科での胎児の観察にも大きな貢献を果たした。胎児の大きさ、胎児や胎盤の位置の異常、胎児の心拍のモニター、出産前の男女の性別判定が可能になった。さらに超音波検査は進歩し、解像度が増し、臓器の形状を正確に映し出せるようになった。難しかった腸の観察も、現在では炎症の程度を観察することができ、虫垂炎の診断に応用されている。

 超音波検査は心臓疾患にも大きな貢献を果たしている。リアルタイムで心臓の動きを動画として観察できるようになり、心臓超音波検査は循環器内科にとって必須となった。医師は超音波を心臓に当て、心筋の厚さや心臓の大きさなどの形態、心臓の収縮からポンプとしての心機能を検査できるようになった。

 超音波にはドプラー効果という特性があり、近づいてくる救急車のサイレンの音と遠ざかるサイレンの音が違って聞こえるように、対象物のスピードによって跳ね返る周波数が違ってくる。1842年にオーストリアの物理学者 C・J・ドプラーがドプラー効果を発見し、超音波検査に応用されている。

 血管には赤血球などの有形成分が流れているが、血流の方向や速度をドプラー効果で測定できるようになった。心臓内部の血流の方向と速度を測定し、血液の逆流から心臓弁膜症の程度が分かるようになった。血流の方向や速度をカラー画像で表示するカラードプラー法が開発され、応用されている。

 心臓専門医の診療には、聴診器、心電図が不可欠だったが、現在では心エコーが必須の医療機器となっている。心臓の動きを観測し、心臓の障害部位が診断でき、心筋梗塞の診断や部位を知ることも可能になった。

 最近では血管内超音波法が確立している。これは心臓カテーテルの先端に超音波装置を付け、心臓の栄養血管である冠動脈にカテーテルを挿入して、狭窄部、血栓などの血管壁の病変や血流量を知る方法である。冠動脈造影法は血管内腔のみであるが、血管内超音波法は動脈壁全体の病変を知ることができる。

 超音波検査装置は、昭和50年頃から日本で急速に普及し、日本企業の超音波検査装置は米国で60%、欧州で70%、アジアでほぼ100%のシェアを誇っている。平成の時代になってMRI(磁気共鳴画像法)が普及してきたが、超音波検査やCT検査ほどのインパクトはない。MRIは電磁波によって身体の内部を画像化する検査で、解像度が高いため超音波やCTでとらえられなかった病変が分かるようになった。しかし診療上の有用性を考えた場合、超音波検査やCT検査は不可欠の検査であるが、MRIは必須ではない。MRIは脊椎の病変には有用だが、費用対効果では超音波やCT検査の方が勝っている。このように超音波検査やCT検査の登場は、医学上画期的なことで、病気の診断に飛躍的向上をもたらした。

 

 

 

未熟児網膜症 昭和50年(1975年)

 未熟児網膜症の訴訟件数はこれまで100件以上とされている。未熟児網膜症の裁判が多いのは、新生児医療の進歩、つまり未熟児への酸素投与が、それまで未経験だった未熟児網膜症を作ったからである。

 未熟児網膜症の治療は光凝固療法であるが、この「光凝固療法がいつから一般的治療法として確立したか」が裁判の争点となった。光凝固法を用いて未熟児網膜症の進行を未然に防止できたかどうか、この医療水準の時期が常に裁判で争われることになった。判決が微妙だったのは、医療水準は全国一律ではなく、病院の専門性、医療の地域格差などがあったからである。未熟児網膜症は医学界や法曹界ばかりでなく、世の中に大きな波紋をなげかけた。

 未熟児網膜症の病態は次のようになる。眼の奥にはカメラのフィルムに相当する網膜があり、網膜に栄養や酸素を運ぶ網膜血管は妊娠9カ月に完成する。そのため9カ月以前に生まれた未熟児の網膜血管は未完成のままとなる。網膜血管と胎児の成熟度は比例関係にあるため、出生児体重1500グラム以下、32週未満の出生では、未熟児網膜症の発症頻度が高くなる。たとえ酸素の投与を行わなくても、空気中の20%の酸素で未熟児網膜症を引き起こすことがある。

 未熟児網膜症のメカニズムは、未熟な網膜血管は高酸素環境に置かれると強く収縮し、収縮によって減少した酸素や栄養を補うため、脆弱(ぜいじゃく)な新生血管が出現する。この新生血管は破れやすく、破れた血管が修復する際に瘢痕が収縮して網膜が剥離(はくり)するのである。

 昭和30年以降、新生児救命のためのに高濃度の酸素が投与されるようになり、未熟児網膜症が多くみられるようになった。昭和17年(1942年)、米国のテリーが未熟児網膜症を世界で初めて報告し、8年後の昭和25年に米国のヒースが未熟児網膜症と名づけた。保育方法が進歩し、酸素が大量に用いられるようになり、未熟児への救命処置が未熟児網膜症を生んだのであった。未熟児網膜症の防止のため、酸素濃度を40%以下に制限することになり、患者数は減ることになるが、逆に酸素量を制限しすぎたため、脳性小児麻痺や肺機能障害で死亡する未熟児が多く出るようになった。

 このように救命のための酸素投与量の適量が問題になった。未熟児網膜症はよく知られた疾患であるが、未熟児網膜症は現在でも完全になくなっているわけではない。未熟児で生まれる子供が増えたため、網膜症による失明児や弱視児を根絶できないでいる。また未熟児網膜症は酸素の使用とは無関係に発症することもある。

 未熟児網膜症には有効な治療法はないとされていたが、昭和42年、日本臨床眼科学会で天理よろず相談所病院の眼科部長・永田誠が光凝固療法で未熟児網膜症の進行を停止させることができると発表した。この光凝固療法は、西ドイツで開発されたものだが、永田医師は画期的な成功例を示し、翌年の学会誌(臨床眼科)にも掲載された。昭和44年には4例の成功例が発表され、光凝固療法による成功例が次第に増え、47年には100例以上の症例に光凝固療法が行われるようになった。

 光凝固療法とは患部にレーザー光線を当て、網膜のタンパク質を凝固させ、網膜症の進行を止める方法である。昭和49年には厚生省に研究班が結成され、翌50年には光凝固療法による治療の適応性や方法についてのガイドラインが発表された。この報告書によると、「未熟児には定期的に眼底検査を行い、網膜症を早期に発見して光凝固を実施すべき」と書かれている。また誤解されやすいが、光凝固療法は網膜症の進行を止める治療で、光凝固療法によって網膜がもとに戻るわけではない。

 この未熟児網膜症裁判で常に問題になったのは、医療過誤として医療側の責任がどの程度なのかであった。裁判では、訴えられた医療側が、その当時の医療水準に照らし合わせ、診察や治療に関する注意義務を果たしたかどうかが争点となった。裁判所が病院の医療行為について当時の医療水準を満たしていないと判断すれば、病院は注意義務違反による過失を問われることになった。医療側に責任があるとされれば、賠償責任が生じることになる。未熟児網膜症の治療として昭和49年ころから光凝固療法が普及したが、当時は未熟児網膜症を的確に診断できる医師は少なく、光凝固療法の効果を疑問視する医師もいた。さらに長期的効果についての経過観察のデータが欠けていた。

 光凝固療法が昭和何年の時点で当時の医療水準とされていたかが裁判所で争われることになった。原告側は「病院がきちんと眼底検査をしていれば、光凝固法の治療を早く受けさせることができた」と訴え、病院側は、「光凝固法の有効性は、当時はまだ確立されていなかった」と主張した。その結果、患者の誕生日が昭和50年8月を境に、患者の請求が認められる傾向になった。もちろん医療水準は、医師や医療機関の地域性や専門性に左右されるので、その判断基準は全国一律ではないが、昭和50年8月以後は医師側の注意義務が問われるようになった。患者、家族、医師にとって、未熟児網膜症は不幸な出来事であるが、その予防は未熟児出生の防止である。このことが根本的対策であることを忘れてはいけない。

 

 

 

サイゴン陥落 昭和50年(1975年)

 ベトナム戦争はその動員兵力、死傷者数、航空機の損失、使用弾薬量、戦費において第1次世界大戦を上回り、使用弾薬量、投下爆弾量では第2次世界大戦を超えていた。また米軍による大量の枯れ葉剤散布で多くの奇形児が生まれ、米軍兵士はベトナム・シンドロームと呼ばれるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされ、これまでの戦争には見られなかった課題を生んだ。

 昭和50年4月30日、南ベトナムの全面降伏により首都サイゴン(現在のホーチミン)が陥落してベトナム戦争は終結した。1年後に南北統一選挙が実施され、南北ベトナムを統一したベトナム社会主義共和国が誕生した。

 ベトナムの歴史はまさに植民地の歴史であった。秦の始皇帝の時代から約1000年にわたり中国に支配され、次にフランスの植民地として約100年間支配され、その間、ベトナムは仏領インドシナと呼ばれていた。昭和15年に日本軍が進駐したが、日本が連合国に無条件降伏すると、昭和20年9月2日、ホーチミンはハノイを首都にベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立を宣言し、共産主義による国造りを始めた。

 しかしフランスはベトナムの独立を認めず、やがて北ベトナムとのインドシナ戦争(第1次)が始まる。ホーチミンは約9年間、フランス軍と戦い、昭和29年にディエン・ビエン・フーでフランス軍を大敗させ、フランスはベトナムから撤退することになった。中国とソ連は北ベトナムを承認し、同年7月のジュネーブ協定により、北緯17度線を境にベトナムは南北に分断された。

 昭和3010月、南ベトナムは、米国を後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任して、南ベトナム共和国を建国した。米ソの冷戦下、米国は南ベトナムに経済援助を行い、軍事顧問団を派遣して南ベトナムを支援した。ところが南ベトナムの民衆の中にゴ政権に反発する者が多く、昭和3512月には南ベトナム国内に解放民族戦線(ベトコン)が結成された。北ベトナムの援助を受けたベトコンは、米国と南政府軍に宣戦布告して内戦となった。この結果、ベトナムは北を支援するソ連や中国などの社会主義国と、南を支援する米国との政治的かつ戦略的代理戦争となった。

 昭和39年8月、北ベトナムのトンキン湾で、米軍の駆逐艦が北ベトナムから魚雷攻撃を受けたとするトンキン湾事件が発生。ジョンソン米大統領は報復を命令し、空母から飛び立った爆撃機が初めて北ベトナムを空爆。昭和40年3月、米海兵隊が南ベトナムのダナンに上陸、米軍が戦争に直接介入した。ベトナム戦争は、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと4代の米大統領が関与し、最大54万人の米軍兵士が派遣された。

 ベトナム戦争の特徴は、戦争に前線がなかったことである。北緯17度線の国境はあったが、戦闘は南ベトナム領内の各地で行われた。このようにベトコンが南ベトナムでゲリラ戦を展開する内戦が主で、ベトコンは正面切った戦いをさけ、地の利を生かしたゲリラ戦略で戦った。ベトナムを覆うジャングルが戦争の舞台となり、ベトコンは地形を利用して戦いを仕掛けた。

 当時、徴兵制だった米国では、多くの青年たちが戦場で倒れ、長引く戦いに厭戦(えんせん)気分が広がった。仲間を失った若者は、ウッドストックに代表される反戦運動を繰り広げていった。米国にとってのベトナム戦争は、それまでの輝かしい自由と民主主義を守る戦いではなく、面子(めんつ)を賭けた戦争に変わり、大義なき戦争、終わりなき戦いとなった。アメリカでは戦争による精神不安、麻薬にむしばまれる若者が急増し、ベトナム反戦運動はアメリカだけでなく、世界各国に波及し、日本でも学生を中心に反戦運動が盛り上がっていった。

 戦争でアメリカ経済は疲弊し、世界通貨としてのドルの価値が低下し、ドルを基軸とした西側の経済体制は根底から崩れ、昭和4612月、ニクソン大統領は金とドルの交換を停止した(ニクソン・ショック)。

 昭和48年1月、パリ和平会談で停戦が成立。米軍は南ベトナムから撤退したが、その後も南ベトナムに軍事援助を続けた。しかし次第に南ベトナム政府軍の支配地域が狭まり、南ベトナムに最後の時が迫ってきた。

 昭和50年4月30日、北ベトナム軍・解放勢力は、南ベトナムの首都サイゴンを総攻撃、南ベトナム軍は総崩れとなった。南ベトナムでは皆殺しの流言により、多くのベトナム市民が周辺地域に流出。米国の保護を求めて米国大使館に人々は殺到したが、すでに同大使館は撤収していた。北ベトナムの戦車部隊が大統領官邸に突入、大統領ら高官は無条件降伏、南ベトナム政府は崩壊した。ホーチミンはすでに死去していたが、ベトナム人による民族統一が達成されたのである。

 ベトナム戦争は南北ベトナムで120万人以上の戦死者を出し、米軍の戦死者5万6697人、戦傷者306653人で戦費は42兆円に上った。韓国も31万人の兵を派遣し、5000人が戦死している。米国は歴史上初の敗戦という挫折を味わった。

 米軍はジャングルに隠れている北側の補給路を見つけるため、7500万リットルもの枯れ葉剤を空中散布した。散布から24時間で木々の葉は変色し、1カ月で落葉したが、新芽が生まれるため枯れ葉剤散布は繰り返された。散布面積は南ベトナムのジャングルの20%、約170万ヘクタールに及んだ。これは四国の面積に匹敵する広さである。

 ダイオキシンを含む枯れ葉剤は、ベトナムに大きな後遺症を残した。枯れ葉剤散布地区の奇形出産率は通常の約13倍に達し、米軍の帰還兵やその家族も、がんの発症や子どもの身体障害に悩まされた。今でも枯れ葉剤の後遺症で多くの人々が苦しんでいる。

 ベトナム戦争を体験した米軍兵士はベトナム・シンドローム(PTSD:心的外傷後ストレス障害)に陥り、精神的ダメージを引きずることになる。米国の若き兵士たちは、大義なき戦争の犠牲者となり、戦争が終わっても容易に社会に復帰できず、正義の米国は自信の喪失とモラルの荒廃に悩むことになる。

 ベトナムは30年かけて民族独立を勝ち取ったが、サイゴン陥落で有頂天になった北ベトナムの指導者は、南ベトナムに急激な社会主義化を求め混乱を招いた。隣国のカンボジアもその余波を受け、ポル・ポトによる極端な社会主義政権が誕生し、多数の市民を農村に移し100万人以上の犠牲者を出した。

 ベトナムは後に社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)政策」を採用した。ドイモイ政策とはロシアや中国と同じ市場主義経済である。中国と同じようにベトナムの国会議員の9割は共産党員であるが、平和であれば何よりである。

 

 

 

ふぐ中毒 昭和50年(1975年)

 昭和50年1月16日、人間国宝で人気絶頂の歌舞伎役者・坂東三津五郎さん(68)がふぐを食べ、京都で急死した。三津五郎さんがふぐを食べたのは1月15日の夜のことである。三津五郎さんは、京都・南座の正月興行「お吟さま」に千利休の役で出演し、その夜はひいき筋の建設業・守屋俊章氏の招待を受け、舞台がはねてから芸者ら5人と連れ立って料理屋「政」に食事に出掛けた。

 「政」は守屋氏のひいきの店で、調理人は人間国宝である三津五郎さんに「てっちり」のコースを選び、ふぐのキモ(肝臓)を添え物として出した。ふぐは秋の彼岸から春の彼岸までが旬で、特に寒のころが最もおいしい。食通で有名だった三津五郎さんが来店したので、「政」の調理人は腕によりをかけて料理を作った。

 ふぐのキモを料理として客に食べさせることは、京都の「ふぐ取締条例」で禁止されていたが、日本全国で禁止されていたわけではなく、許可している県もあった。そのため調理人としては、厳しく守るべき法律との認識はなかった。常連から「うまいものを頼む」と言われれば、法律で禁止されていても、キモを出すのが暗黙の了解となっていた。

 三津五郎さんは食通として知られていた。キモを出す方も、キモを食べる方も何のためらいもなかった。もちろん「政」の調理人はふぐ料理の免許を持っていた。

 夕食を終えた坂東三津五郎さんが、ほろ酔い気分でロイヤルホテルに戻ってきたのは午後11時ごろであった。宿泊先のホテルでは、妻のたね子さんが待っていて、三津五郎さんは上機嫌のまま布団に入った。三津五郎さんが苦しみ出したのは午前3時ごろだった。隣に寝ていたたね子さんを呼び起こし、「水がほしい」と訴えたが、そのときすでに呂律(ろれつ)が回っていなかった。たね子さんがコップを差し出したが、三津五郎さんはコップを持つことができなかった。意識はしっかりしていたが、舌がもつれ、手がしびれていた。

 フロントから連絡を受けたホテルの管理医師・泉谷守は三津五郎さんの症状からふぐ中毒と診断。救急車を呼び、右京区にある泉谷診療所に運んで救命処置を施したが、三津五郎さんは中毒症状から2時間足らずの午前4時40分に亡くなった。

 坂東三津五郎さんが死亡した事件で、料理屋「政」は京都府から10日間の営業停止を受け、調理人が業務上過失致死で調べられた。「政」は開業以来20年間、しばしばキモを出していたが、三津五郎さんの死亡が初めて経験するふぐ中毒であった。テトロドトキシンの致死量については著しい個人差があって、空腹、満腹、飲酒などによって異なるとされている。三津五郎さんと一緒に食事をした守屋氏や連れの芸者たちに中毒症状は見られず、三津五郎さんだけが犠牲者となった。ほかの4人は気味悪がってキモを食べず、三津五郎さんが4人分を食べたとされているが真相は不明である。

 人間国宝・坂東三津五郎さんは歌舞伎役者ばかりでなく、随筆家としても有名でエッセイスト・クラブ賞を受けたほどの文人だった。『ふぐの刺身や鍋料理はそれぞれ「てっさ」「てっちり」と名付けられているが、ふぐは当たると死ぬことから、鉄砲になぞらえて「てっぽう」とも呼ばれていた』三津五郎さんは、ふぐについてのエッセーでこのように書いていたが、自分が解説した通りふぐに当たって死んでしまった。料理屋「政」は、遺族に2600万円を払うことで和解。ふぐを料理した調理人は、執行猶予2年付きの禁固4月の判決を受けた。

 日本人が古くからふぐを食べていたことは、縄文時代の貝塚からふぐの骨が出土することから確かである。日本人は4000年前の縄文時代からふぐを好んで食べ、ふぐが毒を持つことは古くから知られていた。「ふぐは食べたし、命は惜しい」と例えられ、ふぐは命を賭けてでも味わいたいほど日本人の味覚に合っていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、下関に集結した武士がふぐの内臓を食べて死者が続出したことが記録に残されている。

 ふぐ中毒は、そのキモに含まれるテトロドトキシンによる。テトロドトキシンは明治42年に田原良純・東京大教授がふぐの卵巣から世界で初めて抽出し、ふぐの学名からその名前が付けられた。昭和25年に津田恭介・東京大薬学部教授がふぐ毒の結晶化に成功し、昭和39年には化学構造も解明された。このように、ふぐ毒は日本人研究者によって解明された。

 テトロドトキシンの毒性は青酸カリの500倍と強烈である。トラフグの場合、卵巣(まこ)で20グラム、肝臓(きも)で20グラム、腸で500グラムを食べると致死量となる。これは、トラフグ1匹の内臓で30人を殺すことができる毒性である。テトロドトキシンは、熱、酸、紫外線、消化液などで破壊されないため、煮ても、焼いても毒性に変化はない。

 ふぐの毒性は季節によって著しい差が見られる。一般に産卵期である11月から翌年3月までが最も毒性が強く、この時期はふぐの一番美味しい季節と重なる。またふぐ毒は個体差が著しく、トラフグの肝臓は産卵期であっても約半数には毒性がない。また有毒であっても弱毒なものから猛毒のものまでさまざまである。このように毒性にむらがあるので、油断を招き、中毒を招いた。

 テトロドトキシンは神経毒で、食後30分から3時間で、舌、唇、口、指先などにしびれが生じる。この程度であれば問題はないが、言葉がもつれ手足が麻痺して、嘔吐を繰り返すと重症となる。呼吸筋に麻痺をきたし、呼吸ができずに死亡する。発症から死亡までの時間は2時間から8時間で、8時間以降の死亡例はない。つまり発症から8時間生きていれば、後遺症を残さず回復するのである。夕方にふぐを食べ中毒を起こせば、夜間に生死が決まり、翌朝は何事もなかったようにケロッとしているか、葬式の準備のどちらかである。

 ふぐ毒は骨格筋を麻痺させるが、内臓の筋肉である平滑筋には影響を及ぼさない。それはふぐ毒が骨格筋や心臓のNaチャンネルの通過を遮断するためで、Naチャンネルを持たない平滑筋には影響を及ぼさない。この神経伝達の阻害作用は、昭和49年、楢崎利夫・米ノースウエスタン大教授によって明らかにされた。

 ふぐ毒は骨格筋を障害するが、意識は最後までしっかりしている。意識がしっかりしているのに、しゃべることができず、手足が動かず、呼吸ができない。そのため、ふぐ中毒は想像を絶する恐怖感を味わうことになる。死因は呼吸筋の麻痺なので、呼吸が停止してもしばらく心臓は動いている。

 人工呼吸器をつけて助かった者の証言では、周囲は完全な昏睡と自分を観察しているが、実際には意識があって周囲の話も分かっていた。瞳孔は散大、対光反射は消失し、主治医が脳死と判断しても、患者は周囲の言動を覚えているのである。

 テトロドトキシンは、ふぐが作り出すふぐ特有の毒とされていたが、最近になってテトロドトキシンはふぐ自体が産生する毒ではないことが分かっている。海水に含まれるシュワネラ・アルガ菌がふぐの体内で毒を産生し、これが濃縮されたものであった。つまりテトロドトキシンは海中に住むシュワネラ・アルガ菌が産生する毒素で、ふぐはこの細菌を食べて体内に毒素を蓄積させる作用を持っていたのである。このことからふぐ以外でも、巻き貝、イモリ、カエルなど多くの生物でテトロドトキシンが見いだされている。

 ふぐの能力はテトロドトキシンを作ることではなく、蓄積、濃縮することで、このふぐの能力は自分の身を守るための仕組みかもしれない。実際にふぐを刺激すると、メダカを殺すぐらいのテトロドトキシンを皮膚から放出する。ふぐ中毒は恐ろしいが、アルテロモナス属の細菌がいない海水でふぐを養殖すれば、無毒のふぐになる。日本の食卓にのぼるふぐの多くは養殖なので、市場に出されるふぐの半数は毒を持たない。このようにふぐ毒のメカニズムは養殖ふぐで証明された。

 ふぐに当たったときは、昔から「首まで土に埋めろ」と言われ、実際に行われていた。もちろん迷信であるが、迷信というよりもほかに治療法がなかったからである。ふぐ中毒は呼吸筋麻陣が死亡の原因なので、救命のためには呼吸管理が最も重要である。人工呼吸器がなかった時代のふぐ中毒の致死率は30%だったが、現在では人工呼吸器による呼吸管理により、致死率は6%と著しく改善されている。この60年間でふぐ中毒の患者数は7分の1に、致死率は5分の1に低下している。日本では年間20人から40人が発症し、死亡するのは数人程度である。

 現在でも死亡例があるのは、症状が夜間に起きやすいからで、助けを呼べない場合が多いせいである。特効薬や解毒剤はないが、呼吸管理さえ行えば、ふぐ毒は自然に排出されるので救命できる。もし何らかの症状が出たら、様子を見ようなどとは思わず、嘔吐させてすぐに救急車を呼ぶことである。

 ふぐ中毒のほとんどは家庭での素人料理によって、あるいは専門料理店以外で起きている。最近では自分で釣ったふぐ、もらったふぐを食べた例が大部分である。ふぐによる食中毒は日本だけでなく東南アジア、中国、台湾および韓国でも知られているが、欧米ではふぐを食べる習慣がないのでふぐ中毒の報告はない。またほかの魚がふぐを食べたらどうなるのか、興味があるが、ふぐを食べる魚がいないので本当のところは分からない。

 これまで最も大きなふぐ中毒事件は、昭和37年7月に北九州市で起きている。ベトナム沖で捕れたサバフグを食べた10人が発症し4人が死亡している。このほかふぐ中毒で有名なのは、昭和381112日、大相撲九州場所中の佐渡ケ獄部屋で、ふぐが入ったちゃんこ鍋を食べた力士6人が口のしびれを訴えて病院に運ばれ、三段目・佐渡ノ花が死亡、3人の力士が重体となる事件がある。

 歌舞伎役者・坂東三津五郎さんがふぐ中毒で死亡してから1カ月後、鳥取県倉吉市の歯科医・木本正徳さん(46)が三朝温泉のホテル「山朝」に招待され、ふぐのキモを食べ6時間後に死亡した。ホテル山朝の社長と木本さんはゴルフ仲間で、木本さんが調理人に再三にわたりキモを要求したとされているが、経過については立場によって証言が違うことから、裁判所はホテルの過失責任を4割として、ホテルに賠償金6700万円の支払いを命じた。人間国宝の三津五郎さんの賠償額が2600万円で、木本さんは6700万円である。この金額に違和感を持つかもしれないが。木本さんの年収は1300万円で、ホフマン方式による正当な賠償額であった。

 ふぐに毒があることは誰でも知っている。そのためふぐ中毒は人災といえ、人災ゆえに防止可能である。ところで、ふぐの中でも猛毒があるのは卵巣であるが、この卵巣を調理した物騒な名物食品がある。金沢市周辺や能登地方で「フクノコ」と呼ばれるものだが、「フクノコ」はふぐの卵巣をかす漬けにしたものである。ふぐの卵巣を1年ぐらい塩漬けにして、その後イワシの塩汁と麹(こうじ)を加えてかすに漬け込み、重しを置いて2年以上発酵させたものである。毒は塩漬けの段階で卵巣外に流出し、残った毒は乳酸菌や酵母によって分解される。毒があろうと、知恵と工夫で何でも食べてしまう人間のどん欲さはすごいものである。

 

 

 

荻野久作博士死去 昭和50年(1975年)

 日本の医学を飾る偉人として、小学生でも野口英世、北里柴三郎などの名前を挙げることができる。ところが視点を海外に向け「日本人医師の中で、世界で最も知られている医師は誰か」と言えば、それは新潟県で生涯を送った一介の勤務医・荻野久作博士がダントツの1位になる。その荻野久作が、昭和50年1月1日、新潟市で死去した。享年92。地元紙は「佐藤栄作首相よりもノーベル賞にふさわしかった人」とその業績を称賛した。

 荻野久作は、新潟市にある竹山病院の勤務医として生涯に20万人の患者を診察している。新潟市の人口は40万人なので、新潟市の半数に相当する患者を診察したことになる。荻野は月経と排卵の関係を応用した「オギノ式避妊法」で世界的に有名になったが、世界の荻野である前に、新潟市民の健康を守った臨床医荻野であった。

 荻野久作は明治15年3月25日、愛知県八名郡下条村の農家・中村彦作の二男として誕生した。明治33年に同県の荻野家の養子となって上京。旧制一高を経て、明治42年に東京帝国大医科大学を卒業した。養母の妹である高橋瑞が、日本で3番目の女医だったこともあって、荻野久作は産婦人科学教室に入局し、木下正中教授について研究生活に入ることになる。

 明治45年、たまたま新潟市の竹山病院から求人が舞い込んだことから、荻野久作は婦人科医長として竹山病院に赴任することになる。以後竹山病院の勤務医として過ごすことになるが、大正4年に同県長岡市の大塚益郎の三女とめと結婚。久作34歳、とめ29歳の晩婚であった。

 その当時は、妊娠の仕組みについてはまだ解明されておらず、産婦人科医である荻野は一貫して月経と排卵との関係を研究テーマにしていた。

 妊娠の仕組みは「女性の卵子が卵巣から飛び出して卵管に入り、そこに精子がきて受精すること」であることは分かっていた。だがこの女性の排卵が、いつ起きるかは、17世紀に卵巣で卵子が発見されて以来謎のままであった。荻野久作は診療に追われる日々を送りながら、新潟医科大病理学教室・川村麟也教授のもとで卵巣の脂質について研究をはじめた。

 当時、排卵日と月経の関係については多くの学説が混在していた。「月経は発情期のようなもので、排卵と月経は同時に起こる」、「ウサギと同様に、性交の刺激によって排卵する」、「排卵は月経初日の14日から16日目に起こる」、「月経と排卵日に関係はない」、このような学説があったが、証明はされてはいなかった。それまでの学説の主流は、最終月経から次の排卵日を求めるものであった。

 しかし荻野久作は、この学説とは逆の発想を持っていた。荻野久作は患者の聞き取り調査から、「排卵は次の月経がくる16日から12日前の5日間に起きる」と新説を唱えたのである。多くの学者が月経から何日目に排卵するかを争っているときに、排卵日を次回月経から逆にさかのぼった点が天才的発想であった。荻野は65例の開腹手術で子宮内膜、黄体、月経の関連を調べ、月経が排卵によって生じることを証明したのだった。

 大正13年、荻野久作は「人類黄体の研究」により東京帝国大の医学博士号を取得。同年「排卵の時期、黄体と子宮粘膜の周期的変化との関係、子宮粘膜の周期的変化の周期及び受胎日に就て」の演題名で、日本産婦人科学会誌に論文を発表。この論文は産婦人科学会の懸賞当選論文となり英訳もなされた。

 昭和2年、「主婦の友」12月号に「誰にでもわかる、妊娠する日と妊娠せぬ日の判別法」の記事が載った。この記事は医師・赤谷幸蔵が書いたもので、荻野学説に基づいた妊娠暦の紹介だった。まだこの頃は受胎調節法であるオギノ式は一般的ではなく、オギノ式という言葉は浸透してはいなかった。

 オギノ式という言葉が一般化するのは、荻野久作が欧米へ1年間留学し、ベルリンでドイツ婦人科中央雑誌に論文を発表してからである。当初、月経から排卵日を予測する学者たちから批判を受けたが、荻野学説は世界的に大きな反響を生んだ。帰国後、論文がオランダの雑誌に転載され、そこには「周期的禁欲法として応用できる」という宣伝文句がついていた。このことが脚光に加速度をつけ、いつの間にか避妊法として独り歩きをしたのだった。この避妊法は、避妊を禁ずるカトリック信者の間であっという間に浸透した。

 荻野が発見した月経と排卵の関係は世界的な大発見であった。オギノ式避妊法が世界的に有名になったが、「オギノ式は受胎法であって避妊法でない」とするのが荻野の持論であった。荻野は避妊法を研究したわけではなかったが、オギノ式避妊法は世界的に普及していった。

 キリスト教は、それまでの避妊法をいずれも認めていなかった。受胎を目的としない性行為を罪としていた。膣外射精でさえも罪としていたが、時代の流れの中で、避妊を認めるべきとの議論が盛り上がってきた。

 1968年、避妊を認めるかどうか、カトリックの歴史の中で重大な会議が招集された。避妊容認のカギを握る諮問委員会が、世界中の神学者や医師が参加して開かれた。やがて諮問委員会の意見は避妊容認に傾き、カトリックの歴史の中でピルやコンドームを認めるかどうかの最後の決断が、ローマ法王パウロ6世に求められた。

 世界が法王の決断に注目する中、パウロ6世は苦悩していた。そして法王は「直接受胎を妨げる避妊法は常に許されない」と発言、ピルやコンドームなどの使用を禁止し、そして唯一認めたのがオギノ式避妊法だった。そのためオギノ式はバチカン公認の避妊法として世界中の脚光を浴びることになった。

 荻野久作が発見したのは、月経と排卵の関係で、それを応用したオギノ式避妊法は荻野にとって関心のないことだった。子どもが欲しい人にとっての受胎法であって、避妊を目的とするものではなかった。オギノ式避妊法は「月経から次の排卵日を想定して禁欲する方法」であるが、避妊法としては失敗例が多かった。月経を基準に不妊期をはじき出すため、周期が狂えば失敗につながるからである。月経周期が安定している女性は意外に少なく、荻野自身「オギノ式に従う限り1日といえども安全な日はない」と警告している。

 しかしオギノ式避妊法は世界中に広まり、特に世界中の厳格なカトリック信者たちにとっては、今でも「法王が認める避妊法」としてオギノ式だけが用いられている。

 現在、排卵期と月経との関連性についての荻野学説は定説化している。彼の学説は欧米の教科書にも記載され、それを応用したオギノ式避妊法は世界的に広く知られている。今では欧米ではピル、日本ではコンドームに取って代わられているが、日本では現在でも避妊法の2位を守っている。

 世界的に名前を知られた荻野久作だが、大学からの教授の誘いを断り、80歳を過ぎても手術に当たり、90歳近くまで診察を続けた。荻野の家が面していた道路は「オギノ通り」と名付けられ、荻野は「オギノ通り」を通って病院まで往復する毎日であった。新潟の地元の人々にとって荻野は偉大な臨床医であった。

 

 

 

紅茶キノコ  昭和50年(1975年)

 健康に関する本が次々に出版され、健康そのものが人々の関心を集めていた。昭和50年、紅茶と砂糖だけで簡単につくれる「紅茶キノコ」が日本中で爆発的なブームとなった。紅茶キノコは、ロシア・シベリア地方のバイカル湖畔の長寿村で古くから愛用され、安価でしかも手軽につくることができた。紅茶キノコは雑誌やテレビで何度も取り上げられ、その話題は加速度をつけて日本中を飛び回った。

 紅茶キノコと呼ばれたが、その正体はキノコではなく酢酸菌という酵母の1種だった。この紅茶キノコの作り方は簡単で、砂糖を入れた紅茶のビンの中に酢酸菌を入れ、ふたをして冷暗所に保存するだけである。酢酸菌はビンの中で繁殖し、数日もすると紅茶の上に乳白色の菌の塊がぽっかり浮かび上がってきた。この上積みとなった紅茶を飲むのが紅茶キノコ健康法である。乳白色に盛り上がった表面がキノコのカサに似ていることから、「紅茶キノコ」と名づけられた。飲んだ後は紅茶を補充するだけである。酸味を帯びた紅茶の成分は主に酢酸であるが、万病に効くと宣伝され、近所ぐるみ、職場ぐるみでつくられた。

 この仕掛け人は中満須磨子であった。昭和4912月に「紅茶キノコ健康法」(地産出版)を出版、この本は昭和50年の半年間で30万部のベストセラーになった。東京・紀伊国屋書店ではこの本を求める人たちで大騒ぎになった。本を買うために列をつくり、何冊も買い占める者がいると、「そんなに買うな」とヤジが飛んだ。本の巻末に菌体申込書が添付されていて、1日最高2万通が出版社に殺到し、愛飲家は300万人と推測された。

 紅茶キノコ健康法によると、「紅茶キノコはバイカル湖畔の長寿村に昔からあった健康法で、常用している村人にがん、高血圧、心臓病で死んだ人はいない。万病に効くが、特に高血庄、肝障害、胃腸障害、慢性腎炎、水虫などに効果がある」と書かれていた。

 紅茶キノコは雑誌やテレビでも話題になり、芸能人や有名人が出演しては、紅茶キノコ健康法の効果を礼賛した。作家の丹羽文雄は「便通がよくなり、精気があふれるようだ」、評論家の丸山秀子は「コレステロールが正常になった」、防衛庁長官・坂田道太は「便通がよくなり、胃腸が強くなった」、女優の山田五十鈴は「下痢や肩こりが取れ、皮膚が柔らかくなった」、上智大学教授・渡部昇一は「便秘がよくなり、コレステロールも下がり、悪い影響は何もない」、このような有名人の体験談がブームをあおった。

 朝日新聞は、昭和50年6月10日の紙面で、紅茶キノコが爆発的ブームになっていると記載し、民放は先を争うように特集を組んた。NHKでさえコーカサスの長寿村を訪問する番組を企画、村民に「紅茶キノコを知っていますか」とインタビューしたほどである。

 この異常なブームによってリプトン紅茶の売り上げが急増し、株価まで上昇したが、これだけのブームになると、その効果に疑問を持つ意見も増えてきた。国会でも取り上げられ、愛好者の厚生省の幹部がやり玉にあげられ、厚生省は「効果の実態は明確でない」と国会で答弁するに至った。

 紅茶キノコ健康法には、副作用の記載はなかったが、専門家は雑菌による有害説を指摘、やがてブームは急速に衰えて消失した。結局、紅茶キノコは半年だけの異常なブームであった。熱しやすく冷めやすい日本人の気質を表していた。

 ところでこの「紅茶キノコ健康法」の著者は中満須磨子となっているが、実は埼玉新聞論説委員・小川清が上司の未亡人である中満須磨子の名前を借りて書いたものである。小川清が書き、小川清が相談役をしていた地産出版から出版したもので、つまり紅茶キノコは仕掛けられた健康本だった。健康によいという噂だけで、これだけのブームになったのである。

 昭和40年代後半はそれまでの高度経済成長が一段落し、金儲け一辺倒だった国民の関心が次第に自分の健康へ向かうようになった。雑誌の内容は、うわさ話や金儲けのハウツーものから、健康を扱う内容が増え、「壮快」をはじめとした健康雑誌が次々に創刊され売れ行きを伸ばした時期であった。

 この健康ブームは高度経済成長がもたらした公害の影響もあった。公害による有害物質の影響を少しでも減らしたい、物質的な豊かさが成人病を増加させた、医療への不信などが健康不安を引き起こし、人々は健康食品や健康法などに向かったのである。ちょうど有吉佐和子が書いた「複合汚染」がベストセラーになった年で、豊かな生活に潜む健康不安がブームを呼んだ。何となく健康に不安を持つ人たちが、この健康ブームに踊ったのである。

 健康ブームが紅茶キノコを作り上げたが、その他、にんにく健康法、梅干し健康法、酢酸健康法、さるのこしかけ、青竹踏み、海藻健康法など、怪しげな健康法が次々に登場した。さらに、アロエ健康法、酢大豆、アルカリブーム、これらは世の中が平和になった証拠といえる。紅茶キノコは健康ブームのはしりで、紅茶キノコは人々の健康願望のあだ花といえるが、それ以降も次々と健康食品は出ては消え、健康ブームは手を変え、品を変え次々と生まれている。

 

 

 

腎症候性出血熱事件 昭和50年(1975年)

 昭和50年の3月から5月にかけ、東北大医学部の医師3人が原因不明の高熱、けん怠感、下痢を訴え入院した。症状はインフルエンザと似ていたが、3人のうちの1人は出血傾向が強く重症になった。3人は腎障害、血小板減少、非定型リンパ球、肝機能障害を示していた。

 この事件から2年後の昭和52年、同じ東北大医学部で11人の医師と動物飼育係が同じ症状を引き起こした。医学部で発生した病気である。あらゆる感染症を想定して検査が行われた。11人は動物実験室のラットの部屋に出入りしていたことから、ラットを介して感染する腎症候性出血熱が疑われたが、腎症候性出血熱は日本での発症例がなかった。

 そのため腎症候性出血熱の検査が出来ないため、韓国の李博士の元に患者の検体を送り、その結果、腎症候性出血熱であることが確認された。動物実験用のラットから感染したのは初めてのことであった。実験室内のラットの血清も調べられ、高力価のハンタウイルスの抗体が確認された。

 腎症候性出血熱は、10世紀の中国の文献にも記載されている満州の風土病で、かつて満州に移住した日本人の生命を奪っていた。昭和初期、満州アムール川流域に滞在していた日本軍兵士の間でこの腎症候性出血熱が大流行し、日本軍兵士100万人の1%に当たる1万人が罹患し、その30%が病死したとされている。陸軍軍医団により「流行性出血熱」と命名され、このウイルスの威力を知った日本の731部隊(石井部隊)が流行性出血熱の研究を行い、細菌兵器の人体実験を行っていた。

 この疾患は、朝鮮戦争時に北朝鮮兵士の間で流行し、次ぎに国連軍兵士約 3000 人が発症し、死亡率は3.3%であった。当時は「韓国型出血熱」と名づけられていたが、日本軍を悩ました流行性出血熱と同じ疾患であった。北朝鮮は、「731部隊が分離したウイルスを米軍が使用した」と主張し、「米帝国主義の犯罪的細菌兵器」と非難した。朝鮮戦争が終わっても、韓国の農村部で韓国型出血熱は流行して9000人が発症し、1000人近くが死亡している。

 昭和51年、李博士がアカネズミの肺組織から、ウイルスを初めて分離してハンタウイルスと命名した。ハンタとはアカネズミが捕獲された38度線近くを流れる漢灘江(Hantaan river)の名前であった。ハンタウイルスの発見により流行性出血熱、韓国型出血熱、腎症候性出血熱は同じ疾患であることが判明した。

 日本では昭和35年、大阪・梅田駅周辺の繁華街でドブネズミを感染源とする流行があって、119人が罹患し2人が死亡している。当時、この病気は全く分からなかったが、保存していた血液からハンタウイルスによるものだったことが判明している。それまで「梅田熱」「梅田の奇病」「ビルの谷間の風土病」と呼ばれていたが、それらは梅田の闇市のドブネズミが持っていたハンタウイルスによる腎症候性出血熱であった。

 東北大学医学部の実験室で発生した腎症候性出血熱は、実験用ラットがハンタウイルスに感染し、ラットの便や尿に混じったウイルスが、ほこりとともに空気中に飛散し、そのウイルスを吸い込んで感染した。腎症候性出血熱は人から人への感染はないとされ、感染はラットによるものであった。

 腎症候性出血熱の発生は東北大医学部だけではなかった。昭和5912月、東京・大手町の経団連ホールで開かれた「動物実験シンポジウム」で、山之内孝尚・大阪大教授は、日本各地の研究施設で腎症候性出血熱が頻発していることを発表した。日本では、昭和44年から医科系大学の動物実験施設22カ所で計126人が感染し、札幌医科大の動物飼育員1人が死亡していた。

 腎症候性出血熱の治療は、ウイルス性疾患であるため特効薬はなく、対症療法だけである。軽症例は自然治癒するが、重症例ではDIC(播種性血管内凝固症候群)やショックをきたし致死率は5%とされている。不活化ワクチンは中国と韓国で市販されているが、日本にはない。

 平成14年5月、北海道市立根室病院でハンタウイルス感染を疑う急性腎不全患者3人が見つかったが、検査の結果、感染は間違いだった。北海道の野ネズミであるエゾヤチネズミの1割が、ハンタウイルス抗体陽性であったことから報道が先走ってしまったらしい。

 平成12年から2年間、腎不全とハンタウイルスとの関連を調べるために、近畿、中国地方の8病院で人工透析を受けている患者532人を検査したところ、男性4人、女性4人の計8人からハンタウイルスの抗体が検出された。この8人の居住地を調べたところ、1人を除く7人の生活圏で同ウイルスを持つドブネズミを確認した。このことは慢性腎不全の患者の中には、ハンタウイルスが原因だった患者が含まれていることを示している。

 ハンタウイルスは飛散したネズミの排泄物を吸い込み、あるいはネズミにかまれて感染する。発症すると発熱や頭痛が生じ、悪化すると「腎症候性出血熱」となる。日本では、昭和59年以降、腎症候性出血熱の発症はないが、中国では現在でも年間約10万人、韓国では数百人、欧州全域で数千人程度の患者発生がある。ハンタウイルスによる感染症は、腎症候性出血熱のほかに、「スカンジナビア型」と「ハンタウイルス肺症候群」の2種類のタイプがあって、いずれも齧歯(げっし)類の便尿に潜むハンタウイルスが引き起こす。スカンジナビア型は軽症で、それまで流行性腎症と呼ばれていたものである。

 ハンタウイルス肺症候群は、日本での発症例はないが、米国では平成5年以降162人が感染して76人が死亡。カナダでは平成6からの5年間で32例が発症し死亡は12例(38%)である。平成9年9月にはアルゼンチンで20人が感染して11人が死亡している。このようにハンタウイルス肺症候群は恐ろしい疾患であるが、南北の米大陸に限局し、日本ではみられていない。

 

 

 

六価クロム汚染事件 昭和50年(1975年)

 昭和48年3月、東京都は都営地下鉄建設のため、江東区大島9丁目の土地を買い上げて掘り起こした。すると大量のクロム鉱滓(こうさい)が見つかり、これが六価クロム汚染事件の発端となった。

 クロム鉱滓とは、クロム鉱から重クロム酸ソーダを作る過程で生じた残りかすのことである。クロム鉱滓はいわば産業廃棄物だが、このクロム鉱滓には猛毒の六価クロムが含まれていた。投棄されたクロム鉱滓は33万トンで、その中には環境基準の2万倍もの六価クロムが含まれていた。東京都が買収したのは日本化学工業の所有地で、大量に投棄されていたクロム鉱滓は同社が捨てたものと判明。さらにクロム鉱滓が投棄されていたのは大島9丁目だけでなく、江東区の広範囲にわたっていた。

 明治時代から江東区にある日本化学工業は、戦後の景気に乗り生産量を伸ばし、それに伴い産業廃棄物であるクロム鉱滓が急増し、工場敷地だけでなく江東区のいたるところに投棄していた。クロム鉱滓を地面に敷くと地面が固くなるため、埋め立て地や造成地にも大量のクロム鉱滓がまかれ、その結果、草も生えず、虫も生息しない荒れ地になった。投棄された場所の周辺では、風が吹くとクロム鉱滓の黄色い粉じんが舞い上がり、雨が降ると黄色い土砂混じりの汚水があふれた。日本化学工業が捨てたクロム鉱滓は合計52万トンに達していた。

 クロムは一価から六価までの化合物があるが、その中で最も使用されていたのが三価クロムと六価クロムだった。三価クロムは緑色の顔料に使われ毒性は弱かったが、メッキや皮なめしに使用される六価クロムは毒性が強かった。

 六価クロムが社会問題になる以前から、メッキ工場の従業員の間で健康被害が起きていた。投棄されていた土地の周辺では、子供の皮膚炎が異常に多かった。六価クロムが皮膚に付着するとアレルギー性皮膚炎を起こし、六価クロムの粉じんを吸うと鼻中隔穿孔を引き起こした。六価クロムは気化しやすいため、鼻の粘膜に炎症が生じ、徐々に鼻中隔潰瘍や鼻中隔穿孔を引き起こした。鼻中隔穿孔とは左右の鼻を分けている鼻中隔に穴が開くことで、それは鼻輪を通した牛と同じになることである。

 工員の間ではクロムの蒸気や粉じんによって鼻中隔穿孔が生じることは以前から知られていた。また皮膚から骨膜に達した六価クロムは激痛をもたらし、末梢神経麻痺を生じさせ、さらに六価クロムの長期暴露によって肺がんを発生させた。工場は六価クロムが身体に有害とは教えず、むしろ体に良いと教育していた。そのため工員たちは、作業衣を着ないで上半身裸のまま重労働に従事していた。

 昭和46年の日本化学工業・小松川工場の調査では、従業員461人のうち62人に鼻中隔穿孔を認めていた。当時は公害という概念は存在せず、鼻中隔穿孔を職業病とする認識はなかった。鼻中隔穿孔を来すことが1人前の労働者と受け止められていたほどで、職業病として工場を糾弾する動きはなかった。

 六価クロムは肺がん誘発物質として知られていたが、工場はその対策を立てていなかった。そのため作業員が肺がんになる頻度が高かったが、従業員が立ち上がったのは、周辺の住民が公害として日本化学工業を追及してからである。同社はクロム鉱滓を投棄して公害問題を引き起こし、従業員の健康管理を軽視していた。このため元従業員や家族たちは、総額548000万円の「クロム職業病訴訟」を起こすことになった。昭和14年から小松川工場は六価クロムを投棄していたが、肺がんは退職して数年後に発症することが多いため、肺がんの被害者数は50人以上とされたが、実際の被害者は不明であった。

 六価クロム禍は従業員に健康被害を及ぼし、地域住民に健康被害をもたらし、産業廃棄物を勝手に処理していたなど。多くの問題を含んでいた。六価クロム汚染は、全国にある六価クロム工場も実情はほとんど同じで、江東区の日本化学工業が住宅密集地にあったため被害者を多く出した。この事件をきっかけに、全国各地で六価クロムの報告が相次ぎ、環境庁はクロム鉱滓が全国112カ所に未処理のまま埋め立てられていると発表した。

 昭和521029日、六価クロム禍で初の和解が成立、65人に1億9500万円の補償金が支払われた。さらに昭和56年9月、東京地裁は企業責任を認め、被害者102人に105000万円の賠償金を支払うよう会社に命じた。

 東京都は「汚染物は汚染した者の責任で処理する」という汚染者負担の原則に基づき、昭和55年2月、日本化学工業にクロム鉱滓の処理を命じたが、その処理には長い年月を必した。工場跡地に還元剤を入れ、盛り土をして地中に封じ込める処理を行い、跡地を「風の広場」として開放した。

 

 

 

XYY症候群 昭和50年(1975年)

 昭和50年3月9日、東京・八丈島で1人旅をしていた東京都内の東電病院の看護師・江尻あさ子さんが八丈富士の山頂で殺害された。江尻さんは休みを利用して、前日の8日、東京の竹芝桟橋からフリージア丸に乗り、予約していた民宿に泊まった。民宿には身体の大きな迷彩服を着た男性も泊まっていて、翌朝、朝食を済ませた2人は八丈富士に行くと言って民宿を出たが、翌日になっても帰ってこなかった。民宿の主人が八丈島警察署に連絡、捜索の結果、江尻さんが八丈富士噴火口近くで死んでいるのが発見された。平和な島での殺人事件に、島中が騒然となった。

 同署は、迷彩服を着た男性を犯人とみて捜査を始めた。なにしろ迷彩服を着た大男である。目撃者は次々と現れ、全日空機で八丈島を発っていたことが分かった。犯行の翌日、警察は迷彩の男性を茨城県出身の元パチンコ店員A(22)と断定、殺人容疑で全国に指名手配した。Aは1週間後の816日、那覇市の東急ホテルで逮捕された。Aは逮捕までの1週間、北海道から沖縄まで全国をまたに逃避行していた。

 逮捕されたときAは、「今度の旅行は殺しのためだった。相手は誰でもよかった」というメモを持っていた。さらに「暴行しようとしたが騒がれたため、殺害した」とメモに書かれていた。Aは幼少時から放浪癖があって、幼稚園児のとき何度も家出をして保護されていた。小学生になると盗癖が加わり、何回か少年刑務所に入った。AはXYY症候群というの染色体異常であることが分かっていた。この殺人事件を知ったとき、Aを知る精神科医は以前からの不安がついに現実になったと思った。

 当時の精神科の医師たちは、犯罪者を遺伝あるいは環境因子で説明しようとしていた。犯罪者を一般市民から区別するための科学的方法を見つけようとしていた。かつてイタリアの犯罪学者ロンブローゾは、顔や頭蓋骨の形から犯罪者を識別しようとした。同様に、昭和40年代ごろから遺伝子や染色体が犯罪に関係するとして研究されていた。

 人の染色体は23対(46本)で、22対の常染色体は男女同じであるが、23対目の1本だけが男女で違っていた。正常な男性は1本のX染色体と1本のY染色体を持っていて、正常な女性には2本のX染色体がある。性染色体異常のXYY症候群(別名スーパー・メール症候群)は、男性700人に1人の割合で見られた。男性染色体が1本多いXYY症候群の男性は背が高く、男っぽい顔立ちで、犯罪率が高いことが英国で発表され、染色体異常による犯罪学説は教科書にも記載された。殺人者の90%が男性で、犯行年齢は20歳代がピークで、テストステロンの血中濃度と犯罪年齢が相関していたことから、この犯罪学説は支持されていた。

 昭和41年7月13日の深夜、米シカゴの病院で看護師8人が惨殺される事件が起きた。看護師の両手を後ろ手に縛り、ナイフで刺し殺す。このような残忍な犯罪は犯罪都市シカゴでも類を見ないものだった。1週間後、リチャード・スペックという男性が逮捕され、この殺人鬼がXYY症候群であると報道された。このためこの染色体異常の男性すべてが凶暴で残忍な性格とする誤解を生じさせた。この事件が「犯罪に染色体が関係する学説」が広まるきっかけになった。犯罪者は生まれつき犯罪者になる素質があるとする誤解が広まったのである。

 昭和50年前後は、DNA(デオキシリボ核酸)、RNA(リボ核酸)、染色体が注目された時期で、特に犯罪学で脚光を浴びたのが染色体異常だった。昭和47年、殺人鬼スペックは懲役4001200年の刑を受け、平成3年に獄中死したが、実際はスペックの染色体はXYYではなく、通常のXYだったことが判明している。Y染色体が攻撃性染色体とされ、XYY染色体の持ち主は犯罪者という学説は、現在は統計上否定されているが、まだそれを誤解している人がいる。科学らしき学説が誤解と偏見を生み、間違った学説が独り歩きしていたのだった。

 犯罪が、遺伝あるいは環境によるものなのか、この問題について、遺伝的に同じである1卵性双生児の犯罪歴を調べた研究がある。出生後に別々の家庭で育てられた1卵性双生児を対象に犯罪率を調べ、別々の環境で育てられても1卵性双生児の犯罪率は同じだったとしている。この研究結果は犯罪に遺伝が関与することを示しているが、この研究結果が本当かどうかは検証されていない。遺伝と犯罪の関係について、当時は盛んに研究されていたが、その関連性は現在では否定的である。

 ところで染色体異常にターナー症候群(X0)がある。ターナー症候群は女性だけに見られる染色体異常で、通常の女性の染色体はXXであるが、片方のXが欠けた状態(X0)で生まれた者をいう。ターナー症候群は無月経や性的未成熟で気付かれることが多いが、この染色体異常とは逆にY0染色体の人間は存在しない。このようにX0で生命が維持でき、Y0で生命が維持できないことから、人間を含めて哺乳類の原型は女性とする説がある。

 看護師殺しで殺人罪に問われたAに対し、東京地裁の林修裁判長は「残虐な犯行で社会に与えた影響は大きい」として懲役13年の判決を言い渡した。

 

 

 

カラオケ 昭和51年(1976年)

 昭和51年ころからカラオケがはやり始めた。このカラオケは、昭和47年ごろ神戸市三宮の井上大祐さんが伴奏音楽をテープに録音したのが始まりとされている。

 それまでの日本の酒場やスナックでは、流しや弾き語りが、客に歌を聞かせるのが一般的であった。ところが神戸では客が歌い、客の歌に合わせて流しが伴奏する独特の風土があった。伴奏者として有名だった井上大祐さんは多くの店から呼ばれたが、すべてに応じられないで困っていた。そこになじみの客から「社員旅行で使いたいので、伴奏だけをいれたテープが欲しい」と依頼された。そこでテープに曲を録音しておけば、演奏者がいなくても誰でも歌えることに気づき、カラオケテープのアイデアが生まれた。

 井上大佑さんはマイク端子付き8トラックプレーヤーを手作りで製作し、録音した伴奏テープ10(40)をスナックへ貸しだした。料金は15分間で100円だったが、神戸市の客の人気は高かった。テープをレンタルにしたことで新曲にすぐに対応できる利点があった。そしてこの評判からカラオケが業務用として普及することになった。カラオケは素人が歌いやすいようにアレンジしていた。

 井上大佑さんの名前を知るひとは少ないが、米誌タイムの「20世紀アジアの20人」に選ばれている。毛沢東、ガンジー、昭和天皇と肩を並べて井上大佑さんの名前が載っている。タイム誌が「世界的文化の発信者」と絶賛したが、日本では「井上大佑とは、いったい何者?」と話題になった。井上大佑さんは特許を申請しなかったが、もし特許を得ていたら年収100億円と試算されている。

 昭和51年、日本ビクターとクラリオンが業務用の「カラオケ」を発売、カラオケは急速に普及した。スナックの入り口には「カラオケあります」の張り紙が張られ、カラオケ目当ての客が群れをなし、一度マイクを持つと、すぐにマイク中毒になった。当初は30から40代のサラリーマンがスナックで演歌を歌うのが一般的であったが、すぐに客層が広がり、歌える曲も多彩となった。

 カラオケの流行は生活水準が向上し、余暇を楽しむ余裕が出てきたことに関連していた。歌うことに飢えていた大衆、歌いたくても歌う場所がなかった人たちにとって、カラオケはその欲求不満を解消してくれた。「カラオケ」は「空っぽオーケストラ」の略で、演奏する者がいなくても、歌う者にとっては自分が歌手になった気分にしてくれた。専属バンドをバックに歌っている快感をもたらした。集団主義の日本社会において、たまには目立ちたい、注目されたいという欲望を満たしてくれた。それは音楽の新しい形態だった。

 昭和538月にビデオカラオケが登場。それまでは歌詞カードを見ながら歌っていたが、ビデオカラオケはテレビに映る歌詞とイメージ画像を見ながら歌うものであった。さらに「自宅でもカラオケ」という欲求から、松下電器がホームカラオケを発売しヒット商品になった。それ以降、各メーカーが次々と参入した。

 カラオケが急速に広まったのは、歌うことが好きな国民性、人前で歌うという自己陶酔や満足感などが普及の理由と考えられる。もちろんカラオケが好きな人もいれば嫌いな人もいる。カラオケが好きな人は、楽しい、気分爽快、歌うことが好き、ストレス解消などが理由で、その反対にカラオケが嫌いな人は、人前で歌うのはイヤ、歌える曲がない、気分がのらない、歌がうまくない、他人の歌を聴きたくない、歌うことの強要への反発などを理由にあげている。

 カラオケが普及するとともに、各地でカラオケによるトラブルが起きた。カラオケには酒が入ることから、客同士のケンカが目立つようになった。昭和53年6月16日、長野県塩尻市のスナックで最初のカラオケ殺人がおきた。「俺の耳が腐る、やめろ、へたくそ」このヤジが口論のきっかけとなって殺人となった。その他「おれの歌をなぜ聞けない」といった口論、あるいはマイクの奪い合いによる乱闘などがおきた。

 また深夜早朝の「カラオケ騒音」は騒音被害のトップとなり、「カラオケ騒音」は日本中に広がった。昭和537月、大阪府警はカラオケ騒音に公害防止法を適応、豊中市のスナックからカラオケ装置を押収した。昭和54年には、大阪の八尾市でカラオケ防止騒音条例が施行された。

 昭和57年、「レーザーカラオケ」がパイオニアから発売されファンのすそ野が広がった。さらに昭和60年、コンテナを利用した「カラオケボックス」が岡山県に登場した。

 当初、カラオケボックスはその密室性から非行の温床になるとして住民の抵抗があった。しかし反対はあったものの、娯楽の少ない地方都市にカラオケボックスは広がり、次第に全国的に普及していった。カラオケボックスの登場によって若者や主婦の間にもカラオケが流行し、客の低年齢化が進んでいった。平成4年には「通信カラオケ」が登場、いろいろな機能がついたカラオケが登場することになる。

 「カラオケ」は海外にも輸出され、外国でも有名となった。世界的にみると、欧米人よりアジア人、アジア人のなかでも日本人がカラオケ好きとされている。カラオケは日本が世界に誇る数少ない文化のひとつとなった。平成6年の「レジャー白書」によると、カラオケを楽しんでいるのは年間5800万人、つまり日本人の半数がカラオケで楽しんでいることになる。まさに日本が生んだ庶民文化である。

 カラオケの利用者数は平成8年をピークに減少している。この減少は余暇の多様化、携帯電話の普及、歌える曲の少なさによると思われる。サラリーマンの歌える演歌が少なくなり、若者の歌う曲はある程度の歌唱力が必要となったからである。それでも平成12年には4900万人がカラオケを利用し、子供からお年寄りまでの国民的な楽しみになっている。

 

 

 

クロネコヤマトの宅急便 昭和51年(1976年)

 昭和511月、ヤマト運輸は日本で初めて「宅急便」を始めた。クロネコ親子のマークをつけ「電話1本で玄関から玄関へ」、この発想は消費者物流の大革命といえた。

 大正8年に創業したヤマト運輸は運輸業界の中では歴史ある会社だった。関東一円の運送免許を持ち、三越百貨店などの大口企業を相手に「大和便」の名前で営業していた。当時、高速道路はなく、トラックの性能や積載量が劣っていたためヤマト運輸の営業は関東に限定され、遠距離輸送や小口の荷物は国鉄や郵便局が扱っていた。

 昭和40年を過ぎると、東京オリンピックの開催を前に東名、名神などの高速道路が開通し、西濃運輸や福山通運などの関西勢が長距離輸送に乗り出してきた。トラックの性能は向上し、時間的にも輸送量も国鉄の優位性はくずれ、国内の輸送環境は激変した。この長距離トラック便の流れにヤマト運輸は乗り遅れ、他社に荷物を奪われ、経営は悪化し赤字に転落した。昭和48年のオイルショックで経済が低迷すると、運輸業界は企業の荷物を奪い合い、ヤマト運輸はその競争に負けていた。

 昭和48年、2代目社長になった小倉昌男は常務の都築幹彦とともに、家庭から出る小口荷物に勝負をかけることにした。大口貨物が全盛の時代に、家庭から出る小口貨物を扱うことは常識はずれの無謀な賭けであった。役員たちは大口貨物のうま味を捨てきれずに猛反対だった。「宅急便と大口貨物を平行して行い、宅急便の目途が立ったら大口を止める」とする意見が大部分であった。

 ところが小倉昌男は「牛丼の吉野」の成功をみて、メニューを少なくして合理化をはかれば成功すると確信していた。牛丼の吉野のメニューは、ラーメンやカツ丼は扱わず牛丼だけだった。そこで小倉昌男が出したメニューは「家庭から送りたい物を送る」という一点であった。荷物はLMサイズにして、値段は配送のブロック別に分ける簡単な設定にした。その当時、家庭から家庭ヘ荷物を届ける専門の運送業者はなかった。小口の貨物を送る場合には、郵便小包や鉄道貨物の利用であったが、重量が軽いほど、重さ当たりの運賃が高くなる設定だった。電話1本で家庭まで集荷に来てくれて、しかも全国すぐに配送する宅急便の発想は運送業の常識を越えていた。宅急便の事業が軌道に乗るかどうか、初めての試みに採算の見通しもつかなかった。

 当時、郵便局の荷物取扱量は13000万個、国鉄の小荷物が8000万個だった。つまり家庭から出る荷物は2億万個で、2億万個にどこまで食い込めるか、採算はとれるのか、まさに未知との勝負であった。小倉昌男は消費者の立場に立ってサービスを重視すれば、郵便局や国鉄に勝てる確信があった。

 会社幹部はこの事業を成功させるため労働組合と交渉を繰り返した。会社の職員は5000人、その半分以上がドライバーだった。ドライバーはそれまで松下電器のテレビや洗濯機を運んでいた。それが個々の家庭に集荷に行き、営業所からまた個々の家庭に配達するのである。多くのドライバーは、この未知の方法に疑問を持った。ドライバーの仕事は歩合制だったので、個人の荷物では給料が上がらないと嫌がっていた。ここでヤマト運輸は「三越などの大口荷物取引はすべて断り」と背水の陣を敷き、ドライバーを説得した。社員の意識を変えるための挑戦が始まった。

 昭和51120日、クロネコヤマトの宅急便がスタートした。最初の日の取り扱い荷物は2個だけであったが、2月には8600個、12月までに170万個を扱い、その便利さが口コミで広がっていった。当初は関東16県だけだったが、同年12月には半数の都道府県をカバーした。そして昭和58年には1億個、平成7年には6億個を突破した。このように宅急便は快進撃をとげた。ドライバーはお客さんが喜ぶ姿に接し、同時に利用者にとっても宅急便は新鮮な驚きだった。宅急便に慣れ親しんだ現世代にとっては理解しにくいだろうが、それは運送業のサービス革命であった。

 このように順調にスタートしたクロネコヤマトに大きな問題が立ちふさがった。それは営業免許と路線免許という国の認可制度だった。トラック運送事業は利用する道路ごとに運輸省から免許をもらっていた。ヤマト運輸は運輸省と交渉したが、運輸省は地元業者の反対を理由になかなか免許を出さなかった。運輸省は規制によって業界をコントロールしたかったのである。昭和55年にトラック輸送での路線免許を申請したが運輸省は認めなかった。その時点で郵便小包は年間15000万個、宅配便は19000万個に達していた。そのため免許のいらない軽自動車の営業を強いられ、ヤマト運輸は運輸大臣を相手に行政訴訟を起こすことになった。

 四国と福井県の免許を取得するのに15年かかり、昭和63年に沖縄県の免許を得て、すべての都道府県で営業ができるようになった。過疎地を含め全国どこへでも翌日荷物が着くシステムができあがった。

 昭和58年にはスキー宅急便、59年にはゴルフ宅急便を開始。さらに中元、歳暮、母の目などのギフト市場にも参入、昭和63年にはクール宅急便を始めた。クール宅急便は「夏に生ものを送りたい」という消費者の声に答えたものだった。消費者の立場に立ったクール宅急便の売上は年間2割ずつ増え、そのため全国の海の幸、山の幸が手軽に届くようになった。

 クール宅急便は消費者だけでなく、全国各地の地場産業にも貢献した。地方の生鮮物が都市の消費者へ届けられ、地方の産物が地場産業として活気づいた。また逆に過疎地にいても暮らせるようになった。

 さらにクレジットカードの配達などで郵政省(現総務省)と「信書か否か」で対立するなど、徹底して官の規制と戦い、小倉昌男さんは「ミスター規制緩和」とよばれた。

 宅急便の成功は、常に挑戦し続けたこと、消費者の目線で事業を判断したこと、目先の利益ではなく全体の利益を考えたこと、そして社員のやる気を大切にしたことであった。宅急便は消費者が求めるニーズをみごとに掘り起こした。ちなみに宅急便はクロネコヤマトの商標で、他社は宅配便と呼ばれている。

 ヤマト運輸元会長の小倉昌男は、自分が決めた定年制にしたがい、63歳で会社をやめた。そして私財(46億円)を投じて、障害者を支援するヤマト福祉財団を設立した。ヤマト福祉財団は「障害者に施すという発想ではなく、自立を支援し利益を出させる」という従来の考えとは違う支援であった。小倉昌男は福祉の仕事に専念したが、現役時代に腎臓癌を患い、平成15630日、腎不全のため80歳で亡くなった。不可能を可能にし、新しい時代を切り開いた経営者だった。

 

 

 

カレン裁判 昭和51年(1976年)

 昭和51年4月1日、朝日新聞はカレンさんの尊厳死裁判について報じた。カレン事件とは米国で尊厳死をめぐって争われた裁判で、この新聞記事で「尊厳死」という言葉が用いられ、やがて普及するようになった。尊厳死とは死期が迫っているときに、無意味な延命治療を中止することである。

 カレン・アン・クインラン嬢(21)は友人のパーティーで酒を飲んだ後、精神安定剤を服用して昏睡状態に陥った。呼吸が停止したため、人工呼吸器が取り付けられ、チューブで流動食を送り込むことでカレンの生命は辛うじて保たれていた。3カ月後、両親は「機械の力で惨めに生かされるより、厳かに死なせてやりたい」と主張したが、医師団が反対した。米国ではカトリックの考えから「積極的安楽死は、神の意思に反する」との反発が強かったのである。それまでは、医師と家族とのひそかな合意のもとで、延命治療の中止は行われていたが、延命中止に法的根拠がないために、延命中止は厄介な問題を引き起こす可能性があった。

 両親はニュージャージー州の高等裁判所に「美と尊厳をもって死ぬ権利を認めてほしい」と提訴した。だが裁判所は「呼吸器を外すかどうかは主治医に任せるべきで、患者が自分の意思を決定できない場合は、患者は生き続けることを望むのが社会通念」として、尊厳死を認めなかった。

 両親は訴えが却下されたため、州最高裁判所に上告。最高裁は「人命尊重の大原則よりも、死を選ぶ個人の権利が優先されるべきで、治療を続けても回復の見込みがない場合は、人工呼吸器を止めてよい」との逆転判決を下した。最高裁は父親を後見人にして、人工呼吸器を外す医師を選べる権利を両親に与えたのである。

 それまでの日本は、安楽死や尊厳死を考える必要はなかった。それは自宅で死を迎える人が病院より多かったからである。ところが医学の進歩により、呼吸ができなくても、意識がなくても、食事を取れなくても、心臓を動かすことが可能になった。つまり自宅での尊厳死が、病院での積極治療となった。

 病院では、心臓マッサージ、気管内挿管、徐細動、強心剤の注射は、「死の4点セット」といわれ、死を前に常時行われるようになった。患者を回復させるための救命処置が、死が確実な患者にも行われた。この救命医療の進歩が結果的に延命治療となり、いたずらに死期を延ばし、人間としての尊厳を奪うことになった。植物状態でも、脳死状態でも生命を保つようになったのである。

 「死は医療の敗北」とする考えから、すべての患者に積極的治療を行う医師がいる。医師とっては何も考えずに「死の4点セット」を行う方が精神的に楽であった。一方、不治の病であっても、「できるだけのことをお願いします」と言う家族が多い。無駄な治療かもしれないが、治療の中止を言い出すことは、ある意味では身内を見殺しにする行為であった。そのようなことから、結局、本人の尊厳を奪う場合が多かった。

 人間は単なる生物ではなく、人格を持った生存で、肉体ではなく精神的存在のはずである。そのため救命医療の進歩とともに、尊厳死、安楽死の是非が逆に問われてきた。たくさんのチューブにつながれた「スパゲティ症候群」にどれだけの意味があるのか、本人にとって延命治療が本当に幸せなのか、という葛藤があった。

 本来、自分の最後の生き様は、医師や家族が決めるのではなく、本人が決めるものである。しかし自己決定権が与えられているのに、生前にその意思を決めている患者はまれである。この「人間としての尊厳ある死」という新たな概念に対し、多くの人たちは同意しても、国民的合意には至っていない。

 昭和50年6月、日本安楽死協会が発足。昭和58年に日本尊厳死協会と名称を変え、尊厳死を選択する場合は、自分の意思を証明する「事前指定書リビング・ウイル」を書き、延命治療の拒否を書きとどめておくことを提唱している。誰でも死ぬ運命にあるのだから、死を前にして事前指定書を残すべきだとしているが、そのような患者は極めてまれである。

 死生観には宗教が大きく関与しており、キリスト教は死を単なる通過点ととらえているが、日本人は生死を自然なものとしている。また死をタブー視して、死を考えずにいる。

 日本でもカレン事件が報道され、安楽死、尊厳死は問題視されたが、結論を出すまでの議論には至っていない。またカレン事件のように、生命維持装置を外すことが裁判に持ち込まれたことはない。昭和55年、日本安楽死協会の理事が「安楽死の意思表示の有効性」を裁判所に訴えた。しかし裁判所は、「裁判は法律上の争訟が存在する場合に限られ、安楽死の意思表示の有効性は争訟に当たらない」として門前払いにした。

 平成13年4月、積極的安楽死を認める法律がオランダで成立した。「患者の明確な意思表示があり、医師と患者の十分な信頼関係があり、患者の耐え難い苦痛があり、治る見込みがない場合」には安楽死が認められるようになった。この法律は16歳以上の患者が対象になっているが、それ以下の年齢でも親権者の同意があれば認められる。

 オランダでは安楽死が法的に認められているが、その背景には昭和46年に起きたポストマ事件があった。ポストマ事件とは、脳出血の後遺症に苦しみ、何度も自殺を図った母親に、娘である女医のトルース・ポストマが致死量のモルヒネを注射して死なせた事件である。ポストマは殺人罪で起訴されたが、執行猶予付きの禁固1週間の判決であった。この無罪に等しい判決がきっかけになり、肉体的苦痛に悩む患者を安楽死させる法律が実現した。平成7年、オランダの「安楽死による死亡数は全体の2.7%」に達している。

 

 

 

ルームランナー 昭和51年(1976年)

 昭和51年、通信販売会社の日本ヘルスメーカーから室内ランニング機「ルームランナー」が発売されヒット商品となった。ルームランナーは、体重計のような台の上で足踏みをする健康器具で「外でのジョギングを気楽に家庭で行え、天候に左右されずに運動できる」と宣伝されされた。台の上で走ると走行距離が表示され、1台3万6500円と高額であったが1年間で30万台が売れた。ルームランナーは現在でも販売されていて、虚血性心疾患の診断に用いるトレッドミルに似た器具に進化している。

 昭和53年には「ぶらさがり健康器」が発売され、ぶら下がるだけで健康が増進すると宣伝された。ぶらさがり健康器は、個人だけでなく職場や役所でまとめ買いのケースも多く、企業の安全管理室、健康保険組合が窓口となって大量に注文した。社員の運動不足、ストレス解消のためであるが、当時の企業にはぶらさがり健康器を買うだけの余裕があったこと、健康神話が企業にまで浸透していたことが分かる。

 サラリーマンは自宅の狭い部屋でランニングに励み、会社ではぶらんとぶら下がる。この効果は別として、日本人は健康という言葉に弱い。健康食品、健康サンダルといったように、健康という接頭語を付ければ、何でもよく売れた。

 ぶらさがり健康器は、学校の鉄棒の室内版で、最初は珍しさから利用されたが、ご多分に漏れず結局は洋服がけになった。ぶらさがり健康器はヒット商品であったが、長期間使用した人の話はあまり聞かない。狭い部屋の粗大ゴミとなって、主婦を悩ますことが多かった。

 同じころに「ツイスター」という健康器具が流行した。手すりにつかまった状態で直径30cmの丸い踏み板に乗り、腰をひねると運動になった。ウエストのくびれた女性が魅力的とする考えが根底にあったせいか、ムキになって運動して腰椎を傷める人が出た。マスコミはツイスターを人気商品と持ち上げたが、危険性が指摘されるころにはブームは去っていた。昭和53年には超音波美顔器が大いに売れたが、日本消費者連盟から効果なしと告発され消滅した。

 これらの健康器具は通信販売という新たな手段で販売された。通信販売は気楽に買え、たとえ失敗しても落胆は少なかった。消費者にとっては、人前では買いにくい商品が、通信販売だと手軽に買えた。実際、各大手メーカーがこれらのヒット商品を製造したが、店頭販売では売れなかった。

 昭和50年頃から飽食の時代という言葉が流行し、厚生省の調査では日本人の8割が健康に不安を抱いていた。健康器具が売れた背景には、消費者が健康に気を使う余裕が出てきたこと、健康のために何かをしなければと焦る気持ちがあったからである。手軽さや安易さもあって、ブームに乗り遅れまいと主婦たちは競って健康器具を買った。健康に自信を失いかけていた中高年サラリーマンにも同じ心理が働いた。

 健康器具とは、健康によいとされる機能を持った器具で、健康寝具、温泉器、浴用器、温熱器、マイナスイオン発生器、空気清浄器、磁石、家庭用マッサージ器などが含まれる。多種多様の健康器具が製品化されたが、健康にどれだけ役立っているのかの証拠はなかった。たとえ健康に効果的でも、継続できず途中で止めてしまうことが多かった。

 健康器具は、購入まではやる気があっても、実際に手に入れると、それだけで満足してしまうのであった。しかも訪問販売や電話勧誘で買わされたわけではなく、自分の意志で買ったのだから文句は言えない。

 室内健康器具は、現在でもさまざまな効果をうたい文句に、テレビショッピング、新聞広告などで売られている。健康器具はその効果よりも夢を売る商品であって、人間の願望を満足させる商品といえる。テレビショッピングの売り上げは急増し、平成14年には2200億円になっている。

 健康器具は使用によって健康の増進が期待できる器具を意味していて、健康を保証するものではない。健康増進が証明された器具は薬事法では医療器機に相当するので、健康増進が証明された健康器具は存在しないのである。一方、健康器具が安全とは限らず、健康を害したものがある。平成1412月、和歌山県有田市の川衛製作所は、同社の家庭用マッサージ器を使用した20歳後半の男性が死亡する事故があったと発表した。事故があったマッサージ器「コンセラン77」は、空気圧で膨らむジャケットとスラックスを着て、空気圧の加減を繰り返し、全身をマッサージする器具であった。このマッサージ器による死亡は、胸部圧迫による窒息死で、ジャケットを装着して空気を入れたが、加圧の状態で停止したことによる。同機による同じ不具合で、東京都の女性と北海道の女性が死亡しており、同社はすでに販売していた3770台を自主回収することになった。

 健康器具による事故は、平成7年から13年までで114件報告され、最も多いのは「スライダー・ローラー」と「金魚運動器」で全体の半数を超えている。健康器具には安全に関する規格や基準がないことが問題であった。

 

 

 

在郷軍人病(レジオネラ症) 昭和51年(1976年)

 昭和51年7月21日、第58回米国在郷軍人大会が米ペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された。大会は米国建国200年と重なったこともあって盛大に行われ、参加した在郷軍人(退役軍人)のうち家族を含めた1500人がベルビューストラトフォード・ホテルに滞在した。しかし大会3日目から、高重症肺炎患者が多数出現し大騒ぎとなった。患者の多くは在郷軍人であったが、一般の宿泊客、ホテル従業員、通行人も発病し、発症総数は221人、入院患者は152人で34人が死亡した。

 患者の3分の2が在郷軍人とその家族だったことから、この原因不明の病気は在郷軍人(Legionnaire)病(レジオネラ症)と呼ばれるようになった。平均発症年齢は54.7歳で、高齢者ほど罹患(りかん)しやすく、死亡率が高かった。疫学調査を待たなくても、ベルビューストラトフォード・ホテルが感染源であることは明らかだった。しかし感染経路は分からず、在郷軍人病は呪われた疾患のような謎に包まれ、細菌兵器もうわさされた。

 死亡者の解剖で得られた肺を、モルモットの腹腔に接種すると、モルモットは死亡し、モルモットの臓器には多数の細菌が増殖していた。もしこの細菌が原因菌であれば、患者の血清にはこの細菌への抗体ができているはずである。そこで保存していた33人の患者血清を調べると、29人からこの菌に反応する抗体が見つかった。同年12月、米国疾病管理予防センター(CDC)は、それまで知られていなかったグラム陰性桿(かん)菌を原因菌と発表、この細菌をレジオネラと命名した。この事件が世界で初めての在郷軍人病の報告となった。ベルビューストラトフォード・ホテルは由緒あるホテルであったが、在郷軍人病により倒産した。病気によって倒産したホテルは、これが唯一のケースである。

 CDCは、これまで原因不明で亡くなった患者の血清を調べ、昭和38年頃から在郷軍人病が世界各地で流行していたことを突き止めた。レジオネラ菌は、冷却塔、温泉、加湿器などで繁殖し、これが空気中に飛散して感染するのだった。今回の事件は、ホテルの空調設備の冷却水がエーロゾル(煙霧質)となって菌をまき散らしたのだった。

 レジオネラ菌は自然界の土壌や川、湖などに生息して、全世界に分布して41菌種あることが分かっている。レジオネラ菌はアメーバや藻類と共生し、1本のべん毛を持ち運動性があった。レジオネラ菌によって引き起こされる疾患は、劇症型の「レジオネラ肺炎」が9割で、1割が軽症の「ポンティアック熱」である。両者とも、ヒトからヒトへの2次感染はなく、共通しているのは空調設備などが感染源となることである。

 レジオネラ症の劇症型は適切な治療を行わなければ数日以内に死亡する。最初は全身倦怠、疲労感、頭痛、筋肉痛、寒気、下痢などの症状で、その後に急激な発熱が出現、せきはあるがたんは少なく(乾性咳嗽)、呼吸困難が見られ、意識障害、傾眠、幻覚、歩行障害などの精神神経症状をきたした。

 軽症型のポンティアック熱(Pontiac fever)は、昭和43年7月から8月に米ミシガン州オークランド郡の人口約8万4000人のポンティアック市で発生した。同郡保健部の建物の中で、144人の患者が集団発生したことから、この名前が付けられた。保健部で働いていた100人中95人、保健部を訪れた170人中49人が発症した。当時、ポンティアック熱の病原体は不明だったが、保存されていた空調システムの水にレジオネラ菌が存在することが昭和52年になって明らかになった。また患者の保存血液の84%にレジオネラ抗体価の上昇が認められた。そのためレジオネラ菌を含んだエアロゾルを吸い込み、集団発生したとされている。ポンティアック熱は軽症で、抗生物質を投与ななくても治癒し、死亡例の報告はない。症状としては発熱、咽頭痛などでインフルエンザに似た一過性の疾患である。

 日本では、昭和5510月の男性(64)の死亡例がレジオネラ症の初例で、以後、毎年のように患者が報告されている。平成8年、慶応大付属病院で3人の新生児がレジオネラ症に感染、うち1人の女児が死亡している。その女児は退院後に発症し、再入院後に死亡したのだった。病理解剖の結果、レジオネラ感染が死因であること分かった。新生児室の温水タンクの蛇口や加湿器からレジオネラ菌が検出された。レジオネラ菌が死滅するのは60℃であるが、タンクの蛇口付近の温度は約50℃で、温水タンクのお湯を使った加湿器によって病院内に菌が散布されていたのだった。

 国内では循環型温泉で集団発症する例が多い。平成12年4月、静岡県掛川市つま恋温泉森林の森で23人が感染して2人が死亡。平成12年6月には、茨城県石岡市の総合福祉センターで45人が感染して3人が死亡。同14年7月には、宮崎県日向市の温泉利用入浴施設で295人が感染して7人が死亡している。

 昭和60年には、英スタンフォードの病院で163人が院内感染し、46人が死亡する大規模な集団発生が起きている。この集団感染により、英国では空調設備の冷却水を厳しく管理するようになった。

 レジオネラ菌は細胞内に寄生する細菌なので、治療には宿主細胞に浸透するエリスロマイシン、リファンピシン、ニューキノロンなどの抗菌薬を使用する。レジオネラ症は現在4類感染症疾患に指定され、レジオネラ症と診断した医師は7日以内に保健所に届け出る義務がある。

 

 

 

焼き魚 昭和51年(1976年)

 昭和5110月4日、読売新聞は朝刊の1面トップで「魚の焼け焦げが発がんの疑い」の記事を掲載した。国立がんセンターの杉村隆所長ら生化学グループが、魚の焼け焦げが突然変異を誘導し、がんを引き起こすことを日本癌学会総会で発表すると報じたのである。

 杉村隆所長らが行った実験を正確に書けば、「アジ、イワシなどの魚をじか火で焼き、表面の焦げた部分を集めて細菌に与えたところ、突然変異を起こした細菌の頻度が高かった」ということである。このことから魚の焼け焦げががんを引き起こすと推測したのである。

 多くの読者はこの読売新聞の記事に注目した。それまで、たばこや食品添加物などの化学物質ががんの原因と思っていた人たちは、人工的な物質だけでなく、魚の焦げなどの日常的な自然産物までががんを誘発することを知り、ショックを受けた。がんが日本人の4人に1人の死因となり、読者の多くはがんの予防を模索していたので、その衝撃は大きかった。また焼き魚を多く食べる日本人に胃がんの死亡が多いことも説明できる現象であった。

 魚が焼け焦げるとタンパク質を構成するアミノ酸が変質し、がん誘発物質がつくられ、これが発がんの原因とされた。癌研究会癌研究所の高山昭三部長は変質誘発物質をハムスターに注射して発がんを確認し、国立がんセンターは経口投与で肝臓がんの発生をみたと発表した。

 これらの実験は間違いではないが、多くの人たちに大きな誤解を与えた。このマウスの実験をそのまま人間に当てはめると、体重60キロの人が毎日100トンの真っ黒に焼いた魚を食べ続ける量に相当した。イワシに換算すると、毎日92万匹を食べなければならない。このことが新聞には記載されていなかったので、大きな誤解と不安を招いた。

 動物実験を人間のがんの原因として公表するのは、あまりに飛躍が大きすぎた。がんを予防したいと思う多くの読者は、読売新聞のこの記事に飛びつき、焼け焦げパニックを引き起こした。家庭では焼き魚が敬遠され、調理法が煮魚やムニエルに変わった。人々は焼き魚の焦げた部分を神経質に取り除いて食べるようになった。この記事が新聞の第1面を飾ったのは、その意外性、話題性を狙ったのだろうが、社会的影響としては、むしろ日本の食文化を破壊する誤報と呼ぶにふさわしい。

 この記事には、親切にも尾ひれがついた。焼き魚と大根おろしを一緒に食べると、大根おろしのアミラーゼが発がん物質を抑制すると発表したのである。そして「魚に大根おろしを添える日本の習慣が、焼き魚の発がんを抑えるための日本古来(こらい)からの知恵」と報道したのである。

 焦げががんを誘発するのは、焦げに含まれる発がん物質を濃縮して大量に動物に与えた場合であって、焦げそのものががんを引き起こすことは実証されていない。昭和56年、国立衛生試験所は焦げの含有率20%、10%、0%の餌をハムスターに2年間にわたり与える実験を行い、結果は3群ともがんは発生しなかった。つまり現実的な焦げの量ではがんは誘発されないのである。現在では、焦げの発がん性は否定的ととらえられている。また昭和58年、国会で焦げと発がん性の問題について見解を求められた政府は、「焦げの発がん性について疫学的証拠がないことから、行政的には焦げの発がん性を取り上げない」と回答している。

 食事によってがんが予防できるかどうかは分からないが、平成8年、米ハーバード大のがん予防センターは米国人のがんの原因として、喫煙、食事、運動、飲酒ががん発症の68%を占めると発表した。もちろん明確な根拠があるわけではないが、権威あるがん予防センターの公式発表なので異議を唱える者はいなかった。

 予防可能ながんについて、食道がんは飲酒、喫煙、熱い飲食物。胃がんは塩分の高い食品、大腸がんは飲酒、肺がんは喫煙、乳がんは女性ホルモンと関係があり、習慣を変えることによって予防可能としている。

 焦げ騒動の杉村所長は後に同センター総長となり、「がん予防の12カ条」を発表している。この12カ条によってがんが予防できるかどうかは別にして、少なくとも健康にはよさそうなので、以下に紹介しておく。

 <1>バランスの取れた食事を取る

 <2>がんになる危険を分散させるため同じ食品を繰り返し食べない

 <3>食べすぎを避け、「腹8分目」とする

 <4>酒はほどほどに。アルコールの1日の適量は日本酒なら1合

 <5>たばこを吸わない

 <6>ビタミンと繊維質を含んだ緑黄色野菜をよく取る

 <7>塩辛いものを大量に食べない

 <8>熱すぎるものや焦げた部分は食べない

 <9>カビの生えたものは食べない

 <10>過度に日光に当たらない

 <11>過労を避けストレスをためない

 <12>体を清潔にする

 以上が「がん予防の12カ条」で、12カ条を実行すれば、がんの60%は防げるとしている。要するに、節度ある生活が1番よいというのである。

 ところで、昭和37年に国立がんセンターが発足して以来、杉村隆所長を含む歴代総長7人のうち、5人ががんになっている。がん予防を唱える学者でさえ、がんに冒されるのである。いかにがん征服が難しいかが分かる。

 大体、科学者がこのような発表を行うのは、世間の注目を浴びたいという名誉欲と研究費稼ぎと考えてよい。この魚の焦げ研究だけで、国立がんセンターには研究費として、16億円の国民の血税が投じられていた。

 日本の発がん研究は伝統的に優れた分野である。大正時代にウサギの耳にコールタールを塗って世界で初めて人工的にがんを作った山極勝三郎博士、戦後間もない時期にラットの腹水に吉田肉腫を作った吉田富三博士などの業績がある。焼き魚の報告はこの流れを引き継ぎ、環境中の発がん物質を避けるための予防策を説いたのだろうが、むしろ誤解を招くだけの迷惑な発表であった。杉村は文化勲章を受章したが、魚の焼け焦げ騒動は日本人に精神的パニックをもたらし、日本の焼き魚文化を衰退させ、日本の食生活を変化させた。文化を破壊した者が文化勲章である。皮肉なことであるが、皮肉以上に罪深い研究だったといえる。

 

 

 

5つ子誕生 昭和51年(1976年)

 昭和51年1月31日、鹿児島市立病院で日本初の5つ子が誕生した。両親はNHK政治部記者の山下頼充さん(33)と妻の紀子さん(27)で、誕生したのは男児2人、女児3人の5卵性の赤ちゃんだった。

 山下さん夫妻は同じ鹿児島出身で、4年前に鹿児島で結婚式を挙げ、東京都渋谷区笹塚に住んでいた。紀子さんは初めての出産に備え、妊娠8カ月で実家のある鹿児島へ帰った。帰郷した翌日、紀子さんは鹿児島市立病院産婦人科を受診。診察した外西寿彦・産婦人科部長は予定日まで2カ月以上あるのに異様に大きなおなかを診て双子(ふたご)を疑った。超音波検査を行い、5胎を確認して驚いた。外西部長は医師、看護婦、助産婦による「5つ子プロジェクトチーム」を直ちに結成し、日本初の5つ子誕生に備えるとともに、厳重なかん口令を敷いた。

 外西部長は心音などから5つ子を事前に確認したが、両親を気遣い3つ子以上と伝えた。5つ子の確率は出産約4000万回に1例で、日本には5つ子出産の記録はあるが、無事に出産した例はなかった。

 当時、鹿児島県の周産期死亡率は全国第1位だった。また鹿児島市立病院は未熟児網膜症の損害賠償問題を抱えていた。この不名誉な記録から脱却しようと「5つ子プロジェクトチーム」は必死の思いで紀子さんを迎えた。外西部長は、これまで多産児が育たなかったのは早産が原因と考え、早産防止のためにすぐ入院してもらった。父親の頼充さんは外西部長の説明に、「全員は無理でも、母体第1主義でお願いします」と話した。

 予定日より 20日早い1月31日の朝から陣痛が始まった。お産は自然分娩で、心配した割にはあっけないほどの安産だった。9分間に5人が次々に生まれ、胎盤は2つで5卵性の5つ子だった。2人は仮死状態だったが、すぐに息を吹き返した。分娩室を出た外西部長は紀子さんの両親に片手を突き上げ、5本の指を開いて見せた。それは5人の初孫を意味していたが、両親は安堵(あんど)と驚きからへたり込んでしまった。

 2月1日、朝7時のNHKニュースで5つ子誕生が報道された。この報道で最も驚いたのは、鹿児島市立病院の院長、事務局長、総婦長であった。外西部長は出産への支障を配慮し、5つ子妊娠を産婦人科だけの極秘事項としていたため、上高原勝美院長らは5つ子誕生をテレビで初めて知り、病院を挙げて万全の体制をとるように各部署に指示した。

 市立病院には大勢の報道陣が大挙して押しかけた。5つ子の父親となった頼充さんは、記者会見で、「いやあ、びっくりしました。必死に生きようとする姿に生命のまか不思議を感じました」と述べ、緊張と喜びの中で一度に5人の父親になった戸惑いを見せた。妻の紀子さんは「ちょっと頑張りすぎちゃった」と恥じらいと喜びの言葉を述べ、このあっけらかんとした明るさが、緊張した周囲の空気を和ませた。

 未熟児の5つ子を育てるため、池ノ上克氏(後の宮崎医科大教授)が主治医、蔵屋一枝、住吉稔が担当医となった。赤ちゃんは元気だったが、体重は990グラムから1800グラムで、普通児の半分程度だった。3人の医師は長いすに交代で寝ながら5つ子を監視し治療に当たった。

 2月2日、埼玉県の医療器具会社から保育器と未熟児用の点滴セットを載せたトラックがパトカーに先導され羽田に向かった。市立病院には保育器が3台しかなく5つ子は保育器に同居させられていた。5つ子のためには警察も協力を惜しまなかった。生後6日目に二女が壊死性腸炎を起こし危険な状態になった。点滴を続けながら授乳を中止し、胃の中のものを外に出し、抗生物質を投与して2週間後に回復した。

 5つ子誕生に日本中は大騒ぎとなった。全国から祝福の声が嵐のように寄せられ、「山下さんちの5つ子ちゃん」は国民的話題となった。新聞には連日、5つ子の体重が掲載され、その増減に一喜一憂した。1人の子供を育てるのでさえ大変なのに、どうやって5人を育てるのか、このような余計な心配が週刊誌をにぎわした。

 子供たちの名前は、父親の頼充さんが京都勤務のときに交流があった京都・清水寺の大西良慶貫主(100歳)が付けてくれた。大西貫主は5人の子供は仏の授かりものとして、子供の名前を観音経の中の「福聚海無量(聚に代えて寿、海に代えて洋)、観音妙智力」という言葉から1字ずつ取って、長男福太郎、長女寿子、二男洋平、二女妙子、三女智子と名付けた。

 5月12日、5つ子は鹿児島市立病院を退院、飛行機で羽田に着くと日大板橋病院に入院、9月27日に退院した。山下さん夫妻は2間の社宅に住んでいたが、4LDKの家に引っ越し、夫妻、夫妻のそれぞれの母親、3人のベビーシッターが育児に当たった。

 5つ子の誕生は排卵誘発剤によるものだった。山下さん夫妻は結婚4年目で、そろそろ孫の顔を見たいという義母の言葉に、紀子さんは不妊症の治療として排卵誘発剤・性腺刺激ゴナドトロピンの注射を受けることにした。不妊症は約10%の夫婦に見られ、子供を欲しがる夫婦にとって深刻な問題であった。昭和50年に不妊治療が保険で認められ、生殖医療の進歩により多くの夫婦が子供に恵まれるようになった。誤解を受けやすいが、排卵誘発剤による多胎はまれで、排卵誘発剤を使用してもほとんどは単胎か双胎である。紀子さんは軽い気持ちで不妊症の治療を受けていたのだった。

 山下家はマスコミの大攻勢を受けた。取材の自主規制が敷かれたが、山下家の5つ子は日本中が注目していた。マスコミはその成長を声援するふりをして取材した。そのため、子供たちがそろって外に出ることはできず、家族そろっての遊園地、動物園、旅行などには行けなかった。山下家は経済的にも苦しかったが、粉ミルクメーカーなどの広告依頼をすべて断った。

 一方では、排卵誘発剤の使用の是非について議論が展開された。母体への影響、生まれてくる子供への影響、さらには多胎児の減数術(間引き)が取り上げられた。しかしこれらはマスコミによって作り出された議論であって、山下さん夫妻の笑顔、愛らしい赤ちゃんの様子を前に、単なる議論のための議論に終わった。

 多胎児について、世界ではオーストラリアの9つ子をトップに、メキシコで8つ子、スウェーデン、ベルギー、米国の7つ子が知られている。日本では宝永2年に6つ子の出産記録が「元禄宝永珍話」に書かれている。書かれている6つ子出産では、2人の赤ちゃんは生存したが、 4人の赤ちゃんは母親とともに死亡していた。明治34年、福島県伊達郡栗の村で5つ子が生まれたが、生後数カ月で全員死亡。その後、大正4年に愛知県で5つ子が、大正12年に北海道で6つ子が、昭和17年と昭和49年に5つ子誕生の記録はあるが、いずれも全員死亡している。昭和51年9月に神戸大医学部付属病院で6つ子が生まれているが、1人が死産、4人が出生後に死亡、無事だったのは1人だけだった。このほか、同年10月、東京大付属病院で4つ子が生まれたが全員死亡している。

 昭和55年、鹿児島市立病院で排卵誘発剤による治療を受けていた鹿児島県徳之島の上木恵造・桂子夫妻に5つ子が誕生した。以後、東京、静岡など各地で5つ子が誕生し、平成4年の時点で日本の5つ子は25組以上とされている。

 昭和57年、「山下さんちの5つ子ちゃん」はそろいの制服で小学校に入学。NHKはスペシャル番組「1年生になりました。5つ子6年間の記録より」を放映し、多くの国民に感動を呼んだ。あの愛くるしい笑顔から30年が過ぎている。早いものであの赤ちゃんたちはすでに立派な社会人になっている。まさに光陰矢のごとしである。

 

 

 

成人T細胞白血病 昭和51年(1976年)

 熊本大の高月清教授は、昭和47年頃から、成人に特有な新型の白血病を何例か経験していた。白血病は、白血球ががん化する病気で、高月教授が経験した白血病は、白血球増加は当然であるが、リンパ球細胞の核に花びらのような切れ込みが見られる点が、ほかの白血病と違っていた。さらにこの奇妙な白血病は九州、特に鹿児島県出身者に多い特徴があった。昭和52年、高月教授はこの白血病を医学雑誌「Blood」に発表。成人T細胞白血病(ATL:Adult T-cell Leukemia)という新しい疾患概念を提唱した。

 白血球は好中球とリンパ球に大別され、リンパ球は液性免疫に関与するB細胞、細胞性免疫に関与するT細胞に分けられる。白血病の多くはB細胞由来であるが、高月教授が見いだした白血病は例外なくT細胞由来であった。この白血病は成熟したリンパ球の形をしていたので、慢性リンパ性白血病の類縁疾患とされたが、患者の多くは予後不良の経過をたどった。

 この変わった白血病については、高月教授だけでなく、九州地方の医師たちも気付いていた。熊本大の小宮悦造教授は異常細胞の形が花の形に似ていることから、フラワー細胞と名付け、著書「臨床血液学」の中でその形態をスケッチで示している。

 ATLの平均発症年齢は57歳で、症状はリンパ節腫脹、肝臓や脾臓の腫大などであるが、骨髄に転移すると、正常な赤血球や血小板が作られず、貧血や出血の症状が現れる。さらに血液のカルシウムが高くなると、食欲の低下や意識低下などが出現した。抵抗力が低下し、他臓器にも病変を作ることから症状は多彩であった。

 昭和55年6月、東京の国立がんセンターでATLの研究会が開かれた。この会合に京都大ウイルス研究所の日沼頼夫教授が出席した。日沼教授はウイルスとがんの関係を研究していたことから研究会に招かれたが、ATLのウイルス説には疑問を持っていた。

 日沼教授はATLの原因がウイルスならば、ATL細胞にはウイルスが存在し、患者は異物であるこのウイルスに抗体を作っているはずと考えた。日沼教授はATL細胞をばらばらにして、患者血清と反応させてみた。患者血清に含まれる抗体はヒトグロブリンなので、次に蛍光色素を結合させたヒトグロブリンに対する抗体を加えた。つまり「ウイルスに対する抗体・ヒトグロブリン抗体・蛍光色素の複合体」を作らせ、ウイルスを芋づる式に見いだそうとした。蛍光色素は特殊な光線を当てると蛍光を発するため、この蛍光を肉眼でとらえられれば、ウイルスの存在が確認できるはずであった。

 昭和5511月、白血病細胞の抽出液に患者血清を加え、次に蛍光色素を結合させたヒトグロブリン抗体を反応させた。そして暗室の中で蛍光を当てて顕微鏡でのぞくと、明るい部分が浮かび上がってきた。ATL患者の血清の代わりに、正常人の血清、別の白血病患者の血清を用いても蛍光は発しなかった。つまりATL患者には特有のウイルス抗体が存在し、この抗体と反応するウイルスがATLの原因と考えた。

 日沼教授はATL細胞を大阪医科大の中井益代教授に送り、昭和56年2月、中井教授は電子顕微鏡でATL細胞からウイルスを肉眼的に検出した。さらに東京・癌研究所の吉田光昭博士が、ATL細胞から検出されたウイルスが、ATL細胞の遺伝子の中に一定の法則で組み込まれていることを証明した。つまりこのウイルスは遺伝子を介して、正常Tリンパ球を白血病細胞に変えていたのだった。この腫瘍ウイルスは、ATLの患者の白血病細胞に例外なく認められ、C型レトロウイルス(逆転写酵素を持つRNAウイルス)に属することが判明した。

 このATLウイルスの発見は、日本の医学研究の成果であったが、ATLウイルスの公式の発見者は米国立がん研究所のロバート・ギャロ博士(Robert Gallo)となっている。昭和55年、ギャロ博士がこの新種のウイルスを、菌状息肉腫という皮膚の腫瘍細胞から発見したのだった。菌状息肉腫の組織片から、新しいC型レトロウイルスを分離し、菌状息肉腫の原因ウイルスと報告したのである。しかし他の菌状息肉腫の患者からこのウイルスは見つからず、菌状息肉腫の原因ウイルスではなかったのである。ATLの患者は西インド諸島からの移民で、カリブ海周辺はATLの散在する地域だった。ギャロ博士が菌状息肉腫と思ったのは、ATLの皮膚病変だったのである。

 日沼教授がATLウイルスとATLの因果関係を証明したとき、ギャロ博士は自分のつかまえたウイルスの正体を知らなかった。ギャロ博士は細胞からウイルスを分離して、HTLV−Iと命名したが、このHTLV−Iは日本の研究者が発見したATLウイルスと同一だったことが後で分かり、ウイルス発見はギャロ博士になった。ちょうど同じころ、エイズが世界中の注目を集めていて、エイズも成人T細胞白血病(ATL)と同じレトロウイルスに属することが分かった。

 研究が進むとATL患者ばかりでなく、患者の家族にも抗体陽性者が多いことが分かった。つまり感染しても発症しない人が大部分だったのである。昭和58年、京都大ウイルス研究所の日沼頼夫教授らが、各地の献血センターに保存してある血液を調べた結果、ATL抗体陽性者は北海道1.2%▽東北1.0%▽関東0.7%▽北陸・中部0.3%▽近畿1.2%▽中国0.5%▽四国0.5%▽九州・沖縄8.0%だった。

 つまり九州・沖縄にATL抗体陽性者が多く、九州では鹿児島県、那覇市、佐世保市の陽性率が10%を超え、福岡県、大分県は3から4%だった。沖縄の陽性率は高値だが宮古島は低値だった。沖縄本島には縄文前期以降の遺跡があるが、宮古島には13世紀以前の遺物はない。宮古島に住む人々の祖先は沖縄地域とは異なり、比較的最近どこからか移り住んだと考えられた。

 このほか、岩手県の陽性率が低いが三陸地方では陽性率が10%を超える地区があった。秋田の象潟、飛島、能登半島、紀伊半島、中国地方の日本海側、隠岐、四国の宇和島近郊などに陽性者が多かった。また東京大に保存してある北海道のアイヌ民族の血清を調べると、44%という高い陽性率を示した。

 日沼教授はATLの地域性を説明するため、次のような仮説を立てた。日本に昔から住んでいた人々はATLウイルスを持っていた。そこにウイルスを持たない人々が数千年前に移住し、先住民を追い出し、そのため日本列島中央部では陽性者が減少した。つまりウイルス保持者の縄文人が、大陸からやってきた非保持者の弥生人に追いやられたとしたのである。

 韓国と中国ではATL抗体陽性者はほとんどいない。東アジアでは、日本だけに特有なもので、日本以外ではパプアニューギニア、オーストラリアの先住民族、カリブ海沿岸、南米アンデス地方、アフリカにわずかに見られる程度である。

 ATLには遺伝子解析でサブタイプがあることが分かっていて、アイヌとアイヌ以外では違うタイプのウイルスであった。つまり、古代日本人は北と南の両方のルートから別々にやってきたと推測された。

 ATLウイルス感染者は日本全国で約120万人(人口の約1%)と推定されているが、感染していても発症するのは年間700人程度で、大部分は発症しない。鳥取大の日野茂男教授は、ATLウイルスが母乳を介して母親から子へ垂直感染することを明らかにし、長崎大の片峰茂教授は13万人以上の妊婦から5000人以上のキャリア妊婦を見つけ、母乳授乳を止めさせることで1000人以上の母子感染を防いでいる。

 ATLウイルスは性行為でも感染するが、感染してもATLを発症することは極めてまれである。そのため夫婦間感染への特別な対策は立てられていない。輸血によっても感染するが、昭和61年から献血時に抗体の検査が行われ、感染の心配はない。

 鹿児島大の納光弘教授はHTLV−Iに関連した神経症状であるHAM(HTLV−1 associated myelopathy)について研究している。HAMはHTLV−1が脊髄後角に感染し、炎症性の脱髄反応により麻痺などのさまざまな神経症状を引き起こす病気である。

 ATLリンパ腫は、多彩な症状、臨床経過を取り、急性型、リンパ腫型、慢性型、くすぶり型、急性転化型に分類でき、そのうちの急性型、リンパ腫型、急性転化型が治療の対象になる。抗がん剤の併用療法によって30から70%が寛解(悪性細胞が減少して、検査値異常が改善した状態)するが、発病すれば治癒するのはごく一部で、ATLは難治性である。 

 ATL抗体陽性であっても症状や検査値異常がない者を、HTLV−Iキャリアと呼ぶが、定期的な通院の必要はない。

 ATLの発見は日本の科学者による輝かしい勝利で、「ヒトがんウイルス」を明確にしたのは、ATLが世界で初めてである。

 

 

 

愛知医大騒動 昭和52年(1977年)

 昭和52年7月4日、愛知県長久手町の愛知医大で成績不良の受験生から高額の寄付金を取っていた裏口入学の実態が明るみに出た。入学試験は500点満点中200点以上が合格、150点以上が補欠だったが、福井県・昭英高校からの合格者43人の中には、30点で合格した学生が含まれていた。

 文部省の調べでは、入学者126人からの寄付金総額は35億円以上で、入学試験前に寄付金を払っていた者が10数人で、裏の寄付金も1億2500万円に達していた。昭英高校は、愛知医大の付属高校として文部省から認可されていなかったが、同校の父兄たちは、昭英振興会の預かり金の形で、愛知医大の学校債を大量に購入させられていた。昭英高校は昭和49年の開校時から、校長に愛知医大の太田元次・初代理事長の長男が就任しており、主要なポストを太田ファミリーが占めていた。

 このことから愛知医大は、学長を兼任していた太田理事長ら8人が引責退陣、内部の「再建委員会」が事態の収拾に当たった。ところが再建をめぐって、退陣した前理事長と再建委が対立して混迷が深まった。寄付金の脱税問題、前理事長の多額な所得税の修正申告などが暴露され、事態は複雑な動きを見せた。

 結局、愛知医大は、<1>裏口入学、不正入試の再発を防ぐ<2>昭英高校をほかの高校と同等に扱う<3>イメージを変えるため大学名を変えることで汚名返上を図る。このことでこの問題は一応決着の方向となった。

 ところが同年9月13日、愛知医大で事もあろうに約3億円が強奪される事件が起きた。昭英高校の池戸史朗理事と湖海学園の館益雄本部長の2人が保護者会の弁護士を名乗る男から電話で呼び出され、名古屋市西区にあるホテル・ナゴヤキャッスルに監禁され、赤軍派を名乗る2人組の犯人が白昼堂々と素顔をさらして犯行におよんだのである。犯人の1人が館本部長を東海銀行滝子支店へ連れて行き、支店の応接間で支店長と雑談を交わし、昭英振興会の預かり金2億8000万円を下ろさせ強奪した。犯人の目撃者や物証は多数あったが、捜査は難航し、2人組の犯人の足取りは名古屋駅までしかたどれなかった。

 被害を受けた昭英振興会の背後関係、犯行直前に約3億円の使用不明金があったことから、警察ばかりでなくマスコミも「狂言説」「内部犯行説」を唱えた。この事件前に犯人は愛知医大上層部5人と面会しており、顔が知られていた。もし強盗が目的であれば、顔を知られるような行動に出るはずはなく、犯人は内部の事情に精通している人物とされた。

 この事件の捜査は難航し、行き詰まりを見せた。愛知医大が裏口入学金で騒動を起こしたばかりだったので、犯人は裏金に絡んだ複雑な事情を熟知していて、犯人が誰なのかを大学が言えないのではと憶測された。

 事件から1年半後の昭和54年3月13日、名古屋生まれの元金融業・近藤忠雄(57)が東京・赤坂のマンションで逮捕された。近藤は奪った金を借金返済に充て、愛人とギャンブルに使ったと自供したが、愛知医大事件の共犯者については頑として黙秘を通した。近藤は懲役13年の刑に服し、出所後に、近藤はまた違う事件を起こした。

 平成6年1111日、住友銀行大阪本店に、融資をしなければ青酸カプセルを飲むという予告電話が入り、指定した時間に男性が現れた。住友銀行から連絡を受けた大阪府警は、恐喝事件に発展すると判断し、捜査員数人を本店前に張り込ませていた。姿を見せた男性は小柄でがっちりした体格であった。窓口の融資担当者2人が応接室で約1時間半男性と応対した。男性は具体的融資の金額を示さずに話を進めた。銀行員は「融資については上司と相談するので、また後日来てくれるように」と説明すると、男性は意外なほどあっさり引き下がった。

 男性が銀行の外に出たところを、待ち構えていた捜査員が呼び止め、職務質問をした。男性は顔色を変え、背広のポケットに右手を入れた。「青酸カプセルを飲む」と判断した捜査員がとっさに制したが、ポケットにあったのはカプセルではなくピストルだった。任意同行を求められた男性は捜査員におとなしく従った。

 その男が愛知医大事件の主犯で平成4年に刑務所を出所した近藤忠雄だった。そして、持っていたピストルは平成6年9月14日、住友銀行名古屋支店の畑中和文支店長(54)が射殺された事件と同じピストルと判明した。プロの手口とされていた住友銀行事件は予想もしない展開となった。

 近藤忠雄は自分が犯人と主張し、送りつけた手紙の偽名のイニシャルは「M・Y」で、愛知医大3億円事件でも同じイニシャルを使っていた。しかし当時73歳の近藤がゴルコ13のようにピストル2発で畑中支店長を射殺できるかどうか疑問であった。

 近藤忠雄は愛知医大3億円強奪事件で服役し、平成4年に出所した後は、名古屋市内の元妻のマンションや母親宅で暮らしていた。金遣いが荒く94歳の母親宅を800万円で売却し金を工面したが、借金が雪だるまのように増えていた。住友銀行大阪本店を訪れる直前は、カプセルホテルなどを転々として借金を重ねていた。

 近藤忠雄の供述は信用できず、身代わりの公算が強かった。そのため近藤忠雄は殺人罪には問われず、銃砲刀剣類所持等取締法違反で起訴され、懲役7年の実刑判決となった。

 

 

 

医師優遇税制廃止 昭和52年(1977年)

 医師優遇税制は、昭和29年に設けられた。当時はまだ日本経済は混乱しており、保険料の滞納が多く保険財政は赤字続きだった。そのため国の診療報酬の支払いが遅れがちになっていた。日本はまだ貧乏で、医療費を払う余裕が、政府にも、保険組合にも、患者にもなかった。終戦直後のインフレで物価は上がり、診療報酬は昭和23年以来6年間据え置かれ、開業医の生活は苦しく不満が大きかった。

 この不満を解消するため、医療財源のない政府は、「診療報酬の単価を据え置いたまま、開業医の税金をまける政策」を出したのである。つまり医師優遇税制は「開業医の必要経費を高く設定して、実際の収入を高くする政治的妥協の産物」であった。開業医に支払う医療費を低く抑えながら税金をまける方法で、具体的には、開業医は保険診療で得た収入の72%を必要経費、残りの28%に課税する方法であった。

 この医師優遇税制は、武見太郎が吉田茂首相の診察のために大磯の吉田邸に行った際、偶然に池田勇人蔵相と会い、その場で決められたものである。当時の武見太郎は日本医師会の会長になる前で、日医の役職についていなかったが、「医師の診療報酬が据え置かれているのは不公平」と池田蔵相に談判、池田蔵相は、「診療報酬を上げない代わりに税金をまける」ともちかけたのである。必要経費72%、課税分28%は、武見太郎と池田蔵相が酒を飲みながら決めた数値で、何の根拠もなかったが、池田蔵相が決めた数値に大蔵省官僚は反対できなかった。

 開業医にとってこの税制のメリットは大きかった。それは増収だけでなく、税務処理の煩わしさからも逃れられたからである。収入の28%が課税分と決められたので、煩雑な計算をしないで診療に専念できた。この控除がなければ、開業医は商店並みに青色申告をしなければならなかった。

 昭和36年に皆保険制度が始まると、患者が急増し、開業医の収入も増えていった。日本医師会は「国民皆保険を医療統制」と反対したが、国民皆保険によって患者は増え、医師は儲かる商売となった。当時、銀座のクラブ、外車、ゴルフ場会員権、毛皮のコートと言えば、必ず医師を連想していた。医師の生活は豊かになり、高額納税者の上位が医師で占められた。

 このように医師が裕福になると、医師優遇税制が不公平税制の典型と非難され、世論の風当たりが強くなったが、日本医師会はこの28度線を死守しようとした。医師優遇税制が20年以上も継続できたのは、日本医師会の政治力が強かったからである。武見会長が政治家と行政ににらみをきかせ、保険医総辞退、学校医総辞退を武器に医師優遇税制を存続させたのである。武見太郎の前では、自民党や官僚は手が出せず、医師優遇税の難攻不落の時代が続いた。

 しかし昭和47年になると、会計検査院が開業医の必要経費を調べ、実際の必要経費は52%と発表した。72%から52%を差し引いた20%が税制上優遇とされ、開業医1人当たり年間700万円が免税されているとした。このことから医師優遇税は税制改正の度に必ず取り上げられ、不公平税制の典型とされた。

 昭和4910月4日、政府税制調査会(東畑精一会長)が医師優遇税制の見直しを求める答申をまとめ、田中角栄首相に提出。東畑会長は世論を味方に「医師優遇税制を変えるべき」と主張した。このことから「医師の技術料を高く評価する代わりに、医師優遇税制を改正する方向」に傾いた。

 昭和4911月に田中内閣が金脈問題で退陣すると、椎名裁定で三木武夫首相が誕生。三木首相は政権の課題として社会的不公平の是正を掲げ、医師、政治家、僧侶の不公平税制を槍玉にあげ、特に医師優遇税制は三木内閣の象徴的政策課題となった。

 昭和5211月、国税庁長官が医師優遇税制は不公平税制であると表明、その是正に乗り出す姿勢を示した。当時は増税が予定されていて、その前に不公平税制の是正が叫ばれていた。次の福田内閣でも、福田赳夫首相が大蔵省出身だったこともあり、医師優遇税に厳しい姿勢を示した。福田首相は昭和53年2月、医師優遇税の是正を国会で約束。日本医師会は反対したが、診療報酬引き上げと引き替えに同意することになった。

 あまりに医師が裕福になりすぎたため、日本医師会が何と言おうと国民への説得力に欠けていた。マスコミも医師の金儲け主義を批判し、政府、自民党の決定を容易にさせた。このような経過で、昭和29年から24年間継続した医師優遇税制は、昭和53年に改正された。

 この改正によって保険診療報酬収入が2500万円以下は必要経費72%に据え置かれ、順次3000万円までは70%、4000万円までは62%、5000万円までは57%、5000万円以上は52%と5段階方式になった。入院施設を持たない開業医の収入の大部分が2500万円以下だったことから、実際には妥協の産物と評価された。しかしこのころから日本医師会の政治力は低下し、昭和63年の税制改革では、険診療報酬5000万円を超える医師の特例が廃止になった。

 このように医師優遇税制は消滅したが、昭和27年に設けられた事業税の非課税措置は現在も継続されている。事業税の非課税が、今後どのようになるのか注目すべきであろう。

 

 

 

従業員相手の保険金殺人 昭和52年(1977年)

 昭和52年から53年にかけ、従業員などに生命保険を掛け、連続殺人で数億円をだまし取る事件が起きた。この事件は、日本の保険金殺人史に残る凶悪な犯行であった。主犯の長崎正恭は、20歳のときに愛知県豊川市で運送業を始め、43歳で従業員10人の「愛知宝運輸」の社長となった。その後、会社の経営は順調に伸び、従業員数は40人に増え、青年事業家として地方新聞に登場することもあった。

 だが順調だった経営は、昭和48年のオイルショックでつまずいた。所詮、愛知宝運輸は零細企業にすぎず、2300万円の借金、銀行の貸し渋りで経営は追い込まれていた。このままでは倒産は確実だった。長崎正恭は専務の小谷良樹、常務B、知り合いの暴力団関係者らと、倒産から逃れるために保険金殺人を企てた。交通事故の補償を名目に従業員を生命保険に入れ、融資先の人物にも融資の担保として保険金を掛け、保険金殺人で一獲千金を狙うことにした。

 最初に狙われたのは、静岡県磐田市のバッタ屋A(67)であった。昭和52年8月、長崎はAを知り合いのバー「ニューマドンナ」に連れて行き、ママの和佐田春江を紹介して親密な関係にさせた。その上で、「保険に入れば融資する。保険金はこちらで立て替える」と言って、1億2000万円の生命保険に加入させた。受取人は長崎と暴力団組長の愛人である和佐田春江だった。

 保険加入から2カ月後、暴力団組長はAをだまして浜名湖に連れ出し、車ごと浜名湖に突き落とそうとした。しかし通行人に騒がれ失敗。次に、別の暴力団員がAを同乗させた車をがけに衝突させ、Aを車外に引きずり出して鉄棒で殴ったが、偶然にも対向車が来たため、Aは1カ月の重傷を負っただけだった。Aは長崎らの狙いに気付き、磐田市内の病院に身を隠した。

 次に狙われたのが、愛知宝運輸と取引のあった食品会社の杉浦一造社長(43)だった。食品会社の年商は4億円だったが、韓国から輸入した朝鮮漬けの販売に失敗、3億円の負債を抱えていた。長崎は杉浦社長に数千万円を融資、融資条件として2億1000万円の生命保険に加入させた。加入から2カ月後の昭和5210月4日、杉浦社長は飲酒運転による交通事故で死亡。もちろん杉浦社長の事故は見せかけで、大型トラックで杉浦社長の車を押し出すように、崖から転落させたのである。長崎らは保険金2億1000万円のうち1億3000万円を受取った。

 第3の犯行は、昭和53年7月30日に起きた。愛知宝運輸のトラック運転手・中根喜久夫さん(18)が海で水死、保険金1億円が支払われた。酒を飲んでおぼれたとされたが、中根運転手は泳げず、酒も好きでなかった。無理やり酒を飲まされ、ボートで沖に連れて行かれ、突き落とされたのである。警察は保険金殺人に気づかなかった。

 第4の犯行は、昭和53年8月、バー「ニューマドンナ」に放火、ママの和佐田春江(55)を焼死させた。この放火で長崎の妹が保険金1億8000万円を受取った。

 これらの保険金殺人が判明したのは、最初に命を狙われたバッタ屋Aが詐欺罪で警視庁に逮捕され、「わしは小悪人だ、愛知県には億単位の保険金をせしめた大悪党がいる。わしも2度殺されるところだった」としゃべったことによる。警視庁が愛知県警に問い合わせると、Aの話しは本当で、以前から愛知宝運輸では経営が悪化すると社員が死ぬとうわさされていた。

 愛知県警と警視庁は合同捜査体制を敷き、昭和54年4月9日、関係者8人を一斉に逮捕した。しかし主犯の長崎と小谷は警察の動きを察知、3万ドルを持って大阪空港から台湾に逃亡した。2人は当時盛んだった台湾買春ツアーの常連で、数次旅券を持っていた。台湾の知人からブラジルでの農場経営を勧められブラジルへ高飛びしたが、航空券のチェックから2人がブラジルのサンパウロに潜んでいることが判明。身の危険を感じた2人は、サンパウロから2000キロ離れた小さな町で民家を借りて潜伏した。しかしブラジル警察は隠れ家を急襲、銃撃戦の末、2人を射殺した。

 愛知県警の調べでは、長崎正恭は愛知宝運輸の従業員全員に平均4000万円の生命保険を掛けていた。従業員には健康診断と偽り、検査や診察を受けさせ、本人の承諾なしに団体保険に加入させていた。彼にとって、保険金殺人ほどボロい商売はなかった。

 従業員に保険を掛けて殺害する手口は意外に多い。昭和59年5月5日午後1050分ごろ、北海道夕張市の炭鉱下請け会社「日高工業」の作業員宿舎から出火。焼け跡から従業員4人、子供2人の焼死体が見つかった。夕張消防署は、「ジンギスカン鍋の火元の不始末が原因」と断定、社長の日高安政(41)と妻の信子(38)は火災保険と従業員の生命保険金1億3800万円を手に入れた。

 しかしこの火事で重傷を負い、入院治療中だった暴力団員・石川清(24)が突然失踪、夕張署に出頭してきた。石川清は、「日高夫婦が保険金目的で放火を計画、自分が実行犯であるが消されるのが怖いので名乗り出た」と自供した。そのため夕張署は日高と信子を放火・殺人・詐欺の疑いで逮捕した。

 日高夫婦は、「炭鉱の仕事には将来がない。札幌にデートクラブをつくるため、資金目的で宿舎の放火を計画した」と自供。日高夫婦は従業員の石川清に500万円を渡して放火を依頼。石川は従業員が就寝したのを確認して1階の食堂にライターで火をつけた。この間、日高夫婦はアリバイをつくるため、近くの飲食店で飲食していた。彼らは保険金1億3800万円のうち、逮捕までの1カ月で1億円を使い果たしていた。

 札幌地裁は昭和62年3月、実行犯の石川清に無期懲役、日高夫婦に死刑判決を言い渡した。夫婦の死刑は戦後初、女性としては戦後3人目だった。

 生命保険は家族が万一の事態に備えて掛けるものであるが、生命保険会社の過当競争から、会社の従業員や知り合いに生命保険を掛けられるようになった。日高夫婦は会社の経営のため、自分の贅沢のため、他人を殺害して金銭を得ようとした。生命保険金殺人は、その計画性、その悪知恵、その動機から、当然のことながら極刑に値する。

 

 

 

青酸コーラ無差別殺人事件 昭和52年(1977年)

 昭和52年1月4日早朝、東京・品川で青酸コーラによる無差別殺人事件が発生した。最初の犠牲者は、正月休みを利用して新幹線の食堂でアルバイトをしていた京都市洛東高校1年生の檜垣明君(16)で、父親は新大阪駅の助役だった。檜垣君は、新大阪発東京行きの「こだま」の業務を終え、午前零時すぎに同僚5人と品川駅で下車、歩いて5分ほどの会社の寮へ向かった。駅前から第1京浜国道を横断して、反対側の歩道を200メートルほど進み、電話ボックスの前を通りかかると、同僚の女性(22)が電話ボックスに10円玉が落ちているのを見つけた。電話ボックスのドアを開けると、床にコカコーラの瓶が置いてあった。女性社員は誰かが忘れたのだろうと思い、軽い気持ちで「もらっていこう」と言って檜垣君に手渡した。

 6人は寮に帰り入浴を終えると、娯楽室に集まってビールで乾杯した。檜垣君は拾ってきたコーラの栓を抜いてコーラを口にしたが、「このコーラ、腐っている」と言って、すぐにコーラを吐き出し水道水でうがいをした。しかしその数分後、突然倒れ意識不明になった。すぐに救急車で北品川総合病院に搬送され、気管切開、胃洗浄などの救命処置が施されたが、午前7時30分に死亡した。

 高輪警察署、警視庁捜査1課の捜査員が社員寮に駆けつけ、毒物鑑定を行った結果、瓶の底に残っていたコーラから青酸反応が出た。何者かがコーラに青酸化合物を混入し、電話ボックスに放置したのだった。

 檜垣君が死亡してから45分後の午前8時15分、青酸コーラの置いてあった電話ボックスから約600メートル離れた歩道で、灰色の作業服を着た中年男性が倒れているのを会社員(45)が見つけた。すぐに近くの病院に運ばれたが、男性はすでに死亡していた。所持品は、現金25円とショルダーバッグとタオル1本であった。そのため当初は、行き倒れによる凍死とされていたが、遺体解剖の結果、青酸反応が出た。遺体の周辺にはコーラを吐いた跡があって、約100メートル離れた電柱の下に飲みかけのコーラの瓶が残されていた。このコーラからも青酸反応が検出され、第2の青酸コーラ事件となった。

 被害者は、指紋から山口県下関市出身の菅原博さん(46)と判明した。菅原さんは地元で林業をしていたが、窃盗で2度逮捕され、執行猶予中に妻と離婚して岡山に転居していた。そこで詐欺事件を起こし、その取り調べ中に逃亡して13年間消息不明だった。

 警察は聞き込みを行い、200人の機動隊が周辺一帯を捜索した。その結果、第1現場から約600メートル離れた商店前の公衆電話に栓のついた新たなコーラが放置されていた。この公衆電話のコーラは、近所に住む中学3年生が警察よりも先に見つけていた。中学生は用事があったので、帰りに持って帰ろうと思っていたが、戻ってみると警察官が来ていたのだった。このコーラからも青酸反応が出て、中学生は危ういところで難を免れた。

 コーラに混入されていた青酸化合物は青酸ナトリウムだった。青酸ナトリウムは青酸ソーダとも呼ばれ、青酸カリウム(青酸カリ)と同様に毒性が強く0.2グラムが致死量であった。一般には入手しにくいが、メッキ工場には欠かせない薬品であった。犯行現場の品川から川崎、横浜にかけてメッキ工場が多数あった。

 犯行現場付近には、高輪プリンスホテル、ホテル・パシフィックが並び、その裏手は昔からの高級住宅街だった。コーラが置かれた3つの現場は、品川駅から半径300メートル以内で、警察は不特定多数を狙った同一犯による殺人事件と判断した。住民の目撃証言から、第1現場のコーラは3日午後7時半から午後8時の間に、第2現場の電話ボックスは4日早朝に、その後、第3現場の公衆電話に青酸コーラが置かれたことが分かった。 

 犯人の手掛かりは残されたコーラの瓶3本と王冠4個だったが、指紋は見つからなかった。王冠の3けたの製造番号から製造工場と製造日が特定され、北品川の10の商店で販売していたことは分かったが、それ以上の進展は見られなかった。

 1年で最も華やいだ気分になる正月の犯行から、犯人は社会的に恵まれず、日ごろの不満をゆがんだ形で爆発させたとされた。この事件当時、晴れ着に硫酸や塩酸をかける事件、無差別の連続放火事件などがあって、共通した犯罪心理によるものと思われた。

 この事件から約1カ月後、2月14日のバレンタイン・デーに、東京駅八重洲地下街の南端の階段通路で、グリコのアーモンド・チョコレート40箱が入ったショッピング袋を会社社長(43)が見つけた。社長はどうせ空箱だろうと袋をけ飛ばしてみると重い反応があった。いったんはその場を通り過ぎたが、しばらくして青酸コーラ事件を思い出し、「もし毒が入っていたら大変だ」と、近くの交番に届け出た。犯人の細工は極めて巧みで、不審な点は見られなかった。チョコレートは10日間保管されたが、落とし主が現れなかったため、24日に江崎グリコ東京支店に返却された。

 江崎グリコ東京支店で調べたところ、箱の中のセロハンが切り取られていて、張り直した跡があった。さらに箱のふたにある製造番号はすべて切り取られていた。不審に思った同支店は、大阪本社の中央研究所に検査を依頼した。その結果、40箱すべてのチョコレートから致死量に達する青酸ナトリウムが検出された。その箱の裏には「おごれる醜い日本人に天誅(てんちゅう)を下す」と声明文が片仮名のゴム印で書かれてあった。

 このゴム印は浅草のゴム印製作所が製造していたことが分かり、捜査本部は約800組のゴム印の納入先を絞り込んだが、捜査は進展せず、青酸コーラ事件との関連も不明のままとなった。15年後の平成4年1月4日、青酸コーラによる無差別殺人事件は時効となった。

 これらの事件から「愉快犯」という言葉が生まれた。愉快犯とは、「不特定多数を対象に世間を騒がせ、他人が困るのを見て快楽を得る犯罪者」のことである。これまでの犯罪と違い、金銭、恨みとは関係なく、加害者と被害者に接点がなかった。都市の潜む犯人の鬱積した感情が、理由なき敵意となって、善良な市民に向けられたのである。ありふれた飲食物に毒物を仕掛ける卑劣な犯罪であった。 

 

 

 

奈良県立医大事件 昭和52年(1977年)

 昭和5211月、奈良県立医科大(堀浩学長)の不正入試事件が発覚した。当時は私立医大の裏口入学が社会問題になっていたが、奈良県立医大の不正入試は 20年も昔の、昭和33年から43年にかけてのことだった。なぜこの時期に20年前の古傷が暴露されたのだろうか。

 奈良県立医大は、戦前は軍医を養成するための医学専門学校(医専)で、戦後に県立医大に昇格したが、医大の運営に金がかかり、奈良県からは金食い虫と批判されていた。奈良県立医大には学位審査権はなく、人材も施設も不備だらけだった。奈良県立医大はその解決策として裏口入学を考えたのである。

 裏口入学は、大学職員関係者、県知事、県幹部、議員、財界の子弟や縁故者で、11年間の入学者600人のうちの3分の1以上が寄付金による裏口入学者だった。大学後援会を窓口に「寄付金予約制度」がつくられ、寄付金は昭和3334年が1人50万円、3541年が100万円、4243年が150万円だった。裏口入学にはブローカーが暗躍し、多額の金銭を父兄から集め、その一部だけを大学に納めるブローカーもいた。

 11年間に集めた寄付金は2億5000万円で、研究費、施設費、学会出張費などに使われていた。大学施設費の54%を寄付金に頼っていて、これだけ堂々とした裏口入学の前例はない。県立医大といいながら寄付金立医大と言える状態だった。

 昭和5211月9日の朝日新聞は、A君は受験者908人中521番の成績で入学、B君は518番で入学と報道した。入学定員は60人なので、上位400人以上が入学を辞退しないかぎり入学は不可能なはずである。このように裏口入学が暴露されたが、不正は約20年も昔のことである。入学者のほとんどは医師国家試験に合格して、県立医大の教員となっている者も約50人いることが判明した。

 奈良県立医大の教員は、当初は大阪大医学部の出身者がほとんどだった。やがて卒業生が大学に残るようになり、県立医の生え抜きが教授選などのポスト争いで力をつけてきた。教授、助教授、講師は合計240人で、その4割が同大卒業生で占めるようになった。この勢力をつぶすことが「20年遅れの正義の味方」の戦略だった。

 裏口入学、不正入試の公表は、同大生え抜き派(反学長派)と阪大派(学長派)との権力闘争の副産物だった。入試成績の暴露も、「出すぞ」「出してみろ」の言い合いになり、学長派の教授が教授会で資料をばらまき、学生にも資料が渡った。この対立で堀学長の不信任案が緊急動議として可決され、このことが混乱をいっそう深め、泥仕合となった。

 この騒動が新聞で報道されると、最も慌てたのは奈良県当局であった。奈良県は「大学の自治を尊重する」と表面上は冷静を装っていたが、裏口入学を斡旋していた奥田良三県知事ら幹部は動揺していた。奥田知事は堀学長に「資料公開は地方公務員法違反に相当する」と脅しをかけた。堀学長は「公表したのではなく、学内に配布しただけ」と強気の反論を述べ、辞任の意思がないことを示した。さらに「寄付金を取る裏口入学は、どこの公立医大でもやっている」と発言し、このことが新聞に載ると、大学の名誉を傷つける発言として抗議を受けた。

 学生自治会は「不正医師の真相を究明し、奈良県立医科大を改革せよ」とビラを張り、裏口入学で大学の教員になっている9人の氏名を公表した。学生自治会がこの情報をどのように得たのかは分からないが、「不正入学教官から医学を学ぶわけにはいかない」という素朴な学生心理を学長派にうまく利用されたのである。

 不正入学教官と公表された医師の実名を見ると、この事件が単純ではないことが分かる。9人のうち最初に公表された産婦人科医師は2番の成績で卒業し、将来は教授とされる優秀な医師だった。産婦人科は反学長派で、見せしめのための氏名公表とうわさされた。さらに裏口入学当時の学生自治会は日共系だったが、公表時は反日共系になっていた。そのため公表をめぐり自治会とアンチ自治会が対立、日共系の幹部だった者が不正入学者として名指しされた。氏名を公表された者は裏口入学の事実を否定し、氏名公表は阪大派の陰謀と非難した。

 不正入学者はすでに医師になり、あるいは研究者として大学病院の中核職員になっていた。不正入学者の名前が全員公表されれば、患者との信頼関係は崩れ、病院にいられなくなる。研究も挫折することになる。彼らの苦悩は強くなるばかりだった。

 この事件は裏口入学という不正、医師としての道義的責任が追及された。一方、入学試験の成績が悪くても、入学後に勉強すれば、医師として研究者としての資格は十分であることを裏付けていた。入試の公平性、医学教育のあり方、医師とは何か、このように不正入学者の公表だけでは終わらない医学教育の根本的な問題を投げかけた。

 

 

 

有田市コレラ事件 昭和52年(1977年)

 かつてコレラは恐ろしい感染症であった。日本では、明治19年に患者15万人、死者10万人。明治23年に患者4万5000人、死者3万3000人。明治28年には患者5万5000人、死者4万人の大流行をきたし、多くの日本人がコレラで死亡した。その後、コレラは減少したが、昭和21年、終戦による引き揚げ者がコレラを持ち込み1245人の感染者が出た。それ以降コレラは激減、そのためコレラは過去の疾患と多くの日本人が思い込んでいた。

 昭和52年6月10日、有田市立病院に下痢と発熱を訴える3人の患者が相次いで入院してきた。有田市立病院の医師は食中毒を疑い、翌11日に湯浅保健所に「下痢、おう吐、脱水の患者が3人入院し、患者のうち2人は同じ症状であるが、1人は症状が異なっている。腸炎ビブリオによる食中毒を考えて検査中」と報告した。

 保健所は衛生課職員を現地に派遣し、3人の患者に何らかの関連性がないかを調査した。3人の患者の住所は有田市であったが、住んでいる家は離れていて、環境や職業に共通点はなく、3人に接点はなかった。そのため食中毒と断定できずにいたが、時間とともに下痢を訴える患者が続々と病院を受診し、有田市立病院には8人が入院した。

 下痢の患者は同病院だけではなかった。11日には和歌山県立医大病院にも患者が入院。さらに海南市民病院、済生会有田病院にも同じ症状の患者が入院してきた。患者は増え、いずれも「米のとぎ汁のような水様性の下痢」を訴えていた。さらに全身衰弱が強く、四肢の硬直、テタニー様症状を呈していた。

 患者の便からは食中毒菌は検出されず、下痢症状からコレラが疑われたが、コレラ菌の検出には特別な培地と血清が必要だった。そのため患者の便は飛行機で国立予防衛生研究所(現感染症研究所)に送られ、検査でコレラ菌(エルトール・小川型)が検出された。

 6月15日午後9時34分、厚生省保健情報課は和歌山県にこの結果を連絡。ほぼ同時に有田市のコレラ発生がテレビの臨時ニュースで報道された。有田市は高野山からの河川が市の中心部を流れ、ミカンと漁業の盛んな人口3万5000人の街だった。テレビの臨時ニュースによって、有田市は全国から注目を集めることになる。コレラ患者の集団発生によって同市はパニックとなった。

 和歌山県衛生部は翌16日、「コレラ防疫対策本部」を有田市に設置、患者の集中している港町地区を中心に厳重な防疫体制を敷いた。和歌山県立医大が中心になり、20人の医師が動員され、疫学、防疫、検疫の3班に分かれて活動を開始した。潜伏感染の患者が何人いるのか分からないため、港町の住民は禁足を命じられ、学校は臨時休校となった。防疫のため噴霧器が全国から集められ、街中が消毒液のにおいに包まれた。市民1万2000人の検便が実施され、新たな患者20人が隔離された。渡辺美智雄厚相は27万人分のワクチンが用意できたと閣議に報告、世界保健機関(WHO)は同市をコレラ汚染地域に指定した。

 感染経路が分からないため、患者が急増する可能性があった。そのため人口3万5000人の有田市全体が日本から隔離されることになった。この騒動のさなか、和歌山市の城南病院に入院していた71歳のコレラ患者が死亡。昭和39年以来、コレラによる初の死亡例となった。

 東京都は有田市からの魚介類の入荷を停止。入荷拒否は全国に及び、有田漁業協同組合は操業停止に追い込まれた。夏ミカンも入荷が停止され40トンが破棄された。有田市の物流は停止し、特にコレラ発生地域とされた港町の商店の棚は空っぽになった。

 このようなコレラ差別は農作物だけではなかった。有田市民は出社を拒否され、自宅待機となった会社員が多くいた。大阪のレストランでは和歌山ナンバーの車の入店を拒否、「当店では和歌山産は扱っておりません」と張り紙まで現れた。陸上自衛隊が出動し、和歌山県は非保菌者に「コレラ無菌証明書」を出す騒ぎとなった。

 コレラ患者は6月9日から20日にかけて多発した。患者は男性の会社員に多く、家族内の2次感染や小児の発生率は低かった。有田市は港に出入りする漁船が多かったため、乗組員も調べられたが、集団コレラ事件の感染源は不明であった。

 疫学的解析から、有田市のコレラは東南アジアのコレラ汚染地域から何らかの形で侵入したとされている。コレラは複数ルートから侵入し、地域あるいは職場のトイレ、下水、井戸などが汚染され、人から人へ食品などを介して感染したと考えた。

 やがて患者の発生は下火となり、厚生省は7月2日、有田市をコレラ汚染地区から解除するとWHOに報告した。有田市のコレラ感染者は、真性患者21人、疑似患者20人、健康保菌者56人であった。真性患者とは、コレラ症状を起こすエンテロトキシン毒素が検出された患者のことである。全体では97人がコレラに感染して1人が死亡。コレラによる被害総額は、農水産物など47億円に上った。

 コレラは19世紀以降、これまで世界的な大流行を繰り返し多くの犠牲者を出した。このコレラはインド・ガンジス川周辺の風土病であった古典型(アジア型)コレラによるもので、現在ではほとんど見られない。現在のコレラはエルトール型で、症状は軽度で致死率は約1%である。有田市のコレラもエルトール型だった。

 有田市は日本から隔離されたが、コレラは怖い病気ではない。このことは平成11年の感染症新法でコレラが強制入院の対象から外されたことからも明確である。この有田市のコレラ事件の特徴は、衛生状態の保たれている地域でコレラが集団発生したため、必要以上にパニックを起こしたことである。

 

 

 

サラ金地獄 昭和53年(1978年)

 第1次石油危機による不況、さらに1ドル360円の固定相場から1ドルが180円になり、構造不況と円高から輸出業を中心に中小企業の経営が行き詰まった。また銀行は大企業中心の融資で、個人向けの融資はほとんど行っていなかった。サラリーマンへの銀行融資は保証人が必要などの条件が厳しく、利用できる者はごく少数だった。高度経済成長の中で年々個人所得が増えたこともあり、借金を気にしない気楽な風潮がサラ金地獄の背景にあった。

 サラリーマン金融、いわゆる「サラ金」は昭和38年に大阪で始まった。給料明細書、健康保険証、運転免許書、印鑑証明を見せれば無担保、無保証で簡単に借りることができた。そして即融資と秘密性から借金地獄におちいる者が増えていった。サラリーマン金融は都道府県知事への届出だけで営業ができたため、その高収益が他業種からの参入をよび、短期間のうちにサラ金業は急成長した。

 昭和536月末のサラ金業は約26000社で、貸出残高は約8600億円となり、ピーク時の業者数は全国のソバ屋数と同じ4万社になった。暴力団も参入し、駅前にはサラ金の看板が乱立した。儲かる業界には業者が群がるのが常であるが、サラ金業者の急増はサラ金に苦しむ民衆の急増を意味していた。そして昭和53年、「サラ金地獄」という言葉が流行語となった。

 サラ金は気軽に借金ができるが、サラ金の金利上限は年利1095%であった。つまり1年間で借金が倍になるシステムであった。さらに3割の業者が上限金利を超えて貸し付けていた。このため借金のための借金が増え、1カ所のサラ金だけでなく、多重の借金をかかえる者が多くなった。そして雪だるま式に借金が増え利用者の首を絞めた。心のスキマに悪魔が入り込み、気楽な気持ちで借金をして、サラ金苦からサラ金地獄へ転落していった。

 当時のサラ金は法的規制がなく無法地帯だった。そしてその裏には、人権を無視した過酷な取り立てがあった。業者の取り立てのすごさは常識を超えていた。昼夜を問わず会社や家の電話機を鳴らし、家の周囲に「金かえせ」の張り紙を貼り、怒号、恫喝、脅迫は当たり前だった。葬式に乗りこみ香典を持ち帰る、生活保護者の支給日に市役所前で利用者から生活保護費をむしり取る業者もいた。「サラ金苦」から逃れるために、自殺、家出、夜逃げ、一家離散が続出した。さらに借金を清算するため生命保険に入り、自殺する者が相次いだ。

 昭和54年の警察白書には、苛酷な取り立てを苦に半年で180人が自殺、2203人が家出、12人が売春を強要されたと書かれている。30代、40代の男性を中心に、主婦や学生までが「サラ金地獄」に陥った。サラ金から逃れるために引っ越しても、子供の転校先を調べて追いかけてきた。そのため住民票を移動できず、長期欠席する子どもが増加した。そのため当時の文部省は住民票なしでも子供を転校できるようにした。 

 借金取り立ての悲劇は全国的に広がっていった。高金利、過剰な貸し付け、苛酷な取り立てが「サラ金3悪」であった。業者にとっては無担保で金を貸しているので、貸し倒れを恐れて過酷な取り立てが横行した。このような状況に対し、昭和531125日、弁護士や学者、被害者の会代表らが「全国サラ全問題対策協議会」を発足させ、サラ金規制の立法化のための活動を始めた。東京弁護士会はサラ金相談センターを設立したが、予約は2ヶ月先までいっぱいになり、ダフ屋が予約券を10万円で売るほどであった。そして予約日になっても、予約者の半数は来ることができなかった。予約日から相談日まで、業者の取りたてに耐えられなかったからである。相談に訪れる人の目は充血し、顔色は真っ青であった。借金のきっかけは生活苦からの気楽な借金で、ギャンブルが原因でも、ギャンブルに使ったのは最初の1回だけで、後は高い利息を払うために借金を重ねた者が多かった。また保証人になって借金地獄に転落する者もいた。

 昭和58111目、「サラ金規制二法」(貸企業規制法・改正出資法)が施行されサラ金地獄にようやく歯止めがかかった。サラ金の営業は届け出制から登録制となり、上限金利は実施後3年間は年利73%、その後54.75%、40.04%へと順次切り下げられた。また暴力的な方法や夜9時から朝8時までの取り立てが禁じられた。

 銀行、保険会社などがサラ金業者の資金源となっていたが、この迂回融資が規制され、サラ金業者の資金繰りが苦しくなり、廃業、倒産に追い込まれる業者が出てきた。業界第1位の武富士は56年の決算が前年比90.4%増で、貸出残高は1282億円であったが、58年末の決算では貸し倒れが315億円となった。プロミス、アコム、レイクなど大手四社の貸し倒れ合計は778億円になった。この規制法によって中小サラ金業者の倒産が相次いだ。

 かつてのサラ金は消費者金融と名前を変え、悪者のイメージは過去のものと思われがちであるが、それはソフトなテレビコマーシャルのせいである。かつてのテレビ局はサラ金のCMを自主規制していたが、バブルがはじけ他産業の広告が減ると、サラ金のCM自主規制は解除され、テレビは消費者金融のCM花盛りとなった。チワワ、女子社員の微笑、ダンサーの踊り、このようにテレビがサラ金に乗っ取られたような錯覚をもつことがあった。

 サラ金の問題が根本的に解決されたわけではない。無人契約機の設置、インターネットでの契約など過剰融資が進み、多重債務者が増えている。さらにこの低金利時代でも年利26%と高金利体質が続いている。自己破産者は5万件を超え、強盗事件の犯行動機の6割がサラ金苦とされていた。サラ金利用者の滞納率は約2割とされ、返せないのに借りるほうも悪いのであるが、サラ金利用者は増えており、サラ金はその規模、社会的影響を考えれば、以前より問題は深刻化している。なお夫の借金に対して、妻はその借金請求に従う必要はない。また子供の借金を親が払う必要はない。借金の契約は夫や子供との約束であり、妻や親との契約ではないからである。

 

 

 

十全会株買い占め事件 昭和54年(1979年)

 京都の医療法人「十全会グループ」とは巨大な医療組織で、赤木孝が理事長を勤める十全会精神科・京都双岡病院と、静江夫人が理事長である「十全会」系列のビネル病院、東山高原サナトリウム、さらに医薬品を扱う関西薬品、病院内の給食を扱う関西食品など20の子会社と5団体で構成されている。

 昭和53年度の医療法人の所得申告額は、十全会精神科・京都双岡病院が全国1位で271000万円、十全会が2位で204000万円、夫婦合わせて475000万円の収入だった。業界3位の徳州会が6億円だったことから、十全会グループの所得がいかに巨大であったか想像できる。この医療グループの所得金額を見れば、医は仁術という言葉は吹き飛び、医はまさに算術といえた。

 この医療法人「十全会」が百貨店業界の名門・高島屋の2300万株を買い占め、筆頭株主になった。この他、宝酒造の株も買い占め、売却にて約20億円の利ザヤを稼いでいた。医療に専念すべき医療法人が株を買い占めていることが、医療法に違反すると批判され、厚生省は昭和54年2月に行政指導を行った。その後、朝日麦酒(現アサヒビール)の発行株の23%に当たる4600万株を100億円以上で購入していたことが判明。証券会社は株式市場を妖怪がうろついていると表現した。十全会の株買い占めは、営利目的の病院の儲け主義を象徴していた。

 十全会グループの赤木理事長は大正12年生まれで、岡山医学専門学校を卒業すると、京都で進駐軍のダンスホールを買い取り、東山サナトリウムを開設した。当時は結核患者が多く、治療はほとんどが公費負担だったため、病院は増築を繰り返し大きくなった。昭和30年代になって結核患者が減少すると精神病院に切り替えた。

 しかし昭和45年、「十全会を告発する会(代表=嶋田啓一郎同志社大教授)」が精神科の入院患者を虐待したとして3人の医師を告発した。「医療活動の名の下に、営利を第1として、患者の基本的人権を無視した極めて悪質な行為」として傷害致死、監禁致傷、監禁傷害で告発した。

 この虐待告発が報道されると、十全会は世間の評判を落とし、病院側は告発する会を名誉棄損で訴えたが、大阪高裁は昭和559月、病院の治療を不当とする判決を下した。

 70歳以上の老人医療が無料になると十全会は老人医療に転換、十全会グループは近県の福祉事務所と連絡を取り、寝たきりで家族が困っている老人を集めて入院させた。結核病院、精神病院、老人病院は、一般病院に比べ人件費が安く済んだ。

 老人医療は無料だったが、出来高払いだった。薬剤を使えば使うほど、検査をすればするほど儲かる仕組みになっていた。事実、治療費月170万円の患者を筆頭に、高額医療の患者が多く入院していた。職員のほとんどはパートで、十全会は医療制度のおいしい部分をうまく利用して巨額な利益を上げていた。

 京都府衛生部の調べでは、昭和48年1月から9月にまで、京都府の14の精神病院で死亡した患者は937人であったが、そのうち91.7%の859人が十全会グループの患者だった。さらにその内の781人が入院から1年以内の患者だった。京都府の14精神病院に入院している全患者数は5286人で、十全会系3病院に入院しているのは2124人(40.2%)だったことから、十全会系3病院の異常に高い死亡率が浮かび上がった。このことは国会でも取り上げられたが、事実関係はうやむやのまま終わった。十全会系病院は老人処理工場とうわさされ、老人の人権を侵害していると非難されたが、厄介な老人を入院させていたので家族からの苦情はなかった。

 当時、医療機関は儲かっているという国民的感覚があったが、医療機関は金儲けとは無縁とする建前がまだ残っていた。しかし十全会グループの株買い占め事件は、医療現場から100億円以上の資金が経済活動に使われ、この病院の儲け主義に国民は驚き、医療そのものに違和感と不信感を目覚めさせることになった。

 昭和5512月、京都府は十全会の3病院に医療監査に入った。厚生省、警察庁、国税庁は「医療に関する3省庁連絡会議」を設置して、十全会グループを調査した結果、病院が赤木一族や関連会社から不動産を62億円、市場価格の6割から8割増しの値段で購入し、病院から赤木一族に金が流れる仕組みになっていた。十全会グループは医療法人とトンネル会社を利用して、計画的に収益を操作していた。

 京都の医療法人「十全会グループ」は、理事長ら同族経営者が総退陣、買い占めた株式の処分、土地取引の精算などで決着したが、この事件は医療機関への国民のイメージを大きく変えることになった。

 

 

 

スペースインベーダー 昭和54年(1979年)

 昭和53年6月、日本のゲームメーカー・タイトーが「スペースインベーダー」を開発、同年10月に東京・晴海で一般公開。翌54年の夏には、スペースインベーダーが空前の大ブームとなった。

 スペースインベーダーはそれまでのテレビゲームとは違っていた。画面の上から編隊を組んで攻めてくる55匹のインベーダー(宇宙からの侵略者)の攻撃をかわしながら、レバーを右左に動かし、ブロックの後ろから攻撃ボタンでインベーダーを次々に撃ち落としていくゲームだった。ゲーム器を相手に互いに攻撃し合うのが人気を呼び、ブームは全国に広がっていった。

 1ゲーム100円で、当時としては高い値段であったが、大人も子供もこのシューティングゲームに夢中になり、ゲーム器1台で1日50万円を稼ぎ出すほどだった。そのため多くの喫茶店がゲーム器を設置し、歌声喫茶でも客は無言のまま「ビューン」「ビューン」と電子音を響かせていた。スペースインベーダーは喫茶店ばかりでなく、デパート、スナック、飲食店、銭湯、理容室にまで進入し、日本各地にゲームセンター(インベーダーハウス)ができた。

 昭和54年7月、公開から1年もたたないのに、スペースインベーダーは全国7万カ所に28万台が並び、パチンコ店がインベーダーハウスに変わったほどである。人々は撃ち落とす快楽のとりこになり、タイトーは5000億円の利益を得た。

 このゲームは中学生を中心に、小学生から大人まで夢中にさせた。インベーダー白書によると、小学生の40%、中学生(男性)の80%以上がこのゲームを経験し、1回で1万円以上使うこともあった。ゲーム代欲しさに、恐喝や強盗、あげくの果てには機械ごと売上金を盗む少年もいた。さらに5円硬貨にセロハンテープを巻いた変造100円硬貨、糸を付けた100円硬貨を用いた事件が頻発し、電子ライターの電流を機械に当て、スイッチをオンにする知恵者もいた。

 ゲームにはパチンコのような景品はなかったが日本中が過熱した。忙しすぎる会社人間の増加、遊び相手のいない子供の増加、熱中するものを失った日常生活がブームの背景にあった。スペースインベーダーは一世を風靡(ふうび)し、人々に大きな影響を与えた。また子供の非行と浪費が問題となった。この過熱ぶりに、昭和54年6月6日、北海道江別市のイトーヨーカ堂は、子供への悪影響を懸念してスペースインベーダーを撤去し、さらに同月にはすべてのイトーヨーカ堂から撤去した。

 コンピューターの歴史は第2次世界大戦時に、米国アイオワ州立大のジョン・V・アタナソフ教授と大学院生クリフォード・ベリーが約300本の真空管からなる世界最初の電子計算機ABCマシンを製作したことから始まる。昭和20年に弾道計算用のコンピューターが実用化されたが、1万8800本の真空管を用い、重量は30トン、所要面積165平方メートルという巨大なものだった。

 日本では、最初は気象庁で使われ、昭和44年には国鉄(現JR)や大学入試の採点などで用いられた。コンピューターという言葉は国民の間ですぐに浸透したが、専門家が扱うものとの印象が強かった。テレビゲームが日本に初登場したのは、昭和47年、米国のアタリ社が開発した「ブロック崩し」だった。しかしスペースインベーダーの登場で、コンピューターがより身近になり、タイトーはゲーム機メーカーのトップに躍り出た。ほかのゲーム機メーカーも競って新商品を開発した。

 スペースインベーダーのピークは昭和54年7月で、以後ブームは沈静化していった。それとともにテレビゲームが家庭に侵入することになった。昭和58年7月15日、任天堂から「ファミリーコンピュータ」が1万4800円で発売され、家庭で気楽にゲームができるようになった。「ファミリーコンピュータ」はゲーム機であるが、このネーミングがコンピューターを身近な存在にした。2年後に発売された「スーパーマリオブラザーズ」のソフトが、テレビゲームブームに火を付け、ファミコンの累積販売台数は6291万台に達した。

 遊び相手のいない子供だけでなく、子供から大人までテレビゲームに熱中し、テレビゲームを流行させた。テレビゲームが子供の精神にどの程度影響したかは分からないが、機械との冷たいコミュニケーション、架空と現実との落差、リセットで済まそうとする人生観、暴力と殺人ゲームなど、数値では示すことはできないが、これらが子供たちに与えた影響は大きい。

 一般用のパソコンも、昭和54年8月にNECがPC-8001168000円で発売し、次第にパソコンが個人にまで普及するようになった。このようにスペースインベーダーはコンピューター文化の先駆けとなり、日本は世界のパソコンゲームの覇者となった。昭和54年2月には、世界初の日本語ワープロが東芝から630万円という高額な値段で発売されたが、数年後には各社の開発競争により30万円を割り、誰でも買える値段になった。

 パソコンとワープロの登場は研究者にとって大きな利点をもたらした。それまでの論文はすべて手書きで、教授が赤字で原稿に訂正を加えると、すべてを書き直す苦労があった。学会発表は手書きスライドから、パソコンが作るスライドへ、さらにプロジェクターによる映写へと変わった。統計も数値の入力だけで済むようになった。このように、現在のパソコン生活の原点、日本人の脳ミソを変えた原点は、スペースインベーダーだったと思われる。

 

 

 

 ロボトミー殺人事件 昭和54年(1979年)

 昭和54年9月26日午後5時過ぎ、桜庭章司(50)はデパートの配達員を装い、東京都小平市美園町の精神科医・藤井澹さん(きよし・53)宅の格子戸を開けた。「お届け物です」と言葉を掛け、出てきた藤井医師の義母・深川タダ子さん(70)を押さえつけると、刃物で脅して手足に手錠を掛け、ガムテープで目と口をふさいだ。間もなく帰ってきた医師の妻・道子さん(44)も取り押さえられ、同じように縛られた。

 桜庭は藤井医師への恨みを持ち、彼の帰宅を待っていた。桜庭は藤井医師の行動パターンを調べ、いつもは夕方6時には帰宅するはずだったが、この日は8時を過ぎても帰宅しなかった。桜庭は藤井医師の妻と母親に、これまでの人生を話しながら藤井医師の帰りを待った。しかしこの日に限って藤井医師はなかなか帰ってこなかった。

 このままでは目的は達成できず、立ち去れば警察に連絡されてしまう。そのように思っているうちに2人が騒ぎ出した。大量の睡眠薬を飲み、朦朧(もうろう)としていた桜庭は2人の首を切り殺害。物盗りに見せかけるため、預金通帳と現金46万円を奪って逃走した。桜庭はロボトミー手術を受けており、その動作はぎこちなかった。そのため同日午後10時ごろ、池袋駅の中央改札口近くで警察官に職務質問を受け、交番に連行された。

 翌27日午前2時過ぎ、同僚の送別会に出席していた藤井医師が帰宅し、妻と義母の遺体を発見。何者かが侵入し、家人を殺害して、金品を盗んだ強盗殺人と直感した。しかし殺害は藤井医師への恨みによるものであった。 

 犯人の桜庭はすでに捕まっていた。桜庭がなぜ藤井医師の家族を殺害するほど恨んでいたのか、桜庭章司の人生を振り返ってみる。

 桜庭は昭和4年に長野県松本市で生まれた。彼は貧しい家計を助けるため、工員として働きながら英語を独学で学んだ。20歳のとき、新潟電話局に通訳として就職。その後、英語力を見込まれ、米国の情報機関に通訳としてスカウトされた。彼の英語力はスラングも理解できるほどだった。

 一方、街のジムでボクシングの練習を始め、北陸社会人ボクシング大会で優勝したが、病弱な母親を看るため、新潟から松本へ帰郷することになった。松本では英語を生かす仕事が見つからず、土木作業員として飯場で働くことになった。桜庭は正義感が強く、出稼ぎの工員をいじめる入れ墨の作業員とけんかになった。また現場の手抜き工事に気付き、社長に訴えたが、社長は桜庭に酒を飲ませ、給料半年分の5万円を握らせて黙らせた。

 桜庭は松本で作家の勉強を始め、将来は作家になる夢を持っていた。だがある日、飯場のけんかで殴った相手が警察に訴え桜庭は逮捕された。事情を問われた社長も現金をゆすられたと証言したため、暴行と恐喝で懲役1年6カ月(執行猶予3年)の判決を受けた。

 昭和33年8月、ダム工事現場で働いているとき、仲間の解雇と賃金不払いをめぐって社長宅に直接交渉に行き、それが恐喝とされて再逮捕。この事件で執行猶予は取り消され、昭和3412月、長野刑務所に収監された。

 2年後の昭和36年、桜庭は出所後に上京して鉄筋工として働くかたわら翻訳の仕事を始めた。当時はテレビが普及し、力道山がヒーローになっていたころである。昭和37年5月、翻訳会社からの帰り、桜庭はたまたまスポーツ新聞を手にした。新潟の通訳時代に、米国のスポーツ情報に精通していた桜庭にとって、新聞の内容は信じられないほどデタラメだった。桜庭は新聞社に行き、間違いを指摘した。当時はプロレスやボクシングの人気が盛り上がっていたが、米国の情報は乏しかった。担当者は桜庭が事情に精通しているのに驚き、桜庭は逆に新聞社から原稿を依頼され、鬼山豊のペンネームで記事を書くようになった。桜庭はスポーツライターの草分けとして、新たなジャンルを独力で切り開いた。スポーツ評論家、作家として著名人となり、当時の月収もサラリーマンの5倍以上になった。学歴のない、社会の底辺を生きていた青年の人生に、やっと明るさが見えてきた。

 しかしここで悲劇が起きた。昭和39年3月3日、妹宅を訪れた桜庭は、母親のことで妹夫婦と口論となった。桜庭は飯場で働いていたときも、収入の半分を仕送りしていたが、それが理解されていなかった。怒った桜庭は茶だんすや人形ケースを壊した。妹の夫が警察に通報し、桜庭は器物損壊の現行犯で逮捕された。

 妹夫婦は翌日告訴を取り下げたが、志村署は桜庭を釈放しなかった。1週間留置した上で桜庭の前科を調べ、反復する暴力行為は精神疾患が原因として都立梅ヶ丘病院に連行した。精神鑑定を強制し、鑑定した女医は桜庭を「精神病質」と診断した。「精神病質」とは平均的人格から逸脱し、その異常性のために社会を悩ませる人格のことである。

 この「精神病質」という疾患概念は、現在では否定されているが、この病名がつければ精神病として措置入院させることができた。桜庭は問診も受けずに聖蹟桜ヶ丘の桜ヶ丘保養所(現桜ヶ丘記念病院)に強制入院となった。

 桜ヶ丘保養所ではロボトミーを行っていた。ロボトミーとはロボ(脳)とトミー(切る)の造語で、頭蓋骨に穴を開け、脳の一部を切り取る治療である。ポルトガルのリスボン大神経科教授エガス・モニスによって始められ、画期的治療と評価されて、モニスはノーベル賞を受賞したほどである。桜庭は、他の患者がロボトミーで廃人となっているのを知り、脳を破壊するロボトミーに恐れをなしていた。桜庭は病院の実態を知るにつれ、母親に「手術に同意しないでくれ」と手紙を出した。しかし年老いた母は「息子のため」と医者から言われ、手術に同意してしまう。

 11月2日、桜庭を担当していた藤井医師は肝臓検査と偽り、桜庭の脳を手術した。執刀医は加藤雄司医師で、ロボトミーの1種である帯回切除手術を行った。すぐにロボトミーの効果が現れ、桜庭は従順になったが、まったく別人になっていた。桜庭は子供のころから病気ひとつしたことがなく、ボクシングで体を鍛えていたが、術後は字も書けなくなっていた。ロボトミーの後遺症で手足は硬直し、感情がまひし、執筆活動の意欲さえ失った。頭痛に悩まされ、「てんかん」の発作を起こすようになった。桜庭は別人となり病院を退院した。

 そして15年の間、転職に転職を重ねたが、奈落の底を歩くような毎日であった。発作を起こすため自動車の運転はできず、建築現場で働くこともできなかった。毎晩、睡眠薬に頼り、睡眠薬で朦朧(もうろう)としていた。アパートを借りる金もなく、横浜の貴金属店に強盗に入ったが、手足がうまく動かず、店員に取り押さえられ4年の懲役刑となった。

 出所後フィリピンにいた弟の世話で、通訳としてマニラに行き、永住するつもりだった。しかし部屋に遊びに来た現地青年の中に、反体制派がいたために国外退去となった。帰国後の桜庭を支えたのは、自分の人生を転落させ、自分の肉体と精神を奪った藤井医師への復讐だけだった。桜庭は医師名鑑で藤井医師の住所を突き止め、藤井医師に謝罪文を書かせて無理心中するつもりだったが、桜庭には復讐を果たす力が残されていなかった。

 藤井医師の妻と義母の殺人で、強盗殺人、銃刀法違反など4つの罪に問われた桜庭は、1、2審で無期懲役の判決を受けた。手術や睡眠薬服用による刑事責任能力が争点となり、弁護、検察双方の要請で8年半にわたる精神鑑定が行われた。検察側は2人を殺害した桜庭被告を死刑に処すべきと控訴したが、平成8年1116日、最高裁(藤井正雄裁判長)は桜庭に無期懲役の確定判決を下した。判決文で、「死刑の選択は慎重にすべきで、本件では死刑は躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ない」と述べた。

 桜庭は加害者であったが、家庭内のトラブルから精神病院でロボトミーを強制されたことが、悲劇の始まりであった。ロボトミーそのものがこの事件を生んだのである。

 

 

 

日本坂トンネル火災事故 昭和54年(1979年)

 昭和54年7月11日、東名高速道路の日本坂トンネル(静岡県焼津市、全長2045m)の下り線、焼津側出口から480mのところで、トラックと乗用車が衝突、後続の自動車6台が次々に追突した。事故直後に漏れた燃料のガソリンに引火し、トラックの荷物の合成樹脂や揮発性油に燃え移り、トンネル内に煙が充満した。避難のため放置した車両173台が次々と炎上し、運転手たちはトンネルの灼熱(しゃくねつ)と煙で非常口を見失しなった。車両は65時間燃え続け、7人が死亡、3人が負傷する未曾有(みぞう)の事故となった。

 事故直後、トンネル入り口の電光掲示板に「火災 進入禁止」の表示が出ていた。しかしほとんどの車は止まらずに進入した。高速道路は非常時以外止まってはいけない、しかも止まれば追突される。前の車も止まらないし、掲示板は何かの間違いだろう。このような心理から、後続車が次々とトンネルに入っていった。そして前の車が止まったときにはすでに遅かった。数珠つなぎになった車が類焼し、車を捨てて逃げるのがやっとだった。

 日本坂トンネルは、東名高速道路では最も長いトンネルで、当時の道路公団は最新の消火設備を備え、トンネル内の安全性は世界最高と宣伝していた。だがこの日の事故には全く無力だった。消火後、トンネル内の車両の残骸(ざんがい)を片付けるのに10日間を要し、下り線が復旧したのは事故から60日後のことであった。

 当時、東名高速の交通量は1日約5万6千台で、乗用車が4割、トラックが6割だった。東海道の大動脈東名高速道路がいかに物流面で重要であったかが分かる。東名高速はマヒし、トラックは迂回(うかい)を余儀なくされ、貨物列車などの代替輸送が行われた。この日本坂トンネル火災事故の被害総額は約60億円で、道路では日本最大のトンネル事故となった。

 この事故をきっかけに、道路公団は消火栓やスプリンクラーの点検を行い、事故対策を強化した。さらに道路火災が発生した際には、火災発生地の市町村ではなく、インターシェンジの近くの消防署が消防車や救急車を急行させる体制に変えた。それまでは、インターシェンジのない市町村で道路火災があると、火災発生地の消防車がインターシェンジまで遠回りして駆けつけていた。さらに高速道路のトンネルには200m間隔で非常電話が設置されるようになった。

 現在、日本坂トンネルの入り口には大きな信号機があって、信号はいつも青になっているが、もし赤信号が表示されたらトンネル内での事故を考え、ハザードランプを点滅させ、停止しなければならない。

 トンネルでの自動車火災は珍しいものではない。昭和63年7月15日、広島県吉和村の中国自動車道の境トンネル(459m)で、大型トラックや乗用車11台を巻き込んだ追突炎上事故がおき死者5人、重軽傷者5人を出している。境トンネルは小規模トンネルだったので、排気ダストやスプリンクラーは設置されていなかった。現場は緩やかな下りカーブで、入り口から事故現場は見えなかった。建設省の高速道路のトンネル設置基準はAAからDまで5段階になっていたが、境トンネルはCランクで、スプリンクラーや排煙装置、テレビモニターは設置されていなかった。

 日本坂トンネル事故について、荷物やトラックを焼かれた運送業者らは日本道路公団に管理上の不備があったとして損害賠償を請求。平成2年3月、東京地裁の柴田保幸裁判長は、「公団による消防への通報の不手際、初期消火の遅れ、後続車への警告の不十分など、日本坂トンネルの安全体制は通常備えるべき安全性を欠いていた。この欠陥がなければ、延焼火災は発生しなかった」として、計約1億9000万円の支払いを公団に命じた。日本道路公団は控訴したが、平成5年6月、東京高裁は「初期消火が遅れ、消防通報やドライバーへの警告も不十分で、トンネルの安全体制に落ち度があった」として、1審同様、道路公団の責任を認め、総額約2億2000万円の支払いを命じた。

 日本坂トンネル火災から23年後に新たな悲劇が起きている。平成14年3月11日、川崎市宮前区にある日本道路公団東京管理局に男性が訪れ、応接室で総務課長代理の田中睦実さん(38)と同課員の2人にトンネル事故の補償問題を切り出した。男は補償要求を拒否されると、布袋からペットボトルを取り出し、田中さんらにガソリンをかけ、ライターで火を付け、田中さんは全身やけどの重傷を負った。男性はすぐに殺人未遂、現住建造物放火の現行犯で逮捕された。

 この男性は神戸市垂水区の六斉堂義雄(61)で、犯行直前にガソリンを購入し、日本坂トンネル事故で兄の車が燃えた損害補償の交渉にきたのだった。補償をめぐっての恨みが動機だった。六斉堂は、昭和63年に「補償として360万円出さなければダイナマイトでトンネルを爆破する」と同管理局に電話をかけ、県警に恐喝未遂容疑で逮捕された前歴があった。

 平成14年7月31日、横浜地裁川崎支部は六斉堂に対し、「青森県弘前市で起きた消費者金融放火事件にヒントを得た犯行で、相手は焼け死ぬかもしれないが、それでも構わない」という未必の故意による殺意として、懲役11年の判決を言い渡した。

 

 

 

病院長バラバラ殺人事件 昭和54年(1979年)

 昭和5411月4日、北九州市小倉北区の病院長・津田薫さん(61)が「ちょっと街へ出かけてくる。会う人がいる」と夫人に言い残して自宅を出た。津田薫さんは病院長のほか、マンション経営も手掛け、北九州市の高額所得番付で3位にランクされる資産家であった。津田薫さんは小倉のネオン街で派手に遊び、「夜の帝王」、「芸能人好きの病院長」としても有名だった。

 津田院長はその日は帰らず、翌5日の午前9時ごろ、津田院長から夫人に「高い買い物をした。現金を2000万円か3000万円を準備してくれ。車のトランクに積んで、小倉キャッスルホテルに置いてキーはフロントに預けてくれ」と電話があった。

 津田夫人は福岡相互銀行で2500万円を引き出して帰宅すると、「都合で場所が変わった。ホテル・ニュー田川に持って来い」と電話があった。夫人は指示通りに「ニュー田川」へ行ってフロント係に預けた。正午頃、ニュー田川に男性がやって来て、「津田さんから預かっているものをください」と言ったが、フロント係は「貴重品なので、預かり証がなければお渡しできません」と断り、そのことを自宅の夫人に伝えた。夫人は事件に巻き込まれたと思い警察に届けた。

 警察の調べでは、院長は失踪当日に24歳の愛人と福岡市で会っていた。愛人と院長は美術館で絵を鑑賞すると、北九州市に戻り、4時ごろに別れていた。さらに病院に出入りしている製薬会社の社員は、院長が「4日に小柳ルミ子と会うことになっているが、良いレストランが開いてなくて困っている」と言っていたと証言した。警察はこの証言から、院長がホテルの特別室とレストランを予約していたことをつきとめた。もちろん小柳ルミ子の件は架空のものであった。

 1112日午後3時頃、大分県の国東半島の沖合のノリ養殖場に漂流物が引っかかっているのを漁師が発見。海岸まで曳航して調べてみると、毛布とビニールに包まれた人間の胴体が入っていた。すぐに警察に連絡、指紋から遺体は津田薫さんと判明した。

 遺体をくるんでいた毛布にクリーニング店のタグがついていて、タグから釣具店店主の杉本嘉昭(33)が容疑者として浮上した。杉本嘉昭は院長とは交友はなかったが、院長の病院に入院したことがあった。また遺体を巻いていたロープは、柳川市の卸店から杉本の店に納入されたものであった。さらに11月4日の小倉港発・松山行きの関西汽船フェリー「はやとも丸」の乗船名簿に、杉本嘉昭の車のナンバーが控えられていた。もしそのフェリーから院長の遺体を投げ落とせば、潮流に乗って国東半島の沖合に漂着する可能性が高かった。

 さらに院長の交友関係から、スナック「ピラニア」の経営者・横山一美(27)が容疑者となった。横山一美は院長とよく飲み歩き、杉本嘉昭の友人でもあった。横山一美は院長が行方不明になってから3回、スナック「ピラニア」の絨毯を張り替えていた。昭和55229日、捜査本部は2人を恐喝未遂で逮捕。2人は院長殺害を否認したが、331日に横山が殺害を自供、その翌日、杉本も自供した。

 殺害の動機は遊興金欲しさであった。2人は高級車を乗り回し、愛人を囲い借金があったため、共謀して完全犯行を計画した。横山が杉本に、「あの院長を誘拐して脅そう。1億や2億円はとれる」と犯行を持ちかけた。そして横山は津田院長に「小柳ルミ子が、福岡市の公演を終えると、うちの店に来ることになっている。小柳ルミ子に会わせる」と持ちかけた。小柳ルミ子は地元出身で、当時27歳のスターだった。院長は何の疑いもなくその誘いに乗った。

 2人は犯行前に死体運搬用のロッカー、死体解体用のナタ、のこぎり、ポリバケツ、ニューム線、軍手などを買い、犯行当日の114日、院長は横山の店で小柳ルミ子を待っていると、杉本が入ってきて散弾銃をつきつけ、横山も匕首を手にとった。院長はポケットから75万円を差し出したが、2人は院長に服を脱ぐように命令した。すると院長は「何をするんだ。こげなことをしてタダで済むと思うのか、わしにはヤクザがついとる」と怒鳴った。

 この直後、横山が匕首で院長の胸を刺した。傷は肺に達していたが、自宅に電話をさせ、夫人から現金2000万円を奪おうとした。2人は院長に電話をかけさせて、横山がホテル「ニュー田川」に行ったが、金の受け取りに失敗したのだった。5日の正午頃、横山が院長の首を絞めて殺害。遺体をロッカーに入れてモーテルに運ぶと、遺体をバラバラに切断した。深夜1時頃に遺体を毛布にくるみ、小倉発松山行きの深夜のフェリーから遺体を国東半島沖の海に捨てた。

 裁判が始まったが、昭和57215日の求刑前日、大分県の長崎鼻沖で院長の頭蓋骨が引きあげられた。昭和634月、最高裁で2人は強盗、殺人、死体遺棄の罪で死刑が確定した。

 被害者が1人に対し加害者2人が死刑という厳しい判決であったが、計画的犯行で、院長を長時間苦しませたことから極刑となった。2人が公判中に罪をなすり合ったため、犯行に軽重の差を見出せずに2人とも死刑になった。

 

 

 

黄色ブドウ球菌食中毒事件 昭和55年(1980年)

 昭和55年4月10日、第5回くみあい家具フェアが大阪市の国際見本市港会場で開催された。その会場で主催者側が用意した幕の内幕の内弁当を食べた1915人が、下痢や嘔吐などの食中毒症状を訴え、349人が入院となった。

 くみあい家具フェアは約2000人の客で混雑し、昼に出された幕の内弁当を食べ、その1時間後からはき気や下痢を訴える客が続出した。広い会場はうずくまる人たちによって次々と埋め尽くされていった。また見学を終えて、会場から外に出た客は、貸し切りバスの中、次の観光地で下痢や嘔吐を訴えた。

 弁当や患者の嘔吐物から黄色ブドウ球菌とその毒素が検出され、保健所は黄色ブドウ球菌による食中毒と断定した。食中毒は堺市の給食業者が作った弁当だった。弁当を作った22人の調理人が調べられ、5人の指に切り傷が見つかり、このうちの数人から黄色ブドウ球菌が検出された。

 ブドウ球菌に属する黄色ブドウ球菌は、1878年にコッホが膿汁中に発見し、80年にパスツールが培養に成功した、ごくありふれた常在菌である。健康者の鼻や咽頭、腸管などに分布し、健康人の保有率は2030%とされている。ブドウ球菌は黄色ブドウ球菌と表皮ブドウ球菌の2菌種が有名だが、28菌種・10亜種に分類されている。

 最近ではメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)が、院内感染の原因として話題になっているが、黄色ブドウ球菌は化膿から敗血症まで多彩な疾患を引き起こす。食中毒は黄色ブドウ球菌そのものの作用ではなく、黄色ブドウ球菌が産生するエンテロトキシンによって引き起こされる。つまり細菌による中毒ではなく、毒素による食中毒である。

 エンテロトキシンは分子量約2万7000の単純タンパク質で、消化酵素や熱に強い。エンテロトキシンはA型からL型まであるが、A型が最も食中毒の発生数が多い。エンテロトキシンが付着した食品を食べると、約3時間後に激しい嘔吐、腹痛、下痢を伴う。症状は毒素量や個人差で違いがあるが、重症例でもだいたい1日か2日間で治る。黄色ブドウ球菌による食中毒には特別の治療法はない。エンテロトキシンが原因であるから、抗生剤を投与しても効果はなく、点滴などの対症療法を行うだけである。下痢止めは通常は使用しない。

 ブドウ球菌による食中毒の診断は、原因食品、糞便、嘔吐物から黄色ブドウ球菌を分離することであるが、黄色ブドウ球菌は常在菌なので、黄色ブドウ球菌が発見されても断定はできない。確定診断は分離した菌株のエンテロトキシン産生性とコアグラーゼ型を調べることである。また最近では、原因食品から直接エンテロトキシを検出できるエンテロトキシン検出用キットが販売されている。このように検査法は確立しているが、食事をして数時間後に症状を出せば、ブドウ球菌による食中毒と考えて間違いはない。ほかの食中毒は症状出現まで半日以上かかるからである。

 食中毒の予防は、食品製造業者と調理人への衛生教育である。手洗いの徹底、10℃以下での食品の保存、食事までの時間を短くすることである。特に手指に化膿巣のある調理人が感染源になることが多いので、そのことを周知させることである。

 

 

 

イエスの方舟 昭和55年(1980年)

 昭和55年7月3日、警視庁防犯部は、「イエスの方舟(はこぶね)」の教祖・千石イエス(千石剛賢)の逮捕状を取った。ところがその逮捕状は、意味のない紙切れになってしまった。つまり世間とマスコミが「イエスの方舟」をカルト宗教と妄想し、警察がそれに踊らされただけであった。

 この事件は東京多摩地区の若い女性が入信を機に家出し、その家族から捜索願が出されたことから始まる。教祖の千石イエスは「若い女性をマインドコントロールして、ハーレムを作っている」とマスコミは騒いだが、実際には「極東キリスト集会」という聖書研究会を主宰し、女性信者が自らの意志で共同生活をしていた。家庭や結婚に疑問を持った女性たちが、新たな生き方を求めての共同生活で、カルト宗教ではなくサークルと呼ぶに相応しいものだった。

 「イエスの方舟」とは、昭和50年に千石剛賢が「極東キリスト集会」を改名したもので、東京都・国分寺市にテントを張って布教活動をおこなっていた。自主的に家出した若い女性信者が集まった「イエスの方舟」は、聖書の教えを学びあう家族のような合法的宗教であった。しかし女性信者の家族は、娘の行動を理解できず、「娘は千石に騙されている」と思い込んでいた。

 昭和53年4月、娘を返せと迫る家族から逃れるように「イエスの方舟」は東京から集団で逃亡した。教団26人全員が大阪、神戸、長野、明石、岡山などを転々とさすらい、同年12月から福岡市内のマンションで共同生活をおこなった。そして翌3月から、若い女性信者9人が福岡市内のキャバレー「赤坂」でホステスとして働くことになった。キリスト信者がホステスとして働くことに違和感を持つかもしれないが、それは共同生活のための資金調達で、彼女らの信仰心に反するものではない。逃亡生活は2年以上にわたった。

 イエスの方舟の集団失踪を誘拐と思い込んだ家族は警察へ捜査を要請、市長へ陳情を繰り返した。これにマスコミが加勢し、昭和5412月号の婦人公論に「千石イエスよ、娘を返せ」と題した家族の手記が発表されると、「イエスの方舟」が日本中の注目を浴びることになった。マスコミは「現代の神隠し教団」と見出しを掲げ、千石イエスを極悪非道の宗教家とする記事が連日のように報道された。若い娘たちを監禁する千石イエスのハーレムと決めつけ、サンケイ新聞は昭和55年2月から、「イエスの方舟」を糾弾するキャンペーンを連載した。テレビのワイドショーでは格好のネタになり、この「現代の神隠し」事件は国会でも取り上げられた。なお千石イエスの名前は、マスコミが勝手に作り上げたものである。

 「イエスの方舟」はマスコミから中傷非難されたが、週刊誌・サンデー毎日は信者の手記をそのまま好意的に掲載した。そしてサンデー毎日は、イエスの方舟に誤解を解くように呼びかけた。心臓病をわずらっていた千石は、自分の命があるうちに誤解を解決しようと、呼びかけに応じ、熱海でマスコミの前に姿を現した。

 昭和55年7月3日、警視庁防犯部は熱海に捜査員を派遣し、捜索願が出されていた7人を保護し、幹部I人を逮捕。さらに3人の身柄を確保したが、千石イエスは心臓発作を起こし、病院に収容された。

 しかしその翌日、信者たちは記者会見をおこない「信者全員は自の意志で入信したこと、警察と家族が強制的に連れ戻そうとしていること、教団へのマスコミ報道は大きな間違いで、保護された7人は7人とも自分を保護する家庭などない」と主張した。

 女性信者たちは「中流社会の幸福を強制する親を否定して家出、宗教的な共同生活を選び、自らの価値観に見合った生活を送っていた」だけであった。事実、「イエスの方舟」は「来る者は拒まず、去る者は追わず」という信者の主体性を尊重した集団であった。女性たちは聖書を勉強しするために「イエスの方舟」にいただけで、この信者の会見から警視庁は捜査を任意に切り替え、逮捕を書類送検として検察は不起訴処分とした。

 この事件の本質は、親子の価値観の違いであった。娘たちが騙されていると信じる親の感情がエスカレートし、興味本位のマスコミが「千石イエスが若い女性を誘拐して監禁状態にしている」と騒ぎ、それに警察が振り回されたのである。しかし実際には全く違っていた。先入観、偏見、憶測、妄想が生んだ騒動であった。

 女性信者の多くは裕福なサラリーマンの娘たちであった。高度経済成長を支えた父親は、息子を一流大学から一流企業への就職することが、娘を一流サラリーマンと結婚させることが幸福への道と思い込んでいたのだった。そのため彼女らが選んだ価値観、生活を理解できなかった。

 信者は親の溺愛と過保護の中で、過度の期待による苦痛、希薄な家族関係への不満、親の価値観の押し付け、このような家庭への不満を持っていた。彼女らの家庭は幻想にすぎず、むしろ本当の家庭を「イエスの方舟」に求めていた。聖書を通して他人との壁を取り外した「イエスの方舟」は、悩める乙女たちの生活共同体であった。

 女性信者は家や世間に流されず、自分の生き方を求めていた。人生を真剣に考え、それを受け入れたのが「イエスの方舟」だった。女性信者は千石のことをいつも「おっちゃん」と呼び、千石に宗数的権威はなく、彼女らの悩みを親身にきいてくれた。

 彼女たちにとって家庭よりも「イエスの方舟」の方が自分らしく生きられる場所だった。家族に引き取られた信者たちは、自分たちの意志で再び「イエスの方舟」へ戻った。

 平成31211日、千石剛賢は78歳で死去するが「イエスの方舟」は福岡の中州で、集会所を兼ねた「シオンの娘」というナイトクラブを営み、信者たちは共同生活を送っている。クラブ「シオンの娘」のガラスの扉には「良心的なあなたのクラブ」と書かれている。「イエスの方舟」は世間からの誤解と非難を受けたが、マスコミの良識とは何なのか、家庭の幸せとは何なのか、人生はどうあるべきなのか、「イエスの方舟」はこのことを考えさせてくれた。

 

 

 

エイズ 昭和55年(1980年)

 昭和5510月から半年間に、カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)病院で患者5人がカリニー肺炎で死亡した。カリニー肺炎は極めてまれな疾患で、免疫能が低下した患者に発症することはあるが、健康人ならば発症することはない。治療薬は原因となるカリニー原虫を殺虫するペンタミジンであるが、米疾病対策センター(CDC)で管理されているペンタミジンは、過去20数年間、全米で使用されたのは2例だけであった。つまり全米で10年に1例だった患者が、半年で5人に急増したのである。

 カリニー肺炎で死亡したのは、29歳から36歳の男性同性愛者で、その詳細についてはゴットリーブらが医学雑誌「MMWR」(罹病および死亡週報1981; 30: 250-252)に発表している。これがエイズに関する最初の報告となった。

 その後、サンフランシスコ、ニューヨークでもカリニー肺炎による死亡例が報告され、患者はいずれも男性同性愛者で、カリニー肺炎以外にも、カポジ肉腫(脈管内皮細胞の増殖した腫瘍)という非常に珍しいがんを合併していることも特徴であった。

 昭和57年9月、米国厚生省はこの疾患は成人になってから免疫機能が低下することから、後天性免疫不全症候群(AIDS;acquired immuno deficiency syndrome)、通称エイズと命名した。エイズは男性同性愛者に特有の疾患で、しかも致死的であったことから、エイズを同性愛という背徳が引き起こした、現代の黒死病と呼ぶ者が多かった。

 エイズを同性愛に対する天罰として、教会は罪人として、医師は病人として、家族は何らかの欠陥者と捉えていた。エイズ患者は病苦に加え、同性愛者としての偏見、企業からは解雇などの社会的無理解に苦しんだ。

 エイズは男性同性愛者に圧倒的に多かった。それはエイズに感染した精液が、アナルセックスで肛門の傷から感染したからである。血液や体液が傷口から体内に入り感染することから、同性愛者以外にも、麻薬の回し打ち、血液製剤を用いた血友病患者、輸血歴のある者にもエイズは拡大していった。エイズは輸血や性交(膣、肛門、口)に加え、エイズの母親から嬰児に垂直感染することが分かった。患者は4年間で1450人になった。

 エイズは感染から1〜2週間後に風邪様の症状をきたす。これは発熱、咽頭痛、倦怠感、疲労感などの軽い症状で、この症状は2〜3週間で消失し、その後5年から10年間は症状を示さない。このようにエイズは長い潜伏期を経て発症するが、この潜伏期間中はエイズとは言わず、無症候性キャリアと呼ぶ。無症候性キャリアが全身のリンパ節の腫脹、発熱や下痢、倦怠感、体重減少などの症状をきたすとエイズと診断され、多くは1年以内に死亡した。死因のほとんどはアリニー肺炎、結核などの日和見感染による。経過中にカポジ肉腫などを合併し、脳神経細胞も影響を受け多彩な症状を起こした。

 昭和6010月2日、ロック・ハドソンがエイズのため自宅で死亡した。ロック・ハドソンは「ジャイアンツ」「武器よさらば」「夜を楽しく」「素晴らしき休日」などの名作に出演したハリウッドの人気俳優だった。ロック・ハドソンは昭和59年にエイズを発症し、フランスや米国の病院に入院加療していたが、症状は改善せず自宅で療養していた。

 ロック・ハドソンは自分がエイズであることを公表し、このことが大きな話題となり、彼の死は全米に大きな衝撃を与えた。それまでは同性愛の疾患との偏見から、米国政府はエイズ対策には消極的であったが、レーガン大統領はロック・ハドソンの死に哀悼の意を声明し、エリザベス・テーラーは「エイズ患者救済パーティー」を開催、「全米エイズ研究基金」を設立した。ロック・ハドソンの死をきっかけに、全米がエイズ撲滅に立ち上がった。

 昭和59年に6000万ドルだったエイズ対策予算が、61年には1億2600万ドルに、63年には9億ドルに増額された。移民者にはHIV(エイズウイルス)検査を義務付け、陽性者の入国を不許可とした。さらにはHIV感染者の差別を禁ずる法案、薬物中毒者の感染防止対策、エイズ研究への巨額の予算投入、エイズを理解するための教育用小冊子を1億700万部配布した。

 このような政治の動きの中で、研究者たちはウイルス発見のため熾烈な競争を展開した。昭和58年、フランスのパスツール研究所のモンタニエが患者から未知のウイルス(LAV−1)を分離。翌59年には、米国立がん研究所のギャロがウイルス(HTLVIII)を分離し、このウイルスをエイズの原因と主張した。

 ここで大きな問題が生じた。ウイルス解析の結果、モンタニエとギャロが分離したウイルスが同じ構造だったのである。モンタニエは、自分の見つけたウイルスをギャロに送っていて、モンタニエは「ギャロが見つけたエイズウイルスは、自分たちがすでに発見していたウイルスである」と発見の優先権を主張した。

 この騒動は、エイズの抗体検査から得られる膨大な特許権、エイズウイルス発見の栄誉がかかっていたため、米仏間で激しい争いとなった。昭和60年、米国立衛生研究所(NIH)は「ギャロが発見したウイルスはモンタニエが送ったサンプルに由来する」と断定したが、これを公表せずに、両国政府は双方が栄誉と利益を分け合うことで妥協した。

 昭和61年、エイズウイルスはHIV(ヒト免疫不全ウイルス:human immunodeficiency virus)と命名され、HIVがエイズを引き起こすメカニズムが研究された。

 すべての生物、すなわち人間から細菌までの遺伝子はDNA(デオキシリボ核酸)によるが、エイズウイルスの遺伝子はDNAではなくRNA(リボ核酸)である。遺伝子としてRNAを利用しているのは、成人T細胞白血病ウイルス、日本脳炎ウイルスなどわずかであった。

 エイズウイルスは体内に侵入すると、免疫機能に必要なリンパ球のCD4細胞に感染、CD4細胞に感染したウイルスは逆転写酵素によりRNAからDNAに変化し、CD4細胞の遺伝子DNAに組み込まれる。ウイルスは長い時間をかけて免疫の役割を果たすCD4細胞を破壊し、その結果、免疫力が低下してカリニー肺炎などの感染症を発症させ死に至った。

 多くの細菌やウイルスは、感染しても症状が改善すれば、他人に感染することはない。しかしエイズウイルスは例外で、感染するとCD4細胞にエイズウイルスが組み込まれ、一生涯身体から消えずに他人に感染させる。

 エイズウイルスに感染していても潜伏期にあるキャリアは、無症状のため検査を受けず、自分がエイズキャリアと知らずに他人に感染させてしまう。キャリアは自覚症状はないが、エイズウイルスに対する抗体を持っているので血液を検査すれば診断ができる。エイズ検査と呼ばれているのはこの抗体検査のことである。

 エイズウイルスの感染力は弱く、握手や食べ物からうつることはない。通常のキスでは感染せず、キャリアとの性交でも感染頻度は100回に1回程度である。感染力は弱いが、複数のパートナーを持てば感染率は高くなる。

 致死的疾患エイズが、なぜ人類の前に突然現れたのか、当初は謎であった。エイズが初めて発見されたのが米国だったことから、遺伝子組み換え実験によって作り出された生物兵器の失敗作とうわさされた。刑務所の受刑者を使って、刑期短縮を条件にHIVの生体実験を行っていたが、エイズの潜伏期間が長かったため効力なしと判断され、受刑者たち(キャリア)を出所させてしまったと推測する者もいた。しかし保存血液のエイズ検査を行った結果、1970年代の血清からHIV抗体が見出され、つまり1970年代当時からエイズが存在していたのだった。

 エイズは人間特有の疾患ではなく、エイズ同様のウイルスが、ネコやサルにも存在していた。ヒトのHIVはサルの免疫不全ウイルス(SIV)と似た構造をしていた。つまりHIVの祖先ウイルスは約200年前のアフリカで突然変異を起こし、人間に感染するHIVが生まれたとされている。アフリカで最初のエイズ患者が発見されたのは米国より3年遅れたが、アフリカの風土病だったエイズが、交通手段の発達により世界的に広がったとされている。ヒトにエイズをもたらすHIVは、米国や欧州、中央アフリカ、日本などに見られるHIV−1型と、西アフリカに多いHIV−2型に分類され、両方のRNAの塩基配列はわずかに違っている。

 ウイルス感染予防の基本はワクチンであるが、エイズワクチンは開発されていない。その理由はエイズウイルスが体内で容易に変異するからで、またエイズウイルスは多数の変異種があるからである。

 WHO(世界保健機関)の統計では、平成16年には世界中で310万人がエイズで死亡し、490万人が新たにエイズウイルスに感染している。感染者の総数は3940万人(地球人口の1.1%)とされ、特にサハラ以南のアフリカに患者が集中している。インドでは460万人が、中国では84万人が感染している。

 エイズは同性愛者の病気とされてきたが、異性間でも広がっていて、東南アジアやアフリカでは売春婦の半数がHIV陽性でエイズ蔓延の要因となっている。エイズ撲滅には、貧困層への薬剤提供が必要であるがまだ十分ではない。エイズの予防にはエイズに関する基礎知識や危機感が重要であるが、若者の間ではまだ希薄なのが現状である。

 昭和59年から、日本におけるエイズの動向が調査され、平成元年からはエイズ予防法に基づいて発生動向がまとめられ発表されている 日本人の性行動が、初体験の低年齢化、不特定多数との性交渉の増加、性行為の多様化、売春利用の増加などから、エイズは増加している。日本人のコンドームの使用率は高いが、不特定の相手の場合の使用率は低い。日本人のコンドーム使用は避妊が目的で、性感染症予防という意識が低いためである。特に若年層にこの傾向が強く、クラミジアや淋病といった性感染症が増加していることから、若年層のエイズ拡大が心配される。性感染症に罹患している場合、エイズに同時感染している可能性が高い。

 平成4年9〜10月の日本でのHIV感染者やエイズ患者の数は87例で、そのうち58例(67%)は外国人であった。女性の90%が外国人で、セックス産業で働く者がほとんどである。政府が危機感をあおりながら、実数はそれほどでもないことから、オオカミ少年現象によりエイズ予防への意識は低下している。

 日本のエイズ感染者(キャリアー)は、平成17年7月3日までの累積では、外国籍者を含め6938人(異性間の性的接触2654人、同性間の性的接触2839人、静注薬乱用36人、母子感染30人、その他134人、不明1245人)で、エイズ発症者は3445人(異性間の性的接触1481人、同性間の性的接触908人、静注薬乱用23人、母子感染17人、その他93人、不明953人)である。これとは別に、凝固因子製剤による感染者は1435人に達している。

 エイズ死者数は、平成元年2月から平成17年6月30日まで797人で、血液製剤による感染死者は579人である。かつてエイズは発症すれば数年以内に死亡し、エイズの診断は死の宣告に等しかった。しかし治療法の開発により、予後は大きく改善している。現在、エイズ治療は抗HIV薬を3剤以上併用するのが基本となっている。抗HIV薬とは、核酸系逆転酵素阻害剤、非核酸系逆転酵素阻害剤、プロテアーゼ阻害剤で、3剤併用とはそれらを組み合わせた治療法である。エイズが黒死病と恐れられたころは、病院でのエイズ患者の診療拒否、手術拒否などが問題になったが、現在ではエイズ患者への偏見は少なくなっている。

 

 

 

天然痘撲滅宣言 昭和55年(1980年)

 昭和55年5月8日、世界保健機関(WHO)は天然痘(smallpox)の根絶を高らかに宣言し、種痘の廃止を各国に勧告した。人類の英知によって、かつて何億人もの死者を出した天然痘を地球上から完全に葬り去ったのである。天然痘は人類にとって最も破壊力の強い伝染病だったが、地球上から根絶された最初の感染症になった。厚生省はWHOの根絶宣言を受け、種痘を予防接種から正式に削除した。

 天然痘は天然痘ウイルスによる感染症で、痘瘡(とうそう)と呼ばれていた。天然痘はヒトからヒトへ感染するが、ヒトの天然痘は他の動物内では生存できないという特徴があった。人間の病気として定着したのはおよそ1万年前と推定されている。

 天然痘はインドの地方病だったが、インドから世界へ広がったとされている。紀元前1156年に亡くなったエジプト王ラムセス5世のミイラの顔には、天然痘による痘痕(あばた)が見られ、ミイラから天然痘ウイルスの粒子とDNAが検出されている。2000年前のインドの仏典、中国・周朝の文献にも天然痘の記載が見られ、さらに紀元165年、ローマ帝国では全人口の3割を天然痘で失ったとされている。その後、十字軍の遠征により、天然痘は欧州全土に広がり、年間平均40万人が天然痘で死亡し、欧州ではペストとともに恐怖の的になっていた。

 アメリカ大陸にはもともと天然痘は存在しなかったが、1519年にスペイン人が天然痘を持ち込み約350万人のメキシコ人が死亡、これがインカ帝国滅亡の原因とされている。近年になっても、1967年にはインド、パキスタン、アフリカ大陸で250万人の犠牲者を出している。

 日本には、仏教伝来とともに中国から天然痘がもたらされ、奈良時代から流行を繰り返していた。史書「続日本紀」には、天然痘によって多数の死者が出たことが書かれている。737年の流行では、累々たるしかばねが道を埋め尽くしたと記録され、天然痘の犠牲者は庶民だけでなく、藤原不比等は4人の息子を天然痘で奪われ、そのため政務が停滞するほどであった。さらに聖武天皇の妃(きさき)、光明皇后の兄弟4人が天然痘に倒れ、その冥福を願って建てられたのが法隆寺の夢殿であった。天然痘の猛威を前に、仏教にすがるしかなかった。そのため聖武天皇は仏教への信仰を深め、全国各地に国分寺が建立された。後醍醐天皇、後鳥羽天皇も天然痘に感染し、平安時代の蜻蛉日記には天然痘の詳しい症状が記載されている。このように天然痘は日本人を含む全世界の人たちを苦しめてきた。

 天然痘の伝染力は極めて強力である。例えば、日本脳炎は日本脳炎ウイルスの感染を受けても症状を示すのはごくわずかであるが、天然痘は感染すればほとんどが発症する。天然痘ウイルスは人の唾液に大量に含まれ、せきやくしゃみで空中に散布され、皮膚のかさぶたにもウイルスが含まれ、患者の寝具や衣服からも感染した。

 天然痘はごくありふれた病気で、日本では「お役」と呼ばれ、天然痘は人生における通過儀式的疾患で、そのため子供をいつ失うか分からないという親の心配が常にあった。「天然痘にかからないうちは、女性は美人とは言えない」というシチリアの格言があるほどである。

 天然痘は感染から約10日の潜伏期を経て悪寒戦慄を伴った高熱が出現し、4日目ころから全身に発疹が現われる。発疹は水疱と膿瘍(水ぶくれの中に膿のたまった発疹)が特徴で、膿瘍はかさぶたとなり瘢痕となった。この瘢痕がいわゆる「あばた」である。天然痘の致死率は小児で5割を超え、成人でも2割だったので、その致死率の高さから恐れられていた。

 天然痘への予防法や治療はなく、人々は天然痘の猛威の前に無防備のままであった。ところがインドや中国の地方では、天然痘患者の膿やかさぶたを前もって接種する予防法が古くから伝承されていて、この民間療法は人痘接種法と呼ばれていた。

 欧州では牛の乳搾りが牛の天然痘(牛痘)にかかると、一生天然痘にかからないとされていた。この方法を応用したのが、英国の片田舎の医師エドワード・ジェンナー(17491823年)による種痘である。天然痘によく似た病気が牛、豚、馬などに見られ、それぞれ牛痘、豚痘、馬痘と呼ばれていたが、それらに罹患すると天然痘にかからないという乳搾りの話が、ジェンナーの種痘開発のきっかけになった。

 1789年、ジェンナーは天然痘にかかった豚の膿を生まれたばかりの息子エドワードに接種した。次いで天然痘患者から採った膿を接種したが、エドワードは感染しなかった。エドワードは2歳、3歳時にも天然痘患者の膿を接種されたが平気だった。1796年、ジェンナーは牛の天然痘の膿を8歳の少年フィリップの腕に接種し、6週間後にヒトの天然痘の膿を接種し、天然痘が発症しないことを確認した。

 ジェンナーは豚や牛の天然痘を接種すれば天然痘を予防できることを発見した。つまり弱毒性のウイルスで免疫を獲得すれば、毒性の強いウイルスの感染を受けても発症しないことを見いだしたのである。

 ジェンナーは計12回、23人に及ぶ実験を繰り返し、その成果を論文にして英国立協会に提出した。論文は却下されたが、ジェンナーは「牛痘接種による発疹の原因と効果」と題した本を出版し、ワクチンの安全性と有効性が知れ渡るようになった。この本は世界中で翻訳され、ジェンナーの種痘は何千万人、何億万人もの生命を救うことになる。当時は感染症の原因が細菌やウイルスであることを知らず、免疫のメカニズムも知られていなかった。ジェンナーは、息子と少年を使った人体実験によって、全人類を苦しめてきた天然痘のワクチンを開発、ジェンナーによって天然痘への人類の反撃が始まったのである。

 天然痘の予防ワクチンを種痘というが、小児では5割以上だった天然痘の致死率が、種痘を受けると致死率は1%以下になった。また種痘ワクチンの安全性が高かったことから、抵抗なく使用されるようになった。ワクチンという名前は、後に狂犬病ワクチンを開発したパスツールがジェンナーの業績をたたえ命名したもので、ワクチンはラテン語で雄牛を意味している。

 日本に種痘が導入されたのは江戸時代の中期で、金沢で天然痘が流行した際に、長崎からワクチンが運ばれたことが記録されている。天然痘は明治中期まで猛威を振るっていたが、明治維新の10年前に「お玉が池」に種痘所ができ、種痘所が徐々に広まっていった。明治42年に種痘が法律で定められ、種痘を受けていない者には罰金刑が課せられた。このように定期的な種痘が繰り返され天然痘は激減した。

 終戦後、外地からの引き揚げ者によって天然痘は一時的に流行し、昭和21年には3000人の死者が出たが、この流行はすぐに沈静化し、昭和30年以降、日本では天然痘の発症は認められていない。欧米や日本では天然痘は撲滅されたが、アジア、アフリカではまだ猛威を振るい、年間1300万人の患者が発生していた。この天然痘の根絶に力を注いだのが、当時厚生省職員だった蟻田功さんだった。

 昭和37年、蟻田さんはアフリカで子供たちが次々と天然痘の犠牲になっていることに衝撃を受け、WHOの天然痘根絶計画に参加するが、メンバーはたった1人だけで予算もなかった。だが蟻田さんの情熱により40人の男性が集結し、人類最強の敵に戦いを挑むことになる。蟻田さんは世界天然痘根絶対策本部長となり、天然痘根絶のプロジェクトが計画された。

 昭和42年、WHOは天然痘を10年以内に全世界から根絶するため天然痘根絶計画を作った。この根絶計画は天然痘の流行国である開発途上国にワクチンを集中的に投入することであった。患者を徹底的に探し、患者が見つかった周辺の住民に種痘を行った。各国の協力を得て50万人を動員し、総額1億ドルの予算で「天然痘封じ込め作戦」が展開していった。

 世界中のスタッフが、根絶を目的に一致団結し、向こうに村人がいる限り、スタッフは悪路でも前に突き進んだ。この作戦により南米、インドネシア、西アフリカと根絶地域が拡大していった。そして昭和5210月、ソマリアで天然痘と診断された23歳のアリ・マオ・マランさんが、この地球上で最後の患者となった。このようにして、人類共通の敵である天然痘を撲滅することができ、蟻田さんは日本版ノーベル賞の日本国際賞を受賞している。

 天然痘の封じ込め作戦が成功したのは、天然痘ウイルスがほかのウイルスと異なった性質を持っていたからである。1つはヒトだけに感染し、ほかの動物には感染しないという特性であった。このことはヒトからヒトへの感染を防止すればウイルスは存在できないことを意味していた。また天然痘は感染を受けると必ず皮疹が出現するので、天然痘の感染予防には症状を持つ患者だけを相手にすればよかった。さらに感染から回復した患者にはウイルスが存在しないこと、天然痘ウイルスが突然変異を起こしにくいことも撲滅に有利であった。

 天然痘封じ込め作戦が成功を収め、撲滅宣言を出す直前に、思わぬ事件が起きた。昭和53年8月16日、英国のバーミンガム大医学部で天然痘が突然出現したのだった。同医学部の研究施設に勤務していた女性が天然痘に感染、風邪のような症状からわずか5日後に死亡した。彼女が勤務していたフロアの1階下の研究室で天然痘ウイルスを用いた実験が行われて、実験用の天然痘ウイルスが部屋から漏れて女性に感染したのだった。天然痘ウイルスを用いて実験していた研究者は責任を感じ、彼女の後を追うように自殺した。

 昭和541026日、国際天然痘根絶委員会は天然痘の根絶を報告。55年5月8日、ジュネーブの国連ホールでWHOは高らかに「天然痘の根絶」を宣言した。人類の英知が、数限りない命を奪ってきた感染症を葬り去ったのである。

 現在、天然痘ウイルスは実験用として米疾病対策センターとロシア・ウイルス標本研究所の2カ所に液体窒素の中で厳重に保存されている。天然痘ウイルスの全遺伝子はすでに解明され、天然痘ウイルスを処分するか保存するかの議論がなされている。

 天然痘が再び流行した場合、ワクチン生産のために保存すべきとする考えと、生物兵器としてテロに利用される可能性から天然痘ウイルスを焼却すべきとする考えが対立している。天然痘は1人でも感染者が出れば爆発的に広がる。さらに保存しやすいこと、培養しやすいこと、空中散布だけで容易に感染することから、細菌兵器としては最も使いやすいウイルスだった。平成5年の大みそかに天然痘ウイルスは処分されるはずであった。しかし処分するかどうかの結論は保留のままとなっている。いずれにしても、かつて人類を悩ましてきた天然痘はすでに考古学の分野になった。

 

 

 

ポカリスエット 昭和55年(1980年) 

 昭和55年4月1日、大塚製薬から「ポカリスエット 」(250mL120円)が発売された。ポカリスエットは、これまでの清涼飲料や栄養補給飲料とは異なる新しいタイプの健康飲料水で、発汗により失われた水分と電解質をスムーズに補給することをうたっていた。ナトリウムやカリウム、カルシウムなどの電解質が身体の体液に近いバランスで含まれ、体にやさしいイオン飲料水と宣伝された。このポカリスエットの発売は、飲料水を「おいしさ志向から、健康志向」へと大きく転換させることになった。

 大塚製薬はすでに「オロナミンC」(昭和40年)を発売していた。オロナミンCの開発は注射薬の研究過程で生まれたビタミンCのシロップがきっかけで、シロップの味をもとに注射用の120ccの瓶に入れて売り出し大ヒットした。

 ポカリスエットの開発は思わぬことから始まった。昭和48年、開発研究員の播磨六郎(後の大塚食品会長、平成1111月死去)がメキシコ出張中に激しい下痢を起し、現地では生水を飲めず、医師から大量のトニックウオーターを飲むよう勧められ、この体験から、もっと身体に合った吸収のよい飲み物はできないかと考えたのが開発のきっかけとなった。より人間の身体に合った、吸収のよい飲み物の研究に着手したのだった。

 実際に飲料水を飲んで血液を調べると、水道水、生理食塩水、5%ブドウ糖溶液よりも、塩分と糖の両方を含んだ飲料水の方が吸収は早く、血液量が増すのだった。小腸からの水分吸収に塩分と糖が関与していたからである。

 成人の身体の約60%が水分で、水分にはナトリウムなどの電解質が含まれている。通常の生活では、1日当たり2500mLの水分が汗や尿として排出され、排出されると自然にのどが渇き、水が欲しくなる。ところが水分を取る場合、真水だけでは体液が薄まるだけで渇きを癒やすことはできない。特にスポーツで汗をかく場合、汗の量が体重の2%までならば真水でもよいが、それ以上になると血液が希釈されて電解質濃度が低下する。夏のスポーツ時に起きやすい熱中症は、脱水と同時に電解質の低下が原因とされ、熱中症の予防には水分の補給よりもイオン飲料水が効果的であった。

 点滴注射薬(輸液)のトップメーカーである大塚製薬は、もともとブドウ糖液、生理食塩液、電解質輸液を製造していた。この輸液のノウハウをもとに「飲む点滴液」への応用が進められた。スポーツ飲料として、下痢などでの水分補給のために、「飲む点滴液」の開発を目指したのである。

 ドリンクの成分は点滴と同じように電解質をバランスよく含むようにした。大量の汗をかいたとき、汗ばむ程度のとき、それぞれで失われる電解質は異なるが、その成分を検討して、より吸収しやすい飲料水を試作した。

 播磨六郎ら開発チームは、徳島の研究所の近くにある眉山に何度も登り、毎日のようにサウナに通い、汗をかいては試作品を飲み、飲み心地や後味などを調べた。この研究で1000点以上の試作品から、最終的に数種類に絞られ、最後に残った課題は味であった。社内で「うまい」と言ったのは、播磨と当時の大塚明彦社長の2人だけだった。ようやく販売が決まったのは、研究から2年半後のことだった。

 ポカリスエットが発売されると、口にした人たちからは、「なに?これ!」「まずい!」という声が聞かれたが、その反応には新しい味への驚きによるものだった。ポカリスエットのネーミングは、ポカリは特別な意味はなく、語感が軽くて明るい響きをもつため採用された。スエットは汗のことで、身体と水分の関係を象徴させる言葉として用いられた。変わった名前であるが、1度聞いたら忘れないネーミングの良さがあった。

 当時の清涼飲料は、12%程度の糖分を含んでいたが、ポカリスエットはその半分の6.2%で、甘くもなく辛くもなく新しい飲料水だった。当時、清涼飲料水の缶の色はなぜか青以外だったため、青色の缶のポカリスエットは新鮮に受け止められた。ポカリスエットの売り上げは昭和55年に90億円、平成10年には1600億円とロングヒット商品とになっている。

 ポカリスエットは時代に合わせ、宣伝のキャッチフレーズを変えている。発売から4年間は「アルカリイオン飲料」、59年から3年間は成分が体液に近い意味で「アイソトニックドリンク」、61年からはイオンを供給するという意味の「イオンサプライ」であった。さらに平成元年には、飲めば体と気持ちがリフレッシュされるとして「リフレッシュメント・ウオーター」、6年から14年までは「ボディ・リクエスト」、14年からは「イオン・サプライ・ドリンク」となっている。このようにキャッチフレーズは変わったが、ポカリスエットの中身は変わっていない。

 ポカリスエットのスポーツドリンクのシェアは、平成12年までは5割を超えていたが、14年に「アクエリアス」(日本コカ・コーラ)が5440万箱で1位、ポカリスエットは4590万箱の2位となった。ちなみに3位は「DAKARA」(サントリー)の2180万箱、4位がオロナミンCの1860万箱だった。清涼飲料は年間1000種類近い新商品が登場しているが、その3分の1は1年を待たずに消えてしまう。その中で、ポカリスエットは発売から25年たっても新鮮さを失わず、スポーツドリンクの定番を守り続けている。

 ところで多くの医師はポカリスエット500mLの値段が300円なのを知っているが、同じ大塚製薬が出している点滴の値段を知らない。点滴は直接血液に入ることから安全性が重要で、点滴によって多くの人命が救われたが、それなのに大塚製薬の「点滴ラクテック500mL」の値段は135円である。いかに点滴の値段が安いかが分かる。つまりラクテックをはじめとした薬剤は国家統制価格で、ポカリスエットなどの飲料水は資本主義による市場価格であることが値段の違いに表れている。

 

 

 

富士見産婦人科病院事件 昭和55年(1980年)

 昭和55年9月11日、埼玉県警は所沢市・富士見産婦人科病院の北野早苗理事長(55)を無免許の医師法違反で逮捕。翌日の朝日新聞朝刊は「健康なのに開腹手術、無免許経営者が診断、次々に子宮を摘出」という衝撃的な見出しでこの事件を全国に報じた。

 地元の所沢市では、以前から「富士見産婦人科病院が乱診乱療のでたらめを行っている。女性の子宮を食い物にしている」とうわさがあった。周辺の医療関係者たちは、警察の捜査がいつ入るのかを注目していた。

 北野理事長は医師免許がないのに診療していたことから逮捕されたが、関係者が抱いた最大の疑惑は、北野理事長の診断で、医師たちが行った手術が妥当なものかどうかであった。この事件は北野理事長から「子宮筋腫、卵巣膿腫で手術をしないと命が危ない」と告げられた患者が、念のために防衛医大などを受診、「子宮や卵巣は正常で手術の必要はない」と診断されたことが発端であった。しかもこのような患者は1人や2人ではなかった。被害者は最初の起訴だけでも66人に達していて、この事件がいかに多くの被害者を生んでいたかが想像できる。

 北野理事長は医師の資格がないのに医師を装い、超音波診断装置を用いて多くの患者を診察した。子宮筋腫、卵巣膿腫、卵巣がんなどと診断し、必要のない子宮や卵巣の摘出手術を医師に指示していた。北野理事長は、妻の千賀子院長(54)やほかの医師たちを牛耳り、目的は医療ではなくすべてが金儲けだった。北野理事長が撮影した超音波検査の写真が鑑定されたが、何が写っているのか判別できない写真ばかりであった。

 この事件が報道されると、所沢保健所やマスコミに患者からの告発が殺到した。北野理事長から「あなたの子宮は腐っているので手術が必要」「卵巣がはれてぐちゃぐちゃだ。卵巣が破裂して命取りになる」。このように言われた患者の証言が相次いだ。

 北野理事長は、患者を脅して手術に同意させ、健康な臓器の摘出を医師に指示していたことが疑われた。富士見産婦人科病院は約50床の病院であるが、同規模の産婦人科病院が行う手術数の4倍の手術をしていて、病名のほとんどが子宮筋腫であった。埼玉県衛生部がまとめた調査では、富士見病院で異常と言われ、他の病院で正常と診断された患者は243人であった。

 摘発後の9月20日、患者たちは所沢市内で「富士見産婦人科病院被害者同盟」を結成。被害者同盟は北野理事長と妻の千賀子院長、勤務医らを傷害罪で埼玉県警に告訴した。10月1日には、不必要な臓器摘出手術など乱診乱療による被害者は1138人に及んだ。

 1117日、埼玉県警は千賀子院長ら医師5人を医師法違反幇助(ほうじょ)罪容疑で逮捕。女子職員を保健婦助産婦看護婦法違反容疑で書類送検とした。マスコミは「医療の名に値しない極めて悪質な乱診乱療」と連日報道した。1118日、警察庁、国税庁、厚生省の3省庁は、富士見産婦人科病院の乱診乱療を効率的に対処するため3省庁連絡会議を設置した。

 12月3日、埼玉県は富士見産婦人科病院と医師に対し、保健医療機関の取り消しと保険医登録取り消しの処分を行い、同病院は病院休止届を出すことになった。また被害者同盟は富士見産婦人科病院のでたらめぶりを防衛医大に訴え、その協力を求めた。防衛医大の若手医師からも告発の動きがあったが、防衛医大が所沢に進出するとき、地元の反対を押し切った経緯があったため、防衛医大は地元の問題には口を出さない方針を立てていた。さらに所沢医師会は「北野理事長やほかの医師は医師会員ではないので、追及することはしない」と逃げ腰であった。

 当時の日本は、高度経済成長の時代である。埼玉県所沢市も東京のベッドタウンとして急速に発展し、10万人だった所沢市の人口が10年間で23万人に増加していた。新しい住民にとって、あるいは若い女性にとって、昭和42年に建てられた6階建てのデラックスな富士見産婦人科病院は近代的病院と映った。

 富士見産婦人科病院は最新の医療機器を導入し、派手な宣伝と口コミで多くの患者を集めていた。所沢に引っ越してきた若い女性たちは、高級な外観と宣伝に引き寄せられた。病院内には美容室やアスレチック室、ラウンジなどがあって、一流ホテルを思わせる豪華な設備であった。高級志向をくすぐられた新住民を中心に患者が集まった。

 富士見産婦人科病院は、表向きは近代的病院と映っていたが、医師の資格のない北野理事長が超音波装置を使い、健康な婦人に適当な病名をつけて患者を増やしていた。

 北野理事長は乱診乱療を繰り返しながら政治にも顔を出し、多額の金銭を政界にばらまいていた。当時の斎藤邦吉厚生相、渋谷直蔵元自治相、清水徳松社会党衆院議員、山口敏夫新自由クラブ幹事長などの衆院議員。さらには国家公安委員長、所沢市長、県会議員、市会議員、また共産党議員にも多額の政治献金を出していた。斎藤厚生相は、総額4000万円の政治献金を受け取っていたことが報道され、大臣を辞任した。

 多額の政治献金は、金権政治の現状と事件をもみ消すための賄賂(わいろ)を感じさせた。事件が発覚する前、患者が所沢市役所に「不当な手術をされた」と苦情を言ったが、市役所は北野の影に脅え調べようとしなかった。北野理事長は所沢市長に500万円を献金、市長選では対立候補を恫喝(どうかつ)して辞退させていた。所沢市政に顔が利き、准看護学院の審議会の委員になり、市の有力者として実力をつけていた。

 この事件の最大の焦点は、患者が受けた治療が適切だったかどうかである。正当な手術かどうかが、鑑定医師団の間でも意見が分かれ、捜査は難航した。被害者同盟は北野理事長と北野院長ら医師5人を傷害容疑で告訴した。

 昭和561130日の朝日新聞は、警察が押収した臓器40人の大半は手術の必要がなかったと報道した。昭和57年3月14日、埼玉県警は勤務医だった2人の医師を傷害罪容疑で書類送検としたが、その1年半後の昭和58年8月19日、浦和地検は埼玉県警が立件した傷害罪すべてを不起訴処分にしたのだった。浦和地検が不起訴処分にしたのは、「手術の同意書にサインをしていること、症状があって病院を受診したのだから病気があっても不思議ではないこと、たとえ正常な臓器を摘出しても医師が総合的に判断して手術をしたのだから、医師の裁量権の範囲内」という理屈であった。現在ではこのような理屈が通用するはずはないが、これが当時の地検の判断で、患者が求めていた傷害容疑の立件はなされなかった。

 昭和63年1月29日、浦和地裁は医師法違反などで北野理事長に懲役1年6カ月(執行猶予4年)、千賀子院長に懲役8カ月(執行猶予3年)の有罪判決を下した。東京高裁もこれを支持したため刑が確定した。裁判官は千賀子院長に「医療を私物化し冒涜(ぼうとく)するもの」と激しく非難したが、判決は執行猶予が付くものだった。また北野理事長にも「担当医は患者の症状などから総合的に手術を決め、超音波検査をそのままうのみにしたのではない」とした。

 事件が発覚してから、埼玉県警はカルテ、レントゲン、臓器など大量の証拠品を病院から押収していたので、患者は自分の資料を見たくても見ることができなかった。裁判でも埼玉県警が押収した摘出臓器の鑑定結果は公表されず、被害者が最も重視していた手術の正当性は裁判の争点にはならなかった。

 昭和56年5月、患者ら67人は「正常な子宮や卵巣を摘出された」として病院関係者と県と国を相手に総額14億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。平成11年6月30日、18年間もの審議の上、東京地裁・伊藤剛裁判長は被害者の主張を認め、病院側に5億1400万円の支払いを命じた。18年間、被害者の女性たちが戦ってきたのは、病院ぐるみの医療犯罪、治療に名を借りた傷害行為を証明したかったからである。極めて悪質な乱診乱療を民事でも厳しく指弾したのだった。

 さらに集団犯罪的な乱診乱療であるとして、北野院長や理事長だけでなく、富士見産婦人科病院の勤務医についても、全員が共同不法行為の責任を負うべきとした。全摘出を受けた患者は1000万円、一部摘出患者は300万円を基準に賠償額を認定した。国と県については「予見可能性がなく、責任は認められない」と述べ、賠償請求は棄却された。

 病院は5億1400万円の賠償金の支払いを命じられたが、病院はすでに廃院し、北野夫妻は破産宣告しており、彼らから賠償金が支払われる見込みはなかった。賠償金を取れるとしたら当時の勤務医からであったが、勤務医たちは控訴した。勤務医の弁護人は控訴の理由として「判決では乱診乱療としているが、5人の元勤務医は正当な診察や手術をしており、まじめに勤務していた。国や県の責任は問わずに、経営者側は破産者となり、元勤務医だけが実質的に責任を負わされるのは不当」とした。

 しかし平成16年7月13日、最高裁は4人の勤務医の上告を棄却し、提訴から23年を経てやっと決着した。1人の勤務医は控訴審中に死去していたが、死亡した医師の遺族が和解に応じ1億5000万円を支払った。

 平成17年3月2日、厚生労働省の医道審議会は北野千賀子元院長(78)の医師免許取り消し、元勤務医ら3人を2年から6カ月間の医業停止とした。事件が表面化してから4半世紀後の行政処分であったが、北野千賀子元院長は処分取り消しを求める訴えを東京地裁に起こし、処分の是非は法廷で争われることになった。

 なお千賀子元院長は帝国女子医専(現東邦医大)を昭和24年に卒業。勤務医4人は東京医専(現東京医大)26年卒、女子医大27年卒、慈恵医大28年卒、弘前大医学部39年卒であった。

 勤務医は、医学雑誌に掲載された求人広告を見て就職したのだが、北野理事長に操られながら勤務していたと想像される。彼らは医師として、あるいは人間として、どのような気持ちで人生を送ったのだろうか。富士見産婦人科事件の共犯者というよりも、ある意味での被害者だったのではないだろうか。

 

 

 

ダニロン事件(昭和56年)

 新薬が発売されるには、まず製薬会社が薬剤の有効性と安全性を検査し、その資料を中央薬事審議会に提出。提出された資料を中央薬事審議会が審議し、その有効性が認められれば厚生大臣が新薬として製造を許可することになる。つまり新薬の製造許可は製薬会社が提出する資料が正しいことが大前提になっている。しかし、もし製薬会社が都合のよい資料だけを提出し、都合の悪い資料を隠したらどうなるであろうか。

 この新薬申請制度を根底から揺るがす事件が起きた。大鵬薬品が厚生省の許可を得て、すでに昭和569月から販売していた消炎鎮痛剤「ダニロン」に発ガン性の疑いが持たれたのである。ダニロンは消炎鎮痛剤で慢性関節リウマチ、腰痛性疾患、変形性関節炎などに用いられていた。元々はスペインで開発された薬剤であるが、大鵬薬品が化学的な修飾を加え、新薬として売り出していた。

 ダニロンは他の薬剤と違い、慢性関節リウマチなど長期間にわたって飲み続ける薬剤である。長期服用の薬剤は安全性が最も大切であるが、大鵬薬品は「ダニロン」を厚生省に新薬として申請した際、動物実験で「マウスの肝臓に結節が生じたこと」を意図的に隠していた。またサルモネラを用いた変異原性試験で突然変異原性を認めたのに、認めなかったと逆のデータを提出していた。ダニロンは体内で分解すると発ガン作用を持つホルマリンを発生するが、そのことも隠していた。大鵬薬品はこれらのデータを意図的に隠し、新薬申請をおこない、中央薬事審議会で承認されて発売になった。この事件は我が国で初めて発覚した新薬データ捏造不正事件となった。さらにデータ隠しに加え、承認認可を急ぐため動物実験とヒトへの投与実験が平行して行われていた。

 このダニロンの発ガン性を告発したのは、大鵬薬品の社員たちであった。征露丸でお馴染みの大鵬薬品は資本金2億円で、年間900億円の売上げがあった。だが社員は低賃金で長時間労働を強制され、社員寮は監視され、労働組合の結成には社員の配転や解雇などで妨害されていた。そのため会社に労働組合はなく、社員と会社との対立が繰り返されてきた。このようなときダニロンの発ガン性が社内で問題になった。社員はダニロン錠の販売中止を会社に要求したが受け入れられず、「黙っていれば殺人になる、家族がダニロンを飲んだらどうするのか」そのような考えが社員を奮い立たせた。

 会社の研究者といえども、研究者としての自負があった。北野静雄(初代労組委員長)ら研究員が中心となり労働組合を発足させ、「ダニロンの販売中止と、ダニロンの隠されたデータを公表せよ」と会社に要求した。

 昭和561010日、「発ガンの疑いを隠して販売」と毎日新聞がダニロンの発ガン性をスクープし、一挙に注目を浴びることになった。

 会社側は「データを提出しなかったのは、科学的に信憑性の少ないデータなので、報告するに値しないと判断した」と発表。その翌日には「発ガン実験としては投与量が多すぎ、不適切な実験」であったと釈明した。そして安全性に問題はないが、混乱をさけるためにダニロンの販売を中止して回収すると発表した。

 この事件で、大鵬薬品では多くの研究員が退社し、内部告発を支持した労働組合員は会社から激しい弾圧を受けることになった。労働組合への会社側のすさまじい報復が始まった。組合無視、脱退強要、配置転換、出張、隔離勤務、昇格差別、懲戒処分、さらには暴力事件などなりふり構わぬ組合潰しがおこなわれた。

 この事件は、製薬会社が新薬の安全性を隠したまま申請をおこなった初めての事例で、製薬会社の資料だけで新薬を審査する薬事行政の信頼性を根底からくつがえすことになった。この事件をきっかけに、厚生省は薬事行政の根本的改革を迫られ、それまで提出義務のなかった不都合なデータも企業に提出させる義務を課することになった。

 大鵬薬品の労使紛争は11年にわたったが、最終的に会社は労働組合と和解し、和解協定には「組合活動の保障、組合員差別および懲戒処分の撤回、自社製品に問題があれば労使の話し合いの場を設ける」ことになった。このように両者は和解したが、大鵬薬品の組合つぶし攻撃で80人いた組合員は8人に減っていた。

 大鵬薬品工業にとって次なる事件が待っていた。それはマイルーラ事件である。マイルーラは膣用避妊薬で「性交渉前に膣に挿入し、侵入した精子を溶かして殺す薬剤」である。女性週刊誌などで大々的に宣伝され、手軽に入手できることから、女子高校生や中学生までも使用するほどであった。「自然な感じをそこなわない」、「女性が自主的に避妊できる」、「使用法が簡単」、「後始末の必要がない」などよいことずくめであった。しかし昭和58年、日本消費者連盟と「薬を監視する国民運動の会」の高橋晄正が、マイルーラの毒性を告発、朝日新聞に掲載され社会問題となった。

 マイルーラの主成分はノノキシノール(非イオン系界面活性剤)で、いわゆる合成洗剤であった。そして宣伝文句とは裏腹に避妊効果が少ないこと。強い刺激性がありウサギの実験では膣粘膜に炎症を起こすこと。大鵬薬品は、自然に排泄するとしているが、ノノキシノールは膣から吸収され体内に残留すること。発ガンを疑う論文が発表されていることなどであった。さらに決定的だったのは、発ガン作用疑惑だけでなく、胎児や乳児にノノキシノールの代謝物が移行して、胎児毒性の可能性を警告する論文が外国で発表されたことだった。

 この事実を知った労働組合は会社を追求し、開発の経緯の開示を要求、消費者とともに闘う姿勢をみせた。しかし会社は開発の経緯を明らかにせず、労働組合長を出勤停止処分、懲戒処分としたため裁判で争われることになった。

 この問題は「きれいな水と命を守る合成洗剤追放全国連絡会」、厚生省交渉実行委員会などで取り上げられ、「マイルーラの毒性を考える会」が結成されたが、期待に反し、会社は強気の姿勢で販売を中止しなかった。

 アメリカでは、同系列の非イオン界面活性剤であるオクトキシノールを使用して、口蓋裂、手の異常、手の欠如、左鎖骨形成不全等を伴った奇形児が誕生。このことが昭和61年にアメリカの裁判で争われ、連邦裁判所は因果関係を認め、製造販売を行ったオルソ社に賠償命令をだしていた。

 さらに新たな問題として環境ホルモンが浮上してきた。主成分のノノキシノールは体内で代謝されるとノニルフェノールになるが、ノニルフェノールは農薬に含まれる環境ホルモンとして知られており、内分泌攪乱(かくらん)作用があるとされていた。当時の厚生省はようやく重い腰を上げ、大鵬薬品に「マイルーラ」の主成分ノノキシノールの代謝実験を命じた。

 マイルーラは内部労働組合の運動、市民運動、殺精子剤裁判の判決、環境ホルモン問題などから、売上が販売当初の3分の1に落ちこんだ。そのため大鵬薬品は平成33月、安全性に問題があるわけではないが製造を中止するとした。女性主導型避妊薬として18年間市販していた「マイルーラ」を大鵬薬品は断念したのである。

 

 

 

パリ人肉食事件 昭和56年(1981年)

 昭和56611日夕方5時ごろ、パリの郊外・ブローニュの森の湖畔でトランクに詰められた女性のバラバラ死体が発見された。その当時のパリではバラバラ事件が10件以上も連続していて、ほとんどが迷宮入りになっていた。そのためこの事件の第1報を聞いたパリ警察の刑事は事件解決の長期化を予想した。ところが刑事の予想に反し、今回の事件は発生から4日目に犯人逮捕となった。このバラバラ事件が早期解決したのは、目撃者がいたからである。

 夏時間の夕方5時のパリはまだ太陽が高く、ブローニュの森には多くの人たちがいた。そして犯人が大きな旅行用カバン2個を運ぶのを、中年のアベックが目撃者していたのだった。アベックの証言によると、犯人は子供のように小柄な東洋人で、アベックに顔を見られた犯人は、あわてて近くの茂みにカバンを投げ捨てたということであった。不審に思ったアベックがカバンをのぞくと、切断された女性のバラバラ死体が入っていた。

 この事件が報じられると、警察に犯人らしい男性を現場近くまでタクシーに乗せたという運転手から連絡があった。運転手はパリの高級住宅地のアパートからブローニュの森まで犯人を乗せ、旅行用カバンの運搬を手伝ったと証言。犯人のアパートを警察官が張り込み、犯行から4日後の615日、日本人留学生・佐川一政(32)が殺害容疑で逮捕された。

 逮捕時、佐川一政はまったく抵抗しなかった。身長155cm、体重35kgと子供ぐらいの体格で、手が小さすぎて手錠が抜けてしまうほどで、そのため手錠なしで連行された。佐川は素直に殺人を認め、さらにこの殺人事件の信じられない全貌をしゃべりはじめた。この事件は単なるバラバラ殺人事件ではなかった。まさかと思えるほどの衝撃を与えた。

 佐川一政のアパートの家宅捜査をおこなったパリ警視庁は、佐川の部屋のなかで驚くものを発見した。部屋の冷蔵庫を開けると、そこに12個の人間の肉片らしいものがビニール袋に包まれていた。後にこれは殺された女性の鼻、唇、乳房、尻、太股などの肉片と判明、さらにフライパンには、料理された肉片が食べ残された状態で置いてあった。犯人の佐川は「殺害した女性の死体をナマで食べたあと、残りの一部を3回にわけてビフテキのように焼いて食べた」と平然と答えた。誰もがまさかと半信半疑であったが、全貌が分かるにしたがいこのカニバリズム(人肉嗜食)は世界を震い上がらせた。パリの新聞には「カニバリル・ジャポネ(人食い日本人)」の文字が大きく紙面を飾った。

 佐川一政はパリ大学のサンミッシェル分校に通う自費留学生であった。博士論文のテーマは「川端康成とヨーロッパ20世紀前衛芸術運動の比較研究」で、フランスに留学していながら、なぜか川端康成とシェークスピアを研究していた。そして犠牲になったのは、同じパリ大学に学ぶオランダ人留学生レネ・ハルテベルト(25)さんであった。レネさんは裕福なユダヤ人の家庭の出身で博士号を取るためパリに来ていた。レネさんはブロンドの美人であったが、佐川に特別な感情を持っていなかった。レネさんが佐川のアパートを訪ねたのは、ドイツ近代表現主義の詩人ベッヒャーの詩をドイツ語で朗読して欲しいと頼まれたからである。佐川はレネさんに高額の謝礼を渡して詩の朗読を依頼していた。レネさんは何度か佐川宅を訪問して詩を朗読、佐川はそれをテープに吹き込んでいた。

 佐川一政は帰国後に室蘭の新設短大の講師に内定していた。そのためレネさんを妻にして、帰国したかったのである。レネさんは佐川に何の感情も持たなかったが、佐川はレネさんに恋愛感情を抱いていた。佐川はアパートでレネさんに愛を告白、関係を迫ろうとしたがレネさんは笑いながら相手にしなかった。これに逆上した佐川が、詩を朗読するルネさんの背後から、消音装置付22口径ライフル銃でレネさんの頭を撃ったのだった。

 関係を拒まれての犯行であれば、片思いによる衝動的殺人と解釈することができる。だが佐川一政は消音装置付のライフル銃を持っていたのである。護身用ならば消音装置付のライフルは必要ないはずである。護身用ならば発射音が大きいほうが危険を周囲に知らせることになるからである。さらに解体用の電気ノコギリを用意していた。このことは計画的殺人を疑わせるに十分であった。

 佐川一政は息絶えたルネさんを屍姦すると、死体を浴室に運び、用意していた6本の料理用ナイフと料理用電気ノコギリで遺体を解体し、解体の経過をフイルム2本分の写真に残していた。佐川は料理の経験がないのに、料理用ナイフで切り取った尻、大腿部などを生で食べていた。さらに3回にわたって肉の一部をビフテキのように焼いて食べていた。

 佐川一政は完全犯罪をもくろんだ。レネさんの遺体から部屋のカギを手に入れると、彼女のアパートに入り、残されていた自分の手紙を処分した。そして腐敗の早い内蔵をゴミと一緒に捨て、犯行翌日、旅行カバンを2つ購入してタクシーを呼んだ。小柄な佐川はレネさんの遺体を運べず、タクシーの運転手を部屋にいれてタクシーまで運んでもらった。この事件の経過は、計画的殺人を思わせたが、カニバリズムを精神異常、狂気とする雰囲気に占められていた。

 恋愛関係のもつれ、片思いが殺害の動機とされたが、佐川一政は後に「レネさんを殺したかったのではなく、愛しているゆえに食べたかった」と供述している。カニバリズム(人肉嗜食)は霊魂を継承する宗教的理由から、かつては未開人がおこなっていた。また日本でも病気への治療がなかった時代に肝臓の肝が効くという迷信があり殺人事件がおきている。それは昭和23年、愛知県新川町で紫斑病に冒された23歳の男性が生肝(キモ)をとる目的で殺人を犯した事件だった。この愛知県の事件では殺害したものの、肝臓がどれなのか分からず食べてはいない。

 世界的にみて、人が人を食べるというカニバリズムは数件の報告しかない。アンデス山脈の飛行機事故や海難事故で死体を余儀なく食べた例があるが、これらは緊急避難的行為であってカニバリズムとはいわない。

 佐川一政の動機は、恋愛感情を馬鹿にされた憎しみなのか、愛ゆえにすべて征服したかったのか、食べることにより自己同一化を図りたかったのか、あるいは屍姦していることから異常な性的願望だったのかもしれない。しかし佐川の供述によると、小学生の時にグリム童話を読み、それ以降人肉嗜食に関心を抱いていたと述べている。また自宅に売春婦を連れ込み、人肉食の願望を果たそうとしたことも自白している。

 それまでの佐川一政の女性関係は、カネで買うことのできる娼婦だけだった。佐川の部屋からは娼婦の裸の写真がたくさん押収された。普通の女性から相手にされず、身体的コンプレックスと重なり、カニバリズムという異常な犯行を引き起こしたのだろうか。また川端康成の小説「眠れる美女」、「片腕」、「死体紹介人」にカニバリズムを臭わせる部分があることから、川端康成の崇拝者であったこともうなずける。

 佐川一政は裕福な家庭に育ち、祖父は朝日新聞の論説委員で、父親は東証一部上場の大手水処理会社の社長であった。中学生になると小説を読みふけり、ベートーベンやヘンデルを好んで聞いた。佐川はシェークスピアの「テンペスト」を修士論文のテーマにして、逮捕された時には出版直前だった。佐川の父親は東証一部上場企業の社長であったが、この事件で辞職している。

 警察の取調べによると、人肉食の願望は小学生の頃からで、16歳のときに人肉食の願望を精神科医に相談したが相手にされなかった。和光大学3年のとき35歳のドイツ人女性宅に忍び込んで逮捕されたが、父親が示談金を払い告訴を取り下げてもらっている。

 佐川一政は生まれた時は極端な未熟児で、大人になっても小学生なみの体格であった。この身体的な虚弱さゆえに過保護に育てられ、肉体的コンプレックスから、身体の大きな白人女性が好みだった。パリ留学中も親から大金が送金されていたが、フランス語は書けず、友人は少なく、プライドの高いフランス女性は佐川を相手にせず、フランス人の排他的性格が佐川の孤立感を深め、肉体的脆弱に加え精神的にも衰弱していた。犠牲となったオランダ人はフランス人のような排他性はなく、陽気で明るい性格だった。

 佐川一政は警視庁の調べを受け、サンテ刑務所に収容された。パリ刑事裁判所は18ヶ月にわたり精神鑑定を行い、犯行時は心神喪失状態であったとして佐川一政を無罪にした。佐川はアンリ・コラン精神病院へ入院を命じられた。レネ・ハルテベルトさんの家族は控訴したが不起訴処分となった。当時、「人を殺せば死刑になるが、そのあと食べれば無罪になる」と話題になった。

 佐川一政が入院中、劇作家の唐十郎が脚本の下調べと言って佐川と3ヶ月にわたって文通をかわした。佐川が「母親が傷つくから小説にするのはやめて欲しい」と頼んだが、唐十郎は手紙の内容を「佐川君からの手紙」として出版、32万部を売り上げ芥川賞を受賞している。

 佐川一政は昭和59年国外追放となり、エールフランス機で日本に帰国。成田から救急車で世田谷区の精神病院・都立松沢病院に収容された。警察当局は殺人罪の起訴を検討したが、フランスの判事が証拠提出を拒否したため起訴は見送られた。日本の医師も異常を認めず、昭和6010月に都立松沢病院を退院。刑事事件も問われず、保護観察もないという中途半端な社会復帰となった。

 佐川一政は犯行体験を素材にした処女作「霧の中」を執筆し20万部を超えるベストセラーとなった。この「霧の中」は一人のジャーナリストが佐川を訪ねてくるという形式をとり、パリ人肉食事件そのものを書いた小説である。その後も作家活動を続け「カニバリズム幻想」など12冊以上の本を書き、本が売れたため一部マスコミは文化人扱いの姿勢をとった。佐川は小説家としての創作の野心を燃やしたが、この事件が忘れ去られると共に、佐川も忘れられた。また生活の面倒をみてくれていた父親が風呂場で倒れ寝たきりとなり仕送りが途絶えた。佐川一政はその名前が障害となり職につけず、佐川は自己破産し生活保護を受けて生活をしている。

 

 

 

丸山ワクチン 昭和56年(1981年)

 丸山ワクチンは、日本医科大皮膚科の丸山千里(ちさと)教授が開発した抗がん剤である。長野県生まれの丸山教授は、旧制中学時代に肺結核で2度の闘病生活を送ったことから、結核の治療に情熱を持っていた。昭和19年から丸山教授は人型結核菌を何度も連続培養し、その抽出物から水溶性の多糖類を主成分とした丸山ワクチンを開発した。昭和21年に、皮膚結核に対してワクチン療法を開始し、皮膚結核やハンセン病に優れた効果が示された。丸山ワクチンはこのように、病院の皮膚科では皮膚結核の治療薬として使用されていた。

 丸山教授は以前から、「結核やハンセン病患者にがん患者が極端に少ない」ことに気づいていて、「結核菌のある成分ががんを死滅させる」と考えていた。そのため人の結核菌から抽出したワクチンに抗がん作用があると予想し、結核ワクチンでがん患者を治せないかと研究を重ねていた。

 皮膚科にはがん患者は少なかったため、昭和39年に内科と外科の医師の協力を得て、丸山ワクチンをがんの末期患者に投与してみた。その結果、余命わずかとされていた末期がん患者の中で、がんが消失する症例が出てきたのである。丸山ワクチンが投与された患者から、このような奇跡的な体験談がたくさん集められた。末期がん患者が自然に治癒する確率はほぼゼロであり、丸山ワクチンの効果は大きな反響を呼んだ。

 昭和41年5月、丸山教授は丸山ワクチンの効果を日本皮膚科学会雑誌に発表。まだデータが不十分だったことから丸山教授の報告は控え目だったが、マスコミが丸山ワクチン騒動を引き起こした。丸山ワクチンで親戚を助けてもらった小松製作所の河合良成元社長が協力した。丸山教授はマスコミを嫌ったが、河合氏は「現実に苦しんでいる人たちを1日も早く助けるのが務めではないか」と説得した。

 東京都港区のホテルオークラで記者会見が行われ、新宿区の社会保険病院外科の梅原誠一医師が23例の末期がん患者に丸山ワクチンを使用し、大部分の症例で自覚症状の改善が見られ、有効は13例と報告した。そのほか数人の医師が有効例に言及した。梅原医師が報告した23例の末期がん患者例は、昭和42年の日本外科学会総会でも発表された。

 この会見以後、丸山ワクチンを求める医師や患者が急増することになる。昭和4910月、イタリアで開催されたフローレンス国際がん学会で、末期がんに丸山ワクチンが有効とする成績が発表され、1日300人以上の患者が東京・千駄木の日本医科大に列をなすようになった。

 丸山ワクチンはBCG(牛型結核菌)とは違い、人の結核菌から抽出したものである。抗がん剤は副作用の強いものばかりだったが、丸山ワクチンは結核菌の有毒成分を取り除いていたので副作用はなかった。がんの治療としては、外科療法、放射線療法、化学療法、免疫療法などがあるが、丸山ワクチンは免疫療法に相当した。

 がん細胞はもともと生体の一部の細胞から発生したもので、細胞が何らかの原因で染色体に変化を起こし、分裂を繰り返してがんになった。このがん細胞の一部は免疫によって排除されるが、生き残ったがん細胞が増殖した。がん細胞を異物と認識すれば、自己の免疫能が働いて排除される。免疫療法とは「体内のがんへの免疫力を強め、がん細胞の増殖を押さえて消滅させること」だった。身体のどの部位に発生したがんにも応用できた。

 丸山ワクチンを投与すると、がん細胞の周囲にリンパ球がたくさん現れ、がん細胞を取り囲んで委縮させた。また丸山ワクチンの投与によりインターフェロンが産生され、インターフェロンによって活性化されたマクロファージががん細胞の増殖を押さえる機序も確認された。

 丸山ワクチンによってがんが消えた、あるいは余命が延びた患者は数え切れないほどであった。しかし薬剤として厚生省の認可が下りず、ゼリア新薬工業が後ろ盾になって丸山ワクチンの製品化に乗り出した。もちろん丸山ワクチンはがんを100%治す魔法の薬ではなかったが、患者の多くは丸山ワクチンに最後の望みを託す末期がんの患者であった。

 丸山ワクチンは、厚生省の認可が出なかったため、その使用には煩雑な手続きが必要だった。患者とその家族は主治医に承諾書を書いてもらい、日本医科大で購入した丸山ワクチンを主治医の元へ持ち帰り注射してもらった。認可されない薬剤ゆえに苦労が多かったが、わらにもすがりたい患者は、日本全国だけでなく海外からも日本医科大へ集まってきた。

 その一方で、丸山ワクチンの効果を疑問視する医師もいた。昭和4610月、癌研付属病院内科医の吉江尚は丸山ワクチンを投与した35例では改善例は見られなかったと医事新報に報告している。このように丸山ワクチンの効果をめぐる賛否両論がぶつかりあった。

 昭和51年7月、丸山教授はKKベストセラーズから「丸山ワクチン」という一般書を出版し、20万部を超えるベストセラーとなった。丸山ワクチンの名前は有名になったが、それと反比例するかのように、医師や学者たちの印象は悪くなった。医師が医学書や新聞に書く場合は高名な医師と受け取られるが、一般本を出版する場合は医師たちに白眼視されるのが常だった。

 丸山教授が「他の抗がん剤と併用すると治療効果が損なわれる」と説いたことも反発を招いた。丸山教授はワクチンが正常な細胞を刺激して、がん細胞への抗体をつくるというメカニズムを考えていたので、他の抗がん剤を使用した場合には、正常な細胞も壊れてしまうので併用療法には反対だった。

 丸山ワクチンはもともと丸山千里教授の手作りで、茶色の瓶に詰められていた。それを第一製薬がアンプルにして、ワクチンの配布を手伝っていた。第一製薬にしてみれば、丸山ワクチンが製品化されれば、膨大な収入が得られるとの目算があった。ところが丸山教授が製品化の決意を伝えると、予想に反して、第一製薬はその申し出を断ったのである。第一製薬は、がんセンター、癌研究会から「丸山ワクチン効果なし」の報告を受け、認可は困難としたのだった。そして、それまでのワクチンの配布も断ってきた。

 第一製薬が丸山ワクチンから手を引き、次にゼリア新薬工業が手伝うことになった。ゼリア新薬は製造だけでなく、基礎研究や臨床研究にも同時に取り掛かった。基礎研究では協力する学者が多かったが、臨床研究は進まなかった。丸山ワクチンと聞いただけで拒否反応を持つ医師が多かった。大病院の臨床医たちは、ほとんどが大学の系列に属し、勤務医たちは大学教授や学会評議員の無言の圧力を感じていた。丸山ワクチンの臨床研究は、すなわち教授に逆らい、がん研究の主流から外されることを意味していた。臨床医を説得するゼリア新薬は苦戦の連続であった。

 昭和5111月、ゼリア新薬は丸山ワクチンの製造承認の申請を厚生省に提出、厚生省は丸山ワクチンを抗がん剤として認めるかどうかの審議を始めた。丸山ワクチンは、それまで10万人以上のがん患者に投与されていたが、学問的にその有効性は定まっていなかった。

 昭和56年、この丸山ワクチンの効果をめぐる長年の論争が頂点に達した。それは厚生省が4年越しの丸山ワクチンの効果判定に結論を出す年だったからである。丸山ワクチンを有効とするグループは活発に承認を働き掛け、国会議員も超党派で動いた。

 ところが昭和56年8月14日、厚生省の諮問機関である中央薬事審議会は「提出されたデータからは有効性を確認できず、現時点では承認することは適当でない」とする最終答申書を村山達雄厚相に提出した。この答申書は丸山ワクチンを無効としたのではなく、「丸山ワクチンの医薬品としての有効性を確認するためには、引き続き試験研究を行う必要がある」と結論を先送りしたのだった。厚生省は丸山ワクチンを薬品としては認めなかったが、全額自己負担ならば使用可能とした。そして製造元のゼリア新薬に、このまま製造を続けるようにと提案した。患者の強い要望による玉虫色の判断であった。

 丸山ワクチンは何万人もの患者に投与されていたが、国はその有効性、無効について結論を出さなかった。丸山ワクチンの認可は、薬剤としての有効性よりも、むしろ医学界における政治的駆け引きが大きかった。丸山ワクチンと同じ免疫抑制剤として、「ピシバニール」(中外製薬)と「クレスチン」(呉羽化学)がすでに承認されていて、ピシバニール、クレスチンの中央薬事審議会における承認過程の不透明が問題になっていた。

 ピシバニールとクレスチンが認可された後、薬事審議会は認可の基準を上げ、丸山ワクチンを除外しようとしたのだった。従来の基準ならば、丸山ワクチンは間違いなく認可されていた。クレスチンは申請から認可までわずか1年で、しかも審議はたったの3回だけだった。ピシバニールも認可まで2年であったが、丸山ワクチンは5年間に3回の追加資料の提出を求められ、比較臨床試験まで強要され、データに不備がないのに、審議だけが延々と引き延ばされた。そしてその結果が継続審議であった。

 これは当時、医学界の大御所であった元大阪大総長(平成2年死去)の関与が大きかったとされている。元大阪大総長は免疫学の第1人者で、丸山ワクチンが人型結核菌だったのに対し、元大阪大総長は牛型結核菌のワクチンでがんの免疫治療を研究していた。いわば、政治力の強い医学界のボスが丸山教授の競争相手だった。元大阪大総長は医学界における文部省の補助金分配に絶大な力を持ち、丸山ワクチンを擁護する学者には補助金を出さずに干していた。

 さらに丸山ワクチンを審議した中央薬事審議会・抗悪性腫瘍調査会の座長は、元大阪大総長の友人である元癌研癌化学療法センター所長だった。元癌研癌化学療法センター所長はクレスチンの開発に携わっていた。つまり自分が開発したクレスチンを、薬事審の委員として自分で審査していたのである。

 このことが国会で問題になり、丸山ワクチンを医薬品として承認しなかった審議会への不満が高まり、非公開の審議方法も問題になった。その結果、丸山ワクチン審議にかかわった102人全員が辞任することになった。元癌研癌化学療法センター所長は「クレスチンの発売後に、新基準に変えたのは、丸山ワクチンを認可させないためであった」と後に認めている。

 丸山ワクチンが認可されなかった理由の1つに、丸山ワクチンの製造元が中小メーカーのゼリア新薬だったことが挙げられる。ゼリア新薬の社長はまじめな性格で、厚生省に一切根回しをしなかった。そのため、政・官・産・学の癒着が丸山ワクチンの前に包囲網として立ちはだかった。

 丸山ワクチンは抗悪性腫瘍剤としては承認されなかったが、厚生省はがんの放射線治療に伴う白血球減少症の抑制薬「アンサー20」として認可した。「別件逮捕」ならぬ「別件承認」であった。アンサー20は丸山ワクチンを20倍に濃縮したもので、アンサー20を利用すれば患者やその家族が丸山ワクチンを入手するための面倒な手続きを省くことができた。一部の病院ではアンサー20を利用した丸山ワクチン治療が行われている。

 丸山ワクチンの人気は衰えず、丸山ワクチンの投与を受けた患者はすでに40万人を超え、年間6000人近い新規患者が投与を受けている。厚生省は丸山ワクチンの有効性の結論を出さないまま、患者に配慮し3年間の有償治療薬として、3年間の期限が切れるたびに使用延長を繰り返し、このようなことは薬事行政では異例中の異例であった。

 平成4年3月6日、丸山教授は丸山ワクチンの評価が定まらないまま90歳で死去。丸山ワクチンの有効性は依然として不明のままであるが、丸山ワクチンは有償治験薬として無期限の延長が決定され、現在もがん患者の治療に使われている。

 丸山ワクチンががんに効果があるのかどうか。多分、丸山教授が手作りでワクチンを作っていた最初のころは、抗がん剤としての有効だったのだろう。しかし生産量を増やしたため、あるいは時間の経過とともに結核菌が変化し、最初の有効性が低下したのではないだろうか。このように考えれば、理屈に合っているように思われる。

 

 

 

日航機逆噴射墜落事件 昭和57年(1982年) 

 昭和57年2月9日の朝、羽田空港の天候は、ほとんど雲はなく視界は極めて良好だった。福岡発羽田行きの日本航空DC8型旅客機は、高度500メートル、速度240キロで着陸体勢に入った。しかし午前8時44分1秒、旅客機は突然失速、急降下して滑走路手前約300メートルの東京湾の海面に突っ込んだ。墜落現場は水深1メートルの浅瀬だった。

 同機には乗務員8人、乗客166人が乗っていたが、この事故で24人が死亡、149人が重軽傷を負った。事故機は衝撃で機首部分が折れ、胴体部分に食い込んだため、機首をなくしたような輪切りの状態でテレビに映し出された。この事故で亡くなられた人たちは、墜落による外傷もあるが、むしろ座席に挟まれ、あるいは重傷のため身動きができず水死した者が多かった。救命活動は墜落直後から行われ、乗客、乗務員の多くが救助されたが、操縦桿を握っていた機長(35)が事故発生時から行方不明だった。

 航空管制官や乗客の証言から、墜落の直前に機体が異常に降下したことが分かった。そのため機長の操縦ミスによる事故が疑われた。ところが肝心の機長の姿は見当たらなかった。そのため「機長死亡確認」「機長の生死不明」の報道が5時間にわたり交錯した。だがこれは日航が仕組んだ機長隠しだった。機長はほかの負傷者とともに羽田東急ホテルに搬送され、後に慈恵医科大に収容されていた。

 機長は、事故機に負傷者が残っているにもかかわらず、乗客や客室乗務員よりも早く救命ボートに乗って現場を去っていた。羽織っていたカーディガンが胸の機長マークを隠していたため、誰も機長に気付かなかった。日航側はこの機長の不可解な行動を知りながら、「機長死亡説」を故意に流し、機長と副操縦士(33)から事情を聴取していた。

 事故から3日目、ようやく日航側は記者会見を行い、墜落事故の真相を明らかにした。日航の高木養根社長は席上、墜落の原因について、「着陸直前の高度500メートルで、機長が自動操縦から手動操作に切り替え、全エンジンの出力を最低にした。さらに機体のスピードを落とすためエンジンを逆噴射させた」と述べた。機長が空中で突然逆噴射のレバーを引き上げたため、減速した旅客機が海上に突っ込んだのである。これを裏付けるように、事故機の逆噴射のレバーは引き上げられたままであった。逆噴射とは飛行機が着陸する際に、滑走路の作動距離を短くするために、エンジンの排ガスを前方に噴出させることで、一種のブレーキとして使われていた。

 この逆噴射を行った機長は「心身症」の病歴があり、副機長に降格した後に機長に復帰していた。いわゆる精神の異常をきたした機長の行動がこの事故の原因だった。事故前日にも、飛行機を急上昇、急降下させていたことが乗務員の証言で分かっていた。

 事故発生直後から、この機長の担当医だった聖マリアンナ医大の精神科助教授はテレビ出演を繰り返し、機長の病名が「心身症」であること、さらにこの聞き慣れない病気の説明をとうとうと繰り返した。しかし多くの精神科医は、助教授の説明する機長の症状は、心身症ではなく、「統合失調症(精神分裂病)」であると直感していた。このことが指摘されると、マスコミに浮かれていた助教授はマスコミを避けるようになり姿を消した。

 機長は5年前から幻聴、被害妄想、異常行動があって、この症状は心身症ではなく明らかに統合失調症だった。機長は「自宅に盗聴器が仕掛けられている」「家の周りをうろつくやつがいる」と警察に届け、機内で急に笑い出すなどの奇行を繰り返し、精神科に通院していた。研修医でも統合失調症と分かるような症状なのに、主治医は心身症と診断していたのだった。心身症とはストレスなどの心理的要因から来る身体の異常で、明らかな誤診であった。

 日航乗員健康管理室の精神科医も、主治医である助教授の診断を疑わず、心身症の診断のまま機長を治療していた。機長の妻は、機長の異常行動について健康管理室の精神科医に相談したが無視されていた。後に行われた精神鑑定でも、機長の病気は心身症ではなく統合失調症と診断され、都立松沢病院に収容された。

 聖マリアンナ医大助教授と健康管理室の精神科医が下した誤診について、その責任が追及されたが、結局不問にされた。日航の乗員管理機構上の不備も指摘されたが、責任追及までには至らなかった。

 この墜落事故は、機長が着陸直前にエンジンを逆噴射させるという信じ難いものだった。フライトレコーダーには、墜落直前にマイナスGが記録されていた。事故時の操縦室の様子もボイスレコーダーに残っていて、副操縦士が「何をするんだ。機長、やめてください」と操縦桿を引き戻そうとして叫んだ声、墜落後に機長が「やっちゃった」とつぶやく声が記録されていた。

 この事件で、「逆噴射」と「心身症」が流行語になった。救助に来たボートに乗っている機長の薄笑いの写真が週刊誌に掲載され話題を呼んだ。

 機長の精神障害が原因とされた航空事故は世界でも例がなく、日航機逆噴射事件は航空機事故史上極めて特異なケースとなった。機長は統合失調症のため刑事責任は問えず、不起訴処分となった。

 この事故で死亡した乗客の遺族には、ホフマン方式により日航から補償額が支払われた。精神障害の機長を乗務させた日航の責任は重いが、この事件で最も重要なのは、統合失調症を心身症と誤診した医師の責任である。

 

 

 

川崎病 昭和57年(1982年)

 昭和36年1月5日、東京・広尾の日赤中央病院(現日赤医療センター)の小児科に、4歳3カ月の男の子が入院してきた。高熱、頸部のリンパ節腫脹、手足の硬性浮腫、眼球結膜は充血し、口唇は赤く腫れ、舌にはイチゴのような赤いブツブツが見られた。皮膚には不定形の発疹が見られ、1週間後に手足の指先の皮膚がむけた。

 猩紅熱(しょうこうねつ)に似ていたが、皮疹の性状が違っていた。猩紅熱の特効薬ペニシリンを投与しても効果は見られず、咽頭培養、血液培養を繰り返したが、起因菌は検出されなかった。そのためアレルギー性疾患を考え、ステロイド剤を投与したが効果はなかった。

 Stevens-Johnson症候群の亜型も考えられたが、皮疹の性状が違っていた。この男の子は、2週間後に自然に軽快して退院となった。主治医の川崎富作医師(35)は、カルテに「診断不明」と書いた。1年後の昭和37年1月、同じ症状の小児が入院してきた。川崎富作は考え込んでしまった。果たしてこの病気は猩紅熱なのか、あるいは猩紅熱の亜型なのか、それとも新しい病気なのか。

 同じような乳幼児が昭和37年だけで7人が入院した。同年11月、川崎富作はこれらの症例を第61回日本小児科学会千葉地方会総会で発表した。演題名は「非猩紅熱性落屑症候群について」(千葉医学会雑誌 1962;38:279)であった。

 この疾患の特徴は「抗生剤が効かず、39℃以上の高熱が5日以上続き、通常の解熱剤では熱が下がらず、発熱の翌日に発疹が躯幹(くかん)とおむつの周囲に現れ、数日のうちに口腔粘膜にも発疹が出現。唇は口紅を塗ったように赤くなり、イチゴのように赤い舌となった。両眼は赤く充血し、手足も光沢を帯びて赤く腫脹した。指と足指の皮膚はむけ、頸部のリンパ節は腫れて軽い圧痛が見られた」。

 同じような患者が次々に集まり6年間で50例に達し、これらの症例を論文としてまとめ「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺症候群:自験例50例の臨床的観察」(アレルギー1967;16:178)の演題名で発表した。この論文は原稿用紙二百数十枚、10枚カラー写真付きという膨大なもので川崎病の原著として知られている。

 小児科部長の神前章雄は、川崎富作の論文に多くの助言を与えた。そのため川崎富作が著者名に神前章雄の名前を加えようとしたが、「これは君1人がやった研究だから」と言って自分の名前を赤鉛筆で削除した。部下の仕事は上司の功績とされていた医学界において、神前部長の行為は極めて立派なことであった。

 この論文が発表されると、小児科学会で論争となった。同じような症例を自衛隊中央病院・松見富士夫が3例、聖路加国際病院小児科医長・山本高治郎が20例経験していた。さらに多くの症例が日本各地で発表され、川崎病は1つの独立した疾患と捉えられるようになった。

 昭和49年に、川崎病をPediatric誌に発表(Kawasaki Tet al: 1974;54:271)すると、世界的反響を呼ぶことになる。昭和53年、WHOは正式な疾患として川崎病を認め、昭和54年、世界的に有名な小児科の教科書であるNelsonの「Textbook of Pediatrics」に掲載されることになった。病名は、Mucocutaneous lymph node syndromeKawasaki disease)と書かれている。

 この病気は一過性で予後良好な疾患と思われていた。しかし全国調査を行った結果、驚くことが分かった。昭和45年の全国調査で、1857例中26例が突然死していたのである。川崎病患者の中に突然死を来す者がいたのだった。

 昭和47年、都立墨東病院で5歳の男の子が、川崎病から半年後に心筋梗塞を起こし、東京女子医科大で大動脈造影を行い冠動脈瘤が発見された。この症例が川崎病の病態解明のきっかけとなった。川崎病のおよそ5〜20%が心臓の冠動脈に瘤を形成し、心筋梗塞から突然死することが分かった。

 心臓の働きは、心筋を収縮させて血液を全身に送ることである。川崎病に罹患すると、冠動脈(心臓に血液を送る栄養血管)に炎症(血管炎)を起こし血管が細くなった。そのため細くなった冠動脈の手前の内圧が高まり、冠動脈が風船のように膨らんでしまうのである(動脈瘤)。この瘤の中にできた血の固まり(血栓)が冠動脈を閉塞させ、心筋に必要な血液を送れなくする。つまり、症状は成人の狭心症や心筋梗塞と同じで、心臓発作や突然死を起こすのだった。この冠動脈の動脈瘤は、発症2〜4週間後から始まり、元気に回復した小児が心筋梗塞で突然死亡した。両親にとってこのことは恐怖であった。

 昭和54年に川崎病が流行、昭和57年には全国的な大流行となった。朝日新聞社の科学部記者・田辺功は、昭和57年5月29日、朝日新聞の社説で「日本で見つかり、日本に集中している川崎病の解決に、官民協力して研究費をつぎ込む必要がある」と書いた。昭和57年9月23日には、東京で「川崎病の子供をもつ親の会」が発足した。

 川崎富作が報告して以来、同じような症状の子供が海外でも見いだされ、米国でも毎年100例の川崎病が発症している。米国の患者数は日本の50分の1であるが、日本の数倍の研究費がつぎ込まれた。

 川崎病の正式名は、「小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群(muco-cutaneous lymphnode syndrome)」でMCLSと略称されているが、発見者の川崎富作の名前から、川崎病と呼ぶのが一般的である。WHOや米国国立防疫センターではこの病気を正式に川崎病(Kawasaki Disease)と呼んでいる。

 厚生労働省研究班によると5歳以下の小児に発症しやすく、患者数は169000人、年間6000人が発症するとしている。原因は不明で検査上の特徴的所見がないので、診断は臨床診断による。5日以上続く発熱と5つの身体的変化(発疹、手足の腫れ、赤い眼、唇と口の変化、リンパ節腫大)のうち、4つがあれば川崎病と診断される。

 川崎病患者の約80%の冠動脈は正常で、川崎病はリウマチ性疾患のように慢性化することはない。しかし川崎病の1〜2%が心臓の合併症で死亡する。死亡例の50%以上が1カ月以内、75%が2カ月以内、95%が6カ月以内に死亡する。冠動脈の直径は正常では1〜2ミリであるが、8ミリを超える巨大冠動脈瘤も見られ、心臓超音波検査で冠動脈瘤をとらえることができる。動脈瘤の治療法として、昭和50年に大阪大の川島康生と北村惣一郎が日本で初めて川崎病の冠動脈バイパスの手術を行っている。

 川崎病は感染症あるいはアレルギー疾患とされ、当初は抗生剤やステロイドによる治療がなされていた。しかし、ステロイド療法の効果は次第に疑われ、東京女子医大の草川三治が「アスピリンが効果的」と報告して以来、アスピリン療法が定着している。昭和58年には、小倉記念病院小児科の古庄巻史がガンマグロブリン療法を開発、このガンマグロブリンの点滴療法により、冠状動脈障害の危険性が軽減した。

 小さな動脈瘤はアスピリンだけで治療するが、動脈瘤が大きい場合はアスピリンにワーファリンを加えて投与するようになった。小児がインフルエンザや水痘にかかった場合には、アスピリンはライ症候群の危険性があるため、アスピリンの代わりにジピリダモールを一時的に用いることがある。

 このような治療により、冠動脈病変の合併を防ぐことが可能となった。ガンマグロブリンの点滴静注により、冠状動脈障害の危険性が軽減し、心臓に後遺症がなければ、学校での運動制限は必要ない。直径4ミリ以下の冠動脈瘤は1年以内に自然に改善し、4〜6ミリの患者の70%は1〜2年で正常となるが、8ミリ以上の動脈瘤の場合、半数が狭窄を来すことから血栓予防が必要となる。

 最近の治療の進歩により、冠状動脈の動脈瘤は少なくなり、冠動脈の拡大が12.97%、動脈瘤1.36%、巨大瘤が0.29%の頻度となっている。血管狭窄が高度の場合、バイパス手術を行うことがある。

 川崎病の原因は不明である。川崎病の症状が狸紅熱に似ていたため、川崎病が初めて報告されたころはA群レンサ球菌説が有力であった。しかし抗生剤が無効で患者から菌が検出されないことから、A群レンサ球菌説は否定され、そのほかウイルス感染、リケッチア感染症説、水銀中毒説、ダニ抗原説も議論されているが、いまだに原因は分からない。

 現在、画像診断や治療の進歩により、多くの患児を救うことが可能になったが、川崎病の小児が成人になってから心筋梗塞を起こしやすいことが注目されている。小児期に川崎病を経験した成人がすでに5万人を超えており、川崎病の長期後遺症としての動脈硬化が心配されている。

 大正14年に生まれた川崎富作は、千葉医科大学付属医学専門部卒である。川崎富作が偉いのは、臨床医として鋭い観察力を持っていたことで、最初の川崎病患者の病名を「診断不明」と書いたことが、臨床医としての力量を示している。

 

 

 

悪魔の飽食 昭和57年(1982年) 

 関東軍731部隊は、中国・満州で秘密下に編成された細菌部隊である。この部隊は約3000人の中国人死刑囚や外国人捕虜をマルタ(丸太)と称して人体実験の材料として殺戮していた。この事実は隠蔽されていたが、終戦から37年後の昭和57年に推理作家森村誠一がその全容を明らかにした。

 森村誠一は731部隊の生存者と接触し、国際法で禁止されている細菌部隊の事実を共産党機関紙「赤旗」に連載、後に光文社より単行本として出版した。「悪魔の飽食」と名付けられたこの作品は、抜群の話題性と内容の残虐性から、読者に大きなインパクトを与えた。「悪魔の飽食」は昭和57年のベストセラーとなり300万部、その続編は150万部を売り上げた。

 さらに「悪魔の飽食」は別の問題も生じさせた。本に使用された写真35枚のうち20枚が、実際の731部隊のものとは違う偽物であることが判明したのだった。発行元の光文社は新聞紙上に謝罪文を出し、本を回収して絶版とした。しかし、後に偽の写真や証言内容を削除し、新たに加筆した「新悪魔の飽食」を角川書店が発売し、現在でも入手可能である。

 中国東北部のハルビン市郊外20キロ南のところに平房という大草原がある。日本陸軍は細菌学の権威・石井四郎軍医中将に命じて、この平房に731部隊(細菌部隊)をつくった。6平方キロという広大な敷地に、人体実験を行う秘密施設を建設し、警備は厳重で施設の周囲は立ち入り禁止区域となっていた。施設上空は日本軍の飛行機でさえ通過が禁止され、陸軍内部でもその存在を知るものはごく一部であった。

 周囲には高さ3メートルの土塁が積まれ、外郭には鉄条網が何重にもめぐらされ、外側は深い堀になっていた。ハルビン駅から731部隊までは、特別に鉄道が敷かれ、すべての研究資材は鉄道によって運ばれた。施設内には兵士の姿はほとんどなく、軍医ばかりが目立った。中で働く研究員の数は、当初3000人だったが後に6000人に増強された。

 人体実験用の人間はマルタと呼ばれ、マルタとは軍法会議で裁かれた反日運動の死刑囚を意味していたが、実際には無実のロシア人、満州人、蒙古人が含まれていた。マルタは夜間にハルビン駅まで憲兵に護送され、そこから専用輸送車で731部隊施設に連行された。マルタには憲兵が付き添い、皆が後ろ手に縛られ、貨車から数珠つなぎに降ろされた。

 マルタはペスト菌、チフス菌、コレラ菌、壊疽菌、破傷風菌などの感染実験に用いられ、感染状況の観察、治療法の研究が行われた。細菌兵器は安価で殺傷効果の高い兵器であるが、ジュネーブ条約で禁止されていた。しかし資源の乏しい日本は、細菌兵器を実戦用にしようとしていた。銃撃戦は対象が限られているが、細菌兵器は感染者がヒトからヒトへ無差別に広がり、しかも殺傷能力が高かった。

 731部隊の目的は救命できない強力な病原菌を作ることであった。そのためマルタは感染から回復しても、すぐに別の実験に使われ、実験としての価値を失うと病理解剖が行われ、施設の焼却炉に放りこまれた。遺体は灰になるまで焼却され、粉末になった骨は周囲にまかれ証拠隠滅が図られた。このような運命をたどったマルタが数千人いたのである。

 とりわけペスト菌を感染させたペスト蚤(のみ)は、731部隊が実用化した秘密兵器で、ペストを感染させた蚤を穀物と一緒に空中散布したとされている。731部隊は細菌兵器だけでなく、毒ガスや凍傷の実験も行っていた。

 終戦により731部隊が解散するとき、隊員は「人体実験の事実を墓場まで持っていくように」と命じられ、「捕虜になったら自殺するように」と青酸カリを渡された。隊員は「軍歴を隠すこと、経歴が分かるので公職に就かないこと、隊員相互の連絡をしないこと」をも命じら、そのため研究員は、家族や親戚にも過去を隠し改名して住所を転々とした。

 731部隊が公にならなかったのは、GHQ(連合国軍総司令部)が免責を条件に、細菌戦や生体実験のデータを入手したからとされている。隊員の多くは、身を隠すような生活を送っていたが、幹部は各地の医学部の教授や研究所の所長となった。金沢大教授・石川大刀雄、兵庫医大教授・岡本耕造、京都大医学部・田部井和、京都府立医大・吉村寿人、長崎医大教授・林一郎などである。 

 軍医中佐だった池田苗夫は、昭和4212月と43年8月の日本伝染病学会雑誌(41巻9号、42巻5号)に「流行性出血熱の流行学的調査研究」という論文を発表している。これは昭和17年に731部隊が満州で行った流行性出血熱の調査記録であった。日本の医学界に731部隊の反省がなかったことが分かる。

 昭和25年、朝鮮戦争勃発から5カ月後に血液バンク「日本ブラッド・バンク」が設立された。この「日本ブラッド・バンク」は薬害エイズの原因となった「ミドリ十字」の旧社名であるが、設立者の内藤良一は陸軍軍医学校・防疫研究室の主任で、その上司は731部隊の総参謀・石井四郎軍医中将だった。731部隊長だった北野政次が東京の工場長となり、石井中将の京大時の指導教官だった木村廉が会社の顧問になっている。

 石井四郎軍医中将はヨーロッパ視察でナチスの細菌研究知り、細菌研究の必要性を軍に勧めたのである。戦争は人間を狂気に追い込み、非人道的な行為に駆り立てるが、3000人を人体実験に用いた731部隊の実体は長い間封印されていた。戦時中の医学は軍部の下にあり、731部隊は陸軍軍医部の命令での創設された。隊員たちは軍の命令に逆らうことができず、そのため軍医たちは731部隊の役割を知らずに入隊したと信じたい。

 隊員たちは口を固く閉ざし、自らの過去を胸に秘め、苦悩を背負って生きたのであろう。戦争が生み出した狂気と悲劇は、歴史の清算を受けず、忌まわしい記憶として個人の心に重くのしかかっていたであろう。

 この日本軍の闇に隠された組織的犯罪を森村誠一は「悪魔の飽食」で告発したのである。出版当時、日本の中国侵略という言葉をめぐり教科書論争が活発だった。そのような対立の中で、日本の恥部を暴くのはけしからんとする者が多くいた。出版社には抗議の電話が鳴り響き、脅迫状が連日郵送された。

 森村誠一は執拗な脅迫を受けながら、中国関係者からの証言、米国の公文書などの資料を参考に、「悪魔の飽食」の第3部を書き角川書店から出版した。第3部で写真の掲載ミスの経緯を明らかにしている。

 

夕ぐれ族 昭和57年(1982年)

 昭和571月、東京の銀座に愛人紹介業の「夕ぐれ族」が出現、愛人バンクのハシリとして話題を集めた。「夕ぐれ族」のシステムは、男女から入会金を取って会員同士の交際を仲介することである。「夕暮れ族」は金持ちのおじさんと、安アパートから脱出したい若いギャルとの出会いの場の提供であった。

 この「夕暮れ族」の名前はすでに流行語になっていた。それは4年前に吉行淳之介が小説「夕暮れまで」を書きベストセラーになっていたからである。小説の内容は50歳の妻子ある中年男性と22歳の処女にこだわるOLの情事を扱ったものであるが、この小説により男性50歳プラスマイナス5歳前後、女性は22歳プラスマイナス1歳のカップルを、羨望を交えながら「夕暮れ族」と呼ぶようになった。

 「夕暮れ族」がマスコミの脚光を浴びたのは、社長の筒見待子(22)が港区生まれの商社役員の娘で、有名女子大・国文科出身の風俗とは縁遠い可愛いロリータ顔だったからである。「夕ぐれ族」はテレビ朝日の深夜番組「トゥナイト」で何度も紹介され、中年男性にある種の幻想を抱かせた。水商売とは縁のない容貌の筒見待子が事務所の電話番号を書いたTシャツを着てテレビ番組に出演して人気を得ていた。夕暮れ族は結婚相談所と同じもので、他の結婚相談所と違うのは、中年男性と若い女性の橋渡しをすることで、特定の相手を紹介するだけなので売春ではないと強調した。

 男性の入会金は20万円、女性は10万円以下だった。入会時に交際相手の希望を聞いて、適切な相手を電話で紹介し、話がまとまらなければ、3ヵ月間は何度でも紹介するシステムであった。「愛人契約」は当人同士の話し合いによるが、男性は月4回のデートで12万円から30万円を払っていた。事務所は連日愛人志望の若い女性であふれ、事務所に入りきれずに喫茶店で待機してもらうほどだった。女性からも入会金を取っていたということは、女性の入会者がいかに多かったかがわかる。

 筒見待子はこれまで3200組のカップルを成立させ、男性の入会金だけでも64000万円に達すると公表し、マスコミは「風俗界の松田聖子」と持てはやした。この繁盛ぶりに都内では類似の愛人バンクが急増し、その数は警視庁の調べでは約50店、実際には300店以上とされた。筒見待子は専門弁護士を雇い、法的対策もぬかりがなかった。

 警視庁は「夕ぐれ族」を苦々しく思いながら、売春防止法の周旋にあたるかどうか決めかねていた。しかし夕ぐれ族にとっては致命的な事件が起きた。昭和57829日、夕ぐれ族の事務所の窓ガラスが割られ、現金20万円と会員名簿が盗まれ、そして泥棒は会員名簿を3000万円で買い取れと会社を恐喝したのである。指定された場所に事務員が出向き、現れた泥棒を事務員が取り押さえ警察に突き出した。

 警視庁はIカ月前から「夕ぐれ族」を売春防止法違反で内偵していて、会員名簿が調べられ、女性会員に複数の男性が紹介され、複数の男性からお金を受け取っていたことが判明した。そのため警視庁は女性社長・筒見待子ら従業員2人を売春防止法違反で逮捕した。

 筒見待子が逮捕されて、本名が鶴見雅子(25)であること、学歴は都立高校定時制卒であることがわかった。筒見待子は隠れ蓑的な存在で、実質的な社長は窪田保夫(53)であることがわかった。筒見待子は窪田保夫の操り人形、単なる広告塔であった。

 彼らの商売は結婚斡旋を隠れ蓑にした売春斡旋業者であった。彼らが逮捕されたのは、マスコミで派手な宣伝を繰り返し、警視庁を刺激したからで、実際の会員は女性453人、男性382人で、女性は大学生やOL、保母、看護婦が多く、3人に1人が未成年だった。女性の入会の動機は、旅行費用のため、洋服を買いたいなどだった。筒見待子は懲役1年・執行猶予3年、窪田保夫には懲役2年執行・猶予3年の判決が下された。

 筒見待子は有罪となったが反省の色を見せなかった。彼らは「新・夕暮れ族」をつくり客が集まらずに失敗すると、さらに「スポンサーバンク」をスタートさせた。「スポンサーバンク」とは「無担保で3000万円以上を出資するスポンサーを紹介する」新たな商法で、広告を雑誌などに掲載して客を集めた。客には「スポンサーは何億円出してもよいといっている」などとウソの説明をした。何せ筒見待子の知名度は高く、この知名度を利用しての詐欺であった。被害者は不動産業者や歯科医ら全国で250人、被害総額は35000万円にのぼった。そして平成6713日、筒見待子(37)と窪田保夫(53)は逮捕され、東京地裁は筒見に懲役16月、窪田に懲役36月の実刑判決を下した。

 昭和58年はノーパン喫茶、のぞき部屋、デート喫茶、ヌード喫茶、ホテトル、マンテルなどの新しい風俗が次々に出現し、テレビの深夜番組で紹介された。ノーパン喫茶からはイブちゃんというアイドルが生まれ、ファンクラブができ映画にもなった。テレビは新しい風俗を明るく紹介し、それまで陰の存在であった性風俗を茶の間へ送り込んだ。テレビが性風俗の垣根を低くして、若い女性の性意識を変えていった。そして愛人バンクはテレホンクラブ、援助交際へと移行していった。

 若い女性は自分の性を商品化し、それを売り出すことに抵抗感がなくなっていった。この若い女性の性意識の変化は、現在もさらに進行中で、かつて日本女性の貞操観念は死語に近づいている。売春は「男性がいたいげな女性の性を買う身勝手な行為のイメージ」があった。しかし売春に対する女性の罪悪感は少なく、単なる経済活動ととらえるようになった。売春は「貧困からの脱出ではなく、贅沢な生活のための活動」と大きく変化したのである。

 平成9年頃から援助交際という言葉が流行し、大衆はこの造語を売春の代名詞として自然に受け入れたが、援助交際という言葉は「夕暮れ族」が最初に使った言葉であった。このように現在の性風俗の下地を作ったのは「夕暮れ族」だったといえる。その意味で、この事件は時代を象徴するものであった。

 

 

 

日本ケミファ・データ捏造事件(昭和57年)

 昭和57112日、厚生省は新薬の製造承認を受けるためデータを捏造したとして日本ケミファを事情聴取した。日本ケミファは新薬を発売するため、本来ならば提出すべき臨床実験を行わずに、偽造したデータを厚生省に提出していた。

 日本ケミファは消炎鎮痛剤である「ノルベタン」について203症例、血液降下剤「トスカーナ」については50症例の臨床試験のデータを捏造していた。ノルベタンはすでに半年前から発売されていて、月商15000万円を売り上げる同社の有力商品になっていた。また別の消炎鎮痛剤である「シンシナミン」の新薬申請の際には、不利な結果がでた動物実験のデータを隠していた。

 今回の事件は、製薬業界はじまって以来の不祥事であった。新薬承認のデータはどんなことがあっても正確でなければならない。それが製薬会社の最低限のルールだった。世の中には絶対に守らなければならないルールがある。それを守られなかったら、社会そのものが成り立たないからである。厚生省はデータ捏造という企業の倫理観の欠如を予想していなかった。この事件は厚生省のみならす、製薬業界、国民にも大きなショックを与えた。虚偽のデータで、あたかも臨床試験を行ったように装い、さらに効果があるように見せかけ、新薬を申請して製造していたのである。これらは人命にかかわることであり、医の倫理に関わる問題であった。

 厚生省が新薬として承認するのは年間40から50件であるが、承認はすべて製薬会社が提出したデータが正しいという前提で審議されてきた。データが捏造されていたら、薬事行政が根底から崩れることになる。厚生省は製薬会社のデータ捏造を予想していなかったので、この事件を罰する法律条項がなく、日本ケミファを刑事責任で追及することはできなかった。まさに誰も予想しなかった捏造事件であった。

 新薬の開発は「数千の物質を候補にして、動物実験、臨床試験を行うという膨大な時間と研究費がかかる」、新薬の発売まで「10年間、30億円」と言われていた。製薬会社の開発費は経費の10%以上であり、新薬の開発に社運がかかるほどのであった。東証一部上場の中堅製薬会社が捏造という自殺行為を行ったのは、製薬会社の厳しい開発競争、営利主義、さらには「ばれるはずがない」との思いこみがあった。

 日本ケミファの開発部長は開発申請を早めるため、ニセのデータを作成するように指示していた。新薬許可を早くとって、一日でも早く販売したい焦りがあった。しかし「ノルベタン」だけなら魔が差したと釈明できるが、数種の新薬で同様の捏造データを提出したのだから、魔が差したのではなく、日本ケミファの社内体質といわれても弁解はできない。

 この事件が生んだもう一つの問題は、捏造したデータを実在する医師の名前で専門誌に発表していたことである。日本ケミファは日大板橋病院で臨床試験を行ったようにデータを捏造し、ニセのデータをもとに会社で論文を作成、日大医学部整形外科医長・三瓶講師の名前で専門雑誌に発表していた。三瓶講師は無断で論文が掲載されたと訴えたが、三瓶講師は他人が書いた論文を30分間チェックし140万円の謝礼をもらっていた。このように全く常識では考えられない日本ケミファと大学講師の癒着があった。この事件の背景には、医師と業者の癒着、製薬企業の儲け主義、医薬行政のずさんな構造があった。

 今回の事件の発端は、日本ケミファ研究所幹部員が共同通信社に内部告白したことによる。同社の山口明社長はワンマン社長として知られており、社内の労使関係はうまくいっていなかった。今回の捏造事件も上層部はばれないだろうと考えていたのだろうが、結局は内部告発により自殺行為となった。山口社長は捏造事件に関与していないと厚生省に報告したが、ワンマン社長である山口社長の発言を信じる社員はいなかった。

 山口社長は厚生省で今回の不祥事を陳謝したが、そのあとの株主説明会で「処分が決まるまで出来るだけ製品を売りたい」と発言した。この発言は、厚生省を烈火のごとく怒らせ、厚生省は薬事法に基づき日本ケミファに80日間の製造停止と輸入業務停止を通告した。この厚生省の決定は製薬業界はじまって以来の厳しい処分であった。123日、山口社長は発言の事実を認め辞意を表明、さらに昭和45年以降の新薬6品目の承認を自主的に取り下げた。

 消炎鎮痛剤ノルベタンは日本ワイス社との共同開発の薬剤で、日本ワイス社と日本ケミファは製造承認に必要な試験を分担していた。しかし日本ケミファが分担した臨床試験の一部が捏造されていたことから製造承認が取り消されたのである。そのため日本ワイス社は多大な損害を被ったとして総額約9億円の損害賠償を日本ケミファに請求。平成3年、東京高裁は日本ケミファに日本ワイスの過失分約49千万円の支払いを命じた。

 会社ぐるみの新薬申請実験データの不正捏造事件はその後も散発し、昭和5837日には明治製菓が消化酵素剤「エクセラーゼ」の動物実験のデータを捏造したまま発売している。

 

 

 

新薬スパイ事件 昭和58年(1983年)

 昭和46年に藤沢薬品工業は第1世代の抗生剤「セファメジン」を発売し、「セファメジン」の大ヒットにより中小企業であった藤沢薬品は大手企業にのし上がった。このように1つの薬剤の売れ行きが、製薬会社の社運を担うようになり、製薬会社の猛烈な新薬開発競争が始まった。昭和57年の抗生物質の生産額は8650億円で、前年比で1割増の急成長を続けていた。抗生物質は第1世代から第3世代まで次々に開発され、新薬が成功すれば、先発メーカーは特許権が保護され6年間市場を独占できた。新薬スパイ事件はこのような企業間の競争がピークとなった昭和58年に発覚した。

 新薬スパイ事件が発覚した発端は、毎日新聞への読者の通報だった。「製薬会社が役所から医薬品の出荷を停止させられ、医薬品が倉庫にたまっている」という簡単な内容であった。この通報がきっかけになり、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)を舞台にした汚職事件が明るみになった。

 昭和58年9月7日、国立予防衛生研究所抗生物質部技官の鈴木清(23)が国家検定を偽装して抗生剤を単独で合格させたとして東京地検特捜部に逮捕された。鈴木清は57年度の1年間だけで、検定前に610件の合格通知を製薬会社に出し、中央薬事審議会の新薬のデータも盗み出していた。さらにこの事件は、薬の開発にかかわる意外な局面を次々に暴露していった。

 9月13日、藤沢薬品開発部主査のF(53)が鈴木清と共謀して中央薬事審の新薬データを盗み出した容疑で逮捕された。Fと鈴木清は、中央薬事審に提出していた山之内製薬の抗生剤「セフォテタン」のマル秘資料を盗んだとされ、さらに藤沢薬品東京支社副支社長、本社の開発担当常務など役員・社員4人が窃盗、共謀、証拠隠滅の疑いで逮捕された。藤沢薬品はセファメジンが大ヒット商品となったが、他社が新たな抗生剤を次々に開発したため、第3世代の抗生剤「エポセリン」の開発に社運をかけていた。しかし「エポセリン」は、中央薬事審から多くの注文を付けられ、長時間にわたる実験を余儀なくされていた。この事件の裏には、新薬開発に向けた藤沢薬品の焦りがあった。

 鈴木清を通じて新薬データを盗み出したのは藤沢薬品1社に限らなかった。帝三製薬、富山化学工業の社員を含め会社幹部12人が逮捕された。鈴木清は各メーカーのスパイ役を何重にも演じ、この事件は組織ぐるみの新薬スパイ事件へと発展した。抗生物質の開発にしのぎを削る製薬会社の過激な競争の実態を示した。

 逮捕者は製薬会社だけではなかった。公平であるべき中央薬事審にも東京地検の調べが入り、中央薬事審委員の江島昭(55)が逮捕された。江島は中央薬事審の秘密文書である医薬品申請資料を帝三製薬に渡し、現金170万円を受け取っていた。

 薬剤を開発して発売するには膨大な資金と時間が必要である。しかし巨額な開発費がかかっても、新薬が当たれば何百億円になって返ってきた。逆に画期的な薬剤を開発しても、売れなければ投資した金額は回収できなかった。そのため各製薬会社は新薬の開発を成功させるため、さまざまな手口を用いた。

 産業スパイの横行は、1日でも早く新薬を発売したい製薬会社が、薬剤の臨床試験を行う医師や病院、臨床試験を取りまとめる大学教授、効果を判定する中央薬事審、薬剤の値段を設定する厚生省などに猛烈に働き掛け、このような事情から、新薬開発に絡む黒いうわさが流れていた。

 産業スパイは日本医師会の事務員にまで及んだ。9月28日、東京地検は日本医師会事務局保健課長の森田史郎(57)を業務上横領の疑いで逮捕した。森田史郎は新薬が保険の適応を受けるための最後の関門である「疑義解釈委員会」の事務を取り仕切っていた。森田は事務局に保管してある中央薬事審の新薬データを藤沢薬品に渡していた。他社の新薬に関する膨大な資料を手渡したことから業務上横領に問われたのである。家宅捜査のため東京地検のマイクロバスが日本医師会に横付けされた。

 林義郎厚相は一連の事件を受け、事務次官ら13人を処分。中央薬事審委員は定数56人のうち3割を入れ替え、14部会のうち8部会の部会長を新たに選出した。この事件は製薬業界だけでなく、薬剤の許認可権を持つ行政が絡んだ構造汚職であった。製薬会社は高い利益を得るため、行政側は天下り確保のため、両者の利害が一致していた。

 押収した資料から、防衛医科大学の医薬品納入汚職も発覚。1019日、東京地検は防衛医大小児科部長(62)を収賄の疑いで逮捕した。小児科部長は医薬品の選定をめぐり、製薬会社3社から140万円のわいろを受け取っていたとされた。札幌逓信病院でも、耳鼻咽喉科部長が医薬品選定で明治製菓など製薬会社9社から謝礼として現金を受け取っていたとして逮捕された。この事件は医師と製薬会社の癒着、薬漬け医療の実態を浮き彫りにした。同年3月22日、昭和大薬学部の教授と助教授が、明治製菓から依頼された消化剤の実験データを捏造したとして大学を辞任。9月4日には岐阜薬科大の学長が天野製薬から2億円の技術指導料を受け取っていたことが発覚して辞任している。このように昭和58年は医学界の黒い霧が続出した年であった。

 医薬品業界は、普通の製品を作る産業とは違い、生命に直結する薬剤を販売するため、さまざまな規制を受けていた。官僚の統制下に置かれ、それでいて同業者の激しい競争があった。そのため新薬の開発を、いかに有利に行うかに社運がかかっていた。

 新薬の開発は製薬会社に巨額の利益をもたらすが、スパイ事件の背景には、製薬会社と製造を許可する中央薬事審との癒着、薬価の設定をする厚生省との癒着、薬の売り込みに関する医療機関との癒着があった。

 

 

 

拒食症(思春期やせ症) 昭和58年(1983年) 

 昭和58年2月4日、カーペンターズのカレンさんが拒食症のため、32歳の若さで生涯を終えた。カーペンターズは「イエスタデー・ワンス・モア」「オンリー・イエスタデー」などのヒット曲を次々に生み出した世界的に有名な兄妹デュオである。

 カーペンターズが活躍した1970年代の米国は、ベトナム戦争や人種差別問題などに悩んでいた。しかし彼らの曲には、米国の古き良き時代を思わせるイメージがあった。みずみずしいカレンさんの歌声は時代を超え、国境を越え、グラミー賞を3回受賞したほどである。

 拒食症という悲劇的疾患はあまり知られていなかったが、彼女の死によって世界中に知られるようになった。明るい天使のような歌声、カリフォルニアの澄んだ青空、このような彼女のイメージが、その裏に隠れた拒食症の怖さを印象づけた。彼女の死は全米に衝撃をもたらした。

 少女時代のカレンは太っていて、16歳の時に1日2リットルの水を飲むダイエットにより10キロ近くやせていた。その後、兄とグループを結成して数々のヒット曲を生み出し、ホワイトハウスに招待されたほどであったが、カレンのやせ願望は変わらず、甲状腺ホルモン剤や下剤などを大量に内服していた。

 昭和50年、カレンは体調不良から欧州ツアーをキャンセル、その後のラスベガスでのコンサートの最中に気を失って倒れた。その時のカレンの体重は37キロで、これを契機にカレンは医師やカウンセラーを訪れるようになった。カレンは昭和57年に離婚、そのころには体重も8キロ増え、拒食症を克服したと思われていた。しかし昭和58年、カリフォルニアの両親の家を訪れている最中に心臓発作で突然死亡した。死因は心臓死であるが、長年にわたる摂食障害が心臓にダメージを与えたとされている。兄リチャードは、「カレンがなぜ拒食症になったのか見当もつかない」と述べている。

 拒食症の歴史は浅く、昭和50年頃から先進国で散見されるようになった。それまで飢えに苦しんできた時代は、食べることに必死で、そのため女性の美意識はふっくらとした体形であった。それが飽食の時代になり、「太っていることが女性の美意識に反する」と受け止められるようになった。このような時代背景が「やせ願望」を引き起こした。また職場、学校、家庭などでのストレスも関与し、「過剰な美意識とストレスが、食べるという人間の本能を狂わしてしまった」といえる。

 拒食症は「思春期やせ症」の別名があるように、思春期の女性に発病する。また「神経性食欲不振症」とも呼ばれ、内科的な病気がないのに食欲がなく、やせが何カ月にわたって続き、月経が止まるのが特徴である。やせすぎて月経が止まれば普通は気にするが、彼女たちには病気という認識はなく、やせた状態に満足し、やせていても月経がなくても異常と思わず、むしろ明るく活動的である。食べれば治るので、治療は簡単と思われがちであるが、実際には困難である。やせたい願望と食欲との対立になるが、大体は食欲の方が勝って自然に治ってゆく。

 しかし重症例は、本人はやせることがうれしいので、死の自覚はなく、低栄養、全身衰弱、低体温から、眠ったまま心臓が止まってしまう。

 この疾患の根底には、女性になりたくないという成熟拒否がある。食事を拒否して女らしい体形を避けようとして、過度のダイエットから心と身体のバランスが崩れてしまう。成熟した女性になることを拒否する心理は、スリムな肉体を賛美する現代文化のゆがみといえる。

 拒食症が、経過中に過食症になることがある。極端に食べすぎてしまう過食症も、拒食症と同じ心の病気で両者は摂食障害と呼ばれている。両者は正反対に見えるが、類縁疾患であり、症状が交互に現れることがある。

 過食症は、指を口に入れて食べた物を吐き、下剤を使用するので体重は増えない。大食とは異なり人前では過食を見せることはないが、過食後に気分が落ち込み、自己嫌悪、不安などのうつ状態になる。過食症は過食の病識があるので、治療は容易で死ぬことはない。

 摂食障害は、家庭内の問題、母子間の葛藤(かっとう)などが要因とされ、家族の特徴としては親の社会的地位が高いこと、家族の会話が少ないなどが挙げられている。

 摂食障害は「思春期の女性の100人に1人程度」とされてきた。しかし慶応大の渡辺久子講師らが東京都内の私立女子中学の卒業生を高校3年まで追跡調査したところ、約20人に1人に摂食障害があったとしている。

 過食症や拒食症は精神的疾患であるが、世間の理解は低く病気への偏見がある。日本で拒食症を有名にしたのは、宮沢りえさんの「激やせ」である。りえさんの場合は、ステージママへの反抗、貴乃花との婚約騒動などがうわさされた。

 また英国の故ダイアナ妃は過食と嘔吐を繰り返えし、うつ病から自殺未遂を起こしたことを告白している。ダイアナ妃の過食は、チャールズ皇太子の浮気が原因で、婚約1週間後に過食症となった。当時19歳だったダイアナ妃は、あこがれの皇室に嫁いだが、皇太子に愛人がいたのだった。結婚してもチャールズ皇太子は愛人との交際をやめず、一方ではマスコミに追われ、彼女の過食症は悪化した。平成8年に離婚したが、翌年にはあの悲劇的事故によって他界した。

 

 

 

日本初の試験管ベビー 昭和58年(1983年) 

 昭和58年3月14日、東北大学医学部産婦人科の鈴木雅洲(まさくに)教授は、日本初の体外受精に成功したと発表した。母親は30歳の女性で、両側卵管閉塞症のため結婚から9年間子宝に恵まれないでいた。今回、2度目の体外受精で受精卵の着床に成功、超音波検査で心拍動が確認されたため発表となった。東北大ではこれまで17人に体外受精を行い、17人目で初めての成功となった。

 日本で初めての試験管ベビーの成功は、同日の夕刊各紙のトップを飾った。世界中を騒がした試験管ベビーのルイーズちゃんが英国で誕生してから5年近くがたっていた。海外ではこの間に、11カ国で400人以上の体外受精児が誕生している。体外受精の技術は、海外ではすでに一般的だったので、日本初の試験管ベビーがいつ誕生するかが注目されていた。新聞各紙は、秋には東北大で試験管ベビーが誕生すると報じた。

 試験管ベビーというと、試験管の中で胎児を育てるイメージがあるが間違いである。試験管ベビーは「腹腔鏡で母体の卵巣から排卵直前の卵子を採り、培養液の中で卵子に夫の精子を受精させ、48時間から72時間後に子宮に戻す方法」のことである。受精卵が着床してからは通常の妊娠と同じである。つまり試験管ベビーは体外受精を意味している。

 卵管閉塞、精子過少症、排卵誘発剤などで妊娠できなかった夫婦が治療の対象で、不妊症全体の約半数に相当する。10組に1組とされる不妊症夫婦にとって、体外受精は画期的な治療法であった。セックスでは1回の射精で1億個の精子がなければ受精できないが、体外受精では精子の数は5万個あれば可能だった。不妊症の1つである男性の精子過少症にも有効な治療法であった。

 この試験管ベビーのニュースは、明るい話題として迎えられるはずであった。しかし人間の生命に人的操作を加えることから、試験管ベビーの是非については多くの議論があった。試験管ベビーを、生命倫理の観点からナチスの医学実験に匹敵すると非難する者もいた。

 宗教界からも神を冒涜(ぼうとく)する行為、自然の摂理への挑戦との声が上がった。子供は、神からの授かりものとする従来の考えと、生殖技術の進歩で解決できるとする考えが正面からぶつかり合った。

 さらに奇形児出産のなどが危惧された。通常ならば、1億個の精子の競争に勝った1精子によって受精卵になるが、競争という淘汰(とうた)のない精子が奇形を引き起こすと心配された。しかし海外の体外受精児約400例では、心臓奇形が1例だけで、奇形率は自然分娩児よりむしろ少ない頻度であった。

 昭和581014日午前6時35分、周囲の期待とともに日本初の試験管ベビーが、東北大医学部付属病院で誕生した。その日の新聞、テレビはこのニュースを一斉に伝えた。新生児は帝王切開で生まれ、体重は標準より小さめの2544グラム、身長44センチの女児であった。この出産は、文字通り明るいニュースとなった。試験管ベビーをめぐる重苦しい雰囲気を吹き飛ばす勢いがあった。

 試験管ベビーの誕生に際し、一番心配されたのがプライバシーであった。夫婦はマスコミに出ることを嫌い、静かに見守ってほしいとの手記を発表した。ところが全国紙の中で、毎日新聞だけが両親の住所や氏名、家庭の状況までを新聞に掲載したのだった。毎日新聞は「実名報道を行ったのは、この明るいニュースに際し、今後生まれてくる試験管ベビーが特別な扱いを受けないようにするため」と弁明した。しかし、周囲からは実名報道に批判と抗議が殺到した。またプライバシーを守れなかった東北大産婦人科にも批判の声が集中した。鈴木教授は家族の氏名が明らかになった以上、患者の容体を発表することは守秘義務違反に触れるとして、途中から患者の容体の発表を中止。さらに試験管ベビーの経過について予定していた学会での発表を取りやめた。

 試験管ベビーの夫婦は、退院後も自宅に帰らず、住所を変えてしまった。体外受精第1号の赤ちゃんは、2年後に急性肺炎で死亡したが、同じ母親による第2子が昭和61年5月に生まれ、元気に育っている。

 鈴木教授は退官後、宮城県岩沼市で不妊症専門の「スズキ病院」を設立。当時、全国の約半数の試験管ベビーを生み出していた。現在では体外受精は一般的となり、専門の医療機関で行われている。

 生殖医療は進歩し、排卵誘発剤で卵子を採って、複数の受精卵を子宮に返すことが行われている。体外受精卵を凍結保存して、妊娠しやすいときに子宮に戻す方法も開発されている。さらに技術が進み、顕微鏡で固定した卵子を見ながら、ガラス針を通して精子を送り込む顕微鏡受精法では、たった1個の精子からも妊娠を可能にしている。

 体外受精で生まれた子供は世界では400万人とされ、体外受精の技術を開発した米国のロバート・エドワーズは医学生理学賞を受賞している。日本では保険適応外の治療なので、その実数は明確ではないが、平成8年までに体外受精で2万7261人の赤ちゃんが生まれ、最近では、赤ちゃんの100人に1人が体外受精で生まれているとされている。このように体外受精は一般化しているが、その妊娠率(着床率)は、20代で70%、30歳前半で60%、30歳後半で40%と、若い女性ほど成功率は高い。

 わが国の体外受精は法律上、結婚している夫婦に限られている。しかし米国では、ほかの女性の子宮を借りて夫婦の受精卵で妊娠させ、出産してもらう代理母が認められている。

 生命とは何か、受精卵を生命とするのか、子宮に着床して初めて生命とするのか、法的解釈はまだ未解決のままである。さらに受精卵の凍結保存中に両親が離婚したり事故死した場合、試験管ベビー(受精卵)を持ち去られた場合、誘拐罪になるか窃盗罪になるか、このような議論がなされている。

 

 

 

医薬品副作用被害救済制度 昭和55年(1980年) 

 薬剤は身体によいと思って飲むものである。また薬剤は医療や健康の維持に欠かせず、これまで国民の生命や健康に大きな貢献をしてきた。薬剤の安全性は一定の基準のもとで厳しく検査されてきたが、薬剤は人体にとって異物であるため、必ずしも安全とは限らない。薬剤は効性と副作用の両面を持ち、医師、薬剤師、看護師などがたとえ万全の注意を払っても、副作用を予見することは不可能である。現在の医学の水準では、薬剤の副作用を完全に防止することはできない。医薬品を適正に使用しても、副作用による被害を受けることは避けられないのである。

 薬剤による健康被害を受けた場合、裁判で因果関係や製薬会社・医師などの責任を立証するには、多大な労力と時間を費やす。このことから医薬品により深刻な副作用が出た場合、被害者を救済する制度が必要となった。医薬品副作用被害救済制度は、昭和3040年代にサリドマイド、スモン、クロロキンなどの薬害が連続して大きな社会問題になったことから制度化された。昭和55年5月1日以降に使用された医薬品によって副作用が生じた場合、被害者の救済を公的に、しかも迅速に行う目的から設立された。

 医薬品副作用被害救済制度の対象になるのは病院、診療所、薬局で投薬された薬剤で、「適正に使用されたのに、副作用による健康被害が生じた場合」である。また薬剤であれば、薬局で購入した風邪薬や栄養剤などの大衆薬も含まれ、適正な使用とは、医薬品の容器あるいは添付文書に記載されている用法、用量および使用上の注意に従って使用した場合である。

 つまり、使用上の注意に沿って正しく使用したこと、処方した医師、販売した薬剤師、服用した本人にも過失がないことが条件となる。もちろん個別の事例については、使用時の医学や薬学の学問的水準に照らし合わせて総合的に判断される。

 救済される副作用は軽度のものは対象外で、入院が必要となる重篤な場合や、日常生活が著しく制限されるもので、もちろん死亡も含まれる。具体的には、抗生剤による中毒性表皮壊死症、抗生剤によるショック死、副腎皮質ホルモン剤による大腿骨頭壊死、不穏状態のため使用した精神神経薬剤により悪性症候群を生じた場合などである。給付されるのは、医療費、医療手当、障害年金、障害児養育年金、遺族年金、遺族一時金、葬祭料である。

 この救済制度は、厚生大臣の認可法人である医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構(医薬品機構)によって運営され、医薬品機構は製薬企業の社会的責任に基づき、製薬企業からの拠出金を財源にしている。なお、製品自体の欠陥や製品説明書に不備があって健康被害が現れた場合は、製造物責任法(PL法)の範疇となるが、これまでPL法が適応された例はない。また給付の請求は、本人や家族が行うが、医師や薬剤師は被害者に本制度を紹介し、必要な書類への記載などの協力が求められる。

 医薬品機構に提出された請求書や診断書などを基に、厚生労働省の中央薬事審議会の副作用被害判定部会が薬剤の副作用かどうかを審議して、救済給付を決定する。ただし抗悪性腫瘍薬、免疫抑制薬、血液製剤(血漿分画製剤を除く)、動物用医薬品、製造専用医薬品、体外診断用医薬品などは、副作用の発現をある程度覚悟すべき薬剤なので対象外である。

 しかし平成16年4月、医薬品機構が「独立法人・医薬品医療機器総合機構」と名称を変えてから、それまで認められていなかった生物由来の医薬品や医療機器による感染が認められるようになった。任意の予防接種を受けた場合は救済されるが、法定予防接種は対象外である。さらに救命のため通常の使用量より多量を投与した場合にも対象外で、不適切な薬剤使用によって生じた副作用も除外される。

 この制度は被害者救済が目的なので、医薬品の製造業者や販売業者の責任が明らかな場合は対象にならない。例えば、医薬品に細菌やウイルスなどが混入したことによる感染、変質による医薬品、異物混入による汚染などである。またC型肝炎の感染、ヒト乾燥硬膜使用によるヤコブ病なども対象外である。なお平成5年度から血液製剤の投与を受けてエイズに感染した患者、2次、3次感染者が対象となった。

 わが国で使われている医薬品は5万種類以上で、予期せぬ副作用がでても不思議ではない。この制度が発足した当初は「薬害を少しでも減らす」という発想は乏しく、補償制度の意味合いが強かった。しかし重要なことは、副作用被害を受けた患者、あるいは関与した医師が、この制度を知らないことである。

 この制度は現在も継続されているが、利用件数は少なく、企業からの拠出金が常に余っている。もっとも昭和の時代までは支給件数が年間100件以下であったが、広報活動によって平成15年は619件となっている。副作用の内容は、薬剤によるショックや悪性高熱などの全身障害(122件)、薬疹などの皮膚症状(121件)が主である。

 申請には病院の医療費・医療手当請求書ならびに診断書、医薬品を処方した医師の投薬証明書などの書類を提出しなければならない。医薬品医療機器総合機構は相談の窓口を設置し、医薬品の副作用の相談に応じてパンフレットや申請書類などの送付を行っているので電話(03-3506-9411)で照会するのがよい。

 

 

 

千葉大女医殺人事件 昭和58年(1983年)

 昭和58年1月7日朝の5時50分ごろ、千葉市葛城の新興住宅地の路上で、若い女性がうつぶせに死んでいるのを新聞配達員が発見。遺体の近くにはハンドバッグが落ちており、財布や手帳が散乱し、財布から現金が盗まれていた。運転免許証から、被害者は千葉大医学部研究生の椎名敦子さん(25)であることが判明。敦子さんは、自宅から徒歩数分の路上で首を絞められ殺害されたのである。首筋にはコードで絞殺された索溝痕(さくこうこん)が残されていた。敦子さんは新婚3カ月の女医で、駆けつけた夫の椎名正(25)とともに千葉大医学部に勤務していた。

 女医殺人事件だけでも話題性は十分だったが、被害者が新婚の妻で、若い夫婦が敷地約500平方メートル、時価8600万円の豪邸に住んでいたことから、羨望(せんぼう)の混じった国民的興味を引いた。さらに、殺人事件としては多くの疑問があったことからテレビのワイドショーを独占した。

 椎名正の話によると、事件前日は一緒にドライブして午後10時半ごろ帰宅したが、深夜の3時ごろ敦子さんは「眠れないので、研究室に行く」と1人で病院へ行ったということだった。近所の人は、午前4時10分ごろ、怒鳴り合う声と女性の悲鳴を聞いていた。

 千葉県警中央署に捜査本部が設置され、100人の捜査員が動員された。警察は顔見知り、行きずりの犯行の両面から捜査を開始した。当初は敦子さんの財布から現金が盗まれていたことから、強盗殺人を想定していた。捜査員は新婚ほやほやの夫が現場で泣き叫ぶのを見て同情した。しかし敦子さんの遺体に衣服の乱れはなく、抵抗の跡がなかった。両まぶたが閉じられていて、強盗殺人にしては不自然だった。捜査官は顔見知りの犯行、特に夫の正を疑った。正の手のひらに赤い条痕がついているのを見逃さなかった。

 殺された敦子さんと夫の正は独協医科大学の同級生だった。新婚3カ月であったが、2人は大学1年生のときからの知り合いで、長い同棲生活を送っていた。新婚であったが、2人の愛情はすでに冷えていた。

 正(旧姓藤田正)の実家は秋田市内の名家であったが、実家が倒産したことから千葉県S市の同級生で一人娘である敦子さんの椎名家に養子に入ることになった。椎名家には男性の後継がいなかった。敦子さんは東京女子医大にも合格していたが、独協医大に進学したのは婿養子の候補者に出会えると考えたからだった。正は名字を藤田から椎名へと変え、S市の病院の跡取りとして将来を保障されていた。

 椎名夫妻は千葉大医学部の大学院を受験したが2人とも落第。正は整形外科の研修医、敦子さんは病理の研究生となった。正が千葉大に就職できたのは義父の力による。正は妻の実家から自宅を新築してもらった上、月々20万円の生活費を受けていた。事件の起きる3カ月前の昭和571010日、千葉大の井出源四郎学長を媒酌人とした結婚式を帝国ホテルで挙げていた。結婚式には、安倍晋太郎通産相、独協医大理事長などが出席する豪華なものであった。

 千葉県警は捜査を進め、決定的な情報をつかんだ。正は敦子さんとの婚約後、2カ月もたたないうちに千葉市栄町のソープランド「ニュータレント」の21歳のホステスと深い仲になっていて、ホステスとは半同棲生活を送っていた。

 椎名夫妻は新婚旅行で沖縄に行くが、帰って間もなく、正は今度は京成千葉駅近くのパブ「マッケンジー」の19歳のフィリピン人ダンサーと付き合うようになる。新婚生活直後からパブに通い、ダンサーに熱を上げていた。正は枠組みだけの家庭をつくりながら、妻以外の女性を求めていた。このような事実が明らかになるにつれ、エリート医師の転落として世間の注目を集めた。

 ダンサーは4人組ダンサーチーム「カルセール」のリーダーで、昭和5710月に千葉のパブに来たばかりだった。正は一目ぼれで毎日のように通い詰めた。彼は椎名家から結婚祝いにもらった200万円の時計をダンサーに与え、結婚の約束までしていた。

 しかし1024日に「マッケンジー」との契約が終わり、ダンサーは愛媛県今治市のクラブに移ることになった。正は消費者金融から80万円を借りると、出張と偽って千葉から愛媛までダンサーを追って行った。そこで今治市のクラブの経営者に200万円で千葉に戻してくれるように頼んだ。正は消費者金融に借金を重ねながらダンサーに貢いでいた。正は同年1220日以降、病院を無断欠勤していた。医師が無断欠勤すれば、すべておしまいである。

 新婚にもかかわらず、事件当時、椎名正と妻の敦子さんの関係は冷え切っていた。フィリピン人ダンサー、金銭問題、無断欠勤などトラブルが絶えなかった。そのため、正は敦子さんをガス爆発に見せかけて殺害しようとした。自宅のガスを漏出させ、台所の電気スイッチを入れると爆発するように工作したが、この計画は未遂に終わった。

 敦子さんは夫の無断欠勤を追及しているうちに、ダンサーとの関係を知り、夫が自分を殺そうとしたことを知った。敦子さんは夫をののしり、「実家の両親に何もかもぶちまける」と叫んで外出の準備を始めた。正は、妻が実家に帰って両親にこのことを話せばすべてが終わってしまう、医師としての将来がなくなると動転し、敦子さんに飛びかかり電気コードで絞殺した。

 正気に戻った正は、敦子さんを路上強盗に遭ったように偽装した。正は敦子さんの遺体を抱え、外に出て路上に放置、遺体の周囲にハンドバッグの中身をばらまき、財布から現金を抜き取って強盗に襲われたように見せかけた。さらに見開いた死体の両まぶたを閉じ、鼻から流れ出ていた血をふいた。それは夫が見せた最後の優しさだった。

 正は事件発生から9日後の1月16日、自宅で腕から500ccの血液を抜き、自殺未遂で千葉大付属病院に運ばれた。同月21日に敦子さんの葬儀がS市の妙福寺で行われたが、入院中の正は姿を見せなかった。敦子さんの葬儀の翌日に、正は退院したが、その日に殺人容疑で逮捕された。逮捕後の調べで、正はフィリピン人ダンサーとの交際を大筋で認めたが、妻の殺害については否定した。

 正の自供は二転三転した。正は「自分が第1発見者だったが、恐ろしくて警察に届けなかった」と供述。そして最後には、自分で組み立てたフィクションに落ち込み、何が真実なのか分からないと精神的混乱をきたした。「この事件を解き明かせないように複雑にしたのは私です」、このように意味不明な言葉を捜査官に並べ立てた。

 正は起訴されたが、第1回公判では起訴事実を全面的に否定。第5回公判から嘱託殺人を主張した。正の供述によると、前年の10月に妻が自宅近くで性的暴行を受け、脅迫状が届くようになった。そのため、自分がいない方が妻の気持ちが落ち着くだろうと、千葉市内を飲み歩くようになった。妻が死んだのは、事件のショックから、ベッドの上で自分の首にコードを巻き、殺してくれと依頼されたためで、嘱託殺人だったと述べた。妻が死んだのは自殺で、事故をよそおうため路上に運んだ、というものであった。殺人は認めたが、妻が自殺を望んでの嘱託殺人と強調した。

 この事件で最もかわいそうだったのは、敦子さんの父親であった。病院の後継者ができたと喜び、正が逮捕されても無実を信じていた。しかし正の女性関係が報道されると、希望は絶望に変わった。一方、ソープランドの愛人やダンサーは正の無実を信じ、正との結婚を希望する発言を繰り返して話題になった。

 この事件は世間が注目し、裁判の動向にも関心が集まった。傍聴席を求める長い列が千葉地裁を囲み、その中には正に同情的な若い女性が少なからず混じっていた。正は若く端正な顔立ちだった。もし「自分が正の妻だったら、正を被告にさせなかった」という気持ちを、

多くの若い女性たちに抱かせていた。

 東京高裁の小野慶二裁判長は「乱脈を極めた女性関係を妻に責められ、妻を口封じのために殺害したのは明らかで、妻に依頼された嘱託殺人との被告の主張は信用できない」と述べ、懲役13年を言い渡した。

 事件から7年目にあたる平成2年3月13日、最高裁(中島敏次郎裁判長)で上告棄却が決まり、正は懲役13年の刑が確定した。しかしその直後の同月22日、正は東京拘置所の独房で自殺を図り、自らの人生に終止符を打った。畳の糸を抜き、糸を首に3重に巻き、糸の間にペンを入れ、ねじって自分の首を絞めたのだった。

 「僕は殺していません。ただ責任は僕にもあります。最後の約束を守ります」と書かれた遺書を残していた。この事件は被告人死亡のため刑は確定せず、椎名正の医師免許は剥奪されていない。正は事件後、都合4回自殺を図っていた。罪の重さを感じてのことであろうか。

 

 

 

グリコ・森永事件(昭和59年)

 昭和59318日、午後930分ごろ、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長・江崎勝久宅(42)に覆面をした2人組の男性が侵入した。江崎勝久宅はセコムの防犯システムを導入していたが、犯人は防犯装置のない母親宅の窓ガラスを破って侵入、母親を縛り、合い鍵を奪って江崎勝久宅に押し入った。江崎夫人は「お金なら差しあげます」と叫んだが、拳銃を持った犯人は夫人をトイレに閉じこめ、金銭を奪わず、危害を加えず、子供2人と入浴中だった江崎社長を全裸のまま外へ連れ出した。自宅前には別の男が赤い車で待機していて、犯人たちは江崎社長を車に押し込めると急発進して逃走した。

 翌19日、犯人グループは江崎グリコ役員に「人質は預かった、身代金10億円と金塊100キロを用意しろ」と要求してきた。有名会社社長の誘拐、史上最大額の身代金、犯罪史上類のない大事件となった。

 捜査は進展しないまま時間だけが過ぎていった。しかし事件発生から3日後の21日午後2時30分頃、江崎社長は監禁されていた大阪・茨木駅近くの淀川ぞいにある水防倉庫から自力で抜け出し、鉄道作業員に助けを求めてきた。江崎社長は犯人像や脱出状況について多くを語らなかった。なぜ江崎グリコが狙われたのか、なぜ簡単に逃げ出せたのか、犯人はなぜ故意に開放したのか、犯人の背景や動機は謎のままであった。

 多くの謎を含みながら、この事件は一件落着したかにみえた。しかしこれは単なる序曲にすぎなかった。江崎社長は解放されたが、4月2日、犯人から6000万円を要求する脅迫状が江崎宅に届き、10日にはグリコ本社が放火された。誘拐事件は脅迫事件へと姿を変え、予想をこえる展開となった。

 警察は犯人グループの真意をはかりかねていたが、事件から約1ヶ月後の423日、犯人を自称する「かい人21面相」から、「けいさつの あほどもえ おまえら にんずう たくさん おって なにしてんねん」という挑発的脅迫状が新聞社に送られてきた。さらに「名古屋と岡山の間に青酸ソーダ0.05グラムを入れたグリコ製品を置く」と書かれた文面が送られてきた。そして西宮市内のコンビニに、「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った菓子が発見され、実際に青酸ソーダが検出された。防犯カメラに「野球帽をかぶった不審な男(キツネ目の男)」が映っていた。捜査本部はキツネ目の男を重要参考人として写真を公開したが、有力な手がかりはなかった。グリコ製品は店頭から撤去され50億円以上の損害を出した。売り上げは250億円低下し、株も落ち込み、工場は操業停止となった。グリコは捜査当局に非協力的な印象があったため、社内事情が絡んだ事件、何らかの裏取引、グリコへの怨恨説などが噂された。しかしその一方で、江崎グリコは犯人から再三脅迫を受けていた。

 6月2日、犯人は初めて現金奪取に動いた。犯人は大阪府摂津市の焼き肉屋の駐車場に現金3億円を積んだカローラを止めておくことをグリコに要求。駐車場ではグリコ社員と捜査員がカローラの中で犯人を待った。捜査本部の関係者は見立たないように周囲を取り囲んでいた。

 同日、午後8時15分頃、江崎氏が監禁されていた水防倉庫の近くの堤防で若い男女(Aさん、B子さん)が車を止めデートをしていた。そこへ3人の男が銃身のような物を持って運転席に入ってきた。Aさんは元自衛隊員で腕力に自信があったが、殴られて戦意を失った。そして犯人の2人はAさんの車に乗り、1人は犯人の車にB子さんを乗せ、それぞれ別方向に走り去った。2人組はAさんに、「焼き肉屋に駐車しているカローラバンの運転手から車を受け取り、先ほどの堤防まで戻って来い」と命令すると途中で車を降りた。「言うことを聞かないとB子さんの命はない」と脅されたAさんは犯人の指示に従った。

 Aさんは焼き肉屋に止めてあるカローラに近づき、捜査員に「この男に車を引き渡せ」と犯人が書いたメモを見せた。捜査員はカローラから降り、Aさんは指示通りにカローラを運転し堤防に向かった。しかしカローラは550m走ったところでエンストしてしまった。エンストは捜査本部が仕掛けたもので、Aさんは捜査員に取り押さえられた。捜査員は犯人逮捕と喜んだが、Aさんは脅迫されて車を運転していただけの替え玉であった。犯人逮捕は失敗、1時間後B子さんは犯人から電車賃2千円を貰って無事解放された。

 ところが6月26日、グリコ事件の終結を宣言する文書が各新聞社に届いた。犯人から「江崎グリコゆるしたる スーパーもグリコうってええ」との手紙が送られてきたのだった。犯人側と江崎グリコ側とに何があったのか謎のままであるが、この手紙と同時に大手スーパーなどがグリコ製品の販売を再開し、江崎グリコの業績は上がり株が上昇した。

 これで事件が終わったわけではなかった。犯人たちは標的をグリコから丸大ハムに変えたのだった。622日、犯人たちは丸大ハムに「グリコと同じようになりたくなかったら5000万円を用意しろ」と脅迫文を送ってきた。犯人の要求通り捜査員が5000万円の入ったボストンバックを持ち、指定された高槻市のバスターミナルへ向かった。バスターミナルの観光案内板の裏を見ると、「高槻駅から京都駅に向かう電車に乗り、東海道線の鉄橋近くで旗を見つけたら、車窓からボストンバックを投げ込め」と犯人からの指示があった。これは黒澤明監督の映画「天国と地獄」と同じ方法であった。しかし電車の速度が速かったせいか旗を見つけることができなかった。この時、捜査員のあとをつける不審な「キツネ目の男」が7人の捜査員に目撃されていた。この不審な男は、5000万円を持った捜査員が京都駅で下車し、再び高槻駅行きに戻る時も電車に乗り込んでいた。警察は不審な「キツネ目の男」を泳がせ、犯人グループを一網打尽にしようとしたが、京都駅で見失ってしまった。

 第3の標的は森永製菓だった。グリコ製品同様に青酸入りの菓子を関西のスーパーやコンビニ店に置き、「どくいりきけん、たべたら 死ぬで」と書いたシールを森永製品に貼り、森永製菓に1億円を要求してきた。しかし指定された場所に現金を置いたが、犯人は現れなかった。そして1週間後、NHKに青酸ソーダの固まりが送られてきた。

 第4の標的となったのはハウス食品だった。1114日、ハウス食品は脅迫状の指示通りに、車に1億円を積んで名神高速道路の大津パーキングエリアで金の受け渡しのため待機していた。この時も2人の捜査員がパーキングで不審な「キツネ目の男」に数メートルのところまで接近したが、捜査官は犯人に気づかれるような尾行は禁じられていた。キツネ目の男は高速道から、一般道路への通路を使い姿を消した。ハウスの社員に変装した捜査員は、犯人側が指定した場所に置いてあった指示書を読んだ。「名古屋方面に向かい、白い旗が見えたら缶に入れた指示書を見よ」と書いてあった。捜査官はゆっくりと車を名古屋方面に走らせた。

 一方、ほぼ同じ時刻、白い旗が取り付けられた高速道路の地点から50メートル手前で交差する県道で、滋賀県警のパトカーが不審なライトバンを発見した。大阪府警は、今回の捕り物について、京都、兵庫、和歌山の県警に情報を流していたが、滋賀県警には幹部にしか教えていなかった。そのためパトカーの警察官は取引があることを知らなかった。警察官が不審車を取り調べようとパトカーを降りると、不審車は急発進して逃走した。ライトバンは細道を猛烈なスピードで逃げ、パトカーは追跡したが見失ってしまった。その後、乗り捨ててあった不審車が発見された。その車は盗難車で、車内には警察傍受無線機が残されていた。つまり犯人は警察無線を傍受していたのだった。

 警察の失態が続くなかで時間だけが過ぎ、犯人から食品会社への脅迫状、警察への挑戦状が相次いだ。そして127日、第4の標的として不二家に1億円を要求する手紙が届いた。そして大阪市梅田の阪神百貨店、東京池袋のビルから1000万円を撒くように要求してきた。そしてバレンタイン目前の212日、東京と名古屋で青酸入りチョコレートが見つかった。その後、和菓子の老舗である駿河屋に5000万円を要求する脅迫状が届いた。

 そうこうしているうちに、事件発生から15ヶ月後の昭和60812日、犯人側から、突然「もうゆるしたろ、くいもんの 会社 いびるの もう やめや」と一方的に終結宣言があり、その後完全に犯人の動きがなくなった

 犯人の遺留品は100以上あり、西宮のコンビニのビデオには犯人が映っていながら、この事件は解決しなかった。遺留品は広範かつ大量に流通している商品で犯人には結びつかなかった。コンビニの防犯ビデオに映された「キツネ目の男」は全国に報道され、街頭にも多数の写真が貼られたが身元は不明のままである。警察の一連の失態は、犯行が関西地区を中心に大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県にまたがり捜査の連携に支障があったこと、さらに捜査本部の指示により末端の不審者を逮捕せず、尾行して犯人たちを一網打尽にする方針だったためである。犯人の思うままの展開に、警察への非難の声が高まり、責任を感じた滋賀県警察本部長が焼身自殺をしている。

 この事件による食品会社の損害は甚大であった。また実際に青酸ソーダの入った食品がばらまかれるなど当時の社会に与えた影響は大きかった。この事件の実行グループとして北朝鮮工作員説、左翼活動家説、暴力団説、総会屋説、現職警察官説などがあるが、犯人の目的や動機はいまだ分からない。警察は「犯人は何も得ていない」と発表しているが、犯人は企業との裏取引によって、あるいは株操作で儲けたとされている。警視庁は10年間で257000人の捜査官を投入したが、犯人を検挙することはできなかった。またこの事件で犯人たちが警察無線を傍受していたことが判明、警察無線をデジタル暗号化することになった。犯人は捕まらなかったが、グリコ・森永事件をまねた便乗犯が続出し、1年間で31件が摘発され25人が逮捕された。

 この事件の特徴は、企業トップの誘拐、犯行の大胆さ、犯人が警察の厳戒態勢をあざ笑うようにかいくぐったことである。さらに各食品会社に35通の脅迫状を送り、警察、マスコミにも63通の挑戦状を送り、マスコミを巧みに利用しながら話題をつくり、話題を圧力に会社を脅したことである。つまりこの犯罪はマスメディアを利用した食品企業脅迫であり、食品会社にとっては食品の安全性というイメージを逆手に取られた事件であった。また饒舌なメッセージで情報化社会を巧みに利用したことから「劇場型犯罪」と名付けられた。この事件は平成12213日に時効となり、広域指定事件として初めて迷宮入りとなった。すべては謎につつまれたままである。

 

 

 

ウロキナーゼ事件 昭和59年(1984年) 

 昭和59年6月6日、毎日新聞は朝刊で「バイオ工学医薬品第1号 血栓溶解剤 本日発売」の見出しで、製薬会社がバイオテクノロジー(生命工学)を用いた日本初の医薬品を発売すると報じた。この薬品は血栓溶解剤ウロキナーゼで、心筋梗塞患者にウロキナーゼを投与すると、死亡率を半減させたと報告されるほど、有効性が高いとされていた。

 このウロキナーゼは尿由来の生理活性物質で、尿1トンに30mgしか含まれず、精製するには新鮮尿を必要とした。製薬会社はウロキナーゼの増産しようとしたが、新鮮尿が必要なため増産は望めなかった。下水設備の普及から尿の入手が難しく、一時は韓国、台湾、中国の学校や軍隊から尿を集めていたほどであった。

 ところが、米国のアボット・ラボラトリーが人間の腎臓の細胞を培養してウロキナーゼを生産する方法を開発、日本でもバイオ工学医薬品第1号となった。毎日新聞は、大日本製薬、ダイナポット、杏林製薬、三菱油化薬品の4社が腎臓の組織培養からウロキナーゼを商品化したことを、生命科学の輝かしい成果と報じた。

 しかしどこから人間の腎臓を集めたのかが問題になった。日本消費者連盟は「日米の製薬会社が東南アジアで死産胎児を買いあさっている」と指摘。また日本国内にも産婦人科医師と製薬会社を仲立ちする業者がいることが判明した。昭和57年2月25日、NHKは「ルポルタージュ日本・愛の重さ、高校生の妊娠」を放映し、産婦人科医院から火葬場に向かうトラックが、途中で段ボール箱を降ろし、何やら仕分けしている業者を映し出した。つまりウロキナーゼは、産院の手術室から闇へと葬り去られた胎児の腎臓が用いられていたのである。

 当時の法律では、胎児の扱いについて特別な規定はなかった。昭和25年2月2日の厚生省医務局長の通達では、「手術などで分離された生体の一部、あるいは流産した4カ月未満の胎児の処置については、社会通念に反しないように処置する」とされていただけである。日本は中絶天国で、胎児の横流しは常識とされていた。

 法的問題はないにしても、胎児の腎臓を用いることが社会通念、社会倫理に沿った利用とは言えなかった。まして毎日新聞が取り上げたように、バイオ工学と誇れるものとは言い難かった。国の規制がなかったため、東京都では処理する業者を届出制として各診療所から出される胎児や胎盤の数の報告を義務付けていた。その後、人間の腎臓を培養して作られたウロキナーゼは、ウイルス感染の可能性が高いことが指摘され中止となった。

 ウロキナーゼは第1世代の血栓溶解薬としてよく用いられた。ウロキナーゼは理論的には血管を閉塞している血栓を溶かし、脳梗塞を改善させると期待されたが、実際には宣伝ほどの有効性がないことが分かった。さらに脳の出血性病変を招く危険性も報告された。

 平成15年、厚生労働省研究班は脳梗塞の治療について、血栓溶解剤ウロキナーゼは「治療を勧めるだけの根拠がない」とした。つまり効果がないとしたのである。ウロキナーゼは現在、欧米では使われていない。厚労省研究班は承認しているウロキナーゼの効果を疑問視しながら、未承認のプラスミノゲンアクチベーター(tPA)を高く評価するねじれた報告を出した。

 脳梗塞の治療は発病直後の治療が生死を分ける。欧米では発病3時間以内に血栓溶解剤のtPAを点滴投与する方法が効果を挙げている。日本ではtPAは心筋梗塞については承認されているが、脳梗塞については未承認だった。しかし平成1710月になって脳梗塞についても条件付きで使用が認められるようになった。脳卒中の約7割を占める脳梗塞は、推定患者数が120万人に上り、年間約8万人が死亡している。tPAの効果に大きな期待がもたれている。

 ところで納豆にはウロキナーゼに似た作用を持つナットウキナーゼが多く含まれている。ナットウキナーゼは、倉敷芸術科学大学の須見洋行博士が米シカゴ大医学部の血液研究所で偶然発見したものである。須見博士はシャーレ中の血栓に納豆を入れて放置すると、納豆の周囲の血栓が徐々に溶解し、18時間後には完全に溶解する現象を発見した。

 このことがNHKで放映され、ナットウキナーゼが一般にも知られるようになった。そして、日本人が長生きなのは納豆を食べているからと理屈をのべた。納豆は煮豆に納豆菌を加え発酵させて作るが、納豆菌が作り出す酵素がナットウキナーゼである。このナットウキナーゼは臨床で使われる血栓薬よりも強力な血栓溶解作用があるとされている。しかし重要なことは、納豆を食べてもナットウキナーゼは体内に吸収されないのである。つまりナットウキナーゼの血栓溶解作用が本当でも、納豆を食べて血液がサラサラになるのは間違いなのである。

 納豆は血栓予防に良いと誤解されているが、その一方では、血栓治療薬ワーファリンの作用を阻害するため、ワーファリン患者は納豆を食べてはいけないと病院で指導をうける。そのため「納豆は心臓に良いとか、いや悪い」といった誤解を生んでいる。またお酒は体内でのウロキナーゼの合成を促進させる効果がある。お酒の量が多いと減少するので、適量飲酒がより健康的とされている。

 

 

 

からし蓮根食中毒事件 昭和59年(1984年)

 昭和59年6月23日に長崎市で、24日には宮崎市でボツリヌス食中毒患者が発生した。25日には熊本の名産品からし蓮根(れんこん)が原因と判明、報道機関を通じて全国に注意が呼びかけられた。ボツリヌス食中毒の発生は28日には終息したが、最終的に1都12県で患者36人、死者11人を出す大惨事に発展した。食中毒の規模は小さかったが、致死率は31%に達した。

 からし蓮根は熊本の名産品で、製造会社は熊本県内だけで大小合わせ約100社もあった。熊本県衛生部は、食中毒患者が食べた「からし蓮根」は熊本市内の食品会社「三香」が製造したものであることを突き止め、直ちに製造の中止と土産店からの回収を命じた。

 ボツリヌス食中毒を起こした患者は、「からし蓮根」を土産物店で購入し、各地に持ち帰り発症した。三香は、この年の6月1日から製造中止までに、3万1000パックの「からし蓮根」をつくっていた。このパックの中にボツリヌス菌が混入したのだった。

 ボツリヌス菌は、普通の細菌とは異なり、空気のない土や海水中に生息する嫌気性菌である。嫌気性菌とは、空気のない状態でのみ増殖する菌で、空気があると発育が停止する。このように嫌気性菌は、通常の生物とは逆の特徴を持っていた。

 三香が製造した「からし蓮根」は、真空パックで売られていた。真空パックであれば、長期間の保存が可能と考えがちであるが、この真空が嫌気性菌であるポツリヌスにとって増殖しやすい環境をつくっていた。ポツリヌス菌は、真空パックの中で増殖して毒素を生み出し、この毒素が口から入り、体内に吸収されて中毒を引き起こしたのである。

 この悲劇は常温での保存が可能という真空パックの利点が落とし穴となった。三香も真空パックを過信し、「からし蓮根」の賞味保証期間を25日としていた。

 三香はこの事件で倒産したが、それだけにとどまらず、全国の食品売り場からからし蓮根が排除された。からし蓮根食中毒事件の犠牲者とその家族は、自己破産した三香の破産管理人を相手に損害賠償を求め、総額2億7500万円で和解となったが、会社に残された資産はわずかばかりで、原告が手にした金額は死者1人当たり100万円にすぎなかった。

 熊本の名産品からし蓮根は、初代熊本藩主・加藤清正の時代からあった。貧血で病弱だった細川忠利公のために、禅僧が鉄分の多い蓮根を食べるように進言。藩の料理人らが腕をふるい、熊本に伝わる麦みそと和がらし粉を混ぜたものを蓮根の穴に詰め、衣をつけ菜種油で揚げ、細川公に献上したのだった。細川公がこの蓮根を常食にして健康を取り戻したことから、また細川家の家紋に似ていることから、からし蓮根は細川藩口伝の栄養食となった。これが、からし蓮根の歴史である。

 からし蓮根は夏場には製造されていなかったが、真空パックという新しい保存法が開発されたため売り出されるようになった。被害者が全国に及んだのは、グルメブームで地方の伝統食品が全国に流通するようになったからである。からし蓮根の製造は機械化されていたが、大量生産はできず、熊本市の城南町を中心に製造・販売業者が集まり味を競っていた。もちろん、からし蓮根400年の歴史の中で、ボツリヌス中毒は今回の事件が初めてであった。

 ボツリヌス毒素は、加熱すれば不活性化するが、ボツリヌス菌は芽胞をつくるため熱に強く100℃でも1時間は平気だった。空気(酸素)のない場所で増え、熱に強いボツリヌス菌の存在など誰も予想していなかった。

 ボツリヌス中毒は、ボツリヌス菌が食品中で増殖し、毒素を産生することによって起きる。通常の食中毒は下痢、嘔吐などの胃腸症状を示すが、ボツリヌス中毒の胃腸症状は軽度で、多くは神経症状で発症する。

 身体の筋肉が動くためには、神経から筋肉への命令(神経伝達)が、アセチルコリンという化学物質を介して行われている。ボツリヌスの毒素は、このアセチルコリンの放出を阻害するため、手足が自由に動かせなくなる。さらに呼吸筋が麻痺し、呼吸ができずに死に至る。ボツリヌス食中毒が恐ろしいのは、毒素が神経毒であるため、患者は平熱で、意識も死の直前までしっかりしていることである。

 ボツリヌス食中毒は、食べてから半日から1日の潜伏期間をおいて発症する。まぶたが重くなり、ものが見えにくくなる、ものがぼやけ二重に見えるなどの神経症状が初期症状で、その他、頭痛やめまいが出現する。次に唾液が出にくいなどの自律神経症状が出て、四肢の麻痺が出てくる。

 最終的には呼吸筋麻痺で死亡するケースが多いが、最初の10日を乗り切れば助かるとされている。しかし今回のからし蓮根事件では、6カ月間呼吸困難が続いた患者がいた。

 患者の血液、便、食べ物からボツリヌスの毒素を検出することで確定診断となる。さらには遺伝子増幅法、酵素抗体法などもあるが、まずは臨床症状から本疾患を疑ってみることである。治療は、呼吸管理を中心とした全身管理を施すことで、抗ボツリヌス抗体を用いた血清療法は早期であれば有効である。ボツリヌス中毒に有効な抗生剤はない。

 ボツリヌス菌には、A型からG型までの7種類が知られていて、人間に毒素をもたらすのは、A型、B型、E型、F型の4種類である。ボツリヌス菌が出す毒素は地上最強とされ、ボツリヌスA型の毒素はわずか0.0005ミリグラムが致死量とされている。この毒素は青酸カリの30数万倍の強さで、200グラムで全人類が死亡する。

 毒性が最も強いA型ボツリヌス菌の死亡率は、3080%と高いが、ボツリヌス菌による食中毒は、日本ではこれまで年間数件程度である。からし蓮根中毒事件ほどの大規模な中毒は、極めて珍しいことであった。

 ボツリヌス菌による食中毒事件は極めて珍しく、特に西日本ではボツリヌス菌は無縁とさえ言われていた。もともと日本に少ないボツリヌス中毒が起きたのは理由があった。日本のボツリヌス中毒は、E型ボツリヌス菌が通常であるが、からし蓮根から検出されたのは、毒性が最も強いA型であった。からし蓮根に使用された「からし」が、ヨーロッパから輸入されたものだったからである。ボツリヌス菌A型は、ヨーロッパでは広く分布していた。

 1793年にドイツでソーセージを食べた人たちが、世界で初のボツリヌス中毒になった。ボツリヌス中毒は欧米では「腸詰め中毒」として古くから知られていた。それはハムやソーセージを食べた後に起こす奇怪な中毒の意味であった。ボツリヌスの病名もラテン語の「ソーセージ(腸詰め)」に由来している。このように、ヨーロッパではソーセージ、薫製、ハムを食べてボツリヌス中毒になる人が多かった。

 1895年のベルギーに話はさかのぼるが、葬儀の昼食に出された塩漬けのハムを食べ、10人が重症になり3人が死亡した。この食中毒を詳細に調べた医学者のエルメンゲンが、ボツリヌス菌を世界で初めて発見した。エルメンゲンはハムと遺体から分離した菌を動物に注射しても死なないのに、菌の培養液を注射すると動物が麻痺を起こして死亡することを発見した。つまり食中毒は菌そのものではなく、菌がつくりだす毒素によるものだった。そしてエルメンゲンはこの毒素を産生する細菌をボツリヌス菌と命名した。

 ボツリヌス菌そのものは熱に強いが、その毒素は熱に弱い。8030分の加熱処理で無毒化される。また現在、食品添加剤として使用されている亜硝酸ナトリウムは、ボツリヌス菌の増殖を抑える作用がある。そのためハムなどの成分表を見ると、亜硝酸ナトリウムが含まれているのがわかる。

 日本では、ボツリヌス菌による食中毒事件は戦前には認められていない。日本におけるボツリヌス中毒の最初の報告は、昭和26年6月に北海道で起きた「いずし食中毒事件」である。この事件は、北海道岩内郡島野村で54歳の女性が腹痛を起こし死亡したのが発端であった。翌日、女性の葬儀に訪れた人たちが、女性が作っていた「にしんのいずし(にしんを米や麹[こうじ]と一緒に漬け込んだ料理)」を食べたところ大騒動となった。

 葬儀に出席した24人が腹痛を訴え、4人が死亡したのだった。この「いずし食中毒事件」は、最初は毒物混入事件とされたが、遺体に毒物反応がみられず、北海道衛生研究所の飯田広夫に検査が依頼された。飯田広夫は海外で報告されているボツリヌス中毒を疑い、食べ残された「にしんのいずし」からE型ボツリヌス菌を検出した。この「いずし食中毒事件」以降、日本のボツリヌス菌中毒はE型食中毒が主であった。

 ボツリヌス菌による食中毒事件は、戦後から平成7年までに109件。患者数は511人、死者は113人(致死率22.1%)で、その死亡率の高いことが分かる。北海道や東北地方では「いずし」あるいはこれに類似した魚類の発酵食品に多くみられ、毒素はいずれもE型である。

 主だった例として、昭和44年に宮城県の県庁職員がオードブルを食べ21人が発症し3人が死亡。この事件は西ドイツから輸入したキャビアによるボツリヌス菌B型による食中毒で、B型による日本初のケースであった。昭和48年には滋賀県でハスずし(E型感染)による中毒があった。昭和51年には、東京都調布市で原因食品は不明であるが、ボツリヌスA型菌による食中毒により2人が発症し1人が死亡している。

 その他、栃木県(昭和59年、B型、原因食品不明)、岡山県(昭和63年、A型、原因食品不明)、広島県(平成3年、A型、原因食品不明)、秋田県(平成5年、A型、里芋の缶詰)、大阪府(平成5年、毒素型不明、臨床決定)などがある。

 平成11年、千葉県柏市でパック入り「ハヤシライス」で、小学6年生の女児がボツリヌスA型菌による食中毒になっている。女児は意識不明の重体になったが数カ月後に回復している。保健所の調査では、「ハヤシライス」は要冷蔵であったが、購入後9日間常温に置かれてあった。この例も真空パックだったことが災いしたとされ、メーカーは「要冷蔵」の表示を大きくするなどの対策を講じた。

 ボツリヌス食中毒の原因となる食品は、ヨーロッパから輸入されたオリーブ漬けの缶詰やびん詰などの保存食品が多い。缶詰、薫製、ソーセージ、ハムなどが原因食品となる。死亡率が高いことがボツリヌス中毒の特徴であるが、早期発見、全身管理の進歩により最近では死亡例は出ていない。

 現在、ボツリヌスA型毒素はその特性を生かし、筋肉の硬直を取る薬剤として使われている。自分の意志とは関係なく筋肉が収縮するジストニア、目の周囲の筋肉がけいれんしてまぶたが開かなくなる眼瞼けいれん、首や背中の筋肉が異常に収縮する斜視などの治療薬となっている。

 また顔面のしわを取るために、整形美容でボツリヌスの注射が行われている。もちろんボツリヌス毒素は危険性をともなうため薬剤として扱われ、専門医により投与される。眼瞼けいれんの治療に治療量の7万倍の毒素(致死量の100倍)を投与し、呼吸麻痺を起こし人工呼吸器から145日目に離脱したとの報告もある(日集中治療医会誌19985200)。

 

 

 

宇都宮病院職員リンチ事件 昭和59年(1984年)

 昭和45年3月5日から、朝日新聞の記者・大熊一夫による「ルポ・精神病棟」の連載が始まった。悪臭と寒気に包まれた劣悪な監禁室、リンチ代わりに行われる電気ショック、牢番(ろうばん)となっている精神科医、政党の選挙応援を患者に強要する病院。紙上に掲載されたのは、恐ろしいまでの精神病院の実態だった。

 記事では、治療を受けている患者よりも、精神病院そのものが狂気に満ちていると指摘した。このレポートは国民の関心を呼び、国会では野党が事実関係を追及、日本精神病院協会は各精神病院に自戒を呼びかけた。この「ルポ・精神病棟」は、大きな社会問題となったが、実際には「臭いものにふた」の対応だけで、何ら改善はみられなかった。このようなとき、宇都宮病院リンチ事件が発生した。

 昭和59年3月14日、朝日新聞は栃木県宇都宮市の報徳会・宇都宮病院(石川文之進院長)で、患者2人が職員からリンチを受けて死亡していたとスクープした。死亡したのは、看護職員が鉄パイプなどで殴りつけた撲殺によるものであった。さらに大勢の患者を前でこのようなリンチが日常的に行われていると報じた。この新聞記事がきっかけに、マスコミに尻をたたかれた警察は、やっと重い腰を上げた。昭和59329日、栃木県警は看護職員ら5人を傷害致死容疑で逮捕した。

 警察が逮捕を躊躇(ちゅうちょ)したのは、裁判になった場合、精神障害者の証言がどこまで認められるかであった。たとえ証言時は正常でも、事件時に異常だったといわれれば、裁判がどうなるか分からなかった。さらに警察には宇都宮病院に恩義があった。宇都宮病院は警察が手を焼くような困り者でも喜んで入院させていたからで、また宇都宮病院の事務局長は、かつて所轄署の次長だった。

 最初の殺人は、昭和58年4月24日に起きた。昭和44年から精神分裂病(統合失調症)で入院していた男性患者(32)が、食事の内容に不満を漏らしたことが発端になり、看護職員と口論。看護職員は点滴台の鉄パイプを持ち出し、ほかの患者の前で、背中や腰を20分にわたって殴り続けた。全身を乱打された患者は、顔面蒼白(そうはく)となり、患者仲間がベッドに運びこんだが嘔吐を繰り返して死亡した。その日の当直医は石川院長であったが外出していて、看護師が心臓マッサージを繰り返したが蘇生しなかった。この患者の死因について、石川院長はてんかん発作による心臓衰弱と家族に説明していた。

 次の殺人は、同年1230日にアルコール依存症で入院していた患者(35)が、見舞いに来た家族に病院の待遇のひどさを訴えたことがきっかけであった。患者どうしのけんかに3人の看護職員が加わり、患者を袋だたきにしたのである。患者は血を吐いて翌日死亡した。この事件について、石川院長は遺体には暴行を思わせる傷がなかったので、病死としたと釈明した。

 この2つの殺人事件の捜査により、宇都宮病院の「殴る蹴(け)る」の暴力体質が次々に暴露していった。しかし2つの殺人事件は氷山の一角で、精神病院という隠れたベールの中で、看護職員による暴行暴力が日常的に行われていた。宇都宮病院の殺人事件は、人の生命を預かるはずの病院で起きた事件だけに、国民に与えた衝撃は大きかった。

 昭和36年に開設された宇都宮病院は、ベッド数920床の大規模な病院で、ベッド数では大学病院に匹敵する大きさであったが、常勤医師はわずか3人で、職員の人数も基準の4割と少なく定着率も悪かった。看護師の数は医療法による適正基準の半分にも満たなかった。

 入院患者の入院日数は異常に長く、患者の死亡数も昭和56年からの3年間で222人と多かった。この死亡した患者の中で少なくても6人が、暴行による死亡の疑いが持たれていた。密室による暴力行為が日常的に行われ、石川院長は看護職員の暴力行為を黙認していただけでなく、回診時にはゴルフのアイアンを持ち病室を回っていた。クラブで患者を殴り、あるいは患者に襲われないように威圧した。院長の回診は週に1回で、診察時間は1人あたり数秒にも満たなかった。

 宇都宮病院の異常は、患者への暴力行為だけでなく、そのデタラメぶりが次々に発覚していった。石川院長は作業療法と称して、患者に自宅や病院の増築・造園を手伝わせ、同族企業の自動車学校やスイミングスクールの用務員として無給で雑役係をやらせていた。乱脈として際だっていたのは、症状の軽い患者を準職員扱いにして、病院業務を手伝わせていたことである。患者は白衣を着せられ、食事の配膳温、度板、看護日誌、脳波、心電図、さらには注射や点滴などの看護業務までやらされていた。

 患者が病院職員と同じように働き、患者がいなければ病院は機能しないとまでいわれていた。タバコなどの報酬を与え、患者を管理する「患者職員」を作り、職員として働かせていた。事務職員にも白衣を着せて無資格診療をさせていた。

 病院は患者の預金通帳を管理し、生活保護の患者に振り込まれた生活費をピンハネし、数千万円が行方不明になっていた。さらに違法な蓄財も発覚し、法人税2億円の脱税も発覚し、まったくデタラメな経営であった。

 宇都宮病院はこのようにひどい病院であったが、それを隠すように、15人の東大元教授や助教授などが宇都宮病院の非常勤として名前を連ねていた。この東大を中心とするスタッフは、病院の威厳を高め、病院の乱脈を隠すのに都合がよかった。

 東大の医師にとっては、豊富な症例を持つ宇都宮病院は研究に好都合であった。それを裏付けるように、宇都宮病院を対象とした医学論文は200編を超えていた。文句を言わない患者は医師にとって好都合で、許可を得ないで死亡患者の脳の解剖を行うなどの違法行為が行われていた。東大の医師の多くは基礎医学や臨床研究者で、患者の病気をよくするための研究ではなく、患者を研究のためのモルモットとみていた。

 宇都宮病院事件は、日本の精神医療に大きな問題を投げかけ、この事件をきっかけに精神医療の在り方が大きく変わることになる。それまでの精神医療は入院中心主義で、この入院中心主義が精神病院の密室性、行政との癒着を生む温床になっていた。米国の非政府組織(NGO)は、国連人権小委員会に「日本の精神障害患者の取り扱いは人権侵害にあたる」と告発したが、宇都宮病院は日本の精神医療の裏側をさらけ出すことになった。

 この事件の背景には、石川文之進院長の拝金主義があった。石川院長は、昭和24年に阪大医専を卒業すると、昭和36年に宇都宮病院を開設。宇都宮病院は、家族から見放された患者やほかの病院が嫌がるやっかいな患者を引き取ることで有名であった。関東一円から、アルコール依存症や覚醒剤中毒などの患者を積極的に集め、そのため周辺の病院や警察から便利がられていた。

 病院は拡張工事を繰り返し、昭和58年には920床の大病院になった。以前から患者の事故死が多いとされてきたが、何といってもやっかいな患者を引き受けてくれる病院の存在は大きかった。問題の多い患者は、どの病院でも受け入れを拒まれるのが現状で、治療よりも治安が優先され、患者は病院に閉じこめられ、まさに恐怖の収容所であった。石川院長の実弟が有力な県会議員で、行政や政界にもコネがあった。そのため病院に警察が入るとは思っていなかった。

 精神障害、覚せい剤中毒、アルコール依存症などの患者は社会の受け皿がなく、家庭、警察、行政、病院などをたらい回しになることが多かった。このような背景から、患者を精神病院という檻(おり)に入れ、外から見えないようにふたをするのは周囲にとって都合がよかった。また正常な人間も、家族との不和を理由に病院に送り込まれた。栃木県衛生環境部は治療の必要性を調査したが、入院の必要のない患者が多数いること、さらには医療の必要がない者も多く含まれていることが分かった。

 事件発覚後、土葬された遺体が発掘され、暴行の事実が裏付けられた。宇都宮地裁はこの殺人事件で、元看護職員に懲役4年の実刑判決を下した。石川院長も保健婦助産婦看護婦法違反で逮捕され、最高裁で懲役8カ月の実刑の判決を受けた。また医道審議会は石川院長に医業停止2年を言い渡した。

 東大は、宇都宮病院に関係した6人の教官に対して厳重注意の処分を行った。その理由として、患者の利益を考えずに研究を行ったこと、宇都宮病院の異常性を知りながら注意しなかったこと、東大教官が病院にその地位を利用されたことなどが挙げられた。さらに、宇都宮病院に関係した論文に名を連ねた東大の精神科医たちは、精神神経学会でその責任を追及された。

 精神病院の暴力体質は宇都宮病院だけではなかった。事件が発生する以前にも、精神病院での暴行事件が頻回に起きていた。昭和431224日、大阪府北河内郡の栗岡病院で患者が集団脱走を計画。それを知った院長らが13人の患者をバットなどで殴り、男性患者1人を死亡させている。昭和44年3月22日には、大阪府柏原市の大和川病院で、病院から逃げようとした患者を看護職員3人が暴行して殺害。昭和54年8月2日、同じ大和川病院で布団の中でたばこを吸っていた患者を、看護職員3人が殴り殺している。

 宇都宮病院の職員は、ほかの病院では引き取らない患者を受け入れている自負心が、はき違えた使命感になり、次第におごりの気持ちに変わっていた。患者は病院に白紙委任を渡し、治外法権の中で、患者の人権が闇から闇に葬られていった。精神障害患者を病院に閉じこめる密室的な精神医療が、この事件を生んだといえる。

 宇都宮病院の事件は、患者の人権無視にあることは明確であるが、その一方で宇都宮病院が治安に役立っていたことも事実で、地元での評判は悪いものではなかった。社会全体が「姥捨て山」を求めていたのだった。

 この事件によって、170人の患者が退院となった。栃木県が委託した精神科医によって措置入院患者(自傷、他傷の恐れのある者)とされていた6割が措置を解除されて退院した。しかし、退院直後にナイフで宇都宮駅職員を切りつけた者、無免許で自動車の当て逃げをした者、自宅で母親を殺害した者、行き倒れになった者などが続出した。そのため危険な患者を退院させたことで、栃木県が逆に問われることになった。このように精神医療は複雑な事情を含んでいた。

 この事件は精神病院が、密室でゆがんだ体質を知らしめたことでは大きな意味を持っていた。このリンチ事件をきっかけに、精神医療はそれまでの閉鎖病棟中心から開放病棟中心に、入院治療から外来治療へと変わっていった。さらに患者の人権と社会復帰を明文化した精神保健法が成立することになった。

 

 

昭和50年代小事件史

 

【高齢化社会】昭和50(1975)

 昭和50年に実施した国勢調査で、生産年齢人口(1564歳)の割合が前回調査の68.9%から67.8%に初めて減少した。これは高度経済成長を支えてきた若い世代が減少したためで、高齢化社会の入り口に立ったことを示していた。日本の高齢化社会がいつから始まったのか、明確に答えられる人は少ないであろうが、昭和50年が高齢化社会の始まりであった。

 昭和50年にこの予想がありながら、将来の高齢化社会への対策を立てていなかったので、平成の時代になって急に少子高齢化の問題が大きくなった。統計を出すだけで対策を講じない行政の不備を感じさせる。その後、昭和59年の日本人の平均寿命は男性74.2歳、女性79.78歳になり、日本は世界一の長寿国となった。

 日本人の年齢中央値、すなわち日本人を0歳から最高齢者まで年齢順に並べた場合、その中央の人の年齢は何歳であろうか。0歳から年齢順で6350万人目の人の年齢になるが、この年齢中央値は昭和25年には22.3歳、昭和50年は30.4歳。平成12年は41.3歳、平成16年は44歳になっている。かつての写真を見ると都市部の街は若者で溢れていた。それがしだいに高齢者となり、高齢化社会を肌で感じるようになった。過疎地で見られていた高齢化が地方都市に、さらには都市部でも見られるようになった。 

【アメーバ赤痢】昭和50(1975)

 戦前までアメーバ赤痢は珍しい疾患ではなく、国民の7%が感染していた。しかし戦後に下水道が整備され、栄養状態が改善し、赤痢アメーバは激減した。アメーバ赤痢は赤痢の亜系として法定伝染病に含まれていたことから、この統計は正しいものと考えられる。

 アメーバ赤痢の患者数は年間数人まで減少したが、昭和50年ごろから患者数が増加し、年間およそ100人となり、死亡例も見られるようになった。海外の流行地からの持ち帰り、福祉施設での集団感染もあるが、男性の同性愛者が増えたことも増加の原因となった。アメーバ赤痢の感染は、糞便の経口感染で、同性愛者はアナルセックスで感染した。つまりアメーバ赤痢は性感染症(STD)の1つになっている。

 アメーバ赤痢は経口感染であるが、赤痢アメーバは大きさ1530ミクロンの原虫である。赤痢アメーバはアメーバ状に動き回る「栄養型」の時期と、球状の「嚢子(のうし)」の時期があって、栄養型は人体を活発に動き回るが感染性はない。感染するのは便に放出された嚢子で、嚢子が口から入ると小腸で栄養型のアメーバとなり分裂を繰り返す。赤痢アメーバは組織融解酵素を出して大腸を消化するので、大腸に潰瘍をつくり大腸穿孔(せんこう)に至ることがある。症状は下痢、粘血便、しぶり腹、排便時の下腹部痛などで、典型例ではイチゴゼリー状の粘血便になる。

 赤痢アメーバが門脈から肝に達すると肝膿瘍となる。肝膿瘍は発熱、右季肋部痛、肝腫大、嘔気、体重減少、寝汗、全身倦怠などを伴い、アメーバ赤痢の2040%が肝膿瘍を合併する。アメーバ赤痢の治療は殺アメーバ剤であるメトロニダゾールで、テトラサイクリンなどの併用が勧められている。肝膿瘍が大きくなれば肝ドレナージが必要となる。

 赤痢アメーバは忘れがちな疾患であるが、臨床の場では意外に多くみられる。赤痢アメーバは世界各地に分布していて、世界では約5億人が感染し、大腸炎や肝膿瘍で毎年4万人から11万人が死亡している。

 

【白ろう病】昭和50(1975)

 昭和30年頃から、国有林の伐採作業用にチェーンソー(自動のこぎり)が導入され、昭和35年頃から、林野庁の作業員に手指のしびれや痛みを訴える者が出てきた。チェーンソーの使用で、作業員の末梢血管がけいれん収縮し、末梢神経が冒されたためである。これは振動病の1つで、チェーンソーだけでなく、削岩機、鋲打機、研磨機、電動ドライバー、刈り払い機などによって引き起こされた。

 上肢のしびれ、痛み、冷感をきたし、手指がロウソクのように真っ白になることから「白ろう病」と名付けられ、昭和50年末までに2797人が職業病として認定されている。

 白ろう病の予防は振動工具の使用を中止し、寒冷刺激にさらさないことである。治療としては、温浴療法などの物理療法のほか、血管拡張剤、鎮静剤、向神経性ビタミン剤などが使用されるが効果は少ない。昭和501019日、全林野労働組合は林野庁長官を傷害罪で告訴した。

 

【日航機集団食中毒事件】昭和50(1975)

 昭和50年2月3日、コペンハーゲンに着いた日航のチャーター機で集団食中毒が発生し、乗客413人、乗務員1人がコペンハーゲンの病院に収容された。食中毒の原因は機内食を調理した料理人が指先にケガをしており、そこからブドウ球菌が混入したことによる。患者のほとんどは数日で退院したが、1週間後の2月10日、現地機内食責任者である桑原研治さん(52)が責任をとってピストルでこめかみを撃って死んでいるのが発見された。桑原さんは事故処理に連日忙しく働いていた。「食中毒の責任はすべて自分にある」という遺書があった。

 飛行機食による食中毒は極めてまれであるが、昭和51年3月3日、日航機でマニラから大阪へ帰ってきた飛行客151人中95人が腹痛、下痢の症状を訴え、2人が入院した。スチュワーデスも同じ症状を示したことから機内食による食中毒とされた。

 余談であるが、機長と副機長に出される食事の食材は違っている。それは地位の違いによるものではなく、同じ食事で食中毒を同時に出さないための配慮であった。このように航空業界は安全に気を配っている。なお乗務員の体調不良の中で最も多いのは食中毒とされている。

 

【種痘廃止】昭和51(1976)

 天然痘のワクチンを種痘とよぶが、昭和45年頃から種痘による副作用が問題となった。昭和46年までに厚生省に届けられた種痘による死亡例は241例、後遺症は254例、治療中は148例であった。この数値は厚生省に届けられた数値で、実際にはその数倍と推定された。

 平成11年、生物テロを心配した米国政府が種痘禍の試算を行った。試算では、天然痘ウイルスによるテロが起きた場合、種痘により100万人当たり100人以上の重篤な副作用が発生し1人以上が死亡するとした。このことから日本の種痘禍の数値は妥当と考えられる。

 北海道・小樽で種痘禍が裁判で争われた。小樽保健所で集団種痘接種を受けたゼロ歳の子供が接種から9日目に突然高熱を発し、12日目から両下肢の不全麻痺をきたしたために損害賠償を求めての訴訟であった。1審の地裁は、種痘と副作用との因果関係を認めたが、2審の控訴審は子供の健康状態が禁忌者に該当せず、医師には接種を回避すべき義務がなかったと逆転敗訴となった。つまり「予診が不十分だったので後遺症が出た」と主張する原告に、その因果関係はないとしたのである。種痘禍裁判は最高裁まで争われ、四半世紀ぶりに原告勝訴となっている。

 厚生省は昭和51年6月、種痘禍の世論の高まりに押され予防接種法を改正して種痘の強制接種を廃止した。救済制度については死亡者330万円だったが、昭和51年に910万円、昭和52年には1170万円に引き上げた。

 種痘は天然痘の予防に大きな役割を果たしてきた。しかし昭和26年以降、日本では天然痘は発生しておらず、そもそも種痘は必要なかったのである。現実はそうであったが、法律は強制接種のままで、受けない場合には罰則規定が定められていた。法律そのものが時代遅れだったわけで、天然痘が発生していないのに種痘を漫然と行っていた行政に問題があった。伝染病を予防するはずの種痘が、副作用という大きなつめ跡を子供たちに残したのである。

 

【予防接種、医師の過失が争点に 】昭和51(1976)

 昭和4111月4日、保健所で1歳の幼児がインフルエンザの予防注射を受けた。A医師は両親に幼児の年齢を聞いただけで、問診や診察を行わずに予防接種をした。ところがその翌日、幼児は間質性肺炎で死亡した。

 幼児の両親は、A医師が適切な診察をしていれば、間質性肺炎の異常に気づき、予防注射を中止したはずと訴えた。予防接種実施規則では、医師は接種前に問診や聴打診などの予診を行って接種者の健康状態を調べてから接種を行うことになっている。A医師はこの予診を怠ったために幼児を死亡させたとして裁判で争われた。インフルエンザの予防接種における医師の過失が争点となった。

 第1審は、「A医師は保健所で多くの幼児の予防接種を行っていて、ほかの幼児と同じ程度の問診をしたと考えられる。さらに両親が幼児の異常に気付いていないのだから、A医師が幼児の身体異常に気付かないとしても無理はない」として、A医師の過失を認めなかった。第2審でも同様の判決で、死因と問診義務との間に因果関係はないとした。

 しかし、このインフルエンザ訴訟は最高裁まで争われ、最高裁で判決が逆転した。昭和51年9月3日、最高裁はインフルエンザ予防接種で医師の過失を認め、差し戻し判決を下した。最高裁の判決は、「予診で異常がある場合、あるいは判断が困難な場合、予防接種は行わない」という実施要項を根拠にしていた。

 この医師の過失判決に、愛知県医師会をはじめとした各医師会が反発した。当時、厚生省の通達では「予防接種は1時間に100人をめどに行う」とされていた。この人数基準は最低限度の基準で、実際には30秒に1人の割合で予防接種が行われていた。愛知県医師会はこの判決は厳しすぎ、現在の体制では予防接種は続けられないと抗議した。

 この判決をきっかけに予防接種をボイコットする動きが各地に広まった。最高裁の判断を、「予防接種の現場の実情とかけ離れた、理想を求める判決」とした。厚相は「判決によって現行の予診の方式が否定されるとは考えられない」との談話を発表。日本医師会はこれを受け、社会的責任を放棄できないとして予防接種の再開を決定した。

 

【命がけの宝くじ】昭和51(1976)

 昭和511221日、「11000万円40本、あなたも1千万円長者にチャレンジしてみませんか」をうたい文句に、年末ジャンボ宝くじが全国7300カ所の発売所から一斉に売り出された。師走の夢を追った大型宝くじに日本中が大フィーバ、前夜からの徹夜組も含め、予想をはるかに超える購入者が殺到し、各地で死者がでるほどの大混乱となった。

 東京の後楽園球場では70万枚を発売予定としていたが、深夜1時に1万人が集まり、球場をぎっしり埋め尽くした。第一勧銀は整理券を配ろうとしたが、それが混乱を引き起こした。寒さしのぎに飲んでいた酒の勢いも手伝い、怒声や罵声が飛び交い、売り場ボックスが壊され、400人の機動隊が規制に乗り出した。朝の5時には群衆は2万人にふくれあがり球場を取り巻いた。610分、6つの窓口で宝くじ売り出されると、群衆がわれ先に殺到し「順番を守れ」「何をするんだ」「馬鹿野郎」と罵声が飛び交い大混乱となった。

 大阪の扇町公園の特設売場には徹夜組だけで3万人が集まった。このため午前6時の発売予定時間を3時間繰り上げ、午前3時に発売したが、5人の負傷者がでた。福岡・平和台では3万人が集まり、午前4時ごろ中年男性が死亡、重傷者1人、軽傷者10数人をだした。氷点下3.5度の松本市では老人が寒い寒いと言いながら脳卒中で倒れ死亡した。松本市では3500人が集まり、50人の警察が警備に当たったが、混乱を鎮めることはできなかった。

 このように各販売所では列をなし、順番争いのこぜり合いが続出したため、大阪、福岡、徳島では宝くじの販売が途中で中止となった。警察庁の調べでは、全国で 2人が死亡、重軽傷者25人で、出動した警察官は1640人に達した。

 昭和51年の企業倒産(負債1000万円以上)件数は15641件、負債総額は2265億円で、それまでの最高を記録していた。昭和51年は戦後最大の不況で、個人消費は停滞し、社会保険負担率や公共料金は引き上げられ、庶民は宝くじに夢を求めたのだった。宝くじは庶民のささやかな夢であったが、この日は一攫千金の夢が悪夢となった。

 

【隣人訴訟】昭和52(1977)

 昭和52年5月8日、三重県鈴鹿市の団地に住む主婦Xが夕食の買い物に出かけるため、隣人の主婦Yに3歳児を預けた。2人の主婦は町内会が同じで、X、Yの子供たちは同じ幼稚園に通う仲良しだった。主婦Yは部屋の掃除をしながら、子供たちが自転車を乗り回しているのを見ていた。そして7〜8分後にYの子供が戻ってきて、Xの子供がため池に行くと言ったまま帰ってこないと告げた。

 駆けつけた隣人らがため池を探し、池の底に沈んでいるXの子供を発見、救急車で病院に運んだがすでに死亡していた。ため池は子供たちの遊び場であったが、水際から急に深くなっているのに防護柵はなかった。誤ってため池に落ちて水死したのだった。死亡した幼児の両親は子供の世話を頼んだ主婦Yと、池の所有者である三重県と鈴鹿市、土砂採取で池を深くした業者を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。

 昭和58年2月25日、津地方裁判所は国、県、市、業者への請求を却下したが、幼児を預かった夫婦Y(隣人)には注意義務があるとして526万円の損害賠償の支払いを命じた。

 しかし判決の後、新聞やテレビが「人の好意につらい裁き」と大きく取り上げ、勝訴した幼児の両親にいやがらせの電話や手紙が殺到した。「人でなし」「金儲けのために子供を使うのか」と激しい抗議が連日続いた。父親は仕事を打ち切られ、長女は近所でいじめられ、親戚にまで被害が及び、そのため幼児の両親は訴えの取り下げに追い込まれた。一方、敗訴した主婦が控訴すると、今度はそれに対しても非難や中傷が起きた。

 結局、両家族が訴えを取り下げることになった。法律上、当然の権利(タテマエ)が、「世間」という情念・常識(ホンネ)によって阻止されたのである。この事件は、近隣社会の紛争解決の方法、裁判を受ける権利などの問題を提示した。

 すべての国民は裁判に訴える権利が保障されている。しかし赤の他人が原告や被告に対し、非難中傷を浴びせて訴訟を断念させたことは、日本国民の法意識の低さを露呈させた。法務省は「公平に裁判を受ける権利が、このような行為で侵害された」として異例の見解を表明した。しかし国民の多くが「隣人関係に法律が入り込み、善悪をつけることに違和感を持っていた」ことも事実であった。

 この事件は「法律というルール」と「隣人という伝統的関係」の対立といえる。隣人関係が時代とともに変わりつつあることを示した。

 「向こう3軒両隣」の意識が薄れ、昭和50年頃から隣人同士の争いが増えている。地域社会の意識が崩れ、日照権、騒音、境界線トラブル、ペット騒動、自宅前のゴミの集積場、このように日常的なことが隣人訴訟となり、さまざまなトラブルが裁判ざたになった。

【約束のホームラン】昭和53(1978)

 米国シカゴ郊外の自宅のベッドで野球をテレビ観戦していた少年(12)が突然奈落の底に落とされた。シカゴ・カブスのスター選手ボビー・マーサー右翼手は、病気の少年を励ますため、「対ピッツバーク・パイレーツ戦で君のためにホームランを打つよ」と電話で約束をしていた。少年はわくわくしながらテレビにかじりつき、マーサー選手が約束通りホームランを打った瞬間、大喜びだった。だが、次の瞬間、絶望のどん底に落とされた。

 アナウンサーが「このホームランは骨のがんで余命わずかな少年との約束を果たしたものです」と球団役員から手渡されたメモを読んだのである。少年は初めて自分の病名を知り、病状は急速に悪化した。自分の病気ががんだと知った少年は、昭和52年(1977年)8月22日、病院で息を引き取った。

 約束のホームランは、世界的偉人ともいえるベーブ・ルースにもある。ある試合でベーブは彼の大ファンである小児まひの少年ジョニーにサインボールをあげ、次の試合で2本のホームランを打つと約束、その通り見事にホームランをかっ飛ばした。ラジオを聞いていたジョニーは思わず立ち上がって喜んだ。昭和26年のワールドシリーズでの話である。

 昭和35年、吐血しながらも最後の力をふり絞って1試合に3本のホームランを放ち、グラウンドを去るベーブルースに1人の青年が駆け寄った。それは、あの日のベーブが約束のホームランをプレゼントした少年、ジョニーの成長した姿だった。

 

【手首ラーメン事件】昭和53(1978)

 当時は広域暴力団の抗争がマスコミを賑わしていた。昭和50726日、大阪府豊中市の飲食店で反山口組の松田組系組員が、山口組系佐々木組の組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。佐々木組は松田組の背後にいる大日本正義団の初代会長・吉田芳弘を浪速区日本橋の路上で射殺し、暴力団どうしの大阪戦争となった。

 昭和53711日の夜、京都市内のナイトクラブ・ベラミで山口組の田岡一雄組長(65)が大日本正義団の鳴海清(26)に狙撃された。田岡一雄組長は生命に別状はなかったが、鳴海清をかくまった反山口組松田組の組員7人が殺され、六甲山中で壮絶なリンチを受けた鳴海清の死体が発見された。鳴海清は山口組に殺害されたと思われていたが、実際には鳴海をかくまった松田組による殺害であった。

 同じような暴力団の抗争も東京でもあった。住吉連合会の組員のB30)は屋台30台、売り子28人を雇っていた。同じ組員の幹部A29)は自分の子分のBの商売が上手くいっているのが面白くなく、昭和5375日に東京都荒川区のBの事務所に乗り込みのケンカとなった。内部抗争から兄貴分のAを殺害したB30)は遺体をバラバラにして兵庫県と岡山県の山中に埋めた。事件を内偵していた警察は殺害容疑で5人を逮捕。供述通りAの遺体が山中から発見された。遺体は腐乱しており頭部・胴体・両手・両足がバラバラにされていたが、背中「天女」の刺青から幹部Aの遺体であることが確認された。殺害の動機は組長代行のポストと屋台ラーメンの縄張り争いであった。

 遺体は発見されたが、何故か遺体には手首がなかった。Bは指紋から身元がバレないように手首を持ち帰えったと自供。手首は子分の屋台の鍋で煮込み、ラーメンのスープのダシに使い、残った骨は砕いて捨てたと述べた。手首でダシをとったラーメンを荒川付近の屋台で客に出していた。9月25日、このことが新聞やテレビで報道されると世間はパニック状態となった。自分たちが食べてしまったのか、いったいどの屋台ラーメンだったのか、このような客からの問い合わせが警察に殺到。ラーメンの売上が3割ダウン、特に日暮里や荒川周辺の屋台の売り上げは激減して休業状態となった。ラーメン業界は警視庁に営業妨害だと猛烈に抗議。そのせいか警視庁は「手首でラーメンのダシをとったが、スープの臭いから客が異変に気づき、事件の発覚を恐れて販売はしなかった」と弁解じみた発表をおこなった。手首ラーメンの真相は不明であるが、現在も都市伝説として生きている。東京地裁はBに懲役17年、共犯の4人に懲役812年の判決を言い渡した。

 

【芸能界大麻汚染事件】昭和53(1978)

 昭和52年8月10日、映画「人間の証明」に準主役で出演していたジョー山中(30)が大麻取締法違反容疑で佐世保署に逮捕された。さらに9月10日、フォーク歌手の井上陽水(29)も警視庁に逮捕され、週刊誌には「井上陽水が事実上の引退」と見出しが出た。929日には、タレントの研ナオコ(24)が取り調べを受け、「大麻を吸うと音に敏感になり、リラックスした気分になる」と自供した。さらに内藤やす子、上田正樹、美川憲一、内田裕也、にしきのあきら、桑名正博と芸能人が次々と逮捕されていった。

 逮捕への社会的影響は大きく、テレビ出演、CM、ワンマンショー、レコード発売などが中止された。また歌手や俳優だけでなく、プロデューサーやバンドマンも逮捕され、そのためNHKや民放各局では番組変更でてんやわんやとなった。

 大麻(マリファナ)は中央アジア原産の植物で、古くは繊維用として栽培されていた。大麻は葉などをあぶってその煙を吸うと、酩酊(めいてい)感、陶酔感、幻覚作用などをもたらす。大麻を乱用すれば、妄想や異常行動、思考力低下などを引き起こすが、大麻はオランダでは条件付きながら合法で、それほどの害はないとされている。アルコールを飲んでの事故、覚せい剤による殺人などが報道されるが、大麻を吸っての事件はほとんど見られていない。日本では毎年1000人ぐらいが大麻取締法違反で逮捕される。これも大麻取締法という法律があるためで、雑誌などでは大麻無害説が展開されるほどであった。

 判決は執行猶予がついた軽いものだった。ジョー山中は懲役2年執行猶予3年、井上陽水は懲役8カ月執行猶予2年、上田正樹は懲役8カ月の執行猶予2年、研ナオコ、内藤やす子、美川憲一、内田裕也、にしきのあきら、桑名正博は起訴猶予となった。当時はベトナム帰還兵やヒッピーが大麻を吸っており、罪悪感は少なかった。また芸能界の大麻汚染の背景には、外国のロック・グループが大麻を吸っており、大麻を吸うことが酒と同じ一種のファッションと捉えていたからで、逮捕された歌手たちは大麻を吸ったことよりも、逮捕されたことに驚いたことであろう。

 この年、警察が芸能人を大量に摘発したのは、覚せい剤が増え検挙者が前年度の6倍に増えたからである。大麻と覚せい剤は明らかに違っているが、芸能人の逮捕によって覚せい剤の抑止効果を狙ったのである。大麻で大騒ぎとなったが、熱が冷めるとほとんどの関係者は何もなかったように活動を続けた。

 この騒動が忘れられようとしていた昭和58年4月18日、俳優の萩原健一(32)が東京都渋谷区のマンションに大麻樹脂12グラムを隠していたことで逮捕され、東京地裁は萩原に「懲役1年執行猶予3年」の判決を言い渡した。

 

【川崎コレラ騒動】昭和53(1978)

 昭和53年3月29日、横浜港検疫所の定期海水調査で、海水からコレラ菌が検出された。川崎市はコレラの汚染源を調べるため、流入河川である鶴見川をさかのぼり調査を始めた。この事件は、被害者も死亡者も出なかったが、河口から上流を調べるたびにコレラ菌の発見が報道され、報道は次第に過熱していった。新聞社は取材用ヘリを飛ばし、緊張感あふれる報道を演出した。調査の結果、川崎市高津区にある腎臓透析専門医院・石川クリニックの浄化槽が汚染源であることがわかった。

 浄化槽には透析液が捨てられていて、透析液は栄養が豊富で、温度もコレラ菌の増殖には最適であった。浄化槽の廃液が有馬川から鶴見川を汚染し、横浜港までコレラ菌が到達したのだった。来院した患者がコレラ菌を持ち込んだと推測された。

 昭和53年頃から海外旅行者が増加し、コレラ汚染地域への旅行者が増え、現地でコレラ菌に感染して帰国後に発症する事例が相次いだ。この年には73人の患者、保菌者が発見され隔離された。コレラは恐ろしい感染症とのイメージから報道は過熱したが、たとえコレラに感染しても死亡することはほとんどない。

 今回の事件では被害者はいなかったが、石川クリニック院長は平身低頭の謝罪を繰り返した。しかし、コレラの健康保菌者の入国を防止することはできず、この騒動で一番被害を受けたのは、石川クリニックだったのかもしれない。

 鶴見川は川崎と横浜の間を流れる川で、この事件をきっかけに全国の河川でコレラの定点観測が始まった。この事件以降、全国の河川からコレラ菌が検出されているが、騒動には至っていない。

 

【嫌煙権】昭和53(1978)

 昭和53年2月18日、東京・四ツ谷で「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の結成集会が開かれた。全国から約60人が参加して、「たばこを吸わない人のたばこへの嫌悪感と健康被害」を訴えた。嫌煙権は喫煙者に禁煙を迫るものではなく、非喫煙者が不当な煙害を受けないことを目的としていた。嫌煙権という言葉は、日照権にヒントを得て、昭和51年にコピーライターの田中みどりさんがつくったものである。

 この耳新しい嫌煙権という言葉は多くのマスコミが取り上げ、嫌煙運動が盛り上がることになった。運動方針は、病院、保健所、公共の施設、乗り物などで、禁煙ゾーンを拡大すること、たばこのコマーシャルを全廃させることであった。

 予防がん学研究所の平山雄所長は、昭和41年から16年間にわたり、40歳以上の妻9万1540人を追跡調査し、「夫のたばこと妻の肺がん罹患との関係」について、夫が1日20本以上たばこを吸う場合、妻はたばこを吸わなくても肺がんで死亡する危険率が1.91倍高くなると発表した。さらに、たばこの煙で汚染された空間にいると肺がん、喉頭がん、心臓病などになる危険性が増加するとした。

 米国や欧州ではすでに、テレビ、ラジオによるたばこのコマーシャルは法的に禁止されていた。さらに公共の場所での喫煙を制限し、職場での分煙も行われ、米サンフランシスコでは、オフィス内の喫煙を規制する嫌煙条例が成立していた。国内では、分煙を求めるキャンペーンが展開され、国鉄(現JR)の全列車の半数以上を禁煙車とする「嫌煙権訴訟」(昭和55年4月7日)が嫌煙権の確立を目指した裁判として社会的な注目を浴びた。

 この訴訟がきっかけとなり、国鉄は昭和5510月から、新幹線「ひかり」の自由席の1両を禁煙車とした。続いて昭和5711月からは、全国の特急列車の自由席1両を禁煙にした。嫌煙権訴訟は7年後の昭和62年、東京地裁の橘勝治裁判長は損害賠償の請求については受忍限度内といて原告敗訴とした。しかしたばこの有害性については喫煙者だけでなく、間接喫煙に関しても喫煙者と同じ害を受ける恐れがあることを指摘した。つまり喫煙者は加害者であることを法的に認め、この裁判を通じて「嫌煙権」(Nonsmoker's right)という新語が市民権を得た。

 職場の喫煙規制に関しては、昭和40年、東京都下の三鷹市役所が新庁舎を改築した際、庁舎内各階に喫煙室を設け、分煙のモデルケースとなった。当時の嫌煙権はこのような程度であった。現在では、喫煙者は犯罪者扱いで、まさに隔世の感がある。

 

【韓国人女医殺害事件】昭和54(1979)

 昭和54年6月17日、沖縄の離島・北大東島の村立北大東島診療所で、韓国人女性医師・鄭宝玉さん(63)が殺害された。鄭さんは台所の奥の居間で顔面を殴られ、血まみれになって死んでいた。北大東島は那覇市の東約350キロの太平洋に浮かぶ孤島で、人口649人の小さな村である。医師は鄭さんだけで、北大東島での殺人事件は戦後初めてのことであった。

 鄭さんは昭和52年から2年契約で北大東島に単身赴任し、診察だけでなく、村民の相談にも乗ってくれた。優しい性格で、言動が上品なことから、村民に慕われていた。鄭さんは東京の医専を卒業し、日本語は流暢だった。村の会合には必ず出席して、村民との交流にも努めていた。鄭さんは医師であった夫と死別し、長男はソウルで医師をしていた。

 鄭さんは1年半で、延べ2000人の患者を診察し、そのうち18人をヘリコプターで沖縄本島に運んでいた。村人は鄭さんの殺害に大きな衝撃を受け、遺体が島を離れる際には300人の村民が見送った。村長、村議会議員全員、さらに多くの村民が遺体ともに船に同乗し、告別式が行われる那覇市へ渡った。島最大の行事である運動会は中止となった。

 沖縄は昭和47年に日本に返還されたが、沖縄の医師は人口1万人当たり6人で、全国平均の半分にすぎなかった。昭和40年頃から、僻地で働く医師は減り続け、日本の外国人医師は1514人(昭和52年)で、多くが僻地医療、特に離島で働いていた。

 北大東島でも無医村地区解消のため鄭さんに来てもらっていたが、再び無医村地区となった。鄭さんを殺害した犯人は中学3年生の男子生徒だった。男子生徒は自分の下着を残したまま逃走、何食わぬ顔で学校に通っていたが、626日に捕まった。農家の末っ子で、明るくスポーツ少年だったが、レイプの前科があった。

 

【観光トラ騒動】昭和54(1979)

 昭和5482日の深夜から3日未明にかけ、千葉県君津市鹿野山の琳聖院神野寺から飼育していた2頭のトラが逃げ出した。通報を受けた木更津署は千葉県警機動隊のライフル隊、地元猟友会など200人を動員して捜索に入った。2頭のトラは裏山に逃げ込んだと見られるが、すぐ近くにはマザー牧場があり、牧場内で約30人の小学生がキャンプをしており、小学生は急遽建物内に避難した。また同じ敷地内にある鹿野山禅青少年研修でも約80人が宿泊していたが無事であった。周辺には約50の民家があったが、雨戸を閉め、家の中に閉じこもった。

 逃げたトラは体重80キロで、近くの山林で見え隠れしていた。猟犬を放しての追い出し作戦、エサを使っての誘い出し作戦を行ったが不発に終わった。木更津署は見つけしだい射殺する方針をとり、800人の警察官の人海戦術で包囲網をとった。時間が経つにつれ、空腹のトラがいらだっていることが予想された。

 翌4日の午前1010分、猟友会のメンバーが1頭のトラを発見して射殺した。山口照道住職(65)は「トラを殺すとは最悪の処置であり、トラよりも人間の方がよっぽど凶暴だ」と発言し、この反省のない住職の発言に、捜索は一時中断したが、住職の謝罪によって2700人の捜索隊が再動員された。

 残り1頭はなかなか見つからず、住民を不安にさせたが、828日、寺から4キロ離れた民家から「飼い犬が殺された」の連絡を受け、山頂付近にひそんでいたトラを射殺した。

 神野寺は聖徳太子により建立、徳川家の菩提寺でもあり、左甚五郎や運慶の作による干支に関する宝物が安置してあった。このことからトラだけでなく、干支に関した、牛、馬、羊、猿、猪、などを飼っていて、「トラの檻は二重扉になっていて、何ものかによって開けられた」と住職は無罪を主張したが、昭和584月、拘留20日の刑を言い渡された。

 

【人工心臓】昭和55(1980)

 心臓移植は世界では6万例以上行われ、80%以上の人が1年以上、半数が9年以上生存している。しかし心臓移植には心臓の提供者が必要で、数にも限りがある。もし人工心臓ができれば、人類にとって大きな貢献となる。

 昭和55年5月28日、東京大医学部の渥美和彦教授らは人工心臓の動物生存の世界記録を更新した。それまでの記録では、米国ユタ大学の牛による221日であったが、渥美教授らはプラスチック製の人工心臓を取り付けたヤギで、生存223日目を超えたのだった。この人工心臓は、右心室と左心室の機能を代用する両心バイパス型の補助心臓であった。人工心臓は、心臓の機能を部分的に代行させる補助心臓と、心臓を取り出して心臓の機能を完全に代行させる完全人工心臓の2種類に分類されるが、渥美教授のものは前者の補助心臓であった。

 人工心臓を用いた動物実験での生存日数は東京大・渥美教授らの344日、ユタ大・コルフらの297日、京都大・福増広幸らの226日、米国ハーシー医療センターの220日、ベルリン大のビュッヘルらの210日、チェコスロバキアのバスクらの173日などであった。なお実験動物の6カ月以上の生存例は世界では17例で、ユタ大7例、東京大4例、ハーシー医療センター2例、ベルリン大2例などである。

 昭和56年7月23日、米国のテキサス・メディカルセンターで、世界で2例目の人工心臓の埋め込みが行われた。これは、テキサス心臓研究所の阿久津哲造が開発した全置換型の人工心臓で、心臓移植までのつなぎとして埋め込まれた。移植から2日後にドナーが現れたため、人工心臓が取り外されて心臓が移植された。人工心臓は心臓移植までの54時間その役割を果たした。

 現在のところ、人工心臓は心臓移植までのつなぎであり、まだ一般的ではない。最近では、心臓を完全に置き換える全置換型人工心臓の臨床試験が全米で行われている。平成11年、完全埋め込みの「ライオンハート」が、平成12年には完全埋め込みではないが超小型の「ジャービック2000」の臨床応用が始まった。適応患者は世界で約10万人、日本でも数千人とされているが、完全人工心臓の道のりはまだ長いとされている。

 なお、冒頭で述べた東京大・渥美教授の世界記録更新のエピソードには余談がある。発表の翌日、東京の三井記念病院で同型のプラスチック製人工心臓を患者に取り付け、2日後に死亡していることが判明したのだった。このことは臨床応用の難しさを印象づけた。

 

【ベビーホテル】昭和56(1981)

 昭和56年6月6日、厚生省は全国のベビーホテル523施設の一斉点検の結果を発表した。ベビーホテルとは無認可の保育施設で、営利を目的に乳幼児を引き受ける施設のことである。その結果、94%の491施設が保健衛生面や防災面などに問題があるとした。

 この総点検のきっかけは、昭和55年3月からTBSテレビのディレクター堂本暁子が都内208カ所のベビーホテルを調査し、その実態を明らかにしたことである。当時、女性の社会進出や、共働きが増え、子供を預けるベビーホテルが乱立していた。

 ベビーホテルに子供を預ける理由の9割が仕事のためであった。高度経済成長により女性の雇用が増え、家計の補助のため、生活水準の向上のため、余暇の利用のために預けていた。かつては祖父母が子供の面倒をみることが多かったが、核家族化から祖父母のいない家庭が増えていた。

 ベビーホテルは保育所に比べて手続きが簡単で、夜間保育や一時預けも可能で、利用者にとって便利だった。しかし一方では、営利を目的とした無資格保育者が経営し、ビルの一室に多数の乳幼児を詰め込むような劣悪な施設も多かった。保育者がいない施設もあって、乳幼児が病気になっても十分な看護ができず、乳幼児が死亡していても気付かない例もあった。このような劣悪な施設で心身に障害が現れる例もあり、乳幼児の健全な成長発育に問題を残した。これはまさに乳幼児の生存権(成長発達権)の侵害といえた。

 昭和56年の1年間に、全国で35人の乳幼児がベビーホテルで死亡、その死因のトップは窒息死だった。度重なる死亡事故や劣悪な保育条件などが明らかになるにつれ、ベビーホテルは社会問題となった。それにもかかわらず、営利目的の乳幼児産業が許されていたのは、社会が複雑化し、婦人労働が多様化したからである。産休が明けたばかりの母親が長時間労働を強いられることもあり、夜間保育の需要が高まっていた。国や地方自治体は、「幼児の保育は家庭が中心」として、公的保育施設の十分な整備はなされなかった。そのため、ベビーホテルを黙認していた。

 当時、ベビーホテルの設備や保育者を規制する法律はなかった。それが世論の力によって、国が重い腰を上げ、昭和56年6月15日に、ようやくベビーホテルを規制する改正児童福祉法が公布された。この法律により国や都道府県は、ベビーホテルなどの無認可保育施設への立ち入り調査が認められ、事業の停止や閉鎖を命令できるようになった。

 

【六甲のおいしい水】昭和58(1983)

 昭和58年8月、「バーモントカレー」で有名なハウス食品が「六甲のおいしい水」を家庭用ミネラルウオーターとして初めて発売した。天然水市場を開拓した「六甲のおいしい水」はミクロフィルターで無菌化した天然水を無菌パックしたもので、値段は1リットル200円であった。

 中東アジアから輸入されるガソリンより高い値段であったが、健康志向や自然食ブームに乗って売り上げを伸ばしていた。「六甲のおいしい水」の成功がきっかけになり、清酒や焼酎のブランド品のように「丹沢山系の銘水」「秩父源流水」など、日本各地で次々に新しい天然水が登場された。日本では「水と空気はタダ」とされてきたが、ガソリンよりも高い水を飲むようになった。

 ミネラルウオーターには水道水とは違い、土中に含まれるカルシウムやマグネシウムなど(ミネラル)が含まれている。雨や雪が地中にしみこんで、長い時間をかけて地下水やわき水となるが、この間に汚れが取れミネラルが含まれることになる。

 ミネラルウオーターには2種類あって、ミネラルが多く含まれる天然水を硬水、少ないものを軟水と呼んでいる。日本は軟水が多く、味はまろやかである。欧米とは違い日本の水道水の味は悪くないので、それまでミネラルウオーターの消費量は少なかった。消費量が伸びたのはウイスキーの水割りの流行であった。

 市販されている国産のミネラルウオーターは、「六甲のおいしい水」「サントリー天然水(旧南アルプスの天然水)」「森の水だより」(日本コカ・コーラ)の銘柄がトップを競っていた。その他、国内では350社が、約500銘柄を製造していた。

 なお国内のミネラルウオーターの50%を山梨県が占めている。これは、富士山麓と南アルプスの豊な森林により、地下水が豊富で、また首都圏に近いからである。

 輸入品では、「エビアン」「ヴォルヴィック」「ヴィッテル」が知られている。ミネラルウオーター市場は、平成13年には1100億円に達し、今後2000億円市場になるとされている。平成16年の日本人1人当たりのミネラルウオーターの年間消費量は12.7リットルであるが、イタリアやフランスは140リットルと10倍以上である。

 ミネラルウオーターは、おいしい水と盛んに宣伝されるが、不祥事も少なくない。小田原市の水道局が「旅名水」の名前で販売していたペットボトルに、食品衛生法の基準値を超える細菌が含まれ、販売中止となった。調布市の自然食品販売会社が売り出した「神泉水」には、水道水の100倍以上の雑菌が検出され、さらには海洋深層水を使ったミネラルウオーターから基準値を超える水銀が検出されるケースもあった。外国産のミネラルウオーターから、カビが検出されることも何度か報告されている。また、身体に良いとか効能を掲げる銘柄もあるが、すぐに消え去ってしまうことが多い。

 

【ダイオキシン】昭和58(1983)

 昭和581119日、愛媛大農学部環境化学研究室(立川涼教授)は、猛毒で知られるダイオキシンが市営清掃工場など西日本の6自治体が運営する9カ所のごみ焼却場から検出されたと発表した。ダイオキシンはベトナム戦争での枯れ葉剤、PCB汚染として知られていたが、生活に密着しているごみ焼却場から発生していることに人々は驚かされた。

 以前より、毒性が比較的低い異性体は、焼却後の灰や魚体から検出されたことがあった。しかし、今回はダイオキシンの中でも毒性の強い「2・3・7・8 TDD」が検出されたのである。愛媛大は琵琶湖の底泥からもダイオキシンを検出。また、昭和63年には東京湾と大阪湾の魚からもダイオキシンを検出している。

 ダイオキシンは水に溶けず残留性が強いため、地下水に浸透して雨水とともに河川から海に流入する。そのダイオキシンが魚類などに取り込まれ、その魚をヒトが食べて人体に入ると、肝臓障害、異常出産、発がんなどに影響を及ぼすとされた。

 その後も、ダイオキシンは全国の河川や湖からも検出され、汚染が広がっていった。厚生省は、平成7年11月にようやく研究班を設置し、規制や対策づくりに乗り出した。平成9年春には全国のごみ焼却場の調査し、「基準値」を超えている72施設名を公表した。

 平成11年2月、テレビ報道をきっかけに埼玉県所沢市の野菜の価格暴落騒ぎが発生。国民の不安が高まり、これが後押しとなって同年7月、ダイオキシン類対策特別措置法が成立した。これを受けて環境庁が環境基準値を定めたが、基準値が高いと指摘もあり、ダイオキシン対策の実効性を疑問視する声も出ている。

 

【東京医科歯科大教授選汚職】昭和58(1983)

 昭和58年、東京医科歯科大の第1外科教授選考に絡んだ贈収賄事件を、朝日新聞がスクープした。現金を受け取ったのは東京医科歯科大麻酔科教授・池園悦太郎で、現金を贈ったのは教授選に立候補していた畑野良侍(東京医科歯科大)と酒井昭義(東京大医科学研究所)の2人であった。

 教授選で便宜を図ってもらうため酒井は400万円、畑野とその支持者は200万円を池園教授に贈っていた。この汚職は、教授選に落選した酒井が金銭の授受の証拠テープを朝日新聞に持ち込んだことから発覚した。

 事件の取り調べが進むにつれ、医学部教授の巨大な権力を示す事実が続々と判明した。池園教授は、同大学の博士号の授与に関しても寄付金を要求し、他人のデータを盗んで論文を作成し、池園の妻が経営する医療機器会社の存在も明らかになった。捜査の過程で池園は医療機器販売会社から90万円を受け取っていた疑いで逮捕、11月に懲戒免職となった。

 医学部の教授は、人事や研究などを一手に握ることから、権力が絶大であったため、教授選で金銭が飛び交うことは、以前よりうわさされていた。今回、収賄罪として池園教授が逮捕されたが、ほかの教授も候補者から金銭を受け取っていたとされ、この事件は大学教授にまつわる金銭授受の一端をのぞかせたにすぎないといえる。

 昭和59年3月、東京地裁は、東京医科歯科大の教授選考などをめぐる収賄罪に問われた池園教授に執行猶予なしの実刑1年6カ月、追徴金690万円の判決を下した。贈賄罪の畑野良侍、酒井昭義も懲役を言い渡されたが執行猶予が付いた。

 判決では「大学の重要な自治活動である教授選を、わいろの授受によってむしばみ、さらに大学教授と業者の癒着が社会に与えた影響は大きい」とした。なお、厚生省の医道審議会は池園悦太郎に医業停止1年の処分を下した。その後、池園悦太郎医師は開業医として活躍している。

【人工心臓データ捏造事件】昭和58(1983)

 昭和5812月6日、読売新聞は朝刊1面トップで人工心臓データの捏造事件をスクープした。広島大医学部人工心臓実験施設の田中一美教授が、人工心臓の実験データを捏造して、内外の学会で発表していたという内容であった。

 捏造は「広島大式補助人工心臓を牛に埋め込み、523日生存の世界新記録を達成した」というもので、米国の人工臓器学会で発表され、さらに体内埋め込み式人工心臓の115日間生存のデータも捏造されたものであった。

 田中教授のデータは、以前から記録に矛盾があるとして学会で問題になっていた。功名心のためなのか、研究費を稼ぐためなのか、実験データを捏造した理由は不明であるが、牛の生存記録は施設で働いている人ならすぐ分かることである。データを捏造するとは、よほど部下を信じていたのであろう。

 

【妊娠診断薬】昭和58(1983)

 昭和58年、ロート製薬は米国から輸入した妊娠診断薬「チェッカー」を薬局で発売することにした。発売前から、妊娠の有無を素人でも判断できると話題を呼んでいた。

 しかし日本母性保護医協会(日母)からクレームがついた。その理由は「医療行為につながる試薬を薬局で市販するのは危険を伴う」ということであった。厚生省もまた「医療用として認可されたものを店頭で発売することは間違っている」と述べ、行政指導に乗り出すことになった。ロート製薬は、結局、店頭での販売を中止とした。

 妊娠すると、胎盤でつくられる性腺刺激ホルモンである絨毛性ゴナドトロピン(HCG)が、尿中に排泄される。妊娠診断薬は少量の尿をHCG抗体と混ぜて反応をみるごく簡単なものである。妊娠している場合には試験管内に褐色のリング状の沈殿が生じるようになっていた。妊娠7週では100%陽性で、欧米では薬局の店頭で簡単に買うことができた。

 日母の主張は、この診断薬は子宮外妊娠やブドウ状奇胎、切迫流産の場合にマイナスになる場合があるので、素人が使うには危険ということであった。しかし陽性で妊娠が分かれば病院へ行くだろうし、陰性であっても腹痛があれば病院へ行くのだから、日母や厚生省の主張は説得力に欠けていた。

 病院で妊娠反応を調べれば約8000円になるが、市販のチェッカーならば2800円であった。この反対運動や厚生省の指導は、産婦人科医の商売のためとの声が大きかった。

 日母や厚生省の考えは、理屈の上では正しいが、時代は変わったのである。昭和61年6月、ライオンは妊娠診断薬「プレディクターカラーD」をオランダから輸入し、薬局の店頭で発売した。プレディクターカラーDは、生理が4日遅れたころから使用でき、ヒト胎盤性性腺刺激ホルモンに対してのみ反応する。起床時の尿を3滴試薬にたらして、3分間放置すると試薬の色の変化で妊娠が判定できた。値段は当時3500円であるが、この販売以降、数種類の妊娠診断薬が店頭で販売されることになった。

 

【おしん症候群】昭和58(1983)

 昭和5844日、NHK朝の連続テレビ小説に「おしん」が登場した。脚本は橋田寿賀子で、明治時代の東北の貧しい小作農の3女に生まれた「おしん」が苦労を重ね自立していくドラマだった。

 子役の小林綾子は貧しい東北の少女になりきり、大根めしなどの粗食に耐え、凄まじい苦労を必死に生きる役を演じた。そして苦労の中で明るさを失わない可憐な姿は超人気番組となった。多くの人と出会っては別れ、明治、大正、昭和の3代にわたって戦争や大震災の辛苦を乗り越えて老後に至る物語であった。

 おしんの子役は小林綾子から、成人役の田中裕子へ、老人役は乙羽信子が演じ、激動の時代をひたすら辛抱して生きてゆく女の一生を演じた。1年間の連続ドラマ「おしん」は平均視聴率52.6%、最高時62.9%を記録した。つまり国民の2人に1人が見ていたことになる。

 舞台となった山形県の食堂では、ドラマで貧しさの象徴となった「大恨めし」が登場し、土産店では「おしんこけし」「おしんまんじゅう」「おしん酒」などの商品がならんだ。山形県酒田駅前にはおしんの銅像が建ち、最上川の舟下りは「おしんライン」と改名された。そして「おしんの子守唄」がヒットした。

 当時の中曽根康弘首相は、ロッキード裁判の田中判決を控えて苦しい国会運営を強いられ「国会運営はおしんでいく」と発言した。このようにさまざまな分野で辛抱の意味で「おしん」が流行語となった。潮戸山三男文相はおしんを演じた小林綾子を大臣室に招き「おしん後援会」をつくり、流行にあやかろうとする与野党の国会議員10人がNHKに押しかけ、世間の失笑を買った。経済人も「これからの時代はおしんのような、我慢の哲学が必要だ」と発言し、相撲では、「おしん横綱」などの言葉が誕生した。

 日本は急速な高度経済成長をとげ経済大国となった。しかし過去の貧しさの中での真摯な生き方、けなげな性格、モラル感がまだ人々の記憶に残っていて、人々は「おしん」の放映に見入っていた。「おしん」は日本だけでなく、東南アジアを中心に59の国で放映された。アメリカの週刊誌ニューズウィーク5895日号は、「おしん」を「日本の極めつけのドラマ」として紹介し、その人気の秘密を「日本という国をおしんという人物に擬人化したため」と書いている。そしてこの現象を「おしんシンドローム」と表現、流行語大賞の新造語部門で金賞をとった。後に田中裕子が訪中した際、「おしんと違いすぎる」と反感を買ったが、この言葉が飽食日本と貧しいアジアとの間の大きな溝を表していた。

 

【岐阜大胎児解剖事件】昭和59(1984)

 昭和59年5月23日、福岡市で開催されていた日本精神神経学会で、岐阜大医学部精神科の高橋隆夫助手が「岐阜大で人体実験が行われている」と内部告発を行った。告発によると人体実験を行ったのは岐阜大医学部精神科・難波益之教授のグループの竹内巧治助手であった。

 竹内助手は私立病院に通院中の統合失調症の患者(35)を大学病院に入院させ、本人の同意のないまま中絶手術を行い、胎児の脳を解剖し、患者が内服していた向精神薬(ハロペリロール)が脳のどの部分に分布しているかを調べていたのである。

 この問題は国会でも取り上げられ、日本精神神経学会も調査に乗り出すことになった。そして昭和61年5月20日、日本精神神経学会は研究を目的とした人体実験との最終見解を出した。

 当時、全国の精神科は東京大精神科のインターン闘争の影響で、患者不在、責任者不在、イデオロギー先行の治療などの問題がくすぶっていた。同じ大学の教授派と助教授派が衝突し、学会総会で演者の発表中に、同じ医局の医局員がヤジを飛ばす時代であった。

 

【 ボポシマ有毒ガス事故】昭和59(1984)

 インド中部にある古都ボパールは、インド最大の湖であるボパール湖を取り囲むように発展した人口70万人の城壁都市である。美しいモスクを持つこの街で、昭和5912月2日の深夜、悪夢のような猛毒ガスが発生した。

 事故を起こしたのは、米国系企業ユニオン・カーバイド社の農薬工場であった。工場の地下にあった殺虫剤の原料イソシアン酸メチルの貯蔵タンクが、なんらかの原因で温度が上昇。38度の沸点に達し、63トンの猛毒イソシアン酸メチルが外に漏れ出したのである。

 有毒ガスは、北風に乗って寝静まった街を襲った。市内全域がガス室となり、多くの人たちは苦しみにのたうち回った。痙攣を起こし、口から泡状の血を吹き死んでいった。市民は、電話で「助けてください。こちらは地獄です」という悲痛な声をだすのがやっとだった。

 事故発生時、ユニオン・カーバイト社は毒ガスの成分を明らかにしなかった。そのため周辺から救援に来た数百人の医者たちは解毒剤を使用できず、10万人以上が負傷し、2600人以上が死亡した。ボパール市から20万人の市民が避難し、街には棺(ひつぎ)が並び、牛の死骸(しがい)が放置され、ボパール市は死の街となった。

 毒ガス漏出時、工場の職員はティー・ブレークで、異常に気付くのが遅れてしまった。工場は過去にも有毒ガス事故を起こしていて、これまで何度も整備不良が指摘されていた。しかし会社は、収益を重視し、老朽化した施設を放置したままだった。利益第一、安全無視の会社の体質が引き起こした事故で、安全対策に100項目を超える違反があった。この最悪の事故は、起こるべくして起きた。

 事前に工場の不備を把握していたジャーナリストのラフマール・ケスクは、州政府に何度も警告を出していた。しかし州の上層部はその警告を無視していた。州政府は企業を誘致するために、企業側に有利な条件をのんでいたからである。後に、ガンジー首相は「インド政府は今後、人口密集地で危険物質を生産することは認めない」と声明を出した。

 この事故で、多くの人々がさまざまな後遺症に悩まされている。世界最大のガス漏れ事故が起きたボパールは、事故の悲惨さ、長く続く後遺症などが、原爆を投下された広島や長崎に匹敵するという意味で、「ボポシマ」と呼ばれている。

 ユニオン・カーバイド社の責任は非常に重いが、死者の遺族に支払われた賠償額は 1人当たりわずか330ドルだった。当時のアンダーソン社長は事件後すぐに国外へ逃亡した。