昭和40年代

昭和40年代

 日本の産業が農業から工業へ変わり、田舎から都市に人口が移動し、景気の拡大と雇用の充実が庶民の収入を増やし、生活は豊かになった。昭和39年の東京オリンピックまでに国内インフラはおよそ整備され、同年には東海道新幹線が開通し、東海道新幹線は日本の技術力の高さを世界に示した。昭和44年には東名高速道路が全線開通し、自家用車が日常生活の一部になり、生活は消費へと向かった。しかし一方では、重化学工業の拡大が公害を生み、生活排水が河川の悪臭を生み、生活を便利にするはずの自動車が光化学スモッグをもたらした。

 昭和40年代は急激な経済成長の中で、その歪みをもたらした時代でもあった。重化学工業を優先させる政策と生活の利便性が、公害という健康被害をもたらし、国民は企業の利潤追及に拍手と戸惑いを見せながら、地方自治体の選挙で革新首長を次々に登場させた。昭和42年から54年まで美濃部達吉が東京都知事を務め、京都府の蜷川虎三知事は728年にわたり、その他に北海道、大阪、神奈川などで革新自治体を登場させた。

 国政は佐藤栄作首相の78か月にわたる長期保守政権が終わると、昭和47年には「日本列島改造論」を唱えた田中角栄が首相となり、国土開発はさらに進んだ。「日本列島改造論」は、首都圏などの大都市と地方の格差を埋めるために、全国に高速道路網を巡らせ、地方に公共事業を持ち込み、公共事業や公共施設の建築は地方経済を中短期的に潤わせた。しかし都市部への人口移動と地方の過疎化は止まらず、都市部と地方の格差は進んでいった。農業は食の変化と国際化により次第にゆがみを生じ、米の完全自給を達成したのに、食料自給率は低下し、農業の機械化とともに農民100万人が出稼ぎにでるようになった。農村の周囲の道路は整備されたが、農業人口の減少と高齢化が進んだ。

 昭和40年に、日本は大韓民国と日韓基本条約を締結され、昭和47年には田中角栄首相が中国との国交を回復させた。しかし同時に中華民国(台湾)との国交を断絶し、北朝鮮とは国交がないままである。

 団塊の世代の血気盛んな青年は、60年安保闘争の敗北を眼前に記憶しており、学園闘争やベトナム戦争反対運動をより過激にした。一部の学生は既成政党の打倒、革命を叫び、暴力的活動へと走った。東大紛争、連合赤軍、連続リンチ殺人、内ゲバ、連続爆破事件へと彼らは暴走したが、国民を敵視する暴力革命は、国民に不安と嫌悪をもたらすことになった。

 国民は社会不安、環境破壊などに戸惑いを覚えていたが、それを吹き飛ばすように、昭和45年に「日本国際万博」が開催された。入場者は6421万人で、人類の進歩と調和をテーマにしたパビリオンには家族連れが列をつくり、万博は日本の平和と繁栄を国民の心に植え付けた。政治よりも経済が生活の水準を高めることを実感させ、国民の多くが中流意識を持つようになった。

 昭和47年にグアム島から横井庄一さんが、昭和49年にはルバング島から小野田寛郎少佐が帰国し、2人はかつての日本人を思い起こさせた。しかし学生運動で挫折を味わった若者はジリ貧になり、若者は内向的フォークの世界に入り、フーテン族、アンノン族となり、破廉恥な若者文化でさえ昭和元禄という言葉に飲み込まれた。大人の財布は緩み、デスカバージャパンの宣伝とともに、個人的な趣味と享楽へと移行していった。経済の繁栄が自分たちの繁栄のように受け止めていた。

 一方、正義と栄光のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼から抜け出せずにいた。日本はアメリカを支持しながら、昭和43年に国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き、世界第二位の経済大国となった。日本人の勤勉さ、手先の器用さ、技術の高さなどが経済大国にしたのであるが、日本国憲法により軍隊を持てず、安保条約の傘の下で経済に集中できた要因が大きい。

 昭和46年、アメリカ経済の低迷と日本経済の繁栄を象徴するように、1ドル360円の固定相場が変動相場へ変わりドルが切り下げられた。昭和4810 月には第四次中東戦争が勃発し、原油価格は3倍になり、このドルショックとオイルショックにより日本経済は低下し、狂乱物価が生活を襲った。昭和49 年、経済は戦後初めてマイナス成長となったが、それは一時的な休息にすぎなかった。

 当時、塾もなければ、国立大学の授業料も安かった。勉学に励み、成績さえよければ希望する大学に進めた。大学に入れば就職は保障され、中卒でも「金の卵」と呼ばれ、田中角栄のような才能と頑張りがあれば将来は明るかった。日本は若く、終身雇用制、年功序列を保持する活力があった。和をもって貴しの日本社会の中で、立身出世の夢を持ち得た活気ある時代だった。若者はベンチャーズ、ビートルズに夢中になり、そしてタイガーズなどのグループ・サンズが日本中に鳴り響いていた。主婦はスーパーで買い物をして、亭主は飲み屋で憂さを晴らし、老後の問題は存在せず、不安なき日々であった。




アンプル風邪薬事件 昭和40年(1965年)

 昭和40年代は、日本そのものが若々しい時代だった。団塊の世代は青年となり、若さゆえに政治や人生について議論を交わし、若い労働力は高度経済成長を支えた。国民の生活は豊かになり、国民医療費も経済に連動して膨張し、製薬会社は驚異的な売り上げを誇っていた。医師は高収入で、社会的地位は高く、権威主義がまかり通り、医師にとって40年代はまさに黄金時代であった。

 昭和40年はA型インフルエンザが猛威をふるい、患者数2万6000人、学級閉鎖2378校となった。昭和40年2月11日、インフルエンザが猛威を振るっているさなか、千葉県で農業を営む男性が団体旅行から帰宅後に、アンプル入り風邪薬「強力パブロンアンプル」(大正製薬)を飲み急死した。この事件から3日後、同じ千葉県でアンプル入りの風邪薬を飲んだ老人と15歳の少女が死亡。2月17日、静岡県伊東市の主婦(39)がやはりアンプル入りの風邪薬「エスピレチン」(エスエス製薬)を飲んで死亡した。

 日本各地でアンプル入り風邪薬を飲んで急死する事件が続発し、アンプル入り風邪薬による事件は連日のようにマスコミをにぎわした。新聞が報道しただけで3月4日までに死亡11人、累積死亡数は50人をこえた。大阪府医師会の調査では、アンプル入り風邪薬で異常をきたした患者は半年間で702人、そのうち62人が意識混濁、失神、呼吸困難、痙攣などの症状を示し、死に至らなくても多数の重症例がいた。

 アンプル入り風邪薬は亜細亜製薬の「ベルベ」の発売が最初だった。風邪薬はそれまでは粉末や錠剤であったが、それを水溶性の液体に変わったのである。アンプル入り風邪薬の主成分は解熱鎮痛剤のアミノピリン・スルピリンで、従来の風邪薬と同じで薬理学的にはなんら違いはなかった。アンプル入り風邪薬は注射薬の即効性を狙ったイメージ商品で、製薬会社はインフルエンザの流行に乗り遅れまいとガラスに入ったアンプル風邪薬を盛んに宣伝して増産体制をとった。当時の日本は高度経済成長に沸き、働き続けることが美徳と受け止められていた。仕事が忙しく、風邪ぐらいで休めない雰囲気があり、勤労者にとって薬局の店頭でチュッと1本飲んで風邪が治ればそれに越したことはなかった。

 当時は、科学や医学の進歩を過信し、風邪は風邪薬で、しかも効きそうなアンプル入り風邪薬で治ると思い込んでいた。そのため各製薬会社は、粉末や錠剤の風邪薬をアンプル剤に変更した。アンプル風邪薬がより効果的との証拠は何もなかったが、注射を思わせるアンプルの首を割ってチュッと飲むと、何となく早く効きそうなイメージがあった。これは日本人の注射信仰を利用したものである。

 当時、「モーレツ社員」「ファイトで行こう」が流行語になっていて、風邪をひいたら注射ですぐに治してもらおうとした。高度経済成長の気分の中で「風邪などひいている場合ではない」という雰囲気であった。風邪でも何でも病院に行き、患者は「あの医者の注射はよく効く」、あるいは「注射を1本打ってください」と医師に注文するほどだった。

 アンプル風邪薬事件は、患者の特異体質と簡単に報じられていた。個人的な不幸な出来事ととされていたが、1カ月に11人の被害者が出たことから、マスコミが連日のように事件を報じるようになり、厚生省は重い腰を上げることになった。昭和30年2月19日、厚生省は大正製薬にアンプル入り風邪薬の広告と販売の自粛を要請。だが大正製薬の広報課長は「アンプル入り風邪薬は当社だけで9000万本を製造し、10年の実績をもっている。このような死亡事故は偶然が重なったせいで、厚生省の基準に従って製造したのだから問題はない」とコメントを述べ、厚生省の要請に難色を示した。

 この広報課長の難色発言がマスコミで大きく取り上げられ、アンプル入り風邪薬は社会問題へと発展していった。厚生省は責任が自分たちに及ぶことを恐れ、大正製薬、エスエス製薬に販売中止を再度要請、両社はこれを受け入れることになった。大正製薬は「強力パブロン・強力テルミック」、エスエス製薬は「エスピレチン」などのアンプル入り風邪薬を販売中止とした。

 アンプル風邪薬は販売停止となったが、薬局に置いてあるアンプル風邪薬を回収しなかったため、その後もアンプル風邪薬による死亡例が続発することになる。在庫を抱えた薬局が「在庫一掃大売り出し」を行っていたのだった。

 そのため3月2日、厚生省は「市場からのアンプル入り風邪薬の回収」を日本製薬団体連合会に要請。日本製薬団体連合会は「回収および返品に伴う損失を補う優遇措置」を条件にこれを受け入れた。つまり損害の救済、税制上の優遇、金融上の優遇、薬型変更の承認許可の優遇を条件にアンプル入り風邪薬3000万本を自主回収することになった。

 風邪薬の副作用の大部分はピリンが原因とされているが、厚生省は「患者の体力が弱っている時に、早く治りたい一心から多く飲み過ぎたこと、他の薬剤との併用が原因ではないか」と述べ、悪いのは患者本人であるかのような発言をした。中央薬事審議会は「水溶性のアンプル剤は吸収速度が早いため、血中濃度が急速に上昇し、毒性が強く出たのであろう」と述べ、さらにショック死は「使用者の特異体質も原因」とコメントした。

 アンプル入り風邪薬を製造していた製薬会社は全国で200社で、年間数百万本が生産されていた。アンプル入り風邪薬は製薬会社の稼ぎ頭で、年間売り上げは約100億円とされていた。製薬会社の中には全体の売り上げの半分以上を占める会社もあり、製造中止は製薬会社にとって死活問題となった。

 薬局も大きな打撃であった。当時は医薬品の過剰生産から、薬局の倒産が続出しており、利潤の大きいアンプル入り風邪薬は起死回生の商品だった。風邪薬は10100円であったが、アンプル入り風邪薬は1本100円から200円で、40%が薬局の儲けになっていた。薬局の売り上げの2割を占めていた。

 厚生省の対応はかつてないほどの英断と評価されているが、製薬会社は大損害を被ることになった。そのため厚生省は回収が終えた時点で製薬会社を集め、今回の経緯について説明するとともに、損害を与えたことを陳謝している。この製薬会社への遠慮が、後に続くクロロキン網膜症の対応の遅れを作ったとされている。

 この事件の背景には、製薬会社の利益追求があった。製薬会社は病院で処方される医家向け薬剤よりも、薬局で自由に買える大衆薬品にウエイトを置いていた。そのため各製薬会社は新聞、雑誌、テレビ、ラジオを通して誇大広告や過激な広告を繰り返していた。風邪薬には成分の違いはほとんどないので、薬剤の内容よりも薬剤のイメージが販売戦略となり、宣伝が加熱した。

 ところで「くしゃみ3回、ルル3錠」は三共製薬の風邪薬のCMであるが、このCM史上に残るキャッチコピーは昭和30年に作られたもので、三島由紀夫が絶賛したとされている。「くしゃみ3回、ルル3錠」は現在でも使われており、この宣伝によって三共は総合感冒薬市場でトップクラスを確保している。ルルの宣伝は大空真弓、いしだあゆみ、由美かおる、伊東ゆかり、松坂慶子、大竹しのぶ、富田靖子、木村佳乃と受け継がれ、ルルの宣伝に出た女優は大女優になるという伝説が生まれた。

 宣伝が全く逆効果だったのが、昭和3912月に放映された興和の風邪薬「コルゲンコーワ」のCMだった。「おめえ、ヘソねえじゃねえか」と言いながら、子供が薬局前に置かれたカエルの人形に落書きをするCMは、「子供の言葉遣いが悪い」と批判を受け2カ月で放送打ち切りとなった。

 当時の新聞を見ると、広告の半分近くが医薬品で占められていた。製薬会社は薬品の広告に熱心で、今日でいえば家電製品や自動車と同じように広告を出していた。またテレビのコマーシャルも同じだった。広告産業にとって製薬会社は一番の得意先で、「製薬会社の研究費は売り上げの4.0%であるが、広告費は5.1%」であった。製薬会社は利潤追求にしのぎを削り、イケイケドンドンの営業で、およそ人命にかかわる薬剤を売っているとの意識は乏しかった。

 製薬会社は市販の薬剤に重点を置いていたが、昭和36年に国民皆保険制度が発足すると、患者数が増大して、医家向けの薬剤が急速に伸びていった。昭和30年から45年までの15年間に、製薬会社の売り上げは12.4倍、利潤は22.9倍に伸び、製薬会社は国民皆保険制度、高度経済成長、大衆薬ブーム、さらに薬好きの国民性も加わり驚異的な成長を遂げた。

 アンプル入り風邪薬事件をきっかけに、日本製薬団体連合会は「医薬品広告に関する自主規制」を行い、薬の宣伝が急速に減少することになる。今回、アンプル入り風邪薬が問題となったが、一般的な風邪薬が必ずしも安全とは限らない。風邪薬がスティーブンス・ジョンソン症候群(全身の皮膚がやけどのようにただれる)を引き起こして死亡した例、ショックによる死亡例も報告されている。また大量の風邪薬が死に至ることは、埼玉県本庄市の風邪薬連続保険金殺人事件(平成11年)が証明している。風邪をひいたら薬剤に頼るのではなく、薬剤の助けをかりて休養で治すべきである。

 



新潟水俣病(第二水俣病) 昭和40年(1965年)

 栃木県、福島県を源水として日本海に流れる阿賀野川は新潟の重要な交易路として栄えていた。阿賀野川流域に住む人々は半農半漁民が多く、豊かな水源は新潟平野の灌漑用水として、住民たちの食卓にはサケ、マス、ヤツメなどの川魚が並び、川魚は住民たちの重要なタンパク源となっていた。この日本有数の阿賀野川は、アイヌ語で「清い川」を意味していた。この「清い川」がメチル水銀(有機水銀)に汚染されたのが新潟水俣病である。

 熊本県・水俣市の水俣病が「チッソ水俣工場から排出されたメチル水銀が原因」と判明してから6年後のことである。昭和39年から40年にかけて、阿賀野川流域の住民の間で、手足がしびれ、口が利けなくなるなど、水俣病に似た患者が発生していることが明らかになった。

 昭和391112日、原因不明の神経症状を示す31歳の漁民が新潟大学医学部付属病院に入院、新潟市下山地区に住むこの患者が新潟水俣病発見のきっかけとなった。この男性患者が入院してから、同じ症状を持つ患者が連続して新潟大学病院に入院してきた。

 その症状は視野狭窄、歩行障害、言語障害などの中枢神経症状が主であった。昭和40年1月、ちょうど東京大学脳研究所から新潟大学医学部神経内科に赴任してきた椿忠雄教授(後にスモンのキノホルム原因説を確定させたことでも有名)は、これらの患者を診察してすぐに水俣病を疑った。

 水俣病の原因であるメチル水銀は消化管から100%吸収され、脳に移行して神経症状を引き起こすことが分かっていた。患者はいずれも阿賀野川流域に住み、川魚を多く食べていた。椿教授は患者の毛髪に含まれる水銀を測定、通常の50倍にあたる390ppmの有機水銀を検出したのだった。

 昭和40年5月31日、新潟大学医学部脳神経外科・植木幸明教授、神経内科・椿教授は「阿賀野川流域に水俣病に似たメチル水銀による中毒患者が発生している」と新潟県衛生部に報告。6月12日に記者会見で、「この疾患は阿賀野川の川魚を多く摂取したことが原因と推定される」と正式に発表した。脳神経を冒され、視力障害、聴力障害、全身のしびれなどを訴える患者はそれまでに7人入院し、2人がすでに死亡していた。

 メチル水銀中毒の原因については、住民の多くは容易に想像ができた。阿賀野川の上流60キロの福島県との県境の鹿瀬町に昭和電工鹿瀬工場があり、チッソ水俣工場と同じアセトアルデヒドを生産していたからである。

 当時、日本のアセトアルデヒドの生産量はチッソが第1位、昭和電工が第2位であった。昭和電工は昭和11年からアセトアルデヒドを生産しており、メチル水銀を含んだ排液が阿賀野川を汚染させたとしても不思議ではなかった。昭和電工鹿瀬工場は山奥にあったが、従業員約2000人の日本有数の化学工場であった。

 熊本県の水俣病と同じように、昭和39年8月頃から阿賀野川流域のイヌやネコが狂死し、大量の川魚が浮き上がることが観察されていた。だが昭和電工鹿瀬工場は、熊本のチッソ水俣工場以上に強固な反論を繰り返し、自社犯人説を否定した。昭和電工側は熊本の水俣病が問題になってからも何ら対策をとらず、それでいて工場排水中のメチル水銀が原因でないと頑として認めなかった。

 同工場はアセトアルデヒドの製造過程で水銀を使用し、排水を阿賀野川に放出していた。阿賀野川の魚介類から有機水銀が検出されたが、工場は非を認めず、昭和39年6月16日に起きた新潟地震によって有機水銀農薬が阿賀野川に流出したことが原因と主張した。

 新潟地震は死者25人、家屋全壊994戸に達する大地震であったが、有機水銀を流出させた農薬工場はどこにも存在しなかった。また新潟水俣病患者が工場周辺よりも、阿賀野川下流に多いことも否定の根拠となった。

 調査が進むにつれ、患者の発生地区では「食べた川魚の量と毛髪中のメチル水銀の量が明らかに比例すること」がわかった。婦人の長い髪に含まれる有機水銀の量を分析した結果、新潟地震以前の毛髪部分からも正常値を超える水銀が検出された。このことから川魚の汚染は昭和電工鹿瀬工場の排液中のメチル水銀とほぼ決定された。患者が阿賀野川下流地域に多いのは、阿賀野川に生息する生物の食物連鎖で水銀が濃縮され、下流の魚介類の水銀濃度が高くなっていたせいであった。

 先に発生した熊本県の水俣病は、水俣市がチッソの企業城下町であったこと、患者や漁民が周囲から孤立したことなどから原因解明に遅れを取った。しかし新潟水俣病は水俣病の前例があったため、また環境汚染への住民の認識が高まっていたため、周辺住民だけでなく、新潟県知事、民間団体、行政、政府が一体となって解決に努力したことから原因究明は速かった。熊本大学水俣研究班やチッソを退職した水俣工場付属病院の細川一・元院長らが新潟水俣病の究明のために協力を惜しまなかった。

 ここで重要なことは、同じ水俣病である新潟と熊本の患者認定に大きな差がみられたことである。熊本県の水俣病は重症の典型例だけを水俣病と認定したが、新潟水俣病はしびれや運動障害などの軽症例も水俣病と認定していた。

 このことは椿教授の功績が大きかった。熊本水俣病の前例を踏まえ、県衛生部と綿密に住民調査を行い、原因が有機水銀と分かると、すぐに汚染地区の2万9000人全員にアンケート調査を実施し、疑わしい患者をピックアップして毛髪の水銀を調べる方法を取った。そのため軽症の患者を含む全患者をリストアップすることができたのである。

 また熊本水俣病の「胎児水俣病の悲劇」を繰り返さないように、頭髪の水銀濃度の高い婦人には避妊の指導が行われた。新潟水俣病の患者は阿賀野川流域の住民がほとんどで認定患者は690人、非認定ではあるが医療救済対象者は834人となった。死者は50人以上とされている。

 被害者対策は迅速に行われたが、住民にとって水俣病の認定は周囲との偏見との戦いでもあった。認定には大学病院で検査を受けて自己申請しなければならない。補償金欲しさのニセ水俣病との偏見もあった。

 水俣病と認定されると、就職はできず、会社はクビになり、結婚ができない、とのうわさが流れ、症状があっても申請しない患者も多くいた。患者は自暴自棄となり、家庭は崩壊し、阿賀野川の魚は売れずに漁民は深刻な打撃を受けた。

 昭和41年3月に、厚生省特別研究班は、「昭和電工鹿瀬工場の排水口から採取した水ゴケからメチル水銀を検出した」と発表、新潟水俣病の原因を昭和電工鹿瀬工場の排水によるものと断定した。43年9月に政府は新潟水俣病を公害病に認定したが、政府が公害と認定したにもかかわらず、昭和電工はその関係を否定したまま裁判で争われることになった。

 昭和42年6月12日、新潟水俣病患者13人が昭和電工に慰謝料4450万円をもとめ新潟地裁に提訴し、さらに患者77人が慰謝料5億2267万円の損害賠償を求めた(第1次訴訟)。この第1次新潟水俣病訴訟は患者側の全面勝訴となり、新潟地裁は昭和電工に2億7779万円の支払いを命じた。昭和電工は責任を追及する世論が沸騰したため控訴を断念した。

 この裁判は、わが国の4大公害裁判(熊本水俣病、四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病)の中で最初に結審した判決で、それ以降の公害裁判に大きな影響を与えた。公害裁判では、高度経済成長の中で環境よりも生産性を優先させた企業の姿勢が争点となった。

 水俣病と認められなかった水俣病未認定患者140人が、国の行政責任を求め新潟地裁に提訴(第2次水俣病訴訟第2〜8陣)。この裁判は長期化し、平成7年、村山連立内閣は水俣病患者の救済が遅れたことについての政治責任を認め、患者と和解をめざすことになった。村山首相の謝罪談話を受け、東京高裁(第2次第1陣)と新潟地裁(第2次第2〜8陣)では国との和解協議が進められ、国は患者1人当たり260万円の一時金と団体加算金4億4000万円を支払うことになった。この結果を受け患者は訴訟を取り下げたが、この政治決着までに13年半の月日を要し、この間、原告43人が亡くなっている。

 国は和解に応じたが、賠償金の全額は昭和電工が支払うことになった。国が政治責任を認めたのに、昭和電工が損害賠償の肩代わりをしたのは、国が昭和電工に公害防止の設備投資などの名目で、租税優遇措置や低利融資などの実質的資金援助を行い、昭和電工には実質的な損害を生じさせなかったからである。

 新潟水俣病は、和解により決着したが、高度経済成長のなかで熊本水俣病の教訓を生かさなかった企業の悲劇といえる。阿賀野川の魚類の有機水銀濃度は次第に自然界レベルに低下し、阿賀野川流域の魚介類の食用禁止は昭和53年に解除された。

 



赤ちゃん取り違え事件 昭和40年(1965年)

 自分のおなかを痛めた子供が、手塩にかけて育てた子供が、実は他人の子供だったら、母親のショックは言葉では表現できないことであろう。このような信じ難い事件が昭和40年頃日本各地で多発した。

 滋賀県大津市に住む大学助教授Yさん夫婦には、4月から幼稚園に通う4歳の長男がいた。Yさん夫婦は交通事故の痛ましいニュースを頻回に耳にすることから、入園を機会に子供の血液型を調べて名札に書いておこうとした。そのため長男を近くの病院に連れて行き、血液型を調べてもらった。その結果、驚くべき事実を知ることになった。

 Yさん夫婦の血液型はともにB型であったが、長男の血液型はなぜかA型だった。B型の両親からA型の子供は絶対に生まれるはずがなかった。Yさん夫婦はこの結果に驚き、頭を抱え込んでしまった。妻の不貞は考えられず、残された可能性は、長男が生まれた大津日赤病院での取り違えだけであった。連絡を受けた大津日赤病院では、当時の入院患者をひそかに調査すると、同じ大津市に住む土建業Aさんの子供と、Yさん夫婦の子供が取り違えられていたことが明らかになった。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、赤ちゃんの足の裏にマジックインクで名前を書いて識別していた。しかしインクが蒸発して赤ちゃんが中毒症状を起こす可能性があったため、この方法は中止され、次に木札を胸にぶら下げる方法が採用されたが、赤ちゃんのけがが心配された。

 そのため大津日赤病院では、識別票を付けずに赤ちゃんを扱っていた。出産直後から赤ちゃんを母親のそばに同室させる方法を採用し、赤ちゃんの取り違えは予想外であった。YさんとAさんの「赤ちゃんの取り違え」は、生後3日目の入浴時に起きた。赤ちゃんは1日1回入浴することになっていたが、生後3日目のYさんとAさんの赤ちゃんの入浴時間が同じだった。

 看護師不足の病院では、看護師が両腕に2人の赤ん坊を抱えて入浴させることが日常的に行われていた。母親にとって五体満足の赤ちゃんを無事に出産した安堵感、さらに出産後の疲労も重なり、自分の子供の取り違えに気づかなかった。

 「自分の産んだ赤ちゃんを間違えるはずはない」と思うかもしれないが、出産後の赤ちゃんは顔のむくみが次第に取れ、毎日のように顔の表情が変化していくのである。たとえ多少顔つきが違っていても、まさか自分の赤ちゃんが取り違えられたとは想像外のことであった。

 取り違えられた子供は、すでに物心のついた幼稚園児である。子供を交換するといっても簡単なことではない。オッパイを含ませ、おしめを取り替え、鼻が詰まったときには口で吸い、生まれたときから自分の子供として育ててきたのである。4年間も実子として育ててきた子供を、他人の子供だったからと言われ、「ああそうですか」と割り切れるはずはなかった。

 間違って育てられた子供も大変であった。昨日までAちゃんと呼ばれていたのが、