昭和30年代

 終戦から10年後の昭和30年、日本の鉱工業生産は昭和10年の水準を超え、高度経済成長がまさに始まろうとしていた。昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したように、日本は急速に復興を遂げ、神武景気を皮切りに、岩戸景気、いざなぎ景気と経済成長を遂げ、輸出による外貨獲得、設備投資による生産の増大、インフラの整備、労働賃金の上昇、農業の近代化、これらが相乗的に購買力を高め日本の経済は拡大していった。

 昭和20年代の飢餓と極貧の時代から、人々はたくましく這い上がり、庶民の生活は向上した。工場の煙突は生活の豊かさを示し、原子力は鉄腕アトムのごとく科学の象徴と捉えられ、店頭には「三種の神器」と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が並びはじめ、日常生活は落ち着きを取り戻した。極貧からつつましい生活へ、さらには消費生活へと次第に変わりはじめていった。昭和33年に東京タワーが建設され、昭和39年の東京オリンピックへ向け、高速道路や新幹線が整備され、新築ビルが街並みを競うように変えていった。

 昭和30年代は政治にも大きな変化があり、自由党と日本民主党が合併して自由民主党となり、社会党も左派と右派が合併して日本社会党となった。いわゆる55年体制が発足し、両者は対立しながら60年安保闘争を迎えることになる。

 昭和274月にサンフランシスコ講和条約が公布され、日本は独立国と認められたが、同時に日米安全保障条約により「アメリカ軍は、日本と東アジアの安全保障のため日本に駐留する」ことになった。60年安保はその条約をさらに踏み込んだもので、アメリカは日本に「基地の提供だけでなく、日米共同防衛」を求め、このことから日本がアメリカ側の一部として戦争に巻き込まれる可能性が出てきた。そのため非武装中立を主張する日本社会党、アメリカとの軍事同盟と批判する労働組合や学生が中心になり安保反対運動が高まった。一般国民も元A級戦犯だった岸信介首相の強硬なやり方への反発から、安保反対闘争は全国で吹き荒れ、安保阻止統一行動に560万人が参加し、国会議事堂は33万人のデモ隊に囲まれ、群衆は国会に突入しようとして警察と衝突、樺美智子さんが死亡した。

 日米安保条約で日本の民主主義を守れるのか、それとも日本が再び戦争に巻き込まれるのか、資本主義か社会主義か、あるいは永世中立国か、この選択は日本の主権、国益、将来に関わる重大事であった。世界の資本主義陣営と共産主義陣営に挟まれ、日本の主軸をどこに置くかの判断であった。しかし岸信介首相は「声なき声を聞け」と覚悟を示し、昭和35623日、安保条約は自然成立。この60年安保闘争が国民的規模の最後の政治闘争となり、その後、国民の関心は「政治から生活の豊かさ」に変わっていった。

 昭和35年に池田内閣は所得倍増計画を発表し、10年で達成するはずの所得倍増を7年で達成。戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代は「金の卵」と呼ばれ、田舎から列車に乗り、都市部の中小企業に集団就職した。街は若い躍動感と活気に溢れ、彼らの労働力が日本経済を支えた。東京都内の自動車が100万台を突破、国民は政治から経済へ、政治から生活の豊かさに関心が移り、その象徴として消費ブーム、レジャーブームが到来した。

 昭和34年に皇太子殿下と正田美智子様がご結婚し、テレビが急速に普及。テレビの普及がそれまでの生活を大きく変えた。駄菓子屋に群がっていた子供は、「おばけのQ太郎」や「ひょこりひょうたん島」に興奮し、巨人、大鵬、玉子焼きで生き生きとしていた。若者は流行歌を口ずさみ、貧しくとも束縛されない自由があった。若い女性はロカビリーに夢中になり、「名犬ラッシー」にみる豊かな生活に憧れた。サラリーマンは植木等の「無責任時代」とパチンコで憂さを晴らし、それでいて真面目に働いた。戦前を忘れたように、国民の多くが家族に幸福を求め、家族のそれぞれがジャパン・ドリームを見ていた。

 

 

ノイローゼ 昭和30年(1955年)

 昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記され、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が家庭に目立ち始め、人々は生活の向上を実感するようになったが、それと平行するように昭和30年頃からノイローゼという言葉が流行(はや)りだした。

 ノイローゼとは、医学的には「心理的な要因による心身の異常で、脳の器質的変化を伴わない精神障害」のことであるが、このノイローゼが「ちょっと考えすぎ、ちょっと悩みすぎ」といった日常的な言葉として安易に使われるようになった。昭和30年7月24日、週刊朝日が「ノイローゼと現代人」の特集のなかで、「ノイローゼは現代人のアクセサリー」と書いたことがノイローゼ・ブームのきっかけとなった。当時は、著名人の自殺が相次ぎ、ノイローゼに関した本が多数出版された。

 終戦からの数年間は食糧難の時代で、人々はその日を生きることに必死で、ノイローゼになるゆとりはなかった。戦後10年を経て人々の生活が安定し、貧困という物質的な悩みが精神的な悩みに移行し、精神的な悩みが一種の知的ファッションになった。

 塩野義製薬は統合失調剤「ウインタミン」を発売したが、その広告のキャッチフレーズは「現代人の流行病ノイローゼ」であった。統合失調(分裂病)は精神の病気で、ノイローゼは心の病なので、「ウインタミン」の宣伝は、ノイローゼの言葉に便乗したといえる。

 敗戦で人生観や価値観が大きく変わり、田舎から都会に人々が移動し、企業では機械化による合理化が進められ、さらに家庭の不和や失恋、仕事の失敗や職場の人間関係などがノイローゼの要因となった。生活に余裕が出たため、自分の健康に関心が向き、そのことが健康不安を生じさせ、健康不安が身体の変調をもたらす悪循環となった。貧困による生活苦よりも、心の不安定がノイローゼをもたらした。

 昭和32年1月10日、第一製薬は国産第1号の精神安定剤「アトラキシン」を発売したが、そのときの宣伝文句は「文化人病、都会人病への新しい薬」であった。同年だけで不安神経症、不眠症、過度の緊張をとる精神安定剤(トランキライザー)が10社以上の製薬会社から次々に販売され、「トランキライザーの時代」と呼ばれるようになった。

 ノイローゼに似た言葉として不定愁訴がある。不定愁訴は原因がないのに多彩な症状を訴えることで、文字通り「なげきを訴えるところ定かならず」のことである。この不定愁訴という言葉は、昭和39年に第一製薬が発売したトランコパールの新聞広告で使用され、また昭和39年4月に日本経済新聞で有馬頼義の小説「不定愁訴」が連載され話題を呼んだことから流行語となった。不定愁訴は頭痛や肩こりから生理不順、不眠など多彩な訴えを含んでいたが、病気のようで病気ではないので、不定愁訴は患者がどれほどつらくても医師から相手にされず、そのため患者はさらに悩むことになった。

 昭和28年頃から自殺が増え、昭和33年6月1日の新聞には、日本の自殺率が世界第1位になったという不名誉な記録が掲載された。日本人の年間自殺率は10万人当たり24.2人で、2位はオーストリア、3位はフィンランド、4位はスイスの順であった。

 戦時中は空襲を受け、戦後は食糧難で日本人のストレスは極度に高まったが、ノイローゼや自殺は少なかった。戦時中は一億玉砕、挙国一致などが国民の一体感を高め、戦後の食糧難はストレスを覚えるほどの心に余裕がなかった。それが時間が経つにつれ、戦前の思いを捨てきれない人たちや職場や社会などに適応できない人たちが増え、さらに苦悩そのものが知的で純粋とする文学的な雰囲気があった。連帯観が崩壊し、孤独に耐えられない人たちが増加し、自殺、ノイローゼ、新興宗教が次々に生まれた。

 なお日本の自殺率は現在でも世界最高で、自殺率は欧米の約2倍になる。自殺者は平成10年から12年連続で年間3万人を超え、交通事故死の約3〜4倍、日本人死因の第6位、日本人30人に1人の死因になっている。また1人の自殺者の陰には30人の未遂者がいるとされ、自殺は大きな社会問題になっている。このように日本は自殺大国になっているが、自殺は個人的なものとされ、うつ病という医学的側面から、あるいは貧困、雇用、孤立、病苦などの社会面から取り上げられることは少ない。

 日本の自殺者の特徴は、働き盛りの中年男性に多いことである。日本の中年男性に自殺が多いのは、失業率と自殺が平行していることから不況の影響とされているが、そう単純ではない。物質的な豊かさが精神的脆弱をもたらし、貧困に対する忍耐力が低下し、自殺を禁じる宗教を持たず、自分を押し殺すことを美徳とする国民性。このように様々ことが、行き詰まりのなかで重なり、人間の弱さと閉塞した不安がその要因になっていると思われる。

 

 

 

アインシュタイン 昭和30年(1955年)

 昭和30年4月18日、アメリカのプリンストン病院で理論物理学者アインシュタインが胆嚢炎のため76歳で死去した。アインシュタインは時間や宇宙という大きな謎を解き明かし、それまでの物理学を根底から覆す発見を人類にもたらした。20世紀を代表する天才アインシュタインの名前は誰でも知っているだろうが、「単純なものこそ美しい」と表現した彼の宇宙と時空の理論を知れば、彼がいかに天才であったかが分かるはずである。

 アインシュタインは1879年にドイツの小都市ウルムでユダヤ人の子供として生まれた。3歳になってもしゃべれず、両親は知恵遅れの子供と思い失望していた。この子供がまさか天才と呼ばれようになるとは想像もしていなかった。少年時代のアインシュタインは学校が嫌いでクラスでは孤立していた。学校にはあまり行かず、独学で好きな自然科学の本を読んでいた。成績は悪くはなかったが、頭の悪い子供とされていた。

 ある日、5歳のアインシュタインに父親がコンパス(羅針盤)を見せた。アインシュタインはコンパスの針が常に一定の方角を指すのを見て、「物事の背後には目に見えない隠された何かがある」と直感した。針が一定の方向を向くのは地球の磁場によるものであるが、5歳のときから自然現象への洞察が鋭かったのである。また6歳頃からバイオリンの指導を受け、バイオリンは彼の生涯において心を和ませる大好きな楽器となった。

 アインシュタインは数学、物理学、哲学が好きであった。訪ねてくる叔父や知り合いの医学生に科学や物理学の指導を受け、彼らと議論を交わすことを楽しみにしていた。11歳で中等教育学校に入学するが、当時は軍国主義教育である。権威主義が幅を利かし、団体行動を強いられていた。学生は寄宿舎での生活であったが、それを嫌ったアインシュタインは知り合いの医師に、「学校生活に耐えられない精神状態である」と診断書を書いてもらい、勝手に家族のもとへ帰った。

 16歳の時、チューリッヒのスイス連邦工科大学を受験するが不合格であった。数学の成績は優秀だったが、現代語、動物、植物が合格点に達していなかった。しかし翌年には合格し、スイス連邦工科大学で数学と物理学を学ぶことになった。当時の物理学はニュートン力学が中心であったが、アインシュタインはニュートン力学に批判的であった物理学者エルンスト・マッハの影響を受け、最先端の学問である電磁気学にのめり込んだ。

 大学での彼の成績は優秀とはいえず、そのため博士号はもらえずに大学を卒業。卒業後の2年間は無職に近い生活で、高校教師、家庭教師などをしていたが、友人の紹介でスイス連邦特許局に就職することになった。特許局は申請された特許内容を審査する仕事であるが、その仕事は彼の科学的興味を満足させ、また決められた時間に仕事が終わるので、自由に研究ができた。仕事のかたわら自由な発想で独自の物理学の世界を作り上げていった。

 アインシュタインは実験室を持たない公務員だったが、彼には実験室は必要なかった。彼の頭の中が実験室で、頭で考えたことをノートに書きながら思考を繰り返していた。物理学者は実験結果から法則を見出したが、アインシュタインは「思考実験を繰り返して物理学の理論を見つける」という理論物理学の先駆者であった。宇宙という壮大な世界をどのように説明するのか、それが彼の理論思考のすべてだった。

 1905年、アインシュタインが26歳のときである。彼はそれまで「波」とされていた光が「粒子」であるという画期的論文を発表した。さらに数カ月後には、特殊相対性理論を発表、この年は彼にとって奇跡の年と呼ばれている。

 アインシュタインは「光とは何か」を常に考えていた。それまでの物理学者は光の速度の変化を測定しようとしたが、実験はことごとく失敗していた。地球は公転しているのだから、公転している方向に進む光の速度と、逆の方向に進む光の速度は違うはずである、がどの実験でも光の速度は同じだった。

 なぜ光の速度が一定なのか、このことは当時の物理学の大きな謎であった。この疑問にアインシュタインは「光の速度は絶対で、他の何かが変化している」と考え、「光の速度は一定で、時間の流れが変化する」という理論にたどりつくのである。

 時間が変化する理論は、それまでの物理学を根本から覆すものだった。宇宙の誕生から今日に至るまで、時間は正確に刻まれ絶対不変と誰もが信じていた。時間が伸びたり縮んだりするという発想はなかった。ところが特殊相対性理論は「速く動けば速く動くほど、時間の流れは遅くなる」というもので、もし光に乗って動くことができれば、時間は停止するはずであった。

 例えば時速100キロで走っている自動車を、時速96キロで走っている自動車の運転手がみれば、時速4キロのスピードに見えるはずである。ところが、光の速度は静止している人が測定しても、猛スピードで走っているロケットの中で測定しても同じなのである。この矛盾は静止している人の時間と、猛スピードで走っているロケットの中の時間の長さが違っていることで説明できた。この常識を覆す特殊相対性理論は難解で、理解できる物理学者は世界に数人もいないといわれたほどであった。だが彼の理論は、後の実験で確かめられることになる。

 地球の極点と赤道では、地球の自転によって速度に差がある。地球の極点と赤道に置かれた時計を比較した実験で、赤道に置かれた時計の時間がわずかに遅くなったのである。また飛行機に乗せたわずかな時計の遅れが特殊相対性理論と一致したのだった。この論文によってアインシュタインは新進気鋭の物理学者として世界の注目を集めた。特許局に勤め、研究室を持たない26歳の若者が、宇宙に関する認識を完全に変えたのである。彼はこの特殊相対性理論によって「速度と時間の関係」を証明した。

 1916年、次にアインシュタインは「一般相対性理論」を完成させ重力の問題を解決した。この一般相対性理論は「重力は空間のくぼみで、重力は光を含めたあらゆるものを引き寄せる」というもので、ニュートン力学を全面的に書き換えるものだった。

 それまで光は直進するとされてきたが、一般相対性理論は光も重力によって曲がるという考えであった。光が曲がるということは、直進するよりも長い距離を移動することになる。光のスピードは一定であるから、重力が大きければ大きいほど時間の流れが遅くなる。この「光は重力によって曲げられる」という彼の理論は、1919年の皆既日食の観測で見事に証明された。英国の観測隊が、本来なら見えるはずがない太陽の裏側の星を皆既日食の際に観測したのである。これは星の光が太陽の重力によって曲げられたことを証明する観測であった。彼の理論からブラック・ホールが予言され、後にその存在が証明されることになる。ブラック・ホールとは強力な重力によって、光さえも外に出ることができず、時間が止まるというものであった。

 また、「化学反応によって物質の重さが減少すると、減少した分だけ運動エネルギーが増加する」という理論を打ち立て、この論文は特殊相対性理論を発表した4カ月後に発表された。質量とエネルギーの関係を示したE=mc2という有名な公式の登場である。Eはエネルギー、mは質量、cは光の速さを示し、あらゆる物体にはエネルギーが含まれ、「エネルギーは質量×光の速度の2乗」とする公式であった。つまり1gの物質には、莫大(ばくだい)なエネルギーが秘められていることを示していた。物質には莫大なエネルギーが閉じ込められ、核分裂によって計り知れないエネルギーが出ることを数値で示したのである。この公式がなければ、原子力の実用化、原子爆弾の開発は大幅に遅れたとされている。

 アインシュタインは理論物理学者と呼ばれている。理論物理学とは頭の中で実験を繰り返し、普遍的な理論を組み立てる学問である。それまでの物理学は実験や観測データから定理を導くものであったが、理論物理学は理論があって、その理論を実験で証明するのである。宇宙の仕組みや物質の振る舞いをうまく説明できる仮説を作り、普遍的な理論に組み立て、それを証明するのであった。

 アインシュタインは、「自然界において絶対なのは光の速度で、相対的なのは時間と空間である」という概念を誕生させた。300年にわたって信じられてきたニュートン物理学を変え、新しい物理学の時代を切り開いた。アインシュタインは宇宙や自然界には偶然はあり得ず、すべては何らかの法則によって成り立っていると考えていた。「神がサイコロを振ることはあり得ない」とした。

 1917年にアインシュタインは一般相対性理論をもとに「宇宙モデル」を発表する。宇宙における時間、空間、エネルギーを方程式で示したのであるが、この方程式によると宇宙はいつか縮んでしまうことになった。この彼の宇宙理論以降、多くの理論物理学者が宇宙の存在を数値で示そうとしたがまだ完成されていない。

 アインシュタインは日本にも来ている。1922年の10月8日、マルセーユから日本郵船の北野丸に乗り、北野丸が上海に向かっている途中の1110日、スウェーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会はアインシュタインにノーベル物理学賞を与えると発表した。

 アインシュタインは1117日に神戸で下船、1229日まで日本に滞在し、日本各地で熱狂的な歓迎を受けた。各地の講演会には数千人が集まり、話を理解できなくても聴衆は催眠術にかかったように身動きもせずに静聴した。

 アインシュタインは世界的な有名人となったが、ドイツでは「第1次世界大戦で負けたのは、ユダヤ人が協力しなかったから」とする反ユダヤ主義が意図的に広められていた。そのため、193310月、アインシュタインはナチスの迫害から逃れるためアメリカに渡った。

 アインシュタインは「暴力は何の解決をも生み出さない」とする平和主義であったが、多くのユダヤ人が殺害されているのに怒りを覚え、ナチスを倒すためには暴力しかないと次第に考えるようになった。1939年、原子爆弾開発を促す手紙をルーズベルト大統領に提出し、マンハッタン計画が開始されることになった。

 第二次世界大戦が終わると原爆の悲劇を知り、平和運動、世界連邦運動、核兵器根絶運動に尽くすことになる。1948年、プリンストン高級研究所を訪れた湯川秀樹博士に、原爆が日本に投下されたことを謝罪したほどであった。

 アインシュタインの業績は華々しいものであったが、それ以上にユーモアあふれた表情や言動、親しみやすい風貌で人々の心を魅了した。相対性理論について、「男の子が可愛い女の子と1時間並んで座っていたとすれば、その1時間は1分のように感じるでしょう。もし熱いストーブのそばに1分間座っていたら、その1分間は1時間のように感じるでしょう。これが相対性理論です」とユーモアで答えてくれた。

 1955年4月18日午前1時15分、アルバート・アインシュタインは息を引き取った。享年76。葬儀はわずか12人の参列だけの簡素なものだった。彼の遺志により、灰となった遺体は近くのデラウェア川に流された。アインシュタインの墓はないが、彼の名前は永遠に残るであろう。

 

 

 

人工腎臓と腎移植 昭和30年(1955年)

 昭和30年、第14回日本医学会総会で、群馬大学医学部第二外科の渋沢喜守雄教授と丹後淳平が「犬の腎臓を摘出し、人工腎臓を用いた実験成績」を発表した。この人工腎臓を用いた動物実験は日本で初のことであった。

 腎臓は体内の老廃物を尿として体外に排泄するため、腎臓が障害を受けると体内に老廃物が蓄積し、腎不全から尿毒症になり死に至る。人工腎臓とは血液中の老廃物を腎臓に代わって取り除く装置で、いわゆる血液透析(人工透析)のことである。

 世界で初めて人工腎臓の動物実験が行われたのは大正13年のことで、人間の腎不全の治療に応用されたのは、昭和20年にオランダのウイレム・コルフ教授が人工腎臓を完成させてからである。コルフ教授の人工腎臓は、セロハンのチューブを回転ドラムに巻き付け透析液に浸したものであった。患者の血液をチューブに流し、老廃物を透析液にしみ出させ、きれいになった血液をチューブの末端から静脈に戻る仕組みであった。

 人工透析が進歩したのは朝鮮戦争のときである。負傷したアメリカ兵がクラッシュ・シンドローム(挫滅症候群)を引き起こした際に、その治療として用いられた。クラッシュ・シンドロームとは筋肉が長時間圧迫されると筋肉細胞が壊死を起こし、筋肉からミオグロビンが大量に遊離して、腎臓の尿細管を詰まらせ一過性に急性腎不全をきたすことである。第二次世界大戦のロンドン空襲の際、クラッシュ・シンドロームによる多数の犠牲者を出し、一過性の急性腎不全を脱すれば回復することが分かっていたため、人工透析の実用化が急がれたが、当時の人工透析は急性腎不全の一時的な救命的治療であった。

 その後、人工透析の改良は進み、慢性の腎不全患者にも使われるようになり、日本では昭和42年に医療保険の適応になった。しかし、患者の負担が月30万円と高額だったため普及せず、また昭和45年の時点で人工透析は日本には666台しかなかった。人工透析はまだ一般的治療とはいえず、「金の切れ目が、命の切れ目」「先の患者が死ぬのを待って、治療を受ける」状態であった。

 昭和47年6月、川澄化学工業が人工透析の国産化に成功。本体と血液回路はプラスチック製で、透析膜はセルロース系のセロハンを使用し、価格は1万5000円であった。翌48年に人工透析が全額公費負担となって、透析患者は飛躍的に増えることになる。昭和51年にはセロハンから安全性を高めたホロファイバー(中空糸)に変わり、このころから透析患者の長期生存例が多くなってきた。

 血液透析を必要とする患者は年々増え、最近では年間約1万人ずつ増え、平成22年の血液透析患者数は約29万人に達している。血液透析患者が増加したのは、糖尿病の合併症である糖尿病性腎症が増加したからで、血液透析を受けている患者の半数は糖尿病による腎不全患者である。血糖コントロールが悪いと、糖尿病の発病から10年で腎症が発症するとされている。

 透析患者の10年生存率は42.3%で、人工透析が血液透析の95%を占め、残り5%は腹膜透析である。腹膜透析は患者自身の腹膜を利用して、腹腔に一定時間透析液を入れ、過剰な水分や老廃物を透析液に移動させ、その透析液を体外に排出させる方法である。なお日本の透析患者は、世界の全透析患者の約3分の1を占めている。

 このように血液透析、腹膜透析療法が行われているが、それらは腎不全患者への対症療法であって、腎不全の根本療法ではない。腎不全の根本療法は腎臓移植であるが、残念ながら腎移植は平成元年の838人をピークに年々減少傾向にある。

 腎移植の成功第1例は、昭和291223日、アメリカのブリガム病院(ボストン)でマレーらによって行われ、腎提供者と腎受腎者は一卵性双生児だったため拒否反応が起こらなかった。この成功から一卵性双生児間の腎移植が欧米で次々と行われた。その後の腎移植の歴史は、免疫抑制剤の開発とともに歩んだといえる。昭和33年に全身放射線照射が応用され、翌年にはメルカプトプリン(免疫抑制剤)が開発され、昭和37年にはアザチオプリン(免疫抑制剤)がイギリスのマーレイらによって応用され、アザチオプリンとステロイドの使用が腎移植の標準的療薬となった。マーレイはこの功績により昭和38年にノーベル賞を受賞している。

 昭和33年、J・ドーセ(仏)、B・ベナセラフ(米)、G・スネル(米)は血液中の白血球の表面に存在する抗原が拒絶反応と強く関係することを発見し、主要組織適合抗原群(HLA)と命名した。昭和39年にテラサキ(米)、アンブルジェ(仏)らが腎移植にHLAを適合させると移植成績が良くなることを発見し、それ以来、HLA適合性検査は腎移植にとって重要な検査となった。この主要組織適合性抗原の遺伝子群は、ヒトでは第6染色体に存在することが分かっていて、J・ドーセら3人は「生体の免疫反応における遺伝学的研究」が高く評価され、昭和55年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

 昭和50年、スイスのサンド社が真菌から免疫抑制剤サイクロスポリンを開発し、腎移植だけでなく心臓、肝臓の移植においても応用され、臓器移植は飛躍的に進歩した。

 日本最初の腎移植は、昭和31年、新潟大学の楠隆光教授らによって行われた。急性腎不全の患者の大腿部に突発性腎出血で摘出した患者の腎臓を移植したもので、救命のための一時的な移植であった。慢性腎不全患者の永久生着を目指した腎移植は、昭和39年、東大の木本誠二教授が夫婦間で行っている。この移植は、日本で初めての本格的な腎移植となった。免疫抑制剤の改善、組織適合性検査の進歩により、腎移植の成功率は高まっている。

 昭和53年から腎移植は保険の適応となっているが、腎移植は年間500人程度と低迷している。これは腎臓の提供者が少ないせいである。腎移植は提供者の死後腎臓でも移植が可能なので、脳死の問題とは無関係であるが、それでも腎臓の提供者は少ない。腎臓は2つあるので生体移植も可能であるが、生体移植もあまり行われていない。

 腎移植が少ないのは、腎臓を提供しようとする善意ある日本人が少ないのではなく、善意ある者の善意を評価しないからであろう。金銭であれ、名誉であれ、善意を評価せずにボランティア精神に頼るだけでは腎臓移植は停滞するだけである。また移植のために努力をしても、医師に何ら評価がなく、問題が起きれば責任だけを追及されるのでは、医師の腎移植への熱意もそがれてしまうのも仕方ないことである。

 

 

 

森永ヒ素ミルク事件 昭和30年(1955年)

 昭和30年6月から8月にかけて、岡山県を中心とした西日本一帯で、発熱、下痢、腹部膨満、皮疹、貧血などの症状を示す乳児の奇病が相次いだ。赤ん坊は夜昼となく泣き続け、次第に皮膚が黒ずんでいった。肝臓が腫大し、腹部がパンパンにはれ上がり衰弱をきたした。このような症状を示す生後2カ月から2歳の乳児が続々と病院を受診したのだった。

 診察に当たった医師たちは、この奇妙な病気の原因が分からず、胃腸障害、夏ばて、貧血などの診断を下し保健所に届けなかった。

 日赤岡山病院小児科の矢吹暁民医師は、これまでに経験したことのない奇怪な症状を示す乳児が急に増えたことに驚き、その原因究明にいち早く奔走することになる。

 日赤岡山病院には同じような症状の子供が30人も入院していた。患者の母親から病歴を聞くと、この奇病を呈した乳幼児は母乳ではなく人工栄養で育てられていて、しかも特定の銘柄「森永乳業のMF印ドライミルク」を飲んでいた乳児ばかりだった。矢吹医師は岡山市内の開業医に協力を求め、乳児のミルクの実態調査を行った。その結果、日赤岡山病院だけでなく、岡山市内で異常を示した乳児全員が森永粉ミルクを飲んでいることが分かった。日赤ではこの奇病を森永の頭文字をとってM貧血と呼んだ。

 森永粉ミルクが奇病の原因と確信した矢吹医師は、8月13日に森永商事・岡山出張所に連絡を取り、被害防止のため森永粉ミルクの発売中止を求めた。しかし森永商事は販売を中止せずに出荷を続けた。

 矢吹医師は恩師である岡山大学医学部小児科・浜本英次教授にこれまでの調査結果を説明し、原因解明の協力を求めた。浜本教授は矢吹医師の報告を聞くまでは、この奇病の原因を細菌感染と考えていたが、矢吹医師の説明を受け、ミルク中毒、しかも症状から「ヒ素中毒」であろうと推測した。

 8月21日夜、岡山大学医学部に入院していた乳児が死亡、法医学教室で乳児の病理解剖が行われた。その結果、乳児の体内から灰白色のヒ素の結晶が検出された。2日後の8月23日、2例目の乳児の解剖が行われ、遺体の肝臓からヒ素を検出。さらに乳児が飲んでいた粉ミルクからも多量のヒ素を検出した。

 この事実を踏まえ、8月24日、浜本教授は「この奇病は、森永乳業が製造した乳児用粉ミルクによるヒ素中毒である」と発表。翌日の新聞やラジオにより全国にこの事件が大々的に報道された。乳児を持つ親たちは、顔をこわばらせて医療機関に殺到し、日本中がこの事件で大騒動となった。

 全国の母親を恐怖に陥れた森永ヒ素ミルク事件は、奇病発生から原因解明までの3カ月間に、犠牲者は1都2府25県に広がり、患者総数は13400人、133人が死亡する大惨事となった。世界でも類をみない大規模な集団中毒事件となった。

 昭和30年当時は戦後の食糧難が一段落し、明るい希望が見えてきた時期であった。電気がまが発売され、テレビ、洗濯機とともに「家庭電化時代」を迎えようとしていた。神武景気が始まり、石原慎太郎の「太陽の季節」が話題をよんでいたころである。

 森永乳業は「粉ミルクを飲ませれば、元気な赤ちゃんが育ちます。このミルクを飲みましょう」とラジオや新聞で粉ミルクを盛んに宣伝していた。当時の保健所も小児科の医師たちも、森永のドライミルクを薦めていた。終戦後の食糧難の影響を受けた母親の体格はまだ低下しており、母乳不足を訴えがちであった。さらに母乳ではなく人工ミルクで乳児を育てることが、生活の豊かさをイメージさせ、ある種のステータスの雰囲気があった。

 昭和25年4月に、戦時中から規制されていた「牛乳と乳製品の配給と価格に関する統制」が撤廃され、乳業業界は自由経済へと移行。牛乳の加工部門である乳業が次第に拡大し、牛乳が大量生産されるようになった。

 森永乳業は5年間に9つの工場を開設し、牛乳の集荷量は約3.1倍に増えていた。この森永乳業の猛烈な拡大路線が、ヒ素ミルク中毒事件を招くことになった。牛乳の集荷量の増大は、育児用粉ミルクの急増によるところが大きい。「母乳で育てると乳房の形が悪くなる」「母乳で育てた子供は背が伸びない」「母乳より牛乳のほうが栄養価が高い」と、間違った流言飛語が流され、多くの母親が育児用粉ミルクに走った。そのため粉ミルクの消費が急速に伸びた時期であった。

 森永ヒ素ミルク事件は、乳児の主食ともいうべきミルクが引き起こした大規模食品公害事件である。より健康的に、より丈夫にと願って与えた粉ミルクが、大切な乳幼児の身体をむしばんでいった。母親が悔やみ悲しんだのは、われとわが手で毒ミルクを愛児に飲ませたことだった。

 粉ミルクにヒ素が混入したのは、森永乳業・徳島工場が製造過程で使用した乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)が原因であった。粉ミルクの製造は、牛乳の劣化を防ぐために、食品添加用の第二燐酸ソーダを0.01%添加することになっていた。ところが食品添加用の第二燐酸ソーダを使うはずが、間違って工業用の粗悪品を使ってしまったのである。

 工業用・第二燐酸ソーダには不純物として10%のヒ素化合物が含まれていた。そのため昭和30年4月から8月24日まで、森永乳業・徳島工場で製造された約84万缶の「森永MF印ドライミルク」にヒ素が混入したのである。

 ヒ素中毒を引き起こした工業用・第二燐酸ソーダは、日本軽金属・清水工場がボーキサイトからアルミナを製造するときに出た産業廃棄物だった。この産業廃棄用の第二燐酸ソーダは、陶器の色づけに使用されるはずであったが、数社の業者間で転売が繰り返され、徳島市内の協和産業から森永乳業・徳島工場に納入されたのである。徳島工場は第二燐酸ソーダをいつも協和産業から納入していたので、新たに納入した食品添加用の第二燐酸ソーダが工業廃棄物に変わったことに気づかなかった。

 森永乳業・徳島工場は故意に廃棄物を用いたわけではない。しかし食品を扱う企業としては、あまりに安全対策がずさんだった。この事件は、品質検査などのわずかな手間を惜しんだための人災であった。

 粉ミルクの製造には、ミルクを溶けやすくするため乳質安定剤(第二燐酸ソーダ)を加えるが、もともと原料に新鮮な牛乳を用いていれば、乳質安定剤は必要なかった。牛乳を放置すると、次第に乳酸菌が増えて酸性になり、牛乳が酸性化すると牛乳が固まりやすくなる。そのために乳質安定剤を加えていたのだった。つまり森永乳業は新鮮度の低下した牛乳を原料として粉ミルクをつくっていたのだった。

 森永乳業・徳島工場が乳質安定剤を使用するようになったのは、昭和28年以降のことで、それ以前は使用していなかった。またその当時、森永乳業は4つの粉ミルク工場を持っていたが、第二燐酸ソーダを使っていたのは徳島工場だけであった。

 昭和30年8月30日、森永乳業・徳島工場は営業停止3カ月の処分を受けることになった。このあまりに軽い行政処分に、被害者の批判と怒りが爆発した。事件を引き起こした同工場のずさんな安全対策、それを監督すべき厚生省に批判が集中した。営業停止3カ月の軽い処分は、工場側の過失が軽微と判断されたこと、工場に牛乳を納入している酪農業者の影響を考慮しての政治的な配慮であった。

 森永乳業はこのヒ素中毒事件を工場の過失とは考えず、そのため被害児への謝罪や補償の意思を示さなかった。このことから被害児の親たちは森永乳業の責任と補償を求めて団結することになる。親たちの団結は、この事件の惨状を訴え、この未曾有(みぞう)の不祥事件を風化させないことであった。

 日赤岡山病院の被害児の親たちが中心になって被害者同盟が結成された。9月3日には、日赤岡山病院、岡大付属病院、倉敷中央病院の被害児の家族が中心となり、「岡山県総決起集会」が開催された。岡山県全域から被害者が集まり、岡山県森永ミルク被害者同盟への加入者は700人を超えた。

 被害者同盟は、森永乳業に速やかな事件への対応を求めたが、森永乳業は被害者同盟を被害者の代表とは認めず、回答を出さなかった。被害者同盟は「死者250万円、重症者100万円」の要求書を手渡すが、森永乳業はこれを拒否。このため各県の被害者が結束を強め、9月18日に「森永ミルク被害者同盟全国協議会」が結成された。

 会社側は被害の深刻さと巨額の補償金を恐れ、厚生省に問題解決を依頼した。厚生省は森永に有利な「第三者委員会」をつくり解決を計ろうとした。

 厚生省は、10月6日、ヒ素ミルク被害児の診断と治療のための指針作成を日本医師会に依