昭和60年代

 

昭和60年代

 

 昭和60年代はまさにバブルの時代だった。昭和60922日に日米英独仏による「プラザ合意」がなされたが、プラザ合意は日本の貿易黒字と欧米の経済立て直しを解決するために、各国が協調介入いてドル安を誘導することであった。これにより1ドル240円が120円台へと予想を越えたの円高になった。貿易立国の日本が円高になれば輸出産業は大打撃を受けることになる。日本銀行は金利を低下させ、この金融緩和による金あまりがバブル経済の引き金となった。

 アメリカは日本に市場開放をせまり、630兆円の公共投資を約束させた。中曽根内閣は公共事業などの内需拡大路線をとり、法人税42%を30%へ、所得税最高税率70%を40%に引下げ、そのため余った金が土地や株式に向かい、株式相場と土地価格が高騰した。土地価格が高騰すると、それを担保にさらに投資が行われ、庶民は土地神話を信じ、企業は本業よりも土地の転売益に奔走した。

 安田火災は約57億円でゴッホの絵画「ひまわり」を購入。中流意識の会社員はゴルフ会員権を買い、小金持ちは高級車を買い(シーマ現象)、土地持ちは土地を担保に変額保険を購入し、すべてが金儲けのバスに乗り遅れまいとした。国もバブルに躍り、昭和62年にリゾート法が制定されると、日本各地でリゾート事業を展開させた。地価の高騰で「山手線内側の土地でアメリカ全土が買える」といわれ、三菱地所はロックフェラーセンタービルを買い、企業は事業を過度に拡大し、庶民は投資価格の高騰で自分が金持ちになったと錯覚した。一方、プラザ合意で急激な円高となった経済界は、為替損失の対抗から国内生産を海外生産へとシフトし、特に自動車産業は自己防衛のため海外生産を余儀なくされた。そのため日本の雇用がしだいに奪われることになった。

 資本主義と共産主義の冷戦は、経済という武器を持った資本主義が優勢になり、若者の感心は政治よりもテレビやゲームなどの個人的趣味へ移った。個性、個室が尊重され、真面目よりも面白さが優先され、フジテレビの「面白くなければテレビじゃない」が象徴するように、享楽的笑いが重視された。日本の経済や生活は好景気に沸いたが、投資にはババ抜きの危険性が潜んでいた。

 政府は行政改革として日本電信電話公社、日本専売公社、国鉄の三公社を民営化し、平成元年4月より消費税を導入されたが、この民営化と消費税が日本経済の転換期を示していた。それは時代の流れであったが、上手く行くはずの改革が、グローバル化する世界に飲み込まれ、株価は平成元年の大納会(1229日)に最高値38,915円を付けたのをピークに暴落し、翌年には20,000円を割り半値になった。バブルは単なる金融虚業に過ぎなかったが、虚業が実業の衰退を導き、昭和はバブルとともに終わりをつげた。そしてそれ以降、失われた10年、失われた20年と言われながら、泡沫の低迷期から脱出できないでいる。

 このバブルの数年間、国民の気持ちも浮き足立ち、「お金が何よりも優先する」という考えが日本人の精神構造を変えていった。テレビドラマ「金曜日の妻たち」が不倫願望を煽り、テレクラは繁盛し、その象徴的言葉が「援助交際」であった。そして性風俗に警鐘をうながしたのがエイズであったが、時代の流れを変えることはできなかった。

 

 

 

エホバの証人事件 昭和60年(1985年)

 昭和60年6月6日午後4時30分、川崎市高津区の県道の交差点で、ダンプカーが自転車に乗って信号待ちをしていた小学5年生・鈴木大ちゃん(10)に接触、大ちゃんは転倒して後輪に巻き込まれて両足を骨折する大けがを負い、救急車で川崎市宮前区の聖マリアンナ医大病院・救命救急センターに搬送された。両足の骨折は骨が露出するほどの大けがであったが、意識はしっかりしていて、輸血をしてから手術を行うことになった。

 しかし、駆けつけた大ちゃんの父親(44)は「エホバの証人」の信者で、信仰上の理由から輸血を拒否。大ちゃんは輸血を受けられず、出血性ショックで死亡した。大ちゃんが死亡したのは病院に到着してから5時間後のことであった。これがいわゆるエホバの証人による「大ちゃん事件」である。

 大ちゃんは大けがだったが、生命にかかわるほどではなかった。担当の医師(32)は「輸血をしないと死んでしまう」「輸血を受けて手術をするように」と、何回も両親に説得を繰り返した。輸血をすれば救命できたのに、信者たちに囲まれた両親は揺れる気持ちの中で輸血を拒否したのだった。両親は子供の生命よりも信仰を選んだのである。

 医師たちは大ちゃんの生命を守るために懸命に説得を続けたが、宗教の壁に遮られ、医師は、大ちゃんに「輸血してもらうようにお父さんに言いなさい」と呼び掛けた。大ちゃんは父親に「死にたくない、生きたい」と訴えたが、父親の輸血拒否は変わらなかった。両親が病院に提出した決意書には、「今回、私たちの息子がたとえ死に至ることがあっても、輸血なしで万全の治療をして下さるよう切にお願いします。輸血は聖書にのっとって受けることはできません」と書かれていた。

 冷静に考えれば、大ちゃんは信者ではなく、しかも手術を希望していたのである。手術をすべきかどうか、医師たちは「信教の自由」と「生命の尊重」の狭間の中で、緊張した時間が過ぎるばかりだった。両親にとっても、たとえ宗教上の理由であっても、針のムシロ状態であったろう。

 この事件が報道されると、マスコミは「鈴木大君が生きたいと願っていたのに輸血を拒否したのは親のエゴ」「愛児よりも信仰の方が重いのか」「宗教が子供の命を奪うとは何事か」などと報道し、エホバの証人を批判する論調が強かった。この事件は海外にも報道され、宗教界だけでなく社会的波紋をよんだ。

 エホバの証人はキリスト教の一宗派で、聖書の戒律を忠実に実践する教団である。エホバの証人の正式名は「ものみの塔聖書冊子協会」で、19世紀末に米ペンシルベニア州生まれのチャールス・T・ラッセルが「ものみの塔」誌を創刊したことから歴史が始まる。その教義はエホバの神を唯一の神とし、旧教、新教には属さず、キリスト教の一宗派ではあるが、キリストの神性を否定していた。ほかのキリスト教団からは批判的にみられ、マスコミはカルト教団のごとく扱うことが多かった。

 信者は世界に約225万人、日本の信者は約10万人で、エホバの証人は信仰する宗教の内容よりも、むしろ輸血を拒否する宗教集団として知られていた。エホバの証人が輸血を禁止しているのは、「神はノアにすべての生き物を食物として与えたが、血には命があるから、命のある血を食べてはならない」とする戒律(レビ記)を絶対的信条として守っていたからである。

 この事件は、「輸血をしなかったことと、少年の死との因果関係」が最大のポイントだった。因果関係があれば、両親の輸血拒否が「未必の故意の殺人罪」、自分たちの信仰を子供に押しつけた親権の乱用による「保護責任者遺棄罪」が適用されることになる。医師としては最善の治療を怠った「業務上過失致死罪」、輸血を行わなかった「不作為による殺人罪」、さらに「医師法違反」などが予想された。

 しかし警察は、<1>事故そのものによるけがが大きかった<2>急性腎不全を合併して容体が急変し、出血性ショック死につながった<3>従って輸血をしても命は助からなかったとした。つまり輸血拒否と死因に因果関係はないとして、両親や医師に刑事責任を問えないと判断、裁判には至らなかった。

 神奈川県警交通指導課と高津署は、ダンプカーの運転手を業務上過失致死容疑で書類送検としたが、信仰の自由と生命の尊厳をめぐる論争は、その入り口で閉ざされることになった。この「大ちゃん事件」は多くの教訓と検討課題を残しながら、単なる交通事故として処理されてしまったのである。

 この「大ちゃん事件」では、親の信仰を子供に押しつけることの是非をめぐり、信仰の自由、子供の人権、医の倫理が問題になった。少年の生きる権利と親の権利、子供への親の代諾権、信仰の自由と医師の裁量権などについて、法曹界、宗教界、医療界でさまざまな論争が展開された。

 エホバの証人をめぐる同種の事件は、昭和60年1月23日にも起きている。富山県で信者が交通事故で死亡。この際、加害者の運転手は輸血拒否の責任まで問えないと主張し、業務上過失致死ではなく業務上過失傷害罪として起訴されている。

 また大分県別府市では骨肉腫に冒されたエホバの証人の信者(35)に、信者ではない両親が輸血できるように大分地裁に医療行為委任の仮処分を申請したが、大分地裁は「本人は十分な判断能力がある」として両親の申請を却下して、患者本人の意思を尊重した。

 昭和6111月1日、静岡市で交通事故に遭った女性信者(54)が、輸血を拒否して死亡。その信者はバイクに乗ってトラックと衝突、同市の社会保険桜ヶ丘総合病院に運ばれた。肋骨が内臓に突き刺さって切開手術が必要だった。しかし本人が信仰上の理由から輸血を拒否、病院側と警察が輸血するよう説得したが、夫も応じなかったため4日後に死亡した。

 警察署は、「通常の医療行為を施せば死亡しなかった」として、運転手の業務上過失致死は問わず、業務上過失傷害容疑で静岡地検に書類送検するにとどめた。また夫と病院側の責任も問われなかった。このように日本各地でエホバの証人による輸血問題が散発した。

 エホバの証人の輸血拒否は、輸血を担当とする麻酔科医師にとっても大きな問題であった。大阪大医学部の吉矢生人麻酔科教授は全国80の大学病院と191の病院にアンケート調査を行い。その結果、輸血拒否の経験のある病院は56%、輸血なしの手術に応じたのが50%、輸血なしの手術には応じられないと断った病院が13%、承諾を得られなかったが輸血を前提に手術をしたのが27病院だった。この調査の時点で、病院として輸血を行うと事前に決めていたのは40病院と極めて少なかった。

 エホバの証人事件は、「医療は誰のためにあるのか」という根本的な問い掛けを提起していた。エホバの証人による「大ちゃん事件」は、裁判にはならなかったが、それまでくすぶっていた医療の根本的問題を問い直すきっかけになった。東京都内の病院では、心臓手術に際して両親から、「輸血をするならもう自分の子供ではない。病院で引き取ってくれ」と迫られたことがあった。宗教を理由に輸血を断る患者、医師の本分として輸血で命を助けようとする医師。生命の重みと信仰の自由、さらに法的責任が絡んだ複雑な問題であった。

 その当時は、ちょうど患者の権利意識が次第に高まっていた時期と重なっていた。「医療の決定権が医師にあるのか、患者にあるのか」が問われていた。しかし、患者に決定権があるとしても、子供の決定権は子供にあるのか、親にあるかが問題であった。「大ちゃん事件」以前は、「医療の決定権は医師にある」とするのが一般的であった。

 それは病気の治療については専門的な知識を持つ医師に任せするべきとの考えに基づくもので、医師の父権主義と呼ばれるものであった。医師と患者の関係は「医師は子供を指導する父親」に例えられていた。しかし、時代とともに患者の権利意識が高まり、「患者自身の医療は患者が決定権を持つ」とする考えに変わろうとしていた。

 しかし患者が小児の場合、子供が自己決定権を持てるかどうかが議論された。親が子供にとって最善の利益を選択決定するのは当然であるが、親の決定が子供の死を招くものであれば、それは親権の乱用と解釈することができた。子供の自己決定権は何歳からあるのか、親の信仰を子供に押しつけてもよいのか。この点に関しては、まだ一般的な合意は得られていない。また子供が意思決定できない場合、親と医師のどちらが医療を判断するかについてもまだ解決していない。

 米国、英国、西ドイツでは、信者が子供への輸血を拒否した場合、病院は直ちに少年法廷を開き、親に代わる監督権者が任命され、監督権者の同意があれば治療ができる。日本では「大ちゃん事件」により、一時的な親権剥奪を認めよとの主張がなされたが、具体的な事例はまだ出ていない。

 「大ちゃん事件」は裁判にならなかったので、法的判断はなされなかった。「大ちゃん事件」のように子供が生きたいという意思を示し、親が反対した場合にどうするかは未解決の問題となっている。中学生以上の子供の場合には、本人と親の意思を尊重するものの、生命に危険が迫った場合には、輸血もやむを得ないとするのが多くの病院の方針となっている。

 このエホバの証人に関する輸血の問題は、別の裁判で争われることになる。平成4年、悪性の肝腫瘍と診断された女性(63)が東京大医科学研究所付属病院(医科研、東京都港区)に転院。エホバの証人の女性は信仰上の理由から無輸血の手術を希望。「いかなる事態に至ろうとも、医師の責任は追及しない」との免責証書を病院へ提出した。

 医師は「説明すれば女性が手術を拒否する」と考え、輸血の可能性について説明しなかった。しかし手術では、予想以上の出血から医師は患者の生命を守るため600ccの輸血を行った。この事実は本人や家族には知らされなかったが、数カ月後マスコミに漏れ、医科研もその事実を認めた。

 本人と遺族は精神的な苦痛を受けたとして、手術を行った医師3人と国に対し1200万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。医師は輸血の説明をすれば女性が手術を拒否すると考え、輸血の可能性について説明しなかったと主張。女性側は「医師が輸血をすると明言すれば、手術を拒否した」と医師を追及した。この事件は、「患者の意思に反するが、必要に迫られて輸血した」ことの是非が問われる初めての裁判となった。

 東京地裁は、医師には救命義務があり、輸血は違法とする訴えを棄却したが、患者と家族はすぐに東京高裁に控訴。平成10年2月10日、東京高裁は原告の請求を部分的に認める逆転判決を言い渡した。この裁判は、生命の危険にさらされても、輸血を拒否している患者への輸血をめぐり、医師の責任を問う初めての事例として注目された。医科研はこの判決を不服として上告したが、最高裁は病院に損害賠償を命じた二審判決を支持、医科研に約55万円の損害賠償を命じた。千種秀夫裁判長は判決の中で「輸血の可能性の説明を怠ったのは、手術を受けるかどうかの意思決定をする信者の権利を奪うもので、人格権の侵害になる。医師は輸血もあり得ることを説明した上で信者自身の意思決定に委ねるべきだった」と述べた。さらに、「患者が自分の宗教的信念に反するとして輸血を拒否した場合、その意思は尊重しなければならない」と指摘した。この判決は4人の裁判官全員の一致した考えであった。

 つまり医師が患者に無断で輸血した場合は、患者の人格権侵害に当たると判断したのである。医療上の自己決定権が、憲法で保障する人格権に含まれるとした。このことは、尊厳死を選択する自由を含め、自己の生命を自らが決定することを認めた点で画期的な判決であった。

 この判決は大きな意味を持っていた。それはエホバの証人の輸血問題だけでなく、「医療の決定権のすべてが医師から患者に移った」ことを意味していたからである。医療を決定するのは患者本人であり、医師が本人の望まない医療を行うことは違法であることを示していた。裁判長はまた、「人はいずれ死ぬべきもので、死ぬまでの生きざまは自らが決定できる。尊厳死を選択する自由も認められるべきだ」と異例の発言を行った。

 患者中心の医療が長い間にわたり議論されてきた、しかし医療の新しい流れをエホバの証人がつくり上げたのである。現場の医師にとっては「生命の尊厳と信教の自由」のどちらかを選択するかは大きな問題であるが、患者を説得しても患者が受け入れられない場合は、患者本人が希望する医療をする以外に方法がないことを裁判所が命じたのである。

 つまりエホバの証人事件によって、「医療の決定権は医師から患者へ移行した」のである。エホバの証人が最高裁で勝訴したことより、それまでの長々と議論されてきた医療の自己決定権の論議に終止符が打たれた。議論によるコンセンサスではなく、裁判所の判断によって「医師は患者が希望しない治療を行ってはならない」という新しい原則が出来上がった。

 信仰上の理由で輸血を拒む「エホバの証人事件」は、医療における自己決定権が患者側にあることを明確にした。この裁判により輸血だけではなく、がんの告知、終末期医療、遺伝子診断の在り方、新薬治験への参加、臓器移植、カルテ開示などの医療のさまざまな分野で、患者の自己決定権が尊重されることになった。そのために、医師によるインフォームドコンセント(十分な説明と同意)が常識となった。

 

 

 

DNA鑑定 昭和60年(1985年)

 DNA鑑定法は、英国のアレック・ジェフリー博士が考案し、昭和60年の科学誌「ネイチャー」に初めて報告した方法である。DNAは、Deoxyribonucleic Acid の略で、「デオキシリボ核酸」のことである。遺伝情報の元であるDNAは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4種類の塩基で構成され、この塩基の配列よって遺伝情報がつくられている。人間のタンパクをつくる遺伝子情報は同じであるが、DNAには各個人によって塩基配列が異なる部位がある。その異なる部位のDNAの違いを分析して、個人を鑑定するのがDNA鑑定法である。

 1卵性双生児を除けば、DNAの配列はすべての人間で違っていいて、個人のDNAは生涯変わることはない。このことからDNA配列を調べれば、完全な個人鑑別が可能だった。制限酵素という酵素を用いてDNAを切断し、制限酵素が認識するDNAの部位が個人で異なっていることから、その断片化したDNAを、電気泳動により画像化することによって、DNAの違いを観察できるのである。

 DNA鑑定法は毛髪、体液、皮膚などから採取するが、DNAがごく微量でもPCR法(合成酵素連続反応法)で増幅させ分析することができたのである。ジェフリー博士のDNA鑑定法が発表された翌年には、警察庁・科学警察研究所もDNA鑑定法の研究に着手している。

 平成3年1月22日夜、茨城県内の路上で、軽自動車を運転していた23歳の女性が、後からきた自動車のクラクションで停車させられた。自動車から降りてきた男性は、女性の軽自動車の運転席に乗り込むと、女性の衣服をはぎ取り後部座席で暴行を加えた。

 同月29日夜、同じ茨城県内で22歳の女性が運転する自動車が後からパッシングを受けて停車させられ、自動車から降りた男性は、女性を付近の農道に連れ込み、全裸にして暴行を加えた。埼玉県東村山市でも、同様の手口による婦女暴行事件が起きた。

 犯人は、盗んだ他人の自動車のナンバー・プレートを付け、次々と若い女性に暴行を加えていった。この事件から数週間後、茨城県三和町の酒屋に包丁を持った男が押し入り、強盗致死傷の現行犯で逮捕された。取り調べの結果、元造園業者の新井正男(42)が、連続婦女暴行事件にも関与していたことがわかった。

 新井正男は酒屋での強盗致死傷は認めたが、連続婦女暴行事件については否定していたが、暴行現場の目撃証言が信用できること、偽装したナンバー・プレートの自動車が目撃されていたことが有力な証拠となった。さらに自動車のシートカバー、自動車に残されたちり紙、被害者の体内に残された精液の血液型とDNA型が、新井正男の血液から採取されたものと同型であった。精液の血液型・DNA型は1600万人に1人の確率で新井正男のものとされた。この事件当時、DNA鑑定はあくまでも参考証拠で、物的証拠としては採用されなかったが、この事件でDNA鑑定が初めて日本の法廷に登場したのだった。

 この事件の1年前の平成2年5月12日、栃木県足利市の渡良瀬川河原で松田俊二さんの長女真実ちゃん(4)が殺害される事件があった。その日の午後6時頃、真実ちゃんは父親とパチンコ店へ出かけ、初めのうちは父親のパチンコを見ていたが、やがて退屈になり店の駐車場で遊んでいた。8時頃に父親が娘の姿が見えないことに気づき、店の周辺を探したが見つからなかった。父親は945分頃足利署に連絡、警察官や消防隊員100人が徹夜で探し回ったが発見できず、翌朝の1020分頃、パチンコ店から約500m離れた渡良瀬川の茂みの中で、真実ちゃんは全裸遺体となって発見された。

 死因は首を絞められての窒息死で、死亡推定時刻は前夜の7時半頃だった。現場付近は人通りが多かったが、有力な目撃情報はなかった。しかし間もなく、中年の男性が真実ちゃんらしい女児の手を引いて河原の土手を歩いていたという目撃情報が寄せられた。

 この事件で1日平均100人の捜査員が、1年7カ月にわたり動員され、必死の捜索が続けられたが捜査は困難を極めた。捜査員が必死になったのは、真実ちゃんの殺害のほかにも、似たような事件が連続していたからである。

 昭和54年と昭和59年に、いずれも5歳の少女が、昭和62年には8歳の少女が、足利市周辺で同じような手口で誘拐され殺害されていたのである。これらの事件は未解決のまま、真実ちゃんの殺害と同一犯によるものと考えられていた。

 捜査本部は市内の不審者や変質者4000人を絞り込み、アリバイを調べては1人1人消去していった。そして保育園の元バス運転手、菅家利和さん(45)が捜査線上に浮かんだ。菅家さんは、ビデオや雑誌を愛好し、事件当日のアリバイがなかった。

 捜査員は1年間にわたり菅家さんの内偵を行い、菅家さんが捨てたゴミ袋から体液のついたティッシュぺーパーを入手し、真実ちゃんの衣服に付着していた精液とDNA鑑定を行った。その結果、菅家さんのDNAが真実ちゃんの衣服に付いていたDNAと一致、同一人物と断定された。この鑑定結果を突き付けられ、菅家さんは犯行を自白するに至った。この事件でDNA鑑定が初めて犯人逮捕の決め手となった。

 しかし裁判になると菅家さんは一転して無罪を主張。そのため裁判では唯一の物的証拠であるDNA鑑定の信用性が焦点となった。弁護側は「DNA鑑定は個人を特定するものではない」と無罪を主張したが、平成5年7月、宇都宮地裁は「犯人と被告人の血液型およびDNA型が一致する確率は1000人に1〜2人程度」とする警察庁・科学警察研究所の鑑定結果を評価して、無期懲役とした。菅家さんは上告したが、事件発生から10年後の平成12年7月、最高裁の亀山継夫裁判長は「DNA鑑定は、科学的に信頼できる方法で証拠となり得る」として無期懲役が確定した。この足利事件は、日本で初めてDNA鑑定が逮捕の根拠となったもので、マスコミも大きく報道し、また裁判でも証拠として認められ、DNA鑑定が法的に認知された。

 それまでは血球型が個人の鑑別に用いられていた。しかし日本人はA型が40%、B型が20%、AB型は10%、O型は30%で、つまり犯罪現場の血液型がA型だったとしても、ABO式血液型だけでは犯人を特定できなかった。しかしDNA鑑定が導入され、鑑別の精度が飛躍的に向上し100万人に1人まで個人識別が可能になり、DNA鑑定は「血液の指紋」とまでいわれるようになった。このため足利事件以降、警察庁だけでなく各都道府県警にある科学捜査研究所や大学の法医学教室にもDNA鑑定が広く普及している。

 このようにDNA鑑定が絶対的に信頼できるものだとしても、落とし穴があった。足利事件で菅家さんは犯人とされ、宇都宮地裁で無期懲役となり、平成12年に最高裁で上告が破棄され無期懲役が確定した。菅谷さんは17年半の間、生活をうばわれたが、菅谷さんは冤罪だったのである。DNA鑑定を最新の方法で行ったところ、菅谷さんのDNAは犯人とは別人だったのである。この大きな間違いは、DNA鑑定の精度が向上したせいと思われていたが、逮捕当時の古い方法でDNA鑑定を行ってもDNAは別人だった。つまり当時の科学警察研究所の鑑定そのものが間違っていたのだった。つまり血液型A型をB型と間違ったのと同じ、単純な間違いだったのである。この間違いにより菅谷さんは17年半にわたり自由を奪われたが、やっと無罪になった。

 現在、DNA鑑定は個人識別として広く用いられるが、識別が正しくても、菅谷さんの例が示すように、鑑定を読み間違える人為的ミスの可能性がある。

 平成9年3月の、いわゆる東電OL殺人事件でもDNA鑑定が問題視されている。この事件は、慶応大を卒業して東京電力に勤めていた39歳の管理職の女性が、渋谷の安アパートで殺害され、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(30)が犯人として逮捕された。マイナリが犯人とされたのは、殺害された部屋に残されたコンドームの精液が、DNA鑑定でマイナリのものとされたからである。それ以外にも状況証拠はあるが、それらはあくまでも状況証拠で、決定的証拠はなかった。そのためDNA鑑定が裁判の争点となり、マイナリは精液を自分のものと認めたが、それは殺害前に同女性と関係した際に使用したもので、殺害時のものではないと主張したのである。

 この事件が多くの話題を呼んだのは、一流企業の管理職女性が昼と夜の顔を使い分け、行きずりの売春を行っていたことである。またこの事件は国際的な冤罪になる可能性があった。このような話題性から数冊の本が出版された。東京地裁はマイナリを無罪としたが、東京高裁は無期懲役と逆転判決を下し、最高裁は被告人の上告を認めずマイナリの無期懲役が確定した。

 DNA鑑定は犯罪捜査として進歩したが、親子鑑定にも用いられている。親子鑑定は、遺伝情報のDNAが母親と父親から子供へ半分ずつ受け継がれることを応用したものである。親子鑑定は、男性に認知を求める認知請求、父親(夫)が自分の子供ではないと訴える嫡出子否認請求の2つが大部分である。

 最近、日本では10社以上の民間業者が親子鑑定をやっている。検査は採血する必要はなく、口腔内の粘膜からぬぐい取った細胞を用いる。民間業者は試料を受け取り、検査は米国の企業で行う。民間業者の経営が成り立つのだから、それだけの需要があるのだろう。

 

 

 

スパイクタイヤ公害 昭和60年(1985年) 

 昭和38年にスパイクタイヤが発売されると、北海道や東北地方などの寒冷地で急速に使用されるようになった。スパイクタイヤとは、硬い特殊合金のピンをタイヤに埋め込んだもので、凍った道路を走るのに抜群の効果があった。

 それまでは、泥だらけになりながらタイヤににチェーンを巻いていたが、その面倒をスパイクタイヤが解決してくれた。スパイクタイヤは昭和40年代までは何ら問題なく使用されていたが、雪国での自動車の80%がスパイクタイヤを付けるようになると、粉塵公害という厄介な問題が生じた。

 寒冷地の冬の市街地をうっすらと覆うほこりは、それまで未経験のことで、当初はタイヤに付着した土砂を市街地に持ち込んだためとされていた。しかし舗装道路の表面が削られ、わだちができ、横断歩道の白線が消えてしまい、このことからスパイクタイヤが削られたアスファルトが空気中に舞い上がったことが原因と疑われた。道路に雪が積もっていれば粉塵は生じなかったが、雪のない日が続くと粉塵が舞い上がった。

 スパイクタイヤの粉塵には2種類あり、1つは削られたアスファルトで、もう1つはスパイクピンの特殊合金によるものであった。道路は摩耗し、ひと冬で3cmも削られることがあった。

札幌市では粉塵の量が1平方キロ当たり180立方メートルに達し、粉塵による人体への悪影響が心配された。

 スパイクタイヤを最初に問題としたのは仙台市だった。仙台市は寒冷地で道路が凍ることが多く、太平洋側のため雪は少なかった。そのため粉塵による被害が大きかった。仙台市は、市民、行政、学界、マスコミ、企業を巻き込んで粉塵被害について活発な論争が展開された。さまざまな調査により、 粉塵の原因がスパイクタイヤであること、健康への影響が無視できないことが明らかになり、粉塵公害は北海道、東北、北陸などの寒冷地に波及し、全国的な「脱スパイク運動」へと進展していった。

 昭和58年4月、札幌鉄道病院呼吸器内科の平賀洋明医師が「スパイクタイヤの粉塵が、野犬の肺に沈着している」と報告。肺に入った金属片などの周囲に異物性肉芽腫が生じることを示した。札幌市では30匹中7匹の犬に、仙台市では20匹中4匹の犬に異物性肉芽腫を見出された。肺内に沈着している金属片は、鉄、アルミニウム、ケイ素などで、スパイクピンの成分だった。

 北海道大学環境科学研究所チームは、地上30cmから180cmまで30cm刻みで空気中の粉塵の量を測定。その結果、高さによる粉塵量に差はなく、粉塵の45%は人間の肺に達する大きさだった。犬と同じように人間も粉塵を吸い込み、異物性肉芽腫をきたしていると警告した。

 環境庁はラットを用いた実験を行い、発がん性は確認されなかったが、アルミニウムやケイ素が肺に沈着すると肺組織が固くなり、線維形成をきたすことを報告した。

 仙台市医師会の森川利夫医師のグループは気管支喘息児童を調べ、粉塵量が増えた4日後に喘息発作が多発することを発表。さらに市中心部の作業員や商店従業員らの肺内に鉄性物質の沈着が多いこと、道路沿いの住民の多くが洗濯物の汚れに気づいており、髪のザラつきを自覚していると述べた。

 昭和60年8月22日、日本自動車タイヤ協会はスパイクの打ち込み本数を減らすことで世間の批判をかわそうとした。警視庁は交通事故防止のためスパイクタイヤの追放には消極的で、自治省は消防、救急車などの緊急自動車を特例にするように要望を出した。国の対策は進まず、健康被害のほか、削られた道路の補修、横断歩道の白線の塗り直しなどの費用が行政を圧迫した。札幌市では年間約36億円、宮城県では県道だけで約17億円が使われていた。

 宮城県議会は国の対策を待たず、スパイクタイヤ使用禁止条例を全国で初めて制定し、昭和61年4月より、違反者から反則金を取ることにした。ほかの地域でも、無雪期間の使用禁止が決められた。

 北海道、東北、長野県の弁護士や市民は、スパイクタイヤの使用禁止を国とタイヤメーカーに要望、これを受けて総理府の公害等調整委員会はタイヤメーカーに販売中止を提示した。通産省はスパイクタイヤの減産を指導し、環境庁はスパイクタイヤによる粉塵の発生防止法案を提出した。その結果、スパイクタイヤは平成3年3月31日で販売中止となり、翌日から使用が禁止となった。

 タイヤメーカーはスパイクタイヤに代わるスタッドレスタイヤの開発に全力をあげることになった。スタッドレスタイヤは、氷点下でも柔らかな特殊ゴムを使い、タイヤ表面の溝を大きくして、冬道でも滑りにくくしたタイヤであった。スタッドレスタイヤはタイヤが路面をしっかりとらえ、摩擦が大きく滑りにくくしていた。ブレーキから停止までの制動性能はスパイクタイヤの8割程度であったが、雪国のタイヤのほとんどを占めるようになった。なお、タッドとは「飾りびょう」の意味で、スタッドレスタイヤは文字通り「びょうなしタイヤ」を意味していた。

 雪道での安全確保と事故防止はスタッドレスタイヤによってほぼ解決した。スタッドレスは雪道の平たん地ではスパイクタイヤと同じ程度、凍結道路ではスパイクタイヤの約80%の制動能力で、7%の勾配の坂道でも走れることが確かめられている。さらに4輪駆動やアンチロックブレーキ(急ブレーキ時にもロックせず、最大限の制動効果を発揮できる)などの技術開発で、雪道での運転はより安全になった。

 

 

 

二酸化炭素中毒  昭和60年(1985年)

 人間は呼吸によって空気中の酸素を取り入れ、体内の二酸化炭素を吐き出して生きている。このことから、二酸化炭素は無害のように思われがちであるが、それが意外に危険なのである。二酸化炭素中毒による死亡例の多くは、自動消火装置の誤作動、火山ガス、さらにはドライアイスなどで起きている。これらの事故は、二酸化炭素が充満して酸素濃度が低下することによる酸欠が死因とされてきたが、二酸化炭素そのものに毒性があることが分かってきた。

 昭和60年6月23日、大阪府堺市の造船工場で外国人技術者が貨物船を点検しているときに、誤って消火用の二酸化炭素噴射装置を作動させ、船内38カ所から二酸化炭素が一斉に噴き出し、作業員11人のうち6人が死亡している。

 昭和62年6月9日には、東京都港区芝の臨海ビル地下1階で、作業員が消火用ボンベを点検中に作業を誤り、大量の二酸化炭素が噴出した。作業員、運転手、清掃員ら5人が酸欠状態で倒れた。芝消防署救急隊が地下室から5人を搬出したが3人が死亡した。 

 さらに平成5年1012日、東京都千代田区にある郵政省地下2階の電圧機械室で、空調整備の配管を換えるため、壁に穴を開けたところ、誤って消火設備の配線を切断、消火用の二酸化炭素ガスが噴出して1人が死亡している。

 平成7年12月1日、東京都豊島区のビルから警備会社「セコム」の指令室に異常信号が入った。警備員2人がビルに入ると、急に気分が悪くなり救急車を要請。救急隊員が駆けつけると、1階の駐車場で警備員2人と同ビルの女性職員(28)が倒れていた。近くの病院に搬送したが、警備員の2人は死亡、女性は重体となった。

 3人が倒れていたのは1階の裏側に面した駐車場で、女性職員は上司の忘れ物を取りにビルに入り、帰る時にビルの出口を間違え、外に出ようとして消火装置のボタンを押してしまったのだった。消火装置のボックスのふたが開いており、70キロの二酸化炭素の入ったガスボンベ41本が空になっていた。

 消火装置は、立体駐車場、ビルの電気室、船内など通常は人のいないところに設置されている。火が燃えるには酸素が必要なので、二酸化炭素を用いた消火装置は酸素を遮断して鎮火させるためであった。かつて飛行機の消火装置も二酸化炭素が用いられていたが、消火装置の誤作動で死者が出たことから、飛行機の消火装置はフッ素系消火剤に切り変わっている。

 二酸化炭素中毒として火山ガスも有名であるが、世界最大の事故は昭和61年8月21日に、カメルーンのニオス湖で起きている。湖水の深層水で過飽和になっていた二酸化炭素が浅水層に移動、気泡となって100%近い二酸化炭素が谷あいの村に流れ込み、住民1746人、家畜8000頭以上が死亡した。ニオス村では住民1200人のうち助かったのはわずか6人だった。

 平成9年7月12日、青森県・八甲田山で訓練中の自衛隊員12人が、青森市から20キロ離れた田代平の林の中にある通称ガス穴で、次々に意識を失って倒れ3人が死亡した。原因は二酸化炭素中毒で、穴の中の二酸化炭素濃度は1520%であった。火山ガスによる二酸化炭素中毒死亡例は日本では初めてのことだった。 

 ドライアイスによる二酸化炭素中毒例もある。平成6年8月7日、荷物室と運転席が仕切られていない送迎用の自動車で、ドライアイス300キロを紙に包んで運転していた従業員が二酸化炭素中毒で死亡する事故が起きている。平成9年9月29日、コンテナに保管しているドライアイスを取りに入った従業員が死亡する事故も起きている。そのほかドライアイスによる死亡事故はこれまでに数件の報告がある。ドライアイス2キロを自動車に放置すると致死量に達するとされている。

 二酸化炭素中毒の発生場所として地下貯蔵室、ワインセラー、サイロなどがある。これらは生物の呼吸や発酵が関与している。二酸化炭素は空気より重く、無色、無臭であるため気付かないうちに死亡する。昭和41年、青森県十和田市のしょうゆ工場のタンク内で2人が死亡。昭和60年、滋賀県のビール工場の貯蔵庫で1人が死亡。このようにこれまで20人以上が死亡している。これらの事故では、倒れた人を助けようとした人が犠牲者となることが多い。

 二酸化炭素に意識消失作用があることは18世紀から知られていた。人間が通常の空気(酸素濃度20.9%)を吸っている場合の動脈の酸素濃度を100とすれば、酸素濃度が半分になれば動脈の酸素濃度も半分になる。このことから二酸化炭素中毒は酸欠死で、法医学的には窒息死に分類されてきた。しかし二酸化炭素中毒は単純ではなかった。酸素濃度20%、二酸化炭素濃度80%の気体を犬に吸わせた実験で、犬は1分で呼吸が停止し数分で死亡した。このことは、酸素が十分にあっても二酸化炭素の濃度が高いと危険であることを示していた。

 空気中の二酸化炭素は0.03%であるが、0.1%を超えると呼吸器、循環器、大脳などに影響を及ぼす。人間の吐いた空気に含まれる二酸化炭素濃度は3%なので、閉め切った部屋にたくさんの人が長時間いると危険な状態になる。例えば、密閉された小型エレベーターに10人が4時間閉じ込められた場合、酸素濃度は13.4% 二酸化炭素濃度は6%となり、危険な状態になる。二酸化炭素濃度4%で耳鳴り、頭痛、血圧上昇などの症状が現れ、10%で意識混濁、けいれんを起こして呼吸が止まる。30%では即意識が消失して死亡する。

 

 

 

女優・夏目雅子の死 昭和60年(1985年)

 昭和524月、夏目雅子(19)がカネボウ化粧品の夏のキャンペーン・ガールになり、大ブレークした。芸名の夏目雅子には、「夏の目玉商品」という意味が込められていた。灼熱(しゃくねつ)の太陽と青い空、青い海を背景にした小麦色の素肌、はちきれんばかりの肢体、そして澄んだ瞳のポスターに多くの若者は引きつけられた。

 夏目雅子(本名=西山雅子)は昭和321217日、東京・六本木の輸入雑貨商の子として生まれた。小学校から短大まで東京女学館で学び、短大在学中に日本テレビのドラマ「愛が見えますか」のオーディションに応募、募集者486人の中から見事ヒロインに抜てきされてデビューした。その後、短大を中退して女優に専念することになった。

 昭和53年、日本テレビのドラマ「西遊記」に三蔵法師役で出演た。西遊記は孫悟空(堺正章)、沙悟浄(岸部シロー)、猪八戒(西田敏行)といった豪華キャストで、この番組は外国でも放映されて話題になった。テーマ曲を歌ったのはゴダイゴで、オープニングが「Monkey Magic」、エンディングが「ガンダーラ」でともにヒットした。

 昭和59年、五社英雄監督の映画「鬼龍院花子の生涯」で、彼女が言い放った「なめたら、いかんぜよ」という、火のような啖呵(たんか)が流行語になり、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞した。夏目雅子の魅力は、洗練された都会的な雰囲気、柔らかな表情の中に隠された芯の強さ、屈託のない笑顔とスタイルの良さであった。

 テレビドラマでは、昭和53年のNHK大河ドラマ「黄金の日々」、56年の「おんな太閤記」で多くのファンをとらえ、「鉄道公安官」「騎馬奉行」「ザ・商社」「野々村病院物語」「徳川家康」などに出演した。

 映画は「俺の空」でデビュー、「二百三高地」「時代屋の女房」「南極物語」のほか、昭和59年には「瀬戸内少年野球団」に出演した。この「瀬戸内少年野球団」は、出演者の中から、夏目雅子、渡辺謙など大病を患う人が数人出たことから、後に「呪いの映画」と呼ばれた。

 夏目雅子はこの映画の後、甲状腺疾患で入院したが、昭和59年には作家の伊集院静と結婚。翌60年2月、東京・渋谷の西武劇場で「愚かな女」で主役を演じたが、極度の疲労を訴え慶応病院に運び込まれた。本人は「はってでも舞台に戻る」と泣き叫んだが、医師はそれを制して入院となった。

 本人には極度の貧血と告げられたが、病名は「急性骨髄性白血病」だった。 慶応病院での闘病生活で病状は回復に向かい、病院の廊下や屋上を散歩することもあった。ところが特ダネ写真を撮ろうと、カメラマンが白衣を着て医者に化けた潜入するなど、過激な報道にさらされた。そのため夏目雅子は病室にこもり、やがて病状は8月頃から悪化した。9月9日未明から危篤状態に陥り、9月11日併発していた肺炎によって午前1016分、27歳の若さで息を引き取った。夏目雅子のひつぎが帰ってきたとき、自宅前に押しかけた報道陣に、母親は「これであんたたちの思い通りになったでしょう」と叫んだとされている。

 白血病は白血球ががん化する病気で、悪性腫瘍全体の3%以下であるが、若年者では死因の上位を占めている。白血病は血液または骨髄の中でがん細胞が増殖する疾患で、急性白血病と慢性白血病に分類される。

 急性骨髄性白血病の有病率は人口10万人当たり2〜4人とされ、白血病全体の約6割を占めている。成人の場合40歳以下の発症は少なく、40歳以上では年齢とともに頻度が増加する。治療は多剤併用療法の進歩により改善し、最近の完全寛解率は約70%になっている。死亡例は少数派になっているが、腫瘍の増殖速度が速く、週日単位で病状が変化し改善しないケースもある。

 夏目雅子が亡くなる1年前に結婚した作家の伊集院静は、夏目雅子と209日にわたる闘病生活を共にし、その闘病生活を書いた「乳房」で直木賞を受賞している。書かれた文章には、「背後からパジャマを着させると、妻は私の手を両手でつかんで、その手を自分の乳房にあてた」との1節がある。死を前にした彼女の切ない心情が伝わってくる。

 女優・夏目雅子の若すぎる死は、急性骨髄性白血病の恐ろしさを教えてくれた。医学の進歩や新薬の開発により、治癒率は確実に上がっているが、抗がん剤の副作用である脱毛は精神的苦痛を与えるものである。

 夏目雅子の実兄小達一雄さんは、夏目さんが闘病中の頭髪を特に気にしていることを知っていた。女性の場合、脱毛による精神的ショックは大きい。そのため小達一雄さんは、夏目さんの遺志を継ぎ、「夏目雅子ひまわり基金」を設立した。ひまわり基金は、かつら300個を無償で貸与し、骨髄移植を啓発するとともにドナー登録を呼び掛けた。その他、エイズの正しい知識啓発などを続けている。

 夏目雅子のポスターは日本骨髄バンクのキャンペーンに使われている。骨髄バンクには10ccの献血で登録でき、16万人が登録している。1人の患者さんに適合する骨髄ドナーには30万人の登録が必要とされ、夏目雅子の悲しみを繰り返さないため登録に協力したい。

 白血病は不治の病のイメージがあるが、俳優の渡辺謙、女優の吉井怜らがこの病気を克服している。歌手の本田美奈子さんは残念ながら亡くなったが、本田美奈子さん、夏目雅子さんの明るい笑顔は私たちの心の中にいつまでも輝き続けている。

 

 

 

 ニセ医者偽装殺人事件 昭和60年(1985年) 

 昭和60年7月14日午後5時半のことである。福岡県浮羽町(現うきは市)高見にある石井内科医院の応接室で、石井正則院長(66)と訪ねてきた福岡市中央区西公園の茶こし製造販売会社・梶原春助社長(54)が口論となり、石井院長は梶原社長に包丁で胸を刺され出血多量で間もなく死亡した。前日に妻子と里帰りしていた石井院長の娘婿・栗原洋一医師(34)が医院の2階にいてこの騒動に気付き、自殺しようとする梶原社長ともみ合いになり、栗原医師は刃物を取り上げようとしたが、梶原社長は胸や腹を刺して自殺した。

 これが翌日の朝日新聞が報じた事件の内容だったが、福岡県警捜査一課と吉井署の合同捜査本部は、栗原洋一医師の供述に疑問を抱いていた。事件当日、栗原医師は妻子と院長夫人を太宰府にドライブに行かせていて、梶原社長と格闘した際に受けた傷があまりに軽症だった。そして決定的だったのは、梶原社長が逃げ込んだ近所の民家で、「栗原に刺された」と言ったことだった。

 捜査本部は、この点について栗原洋一医師を追及した。栗原医師は1週間後、それまでの供述を翻し、自分が殺害したことを自白した。

 栗山洋一は大分県中津市の生まれで、東京の高校を卒業、5浪の後に福岡大医学部に入学した。この浪人中に、福岡市内の予備校で石井院長の長男と友達になった。石井院長の長男は久留米大に入学したが病死、次男も医学部に進学するが交通事故で死亡した。石井院長は病院を増築して総合病院にすることを計画していたが、2人の息子を失い途方に暮れていた。後継者が欲しい院長は栗山洋一と長女を結婚させ、さらに次女も知り合いの医師と結婚させた。

 石井院長の栗山洋一への思い入れは強く、大学近くにマンションを借り、学費も生活費も出していた。しかし、成績の良くない栗山洋一は大学を7年で卒業したが、医師国家試験に合格できなかった。それでも妻や院長への見栄から、医師国家試験に合格して病院に勤務しているとウソをつき、義父から合格祝いに家を買ってもらい、石井医院で週3回の診療を行っていた。

 医師になれなかった栗山洋一は勤務医を装いながら、借金をして福岡市天神にスナックを購入した。実業家への転身を図ったのだろうが、スナックの経営は苦しく、借金がかさんでいった。1億円を超える借金ができてしまった栗山洋一は、さらに院長の名前を借りて院長の土地や建物を担保に借金して、殺害した梶原社長にも7000万円の借金があった。

 栗山洋一は医師免許を持っていないこと、多額の借金を抱えていることが、義父にばれることを恐れていた。借金の催促にも悩んでいた。そのため、一挙に清算しようとした。

 栗山洋一は梶原社長に金の工面ができたとウソをつき、石井医院に呼び出した。院長が席を外して台所へ行ったところを、追いかけていって包丁で殺害。さらに応接間に戻って梶原社長を刺したのである。腹を何度も刺された梶原社長は、近所の民家に逃げ込み、民家から119番で救急車を呼んだのであった。

 殺された石井院長は、九州医専(現久留米大)を卒業後、開業医となり、地元では温厚な人柄で通っていた。同県浮羽郡の内科医会長も務めていた。

 この事件は、国家試験に合格できなかった医学生の哀れな偽装殺人であった。

 

 

 

日本初のエイズ患者騒動 昭和60年(1985年)

 昭和60年3月21日、朝日新聞は「血友病患者2人が輸入血液製剤でエイズウイルスに感染し、死亡した」と1面のトップ記事で報道した。さらに記事には、日本の血友病患者の約半数がエイズウイルスに感染していると書かれていた。それは、後に「薬害エイズ事件」で逮捕される安部英(たけし)帝京大学教授が、医学専門誌に掲載する内容を事前に取材しての報道であった。事実、その詳細は、昭和60年4月号の医学雑誌「代謝」に発表された。

 安部教授がエイズと診断したのは、帝京大学で治療を受けていた2人の血友病患者だった。いずれも関東地方に住んでいて、昭和58年7月に1人(当時48)、昭和5911月に1人(当時62歳)が日和見感染症と全身衰弱で死亡していた。当時厚生省のエイズ研究班の班長であった安部教授はこの2人を臨床症状からエイズと診断していた。そしてその診断を確実にするため、米国の国立衛生研究所に患者の血液を送り、エイズの検査を依頼した。その結果、2人のエイズ感染が確認された。さらにこのとき、安部教授はエイズの症状を持たない血友病患者50人の血液検査も依頼していたが、その結果、50人の血友病患者のうち23人(46%)がエイズ抗体陽性という驚くべき事実が判明したのだった。

 朝日新聞は2人の患者をエイズによる死亡と報道したが、厚生省エイズ研究班はなぜかこの2人をエイズ患者と認定しなかった。後に来日した米国のエイズ専門家は、この2人の患者をエイズの典型例と診断しているにもかかわらずにである。

 厚生省エイズ研究班はこの2人をエイズと認定しなかったが、血液検査でエイズ感染が確定しているのであるから、血友病の治療のために輸入された血液製剤がエイズの感染源となったことは間違いなかった。米国で作られた血液製剤によって、エイズはすでに日本に上陸していたのだった。

 この時点で血友病患者へのエイズ対策が採られていれば、その後の薬害エイズはなかったはずである。しかし、この朝日新聞のスクープは不思議なことに1回だけの報道で終わってしまった。そしてその日以降、薬害エイズはあたかも間違いであったかのように、新聞紙面から姿を隠した。

 朝日新聞が血友病エイズをスクープした翌日の322日、奇妙なことが起きた。厚生省のエイズ調査検討委員会(班長=塩川優一・順天堂大学名誉教授)が男性アーティスト(36)を日本人エイズ患者第1号と公表したのである。この男性アーティストは米国在住のホモセクシャルで、多くの男性と性交渉を持っていた。この男性が日本に一時帰国した際、順天堂大学病院で診察を受け、エイズ患者と認定されたのである。読売新聞社をはじめとした各報道機関は、このアーティストを日本人エイズ第1号患者として大々的に報道した。その上で、この男性は米国に帰国したので、エイズの2次感染の心配はないと付け加えた。

 この日本人エイズ第1号患者の報道により、日本の報道はエイズ一色となった。米国で「流行していたエイズがついに日本へ上陸」「対岸の火事が日本に飛び火した」とマスコミは騒いだ。そしてエイズがホモセクシャルによって感染する疾患であることを強調した。この報道により、朝日新聞が前日にスクープした血友病エイズ感染はうやむやになってしまった。

 厚生省は同性愛による日本人エイズ患者第1号を作り上げ、血友病患者の約半数がエイズに感染している事実を隠蔽(いんぺい)することに成功。さらにエイズがホモセクシャルの疾患とする偏見を植え付けることにも成功した。厚生省、製薬会社、研究者たちは「薬害エイズ」の責任を回避しようとしたのである。マスコミも薬害エイズを直視せず、エイズをホモセクシャルの疾患として報道を繰り返した。

 信じられないことであるが、この時点でエイズの感染源である非加熱製剤はまだ血友病患者に投与されていた。厚生省がエイズ感染の心配のない加熱製剤を承認したのは昭和60年7月で、あまりにスローな対応であった。エイズの感染について、厚生省の松村明仁・元生物製剤課長が業務上過失致死傷で起訴されたが、松村元課長が起訴されたのは、非加熱製剤の危険性を知りながら、何もしなかった「不作為の罪」に問われたのである。

 この薬害エイズ事件で、松村元課長以上に責任があるのがマスコミである。エイズ患者第1号の発表時には、「日本の血友病患者5000人のうち千数百人がエイズに感染している」と朝日新聞が書いてあるのに、それを取り上げるマスコミはなぜか皆無だった。当事者の朝日新聞も沈黙を守っていた。血友病患者の半数がエイズに感染している事実を隠すように、厚生省は巧妙なトリックを次々に使ったのである。

 エイズサーベランス委員会が隔月ごとにエイズ感染者数を公表するが、昭和60年の発表から、なぜか血友病患者が統計から省かれた。日本のエイズの大部分を占める血友病患者が突然姿を消したのである。厚生省は「血友病患者は本来他人に感染を及ぼさないので、統計から除外し、記者クラブの了解事項」と述べたが、それは薬害エイズ隠しの高等戦術であった。

 日本では、男性ホモセクシャルから多発した米国のエイズとは異なり、血友病患者に多発していたのである。昭和62年の時点で、日本における全エイズ患者は59人であったが、そのうち血友病患者が34人と大部分を占めていた。

 エイズはホモの病気と報道されたが、日本では同性愛による患者はむしろ少数派であった。そのため、エイズ患者第1号の発表がなされて以降、マスコミの報道はエイズを予防するための方策として、コンドームの宣伝一色となった。街頭で女子高生がコンドームの使用を呼び掛ける様子がテレビで繰り返し報道された。

 マスコミはエイズに名を借りた性感染症の恐怖をあおるキャンペーンを展開した。エイズの広がりは、性道徳の低下が招いたものとしているが、エイズ予防のためのコンドームの宣伝は、性道徳をさらに低下させることになった。このコンドームの宣伝に、良識ある多くの人々は顔をしかめ、不快な気分を味わった。

 さらにエイズ感染と血友病との関連性を明確にしないで、エイズ感染ばかりをキャンペーンしたため、血友病患者はエイズという病気以上に、性の不道徳が生んだエイズという病気の偏見に苦しむことになった。社会は血友病患者に二重の苦しみを負わせたのである。

 当時、厚生省のエイズ調査検討委員会の塩川優一班長は、エイズ第1号患者に血友病患者を認定しなかったことについて、「安部先生に血友病患者の症例を報告するよう求めたが、残念ながら報告がなかった」と証言し、エイズを報告しなかった安部教授に責任があると強調した。真相はやぶの中であるが、エイズ患者の第1号が事実通り血友病患者だったならば、薬害エイズの対策が迅速に実行されたはずである。エイズを予防すべき専門家が、血友病患者にエイズを蔓延させた責任は重大である。

 エイズ、つまり後天性免疫不全症候群(AIDS=Acquired Immunodeficiency Syndrome)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)によって起こる。このウイルスは、血液の中に入るとT4リンパ球を破壊し、全身の免疫機構が低下して抵抗力がなくなる。そのため病原性の弱い微生物(例えば、ニューモシスチス・カリニ)で肺炎を起こすようになる。

 HIVに感染してもすぐに症状は出ないが、数週間後にインフルエンザに似た症状、すなわち咽頭痛、筋肉痛、倦怠(けんたい)感などを起こす。この症状は一時的なもので3日から2週間で治る。本当の症状が現れるのは、感染して5年から10年後である。症状は微熱、寝汗、リンパ節腫脹、食欲減退、体重減少、疲れやすいさなどで、これらをエイズ関連症候群という。さらに日和見感染症、カリニ肺炎、カポジ肉腫などが出れば、エイズが発症したことになる。

 エイズ患者の約70%に何らかの中枢神経の障害が発症する。代表的なものはエイズ脳症と呼ばれるもので、症状は記憶力、集中力の障害、感情鈍磨、けいれん、知能低下など多彩である。エイズ患者は放置すれば約50%が1年以内に死亡する。

 HIVは、血液、精液、腟分泌物、母乳に含まれており、これが粘膜や皮膚の傷などから他人の血液の中に入ると感染が起きる。現在の感染経路は大別して3つに分けられる。汚染された血液または血液製剤を介するもの(血友病患者や同じ注射針による麻薬の回し打ちなど)、男性同性愛または異性間性行為によるもの、および母子感染である。

 男性同性愛では肛門性交で出血を起こしやすく、多量のウイルスを含んだ精液が血液中に入り感染する。キスや蚊による感染の事実はなく、患者の血液が針刺し事故で医療従事者に感染する危険は小さい。

 感染予防にはリスクの高い性交の際には、必ずコンドームを使用することである。米国や欧州では男性同性愛者に多かったが、知識の普及によりエイズの増加率は減少し、麻薬常用者間の感染と母子感染が問題になりつつある。タイでは売買春による異性間の感染が急増し、アフリカでも異性間の感染増加とともに、感染した母親から約30%の確率で生まれる子供のエイズが深刻な問題になっている。

 HIVに特効薬はないが、開発は進みエイズの予後は改善しつつある。現在国内で使用されているのは、逆転写酵素阻害剤と呼ばれるジドブジンなど、さらにプロテアーゼ阻害剤と呼ばれるサキナビルなどが大きな効果を上げ、薬剤の併用で多くの患者が救済されている。また、妊婦へのジドブジン投与による母子感染予防も特筆に値する。

 HIVの治療薬の進歩により、エイズの予後は改善されている。エイズ拠点病院も増え、国内の診療体制も整いつつある。日本ではHIV治療薬は国費負担で使用できるが、海外では高価なため使用できる患者は少ない。

 昭和59年7月7日、日本初のエイズ患者が新潟の病院で発症したとの小さな記事が新聞に掲載されている。日本初のエイズ患者騒動が世間を騒がす前のことであるが、なぜかこの記事は黙殺され話題にもならなかった。

 

 

 

脳死訴訟 昭和60年(1985年)

 和田寿朗教授(札幌医科大)によって、日本初の心臓移植が行われたのは昭和43年のことであった。当初のマスコミは心臓移植を称賛する記事を連日報道し、日本中が心臓移植の成功に沸いていた。しかし移植を受けた患者が死亡すると、マスコミの論調は一転して疑惑に変わり、和田教授を批判する報道になった。

 「心臓移植を受けた患者は、移植を必要とするほど悪くなかった」、「心臓を提供した青年は、死亡していない状態で心臓を摘出された」この疑惑が持ち上がったのである。和田寿朗教授は殺人罪で告発され、結局は不起訴処分になったが、和田教授の心臓移植は日本の臓器移植に大きな後遺症を残した。告発以降、日本の心臓移植は行われずにいた。

 臓器移植を議論する場合、最も大きな問題は、「何をもって人間の死」とするかである。臓器移植に「死の判定の合意」が必要なのは、人間の死には心臓死と脳死の2種類の死があったからで、この死の判定基準が未解決のままになっていた。

 心臓移植が可能なのは「脳死を人の死と認めた場合」だけであった。心臓移植には動いている心臓が必要なので、心臓死を人間の死とした場合、移植のための心臓摘出は殺人行為となった。昭和58年9月、厚生省は「脳死に関する研究班」を発足させたが、脳死判定基準をまとめることはできなかった。結局、移植をめぐる法の整備はなされず、日本の臓器移植は停滞した。

 この脳死判定基準について検討がなされている最中の、昭和59年9月25日、筑波大の岩崎洋治教授がわが国初の膵・腎同時移植を行った。岩崎教授は「脳死に関する研究班」の班員で、脳死の合意が未解決であることを承知の上での臓器移植だった。臓器移植には、多くの人々が納得する死の定義が必要であるが、岩崎教授はそれを知りながらの確信犯であった。

 臓器を提供したのは、48歳の主婦であった。主婦は過去に2回の脳出血を起こし入退院を繰り返していた。当日は、検査のために筑波大病院を受診する予定だったが、途中で発作を起こし緊急入院となった。病院に運ばれた時、主婦は再発性の脳出血により昏睡状態だった。

 主婦は、かねてから臓器を提供したいと夫に話しており、この家族の話を受けて臓器移植の準備が行われた。筑波大・岩崎教授のグループは、入院翌日に脳死と判定。主婦の膵臓と1つの腎臓が29歳の男性に、もう1つの腎臓が38歳の男性に、さらに2人の患者に角膜が移植された。

 移植から2カ月後の1124日、岩崎教授は日本移植学会でこの臓器移植について発表を行ったが、この臓器移植に東大グループが異議を唱えた。女性患者が脳死の状態で臓器提供の手術をしたこと、さらに患者が精神科に通院していることから臓器提供の同意の有効性を問題にしたのだった。また臓器提供を受けた患者が、本当に移植が必要だったかどうかも質問された。

 昭和60年2月12日、東大病院の医師らで組織する「患者の権利検討委員会(東大PRC)」や「脳死立法反対全国署名活動委員会」らのグループが、筑波大の岩崎洋治教授を殺人罪で東京地検に告発した。「脳死の判定が正しくても、心臓が拍動している患者から心臓を摘出し患者を死に至らしめた」としての告発だった。

 東大PRCは、臓器移植に脳死判定を認めないグループで、脳死状態で臓器を摘出したのは殺人罪に当たり、摘出の時点で死亡していたとしても、死体損壊罪に当たるとした。

 世界のほとんどの国が「脳死を人の死」としているが、日本ではまだ社会的合意はなされていなかった。脳死の段階では、心臓はまだ動いているので殺人の問題が出てくる。「死の判定基準」の合意がないまま臓器移植を行ったことが、この告発を招くことになった。しかし岩崎教授は一向に進まない日本の臓器移植に一石を投じたかったのである。

 岩崎教授は告発を受けたが、厚生省の「脳死に関する研究班」の委員を辞任しただけだった。この事件は告発されたが、裁判には至らなかった。臓器移植が行われたこと、また移植を行った医師が告発されたのは、和田教授以来17年ぶりのことであった。

 当時、移植において脳死判定が確立されていた欧米では、臓器移植は治療法の1つとして定着していた。また、臓器移植における拒否反応を防止する薬剤の開発が進み、臓器移植の成功率が急速に高まっていた。しかし日本では脳死の合意すらできず、臓器移植の議論はあったが、「脳死・心臓死」については17年も合意できずにいた。

 「脳死・心臓死」の議論は科学的な理論的対立ではなく、文化的、宗教観、人生観を含んだ感情的対立だった。そのため話し合いで結論など出るものではなかった。議論そのものが「水と油」で、両者が歩み寄ることは不可能に近いものであった。岩崎教授は、臓器移植に積極的な姿勢を示したが、臓器移植はこの1例だけで終わってしまった。

 

 

 

自動販売機パラコート事件 昭和60年(1985年)

 昭和60年夏から近畿地方を中心に、清涼飲料水の自動販売機の取り出し口に毒入りドリンクが置かれ、それを飲んだ人が死亡する事件が相次いだ。毒物の多くは除草剤パラコートであった。パラコートは猛毒であったが、当時は氏名、住所、職業を記入すれば農協や薬局で誰でも購入できた。濃度の低いパラコートならば園芸店でも購入できた。

 パラコートは入手しやすく値段が安くため、無差別殺人に使われたのである。結局、10人以上の犠牲を出した犯人は捕まらず、犯人が1人なのか複数なのかも分からず、すべて未解決になっている。

 昭和60年7月12日、最初の被害者は、大阪府東大阪市の呉嘉夫さん(48)だった。京都府福知山市の自動販売機でリアルゴールドを買った際に、入れたのは1本分の料金ないのに、取り出し口には2本あった。その2本を飲んで苦しみだし、翌月13日に死亡した。飲み残しの瓶からパラコートが検出された。

 次の事件は、9月10日早朝に起きた。大阪府富田林市に住む経理事務所の大津春夫さん(52)が、和歌山に釣りに行く途中、大阪府泉佐野市の国道26号線沿いの自動販売機で牛乳、缶コーヒー、オロナミンCを買った。硬貨を入れると、取り出し口にはオロナミンCが2本あり、2本とも持ち帰った。翌日、釣りから帰った大津さんは、自宅でオロナミンC1本を飲み、2本目のオロナミンCを半分ほど飲んだ。大津さんが苦しんでいるのを帰宅した妻が発見、病院に運ばれたが3日後の14日に呼吸不全で死亡した。

 翌911日、三重県松阪市の愛知学院大4年の山下義文さん(22)が、自宅近くの自動販売機でリアルゴールドを買った。1本買ったはずなのに、取り出し口には2本あった。山下さんは、自宅で2本目を飲んだところで吐き気と激痛に襲われ、病院に運ばれたたが14日に死亡した。

 大津さんと山下さんの事件は連続して起きていて、2つの自動販売機は100キロ離れていた。同一犯なのか、別人による偶然の事件なのか分からないまま未解決となった。この2つ事件をきっかけに、毒入り無差別殺人事件が全国に広がった。

 9月19日には、福井県今立郡今立町に住む木津三治さん(30)が、国道8号線沿いの自動販売機の下に置いてあった缶コーラを飲んで気分が悪くなり意識不明となり、福井赤十字病院で22日に呼吸困難で死亡した。

 9月20日、宮崎県都城市に住む恒吉道弘さん(45)が、国道269号線沿いの自動販売機でリアルゴールドを買い、車の中で2本目を飲んでいる途中で気分が悪くなった。宮崎医科大病院に入院したが、呼吸困難に陥り22日に死亡した。

 9月23日、大阪府羽曳野市のゴム加工業の男性(50)が、墓参りで実家の和歌山に行く途中、道沿いの自動販売機でオロナミンCを買うと、取り出し口にオロナミンCが2本あった。男性はその場で1本を飲み、車中でもう1本飲んだ。すると、腐ったような味がしたため吐き出し、その直後から体がだるくなり下痢を来したため、病院で治療を受けたが、2週間後の10月7日、呼吸困難に陥り死亡した。

  これらの事件はいずれも、自動販売機で1つ分のお金しか入れていないのに取り出し口に2この清涼水があったこと。呼吸不全で死亡し、パラコートが検出されたことであった。

 パラコート事件は個別に報じられていたが、同様の事件が連続していたことから、全国的な事件として大きく報道された。また同時に、石炭硫黄合剤、シンナー、青酸カリ入りの模倣犯が登場するようになった。さらに自殺を想わせる例も出てきた。9月30日には福井県今立郡今立町の織物会社の会社員男性(22)が自宅近くの自販機でオロナミンCを持ち帰り飲んだところ変な味がすると訴えたが、自分で殺虫剤を混入していたとわかり逮捕されている。

 その他、被害にはあっても死に至らなかった例も多くあった。25日、東京世田谷の都立大4年寺本達郎さん(22)が自動販売機のそばで拾った飲料水を飲んで入院したが回復。26日、静岡県磐田市の女性(40)自動販売機で買ったものを飲んだが、すぐに吐き出し大丈夫だった。27日、東京都北区の主婦(44)は自動販売機で買ったものを飲み入院したが回復した。

 パラコート中毒殺人事件は、10月に入っても同じパターンが繰り返された連続した。105日、埼玉県鴻巣市の酒井隆さん(44)が、前日に市内のドライブインの自動販売機でオロナミンCを買って死亡。

 1015日、奈良県橿原市の船具販売業の男性(69)が、自宅近くの自動販売機で買った栄養ドリンク剤を飲んで1カ月後に死亡。1028日、大阪府河内長野市で農業を営む男性(50)が、パラコート入りのオロナミンCを飲んで1カ月後に死亡。117日、埼玉県浦和市(当時)の建築会社社長・豊岡修司さん(43)が自動販売機で買ったオロナミンCを飲んで死亡した。 1117日、埼玉県児玉郡上里町の県立児玉高2年土屋八千代さん(17)が、自宅近くの自動販売機でコーラを口にして1週間後に死亡した。 

 10月以降の事件もそれ以前と同じパターンであった。警察はこの時点でパラコート入りジュースの事件は34件、死者は12人と発表している。全国に広がった毒入り連続殺人事件は、警察の大規模な捜査にもかかわらず犯人は逮捕されず、迷宮入りとなった。無差別殺人、理由なき殺人、ゲーム的殺人、このような言葉を連想させた。

 この一連のパラコートによる事件が発生した昭和60年は、警察白書によると清涼飲料水などに農薬など毒物が混入された事件が78件に達し、その範囲は1都2府22県に及び、17人が死亡している。犯人が捕まらないのは、被害者が不特定多数で、狙われる理由がなかったからである。たまたまそこに居合わせた者が被害者になった。もし自動販売機の取り出し口にドリンクが余分にあったら、軽い気持ちで持ち帰るだろう。犯人は、この心理につけこんだ無差別殺人であった。

 パラコートは日本で最も多く使われていた除草剤で、植物の葉緑素を枯れさせる作用があった。パラコートの毒性は強く、スプーン1杯で人間が24時間以内に死亡するほどであった。誤飲や自殺による死者が多かった。

 パラコートは、体内に入ると激しい嘔吐や下痢などの中毒症状が現れ、消化器系の粘膜がただれた。腎臓や肝臓などの機能障害が起き、肺線維症を併発して呼吸不全となり死亡した。パラコートが恐ろしいのは、飲んだ直後の急性期を乗り越えても、徐々に肺が硬化して呼吸できなくなる肺線維症を起こすことである。有効な治療法はなく、5ccの量で確実に死に至った。

 ちなみに、昭和60年の1年間で、パラコート中毒による死者は1021人、うち自殺とされたのは985人、残り36人のうち14人は誤飲による死亡、殺人や母子心中を含めた事件死は22人であった。パラコートによる悲劇が連続したのは、当時のパラコートが無臭だったからで、このことは国会でも問題となり、その後、においや苦い味が加えられ、すぐに毒物との判断がつくようになった。

 また、当時のオロナミンCはキャップを回して開けるタイプだったが、大塚製薬は一連の事件後に、細工ができないようにレバーキャップを引き抜いて開けるタイプに変えている。

 

 

 

昭和大替え玉入試事件 昭和60年(1985年) 

 昭和大替え玉入試事件はひょんなことから発覚した。昭和5911月、北九州市の医療機器販売会社社長で、入試ブローカー久保田哲夫(46)が、脱税容疑で福岡国税局に摘発された。脱税した3億円の出どころを聞かれた久保田は、昭和大教務部長の池谷信行(55)と共謀して「替え玉受験の謝礼として、1人に付き1000万円から3000万円をもらっていた」と供述したのだった。

 久保田哲夫は、医師になりたくて国公立大学を5回受験するが失敗。揚げ句の果てに無資格診療を行い、実刑判決を受けた前科があった。久保田は服役後も医師になりたくて、昭和大医学部を受験したが、またも不合格であった。この際、教務部長だった池谷信行(55)に受験の相談をしたことから、2人は付き合うようになった。

 久保田哲夫と池谷信行は、はじめは補欠入学者をだまして金を取っていた。しかしやがて、替え玉受験で謝礼金をもらったほうが、儲かることに気付いたのである。替え玉受験は、簡単にできるものではないが、内部に協力者がいればそれほど難しいものではない。久保田は「日刊アルバイトニュース」で、東大、東工大などの優秀な学生を集め、成績の悪い志願者に替え玉を斡旋していた。

 教務部長の池谷は受験票を2通つくり、筆記試験では受験票に替え玉の写真を張り、筆記試験の合格が決まると、受験票を本人のものとすりかえていた。受験票は大学の金庫に保管されていたが、鍵を持っている池谷にとって受験票のすりかえは簡単だった。

 福岡地検での久保田の供述を知った大学は驚き、またマスコミが騒ぎ始めた。大学は調査委員会を設置して調査を開始。池谷の事情聴取から10人の不正学生を特定した。

 福岡検察は、久保田が供述した不正入学者の氏名を、別件を理由に明かさなかった。そのため、昭和53年から59年までの約1000人の全学生のリストをつくり、高校の内申書、受験の選択科目、健康診断書、在学中の成績などを調べ、池谷の供述以外に新たに10人の替え玉受験生を特定した。そして大学は昭和54年と55年の受験者計20人(医学部14人、歯学部6人)が替え玉受験で不正に入学していたと公表した。

 昭和54年に入学した学生は、卒業したばかりであったが、不正入学者は4回の留年経験者を筆頭に、全員留年経験者だったので、まだ卒業していなかった。そのため20人全員が退学勧告を受け退学となった。

 昭和53年以前の受験生については、すでに卒業して国家試験を受けていた。もしその中に替え玉受験生がいたら、厚生省を巻き込む社会問題に発展しかねなかった。そのため、昭和53年以前の受験生についての追及は甘かった。

 教務部長の池谷信行は3月に依願退職し、約2600万円の退職金を大学に返上したが、昭和大は名誉棄損と調査活動に要した費用について損害賠償訴訟を起こした。

 この事件は、昭和大にとって大きな汚点を残した。さらにこの事件が忘れ去られようとしていた平成元年、昭和大は新たな事件を引き起こす。3月11日、昭和大歯学部で卒業試験問題の漏洩事件が発覚したのである。

 歯学部では、6年生を対象に卒1、卒2と呼ばれる卒業試験を行い、この卒業試験に合格した者が、国家試験を受験できるようになっていた。1月に行われた卒1と、2月に行われた卒2の成績を比べた結果、「口腔外科」など数教科の点数に大きな隔たりがあった。また前年の臨床実習試験成績とも大きな違いがあった。そのため、異例の最終試験を実施して、5人を留年処分とした。

 歯学部試験委員会が事情を聴取すると、学生が顔見知りの教務部次長(54)から5教科の問題用紙をもらっていたのだった。試験問題は担当教授が作成、教務部で印刷して保管していた。問題用紙を学生に渡した教務部次長は、学生に同情しただけで、金はもらっていないと説明したが真相は不明である。

 さらに藤田学園保健衛生大学で、平成元年4月の医師国家試験で替え玉受験が行われていたことが発覚した。医師国家試験の替え玉受験は初めてのことであった。警視庁保安二課は、替え玉受験に関与した受験生を含む4人を私文書偽造の疑いで逮捕した。逮捕されたのは、藤田学園保健衛生大大学院生千原秀則(33)と、仲介者の文在旭(56)、岡崎秀幸(57)、替え玉受験をしたパチンコ店店員で日本語学校生の韓国人申載官(30)の4人であった。

 千原秀則は、昭和49年に藤田学園保健衛生大医学部に入学。58年3月に卒業したが、6回連続して医師国家試験に落ちていた。そのため替え玉受験を計画。千原は、岡山県遊技協会理事長を務める父親(57)に替え玉受験を相談。父親は、岡崎秀幸に「自分が貸した600万円を帳消しにする」と文在旭に話を持ち掛けさせた。そして、文在旭が申載官に2万円の謝礼を払って身代わり受験をさせた。

 申載官は、パチンコ店でアルバイトをしながら日本語学校に通い、日本の大学受験を目指していたが、医学の知識はなかった。医学の知識のない者に、医師国家試験を受験させても合格の可能性はゼロに等しいが、それを実行させたことが偉いというかばかげている。

 受験写真用台紙に申の写真を張り、申が千原になりすまして受験、答案用紙に千原の氏名、受験番号を記入して試験を受けた。日本語も満足にしゃべれない申は試験の最中に怖くなり退席。このことを知った文は試験直後、自ら厚生省に電話をかけ、替え玉受験を告白、千原秀則の名前を通報した。文は岡崎がつかまれば、借金返済を待ってもらえると思ったらしい。厚生省は、前年の千原の受験票の顔写真と照合し別人を確認。その後、厚生省は試験方法の見直しなど改善策に乗り出した。あまりにおそまつな事件であった。

 

 

 

有毒マンズワイン事件 昭和60年(1985年) 

 欧米で売られるワインは水よりも値段が安い。この安いワインを高級ワインに化けさせる方法があった。それは、安物のワインに自動車の不凍液(ジエチレングリコール)を混入させることで、ラジエーターの不凍液をワインに加えると、高級ワインに似たコクと甘みが出ることから、欧州ではひそかに不凍液が混入されていた。

 世界ワイン見本市で金賞を取ったワインにも不凍液が混入され、貴腐ワインとして売られていたことが判明、有毒ワイン騒動が欧州で広がった。ジエチレングリコールは無色無臭で、わずかに甘みがあった。その致死量は体重1キロ当たり1グラムで、不凍液が混入されたワイン1本には致死量の10分の1に相当する量が入っていた。症状としては、腹痛、おう吐、めまい、それに意識障害などである。

 昭和60年7月10日、この不凍液が混入されたオーストリア産のワインが西ドイツで市販されていると、朝日新聞が夕刊で小さく報道した。この新聞報道は対岸の火事のように思われていた。しかし7月24日、日本にも西ドイツを経由して不凍液が混入された74種類のワインが輸入されていることが確認された。この報道で次第に人々の関心を呼び、日本にも有毒不凍液ワイン騒動が起こりはじめた。この報道でオーストリア産とドイツ産のワインの販売が自粛されたので大きな社会問題にはなかった。

 不凍液入りワインは欧州に限られた問題で、まさか自分たちが飲んでいる国産ワインに不凍液が混入しているとは誰も思っていなかった。日本のマスコミは「このワインは凍ります(不凍液が入っていないという意味)」「車のラジエーターには不向きなワインです」などのキャッチコピーで、笑いをつくることに専念していた。

 しかし、厚生省は国産ワインについても不凍液混入の有無を検査することを決定。国産ワイン工場のある山梨県を通して、タンクに保存されているワインを検査した。その結果、すべてのワインに不凍液の混入は認められず、厚生省は8月2日に「国産ワイン安全宣言」を出した。さらに8日、マンズワイン(本社・東京都、峰岸久三郎社長)は「自社のワインには不凍液の混入はなく安全である」という広告を全国紙に出した。

 だが、この安全宣言が全くのウソであった。マンズワインは不凍液騒動が起きる直前に有毒ワインの回収をひそかに行い、混入の事実を隠して安全宣言をうたっていたのである。このウソがばれたのは、ある消費者が国産ワインを検査機関に持ち込んだことがきっかけだった。検査の結果、安全宣言が出されていた国産マンズワイン7銘柄から不凍液が検出されたのである。

 マンズワイン工場の立ち入り検査でワインから不凍液が検出されなかったのに、なぜ市販のワインから不凍液が検出されたのか。このミステリーは全国の注目を集めることになった。厚生省はあわてて再検査を行ったが、やはりワインのタンクから不凍液は検出されなかった。

 9月11日になって、この謎が解明された。マンズワインが「有毒ワインの入った工場のタンクの中身を、検査の前日に徹夜で抜き取り、国産ワインにすり替えていた」と発表したのである。同社は、輸入業者から有毒ワインの連絡を受けたため、タンクにあった有毒ワインの原液を廃棄し、市中に出荷されているワインもひそかに回収しようとした。しかし、この隠蔽工作に漏れが生じたのである。会社ぐるみの隠蔽工作、消費者を欺く安全宣言、マンズワインの組織的犯罪が暴かれることになった。

 有毒不凍液が混入されていたマンズワインの7銘柄には、最高級ワイン「マンズエステート貴腐白磁1978」「マンズエステート氷果葡萄吟醸1981」が含まれていた。特にマンズエステート貴腐ワインは、それまで純国産との宣伝で販売されていた。しかしこの貴腐ワインはオーストリア産のワインをブレンドした製品で、国産ワインは4.7%しか含まれていなかった。ワイン通からもてはやされていたワインの王様である貴腐ワインは、安物の欧米ワインに有毒不凍液を入れた偽物だった。

 貴腐ワインは、表面にカビが付いたブドウを乾燥して干しブドウ状にしたものが原料である。糖度が高く、味はまろやかで、色や香りも優れていた。上等とされるものは1本10万円から20万円の値段が付けられていた。マンズワインは、この貴腐ワインそのものが偽物であること、国産と称していたワインが外国産ワインのまがいものであることが暴露されることを恐れ、姑息(こそく)な隠蔽(いんぺい)工作を行い、結局は致命的打撃を受けることになった。

 マンズワインは、故意に不凍液を混入させたわけではない。同社の隠蔽工作は、国産として売り出していたワインが、本当は外国産ワインであることを隠すことが目的だった。ワインの輸入量から計算すると、国産とされるワインの半数が、外国ワインとのブレンド品であった。

 この事件によってワインブームは冷水を浴びせられ、消費者のワイン離れを起こした。消費者の信頼を裏切ったマンズワインは社長ら役員全員が辞職した。

 市民グループ・マンズワイン被害者の会の会員25人が「有害ワインを飲まされ、精神的肉体的被害を被った」として、製造元のマンズワインと親会社のキッコーマン(本社・千葉県野田市、中野孝三郎社長)を相手取り、不当表示の禁止と総額458万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。

 大阪地裁で、訴訟から2年6カ月後に和解が成立した。その内容は、両社が有害ワインの販売や不当表示を認めるとともに、原告以外の会員にも賠償するものであった。欠陥商品や不当表示商品については、健康被害などの立証が難しい。しかし、メーカー側が原告に精神的苦痛を償い、さらに原告以外の消費者にも賠償責任を認める異例の和解であった。

 マンズワイン訴訟で注目したいのは、原告側が米国の消費者運動による

クラスアクション(集団代表訴訟)方式を採り、その成果を上げたことである。クラスアクションとは、欠陥商品などで多くの人に同様の被害が生じたとき、代表者が訴えを起こせば、その判決の効力が被害者全員に適用されることである。多数の消費者の少額被害救済のため、代表者が提訴した裁判の効力が全体に及ぼす新しいタイプの消費者運動だった。今回の裁判では3000円で原告を募集し、25人の原告全員に購入代金と1人当たり10万から20万を慰謝料として払うものであった。さらに原告以外の被害者に対しても、購入の証明により同様に支払うものであった。

 昭和6011月、当時の専務ら3人が食品衛生法違反罪で略式起訴され、後に有罪が確定した。そのほか、同社は不当表示で公正取引委員会から警告を受けた。

 

 

 

日航ジャンボ機墜落惨事 昭和60年(1985年) 

 昭和60年8月12日午後6時12分、羽田発大阪行き日本航空123便(ボーイング747型機)が、乗員15人、乗客509人を乗せ、定刻をやや遅れて羽田空港を飛び立った。離陸から12分後の6時2435秒、伊豆半島上空を上昇中、機内で突然「ドーン」と爆発音が走った。操縦室では次々に警報音が鳴り、警告灯が点滅、客室内には酸素マスクが下りた。

 高浜雅己機長(49)は、とっさに緊急事態発生の信号「スコーク 77」を発し、東京航空交通管制部に通報。しかしこの時、すでに垂直尾翼の大半が破壊され、その後3分間で油圧はゼロとなった。油圧操縦4系統がすべて作動せず、油圧による操縦が不可能となった。

 羽田に引き返すには、右に旋回して陸側から迂回するか、左へ迂回して海側から向かう方法があった。右迂回では、陸上を通るため市街地に墜落する危険性がある。左迂回ならば、海上に着水して犠牲者の数を減らせる可能性があった。しかし機長は右迂回で羽田に帰ることを決断した。なぜ機長が右迂回を決めたのか、この疑問は今もって分からない。

 日航123便は富士山上空を横切り、操縦のコントロールを失ったまま秩父山系への迷走飛行となった。油圧操縦システムを失ったため、左右のエンジン出力の増減、着陸脚、主翼のフラップで機首をコントロールするしかなかった。さらに客室の気圧低下を回避するため、低空飛行をせざるを得なかった。123便は山梨県大月市上空を旋回し、着陸脚を下ろして飛行機を降下させた。

 123便と東京航空交通管制部の無線を傍受していた米軍の横田基地は、横田基地への緊急着陸許可を機長に伝え、機長もそれを了解。横田基地では不時着、墜落を想定してベテラン軍医やヘリ乗務員を緊急徴集、救難物資の準備を急いだ。

 しかし123便は、機首が左右に揺れるダッチロール状態となり、さらに機首が上下するフゴイド状態に陥り、極限状況でのフライトとなっていた。横田基地付近まで引き返したが、急に山側に左旋回。6時54分、機長は現在位置を見失い、管制センターに「位置を教えてほしい」と連絡を入れた。その約2分後の6時5630秒、機長の「プルアップ(引き起こせ)」の叫び声を最後に羽田のレーダーから機影が消えた。

 墜落直後、航空自衛隊の茨城県百里基地からF−4EJ戦闘機2機が緊急発進して現場へ向かった。正式な出動要請がない限り自衛隊は出動できないため、発進命令は訓練が名目であった。さらに基地にはMU−2救難機とV−107ヘリを待機させていた。

 午後7時19分、F−4EJ戦闘機は日航機の墜落現場を確認する。航空自衛隊は、何度も出動を要請したが返答はなく、午後7時54分、百里救難隊のV−107ヘリを見切り発進させた。V−107ヘリは夜間にもかかわらず墜落地点を群馬県多野郡上野村御巣鷹山の山頂上付近と詳細に報告した。なお災害派遣命令が下る前に独自の判断で出動を命じた空挺(くうてい)団司令部の幹部はその後左遷されている。

 日航機の状況は在日米軍も把握していた。墜落から約1時間後、米軍C−130輸送機が墜落現場上空に到着、詳細な現場の位置を特定した。米軍厚木基地は暗視カメラを搭載した海兵隊の救助ヘリを現場に急行させ、墜落からわずか2時間で救助体制を整えた。

 米軍の救助ヘリが、救助のために隊員を現場に降ろそうとした時、厚木基地から突然帰還命令が出た。日本の飛行機事故に対する米軍の救出活動は、日本政府の許可が必要だった。そのため米軍は政府に救援を打診したが、日本政府は援助不要とした。政府が米軍の協力を拒んだのは、米軍の救助活動の是非を決めていなかったからである。

 米軍が事故現場を特定し、日本にヘリでの救出を申し出たことは、事故当日のニュースになっていた。しかし翌日未明にはこれらがすべて誤報であったと訂正されている。それ以降、米軍からの救助協力の申し出の事実は隠蔽され、表に出ることはなかった。しかしその後、新潮社の週刊誌に詳細記事が掲載され、上智大文学部の英語の入試問題に、このC−130輸送機の副操縦士の手記が出題され、事故から10年後に在日米軍の現場特定と救助の申し出が事実であったことが明らかになった。

 生存者の4人が救助されたのは墜落から16時間後で、事故直後にはそのほかにも生存者がいた可能性があった。もし米軍のヘリが現場上空から救助していれば、生存者は増えた可能性が高かったのに、なぜ救助を断ったのか残念である。

 自衛隊のV−107ヘリや米軍機は墜落地点を正確に特定していた。しかし新聞社などのヘリは墜落現場に近づいたものの、山が連なる地形のため正確な位置を確認できず、当初、墜落現場を長野県北相木村付近と報道した。日航、報道、自衛隊、警察が慌ただしく動き出したが、防衛庁とNHKは「現場は長野県」と発表、この誤報によって救難活動が大きく遅れることになった。すでに事故現場を特定していたはずの防衛庁はこの誤報によって、後に「自衛隊の無人機との衝突の隠蔽工作」とうわさされた。

 警察は誤報に惑わされ、見当はずれな方向を捜索しようとしていたが、しびれを切らした地元の上野村消防団は、日の出とともに御巣鷹の尾根をめざして出発、消防団員たちが生存者を発見することになる。この事故を他局より先に知ったフジテレビは、事故直後の午後7時半からレギュラー番組をすべて中止し、報道特別番組を約10時間にわたり放送した。それが生存者救出の生中継につながった。

 墜落現場は目を覆うばかりの惨状であった。木々はなぎ倒され、機体は原形をとどめないまでに破壊されていた。小川は血で染まり、バラバラとなった遺体は広範囲に散らばり、荷物が散乱していた。夏の暑さが加わった厳しい状況の中で救出作業が続いた。現場では次々に遺体が収容されていった。鼻を突く異臭と破壊の激しさに、誰もが全員死亡と思っていた。

 8月13日午前11時ごろ、「生きてるぞ」との声が現場を走った。12歳の少女が(川上慶子さん)が救出され、救援隊員に抱えられてヘリコプターにつり上げられていった。この奇跡的な様子はテレビで流され、日本中に感動を呼んだ。

 生存者は、彼女のほかに私用で乗っていた日航のアシスタントパーサーの落合由美さん(26)、吉崎博子さん(34)、美紀子さん(8)親子の女性4人で、藤岡市の病院にヘリで搬送された。乗員乗客524人のうち生存者は4人だけで、航空機の単独事故としては航空史上最大のものになった。

 生存者の話では、後方でバーンと音がして周囲が白くなり、機体が激しく揺れ、ジェットコースターのように激しく上下した。機体の揺れは8の字を描くようなダッチロール状態が約30分も続き、乗員乗客は想像を絶する恐怖と闘っていた。多数の遺品の中には、飛行機内の写真、家族あてのメモもあった。迷走状態の飛行機の中で書かれた遺書がマスコミで報道され、深い悲しみをよんだ。

 事故当日は、お盆の帰省客などで事故機は満員であった。犠牲者の中には阪神タイガース球団の中埜肇社長(63)、ハウス食品工業の浦上郁夫社長(48)、「明日があるさ」「上を向いて歩こう」のヒット曲で有名な歌手の坂本九さん(43)、さらに女優の北原遥子さん、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子らが含まれていた。

 なお宝塚女優の麻実れいさんは車が遅れて飛行機に乗り遅れ、タレントの明石家さんまさんは搭乗便を1本早めに変更したため難を逃れていた。事故当日のほぼ同時刻の同区間に全日空機が飛んでいた。日航機に乗るのか、全日空機に乗るのかで生死を分けることになった。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲となった遺体の損傷は激しく、バラバラになった遺体の身元確認は困難を極めた。8月の猛暑の中では腐敗も早く、当時はDNA鑑定も確立していなかったため、身元の特定は困難だった。

 14日の朝7時、警察官、医師、歯科医師、日赤救護班の医師、看護婦ら約500人が、仮の遺体安置所となった藤岡市民体育館に集まった。群馬県警察医会理事の歯科医師・大国勉が検視の総括責任者となった。

 広い体育館の窓は黒いカーテンで閉ざされ、外部から完全に遮断された。次々と柩が運び込まれ、体育館は遺体でいっぱいになった。館内の温度は時間とともに上がり、最初の柩(ひつぎ)が市民体育館に運び込まれた時には35度を超えていた。検視総括員は、遺体を完全遺体と離断遺体に区分し、検視番号を付けていった。警察官5人、医師2人(内科系、外科系)、看護婦3人、歯のある遺体は歯科医師2人が1グループとなって検視に当たった。

 一同手を合わせ、一礼してから検視を始めた。遺体を清拭(せいしき)し、まず警察官によって遺体の計測、写真撮影が行われた。次に頭部から足の先まで、順を追って検視が行われた。損傷が激しく、壮絶な肉片に衝撃を受けない者はいなかった。検視はすべてを精密に記録し、顎骨、歯などが残っていればレントゲンを撮り、検視を終えると傷の縫合を行い、再び清拭して全身に包帯を巻いて納棺した。1遺体の検視に約1時間をかけ、検視が終わると、再び遺体に手を合わせた。

 館内の温度は3840度となり、死臭でむせ返り、ひたいから流れ落ちる汗が目にしみた。頭部を失った遺体、シートベルトで下腹部から離断された遺体、子供の遺体、炭化した肉塊、検視は汗と涙と悲しみの中で行われた。一刻も早く遺体を確認したい遺族の心情を考え、食事も取らず、徹夜を苦にせず、猛暑の中で必死の検視が続いた。県医師会、県歯科医師会の会員も参加して検視が続けられた。検視により520遺体中、518体の身元確認がなされ、確認できなかった部分遺体は、残念ながら合同荼毘(だび)にふされた。

 事故発生から27日後、ボーイング社はニューヨークタイムズ紙に事故原因を次のように発表した。「同機が7年前に伊丹空港において着陸に失敗、この「しりもち事故」の修理を行ったボーイング社の修理チームのミスが事故の原因につながった」としたのだった。

 ボーイング社の自主的声明は、航空関係者だけでなく、多くの国民を驚かせた。自分たちの恥である修理ミスを隠さずに公表した態度に好感を持った。運輸省の「日航123便に関する航空事故調査委員会」は、このボーイング社の発表を受け、この事故は「昭和53年6月2日に伊丹空港で同機が着陸に失敗してしりもち事故を起こし、その後のボーイング社の修理が不適切であったため圧力隔壁に金属疲労が起き、圧力隔壁が破壊されて航空機後部の4系統の油圧操縦システムのすべてが失われて操縦不能に陥ったことが原因」とした。

 しかしこの報告には疑問があった。もし圧力隔壁破壊があったならば、急減圧や室温低下などで乗員や乗客が失神する可能性が高かったからである。しかしこの事故では乗客は遺書を書き、機内を写真撮影していた乗客もいた。そのため急減圧はなかったとする専門家がいた。また生還した落合さんらは、圧力隔壁が壊れて尾翼を吹き飛ばした説には矛盾点が多いと証言している。

 ボーイング社は修理ミスを認めたが、もしこれが機体の構造的欠陥であったならば、世界を飛ぶ600機の飛行機も事故を引き起こす可能性がでてくる。多数の自社飛行機に影響を及ぼさないように、原因を修理ミスにしたのではないかとの疑惑が残された。

 また強固な垂直尾翼を破壊したのは、何らかの物体が垂直尾翼へ衝突したか、爆発したのではないかとする専門家がいた。垂直尾翼の方向舵ヒンジ部の破損が先で、その後に与圧隔壁が壊れたとする者もいた。操縦士、副操縦士、航空機関士はいずれもベテランで、操作ミスは考えられなかった。なおこの事故から数年後、伊丹空港でしりもち事故を起こした機長が自殺している。

 事故後、日本航空が支払った賠償金の総額は約600億円であった。現在、墜落現場の「御巣鷹の尾根」には慰霊碑が建てられ、毎年8月12日に慰霊登山が行われている。しかし事故発生から25年が経過し、遺族の高齢化が進み、慰霊登山を断念せざるを得ない遺族が増えている。

 前橋地検は修理ミスを確認できないとして、ボーイング社をはじめとする関係者を不起訴処分にした。事故で両親と妹を亡くした川上慶子さんは後に看護師となって、平成7年の阪神大震災で被害者救済のため活躍した。亡くなられた方々の冥福をお祈りするとともに、生き残った4人の方の幸せを祈りたい。

 

 

 

イッキ飲み 昭和60年(1985年) 

 昭和6012月5日、日本語新語流行語大賞で金賞を得たのは「イッキ!イッキ!」、であった。このようにお酒の「イッキ飲み」が流行していた。1月の成人式、4月の新人歓迎会、12月の忘年会、飲み会があるたびに、イッキ飲みによる急性アルコール中毒が多発した。イッキ飲みとは、学生たちがコンパなどで、ビールのジョッキや酎ハイなどを一気に飲み干すことで、仲間たちは「イッキ、イッキ」と遊び感覚ではやしたてた。

 「イッキ」の掛け声で酒をあおると、アルコールの血中濃度が急激に高まり、ほろ酔い気分を飛び越え、脳の麻痺が進み、昏睡状態から死に至る危険性があった。このイッキ飲みの元祖は慶応大学の学生とされているが、イッキ飲みは急性アルコール中毒を起こしやすく、イッキ飲みにより死亡した学生は過去20年間で70人以上とされている。この死亡した者には、急性アルコール中毒死のほかに、飲酒後の転落死、水死なども含まれているが、若い生命をつまらぬことで失うばかばかしさを感じてしまう。

 お酒はゆっくりと味わうのが人間の文化である。イッキ飲みは仲間意識を高めるためと受け止められるが、子供から大人への通過儀式としてはあまりに幼稚すぎた。お酒を面白半分に強要することは、小・中学校のいじめに似た感覚が根底にあった。また酒そのものを愚弄(ぐろう)する行為であった。

 ちょうどその当時は、「養老乃瀧」「村さ来」「北の家族」「天狗」などの居酒屋ブームと重なり、飲み口がよくて値段の安い酎ハイが流行し、イッキ飲みを加速させた。イッキ飲みの流行はその危険性にもかかわらず、長期間にわたって続き、各地で死者を出したが、医学部も例外ではなかった。

 平成11年6月6日早朝、熊本大学医学部1年生の吉田拓郎(20)さんが急性アルコール中毒で死亡した。死体検案時の血中アルコール濃度は8.1mg/mLだった。教科書には4.0mg/mL以上で死亡と書かれていることから、相当量のアルコールを飲まされたことになる。

 吉田拓郎さんは熊本市内の中華料理店で開かれたボート部新入生歓迎コンパに参加し、二次会の居酒屋で医学部の上級生やOB医師から焼酎のイッキ飲みを強いられた。このイッキ飲みは「バトル」方式と呼ばれるもので、1対1で焼酎を飲み、相手より飲み方が遅いと再度イッキをさせられるのであった。

 吉田拓郎さんは負け続け、25度の焼酎を8合以上飲まされた。上級生は水で薄めた焼酎を飲んでいたのだから勝てるはずはなかった。吉田さんは1時間ほどで酔いつぶれ、名前を呼んでも、ほおをたたいても反応はなかった。上級生たちは、下級生に泥酔状態の吉田さんを車で運び、病院に連れて行くように言いつけた。しかし、「病院に連れていかなくても、死にゃせん」とタクシーの運転手に言われ、別の学生のアパートに連れて行った。吉田拓郎さんは翌朝午前6時ごろ、吐しゃ物を詰まらせ窒息死した。

 熊本大学医学部Y教授、OB医師、上級生たちは、吉田拓郎さんが泥酔状態であることを知りながら、保護する責任があったにもかかわらず、ほかの新入生とともに部屋に放置した。Y教授は説明会で、「口から少量の血液が漏れていた」「死因は確定できていない」「その日は、吉田君の体調が著しく悪かった」などと発言し、死の原因が吉田さん自身にあるように説明した。吉田さんの両親は二次会の様子や死に至った経緯を聞きたいと申し出たが、Y教授はそれを断った。