平成元年から9年

平成元年から10年
 昭和天皇の崩御により元号は昭和から平成になった。日本は高度経済成長から安定成長期を経て、バブルに浮かれながら経済のピークを迎え、平成2年にバブルが崩壊すると、経済は停滞から衰退へと向かった。経済は右肩上がりから右肩下がりになったが、平成6年までは、昭和からの継続の色合いが強く、世相にはまだ明るさがあった。バブルが崩壊しても、経済はいずれ回復すると楽観していた。ジュリアナ東京の「お立ち台」でボディコン女性が扇子を振り回して踊り狂う姿が、バブルの象徴と思われがちであるが、ジュリアナ東京が営業を始めたのはバブルが去った平成3年で、閉店したのが平成6年である。つまり平成6年の「ジュリアナ東京」の閉店が、バブル世相の崩壊を象徴していた。
 海外に目を向けると、世界は新たな時代に入ろうとしていた。平成元年6月に中国で天安門事件が起きると、眠れる獅子は古典的共産主義から経済重視の道を進むことになる。同年、ポーランドで共産党独裁主義が崩れ、これをきっかけに東欧諸国で民主化への動が始まり、11月にベルリンの壁が崩壊し、さらに平成3年には、ソビエト連邦が崩壊して冷戦の時代は終わりをつげた。
 一方、平成3年にイランがクウェートを侵略して湾岸戦争が勃発。冷戦の時代から宗教色を帯びた新たな宗教紛争の時代になった。日本は世界の激変を横目で眺めながら、足元のぐらつきに気づかず、政府開発援助で大盤振る舞いをしながら、自国の将来、国力の低下を案じる空気はなかった。生活苦の実感はなく、昭和の遺産を食べながら楽観していた。
 平成6年に村山富市内閣が発足すると、日本社会党はその存在価値であった自衛隊違憲、日米安保条約破棄を取り下げ、このイデオロギーの放棄により日本社会党は自滅した。それまでは経済の繁栄をうたった自民党が常に政権を維持し、憲法改正阻止を主張する日本社会党が野党第1党を確保していたが、この政治的巨大談合があばかれたのである。冷戦の時代は終わり、55年体制が崩壊し、政界再編成が活発となり、内閣総理大臣が細川護煕(日本新党)、羽田孜(新生党)、村山富市(日本社会党)と非自民の連合政権が誕生しては、消えていった。小選挙区制が導入され党の再編が起こり、民主党が台頭してきた。
 平成7年1月17日、阪神淡路大震災で6,400人を超える犠牲者を出し、オウム真理教によるサリン事件が起き、社会不安を招いたが、国民はどこか傍観者の立場にいた。日本経済は下降線をたどり、同年1ドル79.7円になり「就職氷河期」と呼ばれたが、雇用不安はまだ他人事で、生活の低迷と日本の衰退を実感する者は少なかった。
 バブルが崩壊してから、失われた10年、失われた20年と言われているが、この20年で日本人の生活を大きく変えたのは、インターネットと携帯電話の普及である。パソコンの普及によってワープロが消え、平成7年にウインドウ95が発売されると、数年後にはIT革命といえるほどにインターネットが普及した。さらに平成10年頃からポケットベルが消え、携帯電話が爆発的に普及して、それまでの生活を一変させた。
 振り返れば、ラジオやテレビの登場も、私たちの生活を大きく変えたが、インターネットや携帯電話は生活を便利にしたが、その情報性と匿名性から知性とモラルの低下を招いた。匿名性から恥を失い、他人への攻撃、アダルト画像、援助交際、振り込み詐欺、などの悪用をもたらし、個人情報保護法に守られながらIT無法時代へと進んでいった。若者は自分が主役になったが、内向的な世界に閉じこもり、安穏としたまま気概を失った。このインターネットと携帯電話に世界への変化があまりに早すぎたため、道徳や規律を作るべき大人は、その濁流について行けず、スカートの丈を厳格に決めていた校則が、子供の携帯電話とインターネットの制限に追いつけずにいた。
 さらに国境を越えた津波のような情報は、経済のグローバル化とボーダレス化をもたらした。企業は生産コストを下げるため人件費の安い国に生産拠点を移し、日本の産業の空洞化を招いた。資本主義はマネーゲームとなり、虚構的投機資金が世界の経済を揺さぶることになった。
 戦後に生まれた世代は、昭和50年に50.6%と半数を超え、平成6年には3分の2を占めるまでになった。平成元年に生まれた者は成人式を終え、大学を卒業しようとしている。彼らは昭和の時代を知らず、彼らの両親は太平洋戦争を知らず、貴重な過去を体験した老人は寡黙のまま世間の片隅にいる。太平洋戦争は、戦国時代や明治時代のように教科書で学ぶものになり、今の若者が大学紛争、冷戦、バブルなどを知るはずもない。それは世代の断裂ではなく、単なる時間の流れによる世代の違いである。明治維新や日露戦争を体験した者がいないように、いずれ神戸淡路大震災も語る者がいなくなるのである。
 

ホパテの劇薬指定 平成元年(1989年)
 平成元年2月21日、厚生省は副作用で11人の死者を出したとして、認知症の改善薬ホパテン酸カルシウム(製品名「ホパテ」)を劇薬に指定した。田辺製薬が開発したホパテは、いわゆるボケ防止薬として広く使われ、後発メーカーも次々に参入して、36社が製造し15万人に投与されていた。当時はホパテ以外にボケ防止薬がなかったことから、ホパテは年間300億円を売り上げるベストセラーになっていた。
 昭和53年1月に、ホパテは小児の精神発育遅滞や言語障害の緩和剤として承認され、その後、昭和58年2月に成人の脳卒中による言語障害や情緒障害にも有効とされ、いわゆる老人のボケ防止薬として売り上げを急増させた。
 しかし発売当初から、ホパテによる血糖低下や意識障害などが報告され、小児科領域でも乳幼児4人がけいれんや肝障害で死亡していた。厚生省は使用上の注意、緊急安全性情報を配布して医療機関に注意を呼び掛けたが、副作用が後を絶たないことから、平成元年2月に厚生省はホパテを劇薬に指定した。
 薬事法では薬剤を、「毒薬・劇薬」「指定医薬品」「要指示医薬品」「習慣性医薬品」の4つに区分している。劇薬に指定されたホパテの容器には赤字で「劇」と書かれ、保管場所も他の薬剤と区別された。また同剤を投与する場合は、2週間ごとの検査、1カ月ごとの効果判定、調査票による全例報告、このような厳しい取り扱いとなった。この劇薬指定により、ホパテは事実上使用できなくなった。
 認知症はアルツハイマー型と脳梗塞などの脳血管型に大別され、高齢化社会とともに脳梗塞が増え、抗認知症薬の市場拡大が予測された。
 ホパテはぼけ防止薬(抗認知症薬)として先導的役割を果たし、そのため昭和61年以降に開発された抗認知症薬は、ホパテの効果を基準に採用が決められ、ホパテの有効性と同等あるは優位である場合に新薬は認可された。つまり、「ホパテは認知症に有効なので、新薬がホパテと同じ効果ならばば、認知症に有効のはず」として、次々に新薬が生まれていった。
 ホパテの販売中止は副作用によるものであったが、発売当初からホパテの有効性に疑問が持たれていた。つまりホパテ騒動は、ホパテとの比較試験で開発された多くのぼけ防止薬にも、有効性の疑惑が連鎖的に波及したのである。ボケ防止薬の市場は年間4000億円とされ、ホパテ騒動は過熱するボケ防止薬開発競争に冷水を浴びせることになった。
 ホパテ騒動から4年後の平成5年、他のぼけ防止薬についても再評価が行われることになった。再評価の方法は、市販後の調査で「使用したら効果があった、副作用がなかった」という簡単なものだった。認知症の症状を数値で示すことは困難なため、薬剤の有効性は医師の主観に頼らざるを得なかった。
 しかし厚生省は、薬剤の有効性を知るため、製薬会社にプラセボ(偽薬)を対照にした薬効の再評価を迫った。つまり「薬剤を飲んだ患者と偽薬を飲んだ患者」の比較試験を製薬会社に求めたのである。その結果、平成10年5月、厚生省の中央薬事審議会は脳循環代謝改善剤について、「医療上の有効性は確認できない」と結論を下した。有効性が確認できないということは、無効ということである。
 中央薬事審議会が効果なしとした脳循環代謝改善剤は、「アバン」(武田薬品工業)、「エレン」(山之内製薬)、「セレポート」(エーザイ)、「ヘキストール」(ヘキスト・マリオン・ルセル)、「アルナート」(藤沢薬品工業)、「アニカセート」(東和薬品)、「ケネジン」(大洋薬品工業)、「プロベース」(ダイト)、「ペンテート」(沢井製薬)の9種類だった。ホパテという親亀がこけたので、子亀もこけたのであるが、ホパテの騒動から9年が経過していた。
 厚生省はこの点について、「承認した当時は医療上の有用性が認められたが、その後の新たな薬剤やリハビリなど治療の進歩で、有用性が低下した」と意味不明の説明をした。
 平成9年のアバンの売上高は224億円で、武田薬品の製品中4番目の売り上げを記録していた。しかし再評価試験では、アバンの有効性が32.4%、偽薬の有効性が32.8%と、偽薬の有効性の方が高い結果になった。脳循環代謝改善剤の売上は8750億円で、当時は薬価と納入額の差、つまり薬価差益は病院の利益になっていたので、売上高8750億円は薬価ベースでは1兆円を超えていた。
 当時は、老人医療費の自己負担がほとんどなかった時代である。そのため、これらの薬剤は患者、病院、製薬会社の誰も痛みを感じずに処方されたが、しかし国全体にとっては大損害であった。厚生省が脳循環代謝改善剤を無効とした平成10年頃は、ちょうど医療財政が悪化した時期で、厚生省は大蔵省から医療費削減を迫られ、仕方なく再評価を始めたのが実情であった。いずれにしても、効果のない認知症薬が何年も使われていたことは、何ともお粗末なことである。
 厚生省は新たな再評価試験で、それまで有効としていた薬剤を、自らその有効性を否定したが、この決定はどのような理由であれ理解できないことである。医師は中央薬事審議会の決定を信じて薬剤を患者に処方している。昨日まで「きちんと内服しなさい」と指導していた医師が、まじめに内服していた患者が、混乱したのは当然のことである。医師と患者の信頼関係を見えない形で悪くしたことは確かである。
 脳循環代謝改善剤を有効と判定した専門家、薬事審議会の委員、厚生省の担当官は、この承認取り消しをどのように受け止めたのか。感想を聞きたいところだが、彼らは何も語らず、誰も責任を取らず、何の反論も示さなかった。
 「承認した当時は、医療上の有用性が認められた」この文言は、「厚生省が承認したことも、承認を取り消したことも間違いではない」との理屈であった。しかしこのような非科学的論理が成り立つはずはなく、厚生省の単なる責任逃れとしか思えない。少なくとも、脳循環代謝改善剤の承認にかかわった権威者たちは、医師の良心に従ってこの矛盾を説明すべきである。
 一般薬として承認され、途中から劇薬に指定されたのは、副作用による「クロロキン」(昭和42年)や経口糖尿病薬(昭和50年)など極めて少ない。今回は薬効のない薬剤を中止したのである。しかもこれらの薬剤は海外では使用されず、日本では1兆円を超えるほど多用されていた。
 現在、抗認知症剤として使用が認められているのは、アルツハイマーの治療薬として開発された塩酸ドネペジル(アリセプト:エーザイ)である。しかもアリセプトは認知症を改善させるのではなく、その進行を緩和する薬剤である。アリセプトは日本で開発された薬剤であるが、平成9年に米国で、平成10年に欧州で認可され、日本で認可されたのはその2年後であった。
 ところで米国のレーガン元大統領は認知症となり、FDAが認可する前に特例としてアリセプトを内服していた。レーガンの認知症の発病はいつだったのか。それは大統領時代とうわさされている。
  なお文中において痴呆、認知症という言葉が混在しているが、平成16年の厚生労働省の用語検討会によって「認知症」へ言い換えが提案され、平成18年から使用が一般化されたので、文中の用語の混乱をお許し頂きたい。このことは平成14年から看護婦を看護師と呼ぶようになったことも同様である。しかしこれらは行政上の名称変更であり、一般人の使用においては制限されるものではない。
 また、文中で認知症改善薬と書いたが、正確には、「脳細胞の機能を高める脳代謝賦活剤」と「脳の血液循環を改善して脳の働きをよくする脳循環代謝改善剤」のことである。当時は、医師も一般人もこのような意味不明の難語を使用せず、ボケ防止薬と呼んでいたので、そのように記した。
 
手塚治虫死去 平成元年(1989年)
 マンガの神様といわれた手塚治虫(本名:手塚治)は、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ジャングル大帝」など多くの作品を描き、戦後のマンガ界に大きな足跡を残し、後に続くマンガ家たちに大きな影響を与えた。その手塚治虫が、平成元年2月9日午前10時50分、胃がんのため東京都千代田区麹町の半蔵門病院で死去。享年60であった。
 手塚治虫の人生は、彼の遺した700点にも及ぶ作品や50万枚の原稿用紙の重さに比べれば、あまりにも短かった。手塚治虫死亡のニュースを受けて、多くの雑誌や週刊誌は特集を組み、テレビのワイドショーは長時間の特別番組を放映した。
 手塚治虫はマンガ家の巨匠であるが、大阪大医学部を卒業した医師でもあった。その意味では、日本で1番有名な医師といえる。もっとも、医師免許を持ってはいたが、学生の時からマンガ家を目指していたため、患者を診察したことはほとんどない。
 昭和3年11月3日、手塚治虫は大阪府豊能郡豊中町(現豊中市)で生まれ、幼少時は兵庫県川辺郡小浜村(現宝塚市)で育った。彼の家は裕福で、父親は当時としては珍しかったカメラや映写機が趣味であった。当時撮られたフィルムには、手塚が庭のブランコに乗って遊んでいる姿が納められている。
 新しい物好きの父親の本棚には、一般書に混じって当時としては珍しいマンガ本があり、この父親の趣味が手塚に大きな影響を与えた。また母親も理解のある優しい人で、ピアノが趣味で、寝つきの悪い手塚に本を読んでくれた。また本のページの端にパラパラマンガを描いて見せてくれた。
 幼いころの手塚治虫は背が低く、運動オンチで天然パーマだった。そのため「ガチャボイ」とあだ名を付けられたが、現在のような陰湿なイジメはなく、からかわれる程度だった。絵がうまく、誰からも好かれていた。
 少年時代に田河水泡の「のらくろ」を愛読、海野十三の小説に夢中になった。小学校2年生のころからマンガを描き、ガリ版に刷って友人に配っていた。マンガや絵以外では、昆虫採集に夢中になり、自分で昆虫図鑑を作っていた。実物大で描かれた図鑑は、写真と見間違うほど上手に描かれていた。その時の有名なエピソードとして「いい赤がないので、自分の指から血液を採って絵の具の代わりにした」というのがある。
 「治=オサム」という本名が、ペンネーム「治虫=オサム」になったのは、昆虫採集に夢中になり「オサムシ」とあだ名を付けられていたからで、このペンネームは、小学5年生の時から使われていた。中学時代には、すでに「ヒゲオヤジ」が登場するマンガを描いていた。旧制高校時代には、学徒動員により軍事工場で働いていたが、トイレでマンガを描いていた。戦争中はマンガ自体が認められず、隠れて描いていたが、それでも描き貯めた原稿は3000枚以上になっていた。
 昭和20年、終戦の年に大阪帝国大付属医学専門部に入学。翌21年1月には4コママンガ「マアチャンの日記帳」を少国民新聞(後の毎日小学生新聞)に連載して、マンガ家としてプロデビューをはたした。医学部の授業は階段式の講堂で行われたが、手塚は講堂の1番後ろで、講義を聴きながらマンガを描いていた。
 昭和22年、手塚治虫は少国民新聞に漫画を連載しながら、長編マンガ「新宝島」を出版した。それまでのマンガは数ページのものであったが、「新宝島」は100ページの以上の長編で、映画のようなストーリーを持ち、しかも映画では表現できないシーンを描いていた。「新宝島」は従来のマンガの枠を破った新しい手法によって、本格的マンガとして40万部を売るベストセラーとなった。
 昭和25年に「ジャングル大帝」を「漫画少年」に連載して、医学生とマンガ家の2足のわらじをはくが、授業中もマンガばかり書いていたため、単位が取れず1年留年している。昭和26年に大阪大医学部を卒業すると、1年間のインターンを経て医師国家試験に合格するが、すでに人気漫画家としての地位を築いていた。担当教授は手塚を呼び出し「君が医者になっても、患者のためにならないから、マンガ家になりなさい」と忠告している。手塚は母親に相談するが、母親は「あなたの本当にやりたい道を進みなさい」と言った。当時、医師の社会的地位は高く、マンガ家の地位は低かった。そのような時代であったが、手塚は医師の道を捨て、マンガ1本でいくことにした。
 昭和27年に「鉄腕アトム」を「少年」に連載。アトムは原爆を想像させる単語であったが、当時は「原子力は科学技術の象徴」として、原子力の言葉に国民のアレルギーはなかった。
 手塚は漫画家として不動の地位を築き、「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」などの話題作を次々に発表した。これらの作品は、「ストーリーマンガ」という新しい分野をつくり、藤子不二雄、石ノ森章太郎など次世代のマンガ家に影響を与えた。
 昭和27年に東京に進出し、翌28年には後に有名になる「トキワ荘」に住んだ。部屋は4畳半でトイレは共同であったが、「トキワ荘」には赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが入居してきて、トキワ荘は若手マンガ家の拠点となり、「マンガ界の梁山泊(りょうざんぱく)」と呼ばれ、活気あふれるマンガ発信地となった。
 昭和30年には、「リボンの騎士」がラジオの連続ドラマとして放送され、昭和34年に手塚は幼なじみの岡田悦子さんと結婚、渋谷区代々木に新居を構えた。このようにマンガ家の道を歩んでいたが、昭和36年には奈良医大の安澄権八郎教授の指導で、「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」で医学博士の学位を得ている。また同年、アニメの製作のために東京手塚動画プロダクション(後の虫プロダクション)を設立、翌年には日本で初めての連続テレビアニメ「鉄腕アトム」を製作した。「鉄腕アトム」の視聴率は最高40.3%、平均25%と驚異的な高さで、半年後には欧州でも放映された。
 さらに大人のためのアニメ「千夜一夜物語」など、多数の作品を世に送り出した。当時のスタッフは十数人で、すべてが初めての試みだったため、過労死のスタッフが出たほどである。手塚が生み出した数々のアニメのレベルは高く、日本アニメの基礎を築いた。
 虫プロダクションのアニメの仕事は拡大し、手塚治虫は連載を同時に13本抱えるほどであった。毎日のように徹夜が続き、眠っているのを見たことがないと言われた。ところがファンクラブやテレビ局とのトラブルが続き、また経営難から、昭和48年に虫プロは倒産した。「アニメは、金のかかる恋人」と手塚が言ったように、採算性を考えずに質の高いアニメにこだわったことが倒産を招いた。しかし虫プロ倒産の年に、手塚は不死鳥のようによみがえった。医師を主人公とした「ブラックジャック」を「少年チャンピオン」に連載。さらに、「三つ目がとおる」「火の鳥」「ブッダ」といった歴史に残る名作を生みだし、第2の頂点を迎えることになった。「火の鳥」には宗教的、かつ哲学的な宇宙観が描かれ、読者が読みたいと思うストーリー性があり、しかも知らず知らずに読者を啓蒙(けいもう)する思想性があった。
 当時のマンガ家の作品はワンパターンが多かったが、手塚は作風を時代に合わせ変えていった。初期のマンガは子供に夢を与える可愛い絵柄が中心であったが、次第に劇画調になり、性描写も描いていた。またそれまでのマンガ家は、1人でコツコツ描いていたが、手塚はアイデアとストーリーを自分で考え、マンガの主だったところを描き、バックの柄や雨の降り方、道に生えている草などを番号でパターン化し、アシスタントに数字で指示を出す方法を生み出した。
 手塚はマンガ家・アニメ作家として世界的巨匠となり、国際的な賞を数多く受賞している。週刊文春に連載した「アドルフに告ぐ」は、ヒトラーのユダヤ人説を題材に描いたもので、そのストーリー性の巧みさが評判となった。しかし、いつしか病気(胃がん)が彼の身体をむしばみ、昭和63年に入院になったが、入院中もベッドの上で最後の作品となる「アドルフに告ぐ」を描いていた。
 「手塚治虫漫画全集」(講談社、全400巻)は個人の作品集としては世界一の巻数と、ギネスブックに載っている。現在、日本の貿易は原料を輸入し、製品を輸出することで黒字となっているが、特許料などの知的分野は赤字である。しかし知的分野の中で、マンガ・アニメだけは黒字である。このように世界中に輸出されている日本のマンガやアニメの基礎をつくったのが手塚治虫である。手塚は医師として患者を治す道を選ばなかったが、戦後のすさんだ人々に夢を与え、徹底したヒューマニズムを教えてくれた点では、偉大な医師だった。

ミドリ十字の未承認検査薬事件 平成元年(1989年)
 平成元年1月20日、ミドリ十字による未承認の放射線検査が発覚した。事件の発端は、「福島県郡山市の南東北脳神経外科病院で、未承認検査薬を利用した保険診療報酬の不正請求が行われている」との内部告発状が福島県保険課に届いたことだった。告発状には、レセプトのコピーや内部資料も同封され、極めて信憑性の高いものだった。この時点では、日本中が大騒動になるとは、誰も予想していなかった。
 福島県の特別監査によると、南東北脳神経外科病院では、脳や肺の血流検査用の放射性検査薬として、ミドリ十字の「キセノン133ガス」を使用していた。しかし同ガスは保険で認められていないため、請求可能な日本メジフィジックスのガスを使用したように見せかけていた。不正請求額は、昭和59年からの3年半で約2億9800万円であった。
 厚生省は「キセノン133ガス」を輸入販売していたミドリ十字への調査を開始。その結果、ミドリ十字は昭和58年から無許可で「キセノン133ガス」を輸入し、72の国立病院、94の大学病院、200の公立病院など計706病院に納入し、同ガスの使用で1億円以上を不正請求した病院は14施設に達していた。
 ミドリ十字が病院に売っていたキセノンガスは、200ミリ・キュリー瓶で6万3500円。一方、薬価収載されている日本メジフィジックスの同ガスは、10ミリ・キュリー瓶で3万7617円だった。成分は同じだが、ミドリ十字の方が10倍以上安かった。つまりミドリ十字のキセノンガスを使用していながら、日本メジフィジックスのガスを使用したと請求すれば、10倍以上の薬価差益が病院へ入ることになった。民間病院の多くはこのようにして収入を得ていた。
 公的病院は、実際より低めに請求していたが、認可されていないガスを用いて不正に収入を得ていたことに変わりはなかった。キセノンガスの半減期は4日と短いため、検査をするには多くの患者を集め、また患者を多く集めれば、それだけ利益を得ることができた。
 この事件の背景には、昭和56年に脳の血流量を測定するスペクト検査が保険で認められ、脳の障害部位とその障害程度が診断できるようになったことである。スペクト検査では、検査薬としてキセノンガスを使用するが、認可された測定機器の吸引装置はミドリ十字のキセノンガスの容器としか合わない構造になっていた。そのため、スペクト検査が保険で認められているのだから、ミドリ十字のキセノンガスも承認されていると、病院側は軽く受け止めていた。日本アイソトープ協会も、承認されたガスとして価格表に記載していたほどである。
 ミドリ十字はキセノンガスの輸入承認を厚生省に求めたが、放射性物質の容量が大きいことから、安全性に難癖を付けられていた。そのため、同社は承認申請を途中で取り下げ、未承認であることを内密に販売していた。ミドリ十字はキセノンガスを医薬品ではなく、研究用として輸入して病院に卸していた。
 厚生省は、ミドリ十字のキセノンガス・スペクト装置を認可していながら、それに使うミドリ十字のキセノンガスを未承認とした。このことはガソリン自動車の販売を許可しながら、ガソリンの使用を禁止したようなものである。代替品がないので、病院は仕方なく使用していた。
 しかし厚生省は自分たちの対応の遅れを、法律を盾に病院側に責任を押し付け、さらに自分たちの怠慢を隠すように病院の処分を行った。不正請求として全国562の病院を処分とし、多額だった36病院を、保険医療機関としての指定を取り消した。
 巨額な不正請求は私立病院が主で、大川原脳神経外科病院(北海道室蘭市、3.9億円)、ツカザキ病院(兵庫県姫路市、3.1億円)、長尾病院(高知市、3億円)、崎元病院(鹿児島市、2.5億円)、中村記念病院(札幌市、2.4億円)などだった。
 公的病院では9100万円の盛岡赤十字病院が最高額で、同病院は保険医療の指定を取り消された。そのほかに指定取り消し処分を受けた公的病院は、岩手医科大付属病院、千葉県救急医療センター、袋井市民病院、国立療養所中野病院、国立療養所福岡東病院、山形大医学部付属病院、岐阜大医学部付属病院、長野県厚生連リハビリテーションセンター鹿教湯病院、東邦大医学部付属大森病院、東大阪病院、中国労災病院などである。
 東大付属病院、東京警察病院、国立がんセンター、都立広尾病院などは金額が少なかったため、取り消し処分は免れている。このように、ミドリ十字のキセノンガスは全国の主要病院を巻き込んだ空前の診療報酬不正事件に発展した。厚生省は、不正請求を行った全国57カ所の国立病院、国立療養所の院長・総長に対し、国家公務員法により訓告、文書厳重注意、口頭厳重注意の行政処分を行った。文部省も国立病院長73人を行政処分にした。
 保険診療停止となれば、患者の治療費はすべて自己負担となる。不正請求で、保険診療停止処分を受けたのは地域の中核病院で、病院はもちろんのこと、患者や地元の動揺は大きかった。しかし保険医療の指定取り消しを受けた病院は、その治療費を処分後に請求することが許されていた。つまり2カ月間の保険医療の指定取り消しを受けた病院は、例えば6月の保険診療医療費を8月に2カ月遅れで請求できたのである。
 いうなれば、厚生省の保険診療停止はスジを通した実効性のない処分で、マスコミが騒いだので厳格を装って処分したといえる。表面的には大規模な事件であったが、厚生省の怠慢を隠す目的もあって、形式的な処分を下したのだった。
 さらに問題の検査薬などを一括して医療機関に流していた日本アイソトープ協会に対しては、薬事法違反の疑いで6日間の業務停止処分を下した。輸入されたキセノンガスは、放射性物質の半減期が短いことから、同協会を経由せずに病院へ直送されていた。このため協会は伝票だけの処理で、現物をチェックしていなかった。
 厚生省の調べでは、ミドリ十字の佐倉工場が成田空港からの医療用検査薬輸入を一手に引き受け、放射性物質「キセノン133ガス」を「化学物質」と偽って不正輸入していた。さらに脳血管障害の検査薬「エルマティック3」を含む計28品目の検査薬も不正に輸入して販売し、売上は23億5500万円に達していた。そのためミドリ十字は35日間の営業停止処分となった。
 ミドリ十字は、日本最初の民間血液銀行「日本ブラッドバンク」として創設され、創立の中心となったのは、元陸軍軍医学校教官の内藤良一である。同氏は、関東軍防疫給水部(731部隊)の元幹部を呼び集め、主要都市に採血所をつくり、医療機関に輸血用の血液を販売して業績を伸ばした。この売血が「輸血後肝炎、黄色い血」として社会問題になったため、同バンクは血液製剤中心のメーカーから脱皮を図り、昭和39年8月、社名を「ミドリ十字」に変更した。
 ミドリ十字は血友病向けの凝固因子製剤では、国内シェアの半分近くを占めたが、臨床試験に違反する人工血液の人体実験、採血ミスによる死亡事故隠しなどが発覚していた。このようなミドリ十字の体質が、後に薬害エイズ事件を起こすことになる。

腎移植殺人事件 平成元年(1989年)
 平成元年6月20日、静岡県警浜松中央署は詐欺容疑で逮捕していた浜松医科大泌尿器科助手の広瀬淳(33)を殺人の疑いで再逮捕した。広瀬の容疑は、腎不全患者に架空の腎移植を持ちかけ、現金をだまし取った上、殺害したことだった。この事件は、医師が患者を殺害する異例の犯罪として注目を集めた。
 浜松医科大出身の広瀬淳は、卒業と同時に医師国家試験に合格。家族は4人で、周囲からは病弱な妻をいたわる理想的な医師と映っていた。
 広瀬淳と殺害した患者の中川正雄さん(61)は、研修医として派遣されていた遠州総合病院で知り合った。広瀬は浜松医大に戻ってからも、毎週遠州総合病院に出張して中川さんを診察していた。
 2人が親しくなったのは、株がきっかけだった。資産家の中川さんは、株の運用に精通し、株を始めたばかりの広瀬の指南役になっていた。広瀬は次第に株にのめり込み、株の資金欲しさから、中川さんに架空の腎移植の話を持ちかけた。
 血液透析の治療を受けていた中川さんは、腎移植の作り話に乗り気になった。広瀬は「腎臓提供者の家族が多額の謝礼を要求している」とうそをつき、自分の架空口座に2500万円を振り込ませた。もちろん腎移植は架空話で、最初からだますつもりだった。広瀬は詐欺の発覚を恐れ、口封じのために殺人を計画。病院から筋弛緩剤である臭化パンクロニウムを入手して準備を進めていた。
 平成元年4月10日の午後6時すぎ、広瀬はいつものように中川さん宅を訪れ、「腎臓移植の手術に必要な検査」と偽って精神安定剤(ジアゼパム)を注射。中川さんが寝たところで、臭化パンクロニウム2mLを左腕に注射した。
 臭化パンクロニウムは麻酔時に用いる薬剤で、患者の自発呼吸を止める作用がある。中川さんは注射を受け、呼吸筋の麻痺を来して死亡した。広瀬は中川さんの死を確かめると、中川さん宅を出た。
 翌日、訪ねてきた息子がソファの上で眠るように死んでいる中川さんを発見。室内は片付いており、何の異常もなかった。駆け付けた別の医師は、死因を腎不全に伴う心不全と診断した。中川さんは病死とされ、司法解剖を受けずに荼毘(だび)に付された。広瀬にとって完全犯罪まであと一歩のところであった。
 しかし中川さんの長男が遺産の整理を始めると、死亡前日に手持ちの株を売った代金の2500万円が見あたらなかった。長男はこの大金と父親の死に何らかの関連性を感じ、警察に届けたのである。そして父親が最近、腎臓移植を受けるかもしれないと言っていたことを思い出した。
 中川正雄さん(61)の不審な死について、静岡県警浜松中央署は1つの推理を立てた。それは腎移植の提供の話に乗って、中川さんが2500万円の大金を犯人に払ったという推理である。しかしこれを立件するのは至難のことであった。目撃者がいないこと、さらに中川さんの遺体は火葬されていたからである。この「死体なき殺人」の犯人逮捕は困難との見方が強かった。
 捜査陣は2500万円の現金の流れを追、そこで浜松医科大泌尿器科助手の広瀬淳が浮かび上がってきた。事件直後、広瀬がいくつかの銀行に分散して架空口座を設けて現金を預け、証券会社に11銘柄株(総額1300万円余)の購入を申し込んでいた。この金銭の流れから、警察は広瀬を詐欺容疑で逮捕して追及した。
 広瀬には当日のアリバイがなく、警察は薬剤の入手経路の裏付けを行っていたが、やがて広瀬自身が殺害を自白した。もし広瀬が現金を銀行に預けずにどこかに隠していたならば、逮捕されたかどうかは微妙であった。
 警察の調べによると、広瀬は推理小説ファンで、「コンピュータ完全犯罪」などの小説をヒントに完全犯罪を狙ったと自供した。「コンピュータ完全犯罪」は、医師が銀行の現金自動支払機システムを利用して3000万円をだましとる筋書きで、キャッシュカードで銀行の19支店から現金を引き出す手口であった。これを参考に、広瀬は仮名の銀行口座をつくり中川さんに現金を振り込ませ、キャッシュカードで引き出していた。カードは、浜松市内の空き家を住所にして入手していた。犯罪の参考にしたもう1つの小説は、完全犯罪を狙った詐欺が題材だった。犯人の詐欺師が、肝炎ウイルスを注射する内容で、広瀬が注射で殺害した手口と酷似していた。
 中井準之助・浜松医科大学長は「医師としてあるまじきこと。患者の命を預かる者が命を奪うとは、言語道断で許すべからざる行為」とのコメントを出した。
 裁判では物的証拠がないことから、立証困難が予想された。弁護側は、「殺人の証拠が存在しない」として無罪を主張。しかし平成2年3月27日、静岡地裁浜松支部の山口博裁判長は「自供内容は体験した者でなければ知り得ない臨場感がある」として自白の信用性を認定し、腎移植を願う患者の弱みにつけ込んだ卑劣な犯行として、広瀬に懲役17年の実刑(求刑・懲役20年)を言い渡した。
 広瀬が控訴せずに刑が確定、厚生省の「医道審議会」は、広瀬の医師免許を取り消した。この事件は、医師による医療行為を利用した日本初の殺人事件であった。
 大学の医師は安月給のため、毎日アルバイトに追われていた。先生と呼ばれてもバイトをしなければ生活は苦しかった。犯行の動機は「病気を患っている妻のそばに、少しでも長くいてやりたかった」とされている。しかしどのような事情であれ、当時の医師はみな同じ生活に置かれていた。事件当時は、バブルで日本中が浮かれ、日本中が拝金主義に毒されていた。その毒に染まった犯罪であるが、唯一の救いは、広瀬が自分の犯行を素直に認め、悪あがきをせず、控訴しなかったことである。

生体肝移植 平成元年(1989年)
 平成元年10月26日、島根県出雲市にある島根医科大(現・島根大医学部)第2外科に、国立岩国病院(現・国立病院機構岩国医療センター)から杉本裕弥ちゃん(満1歳)が搬送されてきた。裕弥ちゃんは、先天性胆道閉鎖症という重病を患っており、肝移植以外に助かる方法がなかった。
 先天性胆道閉鎖症とは、肝臓から十二指腸に排泄される胆汁の通り道である胆管が、生後間もなく閉塞し、そのため胆汁が肝臓内に停留して肝硬変を起こす疾患である。
 先天性胆道閉鎖症は、1万の出生に1人の頻度で、日本では年間約100人の患者が生まれている。この疾患は手術によって胆汁を小腸に排泄させなければ、肝硬変から死に至る。裕弥ちゃんは、胆管を小腸につなぐバイパス術を国立岩国病院で2回受けたが、うまくいかず、肝硬変になり腹水がたまっていた。
 その当時、脳死による臓器移植は、まだ認められていなかった。そのため裕弥ちゃんの生命を救うには、健康な人の肝臓の一部を切り取って移植する、生体肝移植しかなかった。欧米では、脳死患者からの肝移植は数千例を超えているが、世界で脳死肝移植を初めて行ったのは、米国ピッツバーグ大のスターツル教授で昭和38年のことであった。それに対し、生体肝移植は脳死肝移植よりも歴史は浅く、昭和63年にブラジルのサンパウロ大において、4歳8カ月の胆道閉鎖症の小児への移植が世界初例であった。当時、生体肝移植は世界で3例だけで、もちろん、日本では誰も経験したことのない手術だった。
 島根医科大助教授・永末直文を中心とした医療チームは難しい選択を迫られていた。たとえ手術に成功しても、失敗しても、健康人の身体にメスを入れて肝臓の一部を取ることに、倫理上の非難が予想されたからである。
 しかし裕弥ちゃんには移植以外に助かる道はなかった。裕弥ちゃんは、島根医科大に入院後、心不全を起こし何度か危篤状態に陥り、やっと回復したばかりである。そのような状況の中で、父親の昭弘さんが自分の肝臓を提供したいと申しでた。あとは永末医師の決断だけであった。
 平成元年11月13日午前9時40分、世界で第4例目、日本で初めての生体肝移植が、永末医師の執刀で始まった。裕弥ちゃんは以前受けた手術のため、肝臓と周辺の臓器との癒着が強く、その癒着を丁寧に剥離し、肝硬変に陥った肝臓を摘出した。そして父親の肝臓の一部を裕弥ちゃんに移植した。小さな命を救うための手術は深夜に及び、15時間45分の難手術だった。
 手術当日、NHKが正午のニュースで日本初の生体肝移植が現在手術中であることを報じ、これをきっかけにマスコミの過熱した報道が始まった。島根医科大は毎日記者会見を行い、裕弥ちゃんの病状を公表した。この記者会見は、それまでの医学界特有の密室性と閉鎖性を打破するための情報公開であった。
 永末医師はテレビで病状を報告し、裕弥ちゃんの家族も手術を受けた気持ちを述べた。マスコミは「父親が子供に肝臓を提供する美談」として、さらに「医師が、手術に応じた美談」として報道した。
 平成元年11月13日、杉本裕弥ちゃんの手術は成功したが、裕弥ちゃんには次々に難関が待ち構えていた。胆管の再閉塞、心不全、腹腔内膿瘍、消化管出血、サイトメガロ肺炎、移植の拒否反など、いくつもの合併症が発生し、術後の裕弥ちゃんは一進一退を繰り返した。
 そして平成2年8月24日、手術から285日目に多臓器不全を起こし、残念なことに幼い生命のともしびが消えた。直接の死因は、輸血された血液に含まれるリンパ球が、裕弥ちゃんの組織を破壊するGVHD(移植片対宿主疾患)によるものであった。
 裕弥ちゃんの手術をきっかけに、生体肝移植が広く行われるようになった。移植技術の進歩と経験の蓄積により、小児だけでなく成人への生体肝移植も可能になった。
 平成2年6月、杉本裕弥ちゃんが生死をさまよっているころ、京都大医学部第2外科で国内第2例目の生体肝移植が行われた。その後、信州大、東京女子医大、広島大など全国の施設で、生体肝移植が行われた。平成15年までの手術件数は3800件を超え、生体肝移植患者の1年生存率は8割以上の成績となった。
 肝臓はほかの臓器と異なり再生能力が強い。そのため肝臓の半分を切り取っても、自然に再生して元の大きさに戻る。さらに親が肝臓を提供した場合、血液型が同じならば拒絶反応が少なかった。移植以外にわが子を救う方法がないため、親心から自分の肝臓を子供に提供するケースが多かった。健康人の身体にメスを入れることに倫理的な批判はあったが、親からの申し出があれば問題はなかった。
 生体肝移植手術とは、文字通り生きている健康人の肝臓の一部を移植することで、脳死肝移植とは異なり「脳死、心臓死」の問題は生じない。当時は脳死移植法案がまだ成立していなかったため、脳死からの臓器移植は困難で、そのため生体肝移植が普及した。ただし、脳死移植が認められている現在でも脳死肝移植は少なく、そのため生体肝移植が肝移植の大部分を占め、「脳死なき移植」と呼ばれている。
 当初は、小児の先天性胆道閉塞症や肝硬変などが移植の対象疾患となっていた。その後、平成10年から、15歳以下の肝疾患、16歳以上では胆汁うっ滞性ならびに代謝性疾患が保険適用となった。保険適応になったことから、手術の自己負担額も20万円前後と安くなり、1カ月当たり6万3000円を超えた医療費は、高額医療費として約3カ月後に払い戻される。
 海外では成人の肝硬変、劇症肝炎にも生体肝移植が行われ良い成績を残している。このように生体肝移植は有望な治療法であるが、誰でも移植を受けられるわけではない。肝臓提供者のほとんどは、家族からの提供なので、家族の提供が前提となる。
 成人の肝移植は健康保険の対象外で、健康保険が使えないことから、自己負担は1000万円以上になることが多かった。しかし平成16年1月から、成人の生体肝移植も肝臓がんの一部で保険適応となった。肝臓がんで生体肝移植の保険適応となるは、がんの転移がなく、門脈や肝静脈へ浸潤がなく、大きさが5cm以下で1個、あるいは3cm以下で3個以内の場合である。生体肝移植の成人例は年々増え、現在では小児例を大きく上回っている。
 成人例が増えたのは、輸血などでC型肝炎ウイルスからの慢性肝炎患者が多いためで、肝硬変から肝臓がんへ移行した場合には、移植以外に根本療法はない。当初は、肝炎ウイルスによる肝硬変や肝がんは、肝臓を移植してもすぐにウイルス性肝炎を起こすとされていたが、たとえウイルスに感染しても、肝硬変になるまでには20年程度の期間があるため、現在では肝移植をためらう理由にはならない。
 生体肝移植を応用した特別な例として、生体ドミノ移植がある。ドミノ移植とは、いわば玉突き移植で、肝臓が分泌するたんぱく質の沈着で起きる難病「家族性アミロイド・ポリニューロパチー(FAP)」の患者に応用された。まず、FAPの患者に健康人の肝臓を移植し、その後、FAP患者から取り出した病気の肝臓を、第3の患者に移植するのである。FAPの肝臓を第3の患者に移植しても、たんぱく質がほかの臓器や神経に沈着してFAPを発病するには30年以上の時間がかかる。そのため第3の患者にとっては当座をしのぐことができるのである。平成11年、肝臓ドミノ移植が京都大病院で初めて行われ、次第に症例が増えている。
 平成14年3月26日、自民党の河野洋平元外相(65)が、生体肝移植の手術を受けると表明した。河野元外相は、村山、小渕、森政権で外相を務め、その激務から解放されたことを区切りに手術を受けることにした。河野元外相はC型肝炎による肝硬変で、全身倦怠感を強く訴えていた。このまま放置すれば肝臓がんに進行する可能性があったため、移植を受けることになった。肝臓を提供したのは、長男である総務大臣政務官の河野太郎衆議院議員(39)であった。4月上旬に信州大医学部付属病院に入院して移植手術を受けた。
 生体肝移植手術の欠点は、肝臓提供者(ドナー)が健康人であり、その健康人にメスを入れる際に危険性を伴うことで、平成15年、京都大病院で肝臓を娘に提供した女性が死亡する国内初の事例が発生している。
 肝臓提供の美談の裏には、隠れた危険性があることを知る必要で、生体肝移植には臓器提供者の自発的な意思が絶対条件になる。親から子供へ、子供から親への生体肝移植は美談とされがちである。しかし、「肉親だから提供するのが当たり前」とする考えが、家族に精神的プレッシャーを与えることになる。すべての家族が、臓器提供するほどの家族愛で結ばれているわけでなく、むしろ臓器提供を申し出る家族は非常に少ない。

S幼稚園O157事件 平成2年(1990年)
 平成2年10月8日頃から、埼玉県浦和市にある私立「S幼稚園」の園児らが、血液の混じった下痢や腹痛、発熱などの症状を起こしはじめた。10日には運動会が行われたが、欠席する園児が多くいた。18日には園児184人のうち 28人が欠席し、翌19日幼稚園は休園となった。
 園児55人が病院で治療を受け、20人が浦和市立病院や岩槻市の埼玉県立小児医療センターなど5カ所の病院に入院となった。入院した園児20人のうち8人が尿毒症となり、2人が死亡する事態になった。死亡したのは、浦和市大門の上甲哲也さん(40)の長男裕也ちゃん(6)と、岩槻市笹久保新田の会田栄さん(31)の長男豊ちゃん(4)であった。2人とも埼玉県立小児医療センターで亡くなったが、死因は尿毒症を併発した急性脳症であった。
 重症園児は病原性大腸菌による「溶血性尿毒症症候群、血管内凝固症候群」を併発していた。溶血性尿毒症症候群とは、腎不全、血小板減少症、溶血性貧血を特徴とする症候群である。治療には毒素を取り除くための血漿交換療法、腎不全に対する人工透析、血小板の減少には血小板輸血などがあるが救命率は低かった。
 S幼稚園には給食施設がないため、給食は外注業者が運んでいた。そのため、まず納入業者が調べられたが、因果関係はすぐに否定された。幼稚園では井戸水を飲料水として使用していたので井戸水からの感染が疑われた。
 埼玉県衛生部が井戸水を検査すると、井戸水から病原性大腸菌O157が検出され、園児の便からも同菌が検出され、厚生省は20日、今回の食中毒は「井戸水からのO157の感染が原因」と発表した。
 O157は、昭和57年に米国のミシガン州で集団発生して以来、欧米では注目されていたが、日本での集団発生の例はなく、死亡例も今回が初めてであった。O157は、感染すると赤痢と同じ血便を伴った激しい下痢を起こし、腹痛、吐き気、発熱などをきたす。園児の症状からもO157に間違いなかった。感染者数は在籍園児の81.9%、感染しても症状を示さない無症状の園児が30.4%いた。
 埼玉県衛生部が井戸周囲を調べると、井戸の近くにトイレの汚水タンクがあり、汚水タンクの継ぎ目に亀裂があった。汚水タンクからO157などの病原性大腸菌が地中に漏れ、5メートル離れた井戸水に混入したのであった。
 S幼稚園は埼玉県の許可を受けずに井戸水を使用していた。3年前の昭和62年に行われた保健所の検査で、井戸水から水道法の基準値である「100個」を超える細菌が検出され、また蛇口からも大腸菌が検出され、保健所は水道水に切り替えるか、煮沸して使用するように口頭で指導していた。しかしこの指導が無視されていた。
 19日の時点で園長は「水質検査は問題なかった」と述べたが、20日になって「検査結果は承知していたが、長年使っているので大丈夫だと思った。衛生に関する考えが甘かった」と前言をひるがえした。
 埼玉県の自家用水道条例では、50人以上で井戸を使用する場合は、知事の確認を受け年2回以上の水質検査を受けることになっていた。また、学校保健法では年1回の検査が義務づけられていた。しかし、S幼稚園は井戸水の使用の届け出をださず、規定の検査も受けていなかった。
 大腸菌は便中に含まれていることから、また海水浴場の水質検査項目に登場することから、汚いイメージがある。しかし大腸菌はヒトの腸管の常在菌で、消化を助けるなどの役割を担っている。この人体に害を及ぼさないはずの大腸菌が、赤痢菌と混じり合うと、赤痢菌と同じベロ毒素を産生することになる。バクテリオファージ(細菌に感染するウイルス)によって、赤痢菌の遺伝子が大腸菌の遺伝子に組み込まれてしまうからで、これが病原性大腸菌O157である。大腸菌は、菌体表面の糖脂質によって血清型に分離されるが、O157はO血清型の157番目に発見された大腸菌という意味である。この大腸菌の一種であるO157は、ベロ毒素を産生するため、赤痢と同じ出血性大腸炎を起こすのである。
 病原性の大腸菌は、50種類以上見つかっているが、O157が最も毒性が強い。O157の毒性は、フグ毒テトロドトキシンとほぼ同じとされ、抵抗力の弱い子供や老人では、感染によって死に至ることがある。O157が恐ろしいのは毒性だけでなく、数個の菌で感染するため予防が難しいこと、潜伏期間が4〜9日と長いので2次感染を起こしやすいことである。
 細菌感染症の治療は抗生剤であるが、O157の治療については確立していない。抗生剤を用いると、O157が壊れるときに毒素を放出するからである。下痢止めは毒素を体内にとどめることから使用できず、点滴による対症療法でしのぐしかなかった。
 この事件から6年後の平成8年、堺市をはじめとした全国各地でO157集団食中毒事件が発生して大問題となった。その平成8年の7月、S幼稚園O157事件の判決が浦和地裁で下され、事件当時の園長(69)は、業務上過失致死罪に問われ禁固2年、執行猶予4年の有罪判決を受けた。浦和地裁の裁判長は「井戸水の滅菌措置をとらなかった過失責任」を指摘、大腸菌の混入が予知できたとし、さらに「園長は園児の健全な成長という重要な使命を担っているのに、園長にあるまじき行為だった」と述べた。しかし判決は執行猶予がつく軽いもので、刑事事件とは別に遺族から約2億円の損害賠償の訴えがあり、浦和地裁は元園長ら6人に9830万円を支払うように命じた。
 さらに遺族は、「この苦しみをほかの親に味わわせないためにも、埼玉県の責任を問いたい」と埼玉県の行政指導不作為についても訴えを起こした。埼玉県は、「理事長が個人名で井戸水の使用を保健所に申請したため、幼稚園の井戸水との認識はなかった。県には行政指導すべき義務はなかった」と主張した。
 埼玉県と保健所は行政として同じ立場にありながら、昭和62年の保健所の検査結果を、埼玉県は把握していなかった。この事件は、縦割り行政の不備が一端を担っているが、浦和地裁は埼玉県に過失はないとして、原告の訴えを退けた。

栄養剤L−トリプトファン事件 平成2年(1990年)
 L−トリプトファンは必須アミノ酸のひとつで、大量に摂取しない限り、人体に害をもたらすことはない。むしろ体内での合成ができないことから、食事から摂取すべき不可欠のアミノ酸である。
 L−トリプトファンは、マグロ、カツオ、豚の赤身に多く含まれ、L−トリプトファンを薬剤として服用しても、人体に影響を及ぼすことはない。米国では健康食品ブームに乗って、L−トリプトファン製剤が15年以上にわたり栄養剤と同じように薬局で売られていた。
 野菜や果物だけを食べるベジタリアン、ダイエットを始めた女性、肉の摂取が少ない老人はL−トリプトファン不足になるとされ、サプリメントとして普及していた。L−トリプトファンは医師の処方せんを必要とせず、栄養補給食や乳児用流動食として、さらには不眠症、うつ病、多動性障害、自閉症など多くの病気に効果があるとされていた。
 平成元年の夏頃から、米国のオレゴン州・ミネソタ州を中心に原因不明の筋肉痛症候群の患者が出現した。筋肉痛症候群とは、白血球の1つである好酸球が増加し、筋肉の激しい痛み、四肢のむくみ、皮疹、倦怠感、呼吸困難などをきたす疾患である。この筋肉痛症候群で、少なくても38人が死亡、5000人が発症している。
 米国FDA(食品医薬品局)は、患者の聞き取り調査から、筋肉痛症候群の原因として健康食品L−トリプトファンに疑いを持った。全米の薬局や病院に注意を呼び掛け、製薬会社にはL−トリプトファンの回収を求めた。FDAは、L−トリプトファンの原料を製造している日本の製造会社にも立ち入り調査を行い、製造会社は薬品を回収しながら、原因解明に取りかかった。
 米国CDC(疾病対策センター)の研究者は、筋肉痛症候群を起こしたグループと無症状のグループについて、L−トリプトファンの銘柄や製造時期などを調べ、その結果、筋肉痛症候群の46例中、45例が昭和電工のL−トリプトファンを服用していて、さらに27種類のうち23種類(85%)の製造時期が前年の1月から5月に集中していた。
 この疫学調査から、FDAは「L−トリプトファン自体に問題があるのではなく、日本のメーカーが製造したL−トリプトファンの一部に不純物が混入したか、あるいは材料の変質が原因」と結論づけた。
 当時、昭和電工のL−トリプトファンは米国市場の6〜7割を占め、昭和電工は「統計的にわが社の製品にたどりつくのは仕方ないことで、わが社としても一刻も早い原因究明を期待している」と述べた。
 昭和電工は、細菌の発酵作用を利用してL−トリプトファンを製造していたが、昭和63年12月から平成元年6月にかけて、製造方法を変更していた。つまり遺伝子組み換えによって、細菌からL−トリプトファンを製造する方法に変えていたのである。そしてその工程で、細菌由来の不純物が混入して、筋肉痛症候群を起こしたのだった。
 昭和電工によって製造されたL−トリプトファンから60近くの不純物が検出され、そのうち他社製のL−トリプトファンに含まれていない2つの不純物タンパクが、筋肉痛症候群の原因とされた。それは人類がこれまで内服したことのない物質だった。
 米国FDA(食品医薬品局)は、商標としてL−トリプトファンの製品名を付けるには、L−トリプトファンの含有率のみを規定していた。昭和電工のL−トリプトファンは99.65%の含有率で、FDAのL−トリプトファン品質基準である98.50%をクリアしていた。つまり品質基準は満たしていたが、ごく微量の不純物が筋肉痛症候群を起こしたのである。このことは予想外のことで、栄養補給食を管理するFDAの責任が問われることになった。
 遺伝子工学によるL−トリプトファンの製造過程で微量の不純物が生じたことが筋肉痛症候群の原因であったが、FDAがその発表を故意に遅らしていた。つまりFDAは生命工学産業への影響を避けるために、情報公開を遅らせていた。このことから、健康を守るFDAの役割に厳しい目が注がれることになった。
 不純物が混入して38人が死亡したL−トリプトファン事件は、新しい科学技術である生命工学や遺伝子工学が、いかに危険であるかを示した。米国内では100件を超す損害賠償訴訟が起き、昭和電工はPL法(製造物責任法)の先進国である米国で、勝訴は困難と判断して、和解交渉を進めた。結局、昭和電工は和解金として2052億円を払い、患者のほとんどは同社と和解した。
 昭和電工は新潟水俣病を起こした会社で、新潟水俣病が一段落ついた後のL−トリプトファン事件であった。この事件の和解金は、新潟水俣病で支払った金額の約10倍に達し、その代償はあまりにも大きく、昭和電工は一時経営不振に陥った。
 厚生省は、L−トリプトファンを含む健康食品や医薬品を作っている国内5社に対し、関連商品を自主的に回収するように指示。さらに原因究明のための専門委員会を設置した。健康食品の安全性が問われたのは、ゲルマニウム含有食品以来のことであった。しかし日本ではL−トリプトファンは一般に発売されていなかったので患者はほとんどいない。
 遺伝子組み換えは、世の中の流れである。遺伝子組み換えによって、トマト、メロン、米などの新しい作物がすでに日本の食卓に顔を出している。これらの作物は、新たなタンパクを含まないとされているが、何が起きるか分からないのが遺伝子工学である。今回の被害者は遺伝工学の被害者ともいえた。

浜松医大・女子医大生殺人事件 平成2年(1990年)
 平成2年5月3日、浜松医大を卒業したばかりの松本秀子さん(24)が、静岡県浜松市半田町のマンション自室で殺害されているのが発見された。娘からの連絡がないことを心配した父親のナオ仙(なおひさ)さん(51)が、マンションを訪れ、殺害されている秀子さんを発見、110番通報したのである。
 静岡県浜北署は殺人事件と断定、捜査本部を設けて本格的な捜査を始めた。司法解剖の結果、死後2、3日が経過していて、死因は首に絞められた跡があり窒息死とされた。
 秀子さんは、この春に浜松医大医学部を卒業。4月に医師国家試験を受験し、5月16日の合格発表を心待ちにしていた。医師国家試験合格後は、浜松医大付属病院の小児科で研修する予定であった。秀子さんは、小児の白血病に興味を持っていた。
 さらに前年の秋には同大出身の5つ年上の医師と婚約しており、結婚を予定していた。4月半ばまで婚約者と暮らしていたが、婚約者が転勤となったため、4月25日に浜松医大病院に近いマンションへ引っ越した。引っ越しからわずか1週間後の悲劇であった。
 遺体は8畳間に全裸でうつぶせに倒れており、首にはひものようなもので絞められた跡があった。犯人が眠っていた秀子さんを襲い、ベッドから引きずりおろしての犯行とされた。
 捜査本部は、秀子さんの部屋の鍵が開いていて、部屋を物色した形跡がないことから、犯人は何らかの面識のある者とみていた。また近所の人も争う物音を聞いていなかった。秀子さんは、「浜松医大祭」のミスコンテストで女王に選ばれるほどの美人であった。秀子さんは用心深く、鍵を掛け忘れることは考えられなかった。
 5月11日、浜北署は秀子さんに部屋を斡旋した不動産会社の日栄建設工業営業第1課長・油井伸太郎(48)を殺人容疑で逮捕した。油井伸太郎は部屋を管理する立場にあったことから、秀子さんが殺されたマンションの予備の鍵を使うことができた。会社で保管している合鍵を用いて秀子さんの部屋に侵入。秀子さんに気付かれたため、首をひもで絞め窒息させたのである。
 油井伸太郎が捜査線上に浮かんだのは、油井が所有する黒のフェアレディーZだった。犯行があったとされる時間に、マンション前の駐車場にフェアレディーZが止めてあるのを近所の住人が目撃していた。この目撃情報をもとに、警察は数日前から油井の犯行とみて捜査していた。
 また秀子さんの部屋には眼鏡のレンズの破片が落ちていた。そのため捜査員は浜松市とその周辺の眼鏡店を調べ、犯行があった4月29日夜以降、眼鏡を買った者、修理に来た者を調べ、その結果、部屋に落ちていた眼鏡のレンズの破片と同じ度数の眼鏡を買った客を突き止めた。この証拠を突き付けられ、油井伸太郎は「暴行目的で侵入したが、騒がれたので殺害した」と自供した。
 松本秀子さんの部屋の鍵は、1つは秀子さんが紛失、もう1つは秀子さんの定期入れから見つかり、残りのもう1つは部屋を斡旋した不動産会社が管理していた。つまり秀子さんの部屋を外から開けるには、不動産に置いてある鍵を使うしかなかった。通常、賃貸アパートやマンションの鍵は3つで、2つを居住者が持ち、1つを大家か不動産業者が保管していた。管理者が鍵を持つのは、入居者が不在時の火災などに対応するためである。
 日栄建設工業は鍵を専用ケースに施錠して保管し、担当者か上司以外の者は使用できなかった。秀子さんが入居したときの担当員は、逮捕された油井伸太郎の部下で、油井は鍵を持ち出せる立場にあった。油井は2年前から、会社にあった契約書を見ては、女性のアパートの鍵を会社から持ち出し20数個の合鍵を作っていた。
 油井伸太郎は、秀子さんと同じ浜松市内の進学高校の卒業生で、成城大学を卒業すると、大手の自動車販売会社に就職。その後、自動車販売業、コンピュータ販売など職を転々とし、昭和61年8月に日栄建設工業に入社し、入社2年後に営業第1課の課長に昇進していた。
 油井伸太郎は社内では有能な営業マンで通っていた。2000万円の分譲マンションに住み、いつもキッチリしたスーツに身を包んでいた。しかし油井伸太郎には暗い過去があった。昭和57年4月、自分が経営していた自動車販売店が倒産。その借金の穴埋めのため、仲間2人と偽装交通事故を起こし、約1200万円の保険金詐欺で、懲役3年の有罪判決を受けていた。
 平成3年4月23日、静岡地裁浜松支部で油井伸太郎の公判が開かれた。検察側は「犯行の計画性と確定的殺意」を、弁護側は「偶発性と未必の殺意」を主張した。三関幸男裁判長は「首を絞めれば死に至ることは分かったはず」として検察側の主張を認め、犯行は自己中心的で残忍として、懲役18年(求刑懲役20年)の実刑判決を言い渡した。
 秀子さんの遺族は日栄建設工業を相手取って、総額約2億1000万円の損害賠償請求訴訟を起こした。遺族は「合鍵を自由に作ることができた会社にも責任がある」と主張、会社の管理がずさんだったこと、素行不良者を課長に登用した人事管理に問題があったと指摘、「会社が犯行を誘発した」とした。会社側は「勤務態度に問題はなく、犯行は予見不可能だった。初めから乱暴が目的の犯行で、会社の業務とは関係ない」と反論した。
 この裁判では、会社側の人事管理と監督責任の有無が争われたが、平成6年2月7日、静岡地裁は会社に1億7000万円を支払うように命じた。裁判長は「鍵管理という職務を利用した犯行」とし、従業員の行為について使用者責任を明確にした。判決では「犯行は職務上知り得た情報に基づき、職務上取り得た手段を行使していることから使用者に責任がある」として、民法第715条の使用者責任を適応した。
 部屋の管理について、不動産会社は安全を守ることも業務であるから、「鍵を開けて入る行為は不動産管理行為」と判断したのであるが、使用者責任が殺人犯に適用されたのは、まれなことであった。
 秀子さんが亡くなってほぼ半月後の平成2年5月16日、医師国家試験合格の通知が届いた。小児科医を夢見ていた秀子さんの霊前に、両親が「遅すぎた吉報」を涙ながらに報告した。

コンスタンチン君救命リレー 平成2年(1990年)
 平成2年8月20日、ソ連のサハリン州で3歳の坊やが、自宅で洗濯のために沸かしていたバケツの熱湯をかぶり、全身の80%に及ぶ大やけどを負った。この生死にかかわる災難に遭ったのは、州都ユジノサハリンスク市に住むコンスタンチン君である。
 市内の病院に入院したが、医師たちは治療をあきらめていた。母親のタリーナさん(26)は看護婦で、地元の医療の限界を知っていた。そのため、彼女は医療先進国の日本で治療ができないかと考えた。
 ちょうど、札幌から出張でサハリンを訪れていた電子ポスト社の山中新社長(50)が、偶然、この話を聞いた。そして山中氏は、北海道庁国際交流課に何とかならないかと電話を入れた。電話を受けた国際交流課の係長は、まず外務省に連絡。外務省の返事を待ちながら、サハリン州のフョードロフ知事に「北海道の横路孝弘知事あてに正式な救援要請をするように」と連絡を入れた。フョードロフ知事はモスクワの許可を取らず、すぐに返事を出した。「熱湯を浴びて大やけどをし、あと70時間しか生きられない3歳の男児を治療してほしい」と横路知事あてにテレックスを打ったのである。
 27日午後2時すぎ、北海道庁は外務省や海上保安庁と協議し、パスポートなしの入国許可を決定し、要請から8時間半後に、サハリン州のフョードロフ知事に救援承諾の意思を伝えた。翌28日午前3時40分、深夜の千歳空港から札幌医大の金子正光教授ら医師4人、パイロット2人、整備士や通訳など計13人が海上保安庁のYS−11機に乗り込んだ。電話を受けてから17時間が経過していた。YS−11は、宗谷海峡で夜明けを迎え、午前6時42分に濃霧のユジノサハリンスク空港に着陸した。
 コンスタンチン君と父親のイーゴリさん(26)を乗せると、YS−11は直ちに北海道へ引き返した。機内ではすぐに治療が開始された。包帯を取ると、コンスタンチン君の皮膚の熱傷は感染症を合併していた。札幌の丘珠空港に着くと、そこからは防災救急ヘリコプターで札幌医大病院に搬送、すぐに集中治療室に収容した。事故から8日が経過していて」、救命できるかどうか予断を許さない状態だった。
 コンスタンチン君の皮膚は緑膿菌に感染して、敗血症による多臓器不全を起こしていた。熱傷と死亡率は、熱傷面積に比例する。熱傷80%ならば死亡率は8割、90%では死亡率は9割とされている。
 コンスタンチン君は80%の熱傷で、つまり死亡率8割であった。コンスタンチン君を救うために、医師たちの懸命の治療が続いたが、治療には遺体からの皮膚移植が必要だった。札幌中の病院に皮膚の提供を頼んだが、提供者の遺族の了解が取れなかった。父親のイーゴリさんは、自分の皮膚を使ってくれと懇願したが、生きている人間から皮膚は取れなかった。
 翌日の夕方、東京の救急病院から皮膚提供者の遺族からの了解を得たと連絡が入った。30日、皮膚が届くとすぐに手術となった。金子教授の執刀により、コンスタンチン君の感染した患部が取り除かれ、提供された皮膚が移植された。
 移植は全身の35%に行われ、3時間50分に及ぶ手術は成功した。その後も3度の手術を行い、やけど部分の80%を移植し、生命の危機は遠のいた。日本のマスコミは、連日のように報道を繰り返し、激励の手紙や電話、花束、千羽鶴、見舞金などの支援が広がった。
 コンスタンチン君は回復し、父親のイーゴリさんは「本当に心から感謝している。言葉ではとても言い表せない」と声を詰まらせた。遅れて来日した母親のタリーナさんも「息子の命を救っていただき、心からお礼を言いたい」と頭を下げた。
 一方、入院中に片言の日本語を覚えたコンスタンチン君は、ちゃめっ気たっぷりで、愛きょうを振りまき、日本中の人気者になった。そして「コンスタンチン君を救おう」との全国的な募金活動が行われ9000万円が集まった。
 募金の中から、医療費・両親の滞在費、帰国費などを差し引いた8000万円で日ソ医療交流基金が設立された。この基金によってサハリンと北海道とで、毎年医療技術の交換会が開催された。
 大やけどを負ったコンスタンチン君が、北海道で治療を受けた当時は、世界は冷戦のまっただ中で、日本とソ連とは対立関係にあった。日本の飛行機が、北方領土近くを飛ぶだけで、ソ連のミグ戦闘機がスクランブルをかける時代だった。昭和58年には国境を越えた大韓航空機が撃墜される事件が起きている。
 このような時代、国境を越えた救出劇に、人々は東西緊張緩和の夢を膨らませた。ソ連のテレビは、その日のうちに緊急ニュースで日本の救命リレーを放映し、ソ連の新聞各社も大々的に報道を繰り返した。そして日本の救命リレーに感謝の記事を書き、日本の善意とヒューマニズムが政治を超えたと称賛した。
 ちょうど来日したシェワルナゼ・ソ連外相は、9月5日の中山太郎外相主催の晩さん会で「貴国における思いやりの行動が、私たち国民の心を深く動かした」と述べ、日本側の献身的な奮闘への感謝の気持ちを表した。さらに「コンスタンチン君の災難と日本側の真剣な取り組みは、よりよい将来の象徴として大きな意味を持つ」と述べた。
 このような迅速な救命リレーが行われた背景には、北海道庁とサハリン州政府との間で、自治体による地道な外交努力があった。ペレストロイカによって、サハリン州の権限が拡大され、人道的な連係がうまくいった。
 4回の皮膚移植手術を受けたコンスタンチン君は順調に回復し、11月23日に退院となった。津島雄二厚相は、札幌医大のコンスタンチン君を見舞い、ソ連保健相あての「日ソ間の医療協力を呼びかける書簡」を両親に託した。
 コンスタンチン君は、両親とともに千歳空港から仙台空港を経て、新潟空港から88日ぶりにサハリンの自宅に帰った。ソ連のマスコミは、コンスタンチン君を「日ソ友好の架け橋となるため、空から舞い降りた天使」と表現した。
 その後、ソ連(ロシア)からはやけどを負ったセルゲイ・アレクセービッチ君(12)、エフゲニー・ポペンコ君(11)が札幌医大病院に、アレクセイ・ブロジャンスキーちゃん(4)が新潟市民病院に、多合肢症のエフゲーニちゃん(1)が金沢大付属病院に入院し、国境を越えた医療は日ソ両国親善のきっかけになった。
 しかし数千万円近い治療費の支払いが問題になり、善意に頼っていた医療はその後ほとんど行われていない。国境を越えた人道的援助の声援は、熱しやすく冷めやすかった。
 熱傷患者の治療には、善意で提供される皮膚が必要で、患部を覆う皮膚移植が決め手になる。コンスタンチン君の救出劇をきっかけに、「スキンバンク(皮膚銀行)」という新しい流れがつくられることになる。
 スキンバンクとは、心臓停止後に遺体の皮膚を凍結保存し、いつでも皮膚を提供できる仕組みである。凍結保存された皮膚を、必要時に解凍して皮膚を網の目状に広げて使うので、1人の遺体から採取した皮膚で4、5人の患者の治療ができた。それまではブタの皮膚が使われていたが、人間の皮膚の方が当然優れていた。このスキンバンクは重症熱傷の救命率を高めたが、皮膚の提供者が少ないため、その存在は次第に忘れられている。
 皮膚の提供は脳死問題とは関係なく、皮膚は提供者が死亡した日に採皮すればよい。採皮部分は、葬儀などの際に目立たない場所を選んでいる。スキンバンクは善意で行われる移植医療で、さらなる普及が期待される。

氷河から現れた5300年前の男 平成3年(1991年)
 平成3年9月21日、オーストリアの地方紙は「チロリアン・アルプスのハァナイル峰を下山中のジーモン夫妻が、氷河で覆われた小渓谷(海抜約3200m)の解けかけた氷河から、頭と肩を突き出した遺体を発見。身元はわからないが、10年以上前に遭難した登山家の遺体と思われる」と報道した。
 毎年のように、氷河から数体の遺体が発見され、遺体発見は特に珍しいことではなかった。遺体の周囲にスキー用のゴムバンドが落ちていたことから、10年以上前に遭難した登山家らしいと報道された。
 遺体の頭部に毛髪はなく、コイン大の傷跡があった。この頭部の傷が、犯罪による傷ならば司法解剖になるが、山岳遭難による行き倒れならば、医師が死亡診断書を書き、家族が遺体を引き取るはずだった。
 しかし遺体がインスブルック大の法医学教室に運ばれ、よく調べてみると、ミイラ化した遺体は予想以上に古いものであった。遺体は法医学教室から解剖学教室に移され、さらにインスブルック大考古研究所のシュピンドラー教授に遺体の調査が一任された。
 氷河はなだらかな斜面をゆっくりと流れている。そのため、氷河の中の遺体はバラバラになるのが通常であるが、この遺体は無傷だった。これまで氷河から発見された一番古い遺体は400年前のものであった。
 遺体を損傷しないように、全身のレントゲン撮影とCTスキャンが行われた。遺体の身長は160cmぐらい、体重は完全乾燥状態で13kgだったので、本来の体重はおよそ50kgとされ、骨盤の形から男性と判明、背骨の状態から年齢は35歳前後と推定された。
 遺体の衣服、皮の靴、周囲に残された遺物の調査も行われた。すると遺体の側に置かれていた棒のようなものは、つくりかけの弓であった。弓の材質から、弓は17世紀以前のものとされた。さらに斧も発見され、その成分が銅であることから、有史以前のものとされた。
 遺体の年代はどんどん古くなってゆき、遺体はいつしかアイスマンと呼ばれるようになった。インスブルック大のシュピンドラー教授らは、炭素の放射性同位元素の測定を行い、アイスマンの年代を分析した。
 炭素の放射性同位元素を用いた年代分析は、昭和22年に米国の物理学者ウィラード・リビー博士が発見した方法である。人間を含めすべての動植物は、死後に炭素の放射性同位元素が崩壊する。そのため炭素の放射性同位元素を測定すれば、死後の時間を逆算できる。炭素の同位元素の半減期が約5730年であることを応用したものである。
 アイスマンの遺体と残された遺物が、オックスフォード大をはじめとした4研究所で分析され、その結果、アイスマンは紀元前3300年頃、つまり死後約5300年経過していた。
 さらにアイスマンのミトコンドリアDNAがミュンヘン大動物学教室のパーボ教授の研究室で分析された。ミトコンドリアDNAは他のDNAより安定していることから、人種間の遺伝子解析によく用いられた。
 アイスマンと世界各地の人々のDNAを比較すると、イタリア人、エジプト人、サウジアラビア人、トルコ人では228人中3人が同じだった。デンマーク人、アイスランド人、イギリス人、北部ドイツ人では255人中9人。アルプス地方の人では72人中1人が同じ型であった。しかしアフリカ人、シベリア人、アメリカンインディアンとは違っていた。このことから、アイスマンは北部ヨーロッパ人に近い人種と推測された。
 ミトコンドリアDNAは同じ民族であっても、多数の型が存在する。そのためアイスマンと世界各地の住民との、ミトコンドリアDNAの変異値が計算された。その結果、アルプス地方の住民がもっとも変異が少なく、アイスマンはアルプス地方のヨーロッパ人の祖先とされた。
 わたしたちの目の前に突然現れたアイスマンは、20世紀最大級の発見であった。世界中を熱狂させ、発見から3週間以内に2冊の本が出版され、本の中には「古代エジプトから運び込まれたミイラである」と断言する本もあった。このエジプトミイラ捏造説を書いたのは、高名な考古学者であったが、この捏造説はDNAの解析によって消え去った。
 アイスマンが5300年の長期間にわたり、氷の中で原形を残していたのは奇跡的なことであった。アイスマンの遺体が良好だったのは、雪に覆われ動物の餌食にならず、氷で覆われ腐敗を免れ、ほどよく乾燥凍結し、岩の割れ目に遺体が入っていたので氷河の流れによる損傷を免れたからであった。アイスマンは世界最古のウェット・ミイラ(脱水処理されていないミイラ)となった。
 5300年前といえば新石器時代である。アイスマンの腸内からヤギ肉と穀物が見つかり、このことは農耕社会を意味していた。また毛髪から銅とヒ素が検出され、銅の精錬業に関与していたと予想された。このように新石器時代の人々は、意外に高度な文明を持っていたのである。
 付着していた花粉から、アイスマンは春から初夏に死亡したとされ、さらにレントゲン撮影によって左肩から石製のやじりが発見され、3次元CTスキャンで、やじりはアルプス南部に特徴的な形であることが分かった。アイスマンは、背後から矢を射られ、死亡した可能性があった。もちろん死因については、放牧での事故説、遭難による凍死説などもあった。
 新石器時代のミイラがわたしたちの前に姿を現したが、5300年前の生活を誰が想像できるだろうか。5300年前といえば紀元前3300年である。世界最古のメソポタミア文明の統一王朝(アッカド帝国、前2350年頃)が登場する1000年前である。エジプトのクフ王の大ピラミッド(紀元前2550年頃)もなければ、古代都市トロイもまだ成立(紀元前3000年頃)していなかった。日本では縄文時代中期のことであった。アイスマンは5300年を氷の中で悠々と過ごしていたのである。
 アイスマンはオーストリアで発見されたとされていたが、後に発見位置がわずかにイタリア側だったことから、現在、アイスマンは北イタリアの南チロル考古学博物館の冷蔵庫に保管され公開されている。アイスマンのレプリカは、平成17年に開催された愛知県の地球博でも公開されている。
 アイスマンは永い眠りから呼び戻されたが、アイスマンが新石器時代からやって来たのは、地球温暖化を警告するためだったのではないだろうか。

東大タリウム毒殺事件 平成3年(1991年)
 平成3年2月14日、東京大医学部付属動物実験施設の技官・中村良一さん(38)が入院先の病院で死亡した。中村さんは主治医に「同僚から毒を盛られたかもしれない」と訴えていた。
 死亡する2カ月前に、中村さんは体調不良を訴えて形成外科を受診。手足のしびれと全身の痛みから多発性神経炎と診断されて入院となった。中村さんの症状は入院しても改善せず、歩行も困難になった。さらに不眠、脱毛、食欲不振、幻覚、激しい腹痛を繰り返し死亡した。
 主治医は、中村さんが言った「毒を盛られた」という言葉にまさかと思ったが、単なる病死とも考えられず警察に連絡、司法解剖が行われた。その結果、遺体のつめと髪から高濃度の酢酸タリウムが検出された。中村さんは、彼自身が予想していたように、何者かによって劇薬・酢酸タリウムを飲まされていたのだった。中村さんの症状は、典型的な酢酸タリウムの中毒症状であった。
 酢酸タリウムは、細菌培養の際のカビ防止剤として用いられ、動物実験施設では薬品庫に常備されていた。酢酸タリウムは無味無臭で水に溶けやすいことから、お茶やコーヒーに混入させて飲ませることは簡単だった。酢酸タリウムの致死量は1グラムで、毒物ではあるが青酸カリのような即効性はなく、徐々に体調を崩していった。そのため犯人の目星が付けにくかった。
 中村さんに自殺の動機はなかったが、東京大医学部で殺人事件が起きたとも考えられず、中村さんが入院保険金目当てに酢酸タリウムを飲み、その量が多すぎたとうわさされた。
 中村さんは都内の私立高校を卒業し、動物飼育関連の会社に勤め、アルバイトで東京大の動物実験施設で働いているうちに正職員として採用された。東京大学の職員であったが、仕事は裏方で、研究者たちが使う動物の飼育や実験の後片付けなどであった。
 動物実験施設ではアルバイトを含め10数人が働いていたので、他殺ならば犯人はこの中の1人とされたが、犯人逮捕まで約2年半かかった。平成5年7月22日、殺人容疑で逮捕されたのは上司の技官・伊藤正博(44)だった。伊藤正博は、中村さんより半年早く採用され、中村さんの上司であったが2人の仲は悪かった。
 中村さんは人付き合いが悪く、態度はぶっきらぼうで、職場の旅行や行事には参加せず、職場を事務所代わりに中古車販売のブローカーをしていた。一方、伊藤正博の性格はまじめで、伊藤は中村さんに中古車販売のバイトをやめるように何度も注意していた。それでも中村さんは反抗的な態度を改めず、伊藤は不快な気持ちを募らせていた。
 この事件が起きるおよそ半年前にも、同じような事件が起きていた。中村さんが使っていたコーヒー豆の缶に酢酸タリウムが混入されていたのだった。このときには、中村さんが異常に気付き騒ぎになったが、結局は悪質ないたずらとされ、警察ざたにはならなかった。このときの犯人も伊藤正博であったが、彼はこの失敗を生かし、次の毒殺のチャンスを待っていた。そして平成2年12月12日、コーヒーを飲んでいた中村さんを館内放送で呼び出し、そのすきに飲みかけのコーヒーに酢酸タリウムを入れた。
 東大タリウム毒殺事件はマスコミが疑惑を騒ぎ立て、報道が先行する展開となった。伊藤正博(44)は捜査当局から再三呼び出されたが、犯行を否認していた。しかし約2年半後「被害者の体内から検出されたタリウムと、伊藤が管理していたタリウムの成分が一致する」との鑑定が出た。この鑑定結果を突き付けられ、伊藤は犯行を自供した。
 平成7年12月19日、東京地裁の金谷暁裁判長は「劇薬を飲ませる犯行は卑劣で、学問の府での犯行は重大」と述べ、懲役11年の実刑判決を言い渡した。伊藤正博は上告したが、最高裁は1審の判決を支持して刑が確定した。
 この東大タリウム毒殺事件をめぐり、中村さんの遺族3人が国を相手に9900万円の損害賠償を求める裁判を起こした。平成14年4月15日、東京地裁の山名学裁判長は、「2人の間にトラブルがあった事情を十分に調査せず、劇薬の管理に不備があった」として国に約6600万円の支払いを命じた。東大側は、「事件は予測できなかった」と主張したが、「事件が起きる前にも、中村さんのコーヒー豆に毒物が混入された事件を東大は把握しており、職員の生命を守る配慮を怠った」として、東大に賠償責任ありとした。
 タリウムを用いた事件は、昭和56年に福岡大病院でも起きている。この事件では検査技師7人が中毒となり3人が入院した。吐き気、嘔吐、末梢神経障害、脱毛などの症状を示し、尿からタリウムが検出された。7人の検査技師が、同時に発症していることから、犯人は同じ職場の者とされた。検査技師7人は同じ休憩室を使っていたため、休憩室を中心に捜査が行われ、コーヒーの砂糖瓶の底からタリウムを検出。さらに検査技師7人の症状と砂糖の使用量に相関関係が認められた。
 やがて同僚の検査技師(33)が、重要参考人として福岡県警の取り調べを受けることになった。しかし事情聴取の前日、「自分は無実で、真犯人を知っている」という遺書を残して自殺。そのため真相は不明のままとなった。
 平成17年12月30日、静岡県警三島署は静岡県伊豆の国市の県立高校1年の女子生徒(16)を殺人未遂容疑で逮捕した。同年8月頃から、ネズミの駆除用に使用するタリウムを母親(47)に飲ませ、母親は意識不明の重体になっていた。
 女子生徒は高校の化学部に所属し、自宅の部屋には30種類の薬品が置いてあった。ネズミの駆除薬として女子生徒は薬局からタリウムを入手し、自分の母親に飲ませ、インターネットのブログに母親の苦しむ様子を書きつづっていた。この事件には、悪魔のような異常性を感じるが、犯人が16歳だったことから、事件の詳細は伝えられていない。このように高校生でも容易にタリウムを買えたのである。
 タリウムは1グラムで人間を殺せる毒物である。タリウムの名前は、「新緑の若々しい小枝」を意味するギリシャ語「THALLOS」に由来するが、このTHALLOSはもともと、美、優雅、花盛りを象徴するギリシャ神話の女神タレイアの名前が語源になっている。
 タリウムを用いた殺人事件は、海外ではアガサ・クリスティの「蒼ざめた馬」が有名である。「蒼ざめた馬」には女同士がけんかをする場面があり、髪をごっそり引き抜かれたのに平気な様子を見せていた女性が、1週間後に死亡している。このように無痛性の脱毛があれば、タリウム中毒を疑うべきである。東大タリウム毒殺事件の犯人・伊藤正博は、もちろん「蒼ざめた馬」を読んでいた。

きんさん、ぎんさん 平成3年(1991年)
 戦後、日本人の平均寿命は驚異的に伸び、昭和59年にはスウェーデンを抜いて、世界第1位の長寿国となった。平成3年、名古屋市の社会福祉事務所は、敬老の日を前に数え年で100歳になる敬老者名簿をマスコミに配布した。
 その中に、明治25年8月1日生まれの「きん」と「ぎん」という名前の女性がいるのを読売新聞の高橋恒美記者が見つけた。2人の住所は違っていたが、もしかして双子の姉妹ではないかと調べてみると、まさにそのとおりだった。高橋記者は「金と銀」を発掘したのだった。
 この話はすぐに愛知県知事の耳に入った。そして敬老の日、愛知県知事と名古屋市長が100歳の「成田きんさんと蟹江ぎんさん」を訪問して長寿を祝った。この名古屋市南区の100歳の双子姉妹は、長寿国日本を象徴する慶事となった。
 このことがNHKのニュース特集で紹介され、それを見た広告代理店が、2人に「ダスキン」のテレビCMへの出演を申し込んだ。この申し出は快諾され、11月に撮影を完了、翌年の正月から放映されることになった。11月から放映までの2カ月間、広告代理店は2人の健康状態を気にしていた。もし健康を害することがあったら、CMは中止になるはずだった。しかしその心配も杞憂(きゆう)に終わり、CMが無事に放映されると、元気なきんさんぎんさんは、たちまち日本中の人気者になった。
 2人が生まれたのは、明治25年8月1日で、日清戦争が始まる2年前のことである。名古屋市郊外の農家に生まれた双子の姉妹は、姉がきん、妹がぎんと名付けられた。この「きんとぎん」という覚えやすい名前は、地元の神主で小学校の校長だった人が付けたもので、この名前だけでもタレントとして十分な価値があった。
 ちなみに、最初に生まれたのが妹のぎんさんで、後に生まれたのが姉のきんさんである。双子の姉妹の場合、現在では先に生まれた方が姉で、後に生まれたのが妹になるが、以前は逆であった。遅く生まれた方が、相手に先を譲ったことから、長女とされていた。
 当時、100歳以上の長寿者は1万人に1人の割合である。2人が100歳を超えるのは1万人の2乗の確率で、双生児は1000人に2人の割合であるから、計算上は500億分の1の確率となった。
 突然、スポットライトを浴びた2人は 、さらにもう1本のテレビCM「通販生活」にも起用され、国民的アイドルになった。「きんは100歳100歳。ぎんも100歳100歳」、ダスキンのCMで屈託のない名古屋弁のセリフは、新鮮な話題を引き起こした。
 2人の登場は、バブル経済がはじけた後の暗い世相を明るくし、将来を悲観していた高齢者を元気にしてくれた。高齢化社会の持つ暗いイメージを笑顔で吹き飛ばしてくれた。
 名古屋市の100歳の双子姉妹の活躍は、日本が長寿国になったことを国民に知らしめ、さらに高齢化社会であっても、元気に暮らせる明るいイメージをつくってくれた。2人はギネスブックにも記録され、世界で最も有名な姉妹となった。100歳、長寿、双子のキーワードが国民的ブームとなった。
 チャーミングな笑顔、名古屋弁のユーモアな話し方、愛らしいキャラクターが2人を国民的人気者にした。屈託のない笑顔、軽妙なおしゃべりが好感を呼んだ。100歳の誕生日に感想を求められると、「100歳には知らん間になっちゃうもんよ。若いつもりが、いつの間にかこんなばあちゃんだがね」、「うれしいような、かなしいような」であった。貴花田と宮沢りえの婚約の感想を求められると、「はだかのお付き合い」といって日本中を沸かせた。
 主にしゃべるのはきんさんで、その性格は天真爛漫(てんしんらんまん)で、少女のようにおどけていた。一方のぎんさんは、それとは反対に冷めた顔でまじめにしゃべるのが特徴であった。2人の会話は漫才のボケとツッコミのようなバランスがあった。
 きんさんぎんさんは、多くのテレビ番組やドラマに出演。音楽CDもだし、ぬいぐるみも発売された。台湾にも旅行し、放送大学にも入学、春の園遊会にも出席した。このように100歳を超えたとは思えない活躍であった。
 2人の生い立ちや人柄を描いた本が出版され、ワイドショーはネタが切れると、きんさんぎんさんを話題にした。マスコミは2人を追い回し、平成3年の流行語大賞は「きんさん、ぎんさん」となった。2人は有名になったが、金銭的な欲はなく、CMの出演料はすべて愛知県の福祉基金に寄付をした。2人の性格は違っていたが、2人とも派手なことは好まなかった。
 厚生省の全国高齢者名簿によると、平成3年の時点で100歳以上のお年寄りは4000人を超え、高齢化社会を前に2人は高齢者の代表選手となった。100歳という年齢は、老人ホームや寝たきり老人をイメージさせるが、2人は元気に歩くことができ、話しぶりも明快で認知症とは無縁であった。
 明治、大正、昭和、平成と続く激動の時代を100年以上、女性として、母親として生きてきた。涙や笑顔の中で、時代の波に飲み込まれることなく、力強く生き抜いてきた。きんさんには11人の子供がいたが、5人を幼時期になくしている。栄養失調で母乳が出ず、また医者にもかかれなかったと回想している。
 平成12年1月23日、死とは無関係と思われていた姉のきんさんが心不全のため名古屋市南区の自宅で死去、107歳5カ月だった。数日前から体調を崩していたが、この日の朝に容体が急変し、最期は眠るような大往生だった。
 悲報を聞いた妹のぎんさんは、涙が止まらず、さみしそうに手を合わせた。気丈なぎんさんも、姉が亡くなってから急に元気がなくなり、翌13年2月28日、後を追うように老衰のため108歳で大往生した。
 2人の死去について、NHKをはじめとした報道各社がニュース速報を流した。きんさんぎんさんは、「お金より、他のことが大切。人間の付き合いとかね。欲は捨てないかん。欲があると、ケンカもせにゃいかんでね」、このように評論家以上の人生訓を語ってくれた。2人が教えてくれた多くの言葉を、人生の先輩の言葉として心の中に残しておきたい。

東海大病院安楽死事件 平成3年(1991年)
 平成3年4月13日、東海大医学部付属病院(神奈川県伊勢原市)で、日本では初めての医師による安楽死事件が起きた。多発性骨髄腫という血液の末期がんに侵された藤原政次さん(58)を同大助手・徳永雅仁医師(34)が塩化カリウム20ccを注射して死亡させたのである。
 藤原政次さんは、会社の健康診断で貧血と血小板の減少を指摘され、平成2年4月14日、同病院を受診、多発性骨髄腫の