おわりに

おわりに

 過去、現在、未来へと、人間の歴史は大河のごとく悠々と流れているが、名案のない乱世凋落の現在、この大河はどこへ向かい、どこへ行こうとしているのだろうか。人間から非人間へ、進化から退化へ、あるいは滅亡への分岐点を私たちは歩んでいるのかもしれない。情報化時代のなかで、私たちは雑多な情報に流され、騒々しい正論に溺れそうになっている。振り返れば、戦後の科学や医学は加速度的に進歩したが、その速さに振り回され、社会や医療のあり方を考える余裕がなかった。

 日本の皆保険制度は世界的に高く評価されているが、日本の医療は不満に溢れている。この矛盾した現象は、医学の進歩に対応すべき医療費増を無視し、助け合いの精神までもが破綻したことによる。少子高齢化という社会構造のなかで、40年間で平均寿命が10歳以上延びているのに、それに相応する負担なしに満足できる医療などとても無理である。医療費は天から降ってくるのでも、地から湧いてくるものでもない。医療の質の向上と安全性を求め、それでいて医療費負担を嫌がっては、無いものねだりの子供と同じである。

 かつての医師優遇税制や薬価差益が医師の生活を豊かにしたことは事実である。しかし時代は変わったのに、医師は金持ちとの国民的イメージが化石のように残されたまま、患者の権利意識の高まりが医師のやる気を削いでいる。厚労省は薬価差益を技術料に振り替えると医師を騙し、巧妙に診療報酬点数であやつり、通達という武器を用い、日本の医療を医師主導から厚労省主導にかえた。政治家は誠実そうに政策詐欺を繰り返し、官僚は意味不明の言葉を並べ、それを阻止すべきマスコミは正義ぶった世論を誘導し、医療界の大御所は単なる茶坊主になっている。そしてお人好しの医師は、医療事故という地雷を恐れ、過重労働を強いられ、クレーマーを恐れながら、医を仁術から算術に変えても成り立たない病院経営に悩まされている。

 話しは飛躍するが、太平洋戦争における400万人の犠牲者の心情を誰が覚えているだろうか。空襲で死んだままの子供を背負い、茫然と立ちすくむ母親の姿。肉片となって飛び散った戦友の影を茫然自失と見つめる兵士の姿。彼らの心的外傷を歴史に葬ったまま、あの戦争を軍部の暴走と単純に結論づけてはいけない。民意の小さな流れ、マスコミの扇動、これらがうねりとなって軍部の暴走を許したのである。体制に逆らわない国民体質、政府の民意誘導、お上の言葉を鵜呑みにするマスコミ、これらは今もあの時代も大差ないように思える。少子高齢化や自然災害、経済危機や政治の不安定、北朝鮮情勢や中国の台頭、在日米軍の再編やテロの脅威。このような暗雲から光を求めるには、どうすればよいのだろうか。

 団塊の世代の高齢化とともに経済は低迷し、人間に温かみが薄れ、自己中心主義や拝金主義の傾向が強くなった。人情が失われ、愛という言葉が軽くなり、少子高齢化とともに、子供の数だけでなく子供の質までも低下している。サムライは草食となり大和撫子は肉食となり、これでは技術立国日本は消えてしまう。

 医学は時代とともに飛躍的に進歩したが、医療への心は後退している。この医療の後退は、表面的には医療政策の失政、財政難による国民医療費抑制であるが、最も肝心なことは相手をいたわりる気持ちの衰退であろう。どうもこの日本は弱者を装えば優位に働き、強者とみられれば悪者とのレッテルを貼られるようである。しかもレッテルの張り方が、あまりに気まぐれで、かつ強固である。これでは権力者が社会の模範となり社会を良くするための義務を負う(noblesse oblige)ことは成り立たたない。

 政治家も政治家であるが、国民も国民である。政治家は生命重視を唱えながら、国民の生命を軽視する政策ばかりで、それでも暴動は起きず、国民はウソをつくのが政治家と諦めている。国民は怒りを忘れ、悪党を退治する気力すら失っている。人間には知恵と悪知恵、理屈と屁理屈がある。日本をリードすべき政治家や官僚は、日本を悪知恵と屁理屈で合法的にミスリードし、国民のために泥をかぶらない。政治家や官僚の行動を冷静に眺めれば、改革の言葉を言う度に世の中は悪くなっている。

 かつての軍国主義を軍人が作ったとするならば、この民主主義政治も国民が作ったといえる。そしてこの国民が陥った日本病という難病を治すには、処方箋は1つだけである。それは、国民1人1人の知性と品格の底上げ、過去を教訓にして人間を知り、生きるための知恵を学び、歴史の失敗から予防策を立てることである。この日本病の病巣を明確に診断しなければ、治療は困難である。治せる病気は、診断が正しければ治すことができる。そして、もし治らない病気ならば、治らないと笑って諦めればよい。

 この戦後医療史が、読者に過去との対話を提供し、知的好奇心を多少なりとも満足させたものと自負している。本書はJapan Medicine556回に渡り連載したものに加筆したのもであるが、「長い間のご愛顧に感謝したい」と、ありきたりの謝辞を用いるつもりはない。むしろ書き終えたが、「老兵は去らず。先輩、後輩のために常に戦う」この気概の維持こそが混迷する日本を救う、小さなうねりのひとつになると信じている。