小栗忠順

本龍馬、勝海舟、福沢諭吉、西郷隆盛、小栗忠順。小説家の司馬遼太郎はこの5人を「明治国家誕生の父たち」と評した。小栗忠順が日本の近代化構想の実現に奔走したのは、幕末動乱期のわずか8年間に過ぎないが、その間に手がけた富国強兵策は、まさに「国家改造の設計者」と呼ぶにふさわしい。明治新政府の政策は、ほとんど小栗が引いた設計図の複写であり踏襲である。近代日本の隆盛、その源流をたどれば小栗の改革に原始の一滴があった。

万延元年(1860年)1月、日米修好通商条約批准の遣米使節団の一員として渡米した小栗は、彼我の文明格差を実感する。彼の国ではすでに蒸気機関車が走り、川には鉄の橋が架かり蒸気船がわたる。鉄を造り出す反射炉、鋳造設備、工作機械が重厚長大を誇示して、まさに「鉄と石」の国。しかし我が国は未だ「紙と木」。

帰国後早速「政治、軍備、商業、製造の各処で外国を模範に我が国を改善しなければならない」と幕閣に直言。世情が攘夷論で騒然とするなかで「外国に学べ」という主張は命の危険さえある。この時小栗を突き動かしていたのは、尊皇か佐幕か、開国か攘夷かではない、為政の責任を担う者として、この国を紙から石に、木から鉄に、欧米列強に伍す国に造り改めねばならぬ、一途にその使命感であり「国亡び身倒るるまでは公事に鞅掌(おうしょう)するこそ真の武士なれ」(*)であった。

帰国2カ月後の万延元年11月、34歳で外国奉行に就いて以来8年の間、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行と「任免七十回の武将」と言われたほど要職を歴任。最大の業績は慶応元年(1865)11月に着工した横須賀製鉄所(造船所)である。船舶エンジン、蒸気ボイラ、歯車、銃器部品、ネジに至るまであらゆる鉄製品を製造し、日本の近代工業化はこの造船所から始まったといわれる。

次いでフランス語学校「仏国語学伝習所」、銃器火薬工場、株式会社「兵庫商社」、ガス灯や郵便電信、鉄道整備の提唱、国際化を見通した本格ホテル「築地ホテル」など、いずれも日本初となる事業で「明治の近代化はほとんど小栗忠順の構想の模倣に過ぎない」(大隈重信*)と評されるほど先進的であった。

しかし徳川幕府は崩壊に向け急転する。慶応3年(1867年)11月徳川慶喜の大政奉還、王政復古の号令、慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争。小栗は徹底抗戦を主張するが慶喜は採用せず、同月15日勘定奉行兼海軍奉行兼陸軍奉行を免職。知行地の群馬郡権田村に隠遁(いんとん)するが、4月6日追討軍に捕えられ、斬首される。行年42歳。新政府は小栗の才能を恐れ、「逆賊」「売国奴」の汚名のもとに歴史の死角に封じ込めたのだ。

「幕府の運命には限りがあるが、日本の運命には限りがない」ー 次代の国民利福を信じて行動した小栗忠順は「政治・政治家という新しい日本語に該当する幕末人」と司馬遼太郎は言う。

時代の変わり目に華々しく要職を歴任し、近代日本の隆盛にまで貢献しながら歴史の死角に封じ込められた小栗忠順。この知性と事績に富んだ「任免七十回の武将」から学ぶものは、今のBizスタイルにおいても多いのではないだろうか。