日中戦争

日中戦争
 日中戦争は1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)までの中国と日本による戦争である。日本政府は日中戦争を当時は支那事変としていた。しかし1941年12月の対英米蘭(太平洋戦争)の開戦に伴い、支那事変から太平洋戦争までを大東亜戦争とよび、中華民国側はそれを抗日戦争としている。
 日本が本格的な戦闘なのに戦争でなく支那事変としたのは、太平洋戦争まで両国は宣戦布告をおこなっていなかったからである。日本も中華民国も互いに宣戦布告しておらず公式には戦争ではないとしていた。それは太平洋戦争までの4年間、両国がそれを望んだからで、日本はアメリカの経済制裁を避け早期収拾を狙っていたからで、中国(中華民国)は物資輸入に問題が生じることを懸念したからである。
 この日中戦争のきっかけは、1937年(昭和12年)に何者かにより盧溝橋事件(ろこうきょう)が発生したことによる。大日本帝国政府(日本)は不拡大方針を貫こうとしたが、国内での圧倒的な軍部支持の世論に負け戦線を拡大してしまうことになる。日本は中国の都市の大部分を占領したが、中国はゲリラ戦などで激しく抵抗した。
 日中戦争のきっかけは「盧溝橋事件」であるが、日中戦争は世界を巻き込む第1次世界大戦と第2次世界大戦の中で行われ、ふたつの世界大戦が日中戦争に絡んでいた。

 日中戦争は「日清・日露戦争から太平洋戦争まで」、あるいは「満州事変から太平洋戦争まで」とその時期にはさまざまな解釈がある。1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を「15年戦争」と言う評論家がいるが、この15年間には停戦期間などがあるので歴史学的には「15年戦争」という言葉はそぐわない。また教科書では「15年戦争」との語は用いられない。

 
日中戦争の背景  
 19世紀後半、ヨーロッパ列強諸国、さらにロシアやアメリカはアフリカやアジアの植民地の拡大を競っており、中国、朝鮮、日本の東アジア諸国は開国を迫られた。

 1840年には清のアヘン貿易の取締りにイギリスが反発し、イギリスは清に宣戦布告しアヘン戦争を起こした。清に勝利したイギリスは中国に賠償金と香港割譲、さらに上海などの開港を要求し不平等条約を締結した。これに米仏も便乗し、清では太平天国の乱などが起きる一方で、1860年代から洋務運動による近代化が図られた。
 清の敗北と半植民地化は、江戸時代末期の日本にも衝撃をもたらし。日本はペリー来航を経て明治維新が起き、近代化に成功し日本は軍国大国となった。
 日本は日清戦争(1894~95)に完勝すると、講和条約で遼東半島や台湾を割譲した。日清戦争後清はヨーロッパ列強の半植民地化となった。日本は日清戦争の勝利で遼東半島を割譲したが、ロシア、フランス、ドイツが三国干渉を行い遼東半島の放棄を要求し、日本は3500万両の還付で放棄した。

 1898年にドイツが山東半島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半島・威海衛、フランスが広州湾を租借地とした(瓜分の危機)。清の敗北は洋務運動の失敗を意味し、以降、変法運動、革命運動が展開した。康有為らは明治維新をモデルとして立憲君主制に基づく改革を目指し、1890年代には孫文らが共和制革命を唱えて日本やアメリカなどで活動した。他方、日本では日清戦争の勝利により、中国を侮蔑する風潮となった。
 1891年、ロシアはシベリア鉄道建設などで中国進出を開始した。ロシアの南下は日本にとって脅威となり、イギリスもロシアの南下を警戒して日英同盟締結した。ロシアはウラジオストクを保護するために朝鮮半島制圧を考えていた。1894年、李氏朝鮮は東学党の乱の鎮圧に失敗すると、清と日本に救援を求めた。日本は清に朝鮮半島の共同統治を申し出るが清が拒絶したため日清戦争が勃発したのである。
 日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清からは多くの留学生が日本にやってきた。清の政府も封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進めることにした。日露戦争に日本が勝ってからは、より多くの外国人が日本に学びにきた。欧米に植民地にされている国からも、欧米を倒すために近代化の方法を学ぼうと、多くの者たちが日本に訪れた。
 日本国内では言論の自由などが保障されていたので、清などからは革命家などが日本へ亡命のために滞在した。孫文も政治運動などのため日本に滞在していた。日本政府は欧米との友好ののため、日本国内での反欧米の革命家の活動を好まなかったが、民間人や一部の政治家などが周辺国の革命家を支援した。まだ孫文たちが革命を起こさないうちに、中国で革命が急に起きた。

辛亥革命(しんがい)
 1911年、中国の四川省での鉄道の国有化、鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起き、中国各地で反乱が起こり、清国からの独立宣言が次々と起きた。中国人の革命指導者の孫文は革命当時、アメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。清国を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、孫文は中国での革命のため日本やアメリカで運動を行っていたのである。
 孫文は革命後に中国大陸に帰国し、1912年に孫文が臨時大総統として選ばれ、この一連の革命を辛亥革命とよぶ。孫文は民族の独立をかかげる「民族主義」清倒れ「民権主義」「庶民の生活の安定」をかかげこの三民主義を唱えた。
 中華民国で権力をにぎったのはかつての清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい)で、孫文には軍隊を管理するが実権はなかった。

 袁世凱は清の皇帝を退位させ、袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより清の王朝は終了し、孫文は中華民国の建国を宣言し、首都は南京(ナンキン)になった。清王朝は倒れたが、清の皇帝は生きていて清の宮殿も残っていた。孫文は臨時の代表者にすぎなかった。

 

北清事変と支那駐屯軍の設置
 清の敗退によって中国で「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社による「義和団の乱」が起きた(北清事変)ため、北京の公使館員や居留民保護のため8ヶ国連合軍が北京に進出し、日本軍は最大の兵力8000人を投入した。
 北京は連合軍に占領され、清は賠償金と北京周辺の護衛を外国部隊があたることになった。日本は北京と天津に清国駐屯軍(支那駐屯軍)を設置し、これがのちの日中戦争初期の主力部隊となる。またロシアは満州を事実上占領した。
 1914年(大正3年) 7月28日、第一次世界大戦が勃発し、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商連合国とが開戦した。日本は日英同盟によって参戦し、日英軍は中国の膠州湾岸・青島のドイツ軍に攻撃して青島のドイツ軍は降伏し、袁世凱の中華民国政府は中立を宣言した。

 袁世凱は独裁政治を始めたため、孫文は日本に亡命することになった。しかし、1915年に袁世凱が病死すると、中国はまとまらず各地に軍閥(ぐんばつ)が出てきた。辛亥革命により中国では軍閥たちが跋扈する時代になった。多くの軍閥が「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張して互いに争っていたた。軍閥たちと兵士は掠奪、強奪を常としていた。現在では共産党の軍隊は美化されているが、共産党支配下の地域も同様であった。中国では争いがあると民衆を巻き込むのが常であった。
 中国民衆にとっては日本の支配下で警察権の及ぶ地域は、安心して居住できる地域だった。日本の保護のもとに建国された満洲国には中国人がどんどん流入し、日中戦争になった後の日本の支配下も同じでした。中国の言いなりの歴史観では全く逆になるが、中国の沿岸地域にある日本の工場や日本人の居住区を守るために日本軍は駆り出され軍閥の争いに巻き込まれ、防御を重ねるうちに全面戦争になってしまった。これは毛沢東のはかりごとで、まんまと成功し全面戦争になるようにはめられてしまったのである。
 軍閥による群雄割拠の状況で、蒋介石はアメリカの援助を得て中国の統一を目指した。アメリカは蒋介石を援助することによって中国を自分の支配下に置けると踏んで全力で援助した。
 ロシアは当時、スターリン支配下のソビエト連邦であったが、国際共産主義運動を進めており、中国を共産主義化しようともくろんでいた。また日露戦争の復讐も兼ねて日本の共産主義化も狙っていた。中国における国際共産主義運動の中心は毛沢東で、毛沢東はロシアからの援助を得て中国の共産主義化をもくろんだ。
 蒋介石は中国の共産化を恐れ、毛沢東の共産党を掃討しようと全力を尽くすが、毛沢東の方が一枚上手だった。中国の共産主義化をもくろむスターリンの戦略は簡単で、日本と蒋介石の中国を戦わせ、疲弊させそのすきに中国を共産主義化しようというのであった。さらには国民党と共産党が共同で日本に対抗するという名目のもと、内部から国民党を共産党が乗っ取る戦略をとる。これは現在、自民党政権に対して共産党が他党に共同戦線を呼び掛けているのと同じ戦略であった。


対支21ヶ条要求
  1915年(大正4年) 1月18日、日本はドイツ権益の移譲を含む対支21ヶ条要求を北京政府に要求した。袁世凱は諸外国に交渉して不成立を目論むが、 日本は5月7日に13ヶ条に修正した「最後通告文」を渡し、5月9日に袁世凱が最後通告文を承認するが、中国各地で反対運動や暴動がおきた。
 袁世凱は同年12月12日に共和制を廃止して帝政を復活させ、袁世凱自らが中華帝国大皇帝に即位すると、反袁世凱・反帝政との護国戦争(第三革命)が起きた。しかし袁世凱が翌年6月6日 に病死すると、黎元洪・中華民国大総統と段祺瑞・国務総理が国内統一を図り対立した。
 同年、日本陸軍が第二次満蒙独立運動を起こしたが失敗。また同年7月、日露同盟が成立し、日露同盟は日米対立を背景に日本の外交方針の中軸となった。 1917年、張勲復辟の後、馮国璋が総統となると、段祺瑞は国会を解散し新国会を設置しようとした。張勲復辟事件の際にも日本軍は北京に増援し、9月10日 孫文が広州で中華民国軍(広東軍政府)樹立を宣言した。
 1917年に展開したロシア革命によってロシアとドイツが休戦すると、連合国は翌年からシベリア出兵を実施し、翌年11月にドイツ帝国が崩壊して第一次世界大戦は終結した。またロシア革命によって日露同盟も崩壊した。
 日本と中国の間には、日本が第1次世界大戦参戦した際に中国に示した「21か条の要求」があった。これは日本は「ドイツが保持していた中国・山東省を日本が引き継ぐこと、中国政府に日本人を雇用すること」であった。中国側としては不利な条項なので反対の意思を示すが、日本側は「最後通牒」を示し合意を取り付けた。
 大戦後1919年のパリ講和会議で、日本は「対支21ヶ条」の要求を中国が受諾したとしたが、中国は支21ヶ条要求は強要されたもので山東は中国に復帰すると主張した。
 イギリスとフランスは日本を支持し、中国に同情的だったアメリカは譲歩した。パリ講和会議、ヴェルサイユ条約によって、日本は山東省、南洋諸島の統治権を得て、さらに翌年発足した国際連盟の常任理事国となり、世界五大国のひとつとなった。

韓国併合
  日露戦争の勝利によって、大韓帝国ではロシアの影響力がなくなり、日本の影響力や韓国支配が強まった。日本は韓国を保護国としてあつかい、朝鮮の内政や外交を指揮するため 統監府(とうかんふ)を置いた。 初代統監には伊藤博文がついた。
 日本による韓国の保護国化にともない、さまざまな国家主権を韓国から奪ったので、韓国の民族運動家は不満をいだき日本はうらまれることになる。
 伊藤博文は韓国統監として韓国人の運動家から恨まれる立場にあった。1909年、ここで満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件がに起きる。 射殺事件は満州のハルビンで起き、犯人は韓国人の民族運動家である 安重根(あんじゅうこん) であった。伊藤博文が暗殺されたことから、日本の世論は強行になり、翌年、日本は韓国の併合を強行し朝鮮は日本領になった(韓国併合)。こうして朝鮮は日本の植民地になった。
 韓国の併合時、日本は韓国とは戦争はしていない。当時の国際社会では、国力の弱い国を周辺の強い国が保護を目的として取り込み、国どうしが併合することがあった。しかしこの併合は対等な合併ではなく、日本政府の意向に朝鮮の政治が従う不平等な併合であった。
  植民地では選挙権があいように、朝鮮の人々には選挙権がなかった。また大韓帝国が消滅したことにより韓国の名が「朝鮮」に変わ理、韓国統監府の名は朝鮮総督府に変わった。
 朝鮮の民主化改革は、日本によって断行された。たとえば身分差別の廃止による解放は、大韓帝国時代の1909年に統監府の指導のもとに行われた。堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手し、その改革は、日本での改革を手本に行われた。
 たとえば朝鮮の学校教育については、朝鮮の学校では日本語と朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史などが教えられるようになった。朝鮮語よりも日本語の教育が重視された。 1911年には、朝鮮の学校の必修科目として朝鮮文字であるハングルが教えられるようになった。
 また工業化のための開発や投資が朝鮮に対して行われた。 鉄道をひくなどの開発がおこなわれ、土地調査と土地の権利の整理もされた。この土地の権利整理のときに、朝鮮人の土地の多くが日本人に奪われたという説がある。
朝鮮の工業や商業は、日本との貿易や、日本からの投資によって近代化していった。
  しかしたとえ日本が朝鮮の政治を改革したところで、日本は韓国の主権をうばって侵略したことには変わりないので、じきに朝鮮の独立運動が起こっていく。
  だが日本が朝鮮の独立を自主的に認めたのではなく、朝鮮が独立したのは,第二次世界大戦で日本がアメリカに負け、朝鮮半島の支配を日本が失ったからである。アメリカおよびソビエト(ロシア)に朝鮮半島の支配がうつり、1948年にアメリカの支援を受けた朝鮮半島南側の大韓民国およびソビエト(ロシア)の支援を受けた朝鮮半島喜多川の北朝鮮が独立することになる。
  日本の占領による政策として創氏改名がある。これは朝鮮人に日本風の名前を名乗らせた政策であるが、併合直後はこの政策をおこなっていない。 創氏改名を行った年は1939年(昭和14年)である。なお併合前の韓国が欧米と結んでいた不平等条約は、日本との併合にともないほとんどが消えている。
  この韓国併合を「植民地政策」だとする意見が韓国で多く、検定教科書でも欧米の植民地政策などと同様に「朝鮮は日本の植民地だった」と書かれているが、この「韓国併合」はたとえば沖縄県や北海道を日本に併合した時と同じように朝鮮半島を日本に併合したという領土の拡大政策であったとも言える。
  併合により韓国の国家主権を奪ったことから「韓国併合は韓国への主権の侵略」であるという批判はなりたつかもしれない。なお、朝鮮の王朝の一族である李氏(りし)一族は併合後も、日本の皇族に近いあつかいを受けることになった。また、朝鮮の貴族階級(両班)は、高位の貴族は「朝鮮貴族」という貴族になって日本の華族に近い扱いをうけたが、ほとんどの元・貴族は平民になった。

ワシントン体制
 1918年からのシベリア出兵によって日本軍は7万人の兵力を投下し、反革命軍を支援、東部シベリアを占領したが、ボルシェビキ軍の反撃で損害をこうむった。1920年1月には米軍が撤兵し、9月までに各国の干渉軍は撤退した。同年3月の尼港事件に対して日本軍は掃蕩作戦を行い、北サハリン(樺太)を占領した。しかし大戦の間隙をついて膨張した日本はアメリカから反発を受け、1921年、アメリカは軍備制限と太平洋極東問題を協議するワシントン会議を開催し、主力艦保有率を米英5、日本3、フランス、イタリア1.67とするワシントン海軍軍縮条約が締結された。
 日英同盟はイギリスにとってはロシアとドイツ帝国が消滅したため無用となり、また英米関係にも好ましくないので解消された。日本は存続を求めたがイギリスは拒否したのである。太平洋諸島の非要塞化などを取り決めた米英日仏の四カ国条約、中国問題については中国の領土保全、門戸開放、新たな勢力範囲設定を禁止する九カ国条約を締結し、日本は山東還付条約で山東省、山東鉄道を中国に還付することで解決し、また山東半島や漢口の駐屯兵も自主的に撤兵した。ワシントン体制は、ソ連と連動する中国ナショナリズムに対して、列強が権益を存続するための中国共同支配体制であった。日本は軍事三大国であったが経済的には英米独仏と比較すると依然弱小国であった。

民族自決運動
 大戦が終結した1919年の「パリ講和会議」の「ベルサイユ条約」において国際的に承認された。しかし第一次世界大戦後、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国、トルコ帝国が消滅し、全世界で民族自決運動が起こり、朝鮮でも1919年から民族独立運動が起きた。これが三・一運動(万歳運動)である。また中国でも日本への山東省譲渡に対して中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がり、中国政府はヴェルサイユ条約調印を拒否した。これに異を唱え各地で運動がおき、その中でも有名なものが五・四運動(ごしうんどう)で、北京の学生数千人が条約撤回・日本との交渉に当たった役人の処罰などを求めてデモ行進。交通早朝・曹汝霖(そうじょりん)の邸宅焼き討ち、駐日大使・章宗祥(しょうそうしょう)を殴打するなどの大きな騒ぎとなり、学生たちが北京政府に逮捕された。

柳条湖事件
  1931年9月 18日夜、中国奉天 (瀋陽) 北部の柳条湖ちかくの南満州鉄道で爆発が起きた(柳条湖事件)。この満州鉄道は日露戦争によりロシアから日本が権利を譲り受けたもので、それが何者かによって爆破されたのである。

 当時、満州駐在の日本陸軍(関東軍)は軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようとしており、関東軍はこの爆破を当時の北伐に呼応して抗日の色を濃くしていた奉天軍閥・張学良軍正規兵によるものとして、全線全関東軍出動,奉天軍攻撃の命令を発し,張学良軍の宿営する北大営を砲撃し、奉天などの都市を含め満州全域を占領した。

 この満州鉄道爆破事件は日本の陸軍が自作自演でやったもので、爆破したのは奉天独立守備隊の河本末守中尉らで,満州での兵力行使の口実をつくるため石原莞爾,板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだものであった。そのうえ林銑十郎が朝鮮軍を満州に越境進撃させるなど,たちまち全満州に軍事行動が拡大した。

 1932年には清の最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を担ぎ出し満州国という国家を建国させてしまう。清の皇帝といっても、清政府は日本の関東軍の命令に従う人達で固められ、満州国は日本の操り人形状態(傀儡政権)であった。

 このとき日本本土の政府は中国とは戦争をしない方針だった。それはイギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府は中国とも戦争しない方針だった。しかし満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判し、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしたのである。

 中国はこれら日本の行動について侵略行為だとして満州国を認めないと国際連盟に訴えた。国際連盟ではリットン調査団を派遣、満州を調査させた結果「中国の言うとおりで、日本が悪い」ということになるが、日本はそれを認めず国際連盟を脱退した。


満州事変の原因

 満州事変は日本の陸軍の自作自演がとされているが、その原因は複数考えらる。
原因1:中華民国の国内情勢
 中華民国と呼ばれていた当時の中国は、1911年の辛亥革命で清朝が滅亡し、各地で「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が互いに争っていた。満州を支配していたのは張作霖(ちょう さくりん)で、張作霖は満州および北京を支配し、日本と協力することで満州を支配していた。いっぽう中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石はアメリカ・イギリスとの外交を重視し、中国統一を目指して張作霖ひきいる北京政府を倒すために戦いを始めた。この蒋介石の闘いを北伐(ほくばつ) と言う。

 当時は誰が中華民国を統治するかで揉めていた。彼らは一枚岩ではなく、毛沢東率いる共産党と、孫文の亡くなった後、共産主義に反対する蔣介石が率いる国民党、さらに共産党にも国民党にも属さない軍閥との三つ巴の内戦となっていた。

 蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとして、その列車の中で張作霖は日本の軍人の陰謀により爆殺された。張作霖が日本のいうことを聞かなくなったので、張作霖を殺害しようとする陰謀だった。

 日本は日露戦争に勝ち、南満州にある鉄道利権をロシアより譲り受けていた。また第一次世界大戦ではドイツに宣戦布告し、中国にあるドイツの租借地だった青島を攻撃して勝利し、その後、ドイツは中国へ租借地を返させた後、中国から対華21箇条要求を介し改めて満州のあらゆる利権を譲り受けた。日本の持っていた中国権益、さらに内戦状態は、日本のさらなる領土拡大、資源獲得のための絶好のチャンスであった。
 原因2:関東軍の独断行動
 満州事変の関東軍の表立った口実は「敵による攻撃から守るための自衛行動」、「満州にいる居留民の保護」だったようですが、実際は関東軍が満州利権の獲得という目的達成のためにおこした独断行動だったといわれている。そのうちの極端な例が、1928年、田中義一が内閣総理大臣のときに起きた張作霖爆殺事件です。
 張作霖は中国内戦中の軍閥のひとりで、日本政府が支援していた人物です。彼は当初日本の支援に好意的でしたが、共産党と国民党が仲間割れしたことをきっかけに欧米に接近し、南満州鉄道や関東軍をないがしろにする行動が多くなった。当時から満州国の建国計画を立てていた関東軍からすると、張作霖は目の上のたんこぶともいえる存在になっていった。張作霖の立場が悪くなっても田中総理大臣は「張作霖に利用価値あり」と、支援の継続を希望し、関東軍の張作霖排除の意見を却下した。すると関東軍は、張作霖が乗っていた列車ごと爆破し強行排除したのである。
 原因3:日本政府(内閣)と軍部の意識のズレ、パワーバランスの崩壊
 当時の日本政府の外交方針は、ワシントン体制と呼ばれるワシントン軍縮会議で決められた世界秩序を守るため、協力者である張作霖の力を温存しつつ、日本の影響力を維持する方向でした。つまり、外交努力によって国際協調しようという考えだったのです。一方で、軍部のなかには来たる戦争に備えて満州国を建国し、利権を確保しようという強硬的な意見を持つ軍人もいました。このような意見の対立は、国際協調路線を主導していた浜口雄幸首相によって絶妙なバランスが保たれていたのですが、浜口が暗殺未遂事件に遭って首相職を辞職し、若槻礼次郎が首相になると、そのパワーバランスが崩れて軍部の動きが加速することになったのです。
 原因4:中村大尉事件と柳条湖事件
 この2つが満州事変の直接の原因だといわれています。これらは満州での関東軍の行動を正当化するための口実として利用されました。軍事地誌の作成のために満州を調査していた旧日本軍中尉・中村震太郎が国民党軍からスパイとみなされ、殺害された事件によって、日中関係の悪化が決定的になりました。(中村中尉は死後大尉に特進)
それに加えて関東軍は、先述したように日本が所有する満州鉄道に破壊工作を仕掛け、それを中国軍の策略として中国軍を攻撃しました。

関東軍の目的
 満州事変は関東軍の独断行動によるとされています。関東軍によって満州事変が引き起こされたが、その目的は言うまでもなく満州を獲得したいがためでしあった。満州の利権を獲得すためであるが、関東軍参謀のひとり石原莞爾は関係が悪化しつつあったアメリカや、共産主義国家ソ連との戦争に備えるために、満州を手に入れようと考えていたと思われる。また日本政府に不満をもっていた人物が関東軍内にいたことがさらなる拍車をかけました。張作霖爆殺事件の首謀者、関東軍参謀の河本大作は、日本政府側の国際協調路線を「お人好し」と非難し、「満州の鉄道利権を守るためにはクーデターのひとつでも起こすほかない」と友人に伝えている。

 
満洲開発
 日本が開発した満州はいい土地でした。もし日本が日露戦争で負けていたら、満洲・朝鮮はロシア領になっていたはずである。
 満州は日本人によって、今のように金を生み出す土地になりました。やはり日本人の投資によって現代の中国があるのです。例えばアメリカ合衆国では西部の開発にしても、ユタ州やミネソタ州などでは開発が進んでいません。日本はそれに近い奥地を開発して生産性のある土地に変えました。日本人が満洲へ行く前は、狩猟民と農民だけがいて、何も生み出さない土地でした。コーリャン畑しかなく、モンゴル人と漢人が喧嘩ばかりしていました。
 二十世紀の歴史は、日本がまず日露戦争でそれまでの白人絶対の歴史を変えて、満洲事変でも世界の仕組みを大きく変えました。第一次世界大戦以外は、すべて日本のせいで世界史が動いたのです。そこのところを日本人は自覚しなすぎです。今でも、「私たちはこんなに弱くて、いい子にしていたのに、どうしてこんなにいじめられるのだろう」と思っているのが間違いです。実は日本はアジアの超大国だったのです。日本は謀略でなく正論を以て戦争を行ったので、他の白人諸国はおおやけに文句を言うことができません。「植民地主義がひどすぎる。なぜ人種が違うだけで奴隷扱いするのか。白人はけしからんのでアジアの人たちを救ってやりたい」というのが日本の主張で本当に正道の理由でした。
 そして白人の圧力を跳ね返して日本人が強くなったので、白人は正面切って文句を言えなくなりました。そのため、「日本をなんとかおさえなくてはいけない」と背後に回って組んだというのが世界の歴史なのです。
 「日本人は本当はすごい。本当は他国も日本のようにやりたいけれども、みんなできないのだ」と言う日下公人さんの意見に、私は非常に賛同します。今はそういったことを言うのは、日下さんくらいです。現代のアメリカ国内の悲惨な状況を見ても、どこがいい民主主義の国でしょうか。アメリカに生まれたら、お金がなければ大学へも行けず、軍隊に入って死ななければなりません。中国に生まれたら、一握りの高級幹部以外は、どんなにひどい目に遭うでしょうか。私たちは日本に生まれたおかげで、しっかりとよい生活を送ることができているのです。それなのに、なぜ、みんな日本の悪口ばかり言うのでしょうか。「日本人が一所懸命したことに対して、中国や日本がひたすら非難するのは、前政権を否定しなければ、自分たちの正統性が証明できないから、という向こうの理由であって、日本人がそれをそのまま認める必要はまったくありません。

戦時中の満洲
 大東亜戦争中の満洲はほとんど空襲もなく、資源も比較的豊富で平穏であった。満州においても治安維持は最重要の課題であり、満洲人が日本人に協力するのは当然のことであった。かつての張学良の施策はひどいもので、ソ連の恐怖もあった。満州には満州人、朝鮮人、モンゴル人などいろいろな人たちがいたが、自分たちが生き延びるために日本人に協力するのが一番の道だと考えていた。 しかし山海関の南の中華民国の人たちが、抗日のナショナリズムを煽り立て「日本の帝国主義」対「中国民衆」という単純化された言説ではやされ、国人の反発を引き出したのです。
 彼らは遠いところにいて現地のことなど何も知らないのですが、遠くにいるからこそ煽るのが便利だったのである。何も知らない反日運動と言えば、最近の反日運動もそうです。日本の尖閣諸島国有化に反対するデモに参加している人は、それまで尖閣諸島などどこにあるかも知らなかった人たちばかりです。知らない方がスローガンを信じこみやすく、煽動する人にとって便利なのである。
 日本人が満洲国を建国したとたんに、「中国人」というものができました。中国人らしさ、中国ナショナリズムというものがつくられたのです。満洲国でない場所で騒ぎが始まりましたが、満洲国内では抗日、反日と言っていたのは、共産党の息のかかった本当に一握りの人だった。庶民たちにとって中国民衆の抵抗などというのは戦後の言説である。

 建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では国策による満洲関連の投資や、軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興の財閥があらわれた。また農村ではひきつづき不景気が続いていた。

 日本政府は満州を「王道楽土」(おうどう らくど)、「五族協和」(ごぞく きょうわ)と宣伝した。また満州を開拓するための満蒙開拓団などを募集したので、日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。そのほか朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。

 日中戦争の原因は、中国を支配したいと同時に日本を滅ぼしたいアメリカ、ロシアの策略が第一です。アメリカは蒋介石の国民党を使い、ロシアは毛沢東の共産党を使いました。ロシアと毛沢東の方が一枚上手で、結局、アメリカは、中国を失います。問題は、戦争を拡大し、日本の敗北を画策した近衛文麿首相に代表される日本の隠れ共産主義者が日本の政府の中枢にいたことです。残念ながら、このような事実がいまだに国民共有の歴史観になっていないのは、いまなお共産主義社会を理想とする隠れ共産主義者が、日本政府、学者たちマスコミの主流勢力であるということです。
 満洲国のなかの騒動は、前からいた匪賊や馬賊の生き残りとか、朝鮮人共産主義者とか、ソ連のコミンテルンの煽動とかで、もちろん日本国内の安定した生活から見れば治安は悪いが、それは日本人が主導権を握ったからではなく、ソ連やモンゴルや朝鮮や中国に取り囲まれた、満洲という土地の持つ宿命のようなものであった。関東軍はそれほど人数がいませんし、基本的には国民党政府時代の組織をそのまま利用して、現地の治安維持を図っていた。現地の勢力も日本と組んでいたが、それを侵略・暴動といったのは南の国民党で、国民党は外国に向けて日本侵略を訴えていた。いつも中国のプロパガンダに日本はやられるのである。実際には満洲事変も満洲国建国も、日本の一方的な占領工作ではない。しかし戦後、中華人民共和国が政権を取ったあと、すべての歴史を塗り替えて今に至ります。

リットン調査団派遣・日本の国際連盟脱退
  中国側は日本の行動に不満を持地、「爆破事件で変な言いがかりをつけられ、日本は勝手に国まで作った」と国際連盟へを訴え、国際連盟はイギリスのリットンを団長とする「リットン調査団」を派遣し事件の真相究明にあたルことになる。

 リットン調査団は調査後「日本の主張を認めず、日本の侵略行為」とする報告書を国際連盟へ提出し、満州から兵を撤退させるる決議案が国際連盟総会で採択されることになった。この決定に日本は納得いくわけがない。

 日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介は抗議の意思を示し、日本はこの採択に唯一反対し、他の国が賛成する中で「自分たちは悪くない」と松岡洋右は会場から引き揚げた。松岡洋介は収集のための連盟での演説に努力をしたが、この間にも満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまい、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。なおドイツも翌年に国際連盟を脱退し、主要国である日本とドイツが脱退してしまったので国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまった。
    なお国際連盟で満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け外交関係が結ばれていた。ドイツやイタリアが満州国を承認したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認している。
  また日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変はひとまずはおわった。しかし国際的組織から外れた日本は、この後国際的孤立への道を歩んでいくことになる。日本の世論および政府は「満州国の建国をみとめるべきでない」と主張してるリットン報告を日本に不利な内容と思い反発した。

 

五・一五事件
 満州事変という関東軍の暴走を最終的に政府が是認したため、日本国内ではしだいに政府よりも軍部の発言力が上回るようになる。ある議員が国会で軍部より派遣された説明員を批判したところ「黙れ」と一喝され、そのまま引き下がってしまったことがあるくらいだった。そんな空気のなかで日本政府や外交に不満を持っていた軍人が天皇を中心としたナショナリズムに燃え、五.一五事件が起こる。

 犬養毅(つよし)はおそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」と答え犬飼を殺害したらしい。このころ日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を 五・一五事件と言う。犯人の軍人たちは法律で処罰されることになった。だが当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。このような決定のせいで、後に軍人による政治に圧力をくわえるための殺人事件がふえていくことになる
 首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、そして次の首相は齊藤実(まこと)に決まった。斉藤は海軍出身であった。そして斉藤内閣は満州国を承認した。犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在の学校教科書などでは五・一五事件で政党政治が終わったと書かれることが多い。


第二次上海事変
  日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変と言う。あるいは上海戦とも言う。宣戦布告をしてないので「事変」というが、実際には戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争が始まったとされているが、盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。
「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか」には多くの説があるが、多くの事情があるので日中戦争の開始の時期にはこだわる必要がない。もし日本が宣戦布告をしていれば、日本は中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいた。

中華民国の軍閥指導者が暗殺
 1928年(昭和3年)6月4日には中華民国の軍閥・奉天派(ほうてんは)の指導者・張作霖が爆殺される事件が起きる(奉天事件)。奉天派の指導者を務めていた張作霖は満州の実権を握っていた実力者で、1924年には北京の実権を握るほどの存在になっていたが、「21か条の要求」などの存在により反日的な考えも持っていた。
 そのような中、北京に蒋介石(しょうかいせき)が指揮する国民革命軍の「北伐」が迫ってくると、張作霖は決戦を断念して満州に引き上げろうとする。この事態に日本政府は満州を支配していた日本の領土を取られてしまっては困るので「張作霖が満州に戻るのは良いが、戻る前に武装解除してくること」を条件とした。

 しかし張作霖と知り合いでもあった当時の首相・田中義一らは直前になって武装解除の決定を中止した。

 この決定について不満に思った関東軍大佐・河本大作(こうもとだいさく)は「武将解除をするには張作霖を殺し、軍閥を解体するしかない」と考えたのである。こうして河本ら関東軍は満州へ引き上げようとする作霖の乗った列車を狙うことを決め、満鉄線の橋脚に火薬300キロを仕掛け張作霖を列車ごと爆破してしまった。

 関東軍司令部では張作霖を暗殺を国民党の犯行に見せ掛けるため、予め買収しておいた中国人アヘン中毒患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突し、死体を放置して「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるもの」と発表した。しかし3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わったのである。

 この事件では事件の真相を国民に知らされることはなく、昭和天皇からの信頼を失った田中が首相を辞めることに。さらに父親を殺された息子・張学良が軍閥をまとめ、蒋介石の指揮下に入り反日政策を進めていくことことになる。

 当時の中国では、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が政権争いをしていたが、この2つの派閥は国の一大事に手を組み日本軍に対抗することになる。当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組むのを嫌がったが、張作霖の息子・張学良が蒋介石を軟禁して説得したのである。


盧溝橋事件(日中戦争の始まり)
 中国と日本は満州と中国の国境付近ではにらみ合い状態が続くが、1937年7月7日と8日に、北京・豊台区にある盧溝橋で訓練中の日本軍に、何者かが数発の銃弾を打ち込んだ。この発砲の事件を盧溝橋事件と言う。盧溝橋事件で最初に誰が発砲したかの説には多くの説がある。

 中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって挑発したという説もあり、日本軍の自作自演説もある。その他の説としては、中国には国民党と対立していた共産党軍閥勢力があるが、その共産党の陰謀による「日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲」との説もある。ほかにもソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。
 真相は不明であるが、盧溝橋事件で日本軍へ向けて発砲が起きたことから、日本軍はこれを中国軍による攻撃と考え兵を動かした。結果的には日本軍と中国軍との戦闘がおきた。このとき中国軍は日本軍の戦争開始と誤解して日本軍を攻撃したのである。この戦闘を 北支事変と言うが、はたして誰が発砲したかについてはいまだに不明である。現地の日本軍は中国軍の発砲だとして戦闘準備を始めるが、攻撃の許可がないので中国軍への攻撃は中止した。ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで停戦協定が結ばれた。
 だが同月25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん)が起きた。日本政府は中国が停戦協定をやぶったとして、7月28日に日本軍による攻撃が始まり本格的な戦争になっていく。この7月28日が日中戦争の開始時期とさせている。
 満洲事変のきっかけとなったのは1931年9月18日の柳条湖事件で、日中戦争のきっかけとなったのは1937年7月7日の盧溝橋事件である。盧溝橋事件は蒋介石の国民政府軍と日本軍を戦わせるための共産党軍または、蒋介石の国民党軍に潜んでいた共産主義者の作戦であったとされているが、日本の共産主義かぶれの学者やマスコミも認めず、真相は不明である。
 なお日中戦争は日本、中国とも宣戦布告をしていない。日本は宣戦布告をすると、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」とした。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。しかし北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって日中戦争の始まりとする。
  盧溝橋は北京市・豊台区を流れる盧溝河に建っているアーチ型の橋である。1192年に完成した北京最古の石造のアーチ橋で、全長266.5mの楕円形アーチが11個ある造りで両脇の欄干にはすべて形が異なる「石獅子」が501匹鎮座している。中国では「数を数えられない」ことを表現する際に「盧溝橋の獅子」と例えることがあるほどである。

 「東方見聞録」のマルコ・ポーロもこの橋を渡ったことがあり、ヨーロッパでは彼の名にちなんで「マルコ・ポーロの橋」と呼ばれることもある。ヴェネツィア共和国の商人でマルコ・ポーロは「東方見聞録」で、世界のどこを探しても匹敵するものがないほどの見事さと表現し相当お気に入りだった。

 

 

満州事変後の中国
 満州事変が起こり満州国が建国された後も、中国では毛沢東率いる共産党と、蔣介石率いる国民党の内戦が続いていた。しかし盧溝橋事件によって再び日本が中国南部への進出の口実を作ると日中戦争が起こる。それでも対立は解消されませんでしたが蔣介石の部下となっていた張作霖の子・張学良が蔣介石を拉致して毛沢東との結託を提案し、蔣介石はこれを受け入れた。このことを「第二次国共合作」と呼び、中国国内の内戦は一時休戦し、毛沢東と蔣介石は同盟を組み、皮肉なことに毛沢東と蔣介石は、日本という新たな共通の敵に結託せざるを得ないくなったのです。

 しかし日中戦争の終結後に再び内戦が起こり、勝利したのは毛沢東率いる共産党でした。毛沢東は中華人民共和国の設立を宣言、敗北した蔣介石率いる国民党は台湾へと敗走し、台湾民国として独自政権を樹立することになる。張作霖の軍閥を引き継いだ張学良を洗脳し、1936年12月西安事件を起こさせ、蒋介石を監禁させ、解放と引き換えに国共内戦を中止させた。この事により共産党軍に対する国民党軍の攻撃を辞めさせ、さらに蒋介石の国民党軍の中枢に共産党のエージェントを密かに送り込むことに成功します。加えて、蒋介石の国民党政府と日本が和平しないようにように陰謀をめぐらし衝突事件を起こし、着々と全面戦争になるように陰謀を次々と成功させた。
 
襲撃は続く「大紅門事件・廊坊事件」
 盧溝橋事件については7月11日に停戦協定が結ばれたが、その後も戦いは続いた。1937年7月13日には中華民国北平南苑区(現豊台区)の大紅門(だいこうもん)において、日本兵が中国軍に襲撃される「大紅門事件」が発生、さらに翌7月14日にも日本軍騎兵1名が殺された。
 その11日後の1937年(昭和12年)7月25日、河北省・廊坊(ろうぼう)にある廊坊駅では軍用通信回線の修復作業を行うため日本軍の兵士約100名を派遺されていた。その作業を行っている中に、中国軍が修理隊に向けて突然の発砲した。この事件で日本の下士官1名、兵3名が亡くなり、下士官1名、兵9名が負傷。修理中の襲撃に日本側は大慌てだった。
 中国最初の襲撃は小銃と軽機関銃であったが、迫撃砲の砲撃が加えられ日本側は応戦することになった。反撃する気がなくても、このままでば誰も助からないので、攻撃は仕方なかった。そして翌7月26日になると日本軍が中国軍に発砲、戦いに突入していった。戦いは増援が到着した日本軍が有利になり、中国軍を追い詰め中国軍は廊坊付近から撤退した。

本格的な戦争へ発展「広安門事件」「通州事件」
  廊坊事件とは別に、7月26日に事件が起きた。この日冀察政務委員会の第 29軍が支配していた北京・広安門に北平居留民保護を目的に日本軍第 20師団広部大隊がトラック 27台に分かれて門に入ろうとしていた。トラックが到着した際に門は閉められていたが、開門交渉で部隊は門を通過し始めたが、部隊の3分の2が通過したところで突然門が閉められ、中国側は城門や塀の上から手榴弾や機関銃で日本軍を襲撃した。日本軍は門を隔てて分断されているため、攻撃するにも人数は足りない。この事件で日本の兵士15名を含む計19人が亡くなったため、日本軍は28日に総攻撃の開始を決断、本格的な「日中戦争」に突入していった。公安門事件から3日後の7月29日には、現在の北京市通州(つうしゅう)区において通州事件が発生。このときは冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ。中国河北省に存在した政権)保安隊が日本軍の通州守備隊・通州特務機関、日本人居留民を襲撃し惨殺してしまう。この地域は「満州事変」後に停戦協定を結んでおり非武装地域にされていたが、実際には軍人・宋哲元(そうてつげん)の指揮に属するの第29軍一部隊の存在を黙認していた。日本にとっては「まさか」の事態だった。攻撃を受けた日本軍は7月30日に逃走中の冀東政府保安隊約300人を攻め、8月2日には燕郊鎮(河北省の街)に集結する冀東政府保安隊ら約200人に攻撃、さらに8月8日には日本軍が察哈爾省(チャハルしょう)・綏遠省(すいえんしょう)を占領する「チャハル作戦」を実施、中国軍も8月13日に日本軍を攻撃し「第二次上海事変」へと発展してゆく。盧溝橋事件をきっかけとして始まった「日中戦争」は、1941年 12月に日本が「太平洋戦争」を開始したことで拡大、1945年の日本敗戦によって終了するまで続くことになった。この間の日本側からは約45万人、中国側でも多数の死者(300万〜1000万などの説あり)が出たと言われている。事件からすぐに結ばれた「停戦協定」は形だけのものとなっており、「これがうまくまとまっていれば」という考えは事件・戦争につきものなのかもしれない。

南京攻略戦
 1940年の上海戦は4ヶ月ほど続いた。12月には日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろうと考えたのであろう。しかし蒋介石は日本軍の南京の攻略の前に、南京から脱出しており日中戦争はつづいた。 首都の南京を日本が陥落しても、中華民国は首都を重慶などにうつし日中戦争はつづいた。12月の南京攻略のとき、中国政府は日本軍が女や子どもをふくむ多数の住民を殺害したと宣伝し、この南京での殺害事件を「南京大虐殺」とよんだ。
 真偽や実情は今でも不確定であるが、日中戦争の当時は中国政府の主張が事実だろうと思われて南京事件が国際社会に広まり、日本は連合国から非難をあびた。
 日本国政府は、日本国民には特に南京での住民の殺害の有無については語らず、そのため戦後になって極東国際軍事裁判(東京裁判)によって初めて日本国民は南京での虐殺の事件を知ることになる。この南京事件については、いろんな説がある。多くの検定教科は、「日本軍によって女性や子どもをふくむ多数の住民や捕虜が虐殺され国際的な非難をあび、この事件は当時の日本国民には知らされず、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)になって明らかになった」というように、住民虐殺を前提に日本軍の作戦としての事件として紹介している。
 一般住民30万人が殺されたという説があるが、30万人という数字は大げさであり、たとえ住民虐殺があったとしても少ない人数だろうという意見が強い。 住民が殺害されたという人数には数百人から30万人まで様々な説がある。この日中戦争ではソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて中国側を支持していた。アメリカはおもに中国の国民党を援助した。いっぽうソビエトはおもに中国の共産党を援助した。

日本の戦時体制
 日中戦争により日本国民は苦労を強いられた。当時の近衛文麿内閣は国内を戦争に対応するための体制に切り替えようとし、1938年4月に「国家総動員法」を発令。これは政府が国民生活を自由に支配することを許可する法律で、戦争に反対するものを簡単に処罰することを可能にした。1938年、日本政府は国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人が動かせるように「国家総動員法」を定めた。戦争が長びき日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制になった。「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」、「石油の一滴、血の一滴」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語が、戦時下の日本では言われた。

毛沢東、周恩来、劉少奇の証言
 昭和十二年七月七日、午後十時過ぎ、盧溝橋近くに駐留していた日本軍に何者かが発砲した。銃撃は数回にわたったが、日本軍は反撃せず、隠忍自重していた。が、翌日になって日本軍は居留民の保護と自衛のため反撃に出た。この最初の発砲事件が中国共産党が仕掛けた謀略であることは、次の発言で明らかとなった。
①劉少奇の「盧溝橋事件は中共軍の謀略だった」という発言
 当時中国共産党の副主席であった劉少奇が、戦後になって「盧溝橋事件の仕掛人は中国共産党で、現地の責任者はこの俺だ」と証拠を示して西側記者団に発表した。この発表が契機となって、当時戦犯として巣鴨プリズンに拘置中の河辺大将(当時師団長)、当時北京市に本部があった歩兵第一連隊長の牟田口中将は理由も告げられずに釈放された。東京裁判では日本軍が盧溝橋事件を起こしたとされ、現地の日本軍指揮官を処罰しようとしていたところへ、事件を起こした真犯人は中共軍だと発表されあわてて釈放されたのである。
②周恩来は「中共軍が日本軍と国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、相戦わせた」という発言をしている。周恩来首相は昭和二十四年の中華人民共和国樹立宣言の際、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石の軍隊の両軍に鉄砲を撃ち込み、さらに日華協定を妨げたことが中国共産党の今日の栄光をもたらした」と言明している。このことは中共軍が日本軍と国民党軍の両軍に発砲して、両軍を相戦わせ相殺し合わせ、両軍が停戦しないよう平和にならないように仕向け、その結果、自ら漁夫の利を得て中華人民共和国をつくることができたと言明しているわけである。この中共軍の謀略のために、多くの中国人民や日本人居留民の血がながされたのであるある。
③毛沢東は「日本軍のお陰で、中華人民共和国をつくることができた」という発言している。周恩来や劉少奇の言と同じように毛沢東も日本軍と蔣介石を相討ちさせたお陰で、中華人民共和国をつくることができた事を認めている。昭和三十九年(一九六四年)七月十日、毛沢東は当時の日本社会党の委員長だった佐々木更三氏と会見した時の対話の中ではっきりとこの事を、「過去において日本軍国主義が中国を侵略し、皆さんに多大の損害をもたらしました。われわれは皆、非常に申し訳なく思っております。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。皆さんの皇軍なしにわれわれが権力を奪取することは不可能だった。過去のことは話さないようにしましょう。過去のああいうことはよいことであり、われわれの助けになったと言えるのです。中国人民は権力を奪取しました。同時に皆さんの独占資本と軍国主義はわれわれを助けたのです」。要するに毛沢東は「われわれは日本軍のお陰で権力を奪うことができ、中華人民共和国をつくることができた。この点でわれわれは日本軍に感謝している。だから日本人は謝ることはありません」と言っているわけである。

日本の戦後体制
 「日本は、領土的野心を実現させるために満洲国を建国し、さらには中国を支配下に置こうとした」という前提で説明するのが、現在の日本の歴史教科書であり、中国の主張する歴史である。さらにその歴史的な事実とされるものを中国は平気で捏造し、それを追認するのも日本の歴史学者でありマスコミである。
 日清戦争・日露戦争の結果、日本は中国の東北部(満洲)に鉄道を引き工場を建てた。当時としては非難されるべきことはなかった。中国も日本の進出を歓迎していた。1919年共産主義化したロシアは共産主義洗脳を中国に展開し、反日運動を煽り、ロシアは日本と中国を戦争させ疲弊させ、中国もさらに日本も共産主義化しようとした。ここで日中の友好関係は崩れ、すべての元凶はロシアの共産主義革命にある。
 満洲や中国の沿岸部にある日本の工場や鉄道などのインフラに中華民国の国民党政府軍が攻撃をしかけ、虐殺を繰り返すということであれば、当時の常識として軍隊で日本人の所有する工場を守るということが常識で、国際的に認められている権利であった。満洲国が建国されたのは、結局、ロシアの革命派が中国のナショナリズムを煽ったのが原因です。中国人が「満洲から日本人は出て行け」と言うようになり、それまで経済的な投資をしていた日本は投資先が危なくなったので、出費を無駄にしないためにも満洲国を建国したというのが経緯である。
 また昭和十二年七月七日の盧溝橋事件発生の翌日には、日本政府は「事件不拡大、局地解決」という方針を決定し、現地軍に指令するなど戦線拡大方針をこの事件でも貫いた。しかしこの後、周恩来の言葉にもあるように、日本と国民党政府との間の停戦協定締結の動きは、その都度中国共産党の妨害工作によって防げられた。日本が戦争に起ち上がらないのを不満とした共産党は日本人居住民を皆殺しにする通州事件を起こし、次に済南事件、上海事件のような日本人や日本軍に対するテロ事件を起こし、日本軍を大陸に誘いこんでいった。日本政府はこれを戦争とは考えず「北支事変」として処理しようとしたのに、無理矢理大陸の奥地にまで引っ張りこまれ、これを「支那事変」に広げられてしまったつまり、日本軍は中共の罠に掛かり「モグラタタキ」をさせられたのである。
 戦争ではないので政府は中国に宣戦布告をしていない。シナ側が勝手に日中戦争に仕立てて、日本の侵略戦争だと内外に宣伝したのである。その上アメリカのルーズベルトも大量の援蔣物資を送って事件を長期化させ、日本の大国力と戦力を消耗するのを助けた。日中戦争は日本の国力を弱めさせるために、シナが日本を挑発し、仕掛けた戦争だったとも解釈できる。日本の歴史教科書は日中戦争は日本が中国を侵略した侵略戦争だとして、戦後六〇年も子どもたちに教えこんできた。さらにマスコミや一部の政党、言論団体および政治家が、「日本は中国を侵略したのだから中国に謝罪しなければならない。戦争責任を負わねばならない」と言っている。
 近ごろ激しくなった中国の反日デモは、こうした日本人の自国を貶めるような自虐的姿勢が招いたものである。中国共産党の指導者だった毛沢東が、「われわれは日本軍のお陰で中華人民共和国をつくることができた。だから日本は中国に謝る必要はありません」と言っているにもかかわらず、それでも日本人謝りつづけるのである。国としても公式に数十回謝罪しているし、個々の国会議員が訪中して中国要人に謝罪しりしている。戦後教育で育った日本国民の多くは、日本は「日中戦争」で中国を侵略し、悪いことをした国として洗脳されているが、これはまったくの誤りで、自虐的歴史観である。この俗説をふまえた村山首相(当時)の中国への謝罪談話、これを追認する小泉首相など政治家までがそのワナに嵌められているのは残念であれる。歴史的には「日中戦争」なる戦争は存在しない。これは中国が、自国民の愛国心を高め日本を叩くために捏造した「歴史」である。日中戦争とは中国の自作自演だったと言える。