新たな学問の潮流

新たな学問の潮流

 江戸時代は平和が長く続いたために学問が非常に栄えた。幕府は儒学の一派である「朱子学」を重視した。朱子学は、「目下は目上を敬うべき」といった道徳論なので、幕府が既成秩序を維持する上で有用な道具だったからだ。しかし儒学の中にもいくつもの潮流があった。例えば「陽明学」は儒学の一派でありながら既成秩序を否定する傾向が強く、幕府に対する反骨精神を涵養する特徴があった。例えば大阪で圧政に苦しむ庶民のために武装蜂起した大塩平八郎(1837年)は、幕臣でありながら陽明学者でもあった。しかし幕府は儒学の一派であるという理由で、あまりこの学問を弾圧出来なかったようである。

なお幕府が安心して擁護できたはずの「朱子学」も、水戸藩などで過激化しいわゆる「尊王思想」が誕生した。なぜなら朱子学をとことんまで追求すると、「天皇と朝廷は幕府よりも偉いはずなのに、幕府が朝廷をないがしろにするのはおかしい」という結論になる。この思想が、「朝廷のために幕府を倒すべし」という尊王倒幕運動に発展するのは道理からいって当然のことであった。

より重要なのは、「国学」である。本居宣長や平田篤胤で有名なこの学問は、古事記や日本書紀の昔を研究し、日本人としての真のアイデンティティを模索するものであった。この教えは万世一系の天皇家に対する人々の郷愁を呼び起こし幕末維新の大きな原動力になる。

江戸幕府は庶民を「愚民化」することで既成秩序を護持しようとした。しかしいかに強権的な江戸幕府といえども、勤勉な日本人の向学心まで奪い取ることは出来なかった。そして案の定、学問の発展は賢い庶民を大勢誕生させ、そのことがついに幕府の首を締め上げることになったのだ。

しかし江戸期の進んだ学問の潮流は、明治維新以降の日本の躍進の重要なバックボーンとなった。杉田玄白らの「蘭学」は西洋文明の咀嚼を容易にし、石田梅岩が創始した「心学」は、滅私奉公する日本型サラリーマンにその理論的背景を与えた。そういう意味で我々は「愚民化政策」を徹底できなかった江戸幕府に感謝するべきなのかもしれない。