鎌倉文化

鎌倉文化
 鎌倉時代には、それまでの公家に代わって武士が文化の中心となったことで、公家文化の流れをくみながらも素朴な力強さを持ち、また鎌倉仏教や中国の宋や元の文化の影響を受けながら、独自の成長を見せてきた。
 学問や文芸の世界でも新しい動きが始まりました。鴨長明が天変地異や戦乱が続く世の中の無常さを方丈記にまとめたほか、関白九条兼実(くじょうかねざね)の弟で天台座主(てんだいざす、延暦寺の最高位の僧職)の慈円(じえん)は、承久の乱の直前までの道理による独自の歴史論を展開した愚管抄を著した。
 和歌の世界では、西行が出家後に諸国を渡り歩くなかで山家集をまとめたり、後鳥羽上皇の勅撰(天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)によって新古今和歌集が、藤原定家や藤原家隆(いえたか)らによって編集された。
 新古今和歌集は、平安時代までの伝統を受け継ぎながらも、技巧的な表現や洗練された歌風が広く受け入れられ、武士の間にも広まった。第3代将軍の源実朝(さねとも)もその一人で、万葉調の歌を集めた金槐和歌集を遺した。なお「金」は鎌倉の「鎌」の偏(へん)を、「槐」は大臣の別称を表している。
 鎌倉幕府の成立の過程には源氏と平氏による戦いがあったが、これら源平両氏の栄枯盛衰を主題として、実際の武士の戦いぶりを描いた軍記物語がつくられた。軍記物語は語り物の形態による新しい文学の形式をもち、なかでも平氏の興亡をつづった平家物語は、琵琶法師によって平曲として語られたことによって、文字の読めない人々にまで広く親しまれました。
 説話文学としては、院政期に成立した今昔物語集とともに「日本三大説話集」と称される古今著聞集(ちょもんじゅう)や宇治拾遺物語(しゅうい)が成立している。
 また鎌倉時代末期には吉田兼好(兼好法師)による独自の広い見聞や観察眼によって、徒然草という随筆集の名作が生まれました。
 鎌倉時代は武士の政権だったことから、貴族の間では過ぎ去ってしまった古きよき時代への回顧や歴史の尊重という姿勢がみられ、順徳天皇ご自身の手による禁秘抄(きんぴしょう)などの、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)が盛んとなりました。
 一方、武士の間でも、承久の乱の後に学問を好む風潮が高まったことで、北条泰時の甥(おい)にあたる北条実時(さねとき)が、鎌倉の港であった金沢の地に私設の図書館となる金沢文庫を建てて、和漢の優れた書を集めて学問に励みました。また、鎌倉時代中期までには幕府の歴史を編年体でつづった吾妻鏡も成立しています。
 なお、鎌倉時代の末期には宋の朱熹(しゅき)によって広まった儒学の一つである宋学が伝わりました。朱子学とも呼ばれた宋学における、臣下として守るべき道義や節度などのあり方を示した大義名分論は後世に大きな影響を与え、鎌倉幕府に対する討幕運動への思想的な支柱となった。

同じく末期の頃には、伊勢神宮の外宮(げくう)の神官であった度会家行(わたらいいえゆき)によって独自の神道理論である伊勢神道が生まれた。度会家行は、著書である類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)の中で、従来の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に対して、逆に仏が神の化身(けしん)としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)を唱えている。
 鎌倉幕府成立前に起きた源平の争乱によって、東大寺の大仏殿が消失するなど、奈良の諸寺は大きな被害を受けましたが、その復興のために重源(ちょうげん)が大勧進職(だいかんじんしょく)として必要な資金を集めたことで、南宋の寺院建築を基本とした大仏様の形式で東大寺が再建されました。
 大仏様は天井を張らずに全体的な構造美を示すことによって、大陸的な雄大さと豪快な力強さを表現しており、代表的な遺構(昔の建造物の残存物)としては東大寺南大門が挙げられる。
 鎌倉時代中期になると、細かい部材を組み合わせることによって、清楚で整然とした美しさを表現した禅宗様(ぜんしゅうよう、別名唐様)が伝えられました。円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などがその例です。
 また、平安時代以来の我が国の伝統建築様式である和様)に、大陸伝来の様式を巧みに取り入れた、河内国の観心寺金堂などを代表とする折衷様も生み出されました。
 仏像彫刻では、東大寺や興福寺の再建に参加した奈良仏師の運慶(うんけい)や快慶(かいけい)らによって、奈良時代の彫刻の伝統を受け継ぎながらも、写実的で力強く、また豊かな人間味あふれる名作を残しました。東大寺南大門の金剛力士像などが代表的作品です。この他、一般には「鎌倉大仏」と呼ばれ親しまれている、鎌倉の高徳院の阿弥陀如来坐像も鎌倉時代につくられたとされています。
 絵画では、平安時代末期に始まった絵巻物が引き続き盛んにつくられ、人物の一代記を描いた一遍上人絵伝(しょうにんえでん)や、合戦における戦いぶりを描いた蒙古襲来絵詞(えことば)・平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)などの作品が生まれました。また、個人の肖像(しょうぞう)を写実的に描いた似絵もつくられ、藤原隆信(たかのぶ)・信実(のぶざね)父子による名作が生まれました。
 書道では、宋や元の書風が伝えられたことで、伏見天皇の皇子であった尊円法親王(そんえんほう)によって、平安時代以来の世尊寺流(せそんじりゅう)を基本とした青蓮院流(しょうれんいんりゅう)が新たに創始されました。
 工芸面では武家政権の影響を受けて武器や武具の製作技術が進歩したことで、刀剣では備前国(岡山県南東部)の長船長光(おさふねながみつ)や京都の粟田口吉光、鎌倉の岡崎正宗(おかざきまさむね)らが名作を残しました。また、宋の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)が輸入されたことで、尾張国(愛知県西部)の瀬戸焼(せとやき)を初めとする陶器の生産も盛んとなりました。