失敗は失敗のもと

失敗は失敗のもと
 失敗は成功のもとであるが,この格言がいつも正しいとは限らない.特に公的システムにおいては,失敗が失敗のもとになることが多い.公的システムは正義のクレーマーに弱いのである.
 不祥事が起きるたび,事前に対策のなかったことが追及される.規制緩和を訴える者までが「なぜ事前に規制をしていなかったのか」と目をつり上げて追及する.失敗から学ぶべきは再発を防ぐ心掛けであるが,心掛けでは形にならないので手間隙かけて予防策を作ろうとする.その結果,失敗のたびに多くが犠牲になる.
 ジェットスキーで事故が起きると免許制が導入され,株の取引に不正が生じると株取引監視委員会が発足する.給食で食中毒が発生すると生ものは禁止され,水害が起きればダムの建設が検討される.交通事故が起きると交差点に信号がつけられ,街中が信号だらけとなる.
 文句を言われる省庁は,職務怠慢との批判を避けるため,完璧な対策を作ろうとする.再発防止策の名目があれば公的規制,公的機関の設置に反対する者はいない.そのため省庁はクレームに便乗し規制の強化をはかることになる.省庁はクレームに頭を下げながら省益拡大に内心ホクホクとなる.国民のための規制が省庁のための規制となり,政府と行政は肥大し動脈硬化をきたすことになる.
 文句を言うのは簡単である.しかし文句を言えば言うほど,その対策が日常の自由を制限することになる.自らの首を絞めることになるのである.
 人が電車に飛び込めば,鉄道会社は遺族に賠償金を請求する.しかし患者が病院の屋上から飛び降りれば,遺族は病院の管理責任を追及する.追求された病院は,再発予防のため屋上に鍵を掛け,そのため患者の憩いの場所がなくなってしまう.
 老人が家で転倒すれば,家族は病院へ連れてくる.しかし入院患者が転倒すれば,家族は病院の過失を追及する.その結果,老人は転倒防止のためベッドに縛られ,誤飲防止のため点滴管理となる.
 このような不自由は世間が文句を言いすぎ,管理者の責任を追及しすぎるからである.そして文句を言いすぎると,不可抗力を追及しすぎると,失敗は教訓とはならず,当事者の責任回避対策だけとなる.表面的な対策はできても,他の多くの人たちに不自由を強いらせることになる.
 クスリの説明書には「本剤に過敏症のある者には投与してはいけない」と書いてある.このように当たり前のことを記載するのは製薬会社の責任回避のためである.そのために説明書の分量が増え,副作用のポイントが不明瞭となる.
 医療費抑制を唱える厚生省が,事あるごとに「心配な方は医療機関を受診してください」と言うのも保身的責任回避の言い方である.
 誤診の報道が重なると,医師は失敗を恐れ過剰診療となる.結核を恐れカゼの患者に胸部X線をとり,胃癌を恐れ腹痛患者全員に内視鏡を施行する.手抜き医療や過剰診療は非難すべきであるが,誤診の恐怖から検査漬けクスリ漬けとなる.やらないで批判されるより,やって収入を得る方がよいに決まっているからである.誤診を批判しすぎると防衛医療となり,国民医療費は高騰することになる.
 輸血によるGVHD(移植片対宿主反応)の発症は非常にまれであるが,GVHDが問題になると,予防のため輸血パックに放射線が照射され,輸血には本人の承諾書が必要になる.この輸血承諾書によりエホバの証人の言い分は認められ,医療の決定権は医師から患者側に移ることになった.厚生省の通達が医師と患者の立場を変えたのである.
 病院において院内感染が問題になると院内感染対策委員会が作られ,次いで医療事故防止委員会,機種選定委員会,……責任を問われる管理者は責任を回避するためのマニュアルを作り管理を強化する.あるいは事前に対策を立てていたポーズをとる.しかし分厚いマニュアル本など誰も読まないから,心がけを変えずにシステムを変えても,仏作って魂入れずとなる.
 医師の不祥事が起きるたび,その予防策がつくられる.治験の不正が発覚するとマスコミは医師へのバッシングを繰り返し,そのため治験の条件は建て前重視の現実離れとなる.医師は営利企業のボランティアではないので,無報酬の治験などやる気の起きるはずはない.不正を防止する正論はもっともであるが,これでは治験は成立しない.
 カルテ開示が最近の話題であるが,これは厚生省と安部教授が関与した薬害エイズの影響である.「事前にカルテ開示があったならば,あの悲劇は起こらなかった」とする正論に押されたのである.当然と言えば当然であるが,カルテ開示の煩雑さへの対策はない.真面目な臨床医25万人の迷惑である.
 正義のクレーマーは正論を言うから反論はできない.反論できない正論ほど厄介なものはない.世の中が正論で良くなるならば問題はないが,正論は往々にして世の中を混乱させるのである.