医者の悪口

医者の悪口
  世間ではなぜか医師の評判が良くない。医師の評判が悪いので、医師を悪者に仕立てるテレビ討論会が故意に企画され、そして思惑通り安い制作費でそれなりの 視聴率を上げている。この種の番組パターンは大体同じである。例外的な医療の事例を挙げ、正義の仮面をかぶったコメンテーターが憤りを示し、常連の「はみ だし医者評論家」が医師の性悪説を発言する。「はみだし医者評論家」は自己宣伝のため、日本の医師の悪口を誇張して、自分以外の医師を非人間的な医師に仕 立てようとする。
  このように医師の悪口を言う医者は、たとえ彼らの発言が本当だとしても社会悪のひとつである。なぜならば、彼らの発言が「患者と医師の信頼関係、患者の家 族と医師の信頼関係」を崩壊させているからである。彼らの言動は、結婚前のカップルに「日本人は浮気性で、浮気している夫婦ばかりだ」と言っているような ものである。ウソではないにしても、真実とは異なる発言でお互いの信頼関係を歪ませている。
 医療には例外的に悪い事例も確かにある。また悪口に値するような医師がいることも事実である。しかし結婚前から相手が浮気者であるような噂を流すのは良くない。医師と患者の共同戦線を妨げているのが、この医者の医者による医者への悪口である。
  患者も可哀相といえば可哀相である。医師の前では自分の命がかかっているので「お医者様」と愛想をふるうが、いったん病室を出ると「あの医者野郎」と本音 を語ることがある。なぜ「お医者様から医者野郎」に形容詞が変わるのだろうか。その原因は、患者が病気の本質を知らず、また医師もそれを説明する時間と能 力がないからである。さらに患者が医師に過度の期待を持ちすぎることも原因となる。
 病気は複雑で個人差が大きい。このことを理解してもらうには時間が必要である。しかし3時間待ちの3分診療で何をどのように説明すればよいのだろうか。患者は自分の病気をきちんと診て欲しいと思う。きちんとした説明を受け、納得した上で治療を受けたいと思う。しかし説明する時間などどこにもない。それでいて説明できない医師の責任ばかりを責めるのは酷である。
 患者にとって主治医は1人であっても、医師にとってはその患者は数100人のうちの1人である。しかし患者にすれば、自分の病気を左右する医師を独占したいと思う。医師に何人の患者がいても医師を自分で独占したいと思う。そしてそれが出来ない現実を前に患者の不満が大きくなる。
  病気や治療の経過はワンパターンではない。例外が多すぎて、説明しても説明どおりにいかない場合が多い。大丈夫と説明しても大丈夫とは限らない。このよう な場合、患者は納得できずに文句を言う。しかしそれは医師の見立て違いではなく、人間と病気の多様性、不確実性によるものである。これらは人間の英知を越 えたもので、すべてを説明できるほど医学が進歩しているわけではない。むしろ分からないことばかりである。
 このように医学や医療には分からないことが多いことを患者は分からない。患者や家族が説明を求めても、医師でさえ納得できない病状の変化を患者や家族が納得できるはずはない。医師のこじつけに近い説明が、欺瞞的な自己弁護と受け取られてしまう。
 これを解決してくれるのが医師と患者、医師と家族の信頼関係である。
  サービス業の人たちにマイクを向けると、異口同音に「お客様が喜んでくれるのが一番うれしい」と答える。この答えは正しいようにみえるが、それは建前で あって本音は違う。一番うれしいのはサービスに見合う給料である。お客様が喜んでくれても、給料が安ければ転職を考えるのが普通である。
  同じように医師たちにマイクを向けると「患者さんの病気が治り喜んでくれるのが一番うれしい」と答える。この答えも正しいようにみえるが、本当に医師がう れしく思うのは患者の感謝の気持ちを感じる時である。そして一番辛いのは病気の悪化の責任を家族から責められた時である。
 ドクターハラスメントという言葉が流行している。それはそれとして反省するとして、その逆のケースも意外に多くみられる。自分を弱者と思い込み、相手を攻撃する逆ハラスメントを最近感じるようになった。ボタンを掛け違いハラスメントである。
  同じ人間なのに、最初から相手を責めようと構えているのが分かる。相手の気持を考えない殺伐とした風潮が、医療においては医師性悪説の先入観が、かつては 笑って聞き流せたものでも許せなくなっているのであろう。ギスギスとした人間関係を感じるのである。社会悪を生んでいる「はみだし医者評論家」をなんとか してほしい。