運命の確率

運命の確率

  ロスタイムのボールがゴールに吸い込まれた瞬間、日本人の多くが言葉を失い呆然となった。サッカーアジア予選におけるドーハの悲劇である。そして短い静寂 が過ぎた後、この運命の1球をめぐりさまざまな論評がなされることになった。解説者は日本サッカーのレベルの低さを、さらには選手の練習態度から気象条件 に至るまで敗因を分析したのである。日本サッカーを賞賛するはずだった内容が、数秒後には批判する内容に変わったのである。

  原因があって結果が生じるのが物事の因果関係である。しかしながら、私たちの生活においては、結果があって次に原因を導こうとする逆の思考が働く場合があ る。あの1球を偶然の1球とは言わず、何々がなければあの1球は生じなかった、と意味づけをしたがるのである。これは不都合な運命を因果関係で納得させよ うとする人間の習性といえる。

 この無意識の習性が顕著にみられるのが、政治、経済、スポーツなどの解説である。まず結果を知り、次にスケープゴートを探し、両者をもっともらしい理屈で結びつけ、最後に結果の責任をスケープゴートに押しつけるのである。

 数年前に現在の政治や経済の混乱を誰が予測したであろうか。神戸の大震災、横浜ベイスターズの優勝、笑顔に満ちた新婚カップルの離婚を誰が予想したであろうか。一カ月後の天気を予報できないように、未来を予測することは人間の英知では不可能なのである。

 このような将来予測のなかで、偏差値による大学の合格率、明日の天気、競馬の勝敗などは、確率の範囲内においては予測可能である。しかし、これが病気の予測になるとこれまた不可能に近い。

  肺癌の原因をタバコと言いながら、喫煙者全員が肺癌になるわけではない。タバコを吸いながら肺癌にならない方が圧倒的に多いのである。ストレスやヘリコバ クターを消化性潰瘍の原因と言いながら、これらが関与しない潰瘍の方が多いのである。コレステロールを動脈硬化の原因と言いながら、年齢がくれば全員が動 脈硬化をきたすのである。このように病気の危険因子は、いかめしい名称の割には運命の確率を多少上げているにすぎない。

  医療において、気まぐれな運命の支配を最大に受けているのは偶発する医療事故である。予防接種後の脳炎、手術の麻酔から覚めない患者、クスリの副作用、分 娩時の事故などは、どれほど注意しても一定の確率で生じるものである。問診や予診を厳密にやったからといって事故を防げるものではない。事故が起きた場 合、問診や予診の有無を問題にするのは、それがスケープゴートとして適切かどうかを問いているのであって、儀式の有無に責任を負わせているのである。

  医療事故が起きた時、一般の人たちは事故を偶発とは考えず、何らかの因果関係に起因すると思っている。ああすれば事故は起きなかった、と信じ込むのであ る。また科学的な説明が困難な場合でも、医師の不注意や不誠実な態度が引き起こした事故と理論づけるのである。この一般人の反応は医療事故ばかりではな い。治療によって病気が改善しない場合にも同様の心理状態となる。

  病気の原因については、患者はある程度運命と納得している。これは自分と病気の間に誰も介在していないからである。しかし病院を受診していながら病気が改 善しない場合には、これを運命の結果とは考えずに医師のせいにしたがる。これは患者と病気の間に新たに医師が介在してくるので、当然医師がスケープゴート になるのである。

 これほど医学が進歩しているのに、なぜ病気が治らないのか。この素朴な不満の原因を医師の能力や誠実性の違いに求めることになる。もちろん医師の腕に違いはあるが、運命に支配された病気の経過を変えるほどの差ではない。

  病気の原因の大部分は不明であるが、治療後の経過も複雑かつ不確実である。Aという物質にBという物質を加えればCになる。このような化学式で説明できる のが科学である。しかし病気の治療については、Aという病気にBというクスリを投与すれば、改善するのが何%、改善しないのが何%というように偶然性に支 配されているのである。もし医学を科学と呼ぶならば、医学は複雑系における確率の科学なのである。この点が一般人の考える医学の科学性とは異なっている。

 医学は科学である。このように医師が世間に宣伝し過ぎた結果、患者は病気のすべてを科学的手法で説明がつくと思い違いをしている。医師にとって科学的思考は大切であるが、病気の大部分は非科学的な偶然性に左右されている。

 偶然とは運命であり、そこには因果関係は存在しない。このデタラメに発生する悪い結果に対し、理不尽にも医師が責任を負わされることになる。まさにスケープゴートである。

 これは不都合な運命を第三者に責任転嫁させようとする世相が、一般人の心にまで染み渡っているせいかもしれない。