幼児大腿四頭筋短縮症

幼児大腿四頭筋短縮症 昭和48年(1973年)

 昭和48年10月5日、朝日新聞は「幼児集団奇病 山梨で23人が歩行困難 原因はカゼの注射?」の見出しをつけ、全国版の1面でこの記事を報じた。朝日新聞は、山梨県南巨摩郡鰍沢町と隣の増穂町を中心に、ひざ関節が曲がらず、足がつっぱったまま歩行や正座ができない幼児が20数人いることを伝えたのだった。

 この幼児の奇病を最初に気づいたのは地域の保健婦だった。保健婦は家庭訪問で歩行に障害を持つ幼児が多発していることを不思議に思っていた。保健婦は保健所所長に原因究明を進言したが実現せず、親を説得して病院での診察を勧めたが、幼児たちはどの病院でも異常なしといわれた。「奇形」の幼児を持つ親たちは、周囲からカタワ者の家系といわれるのを恐れ、ひっそりと暮らしていた。

 この奇病が公になったきっかけは、増穂町に住む大工が奇形の孫を連れて、山梨県立中央病院の副院長宅へ仕事に行ったことだった。副院長夫人は奇形の孫を見て、県立中央病院の整形外科で診てもらうことを大工に勧め、孫は整形外科で大腿四頭筋短縮症と診断され、手術を受けることになった。手術は成功し、歩行障害が治ったことが増穂町で評判になり、同じ症状の幼児たちが県立中央病院に押し掛けたのである。

 この事態に病院関係者は驚き、町役場もこのことを重く受け止め、歩行困難の集団検診を行い、乳児33人中25人が大腿四頭筋短縮症であった。この障害について、先天性の奇形、風土病、筋ジストロフィー、農薬中毒、新しい公害などがうわさされたが、母親からの聞き取り調査から、先天性疾患ではなく、後天性の可能性が出てきた。

 母親の話からS産婦人科医院(慶応大医学部卒業)に疑いの目が向けられた。障害児たちは例外なくS産婦人科医院を受診していて、風邪や下痢などで大腿部に筋肉注射を受けていた。子供に注射を打つ場合、尻に打つことが多いが、S産婦人科医院では仰向けのまま大腿部の前面に注射をしていた。子供はうつぶせにさせられただけで、恐怖心から泣いてしまうが、仰向けの場合は子供が泣く前に注射は終わっていた。S産婦人科医院では、子供の風邪にも頻回に注射を打ち、生後1年間に最高150回の注射を受けた乳児がいた。

 大腿四頭筋短縮症とは、大腿四頭筋の伸展性が失われ、膝の関節が曲がらずに歩行障害をきたす疾患である。大腿部前面にある4本の筋肉の弾力性と伸展性が失われ、足が突っ張ったまま状態となった。そのため尻を突き出しで歩くことになり、その姿が「アヒル」や「ゴリラ」と似ていて、周囲から奇異な目で見られた。ひざ関節の屈曲障害が強くなると、歩行だけでなく正座もできなくなった。地元医師会が「筋肉注射とこの奇形との関連性」を調べたが、明確な関連性を認めなかった。

 ちょうどそのころ、東京大医学部講師の高橋晄正が、増穂町に薬害問題の講演に来ていた。当時、スモン、コラルジル中毒、クロロキン網膜症などの薬害が問題になっていて、高橋晄正は「薬を監視する国民運動の会」を創設し、薬害運動の中心になっていた。高橋晄正は大腿四頭筋短縮症の存在を知らずにいたが、講演での聴衆との質疑によって初めて知ったのである。

 高橋晄正の行動は速かった。大腿四頭筋短縮症の原因解明を約束して東京へ帰えると、自主検診医師団を結成、昭和49年3月9日と17日に子供たちの検診を行った。この検診によって、171人の子供のうち130人が大腿四頭筋短縮症と診断された。大腿四頭筋短縮症の子供は例外なく大腿前面に注射を打たれていて、障害の程度は注射の回数に比例していた。

 同年12月18日、テレビの「奈良和モーニングショー」で、ひざの曲がらない奇病と自主検診医師団が特集として放映されると、全国の母親たちは騒然となった。多くの母親は、子供が風邪などで頻回に注射を受けていることを知っていたからである。大腿四頭筋短縮症は全国から注目を集めることになった。

 大腿四頭筋短縮症は、昭和21年に東京女子医大の森崎直木が初めて症例を報告して、筋肉注射が原因としていた。しかし散発的な発症から、筋肉注射の危険性は軽視されていた。しかし昭和30年代の後半になると、消炎鎮痛剤や抗生物質などの開発が進み、筋肉注射が急増することになる。昭和35年に南江堂から出版された日本外科全集には、「大腿四頭筋短縮症の原因は大腿部前面への注射による」と記載されたが、小児科医の大腿四頭筋短縮症への認識は乏しかった。

 昭和36年に国民皆保険制度が開始されると、患者の医療費負担が少なくなったため、医療機関を受診する患者が急増し、大腿四頭筋短縮症も増えていった。大腿四頭筋短縮症は筋肉が未熟な幼児期に多かった。幼児期は筋肉が未熟な上に、大腿前面に注射をされる場合が多かったからである。この大腿四頭筋短縮症は山梨県だけでなく、日本各地で急増していた。

 国民皆保険制度は医師の技術料を低く設定したため、医療機関は注射や薬を乱発するようになった。風邪や下痢で受診すれば、すぐに筋肉注射となった。風邪はウイルス性疾患なので抗生物質の効果は期待できないが、大腿四頭筋短縮症をきたした患者の8割が風邪で、1割が下痢の診断で筋肉注射を受けていた。使用された抗生物質はクロラムフェニコール、解熱剤はスルピリンが多かった。

 山梨県の幼児大腿四頭筋短縮症が全国に報道されると、同じ症状の子供たちが各地で集団発生していたことが分かった。昭和37年には、静岡県伊東市宇佐見地区で約30人が集団発生し、「泉田病」とよばれていた。東京大学整形外科・三木威勇治教授が調査して、特定の医院の小児患者から発生していたことから、「泉田病は頻繁な大腿部への筋肉注射のため」とした。しかし、患者と医院の間で示談が成立したこともあり、三木教授は筋肉注射の危険性について沈黙したままであった。

 昭和44年には福井県今立町で乳児大腿四頭筋短縮症40人の親24人が現地の小児科医を追及したが、医師会の斡旋により示談が成立した。また同年には名古屋市、福島市で各10数人の大腿四頭筋短縮症が集団発生しているが表面化しなかった。

 東北大学小児科は、昭和26年から48年までに120例の大腿四頭筋短縮症を経験していたと報告。東大でも19例を報告している。なお筋短縮症は筋肉注射による筋肉障害の総称で、注射を打たれた場所により大腿四頭筋短縮症(太もも)、三角筋短縮症(肩)、上腕三頭筋短縮症(腕)、殿筋短縮症(尻)などがある。

 昭和48年、昭和大学の坂本柱造は、「大腿四頭筋短縮症に関する研究(昭和医学会雑誌、46,8,26)」で、ウサギに抗生物質を投与し、筋肉注射部に筋線維の萎縮を認め、注射の量と筋線維の萎縮が比例することを報告している。このように坂本柱造が重要な実験結果を示したが注目されず、筋肉注射による筋短縮症はが社会問題になるまで時間を要した。

 山梨県の大腿四頭筋短縮症が注目されたのは、東大講師の高橋晄正を中心とした自主診察団によるもので、自主診察団は高橋以外に宮田雄祐(大阪市大小児科講師)、今井重信(整形外科)、飯田鴎二(富山労災病院整形外科)など、全国の医師150人によって構成されていた。

 昭和50年5月18日、 日本小児科学会は、「大腿四頭筋短縮症は、頻回な注射が原因」と発表。注射の物理的刺激と薬剤による筋肉組織の破壊が運動障害を起こしたとして、風邪には筋肉注射をしないこと、抗生物質と他の薬剤を混合して注射しないことが取り決められた。

 この大腿四頭筋短縮症は裁判で争われ、山梨県では158の家族が医師、厚生省、製薬会社を相手に66億7000万円の損害賠償を東京地裁に訴えた。医師は診察上の注意義務違反、国は医薬品の製造認可に関する注意義務違反、製薬会社は注射液の安全性の責任について訴えられた。これに対し、医師は「子供の病気を治すには、注射はやむを得なかった。注射によって筋短縮症が発症することは予測できなかった。注射液には筋肉注射用と記載されており、筋肉用を筋肉に使用しただけ」と主張した。国と製薬会社は「注射行為は医師の自由裁量で、医師の注射乱発が原因」と言い張り、医師、製薬会社、厚生省は責任の転嫁を繰り返した。

 昭和50年、厚生省は「大腿四頭筋短縮症は重症が1552人、軽症が1177人」と発表したが、高橋晄正は、自主検診から全国には1万人を超える患者がいると推定していた。

 当時、高橋晄正は製薬会社の儲け主義、医師の権威主義を打破する旗頭であった。昭和40年代の医療を知る者にとって、高橋晄正の名前は忘れることのできない存在であった。平成16年11月3日、高橋晄正は心不全のため死去、86年間の人生であった。