水虫のレントゲン治療

【水虫のレントゲン治療】昭和25年(1950年)

 茨城県土浦市の会社員・長谷川一郎さんは、京大法学部の学生だった昭和24年春頃から、難治性の水虫に悩まされていた。そのため25年4月、東京第1病院の皮膚科を受診し、レントゲン照射による水虫の治療を受けることになった。レントゲン照射は1週間から10日置きで、1回100から120γのレントゲンの照射を受け、2年3カ月で総量5040γのレントゲン照射を受けていた。

 昭和27年4月、レントゲン照射部位に黒色の斑点が出現したが、東京第1病院の医師は治療を続行。不安になった長谷川さんは東大付属病院を受診、教授の診察により黒色の斑点がレントゲンによる放射線障害と診断された。

 レントゲン照射は中止され、温泉療法などの治療が試みられた。しかし昭和31年頃から照射した皮膚の部位に潰瘍が生じ、昭和33年5月、東大付属病院で潰瘍部位が皮膚がんと診断され、右大腿部切断の手術を受けることになった。さらに同年11月には左の皮膚にもがんが見つかり、大腿部からの切断を余儀なくされた。

 長谷川さんはレントゲン照射を続けた東京第1病院の医師の過失を裁判で訴えた。東京第1病院は国立病院なので、国を相手に損害賠償提訴を起こした。

 この裁判ではレントゲンと皮膚がんとの因果関係が争点となった。当時の教科書的知見としてはがんの発生を伴わない線量は600から1000γとされていた。長谷川さんに照射された量はこの安全値をはるかに超える線量であった。昭和39年5月29日、東京地裁は長谷川さんの言い分を認める判決を下し、第二審でも同様の判決が下された。東京第1病院はミスを認め460万円の慰謝料を支払うことで和解した。

 水虫の治療としてのレントゲン照射は、現在では想像もつかない治療法であるが、当時は一般に行われていた。現在では水虫の薬は薬局の店頭にあふれているが、当時は水虫の特効薬を発見したらノーベル賞といわれていた。この裁判では、治療としてのレントゲン療法の是非は争点とはならず、必要以上のレントゲン量を照射したことが医師の注意義務違反とされたのである。