帝銀事件

帝銀事件 昭和23年(1948年) 

 昭和23年1月26日の午後3時半すぎのことである。東京都豊島区長崎町の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店が閉店した直後、厚生省技官兼都防疫課員と名乗る45歳ぐらいの中年男性が通用門から入ってきた。グレーのコートを着た中年男性は東京都の「防疫消毒班、消毒班長」の腕章をつけ、名刺を行員に差し出し支店長に面会を求めてきた。当日、支店長は腹痛を訴え帰宅していたため、吉田武次郎支店長代理(44)が男性を事務室に招いた。

 目鼻立ちの整ったやせ型の中年男性が差し出した名刺には「厚生省厚生部員 医学博士某」と書かれていた。男性は吉田支店長代理に「行員全員を集めるように」と威圧的な口調で言った。全員が集まると、男性は「実は長崎2丁目の共同井戸で4人の集団赤痢が発生し、その井戸水を使った1人がこの銀行に来て預金をしていた。これからGHQが消毒にくるが、GHQのホーネット中尉の指示により、赤痢の予防薬を飲んでもらうことになった」と落ち着いた口調で言った。

 長崎2丁目の赤痢発生の話はもちろんウソである。またその当時、赤痢の予防薬など存在しなかった。しかし戦後間もない日本人は、上からの命令には従順で、威圧的な言葉、名刺の肩書き、それらしい腕章をつけた中年男性に行員たちは不信感を抱かなかった。さらにGHQの命令となれば有無を言わせぬ絶対的なものだった。当時の日本は赤痢をはじめとした伝染病が猛威を振るっていたので、銀行員は中年男性を東京都の防疫員、消毒員と思い込んでいた。

 男性は16人の行員とその家族を前に、自分の分も含め17人分の湯飲み茶碗を用意させた。その中には用務員の8歳の子供も含まれていた。男性はカバンから医者が持っているような金属製のケースを取り出し、手慣れた手つきで金属製のケースから赤痢の予防剤を取りだした。ビンに入った薬剤は2種類で、第1の薬は無色透明の予防薬本体、第2の薬は濁った液体で、第1の薬の中和剤と説明された。「この予防薬はGHQのくすりなので、非常に効果があるが、飲む時に歯にふれると歯のホーロー質をいためるので、舌を出して液体を丸めるように飲んでほしい」と言い、さらに「第1の予防薬を飲んだら、1分ぐらい我慢してから第2の中和剤を飲むように」と説明した。男性はピペットで予防薬を茶碗に入れると、みずから無色透明のビンを初めに飲み、続いて白く濁ったビンを飲んで手本をみせた。この男性の実演に、行員は安心して何の疑いも持たなかった。

 行員たちは男性に言われたようにいっせいに第1薬の予防薬を飲みほした。第1薬を飲み終えると、ウィスキーを飲んだときのような胸が焼けつく強い刺激を覚えた。1分後、第2の中和薬が分配されると行員たちは競ってそれを飲んだ。その直後である。行員たちは嘔吐と苦悶におそわれ次々に倒れていった。床をかきむしり、まさに疑獄絵のごとく死んでいった。

 5人の男性行員と5人の女子行員がその場で死亡。若い女子行員(22)が、なんとか這うように外に出て通行人に助けを求めた。交番の巡査がかけつけたときには、銀行の中は地獄のような有様であった。苦しんでいる6人を救急車で下落合の聖母病院に搬送し、病院に運ばれた6人のうち2人が死亡、4 人が命をとりとめた。死亡者の中に用務員夫婦と用務員の子供2人が含まれていた。用務員夫婦は赤痢を恐れ、子供を呼び毒薬を飲ませてしまったのである。

 このように帝銀事件は12人が毒殺される日本最大の毒物犯罪事件となった。生き残った4人の行員の証言によると、犯人は年齢45から50歳ぐらい、左の頬にアザがあって、目鼻立ちの整った物腰の柔らかな好男子だった。毒薬については遅効性のものが推測されたが、後に青酸カリと判明した。犯人は差し出した名刺を持ち帰り、茶碗の指紋を消し、何の証拠も残さなかった。

 犯人は混乱に乗じて店内にあった現金16万3410円と額面1万745円の小切手を強奪して逃走した。その年の大卒の初任給が約5000円であったので、奪われた現金はそれほどの大金ではなかった。物盗りの犯行が強かったが、行員の机の上の48万円が手づかずのまま残されていた。周到に準備された殺人の割には、金への執着心は少なく感じられた。

 事件翌日の午後、犯人は大胆にも盗んだ小切手を安田銀行板橋支店で換金していた。換金に訪れた男性は小切手に不慣れなようで、小切手の裏に住所を書かず行員から注意を受けながら、男性は偽りの住所を書いて換金した。小切手の裏書に、ニセの名前と住所(後藤豊治、板橋3の3661)が犯人の直筆で残されていた。その男性は帝銀事件犯人と年恰好は同じだったが、太い黒ぶちのメガネをかけていた。

 警察の聞き込み調査によって、帝銀事件が発生する前に、帝銀事件に類似した未遂事件が2件発生していることがわかった。それは安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で、その手口は帝国銀行と同じであった。昭和22年10月14日午後3時頃、男性は安田銀行荏原支店で行員に付近に赤痢が発生したことを告げ、行員を集め予防薬を飲ませたが、その時の予防薬には毒物は入っていなかった。犯人は「厚生省技官松井蔚(しげる)」と書かれた名刺を銀行に残していた。昭和23年1月19日、閉店直後に男性は新宿区下落合の三菱銀行中井支店を訪れ、帝銀毒殺事件とそっくりの行動に出たが、この時は行員に怪しまれ成功しなかった。その時、「厚生省技官医博山口二郎兼東京都防疫課」の名刺を渡していたが、この名刺は偽物だった。

 山口二郎は架空の人物だったが、松井蔚は厚生省東北地区駐在防疫官で宮城県仙台市に実在していた。そのため松井氏と名刺を交換した人物が捜査の対象になった。松井博士に確認すると100枚作った名刺の1枚であると証言。名刺は博士の手元に6枚、他から62枚が回収され、8枚が不明だった。

 警察は大規模な捜査網をしき、延べ2万5000人が捜査にあたり5000人あまりの容疑者が調べられた。多くの目撃情報が寄せられ、犯人が偽装した衛生局員も厳しく取り調べられた。2月2日には警察発表による犯人の似顔絵が公開された。新聞は連日、この事件をトップ記事で取り上げた。東京での白昼の大量殺人、大胆な手口、あたかも推理小説のような事件であった。捜査は難航し、功を焦った新聞はスクープを書いたが容疑者は次々に浮かんでは消えていった。

 この事件の特徴は16人の行員を前に冷静に毒物を飲ませたことで、飲めば即死に近い青酸カリを用いながら、数分後に死亡させる特殊な使い方をしていた。このような犯罪は薬物のプロにしかできないと思われた。

 捜査本部は、犯人は毒薬に詳しい者と考えていた。そのため中国で細菌兵器や毒物の研究を行っていた関東軍731部隊(旧日本軍細菌部隊)の関係者に的が絞られた。731部隊とは石井軍医中将が指揮をとっていたことから石井部隊とも呼ばれていたが、その存在を知る者はごくわずかだった。石井部隊は中国人を使って青酸毒物の人体実験を秘密裏におこない、終戦後、隊員たちはこの事実を墓場まで持って行くように命令され、捕虜になったら自殺するようにと青酸カリを渡されていた。犯人が持っていた薬剤のケースやピペットは軍医が野戦携帯用に使うもので、一般人は入所しにくいものであった。そのため731部隊の捜査を進められ、陸軍第9研究所に所属していた伴繁雄から有力な情報を入手し、捜査方針を軍関係者に移すことになり、元中佐である医師Sが全国に指名手配された。

 犠牲者の胃や血液から高濃度の青酸化合物が検出され、犯行に青酸カリが用いられたことは間違いなかったのである。ところが不思議なことに、被害者が飲んだ茶碗からは青酸化合物が検出されなかった。青酸カリは10数秒で死亡するほどの猛毒で、もし第1の予防薬が青酸化合物だとすれば1分間我慢できるはずはなかった。第2の中和薬が青酸化合物であれば茶碗から青酸化合物が検出されないことが謎であった。青酸カリよりも遅効性の青酸ニトリルを用いたことも推測されたが、それでは胃や血液中に残された高濃度の青酸化合物の説明がつかなかった。

 用いられた毒薬に謎を残したのは、初期捜査のミスに起因していた。近くの交番の警察官が帝国銀行に駆けつけたとき、この事件を集団食中毒とみなし、警官は湯呑み茶碗に残されていた毒物を醤油の空き瓶に入れて保存したのだった。醤油の中にはカリウムやナトリウムが含まれていたので、毒物が青酸カリウムなのか青酸ナトリウムなのか区別がつかなかった。このように毒物は特定できなかったが、いずれにしてもこの事件は毒物に詳しい者の犯行であった。

 これまでに起きた青酸カリ毒殺事件は、飲んだ直後に死亡している。帝銀の犯人は何らかの方法を用いて1分間は絶命しないようにした。ここに犯人の毒物への知識の深さがあった。また被害者たちに青酸中毒特有のアーモンド臭がなかったこと、青酸中毒ではみられない嘔吐があったことが青酸化合物としては妙であった。死亡の状況と解剖の結果、この矛盾点を説明することはできなかった。

 青酸化合物は第1薬にも第2薬にも含まれず、第1薬と第2薬が胃の中で反応して青酸化合物が作られたという説、犯行に使われたのは青酸化合物でなかったという説、青酸化合物の古いものが使われたという説などがあった。鑑定が多くの冤罪事件を作った古畑種基教授の東大法医学教室で行われたことから、毒物鑑定そのものに疑問を持つ者もいた。

 犯人は行員を前にして手本として予防薬を飲んだのに、犯人が生き延びたのは薬品に油を入れ、油の部分だけを飲んだと推定された。

 事件発生から7ヶ月後の8月21日、捜査は予想もしない展開を迎えた。犯人として毒物の知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通(さだみち、56)が小樽市の親戚の家で逮捕された。犯人が残した名刺に書かれた松井蔚は、几帳面な性格で名刺を渡した相手をすべてメモしていた。平沢貞通と名刺を交換したのは青函連絡船の中で、平沢貞通は松井蔚の名刺を三河島駅で財布ごと盗まれたと説明した。

 警視庁の主任警部補は小樽市にいた平沢貞通にアリバイを聞くと、1月26日の行動を「終日、三越の画展にいた」と7か月前の行動を準備していたかのように即座に答えたが、後でそのアリバイは崩れることになる。北海道から東京に護送された平沢貞通を見ようと上野駅のホームに群衆が殺到、平沢の乗った列車の到着ホームを変更するほどであった。犯人と断じた主任警部補は人権無視と批判され、法務総裁がこのことを謝罪している。

 明治25年に東京で生まれた平沢貞通は、10代後半から横山大観に師事し、22歳でニ科展に入選、25歳のときに上京して東京美術学院の講師になっていた。ペンテラは西洋画の一種で、油絵と水彩画の中間の画法であった。

 帝銀事件の生き残りと、模擬犯10人を混じえた面通しが行われたが、平沢貞通を犯人と言った者はひとりもなく、似ていると言った者が5人、違うと言った者が6人であった。平沢貞通が不利だったのは、事件発生後に平沢の銀行預金に12万円が入金されていたことである。当時の平沢貞通は友人に借金をして断られるほど金に困っていた。平沢は事件2日後に妻に6万円渡し、銀行預金に12万円を入金していた。この金額は、ちょうど帝銀事件で奪われた金額に相当していた。平沢貞通はこの金の出所を言えず、犯行当日のアリバイはなく、さらに銀行を舞台に4件の詐欺事件を過去に起こしていたことが印象を悪くした。

 平沢貞通を冤罪とする者は次の見方をしている。平沢貞通は狂犬病の予防注射の後遺症でコルサコフ病にかかっていた。コルサコフ病とは、平気でウソをつき、自分でさえもそのウソが嘘か本当かの区別がつかないのが特徴であった。平沢の4件の詐欺事件は病気のせいで、平沢の自白も誘導されたものとしている。出所不明の18万円については春画を売った金で、日本画の大家としてのプライドが、春画で稼いでいたことを白状できなかった理由としている。この春画説は松本清張が唱えたものであるが、春画のプライドより殺人犯の汚名の方が重いととらえるのが常識と思われていた。謎の18万円が春画によるものかは分からないが、平成12年6月9日号の週刊「フライデー」に平沢が描いた春画が発見されたことが書かれている。また小切手に残された名前の筆跡鑑定では、平沢貞道は別人とされている。

 平沢貞道は留置所で、隠し持ったガラスペンを左手の静脈に突き刺し自殺をはかった。看守に発見され一命をとりとめたが、その後、壁に頭をぶつけ、痔のクスリを大量に飲み、自殺を繰り返したがいずれも未遂に終わっている。

 平沢貞道は警察、検察の過酷な取り調べで犯行を自白したが、起訴後は一貫して無罪を主張した。平沢にとって不運だったのは、この帝銀事件の裁判が旧刑事訴訟法による最後の事件で、逮捕された時点で自白は重要な証拠となっていた。旧刑事訴訟法は昭和24年に改正されたが、改正前までは「自白は証拠の女王」とされていたのである。警察による取り調べでは拷問に近いもので、自白の強要が行なわれていた。平沢貞通は1審の第1回公判から無実を訴えたが、地裁、高裁ともに有罪となり、昭和30年5月7日の最高裁で上告が棄却され死刑判決が確定した。

 平沢貞通の冤罪を信じる人は「平沢貞通を救う会」を発足させ、17度の再審請求をおこなったがすべて却下された。また5度の恩赦願が出されたが、それも受け入れられなかった。作家松本清張、弁護士正木ひろし、評論家鶴見俊介、その他大勢の人たちが平沢の冤罪をはらすために論陣を張った。昭和36年熊井啓監督により「帝銀事件・死刑囚」が映画化され、この映画によってこの事件は注目度をさらに高めた。

 平沢貞通は死刑になったが、代々の法務大臣は死刑執行命令を出さず、約32年間にわたり死刑は執行されなかった。32年間死刑が執行されなかったのは世界最長記録である。30数人におよぶ歴代の法務大臣が、死刑執行を見送ったのはそれなりの理由があったからで、23人の死刑執行に署名した田中伊三次法務大臣でさえ、平沢の書類になると「こいつは無実じゃないか。はんこは押せん」と言った話は有名である。法務省は最後まで死刑執行にこだわったが、歴代の法務大臣は平沢を犯人と断定しなかった。死刑確定から30年が経ち、釈放の気運が高まったが、法務省はガンとして釈放を認めなかった。

 昭和62年5月10日、39年間を獄中ですごした平沢貞通は肺炎のため八王子医療刑務所で95年の生涯を終えた。平沢は支援者らの手によって杉並区今川に用意されてあったマンションに運ばれた。

 帝銀事件の真犯人は、事件発生当時から元関東軍731部隊の化学兵器開発の担当者と推測されていた。GHQ(連合軍総司令部)は731部隊に対し、極東国際軍事裁判での免責を条件に731部隊の生体実験データを入手していた。GHQは731部隊の研究資料を押収した事実が暴露されないように警視庁が圧力をかけとされている。同部隊の中に犯人がいるとして追及していた読売新聞がGHQから圧力を受け、追及を断念したことが後で明らかにされている。

 この事件の捜査主任をしていた元警視庁捜査2課の成智英雄が平沢貞通の無実を証言した。成智英雄は公務員の規程により、捜査中の秘密を漏らすことはできなかったが、平沢の無実を証言したのである。証言内容は当時731部隊では青酸カリを用いた生体実験が行なわれ、隊員たちは致死量すれすれの青酸カリを投与した場合に、中毒症状が現れるまで1分を要することを知っていたこと。用いられていたピペットが軍の特殊部隊でのみ使用されたものであると述べた。731部隊のS中佐を最有力容疑者として全国手配していたが、平沢の逮捕によって捜査が打ち切られたのだった。医師であるS中佐は昭和29年に死亡していることが、S中佐の犯人説が公表されたのはS中佐が死亡してから10年後のことであった。

 昭和20年8月15日から昭和27年4月28日まで、日本の国家権力はGHQの支配下にあった。GHQの下に日本政府があり、警察や検察も同様であった。このような時代を考慮すれば、軍関係者に向けられた捜査がGHQの壁にぶつかり頓挫したと推測される。もしアメリカが731部隊の人体実験の研究を入手していることが判明したら大問題になっていたからである。国際的な犯罪を隠すため、平沢貞通がスケープ ゴートにされたのではないだろうか。帝銀事件はGHQ支配下の時代に起きた謎と疑惑に包まれた奇怪な事件であった。

 青酸カリは白色の粉末で、きわめて毒性が強いことから毒物及び劇物取締法に指定されている。青酸カリは毒物の王者と呼ばれているが、それは毒物事件の中で青酸カリを用いた犯罪が最も多いからである。戦争時は兵士の多くが自決用に青酸カリを持ち、復員後も隠し持っていた。終戦となっても、青酸カリは比較的入手しやすく、メッキ工場などでは30kgの缶に入れられた青酸カリが無造作に置かれていた。青酸カリは年間3万トン生産され、メッキ工場の従業員ならば簡単に持ち出すことができた。また頼まれて青酸カリをゆずることもあった。このように入手が簡単であったため、多くの事故や事件を引き起こした。

 青酸カリ自体は強いアルカリ性で、飲んで胃に達すると胃酸と反応しシアン化水素(青酸ガス)を発生する。そのため青酸カリを飲むとアーモンド臭がする。呼吸困難、呼吸停止、意識喪失などで数分以内に死亡する。 0.15〜0.2gが致死量で、小さじ1杯の砂糖が3gであるから、その20分の1が致死量となる。