萩野 昇(富山のシュヴァイツァー)

萩野昇(富山のシュヴァイツァー)

 富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。

 

イバラの道を進んだ医師

 このイタイイタイ病を発見し、原因を解明したのが地元の開業医、萩野昇である。イタイイタイ病の原因は神岡鉱山から排出されたカドミウムであったが、この原因解明までの道のりは平坦ではなかった。それは険しいイバラの道に等しかった。「田舎の開業医に何が分かる」という医学界の冷たい視線を浴びながら、萩野昇は自説の正しさを、それこそ血みどろになって証明したのだった。真実を真実として学問的に追求し、そして逆境の中でイタイイタイ病の原因を突き止めたのである。萩野は身を切られるような激痛に苦しむ患者を哀れみ、その想像を絶する苦しみを自らの肌で感じ、そして何よりも患者を救いたいという使命感を持っていた。萩野に私心はなかった。目の前の悲惨な患者を助けたい、「痛い、痛い」と叫びながら死んでいった罪のない患者の無念にむくいたい、医師としての純粋な気持が病因解明の原動力となっていた。

 大正4年に生まれた萩野昇は、旧制金沢医科大学を昭和15年に卒業すると、研究生として病理学を専攻した。しかし研究する間もなく軍医として徴兵され、病理学教室に籍を残したまま7年間のあいだ戦地の野戦病院で傷病兵の治療にあたった。そして中国大陸で終戦を迎えると、昭和21年3月21日、7年ぶりに故郷の富山県へ帰ってきた。

 終戦当時の日本は、都市部のほとんどが空襲によって焼け野原となっていた。人々は栄養不足に陥り、シラミまみれのボロボロに汚れた服を着ていた。それは富山市も例外ではなかった。富山駅に着いた萩野は、かつて賑やかだった街並みが瓦礫となり、まばらに建つ粗末なバラックに愕然となった。それは7年前に歓声とともに送られた富山市の光景ではなかった。変わりはてた街並み、生気を失った人々の疲れ切った表情、崩れ落ちた建物を見ながら、萩野は富山市から6キロ離れた婦負郡婦中町(熊野の里)の生家へと足を速めた。富山の市街地から遠ざかるにつれて、記憶に残る懐かしい古里の風景がしだいに見えてきた。

 昔のままの有沢橋を渡りながら神通川を眺めると、神通川は水面をきらめかせて清らかに流れていた。遠くに見える剣岳、立山、薬師岳などの北アルプス連峰も子供の頃と同じだった。生家のある婦負郡婦中町は豊かな穀倉地帯で、幸いなことに空爆をまぬがれていた。水田に点在する農家、昔からの樹木などの懐かしい風景は7年前の記憶のままだった。

 戦地で働いている間、萩野は家族とは音信が途絶えていた。そのため家族は自分の無事を知らず、また家族の無事も萩野は知らずにいた。はたして無事だろうか、萩野はせく気持ちを抑えながら生家の門をくぐると、皆は昇の元気な姿を見て驚き、喜びの表情で迎え入れた。死んだと思っていた昇が無事に帰ってきた。その驚きと喜びは無理もないことだった。互いに涙を流しながら無事を喜びあった。

 

病院を継ぐ

萩野家は代々医師の家系である。初代は富山藩前田侯のお抱え医師で、昇の父は高松宮家の侍従医を勤め、その後に萩野病院の院長として働いていた。萩野家は広大な土地を持ち、病院を経営するかたわら 200人の小作人を持つ地主でもあった。このように萩野家のかつての暮らしは裕福だった。萩野は故郷に帰ったら、母校の金沢医大で病理学の研究をしたいと考えていた。しかし病院長であった父親が戦争中に亡くなり、多額の財産税や相続税をとられ、萩野家はその日の食料も買えないほど生活に困っていた。萩野家は名家であったが、戦争によって落ちぶれていた。生活費がなく子供たちの学費も出せない状態であった。萩野は年老いた母や幼い弟たちを養わなければならない立場になった。そのため金沢医大での研究をあきらめ、父親の後を継いで、翌日から萩野病院の四代目院長として診療にあたることになった。萩野病院に若い跡継ぎの先生が戻ってきたことから多くの患者が押し掛けてきた。

 

イタイイタイ病と出会う

萩野が整形外科医として父の白衣を着て診察を始めると、すぐにある奇妙な病気に気づくことになる。それは神経や骨の激しい痛みを訴える病気であった。彼は7年間、軍医として多くの神経痛の患者を診察してきたが、これほど激しい痛みを訴える患者を診察したことはなかった。しかも痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたした。この多発性骨折をきたす病気は何だろうか、まったく見当がつかなかった。同じ症状を訴える患者が次々に萩野病院に押し掛けてきた。骨折の痛みに悲鳴を上げながら患者は診察を受けにきた。どの患者も「痛い、痛い」と悲痛な痛みを切なく訴えた。萩野はレントゲン写真をみて驚いた。身体中の骨は枯れ枝のようであった。痛みの訴えの切実さが理解できた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から、看護婦はこの悲惨な患者を「イタイイタイさん」と呼んでいた。そして萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになった。

イタイイタイ病の初期症状は軽度で、農繁期や過労が続いたあとに、手や腰に痛みが出る程度だった。また入浴や休養によって回復することから、最初は農作業による単なる過労と軽く受け止められていた。この初期症状の患者は診察しても外見上の異常は見られない。しかし痛みはしだいに強くなり、大腿部、背部などに神経痛に似た、切られるような鋭い痛みが走り、骨のレントゲンでは骨粗鬆症の所見が見られた。痛みは年単位で悪化し、患者は全身に痛みを訴え、歩く際には大腿部の痛みをかばうため、アヒルのような格好で歩くようになった。そして痛みのため仕事や家事ができなくなり、数年後には骨折をきたし、激しい痛みから歩行も困難となった。骨は薄くもろくなり、身体を動かしただけで、また医師が細い腕の脈をとるだけで、あるいは咳をしただけで容易に骨折を引き起こした。患者は多発性の骨折のため、昼夜を問わず「痛い、痛い」と訴えるようになった。患者の中には全身72ゕ所に骨折をきたした患者がいた。また脊椎の圧迫骨折のため30センチも背が縮み、まるで子供に戻ったように小さくなった患者も多かった。患者たちは何ら治療法のないまま、苦しみの中で寝たきりになっていった。この病魔におかされた患者は、あまりの痛さから、また精神的苦悩から自殺に至った者もいた。

イタイイタイ病の患者のほとんどが40歳を過ぎた中年以上の女性で、子供の患者はみられず、男性患者はまれであった。更年期の主婦、しかも子供を多く産んだ経産婦がほとんどであった。中年女性に発症することから、イタイイタイ病を抱えた家庭は、家事を支える主婦を失ったのと同じ状態に陥った。病魔に襲われた主婦は農作業はできず、家事もできず、家計は苦しくなった。当時は医療保険のない時代である。医療費はかさみ家族全体が貧困による生活苦から抜け出せずにいた。また中期症状として恥骨の痛みがあり、股を開くことができず、排便も困難になり、夫婦生活はもちろん不可能となった。

夫はいっこうに治らない妻を介護しながら、妻の代わりに子供の世話、家事をしなければならなかった。そしてこのような家庭にあって夫はしだいに酒に溺れ、家庭そのものが崩壊していった。この病気は病名もわからず、治るあてもなく、家庭を絶望のどん底に突き落とした。家族はまるで呪われた病気であるかのように業病ととらえていた。業病とは前世の因縁によって発症する宿命的病気を意味しており、このため家族は病人の存在を他人に知られることを恐れ、病人を周囲から隠そうとした。

萩野病院には同じような症状を訴える患者が押しかけ、外来患者の7割を占めるまでになった。それでも歩いて受診できる患者はまだよい方で、歩けない患者はリアカーに乗せられ、あるいは寝たきりの患者は畳ごと担ぎ上げられて病院へ運ばれてきた。外来患者の多くが病名も分からない悲惨な病魔に襲われていた。そして入院患者の多くもイタイイタイ病患者で占められた。

 

生ける屍

 往診に出かけると、寝たきりの老婆が薄暗い部屋の奥で痛みに耐えながら動けないでいた。最初のうちは家族の同情があっても、慢性進行性の治らない病気に家族からしだいに疎んじられ、家の奥に放置されたまま孤独のなかで病魔に耐えていた。家族は近所の目をはばかり、奥の納屋に病人を隠すように寝かせていた。イタイイタイ病の末期患者は、寝返りをしただけで、あるいは笑っただけで骨折をした。それは身のすくむような悲惨な状態であった。身体中の骨が多発性の骨折をきたし、患者の手足は数ゕ所でねじ曲がり、どこが肘なのか膝なのか分からないほどであった。また布団の重さによっても骨折することから、やぐらを組んで布団が掛けられていた。風呂に入れてやることもできず、まるで地獄絵のようであった。萩野は骨がボロボロに折れている患者を診察するたび、胸がふさがれる気持ちになった。

この病気は脳をおかさなかった。そのため最後まで患者の意識ははっきりしていて、死ぬまで痛みから逃れることはできなかった。また内臓にも病変をきたさないことから寝たきりのまま10年、20年と生き続け、生身を切られるような激痛に最後まであえぎながら、生きる屍となって衰弱していった。そして食事が摂れなくなり、孤独と絶望の中で死んでいった。火葬された遺体は、頭部以外の骨はほとんどが灰となって、骨としての原型をとどめなかった。いつ骨折しても不思議ではないほど骨は薄く、箸でつまめないほどもろくなっていた。

神経痛やリウマチでは骨折をきたすことがない。そのためイタイイタイ病は神経痛やリウマチとは明らかに違っていた。萩野にとってこれまで見たことも、経験したこともない病気だった。萩野はこの奇妙な疾患をなんとか治そうと医学書や医学雑誌などを調べたが、どこにもそのような病気の記載はなかった。午前中は外来診療、午後は往診、そして深夜になってイタイイタイ病の研究という毎日が始まった。

 

病因の究明に乗り出す

萩野はこの悲惨な患者を救済するため、すべてを投げうってイタイイタイ病の研究に打ち込んだ。業病とされる患者を前にして、この患者たちに何の罪があるのだろうか、あるはずはない。病気には病気になる病因が必ずあるはずと考えていた。そして目の前の悲惨な患者を助けたい一心でこの奇妙な病気の解明に乗り出した。

萩野はもともと研究心が強かった。大学を卒業して病理学を専攻したこともその研究心の表れであった。病理学とは患者の解剖や動物実験によって病気の本当の原因を明らかにする学問である。病気の原因が明らかになって、初めて治療が可能になることから、病理学は医学の基本的な学問である。イタイイタイ病にも必ず原因があるはずだ。その原因が分かれば、治療法も確立し患者を救うことができる。萩野はそれが自分に課せられた使命であると信じていた。過労、貧血、栄養障害、寄生虫、あらゆる原因を想定して検査をしたが、この奇病の原因は依然として不明だった。治療法がわからないまま患者だけが増えていった。そして地獄の苦しみの中で患者は死んでいった。

 萩野は萩野病院に残されたカルテを丹念に調べてみた。二代目の祖父の時代にはこの病気の記録はなかった。イタイイタイ病についての最初の症例は大正時代、三代目の父の時代に記録が残されていた。父はすでに亡くなっていて、この奇病を父がどのように考えていたかを訊くことはできなかった。しかし得体の知れないこの奇病を、父は富山の風土病と考えていたようであった。

イタイイタイ病患者は神通川流域に住む40歳以上の農村の主婦が大部分だった。また子供をたくさん産んだ更年期以降の主婦に多くみられた。さらに地元出身の主婦の発症年齢は若く、他から嫁に来た主婦の発症年齢は遅かった。そして不思議なことに、娘時代まで神通川流域で育ち、他の土地に嫁に行った女性は発症しなかった。この病気は血縁のない姑と嫁が同じように発病したことから遺伝病は考えられなかった。

 イタイイタイ病が風土病とされたのも無理はなかった。この疾患は婦中町を中心とした数キロ四方の地区に限られ、日本のどの地区にもこのような病気は見られなかったからである。神通川6キロ下流にある富山市にも患者は存在しなかった。萩野は患者を富山市の県立中央病院、市民病院、赤十字病院などへ紹介したが、腎臓病、リウマチ、脊椎カリエスなど様々な診断がつけられ冷たく帰されるだけだった。病因も分からず、治療法も分からず、また他の医師の興味も引かないまま患者は帰されてきた。

 

暗中模索の研究

田舎の開業医にすぎない萩野だけではイタイイタイ病の解明は困難だった。そのため昭和22年、母校である金沢大学医学部第一病理学教室を訪ね、イタイイタイ病解明への支援を頼むことにした。第一病理学教室では恩師の中村八太郎教授はすでに亡くなっていたが、萩野の先輩にあたる宮田栄が教授になっていた。萩野がイタイイタイ病の説明をすると、宮田教授は共同研究を快く引き受けてくれた。そして宮田教授は暇を見つけては萩野病院を訪ね、萩野と一緒に患者の家を訪問し、イタイイタイ病の究明に力を貸してくれた。患者の頭から足先までレントゲンを撮り、採血、採尿を繰り返したが原因は分からなかった。

この病気の初期症状は骨粗鬆症で、中期以降の症状は骨軟化症の症状と一致していた。そのため骨軟化症の治療薬であるビタミンDの投与を行ったが、終戦直後のビタミンDは粗悪品だったため、下痢、嘔吐などの副作用ばかりで治療効果はみられなかった。原因は依然として不明のまま時間だけが過ぎていった。骨粗鬆症、骨軟化症というキーワードは分かっていた。しかしなぜ骨粗鬆症、骨軟化症を引き起こすのか、そのメカニズムが分からなかった。

イタイイタイ病が通常の骨軟化症と違うのは、腎臓の尿細管がまず障害され、尿中のタンパク、カルシウムが増加することだった。カルシウムの排泄が増加すれば、骨が薄くなるのは当然であるが、なぜ身体に必要なカルシウムが尿から排泄されるのかが分からなかった。原因不明のまま、新規患者は昭和21年には40人、昭和22年には20人、昭和23年には30人となり、総患者数は増加していった。

萩野は原因の一つとしてウイルスや細菌などの感染症を疑い、病院の片隅に動物小屋を作って、患者の便、尿、血液などを数10匹のラットやウサギに感染させる実験を繰り返したが、動物はなんら変化を示さなかった。終戦直後の大学の研究費は限られていた。そのため研究費の大部分を萩野が出していたが、肝心の研究成果は得られなかった。そして昭和30年、宮田教授が脳卒中で倒れて故人となり、10年間の共同研究は暗中模索の中で挫折した。

昭和30年5月、東京北品川にある河野臨床医学研究所の河野稔博士がリウマチの講演のため富山県を訪れた。そして富山県厚生部から婦中町にリウマチに似た不思議な病気があることを聞き、河野稔は萩野病院を訪ねてきた。彼はこの悲惨な奇病を診察し、この病気は日本に類のない悲惨な奇病で、原因解明のための共同研究を約束した。河野稔はリウマチの専門家であったが、イタイイタイ病はリウマチとは明らかに違う疾患と断言した。また血縁のない姑、嫁が罹患することから遺伝性疾患とは考えられなかった。同じ地区に多発することから感染症の可能性が高いと考え、トリコマイシンの発見者である東大名誉教授、細谷省吾を伴い本格的な共同研究を行うことになった。

 

全国に知れ渡った奇病

昭和30月8月4日、富山新聞朝刊の社会面トップ記事を見た富山県民は驚いた。それは富山新聞がイタイイタイ病をトップ記事として大きく報じたからである。イタイイタイ病が五段抜きの見出しで、県民の目の前に飛び込んできた。この富山新聞の記事によって、婦中町熊野地区の奇病、イタイイタイ病は一般の人たちの注目を集めるようになった。

富山新聞の八田清信記者が書いた記事はイタイイタイ病を次のように説明していた。

この病気はこれまで医学界に報告されていない奇病であり、婦中町熊野地帯に多発していること。日本医学界の権威者たちが大挙して来県し、正体解明のためメスを入れることになったこと。このイタイイタイ病は婦中町の熊野地区に大正時代から存在していて、業病、奇病とされていたこと。そして「痛い、痛い」と泣き叫びながら死んでいった患者が100人以上、現在も100人以上の患者が苦しんでいること。さらにこの奇病は地元の萩野病院長、萩野昇博士が発見者であり、リウマチの研究者、細菌学者などが中心となり奇病の解明がなされていること、などであった。

この富山新聞の報道が富山県民を驚かした。それまで県民は自分たちの住んでいる県内に、このような病気が存在することを知らなかった。一方、患者たちは、自分たちの病気がイタイイタイ病という奇妙な名前の病気であることを知って困惑にかられた。この新聞報道をきっかけにマスコミがこぞって動きだし、医学界の権威者が注目したことから、婦中町に閉じこもっていた奇病が富山県だけでなく、日本の津々浦々まで知れ渡るようになった。富山新聞の記事が富山県婦中町熊野地区の奇病を世に知られるきっかけを作った。

昭和30月8月12日、イタイイタイ病の謎を解くため、河野稔を中心とした10数人の医師らによる集団検診が萩野病院で行われた。そしてそれらしい症状を持つ200人が朝の4時から萩野病院の前に集まりはじめた。この受診者の数に驚いた婦中町当局は、職員、保健婦を集め病院前にテントを張って対応したほどである。この集団検診は2日間にわたっておこなわれ、イタイイタイ病患者は52人、その中で男性は3人であることが判明した。

ある婦人は河野にすがりつき「こんな病気は1日も早くなくしてほしい。どうせ死んだも同然の身体だから、痛む片腕でも片足でもよいから切り取って研究してください」と訴えた。この言葉に医師たちは胸をうたれた。河野稔は二人の患者を東京に連れて帰り、各大学の専門家を集め骨系統の疾患を中心に共同研究が精力的に行われた。

 

共同研究の結果

共同研究には世界的な学者たちが参加し、各分野での研究がなされた。イタイイタイ病の原因は感染症ではないことだけは共通の認識となったが、本当の原因は不明のままであった。感染症でも遺伝性疾患でもなければ、何らかの環境因子が関与していることが想像された。権威ある学者たちにとってイタイイタイ病の原因を不明とは言いづらかった。そのためこの地区特有の環境が疾患の原因と説明することになった。

昭和30月10月、河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表された。そしてこの奇病の原因を「栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足」と結論づけたのである。さらに産後の休養期間が短いこと、夫婦生活の多いことも要因として付け加えられた。もちろん、萩野にとってこの結論は納得できるものではなかった。もしこれらが原因であればイタイイタイ病は全国の農村で見られるはずであった。

婦中町より栄養状態の悪い農村はいくらでもあった。日照時間も婦中町は富山県内では長いほうで、また神通川中流の地区だけが過労であるはずはなかった。しかし田舎の開業医としては、大学の研究者の結論に反対することはできなかった。萩野にとって不本意な結果となった。彼は権威ある偉い先生の学説に反対できない悔しさを味わった。

婦中町の農民たちは「イタイイタイ病の原因が、栄養不良、過労、ビタミンDの不足」と結論されたことに憤慨していた。それは婦中町が日本で最も劣悪な地区というレッテルを貼られたに等しいことだったからである。「婦中町では嫁にはろくなものを食べさせず、朝から晩までこき使っている」という暗いイメージが作られてしまった。地元の人たちの不満は共同研究者の萩野に浴びせられた。

婦中町は決して栄養不良、過労、ビタミンD不足の町ではなかった。これまで婦中町は健康栄養模範農村として3回表彰を受けていた。しかし富山県厚生部は婦中町の住民に対し、過労を防ぎ、肝油や小魚を多く摂るように指導した。婦中町は日本中に恥を晒すことになった。

共同研究班は原因を解明したとして解散となり、萩野はひとり残されることになった。「イタイイタイ病の原因が栄養不良、過労、ビタミンD不足のはずはない」このことを地元の医師である彼が一番よく知っていた。しかし農民たちは萩野がよけいなことを言ったからだと憤慨した。地元の反発もあり、萩野は孤立無援のなかで独自に研究を進めることになった。共同研究の成果はなかったが、世界的な学者が取り上げたことから、イタイイタイ病が日本中に知れ渡たり、さらに萩野が世の注目を集めることになった。

 イタイイタイ病の症状は骨軟化症の症状と似ていた。骨軟化症と違うのは、イタイイタイ病患者は必ず腎臓の尿細管障害を伴うことである。つまり尿からカルシウムが異常に排出されるため血液のカルシウムが減り、それを補うため骨のカルシウムが放出され、そのために骨が薄くなり骨折をきたすのであった。腎臓の尿細管障害によるカルシウムの異常排出がその病因であれば、イタイイタイ病が更年期以降の女性に多いことが説明できた。それは妊娠によって胎児にカルシウムを大量に奪われ、母乳からもカルシウムが奪われるからである。

 

なぜ婦中町だけが

 萩野昇の孤独な戦いが始まった。婦中町の日照時間、栄養状態、ビタミン摂取量などを再度調べてみたが、それらは他の町と比較しても水準以上であった。また労働時間を調べてみたが全国平均とほとんど変わらなかった。むしろ東北の貧しい農村や、北海道の開拓地は、婦中町よりも栄養状態は悪く、過労に悩んでいた。イタイイタイ病の原因が栄養不良や過労であるはずはない。ではなぜ日本の中で婦中町だけに患者が限定されるのだろうか。この疑問が常につきまとった。

 原因が分からないまま患者だけが増えていった。そしてある日のこと、萩野は富山県下のイタイイタイ病患者の家をひとつひとつ地図の上に赤いインクでプロットしてみた。すると患者のほとんどが婦中町、八尾町、大沢野町を中心とした神通川中流の一定の地域に限られていることがわかった。神通川上流の地域には患者は見つからず、また下流の富山市でも患者は見つからなかった。なぜ神通川中流の稲作地帯だけにイタイイタイ病が発生するのだろうか。

 神通川は昔から神の通る川として、地元住民はある種の信仰的感情を持っていた。萩野は神通川と赤いプロットとの関係をじっと見つめていた。そして病気が神通川中流に限られている理由を考えていた。

 もしかして、この神通川に悪魔が住んでいるかもしれない。萩野は神通川上流にある神岡鉱業所に釘づけとなった。彼は富山県から数キロ離れた岐阜県吉城郡神岡町にある神岡鉱業所の排水による鉱毒説を考えるようになった。

 神通川の水は北アルプスの山々から平野に入るまでは地形の高度差が大きく流れが速かった。そのため川底が深く洪水の被害は少なかった。また渓谷のため神通川の川水は農業用水として利用していなかった。しかし婦負郡婦中町付近では神通川の流れは急に緩慢となり、急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、周囲の水田より川底が高くなっていた。いわゆる天井川で、そのため婦中町では堤防工事が完成するまでは毎年のように洪水による被害が起きていた。そのため婦中町の住民は神通川を暴れ川とよんでいたほどであった。川底が周囲の水田より高いことから、婦中町では神通川の水を農業用水として取り入れ、大沢野用水、大久保用水、牛ヶ首用水が張り巡らされていた。そして神通川は婦中町を流れると、すぐに井田川、熊野川と合流して富山市に流れ込んだ。

「神の通る川」、神通川の川水は農業用水として田畑を潤し、水道が引かれる昭和40年まで、住民は生活用水や飲料水として利用していた。特に井戸が凍る冬場は川水を汲み飲用水として飲んでいた。

 神岡鉱業所の排水による鉱毒説が正しければ、神通川上流に患者がいないのは川の流れが速く、川底が深いため氾濫がおきないことから説明がついた。また下流に患者が少ないのは、井田川、熊野川の合流によって鉱毒が希釈されることで説明がついた。萩野は意識していなかったが、それは疫学調査であり、疾患と地理的関係を示すものであった。彼は神通川の水を採取し、全国の大学や研究所に送りその分析を依頼した。しかしいずれの分析でも有毒物質を検出することはできなかった。

 

鉱毒説にいきつく

 昭和32年12月1日、第12回富山県医学会が開催され、萩野は初めてイタイイタイ病の原因として鉱毒説を発表した。昭和21年以来、93例の患者のほとんどがタンパク尿を呈していること。その原因として神通川の水に含まれる亜鉛、鉛、砒素などの鉱毒が体内のホルモンを乱し、二次的にビタミンD不足をきたしイタイイタイ病を引き起こすこと。また患者の発生地が神通川流域の婦中町付近に限られるのは、特有の地形によりイタイイタイ病患者が神通川の水を多く摂取しているせいだと説明した。つまりイタイイタイ病の原因は神通川の水に含まれる鉱毒と発表したのだった。萩野は名前を出さなかったが、聴衆はそれを神岡鉱業所が排出している鉱毒を意味すると理解していた。神岡鉱業所は日本の大財閥である三井が経営する鉱山である。萩野の発言は大財閥三井への挑戦と受け止められた。

 彼の発表に対し周囲の反応は冷たかった。神通川の水質検査で問題がなかったことから、何の根拠もない仮説として学会で非難された。また鉱毒が亜鉛、鉛、砒素であったとしても、それらの重金属の慢性中毒症状はすでに知られており、それらがイタイイタイ病を引き起こすとは考えられないとされた。この科学的裏付けのない萩野の鉱毒説は医学界から完全に無視されてしまった。ある学者は、神通川に鉱毒があるという証拠がないこと、イタイイタイ病患者に鉱毒が含まれているかどうか確認されていないこと、鉱毒がイタイイタイ病を引き起こす証拠がないこと、これらを挙げ、萩野の鉱毒説は何の根拠もない俗説であると学会誌で反論した。

 たしかに萩野の鉱毒説は何の証拠もない憶測にすぎなかった。しかもこの鉱毒説は神通川上流の神岡鉱業所を犯人として公然と名指したようなものである。萩野は周囲から中傷を浴び、黙殺され、非難、攻撃の嵐にさらされた。しかし疫学的にはイタイイタイ病の原因は鉱毒以外に考えられなかった。その証拠がほしかったが見つけることができなかった。

 昭和33年、東京大学の吉田正美教授が萩野病院を訪ねてきた。吉田教授は萩野の鉱毒説に深い関心を示していた。そして神岡鉱山の実情を知らなければ学問的裏付けができないと主張し、萩野と2人で神通川上流にある神岡鉱業所を視察に行くことになった。東大教授の肩書きの威力は強かった。名刺を出しただけで職員は神岡鉱業所内をていねいに案内してくれた。萩野は教授の弟子のような顔をして構内に入り説明を受けた。神岡鉱業所に入って驚いたのは、周囲の山には緑の樹木が一本もないことだった。別世界のようなはげ山であった。神通川が死の川とすれば、神岡鉱山は死の山であった。

 神岡鉱山の歴史は古く、奈良時代にはすでに黄金を産出して、天皇に献上されたことが記録されている。多くの鉱脈を持ち、銀、銅、鉛を大量に産し、明治時代になって三井組(現在の三井金属鉱業)が買収した。日露戦争により軍の需要が増大し、大正時代にはさらに需要が増し増産された。

 神岡鉱山の採掘法はドリルで穴をあけた岩にダイナマイトをつめ爆破する。砕かれた鉱石は粉末状にされ、水を加え泥状にして、鉛、亜鉛を精製していた。そして残った堆積物は水とともにダムに流して沈下させ、その上澄みを川に流していた。このダム方式といわれる採取法はかつて神通川の氾濫で鉱毒により農作被害を受けた際に造られたもので、鉱毒被害を防止するために通産省が認定した方法であった。このダムができるまでは排水はそのまま川に流されていた。しかしこのダム方式でも大雨や台風などで水が溢れたら、あるいは上澄みに鉱毒が含まれていたら・・・・、この作業行程を見て2人はイタイイタイ病の鉱毒説を確信した。

 萩野は神岡鉱業所を見学して鉱毒説に確信を得たが、それを裏付ける証拠は何もなかった。研究の協力者はいなくなり、研究は行き詰まり失意の日々をすごしていた。イタイイタイ病と萩野の名前は有名になり、多くの研究者が萩野病院を訪ね研究の手助けを申し出たが、結局は話を聞くだけで、誰ひとりとして協力する者はいなかった。

 

他分野の協力者出現

 そのような時期に、農学・経済学者である吉岡金市博士(金沢経済大学学長)と巡り会うことになる。吉岡はたまたま黒部川水系の冷水害の調査のため富山県に来ていて、ついでに神通川の冷水害を調べようと婦中町を訪ねたのだった。そして婦中町の稲の根を見て、これは冷水害ではなく鉱害であると即座に断定したのだった。そしてこれだけひどい農業鉱害があれば、環境を同じにする人間にも影響があるはずだと言った。それを聞いた町議員の青山源吾は、イタイイタイ病という奇病がこの地区に多発していることを教えたのである。青山議員の母親もイタイイタイ病で亡くなっていて、その奇病の原因がまだ解明されていないことを告げた。吉岡はイタイイタイ病も鉱害が原因と直感した。

 吉岡金市は電話で萩野に面会を求めてきた。萩野はいつもの冷やかしの訪問と考え面会を断った。しかし吉岡は萩野病院を訪ね、「5分間でいいから院長に会わせてくれ」と玄関で粘った。萩野はこの吉岡に根負けして渋々面会することになった。そして話をしているうちに、「農作物の被害が鉱毒によるものならば、イタイイタイ病の原因も鉱毒によるものである」という点で、ふたりの考えが完全に一致した。農作物と人間の違いはあるものの、初めて鉱毒説の力強い味方を得たのである。吉岡はイタイイタイ病患者の家をスポットした地図に神通川からの農業用水を書き入れ、神通川を利用した農業用水の使用地区でのみで患者が発生していることを確認し、鉱害により被害を受けた農作物の分布と比較するという科学的データを作り上げた。そして患者の発生地域と農作物の被害地域が一致することを示した。また地元役場で死亡診断書を調査し、患者の発生数の増加と神岡鉱山の生産量が比例関係にあることを確かめた。吉岡は萩野の研究を最後まで支えることになる。

 さらに力強い味方が現れた。昭和34年、岡山大学教授の小林純博士から「神通川の水質を調べたい」と依頼の手紙が突然届いたのである。小林はかつて農林省農事試験場技師として戦時中の昭和17年に婦中町の稲作被害の調査を命じられ、「これは冷害による被害ではなく、上流の神岡鉱山から流れた亜鉛、鉛などによる鉱毒である」と農林省に報告した人物である。この報告書は戦争中であったことから曖昧に処理され、農民には補償金は出されなかった。その後、小林は岡山大学の教授となり、河川の水質検査の専門家となっていた。そしてスペクトログラフという最新の機器を岡山大学の研究所に備えたばかりであった。

小林教授は「科学読売」に報道された「日本に例をみない奇病、イタイイタイ病」の記事を読み、かつての神岡鉱山の鉱毒を思い出した。そして何らかの手がかりがつかめると思った。かつて農林省には亜鉛、鉛などによる鉱毒と報告したが、あまりに農作物の被害がひどいことから、それ以外の何かがあると考えていた。小林教授は神通川流域の奇病に関心を抱き、採水用のビンを手紙にそえて、萩野に神通川の水を調べたいので採取してほしいと郵送してきたのだった。

 

カドニウムの発見

 萩野は神通川の河水と患者の家の井戸水をプラスチックのビンにつめ小林教授のもとに送った。それまで各地の大学で問題なしと分析されていた神通川の水であったが、小林教授の分析によって驚くべき結果がもたらされた。小林教授はスペクトル分析によって「神通川の河水から、亜鉛、鉛、砒素、カドミウムが多量に検出された」と報告してきたのだった。亜鉛、鉛、砒素の慢性中毒はイタイイタイ病の症状とは違うことはすでに分かっていた。そのためカドミウムがもっとも怪しい物質であると手紙に書いてきたのだった。

 当時、カドミウム汚染について書かれた文献は日本にはなかった。「カドミウム」という言葉さえ医学書には書かれていなかった。そのため人体にどのような影響を及ぼすのか何も分からなかった。重金属であるカドミウムはほとんど知られていない物質であったが、亜鉛の鉱石には副産物として必ず含まれる物質であった。神岡工場は亜鉛を製錬する時に、副産物であるカドミウムを神通川に流していたのだった。

 萩野は金沢大学、富山大学の図書館でカドミウム中毒の文献を探したが見つからなかった。そうこうしている間に、吉岡がドイツの医学雑誌「中毒の治療と臨床」に、わずかに「慢性カドミウム中毒」の記載があるのを見つけてくれた。その論文はカドミウム電池工場で働く6人の労働者がカドミウム中毒によって歩行ができなくなり、レントゲンでは骨に横断状のひびが見られたというものであった。カドミウム中毒として記載されたその症状は、まさにイタイイタイ病の中期症状そのものであった。

ドイツの医学雑誌の記載によるとカドミウム中毒は潜伏期が2年であり、3年から4年後に神経痛様の痛みと貧血を生じ、8年後には明らかな骨軟化症の症状を示し、レントゲン所見では骨に亀裂が入り、患者は衰弱してアヒルのように尻をふって歩くと書かれていた。まさにイタイイタイ病の初期から中期の症状にそっくりな記載であった。萩野はとびあがるほど驚いた。

 ドイツの「慢性カドミウム中毒」の論文にはイタイイタイ病の末期症状である多発性の骨折の記載はなかった。しかしこれはカドミウムの摂取量の違いによるものだった。日本人は白米を食べるが、欧米人は食べない。もし神通川の水にカドミウムが含まれ、農作物に吸収され濃縮されていたら、中期以上の多発性の骨折症状を示しても不思議ではなかった。萩野はこの論文によってイタイイタイ病がカドミウムによる慢性中毒であることに自信を深めた。小林教授のスペクトル分析により、この奇病の原因として重金属カドミウムが急浮上したのだった。イタイイタイ病の解明に大きな前進がもたらされた。

 小林教授は神通川の水がカドミウムに汚染されていることを証明した。しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるかどうかは、患者に含まれるカドミウムの分析が必要であったが、残念ながら小林教授は生体内に含まれる重金属の分析法を知らなかった。小林教授は人体に含まれる重金属の定量分析の方法を習得するため、昭和36年5月からテネシー大学のティプトン女史のもとに留学することになった。またカドミウム研究で知られているシュレーダー教授を訪ね、カドミウムに関する多くの資料と分析法を学んだ。

 

カドミウム説の確信

 小林教授は3ゕ月間、アメリカで分析技術を学んで帰国すると、真っ先に萩野病院に保管されているイタイイタイ病患者の臓器の分析にとりかかった。そして亡くなった患者の各臓器に含まれる重金属の分析を行い、各臓器から高濃度のカドミウムを検出した。骨ばかりでなく、あらゆる臓器を調べてみた。普通の人なら5 p.p.m.程度のカドミウム濃度が、患者の臓器からはその1000倍ものカドミウムが検出された。さらに小林はイタイイタイ病発症地区の白米と、他の地区の白米のカドミウム濃度を調べ、イタイイタイ病発症地区の白米から数10倍のカドミウム濃度を検出した。また稲の根からも数百倍、土壌からも数十倍のカドミウムを検出した。さらに神通川のフナ、アユからも大量のカドミウムを検出した。婦中町はカドミウムに高度に汚染されていたのである。

 患者の尿中のカドミウム量が異常に多いこと、神通川流域の土壌に含まれるカドミウム量が他の河川に比べて明らかに高いこと、イタイイタイ病の発生地区が神通川流域の水田の土壌のカドミウム濃度とよく相関していること、患者の発生地区ではタンパク尿の患者が高頻度に見出されたことが分かった。さらにイタイイタイ病の症状が文献上のカドミウム中毒の症状と一致することから、イタイイタイ病の原因がカドミウムである証拠が明らかになった。

 神通川の川水を下流から上流に沿ってカドミウム濃度を調べてゆくと、上流に行くほどカドミウムの濃度が高くなり、神岡鉱業所付近の川水のカドミウム濃度が異常に高い数値を示していた。

 神岡鉱業所は軍の蓄電池用の亜鉛を生産しており、その過程で生じたカドミウムを廃液として捨てていた。廃液中のカドミウムが20年から30年間の長期間にわたり川や土地を汚染し、飲料水、川魚、米に混入して、カドミウムが体内に蓄積してイタイイタイ病を引き起こしたのである。カドミウムが骨のカルシウムを追い出して骨をもろくしたのだった。

 昭和36年5月13日、岡山大教授小林純と萩野昇は富山県知事の吉田実と会見し、これまでの研究経過を説明し、富山県の奇病「イタイイタイ病」は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告した。この報告に驚いた吉田知事は県庁幹部20人を集め、小林、萩野から詳しい分析報告の説明を聞いた。この会合は秘密のうちに行われているはずであった。しかしひそかに入室していた富山新聞の記者が、その内容を翌日の社会面のトップ記事にした。

 新聞の見出しは「イタイイタイ病の原因は鉱毒。患者の骨からカドミウムが検出、岡山大学小林教授が発表」「亜鉛、鉛、カドミウム、神通川に多量に含まれる」「白米にもカドミウムが含有されている」。この富山新聞社のスッパぬきによって、その日以来、多くの新聞記者が萩野を取り囲むようになった。カドミウムという重金属の名前が初めてマスコミに取り上げられたのである。

 そして昭和36年6月24日、萩野は札幌市で開催された第34回整形外科学会でそれまでのデータを発表することになった。発表には共同演者として吉岡金市博士が名前を連ねていた。日本各地の新聞社、マスコミは萩野の発表に注目していた。会場には整形外科医ばかりでなく多くのマスコミ関係者が押し掛けていた。それだけ社会的関心が高かったのである。萩野が壇上に上がると、カメラのフラシュがいっせいに連射され、映画撮影機が回りはじめた。

 萩野はこれまでの研究成果を発表した。それらを要約すると以下のとおりである。イタイイタイ病は神岡鉱業所から神通川に排出されたカドミウムが原因であること。神通川流域の住民がカドミウムを多く含む川水を飲み、あるいは汚染された米、農産物を長期間にわたり飲食することによって、カドミウムが体内に蓄積して慢性中毒を起こしたこと。その証拠として、カドミウムはイタイイタイ病患者周辺の神通川の川水あるいは流域の土壌に大量に含まれ、他の河川や土壌には少量しか認められないこと。またカドミウムは神岡工業所より上流の神通川には検出されないこと。さらにイタイイタイ病患者の骨などの臓器から多量のカドミウムが検出されたこと。これらのデータを示し、結論としてイタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒であると述べた。

 

いわれなき中傷

 しかし学会では悪意に満ちた質問が相継いだ。なぜ中年女性に多いのか、骨以外の臓器障害が少ないのはなぜか、動物実験をしていないのにカドミウムが原因といえるのか。このような質問に対し、萩野はひとつひとつ丁寧に答えていった。萩野の回答は正確なものであった。にもかかわらず結果的に難癖に近い非難を受けることになった。データそのものが間違いであると非難され、田舎の開業医の売名行為、神岡鉱業所から金をとるための行為と邪推された。「学者でもない田舎の開業医に何が分かる」という先入観がその根底にあった。高名な学者たちのほとんどが萩野の研究を非難した。これだけ世間の注目を浴びている萩野の研究を素直に評価する医師は少なかった。また支持する医師の声も聞こえなかった。イタイイタイ病に対する世間の注目が高ければ高いほど、学者として萩野の研究に嫉妬する気持ちが生じたのである。ある週刊誌では「萩野昇は学者でない、科学的証明が何一つなされていない」と高名な学者が非難した。神岡鉱業所は萩野学説は実証のないひとりよがりの考えと反論した。

なぜ正しい研究が学会の場で素直に受け入れられないのか。正確で科学的データに基づいているカドミウム説がなぜ非難されるのか。萩野には学会という学問の世界で自説が非難されるとは想像もしていなかった。正しい学問をなぜ学会が認めないのだろうか。学会が終わると、にがにがしい思いに憤りを覚えていた。そしてこの学会を頂点として萩野への非難、中傷が始まった。

 イタイイタイ病はカドミウムによって腎障害をきたす骨軟化症の一種で、医学的な診察基準も確立していた。しかしながら神岡鉱業所の肩を持つ医師が多くいた。岐阜大学と金沢大学医学部の有力教授は、イタイイタイ病との関連性を否定し、産業医学の権威者は萩野の研究に難癖をつけた。ネズミにカドミウムを投与する動物実験ではイタイイタイ病の発現はなかったと断言する医師もいた。このように三井財閥に有利な発言をする学者ばかりだった。患者の体内に大量のカドミウムが集積していることを数値で示し、それゆえにカドミウムが原因としたのは萩野だけであったが、学会では孤立無援の状態となった。

 また患者を抱える富山県も萩野の鉱毒説に否定的態度をとった。それは富山県が工場誘致を考えていて、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定したかったからである。イタイイタイ病の原因を神岡鉱山とする科学的根拠が示されたにもかかわらず、富山県は三井財閥を正面から批判することに難色を示し、むしろ神岡鉱山犯人説に否定的立場をとった。

 富山県は県民の所得を上げるために大企業を県内に誘致しようとしていた。工業化を目指す富山県にとって、イタイイタイ病の神岡鉱山説は不都合だった。また岐阜県にある神岡鉱山の鉱石が少なくなったことから、神岡鉱山を富山県に誘致する計画が密かになされていた。イタイイタイ病という病人を抱えている富山県は、病人よりも企業誘致を優先させ、県内に潜行しているイタイイタイ病を歴史の闇に葬りたかった。

 富山県は政府の大規模工業化プロジェクトを受け入れようとしており、政府や大企業を批判することはできなかった。政府や大企業を批判しているのは少数の被害者で、県民の大部分は企業誘致のため多少の公害を我慢すると考えていた。

 

失意の日々と妻の死

 本来ならば味方となるべき農民も、農作物の売れ上げがおちることから萩野の悪口をいった。イタイイタイ病が神通川流域の奇病として知られるようになったが、その原因が何であれ農村に嫁が来なくなることを彼らは恐れた。そのため地元のイメージを悪くした萩野を批判した。「萩野病院へゆくとイタイイタイ病と診断される」と噂がたてられ、萩野病院の患者の数が激減した。病院には嫌がらせの電話が鳴りっぱなしとなり、「病院を爆破する」「地元にいられないようにする」といった脅しの電話や手紙が、萩野だけでなく病院職員にも相次いで舞い込んだ。卑劣な中傷や脅しによって、身の危険を感じた職員たちは萩野病院を去っていった。

 萩野は四面楚歌となった。なぜ真実を信じないのか。苦しんでいる患者を救おうとする研究成果をなぜ信じないのか。彼を苦しめたのは、学者や行政だけではなかった。彼を最も苦しめたのは、県政、企業の論理に操られた周辺住民の冷ややかな目であった。萩野ほどの人物に対しても、彼が有名になればなるだけ周辺住民のねたみも大きくなった。三井財閥からの無言の圧力が幽霊の声となって富山県を動かし、富山県から婦中町に、婦中町から住民に大きくのしかかった。

 萩野は自分の研究は患者のためと信じできた。そして奇病、業病として死を待つだけだったイタイイタイ病の原因を発見した。それなのにその気持ちが住民に受け入れられないことに絶望していた。

 神岡鉱業所から長期間にわたり大量に排出されたカドミウムが川や土を汚染し、農業、漁業を破壊し、そして人間そのものを破壊したのである。神通川流域の土壌にカドミウムが沈着堆積し、水稲、大豆等の農作物に吸収され、地下水を介して井戸水を汚染させていた。体内での長期間のカドミウムの蓄積が腎障害を引き起こし、カドミウムがカルシウムを体内から追い出し、カルシウム不足から骨軟化症を引き起こしたのである。なぜ地元住民は自分を信じないのか。やっとイタイイタイ病の原因を解明し、治療に応用したいと考えている矢先の非難中傷であった。

 昭和36年12月、「富山県地方特殊病対策委員会」が作られ、富山県がイタイイタイ病の原因究明に乗り出すことになった。しかし15人の委員の中にイタイイタイ病に最も詳しい萩野と小林の名前はなかった。富山県は、この人選はイタイイタイ病の原因について偏見を排除するため、自説をもたない学者によって研究を進めたいと説明した。しかし15人の委員の中では富山県医師会長をのぞくと、萩野の鉱毒説に反対を唱える学者がほとんどだった。そしてこの「富山県地方特殊病対策委員会」が行ったことは、患者名簿を作り、日照時間、栄養摂取状況などの調査で、まさに栄養説を補強するための委員会であった。さらに金沢大学でも、カドミウム説に反対を唱える学長を中心に「イタイイタイ病研究班」がつくられた。そしてそこにも萩野は選ばれなかった。萩野のカドミウム説に反対の立場をとった学者は富山県当局に取り込まれ、三井財閥に不利な発言をしなかった。さらにネズミにカドミウムを与えた動物実験ではイタイイタイ病の発生はなかったと発表した。ある一流月刊誌はカドミウム無害説を連載し、萩野の鉱害説を否定、彼の研究だけでなく人格まで非難した。

 萩野はこのような非難のなかで、しだいに酒におぼれ自堕落な生活に陥った。マスコミは萩野の自暴自棄の生活を面白おかしく報道した。いつしか萩野は肝臓病、糖尿病、中心性網膜炎という病魔に冒されていた。気力の低下だけでなく身体までも蝕まれていた。

 昭和37年10月、妻の茂子が他界した。茂子は病弱だった。昭和23年に長男茂継を出産してから結核を患い、病弱な身体で家事をこなし、子供を育て、病院経営も手伝い、診療と研究ばかりの萩野の生活を支えていた。茂子は結核に加えバセドー氏病を患い、そのアイソトープ治療の副作用に苦しみ死んでいった。茂子は自分の病状を萩野にしゃべらなかった。萩野は研究に多忙だったこともあり,茂子の看病をあまりしてやれなかった。

萩野はマスコミでは有名人になったが、研究ばかりか人格までも非難された。そのような流れの中で、茂子の病気をあたかも萩野へ下された天罰であるような報道がなされ、茂子の死を自殺だったとする噂が流された。萩野は周囲の中傷に加え、妻の死によって不幸のどん底に落とされてしまった。イタイイタイ病の研究に打ち込んで、茂子の看病をおろそかにしてしまったことを後悔していた。

 

予期せぬアメリカの評価

悲しみのどん底の中で茂子を思いながら、彼はそれまでの生活を一変させることにした。酒を止め、コーヒーもお茶も断ち、趣味のゴルフも止め、すべてをイタイイタイ病の究明に尽くすことを決意した。何もしてやれなかった妻に対する後悔の気持ちが萩野を蘇らせたのである。彼の前には、一介の開業医の力ではどうすることもできない大きな壁があった。しかし一歩たりとも退かないことを誓った。「自分の命があるかぎり、呼吸をしているかぎり、最後の血液の一滴を燃え尽くしてでも、真実を証明する」このことを死んだ茂子に誓ったのである。

 奈落の底にあった萩野に明るいニュースが飛び込んできた。日本整形外科学会で発表したデータがアメリカで認められ、アメリカ国立保健研究機構(NIH)から1000万円の研究費が送られてきた。日本の学会で白眼視された研究をアメリカが認めてくれたのである。うれしかった。アメリカは自由の国、学問の国、偏見のない平等な国であると喜んだ。アメリカが認めてくれたことから、不思議なことに萩野のカドミウム説は本当かもしれない、と周囲もしだいに認めるようになった。

萩野はアメリカからの研究費で動物小屋を作り動物実験を再開した。知人に酒の入った一升瓶を渡し、飲んで空になったら、神岡鉱山の廃水を一升瓶に詰めて返してもらうことを条件に、廃水を集めウサギに投与する実験をおこなった。この実験は何度も失敗した。慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だった。子供も手伝ってくれて実験はしだいに成功に近づいていった。

 岡山大学の小林教授の実験室でも、ネズミを用いた実験が平行して行われていた。そしてついに成功した。カドミウムを混ぜた餌を与えたネズミでは、食べた以上のカルシウムが尿から排出され、骨が薄くなることが証明されたのである。1年間でネズミの骨の30%以上が溶け出し、225匹のネズミがイタイイタイ病と同じ症状を示した。この実験結果は昭和42年の日本医学会総会で発表され、逆もまた真なりを証明したのだった。イタイイタイ病のカドミウム説の一番の弱点であった動物実験に成功したのである。アメリカが萩野の研究を認め、研究費を与えたことがイタイイタイ病の原因としてのカドミウム説を証明したのだった。この研究により日本の研究者たちも萩野の学説を支持し、萩野は地元住民たちからも認められるようになった。

 またカドミウム説を否定するためにつくられた「富山県地方特殊病対策委員会」、金沢大学の「イタイイタイ病研究班」も、萩野のカドミウム説を次々に支持する実験結果を示した。そして彼の学説は次第に認められるようになり、迫害の流れが賞賛へと大きく変わっていった。

 もしイタイイタイ病の原因がカドミウムであれば、日本の他の亜鉛鉱山の河川にも同じイタイイタイ病患者がいてもおかしくはない。小林教授は日本中の川水の分析を行っていたので、可能性のある鉱山を知っていた。昭和39年9月、萩野と小林教授は、可能性の高い長崎県対馬にある東邦亜鉛対州鉱業所に調査に出かけた。3週間にわたる診察と調査から、その地区にもイタイイタイ病患者1人、死亡者2人、疑わしい患者数人を発見した。全身に疼痛を訴える患者は42人で、そのうちの21人から尿蛋白を検出した。また水田の土壌や井戸水から高濃度のカドミウムを検出した。対馬に患者が少なかったのは、亜鉛工場の規模が小さく、また水田が少なかったからである。この対馬の調査はイタイイタイ病のカドミウム説を裏付ける証拠のひとつとなった。

 昭和41年10月6日、萩野は富山県社会保障推進協議会から、イタイイタイ病に関する講演を依頼された。会場となった富山駅前の労働福祉会館大ホールは聴衆が入りきれないほどであった。萩野は悲惨な病気であるイタイイタイ病について3時間にわたり講演を行った。そしてこの講演をきっかけとして富山県各地で講演が頻回に行われ、富山県民はイタイイタイ病の悲惨な現状と、萩野の学説の正しさを知ることになった。そして三井財閥の経営する神岡鉱山に対する県民の怒りが高まっていった。

 

住民が立ち上がる

 昭和41年11月、それまで萩野を中傷していた婦中町の中から、ひとりの青年が立ち上がった。それは小松義久だった。小松は祖母、母をイタイイタイ病で亡くしており、近所に何人もの患者が苦しんでいるのを長年目撃していた。また農家で育った小松は農作物に被害をもたらした神岡鉱山の鉱毒被害を知っており、萩野の鉱毒説発表以来、祖母、母も同じ鉱毒で死亡したと信じていた。小松は神岡鉱業所に責任を取らせる被害者の会「イタイイタイ病対策協議会」を結成させた。その目的はイタイイタイ病を引き起こした神岡工業所の責任を裁判に訴え、謝罪を求めることであった。誰かが中心となって神岡鉱山と対決しなければいけないと覚悟を決めた。小松は農家を一軒一軒回り、イタイイタイ病対策協議会への入会を勧めた。それまで萩野に批判的だった婦中町も神岡鉱業所のカドミウム説を信じるようになった。三井財閥という巨大な陰を住民は恐れていたが、イタイイタイ病をもたらした神岡鉱業所を許すわけにはいかなかった。婦中町の住民は鉱害による農作物の被害を戦前から経験していた。

 この婦中町の住民がそれまでイタイイタイ病について沈黙を守っていたのは、富山県がこの奇病を栄養不足、過労によると意図的に宣伝していたこと、大企業である三井金属が相手では裁判で勝てるはずがないと諦めていたこと、お上に逆らわない引っ込み思案の住民の性格があった。またイタイイタイ病は業病とされ、家族が患者の存在を隠そうとしていたこともその要因であった。小松義久は「イタイイタイ病被害者の会」の組織づくりに奔走し、住民大会を開き、業病の汚名をそそぐべく団結した。「イタイイタイ病被害者の会」は富山県に協力を求めたが、婦中米の不買運動が起きることを理由に協力できないとの回答であった。次に神岡鉱業所との直接交渉を行った。イタイイタイ病被害者の会の30人は神岡鉱業所に出かけ責任者に面会を求めたが、警察による身元確認がなされ長時間待たされたうえ、「三井を犯人扱いしているようだが、そのような科学的根拠はない」というのが返事であった。

 イタイイタイ病については国会議員も動き出すことになった。昭和42年5月25日、参議院議員の矢追秀彦氏が萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者の悲惨な様子を見て涙を流した。そしてこのような悲惨な公害に何の手も打たず、追求もしなかった政治家としての責任を「申し訳ない」とわび頭を下げた。矢追は大阪出身の医師であった。彼は涙を流しながら、「こんなことが許されるはずはありません。政治家としてイタイイタイ病を国会で取り上げる」と約束してくれた。

 昭和42年12月6日、イタイイタイ病の患者代表、小松みよさんら3人が園田厚生大臣、椎名通産大臣に病気の実情を訴えに行くことになった。患者たちは身体の痛みがひどく、東京まで行けるかどうか自信がなかった。しかしこのようなむごたらしい病気を、二度と繰り返さないために、死を覚悟して東京に向かった。患者たちは矢追参議院議員の紹介で園田厚生大臣の前に進み出たが、ただ涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することができなかった。しかし田舎の素朴な患者たちの言いたいことはブラウン管を通して国民の誰もが理解できた。そして背が異様に縮んだ患者の痛がる表情がイタイイタイ病の恐ろしさを伝えていた。

 

国会での証言と初の公害認定

昭和42年12月15日、萩野昇は参議院産業公害特別委員会に参考人として証言を求められた。まぶしいライトのなかで満席の会場はしんと静まり返っていた。「痛い、痛い」と泣きながら死んでいった農婦たちの姿が彼の脳裏に浮かんだ。

「私は単なる田舎の開業医でございます。何の力もございません。神岡鉱山のような日本の基幹産業を相手に戦おうというような気持ちは微塵もごさいません。ただ、一人の医師として患者が可哀相なばかりに、この病気の研究を積み重ねてきただけでございます。「痛い、痛い、先生なんとかしてください」、泣き叫びながら死んでいった中年の農婦たち。全身の激痛のため診察もできない老女の絶叫、主婦が寝込んだために起きた様々な家庭の悲劇、・・・・あの人たちに何の罪があるのでしょう、何があの人たちを地獄の苦しみに追い込んだのか・・・」

 会場は静まりかえっていた。咳払いひとつ聞こえなかった。萩野は声をつまらせ、目頭を潤ましていた。「私はただ患者が気の毒だと思います。私はただ患者を助けるのが医師の宿命として、純粋な立場で、謙虚な気持ちで研究を積み重ねただけです」。萩野のこれまでの戦いを支えてくれたのは、農婦たちの「痛い、痛い」と叫ぶ哀れな声であり、助けを求めようとする農婦たちの澄んだ瞳であった。萩野は身長180センチ、体重105キロの巨漢であったが、患者のことを振り返りながら涙で身体を震わせながらの証言となった。

 翌昭和43年5月8日、この日は日本の公害の歴史において記念すべき日となった。園田厚生大臣は萩野の主張をそのまま受け入れ、厚生省見解が次のように発表された。

「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症を来たし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化および栄養としてのカルシウムなどの不足が原因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。慢性中毒の原因物質として、患者発症地を汚染しているカドミウムについては、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外にはみあたらない」このように厚生省は、イタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認めたのである。さらに厚生省の見解が裁判で争われた場合には、受けて立つとの見解も公表された。

 イタイイタイ病は日本で初めての公害病の認定となった。萩野が患者の発生地域と神岡鉱業所の位置などを総合的にとらえ、鉱毒説を唱えてから11年目のことである。

 患者たちは涙を流しながらこの園田厚生大臣の正式見解を迎え入れた。日本における初めての公害病の認定となったことには大きな意味があった。それは大衆を犠牲にして産業を育成させようとする戦後政治の脱却を意味していた。貧しい国民を犠牲にして産業を優先させるという、それまでの政治が大きく変わった記念すべき日であった。

この厚生省の結論は、萩野昇の血みどろの戦いがあったからである。萩野の学説は何度となく著名な学者から非難されたが、しかし萩野昇の学説が正しかったのである。

このイタイイタイ病の研究は世界的評価を受けた。アメリカでは「ペイン・ディジーズ」と英語でよばれていたが「イタイイタイ・ディジーズ」に、ドイツでは「ベェーベェー・クランクハイト」とドイツ語でよばれていたが「イタイイタイ・クランクハイト」というように萩野の名付けた病名が国際的病名となった。そしてWHO(世界保健機構)などの国際機関や国際学会でもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に結論づけた。萩野昇は日本医師会最高優功賞、厚生大臣感謝状、朝日賞(社会奉仕賞)などを次々に受けることになった。

 

初の公害裁判へ

 厚生省はイタイイタイ病の原因を神岡鉱業所が排出した公害と認定した。そしてイタイイタイ病は裁判所に場所を変え争われることになった。第一次裁判は患者と犠牲者の遺族23人が三井金属鉱業を相手に総額6200万円の損害請求額を求めて争われた。イタイイタイ病を追求する20人の弁護士が全国から集まり患者支援に立ち上がった。弁護士たちは貧しい患者から弁護料をとらず、すべて無償の手弁当で集まった。

弁護士は無報酬であったが、裁判には多額の費用が必要だった。裁判には訴訟請求額に応じて数十万円の印紙代がかかった。そのため全国の弁護士に支援を求め、全国300人の弁護士から300万円のカンパが集まった。また婦中町議会は「イタイイタイ病訴訟支援」を決議し、全員一致で町費から100万円の援助金を寄付することになった。また周辺の町からも援助金が集まった。県内世論はこの裁判を支援したが、富山県はイタイイタイ病は鉱害ではないとして動こうとしなかった。それどころか、市町村が一方的に裁判を応援するのは地方自治法違反であるとコメントを出した。

 この富山県のコメントに対し婦中町は、イタイイタイ病の医療費は町で負担している。もし原告が負ければ婦中町には膨大な被害を受けることになる。イタイイタイ病は個人の問題ではなく町全体の問題であり、もし県が市町村を非難するならば、特定企業を応援する富山県こそ地方自治法違反であると反論した。そして婦中町の議員全員がマイクロバスに乗り富山県の市町村をまわり、富山県内35の市町村のうち32の市町村から支援を得た。

 天下の三井財閥を相手にした裁判である。住民たちには絶対に負けられない裁判との悲壮感があった。生命をかけた闘い、どうしても勝たなければならない裁判であった。あとにひくことはできない、「負けたら切腹もの」と住民たちは覚悟を決めていた。

 国も住民のために立ち上がった。原告に代わり訴訟費用の一部を国が負担したのだった。国のこの訴訟救済は原告が勝訴することを確信してのことであった。このイタイイタイ病裁判は大きな意味があった。ひとつは日本最大のマンモス裁判であること、相手が日本有数の企業で、全国初の公害裁判であること、そしてこの裁判は人間の尊厳をかけた闘いといえた。

 いっぽう、神岡鉱業所のある神岡町はこのままでは神岡鉱山はつぶれるかもしれないとあわてていた。町の税収入の7割を占める神岡鉱山がつぶれれば、それこそ死活問題だった。神岡町の町長は「神岡鉱山を守る会」を結成して抵抗しようとした。しかし町長のかけ声に神岡町民は協力しなかった。人命がかかったこの裁判に町民の怒りのほうが強かった。神岡町の町民たちは、一歩間違えば自分たちが犠牲者になっていたこと、さらに神岡鉱業所の横暴な態度を見て協力しなかった。町民たちはイタイイタイ病の原告や弁護士が鉱山を調べに神岡町へやってくるたびに、温かく迎え入れ、道案内や宿泊の手配などを手伝った。

 厚生省がイタイイタイ病を神岡鉱業所の廃水による公害と認定したのに、なぜ裁判で争わなくてはいけないのか。それは被告側が長期裁判に持ち込み原告側の疲労と諦めを期待していたためだった。しかし裁判の過程で興味ある多くの証言が飛び出した。

 吉岡金市博士は次のような証言を行った。イタイイタイ病発生地区の杉の木を切って年輪を調べると、大正末期から昭和18年頃まで年輪の幅が非常に狭くなっていて、ほとんど成長していない。それ以降は徐々に成長して昭和20年以降は回復している。この杉の生長が止まった時期は神岡鉱山がさかんにカドミウムを流していた時期と一致すること、さらにイタイイタイ病が発生していない他の地区の杉の年輪はそのような変化は見られないと証言した。

 また神岡鉱山で働いていた老人は次のような証言をした。神岡鉱業所は人体に影響を及ぼすほど大量のカドミウムを流したことはないと主張しているが、亜鉛は潜水艦の蓄電池に使うため、太平洋戦争中は増産に次ぐ増産だった。そのため鉱滓(亜鉛抽出後のかす)は貯まるいっぽうで、捨て場がないため川に流していた、という証言である。このことはすなわちカドミウムを川に流していたことを意味していた。

 昭和46年6月30日、富山地方裁判所の周囲には全国各地の公害被害地から駆けつけた住民代表や支援団体が集まり、新聞記者などの報道陣も集まり、歴史的瞬間を待っていた。テレビ中継用のカメラが並び、空には何台ものヘリが旋回していた。そして10時8分、富山地方裁判所三階の窓から「勝利」のたれ幕が下がった。

 富山地方裁判所の岡村利男裁判長は「イタイイタイ病の原因は神岡鉱業所が排出したカドミウムであり、被告はすみやかに6億7600万円の賠償金を原告へ支払え」との判決を下した。裁判は住民側の全面勝訴となった。場外にいた500人を超す支援者たちはこの全面勝利に「バンザイ」を繰り返した。

 イタイイタイ病の原因がカドミウムであることは厚生省の公的見解で明らかだった。しかし神岡鉱業所は「カドミウムがイタイイタイ病を引き起こす科学的根拠が不明であり、もしカドミウムがイタイイタイ病の原因だとしても、神岡鉱業所がどれだけ関与していたのかが不明である」と主張して裁判は争われていた。

 神岡鉱業所は判決を不服として控訴したが、昭和47年の名古屋高裁金沢支部での裁判でも敗訴し、上告を断念して裁判は住民側の全面勝利が決定した。企業側は「廃液の放出行為と被害発生との間の因果関係を明確にさせよ」と主張したが、この企業の論理は通用しなかった。裁判所は「他にカドミウムなどの重金属類を排出したものを見出せない以上、神岡鉱業所から排出したカドミウムが発病原因の主体とするほかない」として住民の全面勝訴とした。裁判所は厳密な科学的証明は必要ないと判断したのである。第1次から第7次までのイタイイタイ病訴訟の原告者数は 515人であった。三井金属は総額14億円を支払い和解することになった。

 イタイイタイ病被害者と支援者200人はバスに分乗して三井金属鉱業本社に直接交渉に向かった。そして三井金属鉱業と11時間の交渉を行い、次の3つの誓約書に署名させた。1、イタイイタイ病の原因が神岡鉱山からのカドミウムであることを認め、今後争わないこと。2、イタイイタイ病発生地の過去将来の農業被害を補償し、土壌汚染復元費を全額負担すること。3、今後公害を発生させないことを確約し、被害者、被害者が指定する専門家の立ち入り調査に応じ、要求される公害関係の資料を提供し、これらに必要な費用はすべて負担すること。このように住民が勝ち取った誓約書は画期的なものであった。

 イタイイタイ病裁判は日本の多くの公害訴訟の中で住民勝利を導いた最初の裁判であった。その意味では公害訴訟の1ページを飾る判決であった。このイタイイタイ病裁判の勝訴は患者だけでなく、日本全体への影響が大きかった。

 その当時は、敗戦から立ち上がった高度成長の時代であった。そして工業化のひずみとして公害が問題になっていた。熊本県の水俣病、四日市市の喘息などによって、経済の牽引となった工業が環境を破壊し住民に害を及ぼすという公害が注目されていた。イタイイタイ病も公害病のひとつで、その因果関係を最も早く認めた裁判であった。この裁判の住民勝利によって、企業の論理は通用しなくなり、政府も「企業優先から環境優先」の政策に転換せざるをえなくなった。企業や行政の権威主義は住民の良識という立場から加害者企業、無作為行政と見られるようになり、企業倫理や行政のあり方が大きく変わることになった。

 大正時代からイタイイタイ病の患者がいたとされているが、その総数は明らかではない。「富山の奇病、業病」とされ、カドミウムが原因と分かるまで、家族は患者を家の奥に隠していたからである。その中で、萩野が診察した患者は358人で、そのうちの128人が死亡していた。患者のほとんどが女性で全死亡者は200人以上とされている。昭和42年以降にイタイイタイ病と認定された患者は185人で、イタイイタイ病を引き起こす可能性のある要観察患者は334人であった。

 イタイイタイ病と認定されるためには、カドミウムの暴露歴があること、症状が成年期以降に発現していること、尿細管障害があること、骨粗鬆症を伴う骨軟化症が認められること。この四条件が必要であった。イタイイタイ病の患者数は数千人と見られていたが、症状がリウマチや他の老人性疾患と似ており、その特定は難しかった。公害健康被害者補償法の規定で富山県が認定した患者は178人であった。

 カドミウムは人体への被害だけではなく、神通川を農業用水とする稲作にも大きな被害を与えていた。長期間にわたってカドミウム汚染米を食べた者がイタイイタイ病になったのだから、汚染された農地を放置したままではイタイイタイ病の根本的な解決にはならない。そのため三井金属鉱業の負担でカドミウム汚染土壌の除去が進められた。

 神岡鉱山は奈良時代から鉱山として知られており、明治7年に明治政府から三井組に経営が譲渡されが、当時はカドミウムの名前も毒性も知られていなかった。また神岡鉱山の亜鉛生産は国家の戦時体制により増産が続いた。亜鉛の鉱石にはカドミウムが含まれ、重量比では亜鉛の20%がカドミウムであった。亜鉛のあるところには必ずカドミウムが存在していた。

 亜鉛の大量生産が開始された大正時代から、カドミウムが神通川流域に大量に集積していたと考えられた。神岡鉱山は亜鉛鉱を1日4700トンを採掘し、神岡町は人口二万七千人を数え、にぎわいを見せていた。神岡鉱業所の従業員は4500人で、国内最大級の鉱山として知られていた。政府は神岡鉱山を存続させるため資金を出した。神岡鉱山は患者住民団体との和解を進め企業として存続できた。しかし時代の流れは皮肉なものである。鉱脈がしだいに枯渇し神岡町の人口は半減し、作業員は50人足らずとなった。そして平成13年6月29日に亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止し、その長い歴史を閉じたのである。

 

信念に生きた人々

 平成2年6月26日、萩野昇博士は胆嚢癌にともなう敗血症のため富山市民病院でこの世を去った。74歳であった、イタイイタイ病の研究と治療に半生を捧げた「田舎の開業医」の反骨人生が安らかに終わったのである。萩野昇は亡くなったが、彼の努力により婦中町住民に笑顔がもどり、神通川は「毒の通る川」から再び「神の通る川」となった。

 もし萩野昇という医師が婦中町にいなかったら、もし研究を途中で諦めていたら、イタイイタイ病は解明されず、奇病、業病と忌み嫌われたまま犠牲者を増やし続けたであろう。この萩野昇の生涯はイタイイタイ病を発見し、その原因を突き止めた医師の記録と言えるが、むしろそれよりも患者のために自分を犠牲にして、白眼視の逆境の中で研究を進め、患者のために真実を明らかにした勇気ある医師の記録と呼ぶのがふさわしい。地元の人たちは、萩野昇のことを今でも富山のシュヴァイツァーと尊敬している。

 萩野昇の学説を最後まで支えた農学博士、吉岡金市は平成2年11月死去。イタイイタイ病の原因を突き止めた岡山大名誉教授、小林純博士は平成13年7月2日、虚血性心疾患により死去、91歳であった。

 医師である萩野昇博士、農学者である吉岡金市博士、科学者である小林純博士、彼らは学問の分野は違っていたが、イタイイタイ病という悲惨な病気の解明につくし、周囲の白眼視に耐えながら原因を突き止めた。彼らの人生は医師として、学者として尊敬するに余りある半生であった。患者を助けたいという真摯な態度、真実の追究という学問的姿勢、正しいことを正しいと主張する勇気、これらを決して忘れてはいけない。このことを彼らは教えてくれた。