直江兼続

 直江兼続は米沢藩の初代藩主・上杉景勝を支えた文武兼備の智将で、家老として上杉氏の活動を取り仕切った。関が原での敗戦後、上杉家の米沢移封に伴い執政として米沢城下を整備し、現在の城下町米沢の基盤を築いた。また、現在国宝に指定されている「宋版史記」や「漢書」などを集めた文人で、その深い教養と見識は豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されている。

 直江兼続(なおえかねつぐ)の兜の前立(まえだて)は「愛」の一文字である。これは軍神・愛染明王(あいぜんみょうおう)の象徴であり、愛民仁愛(あいみんじんあい)の表象を表している。兼続は武人として昂然(こうぜん)と起ち、また民生家として黙々と生きた。この愛の一文字に男の品格を見る。

 

直江兼続の誕生
  1560年、直江兼続は越後国魚沼郡上田庄・坂戸城で生まれた。父は坂戸城主・長尾政景(景勝の父)の家老・樋口兼豊で幼名は与六である。長尾政景は上杉謙信の姉婿であり一門衆の筆頭として上杉謙信を補佐していた人物である。
 兼続の優れた器量を見込んだ景勝の母(謙信の姉、仙桃院)は謙信の養子となって春日山城へ入る景勝の近習として取り立てた。つまり兼続は子どもの頃から景勝の小姓となり側仕えをしていた。兼続は長男であったため本来は樋口家を継ぐ立場にあり、この頃は樋口兼続という名前で活動している。
 上杉謙信の言葉に「大将たる者は仁義礼智信の五を規とし、慈愛をもって衆人を憐れみ…」とある。五規すなわち仁義礼智信でもって直江兼続は謙信の養子・景勝の近習に就いて以来、己の生の軸を「五常の徳」と定め、終生、上杉家への忠節を貫いた。

 

御館の乱 
 直江兼続が18才の時に謙信が急死し、謙信の急死は上杉家に家督争いを引き起こさせ、景勝ともう一人の養子である景虎(北条氏康の子)の争いとなった。謙信には実子がおらず、養子のうちの誰を後継者にするかを定めていなかったため上杉氏を二つに割る大きな抗争が発生したのである。景虎が身を寄せた御館城の名から「御館の乱(1578年)」と呼ばれる。

 すばやく春日山城の本城に陣取った景勝は、北条氏と姉の嫁ぎ先である武田氏を頼る景虎に対して、武田勝頼の妹(菊姫)との婚儀を進め、翌年ついに景虎を滅ぼしまう。この御館の乱の論功行賞に対する不満から起きた事件に巻き込まれ、与板城主直江信綱が死亡してしまう。名家の存続を願う景勝は、未亡人となったお船の方と兼続を結婚させ直江家を継がせた。このように特殊な事情で兼続とお船は夫婦になったが夫婦関係は良好だった。兼続は政治的な事柄も含め大小様々なことをお船に相談し、二人は協同して上杉氏を取り仕切っていたのである。お船もそれほどの知性や見識を備えた人物であった。

秀吉の傘下へ
 1582年の6月に織田信長は京の本能寺で、明智光秀の謀反によって死去し、その光秀を討ち実権を握ったのは秀吉であった。秀吉は越前北庄に柴田勝家を滅ぼした際、秀吉は景勝と提携する。 1586年、景勝とともに兼続も上洛して秀吉に面会し、臣従の形をとり、翌々年再び上洛した際には兼続は朝廷から山城守に任じられる。佐渡平定、奥羽仕置など、秀吉が支配を拡大する中で、各地の検地や刀狩りの実行に兼続も深く関わった。
会津へ転封

 1598、豊臣秀吉は上杉景勝を越後91万石から会津120万石に加増転封し、そのうち米沢30万石を兼続に与えた。家老の身で異例の厚遇である。秀吉がいかに兼続の実力を高く評価していたかがわかる。度重なる上洛は兼続に文人として活躍する機会を与え、五山文学を中心に禅僧との交流を深め、中国の史書や古典などを積極的に集めた。朝鮮侵略の際にも貴重な書物を持ち帰っている。豊臣政権下で有力大名に成長した上杉景勝は、関東・東北支配の拠点として会津に移り、兼続の陣頭指揮で城や道路の整備を進めるが、このことが後に家康に疑心を抱かせることになる。

 

直江状

 上杉景勝は、五大老の一人として秀吉政権の重きを成していた。秀吉の死後、天下人への野望を露わにした徳川家康は「上杉景勝に謀叛の疑いあり」として15条におよぶ詰問状を送った。「直江状」はそれに対する返書である。上杉景勝は寡黙な人だったので、あるいは雪国生まれゆえの我慢強さからか、少なくとも表向きキレることはなかった。その代わりに、兼続は毅然として「根拠のない噂をもとに主(景勝)を謀叛人扱いするのは、内府様(家康)にこそ他意があるからではないか。上杉家を疑うなら一戦も辞さぬ」と突っぱねたのである。反論、弁明というより弾劾状もしくは果たし状である。京都妙心寺の高僧は兼続を指して「利を見て義を聞かざる世の中に、利を捨て義を見る人」と評した。
  家康は「こんな無礼な手紙は見たことがない」と激怒し「豊臣秀頼に対する謀叛」を大義名分に会津征伐の大軍を動かした。結果として「直江状」はその後の関ヶ原合戦の発端になった。

 

米沢に減封
 関ヶ原の戦後に上杉氏の領地が大幅に削られたことから、兼続は政治家として家康の狡猾の前で純情に過ぎたといえる。1601年、景勝とともに家康に謝罪し恭順し、領地は会津120万石から米沢30万石に減封となった。家老としては外交失敗の責を負って切腹すべき立場であり、兼続自身もその決意だったろう。しかし、おそらく景勝の命もあって上杉家再建に生きることが執政の責任と思い定め、兜の前立を「愛染明王から愛民仁愛」に替えたのである。
 家臣に辛苦を強いるなら「隗より始めよ」である。兼続は家禄6万石のうち5万石を他の武将に、5千石を家来にそれぞれ分け与え、一汁一菜の質素倹約を旨とした。6千の家臣は召し放ち(解雇)せず家族とともに米沢に移住。以来、家臣は「肥え桶かつぎ」と揶揄されながらも兼続を信じて上杉家再建に献身した。
 兼続の指揮はまちづくりの要となる治水事業にも兼続は率先して取りかかった。松川の氾濫を防ぐために谷地河原堤防を築き、城下へ必要な用水を供給するため新たな堰を開削している。猿尾堰の鎮守として龍師火帝の石碑が今も残っている。治水(直江石堤)、換金作物(青苧、紅花、漆)の栽培、軍備増強(鉄砲製造)と多岐にわたり、米沢は約10年かけて城下町の形を整え石高は実収50万石まで復興農業指導書「四季農戒書」も著している。民生家として高い資質を示した兼続の為政は、のちに米沢藩中興の祖・上杉鷹山の藩政改革に活かされる。
 兼続は足利学校で修行させた九山和尚を米沢に呼び寄せ、禅林寺(現法泉寺)を開きました。禅林寺の中に兼続が集めた図書を備え、米沢藩士の学問所とした。学問をも奨励
した。兼続は内政・軍事・外交と多方面に事跡を残しているが、武将としては優れているが戦術・戦略的が失敗も多い。最も得意とするのは内政や統治、教育であった。それゆえに平和な時代であるほど評価されやすくなる。


死去

 1619年12月19日、兼続60歳で死去。菩提寺である徳昌寺に埋葬さた。お船の方は高野山金剛峰寺に宝楼閣瑜祇塔を建立し、その壁に夫兼続と息子・景明の肖像を描かせ供養した。お船の方は1637年に亡くなって同じく徳昌寺に埋葬され、後に林泉寺に改葬された。今もなお直江夫妻の墓は並んで建っています。

 兼続への評価はどこを重視するかによって異なってくるが、兼続には主君・景勝に対する悪意や害意は一切なく、奸臣と呼ぶのはいささか過剰な形容であると言える。義のためには時の権力者へも毅然と対応した直江兼続、これが切腹に値する大失敗を引き起こすが、それを越えてお家再建に献身した。この「愛の武将」から学ぶものが多い。