本多正信

本多正信
 歴史の節目には必ずといっていいほど、必要とされる時に現れる時代が必要とする人物がいる。そして、徳川家康に付き添い、天下取りの成業を支えた傑物(けつぶつ)がいる。江戸幕府264年間の基を築いた本多正信もその一人である。
 本多正信の人生は家康への反抗と挫折で始まった。1563年、26歳の血気さかんな正信は、譜代家臣でありながら三河一向一揆に参謀格として加担し、家康に敵対した。しかし鎮圧されると妻子を残して出奔し、以来7年余り各地を流浪し辛酸をなめることになる。
 人は失意のどん底の時に、何を視て、何を学ぶかによって生の価値が決まる。正信は浮浪の日々、地を這う暮らしの中で政治についての思慮を深めたのではないか。大和領主の松永久秀は「徳川の侍は多く武勇の輩であるが、正信は強からず、柔らかならず、また卑しからず、世の常の人ならず」とその才幹を見抜いている。
 家康の元に帰参した正信が行政手腕を発揮するのは、1590年に秀吉が小田原合戦で北条氏を討ち、ほぼ百年におよぶ戦国騒乱が終息してからである。時代は武断から文治政治へ向かい。関東六か国を与えられ江戸入りした家康は、人事采配を一変させ、本多正信を関東総奉行に据えて新領国の経営に着手した。かつて自分に歯向かった男ではあるが、正信の文人(文官)の才を評価し抜擢したのである。
 正信は、領民の統治と治安維持、江戸城への物資搬入する道三掘の開削、江戸市街の建設と監督指揮、江戸城改築の総指揮さらに行政組織の達成に全精力を注ぐ。大変な労力だ。その功もあって1599年に宿老に就いた。
 家康の信頼は篤く、正信との関係は「朋友の如くにて」であり「その謀るところ言葉多からず、一言二言にて尽せるよし」(新井白石)と、まさに肝胆相照らすものだった。正信や板倉勝重ら文治派の台頭は、徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政)ら武断派の反感と嫉妬を買うが、家康の人事政策は変らなかった。時代は明らかに武から文に転換していたのだ。¥
 正信は徳川将軍家随一の地位を得ながら、終生、相模国甘縄藩(あまなわはん)のわずか2万2千石の禄に満足し、一切の加増を辞退した。物欲や権力欲に関心を寄せず、ひたすら家康の構想実現に挺身する姿勢は、武断派の不平不満をも消滅させた。
 晩年は二代将軍秀忠の後見役となり、息子正純とともに幕府組織と近世的職制の整備、さらに武家諸法度と公家諸法度の制定発布に尽くし、15代264年におよぶ徳川武家政権の礎石を固めた。
 「両御所(家康と秀忠)に奉仕して、乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間、相遭(あいあう)こと水魚のごとし」。元和2年(1616年)6月7日、正信は家康死去の50日後、あたかも49日の忌明け(きあけ)を待っていたかのように、79年の生涯を閉じた。家康と正信、相遭こと、まさに水と魚のごとしであった。
 家康への反抗と挫折、徳川四天王からの反感を受けながら、幕府の最高職「宿老となった武将」、本多正信から学ぶもことが多い。