室町仏教

室町仏教

 奈良仏教が国家鎮護を目的としたため、一般民衆に広がらなかったのに対して、平安時代後期から鎌倉時代にかけては末法思想が広く信じられ、人々の心は深い絶望の中にあり、仏教が説く無常観や宿命論が人々の心にあった。

 しかし室町時代に入ると、現世の可能性を否定する末法思想は薄れ、天台宗や真言宗などのかつての仏教は、朝廷や幕府が弱体したことから徐々に勢力が弱くなった。一方、鎌倉新仏教は組織を完成させ、武士や庶民を相手に都市から農村へと勢力を拡大させていった。特に絶対他力本願の浄土真宗は農民の戦う支えになり、日蓮宗の「現世利益主義」は町民から支持された。つまり仏教は、すがる仏教から積極的に願えをかなえる仏教になった。

 

禅宗

 まず足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、仏教は以前から武士に人気のあった禅宗が中心となった。鎌倉時代に始まる臨済宗、曹洞宗は、座禅による自己修行を重要視する宗派で、いわゆる禅宗である。

 室町幕府は臨済宗寺院をランク付けして、足利義満は南禅寺を別格本山として京都、鎌倉に五山・十刹を定めた。(京都五山として相国寺、建仁寺、東福寺、萬寿寺。鎌倉五山として円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)。臨済宗は幕府によって保護され、幕府が住職を任命するようになった。京都の寺院では大徳寺や妙心寺は幕府の庇護と統制を受け上級武士の間で躍進した。意外なことであるが、五山は祠堂銭という名目で金融活動をしており、五山の献金は室町幕府の重要な財源となった。

 五山では宋学や漢詩文の研究が発達し、それは「五山文学」と呼ばれ、漢詩文は経典と共に出版された(五山版)。禅の精神に通じる茶の湯、水墨画、書院造などの文化もこの頃に大成した。しかし政治の中心が鎌倉から京都に移り、応仁の乱で室町幕府が衰退するとその勢いは低下した。

 いっぽう同じ禅宗である曹洞宗は、幕府の保護を求めず、より自由な活動を求めて地方への布教を目指し、地方の下級武士や庶民の支持を受けた。堺や博多の町衆や戦国大名に茶の湯が伝播したのもこの曹洞宗の影響である。

 京都では臨済宗の大徳寺や妙心寺が有名であるが、地方では曹洞宗の永平寺や総持寺が有名である。あの一休さんの本名は一休宗純であるが、一休宗純は応仁の乱後に大徳寺の住職に出世した高僧である。

 

浄土真宗

 浄土真宗は親鸞によって鎌倉時代に勢力を伸ばすが、旧仏教の反発にあい、弾圧されて急速に勢力を減退させた。このように浄土真宗は平坦な道のりで広がったわけではなく、教団は一時衰えたが中興の祖が盛り返した。親鸞没後、浄土真宗は本願寺派・高田派・仏光派・三門派に分裂したが、この中で重要なのは本願寺派である。

 応仁の乱時に本願寺派から蓮如(れんにょ)がでて中興の祖となった。この蓮如が利用したのが高野聖であった。高野聖は寄付をつのるため「高野山から来た修行僧」と称して、托鉢をして回り、お礼に読経や踊りを見せて、いわば「流し」の河原乞食同様の芸人だった。

 高野聖は食い詰めて逃散した農民が多く「芸」を持たずに餓死するものが多かった。そこで蓮如は彼らに「南無阿弥陀仏」を教え、それだけで「飯が喰える」ようにした。そして彼らは「南無阿弥陀仏」を引きさげ、全国津々浦々に浄土真宗を広めていったのである。

 浄土真宗・本願寺派は一向宗とも呼ばれ、一向一揆からその名が目立つようになる。浄土真宗・本願寺派は蓮如の時代に畿内・北陸地方を中心に信者を獲得し、信者は農民から運送業者、行商人、手工業者などに広がっていった。本願寺の蓮如が「阿弥陀仏の救いを信じれば、誰でも極楽往生できる」という教えを平易な文章で説いて(御文)、各地に同じ一向宗の人達が集まる講を組織し、惣村などへの布教活動によって各地域ごとに門徒を組織化し、その集団はしだいに強大となった。

 一般的な仏教寺院は僧がいて寺が建つが、浄土真宗・本願寺派の場合は門徒の集まる道場ができ、集まる信者が増えるとその管理をするために専従の住職が生まれた。住職も農民と同じ生活をしていたが、そもそも住職が僧侶なのかどうかさえ怪しかった。

 蓮如は政治への介入には否定的であったが、応仁の乱時に越前に吉崎道場を造り、農民たちは農村への支配を強める守護大名と対立し、門徒たちは各地で一向一揆を起こした。その代表が加賀の一向一揆では約1世紀にわたって加賀を支配した。

 浄土真宗・本願寺は日蓮宗の法華一揆で山科(京都)を追われ、本拠地を大坂(大阪)の石山に移し、防御力を高め石山本願寺は堅固な城と同じ要塞となり、戦国大名と並ぶ大きな勢力となった。大阪の石山本願寺は後に織田信長と対立することになる。

 蓮如は13男14女の計27人の子沢山で、長男と末っ子の年齢差が56歳もあった。子沢山の蓮如は有力寺院に息子たちを送り込み、各地の真宗寺院の結束を強固にして石山本願寺は巨大勢力となった。

 

日蓮宗

 関東から始まった日蓮宗は、東国から京都に信者を広げていった。東国出身の日像上人が京都で布教し、商工業者などを中心に信者を獲得していった。日蓮宗が京都の町衆と結びついて繁栄したのは、他の鎌倉新仏教とは違い日蓮宗は現世重視だったからである。そのため資本をもつ商工業者が信者となって日蓮教団が繁栄し、日蓮宗は京都町衆の半分以上を占めるようになった。
 日蓮宗の布教はもともと戦闘的で、他の宗派を厳しく非難したことから迫害されることになる。比叡山や他宗の圧力があり、上皇の命で日像上人は流罪となり京都を追放された。また日蓮宗は政治支配者をいさめる伝統があり、室町幕府をいさめた俗称「鍋かぶりの日親」がいる。

 日親は第6代将軍・足利義教の前で「立正治国論」を献上し説法しようとした。しかし6代将軍・足利義教は天台密教の中で育ったため日蓮宗に不快感を示し、2度目の諫暁において日親上人を捕えると、は庭に引き出され頭から熱湯を浴びせられた。これが「鍋かぶりの日親」の由来である。さらに日親上人は日蓮宗のみが正しいと「南無妙法蓮華経」の唱題を続けたため、義教は「南無阿弥陀仏を唱えろ」と命ずるが屈さなかったため舌を切り取られた。

 日親上人は「法華経の行者を苦悩させた罪業により、100日以内に災いが生じるであろう」と予言し、その予言の通り将軍・義教は赤松満祐に殺害された。洛中でこの予言の実現性の噂が広まり、将軍や諸臣は恐れをなして日親上人を放免した。

 京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗は、お金を貯めた商工業者たちを集め法華一揆を結成して一向一揆と戦うことで、自分達の住んでいる地域の政治の自主性を強調した。一揆とは団結するという意味で、この法華一揆は百姓一揆などの他の一揆とは違っている。

 室町時代末期の京都の治安は悪く、土一揆などに悩まされていた。そこで京都町衆を中心に日蓮系信徒が団結して京都の治安維持と防衛をしたのが法華一揆である。京都では浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は山城本願寺を焼き討ちにした。しかしこの日蓮宗徒の自治は長くは続かなかった。

 比叡山延暦寺は上納金を払うように日蓮宗に迫り、日蓮宗がこれを拒否すると、延暦寺は約6万人を動員して京都に押し寄せ、日蓮衆1万人を殺害し日蓮衆は京都を追い出された。延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失し、被害規模は応仁の乱を上回るものであった。この時の法華一揆と延暦寺側との戦いを天文法華の乱という。 

 

室町時代の仏教

 この時代の一向宗や日蓮宗、さらには比叡山延暦寺の天台宗といった宗教勢力同士の争いは布教地における莫大な利権がからんでいた。宗教勢力は布教地の要所ごとに関所を設けて通行税を徴収し、布教地に座を設けて商売を許可制にして税金を集めた。これらの利権を維持するため、各宗教勢力は僧兵などの軍事力を強化したが、軍事力の強化は必然的に多額の資金力を必要とし、宗教勢力は布教地に対する税を増やして利益を上げ、その利権を守るために武力を強化した。この繰り返しによって、いつのまにか宗教勢力は政治力や資金力を持った巨大な圧力団体となった。

 宗教勢力は資金力を元手に金融業に進出することもあり、寺院に資産を預ける人もいて、高利での貸付に耐え切れなくなった農民が徳政一揆を起こして、寺院がその攻撃の対象となることがあった。

 現代人の感覚では「寺」と言うと平和的な集団を思い描くが、実際には武装した僧兵を抱えた武装集団であり軍閥であった。さらに日蓮宗は他宗の僧侶に度々往来で因縁をつけて論破し、大きな騒ぎを巻き起こした。延暦寺は武力行使をちらつかせて周囲の他宗派の中小寺院を恫喝・恐喝し、もとの宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて、事実上支配下に置いた。このように僧侶は乱暴・横暴なことを繰り返していた。

 宗教勢力は武力を強め、法華宗による山科・本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体による宗教戦争が起きた。中でも加賀国一揆などの一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約100年に渡って加賀国を支配した。

 応仁の乱などの相次ぐ戦乱で、京都はかつての勢いを失ったが、それでも人や物資が集まった。宗派にとって京都こそが最大の布教地だったため、京都のような有力な都市では宗教勢力による争いが絶えなかった。巻き込まれて苦しむ民衆は宗教勢力を追放して、かつての過ごしやすい世の中に戻してほしいという声が自然に高まった。

 まさに戦国時代である。このような民衆の声なき声をくみ取った織田信長によって時代は大きく動くことになる。尾張の戦国大名・織田信長は「天下布武」のもと、実力で対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。

 延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦などが宗教討伐として有名であるが、織田信長は宗教そのものを否定したのではなく、むしろ宗教には極めて寛容であった。ただし宗教が金や武力、政治勢力を持つことを嫌っていたのである。

 織田信長は日蓮宗と浄土宗の両宗を代表する高僧を対論させ,信長の介入で法華宗の敗北となった。 その結果、信長は浄土宗の僧たちに褒美を与え、法華宗には他宗派を非難しないように約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だった。(上段左:永平寺、上段右:蓮如上人、下段右:鍋かぶりの日親、下段右:一向一揆)