佐久間象山

佐久間象山
 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。幕末一貫して開国論を唱え続けた天才で当時でも稀な自信家だった。

 1811年、佐久間象山は信州松代藩の下級武士の家に生まれた。象山は誰に教わることもなく3歳にして漢字を覚えた。早くから象山の才能に目をつけた城主・真田幸貫の引き立てで学問に修養した。1841年に真田幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、32歳の象山を海防係の顧問に抜擢した。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの真田幸貫の信頼に報いるためだった。象山は優れた漢学者に加え、後半生では洋学に心血を注義、科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。
  佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、「江戸で佐久間象山にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には大法螺(おおぼら)吹きとか山師といった批判があった反面、非常に見識のあった人物だった。

 ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを知り、これ以後、開国策を終始一貫して変えなかった。あの時代に開国策を主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷へブレているが、世界の大勢を説いて、30年間開国論を唱えてきたのは象山だけだった。象山は次の言葉を残している。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 
 この意味は20代は松代藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると日本(天下)の問題を考えるようになった。40歳以降になると全世界のことを考えるようになった」という意味である。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現している。
 勝海舟の妹にあたる妻の順子に象山自作のカメラで撮った写真が残されている。晩年の象山の姿であるが、象山は西洋人のような顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたまペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあった。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語っている。
 象山は天才意識が強く大変な自信家だった。象山は自分の家の血統を誇りに思い、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書を置けばすべて分かるようになった。百科全書を読みながらガラスを作ったり、また大真面目にお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対しての忠義だと語っている。少し度を超えた自信家である。
  幕末、京都における象山の立場はかなり自由だった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説き、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ象山が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど死期が刻々と近づきつつあった。
 象山はその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎた。象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養があったが、この後、河上彦斎は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、河上彦斎ほどの手だれが身がすくみ心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥った。

 

河上彦斎 
 佐久間象山を殺害した攘夷派の殺し屋である。河上彦斎は肥後熊本藩士で維新史の刺客の中でも屈指の人物だった。幕末・維新の時代に人斬りという異名を冠して呼ばれた人物には無学の者が多かった。しかし河上彦斎は一通りの学問はあった。上手ではないが漢文を書き和歌も詠んでいる。したがって「殺し屋というより理論の裏打ち」があるように思える。また名利の念は全くないのが特徴だ。
 河上彦斎は、肥後熊本藩士小森貞助、母わかの子として熊本城下神馬借町に生まれた。幼いとき同藩の河上源兵衛の養子となった。16歳のとき細川家の花畑邸のお掃除坊主となり、後に江戸に勤番して家老付きの坊主となった。彦斎と名乗るのはこのためである。
 彼は儒学を轟木武兵衛(とどろきぶへい)に学び、兵学を吉田松陰の親友・宮部鼎蔵に学び、国学を熊本の学者・林桜園について学んだ。桜園の原道館の同門には後に「神風蓮の乱」(1876年)を起こした太田黒伴雄や加屋栄太らがいて親交があった。儒学にも通じていたが兵学者でもあった。国学についてはとくに精通しており、国粋主義者で敬神の念が厚かった。
 この彦斎が、ペリー来航の時勢に心を揺さぶられ尊王攘夷の思想を持つようになったのは自然なことだった。彦斎は「肥後もっこす的性格」だったから、その思想は牢固たる信念になって終生決して動かないのだ。このことが、後の彼の運命を決めることになった。
 文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。このとき随従員として彦斎とともに上京したメンバーに肥後勤王党の轟武兵衛(儒学者)・宮部鼎蔵らがいた。彦斎はそれまでの国老付坊主という職を免ぜられて蓄髪を許され、その後、彦斎は滞京して熊本藩選抜の親兵になった。
 文久3年、30歳のとき、彦斎は熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。環境が異なれば、この後、宮部鼎蔵らに近い生き方をしてもおかしくなかった。ところが彦斎はこの後「人斬り」としてその惨劇を演じることになる。
 1864年7月11日、愛馬に跨った松代藩士・佐久間象山が従者2人、馬丁2人を従えて京都・三条通木屋町を通りかかったとき、通行人に紛れていた刺客2名が飛び出し、馬上の象山に斬りかかった。しかしこの一刀は象山が馬上にあったため傷は浅かった。ただこの後、象山には不運な偶然が重なった。この急襲を受けて象山は馬腹を蹴ってその場を逃れようとした。
 ところが馬丁の1人が刺客に気付かず、馬が狂奔したと思い、大手を広げて前に立ちふさがったのだ。このために馬が棒立ちになったところを、追いすがる刺客の1人が躍り上がって斬りつけてきた。たまらず象山は鞍上からもんどり打って地に落ちた。さらに刺客は隙を与えず、一、二刀あびせると、混乱する場に紛れ姿を消した。白昼の凶行だった。
 この刺客こそ彦斎だった。ただ急襲されたにせよ馬丁が事の成り行きを見ていたら、象山は最初のひと太刀の浅い傷を負っただけで逃れていただろう。しかしこうして不幸にも佐久間象山は暗殺されてしまった。
 彦斎はこの後、藩の仲間と別れ長州軍に身を投じる。象山暗殺後の8日後の7月19日、「八月十八日の政変」(1863年)で京都を追放された長州藩が巻き返して起こした「禁門の変」(1864年)で、彦斎は長州家老・国司信濃隊に入って戦っている。しかし圧倒的兵力差の前に敗れ去った長州軍は撤退し、彦斎も国司信濃と別れしばらく鳥取藩邸に身を隠した。
 第二次征長戦(四境戦争)では彦斎は芸州口、石州口を守り戦っているが、幕府軍で肥後熊本藩が、小倉で長州軍と対峙したと聞き、怒り、悲しみ思い悩んだ。そして、桂小五郎や高杉晋作らが猛反対する中、長州軍を抜け一人熊本へ帰っていった。時勢に気付いていない藩首脳たちを説得するためだった。
 866年2月、彦斎は熊本へ帰ったところを脱藩罪で捕らえられ投獄された。説得どころか、佐幕派の藩首脳には全く聞き入れられなかった。しかし彦斎が投獄されていた一年の間に大政奉還、戊辰戦争があり幕府側は朝敵となった。

 そのため明治2年(1869年)2月には投獄されていた勤王派志士たちとともに釈放され、藩の役員に取り立てられた。彦斎は外交係に任命され名を高田(こうだ)源兵衛と改め、肥後熊本藩の藩命を受けて東北地方へ遊説に出かけている。

 彦斎は筋金入りの攘夷家で、維新後の明治政府の開化政策にも順応することができなかった。そして遂に政府転覆を企てたかどで、明治4年(1871年)12月4日、38歳で断首された。
 彦斎の容姿は身長5尺前後(150cm)と小柄で色白だったため、一見女性のようだった。剣は伯香流居合を修行したというが、我流で片手抜刀の達人だったと伝えられている。また人斬りの異名を持ちながら、彦斎が斬ったとはっきり分かっているのは佐久間象山だけである。