その他の軍師

 軍師とは「主君に作戦・計略を助言し、最善の判断がくだせるようにする者である」。中国の諸葛孔明になぞらえた印象が強く、戦術・戦略・兵站の天才であるが軍の司令官ではない。また軍師は「策謀が狡猾で、かつ無欲で忠実な人物」とされている。

 軍師とは戦国時代の武将というよりは智将で、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛、武田信玄の山本勘助らが代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの逸話は江戸時代の講談で広まったことから、ある程度創作された部分がある。

 石田三成のような行政官としての側面が強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて軍師とは呼ばない。また源義経などは軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年いて、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で、戦国武将の中から選んでみた。戦国武将の軍師としては、さらに小早川隆景、片倉景綱、鍋島直茂、沼田祐光などをあげることができる。

 

山本勘助(武田信玄の軍師)

 1493年、山本勘助は駿河国の富士郡山本(富士宮市山本)で山本貞幸の三男として生まれ、三河国牛窪城主・牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。
 山本勘助は26歳の時に城主・牧野氏に願い出て、武者修行の旅に出た。勘助は中国、四国、九州、近畿、関東と10数年の間、諸国をまわり、その間に京流兵法(行流兵法)を会得し、城取り(築城術)、陣取り(戦法)、日和見(気象学)などを極めた。 
 勘助26歳の時に高野山で武芸上達を祈願し、魔支利天像を授けられ、それ以来、この像を襟元から下げ守り本尊とした。戦国時代はいつ死ぬか分からず、勘助は懇意にしていた長谷寺の念宗和尚に自分のすべてを託した。

 後に武田信玄に仕えて、1561年に念宗和尚は川中島での勘助の戦死を知ると、前もって預かっていた遺髪を五輪塔を建立して治めた。
 勘助は37歳のとき、武者修行の旅を終えると仕官の道を歩み進めた。放浪の後にまず駿河の国に入り、今川家重臣に仕官を願うが、義元は勘助の風体から聞き入れなかった。

 義元は「勘助は異形、色黒で容貌醜く、隻眼(独眼)で身体には無数の傷がある。足は不自由で指が揃っていない。それが兵法を極めた者か」と述べている。

 今川家の者も、口々に「兵法を極めた者が、小者一人も持たぬ貧乏浪人で、城を持ったことも無く、兵を率いたことも無い。兵法者などとは大言壮語の大法螺吹き」 と罵られ仕官は叶わなかった。

 当時の兵法は塚原卜伝の「新当流」であり、勘助の京流は亜流とされていた。以後、勘助は駿河に留まり憂鬱の日々を送り、機を待った。その後、兵法者としての勘助の評判が武田家の重臣・板垣信方の耳に届き、板垣信方は勘助を若き甲斐国の武田晴信(信玄)に推挙した。
 1543年、武田晴信(信玄)は山本勘助を知行100貫という破格の待遇で召抱えた。武田晴信には勘助が忠義を尽すという確信があった。信玄は勘助を雇おうとして「勘助に馬、槍、小者を用意し」家中の者に浪人と侮られてはならぬと述べている。
 このようにして勘助は甲斐の国入りを済ませると、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で信玄と対面した。信玄は勘助の兵法を聞き即座に勘助の才を見抜き、知行を200貫に増加した。

  武田晴信(信玄)は勘助と築城術、戦法などの兵法を語り合い、時として諸国の大将、毛利元就や大友義隆、今川義元や上杉憲正(上杉謙信の養父)、更には松平清康(家康の祖父)の動向や分析を評価して、勘助の知識と経験や分析の深さに感心した。
    家中には勘助を妬む者がいて、中でも南部下野守の誹謗には、晴信(信玄)も我慢できず追放を申しわたし、南部氏は諸国を転々として餓死したと伝えられている。このように戦国の世は厳しいものであった。
 同年、晴信(信玄)は信濃平定を企てた。信濃を侵攻するにあたり、勘助は九つの城取りに成功し、その才を内外に証明し、その大功により100貫のご加増を頂き知行は300貫となった。1544年、晴信(信玄)は信濃国を攻略し諏訪頼重は自刃した。
 諏訪頼重には秀麗の姫様がいた。勘助は晴信に側室にと進言をしたが、武田の重臣たちは、恨みを持つ姫様などとんでもないと反対した。しかし晴信は勘助の進言を受け側室の迎えた。
 勘助の進言とは「姫様が晴信(信玄)のお子を産めば、甲斐の武田家と信濃の名門・諏訪家は結束することは必定」とのことだった。

 翌年、姫様は男子(武田勝頼)を産み、武田勝頼は家督を継ぐことになる。1546年、村上義清が城戸石城を攻め、猛将・義清の猛攻撃を受けた武田勢は総崩れとなったが、勘助が50騎の兵で体勢を立て直すと一気に村上軍を打ち破った。この功により勘助の知行は800貫になり、武田家家臣の誰もが認める軍略家と称されるようになった。
 その後、得意の築城術を生かして築城し、築城は高遠城、小諸城と続き、さらに「甲州武田法度之次第」が作られた。   1547年、晴信(信玄)は宿敵・村上義清と上田原で戦い、重臣・板垣信方を失う激戦であったが勘助の献策により勝利した。
 村上義清は信濃を逃れ越後の国へと奔走し、長尾景虎(上杉謙信)を頼った。以後、長尾景虎(上杉謙信)は幾度となく北信濃の川中島へ侵攻し、川中島の合戦の布石とも云うべき流れが出来上がった。

 1553年、武田晴信は出家し信玄「武田信玄」と名乗り、同時に勘助も出家して道鬼斎「山本勘助入道道鬼斎」と名乗ることになった。

 

川中島の戦い
 勘助は信玄の命により北信濃の川中島の高台に、川中島決戦のために海津城(松代城)を築城した。1561年9月10日、上杉謙信は、1万3千の大軍を率いて川中島に出陣すると、即座に妻女山に陣を設け海津城を見渡した。

 上杉謙信が陣を置く妻女山は海津城の北側にあり、海津城を見渡すことが出来た。妻女山は海津城よりわずかの距離であった。上杉謙信は信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることができたが、上杉謙信は攻めることはなかった。
 武田信玄は2万の兵を率いて甲府を出ると海津城に入城し、軍議を開き謙信攻略を練った。この膠着状態から士気の低下を恐れた重臣たちは中央決戦を進言したが、謙信の強さを知る強さを知る信玄は勘助に謙信軍撃滅の作戦を命じた。その結果、立案された軍略が「啄木鳥(きつつき)戦法」であった。
 先ず軍勢を二つに別け、一軍を夜陰に乗じて妻女山の裏側からしのばせて攻撃し、上杉軍は勝っても負けても山を下るため、妻女山の麓からの平地・八幡原で逃げ降りる上杉の軍隊を殲滅するため信玄本隊待ち伏せさせた。

 夜明けと共に一軍が妻女山を裏から攻め、混乱した上杉軍が八幡原に逃げ下ったところを挟み撃つ作戦であった。キツツキが餌をついばむ時、くちばしで木を叩き虫が出てきたところを襲うことから啄木鳥戦法とよぼれた。
 信玄はこの策を受け入れて、信玄自身が八幡原に布陣をしき、朝霧の中から飛び出してくる上杉勢を待ち受けた。しかし川中島を包む深い霧が晴れた時、霧の中から現れたのは慌てふためく上杉勢ではなく、整然と布陣された1万3千の上杉の軍勢であった。
 軍略の天才と云われている上杉謙信は、海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知していた。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を渡った。これが頼山陽の漢詩「川中島」の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。

 上杉謙信は信玄を打ち取るべく車懸りの陣で猛攻撃をかけてきた。武田軍本隊は動揺したが、信玄は鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形(鶴翼の陣)で対抗し、また武田二十四将の獅子奮迅の活躍がありなんとか持ち応えこたえた。
 そこで本陣手薄と見た上杉謙信が、ここぞとばかりに一騎で切込みを掛けた。白手拭で頭を包んだ謙信は、床几に座している信玄の頭上から一太刀二太刀、続けて三太刀と斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受けとめた。

 そこへ駆けつけたのが、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信、馬場信春率いる別部隊1万2000で上杉勢の側面を一気に突いた。このことより上杉勢は総崩れとなり、形成不利を悟った上杉謙信は兵を引き越後へと退去した。
 戦国時代の最大の戦い「川中島の決戦」はこうして幕を引いたが、この戦いで勘助の策は儚くも散ってしまった。勘助の胸の内では、武田軍を危機に落とし入れ、恩ある主君信玄を窮地に追い込み、さらに多くの戦死者を出してしまったことに無念の思いがあった。そのため敵中に単身で突入し十三騎を倒すが、それでも勘助は満身創痍になりながら敵陣の真っただ中でたった一人で大太刀を振い続けた。しかし上杉家の猛将・柿崎景家の手勢に囲まれ、四方より槍を撃ち込まれ落馬し、不自由な足を引きづり引きづり起き上ろうとした瞬間、坂木磯八に首を取られた。

 この川中島も戦による死者は上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ互いに多数の死者を出した。「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされているが、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

 戦国大名と僧侶とは切っても切れない深い関係にあった。なかでも禅宗の臨済宗は室町幕府の庇護を受け、その教えが地方に伝播すると大名たちから熱烈な支持を受けた。やがて臨済禅は積極的に政治権力とかかわりを持つようになる。

 太原雪斎(たいげんせっさい)は寺の住職でありながら今川義元の軍師として活躍した。太原雪斎は今川家の合戦では家臣として軍勢を率い、今川義元に代わって采配をふった重要な人物である。さらに今川家の政治・外交も任っていた。

 

太原雪斎
 太原雪斎の父は庵原城主の庵原政盛で、母は水軍を率いた横山城主・興津正信の娘であり、両家とも今川家の家臣という環境で育った。代々今川氏譜代の家系であるが、太原雪斎は嫡子ではなかったため、父の死を契機に14歳で剃髪して駿河の善得寺に入り、その後、京都五山の建仁寺護国院にて18年修行を続けた。

 駿河の戦国大名・今川氏親は「家臣の庵原佐衛門尉の子・太原雪斎が禅寺で修行を積んでおり、その才能は優れている」という話を聞いて、ちょうど生まれた五男の方菊丸(今川義元)の養育を依頼するため京都に使者を出した。

 太原雪斎はこの依頼を2度断ったが、再三の要請から駿河に戻ると、芳菊丸(今川義元)を教育することになった。

 僧侶の役割は戦死者を弔うことであるが、それ以外にも多岐にわたる役割があった。僧侶は仏教だけでなく儒学などにも通じた知識人で、教養があり教育者として適任あった。儒学は個々人の道徳的修養と徳治政治を重視しており、まさに帝王学と呼ぶにふさわしい学問で大名にとっては必須の教養であった。さらに軍配者として兵法学も教えていた。

 今川氏親は方菊丸(今川義元)の兄・今川氏輝に家督を継がせるつもりでいた。そのため方菊丸(今川義元)は僅か6歳で仏門に出され善得寺に預けられた。

 太原雪斎と芳菊丸(今川義元)は23歳の年齢差があったが、太原雪斎は芳菊丸に兵法を教え、やがて太原雪斎と芳菊丸は2人で京都に赴くと五山で学び公家と交流を広めた。

 

今川義元の家督継承・花蔵の乱
 1526年に今川氏親が死去すると、芳菊丸の兄・今川氏輝が家督を継いたが、今川氏輝は14歳と若く病弱だったため、母の寿桂尼が後見人となった。今川氏と小田原城の北条氏綱とは同盟関係にあり、今川氏輝は甲斐の武田信虎と敵対していた。

 1536年に思わぬ事件が起きる。今川氏輝が24歳の若さで急死し、また同日に今川氏輝の弟・今川彦五郎も死去するという事件が起きたのである。2人の突然死は毒殺説や自殺説などが噂されたが、いずれにせよ今川氏輝に嫡男がいないことから後継者争い「花倉の乱」が勃発する。
 この事件を起こしたのは兄・玄広恵探であった。戦国大名には正妻と側室がおり、当時は正妻が生んだ子どもが優遇された。今川義元の正妻は今川氏輝や彦五郎を産んでおり、京の公家・中御門氏の娘であったが玄広恵探の母は側室であった。
 側室の子・玄広恵探は家督を継ぐ立場にはなかったが、今川氏輝・彦五郎が相次いで死去したため、玄広恵探に家督が転がり込む可能性がでてきた。玄広恵探はそこにかけたのである。
 今川義元が家督を継ぐことになったのは、寿桂尼と太原雪斎が芳菊丸(今川義元)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を受けて「今川義元」と改名させたからである。

 太原雪斎は武田信虎と和睦し、支援を受けて今川義元に家督を継がせようとし、また室町幕府にも裁定を求めた。

 室町幕府は勢力が衰退しており普段は軽んじられていたが、いざ問題が起きた場合には利用された。雪斎と義元は京の建仁寺で修行をしていたため、この間に培った人脈を用い家督相続の許可を得たのである。
 今川義元は、氏輝・彦五郎が亡くなってから約2ヶ月弱で室町幕府から家督相続の許可を得た。もちろん玄広恵探はそれに屈せず家督相続を譲るつもりはなかった。「花蔵の乱」は下克上の空気が充満している中で起きた。

 雪斎はすぐに多数派工作を行い、玄広恵探らを孤立させ花倉城に総攻撃をかけた。玄広恵探は花倉城から逃れると自刃し、今川義元が晴れて今川氏の当主となった。

 父や兄を早くに亡くした今川義元にとって、雪斎は親代わりとなる存在だった。今川義元は今川館の近くに臨済寺を創建して太原雪斎を住職に迎え、政治・外交・軍事分野とあらゆる面での最高顧問(軍師)として重用した。

 

甲相駿3国同盟
 当時、今川義元は駿河・遠江の2カ国を手中にして、次に三河を得ようとしていた。武田信玄は甲斐と信濃の大半を治め、北条氏康は関東地方を治めていた。

 当時、今川氏は甲斐国・武田氏との関係が悪化しており、それを収束することが長年の懸案事項であった。そこで雪斎が行ったのは婚姻による関係改善と両家の強化であった。

 1537年、太原雪斎は武田信虎の長女・定恵院を今川義元の正室に迎え、さらに武田信虎の子・武田晴信(武田信玄)には、今川家の遠縁にあたる京の三条公頼の娘の輿入れを行い甲駿同盟を成立させた。

 当時、婚姻関係を結ぶことは同盟関係を構築することを意味し、これで甲駿同盟が結ばれた。しかしこの甲駿同盟に反発した相模の北条氏と今川氏は敵対関係になり交戦状態になった(河東の乱)。 北条氏綱は駿河東部に侵攻して、今川家は領地の4分の1を失った。そのため太原雪斎は関東管領・山内上杉憲政を誘い武田晴信と協働して駿河東を取り戻した。

 武田信玄は父の武田信虎を今川氏に追放した。武田氏は信虎によって一見まとまっているように見えたが、家臣はそうは見ていなかった。武田信虎を追放して武田信玄(武田晴信)が当主になったのは家臣たちの総意によるものであった。家臣たちは武田信虎より息子の武田信玄を選んだのである。武田信玄は領国を拡げ、飾り物の当主から家臣が認める実力ある当主となった。

 武田信玄は甲斐を治めると、信濃にも領土を拡大させた。今川氏と北条氏との力の差は歴然としており、もし両者が戦えば今川氏は武田氏に飲み込まれる恐れがあった。

 今川氏は西の尾張を狙っていた。同様に尾張の織田信秀(信長の父)も三河を狙っていたため、三河の岡崎城主・松平広忠が今川家に救援を要請した。そのため今川氏は竹千代(徳川家康)を人質に受けることを条件に全面的に松平家を支援した。しかし織田信秀は松平家の家臣を買収して、今川家に人質に出された竹千代(家康)を捕縛して織田氏の捕虜とした。
 その為、1549年11月に太原雪斎自らが軍勢を指揮して、三河安祥城主・織田信広を攻めて、織田信広を捕虜にすると、織田信秀と交渉をして織田家にいる人質の松平竹千代(徳川家康)との人質交換を実現させて今川家のもとに取り戻した。竹千代は善得寺に入り、太原雪斎による英才教育を受けた。徳川家康も今川義元と同様太原雪斎から教えを受けたのである。
 1550年6月、武田家から迎えていた今川義元の正室・定恵院が死去したため、武田家との婚姻同盟をさらに模索し、今川義元の長女・嶺松院を武田晴信の嫡子である武田義信の正室へと送り婚姻関係を再度結んだ。

 

善得寺の会盟
 雪斎はかねてから今川義元、北条氏康、武田晴信の同盟締結を目論んでいた。そこで雪斎は3人を善得寺に招いて会合を開き「甲相駿同盟」を結棒とした。太原雪斎は犬猿の仲である武田信玄と北条氏康を説得して同盟させ用とした。

 この三国同盟は武田氏が求めていたことで、雪斎は武田氏が今川氏・北条氏との争いの仲介者として関わり、一気に3国同盟にまでもっていった。武田氏家臣の駒井高白斎が今川氏・北条氏の間を往来し、今川氏側からは太原雪斎が、北条氏側からは北条幻庵が対応した。

 雪斎を含めた3者でのやり取りで、今川氏・武田氏・北条氏の3者が相互に自分の娘を輿入れさせることで「甲相駿同盟」に決着がついた。今川義元の嫡子・今川氏真に北条氏康の娘・早川殿が嫁いで三国同盟を締結させたのである。

 今川家は駿河・遠江・三河の3カ国69万石となり、「街道一の弓取り」とまでうたわれた今川義元は後顧の憂いなく尾張攻略に全力を注ぐことになった。

 織田信秀が亡くなると、今川義元は若い織田信長が守る尾張への進出を計り、織田家の家臣たちへの調略を始めた。

 その後も、太原雪斎は今川義元の軍事・政治の両面を支え「甲相駿同盟」以外に、織田家との戦いはもちろんのこと、今川家の分国法、今川仮名目録の制定も行った。この分国法には追加21箇条を加え室町幕府の後ろ盾を必要とせずに、自らの力だけで支配を展開することを謳っている。その意味では非常に重要な戦国家法であった。

 太原雪斎は今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川家の繁栄に尽力し、まさしく今川氏の軍師であった。太原雪斎は今川氏の発展に大きく寄与したことから「黒衣の宰相」「名補佐役」と評価されている。しかし1555年10月10日、駿河の長慶寺で死去した。享年60。

 山本勘助は「今川家は雪斎なくてはならぬ家」と評し、家康も「義元は雪斎和尚とのみ議し、雪斎亡き後は国政整はざりき」と評している。

 

桶狭間での今川義元敗死

 桶狭間の戦いは歴史的に有名な合戦であるが、この桶狭間の戦いには太原雪斎が関わっていない。桶狭間で今川義元が横死したのは、太原雪斎の死から5年後の1560年のことである。以後、今川家の家督は子息の今川氏真が継いだが、今川家は坂道を転がるように凋落した。もし雪斎が生きていれば、その後の今川家は違う歩みを取っていただろう。太原雪斎も死去後の桶狭間の戦いは今川家の悲劇といえる。

 大原雪斎は今川家の政治・外交・合戦の全てに関わっていた。しかし雪斎の死によって、今川義元が政治・外交・合戦を行うが、雪斎のように適切な対処ではなかった。

 徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて、他の家臣の存在感は薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている。徳川家康は幼少期に人質として雪斎から学問を学んでいた。なお「軍師」という言葉は戦国時代には存在せず、江戸時代以降に用いられたものである。

(下:臨済寺、今川家の菩提寺で大原雪斎がが開寺した臨済寺)

片倉景綱(小十郎)

 片倉景綱と聞くと多くの方は馴染みが薄いだろうが、片倉小十郎のことである。小十郎という名は片倉家の当主が代々継いでいる名前なので正式名は片倉景綱である。小十郎は知略に長けた武将で、伊達政宗の軍師・参謀役として活躍した。

 戦国の英雄・伊達政宗は彼自身の才覚によるものであるが、右腕・片倉小十郎の支えによるものが大であることは万人が認めることである。小十郎がいなければ伊達政宗は奥州統一どころか戦国の世を生き抜く事はできなかったとさえ言われている。

 東北での軍師としては、伊達政宗と片倉小十郎、上杉景勝と直江兼続、津軽為信と沼田祐光、最上義光と氏家守棟、南部信直と北信愛などで、いずれもその濃密な関係で家を盛りたてた。伊達政宗と小十郎の関係は、時には主従関係に、時には上下関係に、また師弟関係にと多様な変容を見せながら互いに切磋琢磨していった。


片倉景綱(小十郎)の生まれ

 1557年に片倉景綱(小十郎)は伊達政宗の父・輝宗の小姓・片倉景重の次男として生まれている。父・片倉景重は神職にあり伊達家の家臣でもなければ武家の出身でもなかった。

 小十郎は幼い頃に両親を相次いでなくし、異父姉の喜多が母親の代わりになって育てられた。喜多は父・景重の妻・直子の連れ子で小十郎とは20ほど年が離れていた。そのため異姉弟というより親子のような関係ではあった。

 喜多は兵書を好み武芸に通じており、小十郎に文武両道の教育をしている。そのため小十郎は学問だけではなく、後の主君・伊達政宗に剣術指導をするほどの腕前になっていた。

 伊達正宗が生まれると、喜多は当時の当主・伊達輝宗より政宗の乳母を命じられ、喜多は政宗にも小十郎同様の厳しい教育をした。

 小十郎が政宗に仕えたのは米沢で起きた大火災がきっかけだった。火災での小十郎の活躍を耳にした伊達輝宗は自分の雑用係として小十郎を採用し、その後、伊達家の家臣・遠藤基信の命で伊達正宗の側近となった。

 伊達家譜代の家臣を差し置いて傅役に抜擢されたのには、政宗の父・伊達輝宗が片倉小十郎の聡明さと、伊達家に対する厚い忠誠心を評価してのことだった。この時、小十郎19歳、伊達政宗9歳で、片倉小十郎は政宗より10歳年上であった。小十郎は伊達政宗の兄貴分的な遊び友達、あるいは学友として伊達家の発展に尽くした。

 

政宗の右目をえぐり取る

 小十郎は伊達家家臣・遠藤基信の目に止まり伊達正宗に仕えたが、幼い政宗に対し小十郎は喜多から受け継いだ「強くあるべき」という教えを守った。それを容易に想像できるのは政宗の右目をえぐり取った出来事である。
 伊達政宗は5歳の時に天然痘を患い、そのせいで右目は失明し醜く眼球が飛び出ていた。政宗が自分の容姿を激しく嫌い「この目を突き潰せ」と命じたが、家臣たちは跡継ぎの政宗にもしものことがあれば、と失敗を恐れ誰も実行しなかった。

 ここで名乗りを上げたのが片倉小十郎であった。小十郎はもしもの時は切腹との覚悟で、小刀で政宗の右目を切り落とした。その際、悲鳴をあげる政宗に対し「主君たるもの、これしきで悲鳴をあげてはいけない」と諭した。凄まじい信頼関係がここで生まれた。内向的だった政宗は右目を切り取ってから快活に変わリ、後に独眼竜・政宗と呼ばれるようになった。
 また政宗の腹に大きな腫瘍ができた時、政宗が小十郎に相談した。そこで小十郎は馬屋から丸金を焼いて持ってきて、これで腫瘍が焼き切れるかどうか自分の腹で試した後、小十郎はそのまま政宗の腫瘍を焼き切った。政宗は1か月ほどで治ったが、試し切りをした小十郎の方は治るまで2か月以上かかり、さらには乗馬の際に足がつるなど後遺症を残した。

 このように景綱は忠誠心が強く、妻が息子を身ごもった際には「主君より先に男子を設けることはならぬ」と我が子を殺すこともいとわなかったが、政宗からの説得で息子は無事に生まれた。このように政宗と小十郎には主従関係を超えた信頼関係があった。

 

武の伊達政宗、知の片倉小十郎

 18歳で伊達家の家督を継いだ伊達政宗は、奥州の覇者となるべく積極的に行動してゆく。片倉小十は合戦がない時は伊達藩の内政に勤めていたが、1585年からは政宗と共に数々の戦に参戦した。常に政宗の傍らにあり、その知略で伊達家の窮地を幾度となく救った。

 人取橋の戦い(伊達VS蘆名・佐竹ら反伊達連合軍)では伊達軍7500に対し敵は3万もの大軍であった。総大将の伊達政宗の鎧に銃弾5発と矢を一筋食らうほど追い詰められた。小十郎は政宗の身代わりになり敵兵を迎え撃ったが、寸前のところで伊達軍の別隊が駆けつけ政宗も小十郎も命拾いをした。小十郎は主君の為に命を懸けて戦ったのである。

 さらに摺上原の戦いなどで片倉景綱はまさに軍師として目まぐるしい活躍をした。

 また片倉小十郎は伊達家の外交を一手に引き受けていた。反伊達連合軍は仲間割れを起こすなど、結束が弱まっていて小十郎は巧みな外交で反伊達連合軍の武将達を味方に引き入れていった。

 

豊臣秀吉の天下統一

 豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして関東の小田原を征伐する時には、参戦を渋っていた伊達政宗に参陣するように促している。秀吉は政宗にも協力を要請するが、まだまだ若い政宗はこれを無視していたのである。

 伊達政宗にとって、北条家は父・輝宗の頃からの同盟関係が続いており、また農民あがりの秀吉に従うことに躊躇があった。しかし秀吉は総勢22万という勢力で北条攻めを開始した。

 秀吉への協力を無視していた伊達家は、秀吉が許すはずがないので伊達家の重臣達は秀吉と徹底抗戦すべきだと政宗に進言した。この時、なぜか小十郎は一言も意見せず、秀吉には従わない方針で会議は終わった。

 しかし不安な伊達政宗はこの夜、小十郎の屋敷をこっそり訪ね、悩める当主・政宗は「皆は秀吉と戦うべきと言うが、小十郎はどう思うか」と尋ねた。小十郎は「蠅というものは、払っても払っても群がってくるものです」と言った。

 秀吉は大軍を率いている。一度追い払っても後から何度でも襲ってくる。政宗は小十郎のこの言葉を聞き、秀吉のいる小田原へ参陣することを決意した。

 小十郎の説得もあり政宗は急ぎ小田原へと向かうが、完全に怒っていた秀吉は政宗に会う事を拒否し、政宗を箱根底倉の地に幽閉した。小十郎はどうするか考えた「ただ謝るだけではいけない。話を聞く限り、秀吉はかなりの派手好きである。ここで伊達政宗という人間を華やかに演出し、只者ではないという事を示そう」と秀吉の心を掴み許しを請う作戦にでた。

 小十郎は秀吉という人物の性格を把握し、政宗を秀吉の好みにかなう人物に仕立て上げるよう策を講じた。

 まず小十郎は「日本一の茶人、千利休殿がいらっしゃるとので、是非とも茶道の伝授をお願いしたい」と政宗に言わせた。これを聞いた秀吉は、自分の身が危ない時になんとも風流で変わった人物なのか、政宗に会ってみようかと思わせた。そこで秀吉は怒りをやわらげ、政宗の謁見を許したのである。
 その謁見の場で政宗は髪を短く切って垂らし、死装束を連想させる白色の陣羽織を羽織って登場した。
 「面白い。気に入った」この変わった政宗の死装束が見事に秀吉の心を掴んだのである。「もう少し来るのが遅かったら首がとんでた」と秀吉は言ったが、政宗は無事に許され豊臣政権の一員になり伊達家を守る事ができた。

 

奥州仕置

 豊臣政権の支配下に組み込まれた奥羽では、検地が実施されて諸大名家の石高が確定し軍役が課せられた。しかしこの奥州仕置に対して奥羽各地に残存する旧勢力の家臣や領民、さらには所領安堵された大名さえも豊臣政権への不満を持ち各地で一揆が起きた。

 政宗が一揆を煽り会津へ攻めたとして、秀吉は心良く思っていなかった。ここで政宗が一揆を煽ったとされる裁判が行われた。

 徳川家康や前田利家らが見守る中、秀吉は一揆を煽ったとされる密書を手に取り政宗に詰問した。「この手紙に書かれた花押はまさしく政宗の手によるものだ」と険しい顔つきで政宗を睨んだ。

 すると政宗は「わたしの花押は鳥のセキレイを模しております。わたしは常々の偽物の書が出ることを想定し、自分の手紙である証拠としてセキレイの眼の部分に針で穴を開けておく習慣をつけている。よって関白様の手にある密書の花押に穴が開いていればわたしの記したもの、なければ偽物である」こう政宗に言われた秀吉は以前送られた政宗の手紙と、今回の密書の二通の花押をじっくり比較した。

 その結果「なるほど、この手紙の花押には穴が開いておるが、この密書の花押には穴があいておらん。よしこれで政宗の疑いは晴れた。政宗は無実である」裁判は政宗の勝訴という結果になった。

 しかし伊達藩は領土を一部取り上げられ、150万石あった伊達藩は約半分の72万石にまで減らされた。秀吉はこの奥州仕置により手が届かなかった奥州の地を支配して天下統一の仕上げとした。

 秀吉の伊達政宗に対する仕置きを最小限に留めたのは片倉小十郎であった。片倉小十が居なければ、伊達政宗の所領はさらに減封あるいは改易されていただろう。

 

秀次事件
 実子・秀頼を跡継ぎにしたい秀吉は、跡継ぎと決めていた甥の秀次が邪魔だった。そこで「秀次は謀反を起こして秀頼を亡き者とするつもり」と決めつけ秀次を切腹させた。
 伊達政宗は豊臣秀次と歳も近く、会った時には共に鹿狩りへ行くほど親しい仲だったので「政宗が秀次と会っていたのは謀反の計画を相談していたに違いない」と疑われた。
 この伊達家の危機を救うため、小十郎は秀吉に誓紙を送り弁明し、さらに「伊達家の家臣達は自暴自棄になり大阪、京に火をかけた後、みな斬死して果てるつもり」と噂を広めた。そのことがあり、また徳川家康のとりなしもあって伊達家はなんとか罪を免れることができた。

 

関ヶ原の戦い
 1600年、関ヶ原の戦いが勃発した。その時、伊達政宗は東軍に属して東北地方にいる西軍武将の抑えとなるよう奥州に留まっていた。この関ヶ原の戦いの時、東北地方で最も戦いを繰り広げていたのが最上義光(東軍側)と上杉景勝(西軍側)であった。

 上杉景勝は直江兼続を総大将とし出羽・山形城の最上義光を攻めてきた。政宗の叔父(母の兄)である最上義光は苦戦を強いられ、政宗に援軍を求めてきた。この時、政宗の母は兄・義光のいる山形城に身を寄せていた。片倉小十郎は「ほっとけばいいです。上杉が最上の城を落とした後に、我々はそこを攻めましょう。上杉は戦の後で疲弊し簡単に最上領を奪える」と平然と述べた。
 政宗もこの小十郎の功績に対し白石城(宮城県白石市)を与えている。この白石城は江戸時代に出された「一国一城令」の唯一対象外になっているが、この特例は、伊達政宗が片倉景綱(小十郎)の功績を幕府に伝えていたからである。仙台藩の南の要衝に位置する白石城は関ヶ原の戦いの後、明治維新までの260年間片倉氏の居城となった。

 

小十郎の晩年

 1614年、景綱(小十郎)が58歳の時に大阪の陣が起こるが、病のため伊達正宗に同行できず、景綱(小十郎)は息子である片倉重長を参戦させた。重長はこの大阪の陣で敵将である後藤基次を討ち取り「鬼の小十郎」と言わしめる活躍をした。また重長の子・景重も小十郎と名前を変え伊達家を支えた。

 政宗は景綱(小十郎)の事を気にかけ、大阪へ向かう前に白石城へ立ち寄った。小十郎は主君の気づかいに感謝し、輿に乗って城外へ出て政宗を見送った。悲しい事にこれが小十郎と政宗の今生の別れとなった。

 この数か月後に景綱(小十郎)は死去し、享年59であった。その際、景綱(小十郎)の家臣6人が後を追って殉死した。晩年の景綱は太っていたため、政宗が体を気遣い軽い鎧を与えた。


忠義そのものの小十郎
 伊達政宗に必要不可欠だった片倉小十郎は武道や学問に優れ、忠義心も人情も厚く人徳に優れていた。 伊達政宗あるところに片倉小十郎ありと言われ、このように優秀な人物だったためその噂は秀吉の耳にも届き、奥州仕置の際には直臣の大名(三春5万石)になるように誘われたが、小十郎は伊達正宗にのみに仕えるとしてこれを断わっている。小十郎は人徳忠義心に溢れた武士であった。

鍋島直茂(龍造寺氏の家臣)

 鍋島直茂は龍造寺氏の実権を掌握して佐賀藩の藩祖となっていることから、松永久秀や宇喜多直家のような謀略家と思われる方もいるであろう。だが龍造寺隆信が島津家久に敗れる前は、忠実な家臣として龍造寺隆信の勢力拡大に力を尽くた武将だった。

 1538年3月13日、鍋島直茂は誕生しましたが、鍋島直茂は生涯を通じて複雑な人間関係にあった。幼い頃に主家である龍造寺家兼の命令で別の家に養子に行ったが、養子先と主家が敵対関係になったため戻されている。次に主君である龍造寺隆信の母親が直茂の父に再嫁したため主君と義理の兄弟になった。直茂の生母が龍造寺隆信の父と兄妹だったため、鍋島直茂はかなり頼りにされていた。

 

鍋島直茂の戦い

 少弐家の滅亡、今山の戦いでの大友家に対する勝利、有馬家や大村家を服属させたのは鍋島直茂であった。大友家との戦いでは直茂の意見が採用されて見事勝利を収めることができ、龍造寺家の足元である肥前の他家を支配下に入れ活躍ぶりも期待以上のものだった。

 隆信は猜疑心から家中を粛清すると、直茂への態度も冷たくなった。「酒や遊びはお控えください」との諫言は聞き入れられず、むしろ煙たがられた。直茂は龍造寺隆信・政家に遠ざけられ、1581年以降、鍋島直茂は筑後の柳側城に入り内政を担当するが、これは肥前を本領とする龍造寺隆信が鍋島直茂を疎ましく思い遠ざけた為に起きた。沖田畷の戦いで龍造寺隆信が死んだと聞いて自害しようとしたことから直茂は腹黒い謀略家だったとは思えない。
 
  また朝鮮出兵において、鍋島直茂は隆信の長男・龍造寺政家を毒殺しようとした疑惑を持たれ、これを否定する起請文を書いている。龍造寺隆信・政家親子に直茂を使いこなすに器量があれば、幕末の佐賀にあったのは鍋島藩ではなく龍造寺藩だったかもしれない。


沼田祐光(津軽為信の家臣
 沼田祐光の前半生は分かっておらず、どういう経緯で津軽為信に仕えたのかわかっていない。そもそも主君にあたる津軽為信の経歴も不明な点も多い。ただ少なくとも、為信がその名を上げる契機になった1571年の石川城攻めには、少なくとも沼田祐光は為信に仕えていた。

 沼田祐光は天文学や易学、陰陽道に精通しており、為信が弘前城を築城する際には土地の吉凶を占ったという逸話が残されています。また一説によると、沼田祐光は中央政界とのパイプを持っていたとされ、これが為信が秀吉の小田原攻めの際、本領安堵を許された事に繋がっている。上の4人と比べると謎が多い人物ですが、同じく前半生の経歴がハッキリしない為信が津軽藩の初代藩主へと成る過程で、沼田祐光の存在は大きかったのではないでしょうか。

 また軍師として本多正信や直江兼続を入れるべきであろう。

        ・甲斐の国の武田信玄に仕えた山本勘助
        ・越後の国の上杉謙信に仕えた宇佐美定満
        ・駿河の国の今川義元に仕えた太原雪斎
        ・豊後の国の大友宗麟に仕えた立花道雪
等々の伝説的武将が軍記物の芝居や浮世絵、流行り本などが数多される中、彼らを称して軍師と呼称するようになった。さらに、明治以降になってくると軍記物が、講談、歴史小説、物語、芝居、浄瑠璃、役者絵に大いに人気を博し、その後は、ご承知の通り映画に、テレビに、ゲームへと広がり、老若男女を問わず人気者となった。豊臣秀吉の軍師、竹中半兵衛、黒田官兵衛を筆頭に軍師を列挙してみると、
        ・石田三成の軍師、島左近
        ・伊達政宗の軍師、片倉景綱
        ・上杉景勝の軍師、直江兼継
        ・島津忠良の軍師、岩切善信
        ・島津義久の軍師、川田義朗
        ・北条氏康の軍師、多目元忠
        ・龍造寺隆信の軍師、鍋島直茂
        ・本庄繁長の軍師、傑山雲勝
        ・津軽為信の軍師、沼田祐光
        ・宇喜多秀家の軍師、明石全登
    などがいる。もちろん上記以外にも軍師は沢山いるだろうが、それは個々人の判断による。