その他の軍師

 軍師とは「主君に作戦・計略を助言し、最善の判断がくだせるようにする者である」。中国の諸葛孔明になぞらえた印象が大きく、戦術・戦略・兵站の秀才であるが軍の司令官ではない。また軍師は「策謀が狡猾で、かつ無欲で忠実な人物」とされている。

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将というよりは智将で、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛武田信玄の軍師・山本勘助らが軍師の代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの逸話は江戸時代の講談で広まったことから、ある程度創作された部分がある。

 戦国武将の軍師としては、さらに小早川隆景、片倉景綱、太原雪斎、鍋島直茂、沼田祐光の計8名をあげた。石田三成のような行政官としての側面が強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて外してある。他にも軍師と呼べる者は様々いるだろう。たとえば源義経などは軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年いて、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で、戦国武将の中から8名を選んでみた。


片倉景綱(伊達政宗の兄貴分
 片倉景綱は政宗より10歳年上。伊達家の重臣として、またおそらく政宗の兄貴分的な存在として、伊達家の発展に尽くしました。景綱は伊達家の外交を一手に引き受けており、また豊臣秀吉の小田原征伐時には、政宗に対して参陣するように促しています。もし景綱が居なければ、秀吉の奥州仕置によって政宗の所領はより多く減封、場合によっては場合改易されていたかもしれません。
 合戦においても、景綱は政宗を支えている。人取橋の戦いや摺上原の戦い、関ヶ原の戦いなど政宗の生涯に大きく関わってくる戦いの裏には、景綱の存在がありました。政宗もこの功績に報い現在の宮城県白石市にある白石城を与えています。この白石城は、江戸時代に出された「一国一城令」の対象外になっているのですが、その裏には、伊達家の当主が景綱の功績を幕府にきちんと伝えていた故なのかもしれません。

太原雪斎(今川義元の軍師

 軍師の存在感が強すぎると…?
今川義元の軍師として有名な人物です。太原雪斎はもともと、今川家の5男で僧侶となっていた義元の教育係をしていました。雪斎は1496年生まれで義元は1519年生まれなので、23年程の年の差があったという事になります。
 しかし父や兄の相次ぐ死によって、義元が家督を継ぐ可能性が出てきました。この時、義元の兄の玄広恵探も家督相続に名乗りを挙げるのですが、雪斎は義元を助け、最終的に玄広恵探を自刃へ追い込んだとされています。父や兄を速くに亡くした義元にとって、雪斎はその代わりとなる存在だった事は想像に難くありません。
 その後も、雪斎は義元を軍事、政治の両面で支え続けます。甲斐の武田家との和睦や北条家、織田家との戦いは勿論、1554年の甲相駿三国同盟の樹立にも貢献。また前年に出された今川家の分国法、今川仮名目録の制定にも雪斎は関わっていました。雪斎は1555年に死去。そしてその5年後に義元も桶狭間の戦いで戦死します。これについて、幼少期に雪斎に学問を教えてもらっていたとされる徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて他の家臣の存在感が薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている程です。

鍋島直茂(龍造寺氏の家臣)
 鍋島直茂と言えば、最終的に龍造寺氏の実験を掌握して佐賀藩の藩祖となっている事から、松永久秀や宇喜多直家のような謀略家タイプだと思われる方もいるかもしれません。ですが龍造寺隆信が島津家久に敗れる前は、その忠実な家臣として隆信の勢力拡大に力を尽くしてきた武将として知られています。少弐家の滅亡や今山の戦いでの大友家に対する勝利、有馬家や大村家を服属させたのは鍋島直茂あっての事ですし、沖田畷の戦いで隆信が死んだと聞いて自害しようとしたエピソードを見ると、直茂は腹黒い謀略家だったとは全く思えません。
 むしろ直茂は、龍造寺隆信、そして政家に遠ざけられた事でも知られています。1581年以降、鍋島直茂は筑後の柳側城に入り、同地の内政を担当しているのですが、これは肥前を本領とする隆信が直茂を疎ましく思い、彼を遠ざけた為に起こったと言われています。
また朝鮮出兵において、直茂は隆信の長男、龍造寺政家を毒殺しようと疑惑を突き付けられ、これを否定する起請文を書いているほど。隆信、政家親子に直茂を使いこなすに器量があれば、幕末の佐賀にあったのは鍋島藩ではなく龍造寺藩だったかもしれませんね。


沼田祐光(津軽為信の家臣)
 沼田祐光の前半生は分かっておらず、どういう経緯で津軽為信に仕えたのかもわかっていません。そもそも主君にあたる為信自身の経歴も不明な点も多いので…。ただ少なくとも、為信がその名を上げる契機になった1571年の石川城攻めの時期には、少なくとも沼田祐光は為信に仕えていたと言われています。沼田祐光は天文学や易学、陰陽道に精通しており、為信が弘前城を築城する際には土地の吉凶を占ったという逸話が残されています。また一説によると、沼田祐光は中央政界とのパイプを持っていたとされ、これが為信が秀吉の小田原攻めの際、本領安堵を許された事に繋がっていくという見方も出来ます。上の4人と比べると謎が多い人物ですが、同じく前半生の経歴がハッキリしない為信が津軽藩の初代藩主へと成る過程で、沼田祐光の存在は大きかったのではないでしょうか。

 また軍師として本多正信や直江兼続を入れるべきであろう。

        ・甲斐の国の武田信玄に仕えた山本勘助
        ・越後の国の上杉謙信に仕えた宇佐美定満
        ・駿河の国の今川義元に仕えた太原雪斎
        ・豊後の国の大友宗麟に仕えた立花道雪
等々の伝説的武将が軍記物の芝居や浮世絵、流行り本などが数多される中、彼らを称して軍師と呼称するようになった。さらに、明治以降になってくると軍記物が、講談、歴史小説、物語、芝居、浄瑠璃、役者絵にと大いに人気を博し、その後は、ご承知の通り、映画に、テレビに、ゲームにと広がり、老若男女を問わない人気者へと成り上がって来たのであります。他にも軍師と呼ばれる名将はあります。豊臣秀吉の軍師、竹中重治(竹中半兵衛)、黒田孝高(黒田官兵衛)を筆頭に、
        ・石田三成の軍師、島清興(左近)
        ・伊達政宗の軍師、片倉景綱
        ・上杉景勝の軍師、直江兼継
        ・島津忠良の軍師、岩切善信
        ・島津義久の軍師、川田義朗
        ・北条氏康の軍師、多目元忠
        ・龍造寺隆信の軍師、鍋島直茂
        ・本庄繁長の軍師、傑山雲勝
        ・津軽為信の軍師、沼田祐光
        ・宇喜多秀家の軍師、明石全登
    などである。