その他の軍師

 軍師とは「主君に作戦・計略を助言し、最善の判断がくだせるようにする者である」。中国の諸葛孔明になぞらえた印象が強く、戦術・戦略・兵站の天才であるが軍の司令官ではない。また軍師は「策謀が狡猾で、かつ無欲で忠実な人物」とされている。

 軍師とは戦国時代の武将というよりは智将で、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛、武田信玄の山本勘助らが代表であるが、当時は軍師という言葉はなく、彼らの逸話は江戸時代の講談で広まったことから、ある程度創作された部分がある。

 石田三成のような行政官としての側面が強い人物、あるいは真田昌幸のような大名はあえて軍師とは呼ばない。また源義経などは軍師以上に戦上手で、織田信長は軍師を必要としない決断力と独創性をもっていた。軍師を「主君の側に長年いて、君主の勢力拡大に貢献した者」という定義で、戦国武将の中から選んでみた。戦国武将の軍師としては、さらに小早川隆景、片倉景綱、鍋島直茂、沼田祐光などをあげることができる。

 

山本勘助(武田信玄の軍師)

 1493年、山本勘助は駿河国の富士郡山本(富士宮市山本)で山本貞幸の三男として生まれ、三河国牛窪城主・牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。
 山本勘助は26歳の時に城主・牧野氏に願い出て、武者修行の旅に出た。勘助は中国、四国、九州、近畿、関東と10数年の間、諸国をまわり、その間に京流兵法(行流兵法)を会得し、城取り(築城術)、陣取り(戦法)、日和見(気象学)などを極めた。 
 勘助26歳の時に高野山で武芸上達を祈願し、魔支利天像を授けられ、それ以来、この像を襟元から下げ守り本尊とした。戦国時代はいつ死ぬか分からず、勘助は懇意にしていた長谷寺の念宗和尚に自分のすべてを託した。

 後に武田信玄に仕えて、1561年に念宗和尚は川中島での勘助の戦死を知ると、前もって預かっていた遺髪を五輪塔を建立して治めた。
 勘助は37歳のとき、武者修行の旅を終えると仕官の道を歩み進めた。放浪の後にまず駿河の国に入り、今川家重臣に仕官を願うが、義元は勘助の風体から聞き入れなかった。

 義元は「勘助は異形、色黒で容貌醜く、隻眼(独眼)で身体には無数の傷がある。足は不自由で指が揃っていない。それが兵法を極めた者か」と述べている。

 今川家の者も、口々に「兵法を極めた者が、小者一人も持たぬ貧乏浪人で、城を持ったことも無く、兵を率いたことも無い。兵法者などとは大言壮語の大法螺吹き」 と罵られ仕官は叶わなかった。

 当時の兵法は塚原卜伝の「新当流」であり、勘助の京流は亜流とされていた。以後、勘助は駿河に留まり憂鬱の日々を送り、機を待った。その後、兵法者としての勘助の評判が武田家の重臣・板垣信方の耳に届き、板垣信方は勘助を若き甲斐国の武田晴信(信玄)に推挙した。
 1543年、武田晴信(信玄)は山本勘助を知行100貫という破格の待遇で召抱えた。武田晴信には勘助が忠義を尽すという確信があった。信玄は勘助を雇おうとして「勘助に馬、槍、小者を用意し」家中の者に浪人と侮られてはならぬと述べている。
 このようにして勘助は甲斐の国入りを済ませると、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で信玄と対面した。信玄は勘助の兵法を聞き即座に勘助の才を見抜き、知行を200貫に増加した。

  武田晴信(信玄)は勘助と築城術、戦法などの兵法を語り合い、時として諸国の大将、毛利元就や大友義隆、今川義元や上杉憲正(上杉謙信の養父)、更には松平清康(家康の祖父)の動向や分析を評価して、勘助の知識と経験や分析の深さに感心した。
    家中には勘助を妬む者がいて、中でも南部下野守の誹謗には、晴信(信玄)も我慢できず追放を申しわたし、南部氏は諸国を転々として餓死したと伝えられている。このように戦国の世は厳しいものであった。
 同年、晴信(信玄)は信濃平定を企てた。信濃を侵攻するにあたり、勘助は九つの城取りに成功し、その才を内外に証明し、その大功により100貫のご加増を頂き知行は300貫となった。1544年、晴信(信玄)は信濃国を攻略し諏訪頼重は自刃した。
 諏訪頼重には秀麗の姫様がいた。勘助は晴信に側室にと進言をしたが、武田の重臣たちは、恨みを持つ姫様などとんでもないと反対した。しかし晴信は勘助の進言を受け側室の迎えた。
 勘助の進言とは「姫様が晴信(信玄)のお子を産めば、甲斐の武田家と信濃の名門・諏訪家は結束することは必定」とのことだった。

 翌年、姫様は男子(武田勝頼)を産み、武田勝頼は家督を継ぐことになる。1546年、村上義清が城戸石城を攻め、猛将・義清の猛攻撃を受けた武田勢は総崩れとなったが、勘助が50騎の兵で体勢を立て直すと一気に村上軍を打ち破った。この功により勘助の知行は800貫になり、武田家家臣の誰もが認める軍略家と称されるようになった。
 その後、得意の築城術を生かして築城し、築城は高遠城、小諸城と続き、さらに「甲州武田法度之次第」が作られた。   1547年、晴信(信玄)は宿敵・村上義清と上田原で戦い、重臣・板垣信方を失う激戦であったが勘助の献策により勝利した。
 村上義清は信濃を逃れ越後の国へと奔走し、長尾景虎(上杉謙信)を頼った。以後、長尾景虎(上杉謙信)は幾度となく北信濃の川中島へ侵攻し、川中島の合戦の布石とも云うべき流れが出来上がった。

 1553年、武田晴信は出家し信玄「武田信玄」と名乗り、同時に勘助も出家して道鬼斎「山本勘助入道道鬼斎」と名乗ることになった。

 

川中島の戦い
 勘助は信玄の命により北信濃の川中島の高台に、川中島決戦のために海津城(松代城)を築城した。1561年9月10日、上杉謙信は、1万3千の大軍を率いて川中島に出陣すると、即座に妻女山に陣を設け海津城を見渡した。

 上杉謙信が陣を置く妻女山は海津城の北側にあり、海津城を見渡すことが出来た。妻女山は海津城よりわずかの距離であった。上杉謙信は信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることができたが、上杉謙信は攻めることはなかった。
 武田信玄は2万の兵を率いて甲府を出ると海津城に入城し、軍議を開き謙信攻略を練った。この膠着状態から士気の低下を恐れた重臣たちは中央決戦を進言したが、謙信の強さを知る強さを知る信玄は勘助に謙信軍撃滅の作戦を命じた。その結果、立案された軍略が「啄木鳥(きつつき)戦法」であった。
 先ず軍勢を二つに別け、一軍を夜陰に乗じて妻女山の裏側からしのばせて攻撃し、上杉軍は勝っても負けても山を下るため、妻女山の麓からの平地・八幡原で逃げ降りる上杉の軍隊を殲滅するため信玄本隊待ち伏せさせた。

 夜明けと共に一軍が妻女山を裏から攻め、混乱した上杉軍が八幡原に逃げ下ったところを挟み撃つ作戦であった。キツツキが餌をついばむ時、くちばしで木を叩き虫が出てきたところを襲うことから啄木鳥戦法とよぼれた。
 信玄はこの策を受け入れて、信玄自身が八幡原に布陣をしき、朝霧の中から飛び出してくる上杉勢を待ち受けた。しかし川中島を包む深い霧が晴れた時、霧の中から現れたのは慌てふためく上杉勢ではなく、整然と布陣された1万3千の上杉の軍勢であった。
 軍略の天才と云われている上杉謙信は、海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知していた。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を渡った。これが頼山陽の漢詩「川中島」の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。

 上杉謙信は信玄を打ち取るべく車懸りの陣で猛攻撃をかけてきた。武田軍本隊は動揺したが、信玄は鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形(鶴翼の陣)で対抗し、また武田二十四将の獅子奮迅の活躍がありなんとか持ち応えこたえた。
 そこで本陣手薄と見た上杉謙信が、ここぞとばかりに一騎で切込みを掛けた。白手拭で頭を包んだ謙信は、床几に座している信玄の頭上から一太刀二太刀、続けて三太刀と斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受けとめた。

 そこへ駆けつけたのが、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信、馬場信春率いる別部隊1万2000で上杉勢の側面を一気に突いた。このことより上杉勢は総崩れとなり、形成不利を悟った上杉謙信は兵を引き越後へと退去した。
 戦国時代の最大の戦い「川中島の決戦」はこうして幕を引いたが、この戦いで勘助の策は儚くも散ってしまった。勘助の胸の内では、武田軍を危機に落とし入れ、恩ある主君信玄を窮地に追い込み、さらに多くの戦死者を出してしまったことに無念の思いがあった。そのため敵中に単身で突入し十三騎を倒すが、それでも勘助は満身創痍になりながら敵陣の真っただ中でたった一人で大太刀を振い続けた。しかし上杉家の猛将・柿崎景家の手勢に囲まれ、四方より槍を撃ち込まれ落馬し、不自由な足を引きづり引きづり起き上ろうとした瞬間、坂木磯八に首を取られた。

 この川中島も戦による死者は上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ互いに多数の死者を出した。「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされているが、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

 戦国大名と僧侶とは切っても切れない深い関係にあった。なかでも禅宗の臨済宗は室町幕府の庇護を受け、その教えが地方に伝播すると大名たちから熱烈な支持を受けた。やがて臨済禅は積極的に政治権力とかかわりを持つようになる。

 太原雪斎(たいげんせっさい)は寺の住職でありながら今川義元の軍師として活躍した。太原雪斎は今川家の合戦では家臣として軍勢を率い、今川義元に代わって采配をふる重要な人物である。さらに今川家の政治・外交をも任っていた。

 

太原雪斎
 太原雪斎の父は庵原城主の庵原政盛で、母は水軍を率いた横山城主・興津正信の娘であり、両家とも今川家の家臣という環境で育った。代々今川氏譜代の家系であるが、太原雪斎は嫡子ではなかったため、父の死を契機に14歳で剃髪して駿河の善得寺に入り、その後、京都五山の建仁寺護国院にて18年修行を続けた。

 駿河の戦国大名・今川氏親は「家臣の庵原佐衛門尉の子が、禅寺で修行を積んでおり、その秀才ぶりは優れている」という話を聞いて、ちょうど生まれた五男・方菊丸(今川義元)の養育を依頼するため京都に使者を出した。

 太原雪斎はこの依頼を2度断ったが、再三の要請から駿河に戻ると、芳菊丸(今川義元)を教育することになった。

 僧侶の役割は多岐にわたるが、僧侶は仏教だけでなく儒学などにも通じた知識人でもあったので教育者として適任あった。儒学は個々人の道徳的修養と徳治主義的政治を重視し、まさに帝王学と呼ぶにふさわしい学問で大名にとって必須の教養であった。

 今川氏親は方菊丸(今川義元)の兄・今川氏輝に家督を継がせるつもりでいた。そのため僅か6歳で方菊丸(今川義元)は仏門に出され善得寺に預けられた。太原雪斎と芳菊丸(今川義元)は23年の年齢差があったが、太原雪斎は芳菊丸に兵法を教え、やがて太原雪斎と芳菊丸は2人で京都に赴くと、五山で学び公家などと交流を広めた。

 

今川義元の家督継承・花蔵の乱
 1526年に今川氏親が死去すると、芳菊丸の兄・今川氏輝が家督を継いたが、今川氏輝は14歳と若く病弱だったため、母の寿桂尼が後見人となった。
 今川氏は小田原城の北条氏綱とは同盟関係であり、今川氏輝は甲斐の武田信虎と敵対していたが、1536年に今川氏輝が24歳の若さで急死してしまう。また同日に今川氏輝の弟・今川彦五郎も死去しており、2人の突然死は毒殺説や自殺説などが噂されたが、いずれにせよ今川氏輝に子はおらず後継者争いである「花倉の乱」が勃発する。
 この事件を起こしたのは兄・玄広恵探であった。戦国大名には正妻と側室がおり、当時は正妻が生んだ子どもが優遇された。今川義元の正妻は今川氏輝や彦五郎と同じ母で、京の公家・中御門氏の娘であったが、玄広恵探は側室の子だった。
 玄広恵探の母は家臣の娘であり、側室の子・玄広恵探は家督を継ぐ立場にはなかったが、今川氏輝・彦五郎が死去したため、玄広恵探に家督が転がり込む可能性がでた。玄広恵探はそこにかけたのである。
 今川義元が家督を継ぐことになったのは、寿桂尼と太原雪斎が芳菊丸(今川義元)還俗させ、京の足利将軍から偏諱を受けて「今川義元」と改名させたからである。

 まず太原雪斎は武田信虎と和睦し、支援を受けて今川義元に家督を継がせようとし、また室町幕府にも裁定を求めた。室町幕府は勢力が衰退しており普段は軽んじられていたが、いざ問題が起きた場合には利用された。雪斎と義元は京の建仁寺で修行をしていたため、この間に培った人脈で家督相続の許可を得たのである。
 今川義元は、氏輝・彦五郎が亡くなってから、約2ヶ月弱で室町幕府から家督相続の許可を得た。もちろん玄広恵探は屈せず、家督相続に名乗りを挙げた。下克上の空気が充満している中で起きたのが「花蔵の乱」である。

 雪斎はすぐに多数派工作を行い、玄広恵探らを孤立させると花倉城に総攻撃を行った。玄広恵探は花倉城から逃れると自刃し、今川義元が晴れて今川氏の当主となった。

 父や兄を早くに亡くした今川義元にとって、雪斎はその代わりとなる存在だった。今川義元は今川館の近くに臨済寺を創建して太原雪斎を住職に据え、政治・外交・軍事分野とあらゆる面での最高顧問(軍師)として重用した。

 

甲相駿3国同盟
 当時、今川義元は駿河・遠江の2カ国を手中にして三河を目指していた。武田信玄は甲斐と信濃の大半を治め、北条氏康は関東地方を治めつつあった。 当時、今川氏は甲斐国・武田氏との関係が悪化しており、それを収束することが長年の懸案事項であった。そこで雪斎が行ったのは婚姻による関係の改善と強化であった。

 1537年、太原雪斎は武田信虎の長女・定恵院を今川義元の正室に迎え、さらに武田信虎の子・武田晴信(武田信玄)には、今川家の遠縁にあたる京の三条公頼の娘の輿入れを行い甲駿同盟を成立させた。

 当時、婚姻関係を結ぶことは同盟関係を構築することを意味し、これは甲駿同盟と呼ばれている。

 しかし甲駿同盟に反発した相模の北条氏と今川氏は敵対関係となり、交戦状態になった(河東の乱)。北条氏綱は駿河東部に侵攻して、今川家は領地の4分の1を失っている。そのため1545年には関東管領・山内上杉憲政を誘い武田晴信と協働して駿河東を取り戻した。

 武田信玄は父の武田信虎を追放し、今川氏に引き取らせていた。武田氏は信虎によって何とかまとまっていたが、武田信虎を追放して武田信玄(武田晴信)が当主になれたのは家臣たちの総意によるものであった。武田信玄は飾り物の当主から領国を拡げて家臣から認められるようになった。

 武田信玄は甲斐を1国治め、信濃にも領土を拡大させたが、今川氏と北条氏との力の差は歴然としていた。もし2者のうちどちらかが勝てば武田氏はすぐさま飲み込まれる恐れがあった。

 西では尾張の織田信秀(信長の父)が三河を伺っており、1546年10月、岡崎城主・松平広忠が今川家に救援を要請したため、竹千代(徳川家康)を人質に受けることを条件に、全面的に松平家を支援した。しかし織田信秀は松平家の家臣を買収して、今川家に人質に出されようとした竹千代を捕縛した。
 その為、1549年11月に太原雪斎自らが軍勢を指揮して、三河安祥城主・織田信広を攻めて捕虜にすると、織田信秀と交渉をして織田家に奪われていた人質の松平竹千代(徳川家康)との人質交換を実現させて今川家のもとに取り戻した。竹千代は善得寺に入り、今川義元が幼い時に教えを受けたように太原雪斎による英才教育を受けた。
 1550年6月、武田家から迎えていた、今川義元の正室・定恵院が死去したため、引き続き武田家との婚姻同盟を模索し、今川義元の長女・嶺松院を、武田晴信の嫡子である武田義信の正室へと送り婚姻関係を再び結んだ。

 

善得寺の会盟
 雪斎はかねてから今川義元、北条氏康、武田晴信の同盟締結を目論んでいた。そこで3人を善得寺に招いて会合を開き「甲相駿同盟」を結んだ。

 太原雪斎は犬猿の仲である武田信玄と北条氏康を説得して同盟させたのである。

 この三国同盟は武田氏が求めていたことで、雪斎は武田氏が今川氏・北条氏との争いの仲介者として関わり、一気に3国同盟までもっていった。武田氏家臣・駒井高白斎が今川氏・北条氏の間を往来し、今川氏側からは太原雪斎が、北条氏側からは北条幻庵が対応した。

 雪斎を含めた3者でのやり取りで、今川氏・武田氏・北条氏の3者が相互に自分の娘を輿入れさせることで決着がついた。今川義元の嫡子・今川氏真に北条氏康の娘・早川殿が嫁いで三国同盟を締結したのである。

 今川家は駿河・遠江・三河の3カ国69万石となり、後顧の憂いをなくし「街道一の弓取り」とまでうたわれた今川義元は尾張攻略に全力を注ぐことになった。織田信秀が亡くなり、今川義元は若い織田信長の尾張への進出を目論み、織田家の家臣への調略を始めた。
 その後も、雪斎は今川義元を軍事・政治の両面で支え、甲斐の武田家との和睦や北条家、織田家との戦いはもちろんのこと、今川家の分国法、今川仮名目録の制定も行った。

 太原雪斎は1553年に、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に関与した。この追加21箇条は室町幕府の後ろ盾を必要とせず、自らの力だけで支配を展開することを謳った点で非常に重要な戦国家法であった。

 今川家の繁栄に尽力した太原雪斎はまさしく今川氏の軍師という立場にふさわしいものであった。しかし1555年10月10日、駿河の長慶寺にて死去した。享年60。

 

桶狭間での今川義元敗死
 今川氏は駿河・遠江・三河の3カ国69万石となり、後顧の憂いをなくした今川義元は「街道一の弓取り」とまでうたわれ、尾張攻略に全力を注ぐことになり、織田家の家臣への調略を始めた。

 桶狭間の戦いは歴史的に有名な合戦であるが、この桶狭間の戦いには太原雪斎が関わっていない。桶狭間で今川義元が横死したのは、太原雪斎の死から5年後の1560年のことであった。以後、今川家の家督は子息の今川氏真が継いだが、今川家は坂道を転がるように転落した。もし雪斎が生きていれば、その後の今川家は違った歩みをしたのかもしれない。桶狭間の戦いは太原雪斎を失った今川家の悲劇といえる。

 大原雪斎は今川家の政治・外交・合戦の全てに関わっていた。しかし雪斎の死によって義元が政治・外交・合戦を行うが、雪斎のように適切な対処ではなかった。

 徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて、他の家臣の存在感が薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている。徳川家康は幼少期に人質として雪斎から学問を学んでいた。なお「軍師」という言葉は戦国時代には存在せず、江戸時代以降に用いられたものである。

片倉景綱(伊達政宗の兄貴分

 片倉景綱は政宗より10歳年上である。伊達家の重臣として、またおそらく政宗の兄貴分的な遊び友達、あるいは学び友達として伊達家の発展に尽くした。片倉景綱は伊達家の外交を一手に引き受け、また豊臣秀吉の小田原征伐時には、伊達政宗に参陣するように促している。片倉景綱が居なければ、秀吉の奥州仕置によって伊達政宗の所領はより多く減封、あるいは改易されていたであろう。
 合戦においても、片倉景綱は伊達政宗を支え、人取橋の戦いや摺上原の戦い、関ヶ原の戦いなど政宗の生涯に大きく関わってくる戦いには、片倉景綱の存在がある。政宗もこの功績に報い、景綱に白石城(宮城県白石市)を与えている。この白石城は江戸時代に出された「一国一城令」の対象外になっているが、その裏には、伊達家の当主が片倉景綱の功績を幕府に伝えていた故である。仙台藩の南の要衝に位置する白石城は関ヶ原の戦いの後、明治維新までの260年間片倉氏の居城であった。

鍋島直茂(龍造寺氏の家臣)
 鍋島直茂と言えば、最終的に龍造寺氏の実験を掌握して佐賀藩の藩祖となっている事から、松永久秀や宇喜多直家のような謀略家タイプだと思われる方もいるかもしれません。ですが龍造寺隆信が島津家久に敗れる前は、その忠実な家臣として隆信の勢力拡大に力を尽くしてきた武将として知られています。少弐家の滅亡や今山の戦いでの大友家に対する勝利、有馬家や大村家を服属させたのは鍋島直茂あっての事ですし、沖田畷の戦いで隆信が死んだと聞いて自害しようとしたエピソードを見ると、直茂は腹黒い謀略家だったとは全く思えません。
 むしろ直茂は、龍造寺隆信、そして政家に遠ざけられた事でも知られています。1581年以降、鍋島直茂は筑後の柳側城に入り、同地の内政を担当しているのですが、これは肥前を本領とする隆信が直茂を疎ましく思い、彼を遠ざけた為に起こったと言われています。
また朝鮮出兵において、直茂は隆信の長男、龍造寺政家を毒殺しようと疑惑を突き付けられ、これを否定する起請文を書いているほど。隆信、政家親子に直茂を使いこなすに器量があれば、幕末の佐賀にあったのは鍋島藩ではなく龍造寺藩だったかもしれませんね。


沼田祐光(津軽為信の家臣
 沼田祐光の前半生は分かっておらず、どういう経緯で津軽為信に仕えたのかわかっていない。そもそも主君にあたる津軽為信の経歴も不明な点も多い。ただ少なくとも、為信がその名を上げる契機になった1571年の石川城攻めには、少なくとも沼田祐光は為信に仕えていた。

 沼田祐光は天文学や易学、陰陽道に精通しており、為信が弘前城を築城する際には土地の吉凶を占ったという逸話が残されています。また一説によると、沼田祐光は中央政界とのパイプを持っていたとされ、これが為信が秀吉の小田原攻めの際、本領安堵を許された事に繋がっていくという見方も出来ます。上の4人と比べると謎が多い人物ですが、同じく前半生の経歴がハッキリしない為信が津軽藩の初代藩主へと成る過程で、沼田祐光の存在は大きかったのではないでしょうか。

 また軍師として本多正信や直江兼続を入れるべきであろう。

        ・甲斐の国の武田信玄に仕えた山本勘助
        ・越後の国の上杉謙信に仕えた宇佐美定満
        ・駿河の国の今川義元に仕えた太原雪斎
        ・豊後の国の大友宗麟に仕えた立花道雪
等々の伝説的武将が軍記物の芝居や浮世絵、流行り本などが数多される中、彼らを称して軍師と呼称するようになった。さらに、明治以降になってくると軍記物が、講談、歴史小説、物語、芝居、浄瑠璃、役者絵にと大いに人気を博し、その後は、ご承知の通り、映画に、テレビに、ゲームにと広がり、老若男女を問わない人気者へと成り上がって来たのであります。他にも軍師と呼ばれる名将はあります。豊臣秀吉の軍師、竹中重治(竹中半兵衛)、黒田孝高(黒田官兵衛)を筆頭に、
        ・石田三成の軍師、島清興(左近)
        ・伊達政宗の軍師、片倉景綱
        ・上杉景勝の軍師、直江兼継
        ・島津忠良の軍師、岩切善信
        ・島津義久の軍師、川田義朗
        ・北条氏康の軍師、多目元忠
        ・龍造寺隆信の軍師、鍋島直茂
        ・本庄繁長の軍師、傑山雲勝
        ・津軽為信の軍師、沼田祐光
        ・宇喜多秀家の軍師、明石全登
    などである。