山本勘助

 山本勘助は1493年に駿河国の富士郡山本(富士宮市山本)に山本貞幸の三男として生誕した。このことは甲斐国史に書いてあるが、 誕生した年や場所には複数の説があり明らかではない。
 26歳の時に城主牧野氏に願い出て、武者修行の旅に出る。勘助は中国、四国、九州、近畿、関東と10数年の間諸国をまわり、その間に京流兵法(行流兵法)を会得し、城取り(築城術)、陣取り(戦法)、日和見(気象学)を極めた。 
 勘助26歳の時に高野山で武芸上達を祈願し魔支利天像を授けられ、それ以来、この像を襟元に下げ守り本尊とした。何時討死するかも知れず、懇意にしていた長谷寺の念宗和尚にすべてを託した。後に武田信玄に仕え、1561年に川中島での勘助の戦死を知った念宗和尚は、前もって預かっていた遺髪を治め五輪塔を建立した。
 勘助は37歳のとき、武者修行の旅を終えると仕官の道を歩み進める。放浪の後にまず駿河の国に入り、今川家重臣に仕官を願うが、義元は勘助の風体から聞き入れなかった。

 義元は「勘助は異形、色黒で容貌醜く、隻眼(独眼)で身体には無数の傷がある。足は不自由で指が揃っていない。それが兵法を極めた者か」と述べた。今川家の者は、口々に「兵法を極めた者が、小者一人も持たぬ貧乏浪人で、城を持ったことも無く、兵を率いたことも無い。兵法者などとは大言壮語の大法螺吹き」 と罵られ仕官は叶わなかった。

 当時の兵法の時流は塚原卜伝の「新当流」で、京流は亜流とされていた。以後、勘助は駿河に留まり憂鬱の日々を送り機を待った。その間、兵法者としての勘助の評判は日を追って高まり、武田家の重臣板垣信方の耳に届き、板垣信方は勘助を若き甲斐国の国主武田晴信(信玄)に推挙した。
 1543年、武田晴信(信玄)は山本勘助を知行100貫の破格の待遇で召抱えた。武田晴信には後々勘助が忠義を尽すという配慮あった。信玄は信方に「勘助には、馬、槍、小者を用意するように。家中の者に浪人と侮られてはならぬから」と述べた。
 このようにして勘助は無事甲斐の国入りを済ませ、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で信玄と対面した。信玄は勘助の兵法を聞、き即座に勘助の才を見抜き、知行200貫に増加した。

 事あるごとに、晴信は勘助と築城術、戦法などの兵法を語り合い、時として諸国の大将毛利元就や大友義隆、今川義元や上杉憲正(上杉謙信の養父)、更には、松平清康(家康の祖父)の動向やその才覚分析を評して、その度に勘助の知識と経験分析の深さに感心したという。
    家中には勘助を妬む者もいて、中でも南部下野守の誹謗には、晴信も我慢できず改易(かいえき)を申し付け、その後南部氏は諸国を転々として餓死したと伝えられている。このように戦国の世は厳しきものであった。
 同年、晴信は信濃平定を企てた。信濃を侵攻あたり、勘助は九つの城取りに成功し、その才を内外に証明し、大功により100貫のご加増を頂き、知行300貫となった。1544年、晴信は信濃国を攻略し、諏訪頼重は自刃した。
 頼重には秀麗の姫様がいた。勘助は晴信に側室にと進言をしたが、武田の重臣たちは、恨みを持つ姫様などとんでもない危険なことと反対した。しかし晴信は勘助の進言を受け側室の迎えたのである。
 勘助の進言とは、「姫様が晴信のお子を産めば、甲斐の武田家と信濃の名門諏訪家との結束成ることは必定」
とのことだった。 翌年、姫様は男子を産み、武田四朗勝頼として家督を継いだ。1546年、村上義清が城戸石城を攻め、猛将義清の猛攻撃を受けた武田勢は総崩れとなったが、勘助を要とする50騎兵の働きで体勢を立て直し、一気に村上軍を打ち破った。この功により、勘助の知行は800貫になり、武田家家臣の何れもが認める軍略家と称されるようになったのである。
 その後、得意の築城術を生かし築城、城取りは、高遠城、小諸城と続き、「山本勘助入道鬼流兵法」と称され、「甲州武田法度之次第」が作られた。1547年、晴信は宿敵村上義清と上田原で決し、重臣板垣信方を失う激戦のすえに勘助の献策により勝利した。
 村上義清は信濃を逃れ越後の国へと奔走し、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。以後、景虎は幾度となく、北信濃は川中島へ侵攻し、川中島の合戦の布石とも云うべき流れが出来上がって来た。1553年、武田晴信は出家し信玄「武田信玄」と名乗りと同時に、勘助も出家して道鬼斎「山本勘助入道道鬼斎」と名乗ることになった。
 1551年、勘助は信玄の命により北信濃の川中島に程近い高台に、海津城(松代城)を築城した。正に決戦の為であった。1561年9月10日、上杉謙信は、1万3千の大軍を率いて川中島に出陣、即座に妻女山に入り、海津城を見渡した。妻女山は海津城の北側にある高台で川中島を正面に見て左側に海津城を見渡すことが出来るが、川中島には海津城よりも些か距離がある。
 武田信玄も時を移さず2万の兵を率いて甲府を出て海津城に入城し、早々に軍議を開き謙信攻略を練った。重臣たちは中央決戦を進言したが、信玄は慎重で勘助と馬場信春に謙信打破の作戦を委ねた。その結果、立案された軍略が「啄木鳥(きつつき)戦法」である。
 先ず本体軍勢を二分し一軍を夜陰に乗じて今夜の内に妻女山に布陣。また二軍は、妻女山の麓から川中島の間の平地、八幡原に待ち伏せ布陣、夜明けと共に妻女山を攻め、混乱した上杉軍が八幡原に逃げ下りたところを吸収すると云う作戦である。キツツキが餌をついばむ時、くちばしで、木をこんこんと叩き、虫が出てきたところを襲うことから啄木鳥戦法とよぼれた。
 信玄はこの策を容れて信玄自身が八幡原に布陣をしき、朝霧の中から飛び出してくる上杉勢を待ち受けた。しかし霧の中から現れたのは、慌てふためく上杉勢ではなく、整然と布陣された1万3千の敵の軍勢であった。
 軍略の天才と云われている謙信は、勘助の策を見抜いていたのである。謙信は車懸りの陣で信玄を打ち取るべく猛攻撃を掛けてくる。それに対抗して信玄は鶴翼の陣で対抗、武田二十四将獅子奮迅の戦いでなんとか持ち応え堪えた。
 そこで本陣手薄と見た謙信が、ここぞとばかりに一騎切込みを掛けて来た。 騎乗のままの謙信は、床几に座している信玄の頭上に一太刀二太刀、続けて三太刀と切り付けたのである。これを信玄は鉄仕立ての軍配で受け止めた。そこへ駆け戻ったのが、高坂昌信、馬場信春率いる妻女山隊の一万二千、上杉勢の側面を一揆に突かれた上杉勢は総崩れ となり、不利を悟った謙信は兵を引き越後へと退去した。
 戦国時代の最大の戦いは、こうして幕を引いたが、この戦いで勘助の儚くも散って行った。
 勘助の胸の内では、自らの責で武田軍を危機に落とし入れ、恩ある主君信玄を窮地に追い込んだ、さらに多くの戦死者を出してしまった無念の思いから敵中に単身突入、それに続く僅かな家来と共に獅子奮迅し、十三騎を倒すも家来たちは既に討死。それでも勘助は、満身創痍になりながら騎乗、敵陣の真っただ中で、たった一人で大太刀を振い続けました。しかし上杉家の猛将柿崎景家の手勢に囲まれ、四方より槍を撃ち込まれドーッと落馬、不自由な足を引きづり引きづり起き上ろうとした刹那、坂木磯八に首級を上げられてしまった。