大東亜戦争

 昭和16年12月8日に日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃して日米開戦となったが、開戦直後に日本政府はこの戦争の名称を昭和12年に始まった日華事変も含めて「大東亜戦争」と命名した。
 我が国は自存自衛と東亜新秩序の建設を「大東亜戦争」の目的と定め、戦争遂行に欠かせない資源を確保するためにアメリカ、イギリス、オランダが植民地を有する南方諸地域への進出を強めた。
 日本の参戦によって同盟国であったドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパとアジアを中心にして全世界を巻き込んだ戦争となった。アメリカ・イギリス・ソ連などは連合国と呼ばれ、日本・ドイツ・イタリアは枢軸国と呼ばれている。
 この大東亜戦争の呼称は戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって使用が禁止され、太平洋戦争と呼ばれるようになった。最近の歴史教科書では「アジア太平洋戦争」という表記が見られる。
 しかし歴史の真実を探究するには、特定の重要な事象に関して後世の人間が勝手に名称を改めることはしてはいけない。「大東亜戦争」という呼び名で戦った戦争の意味は、その名でしか浮かび上がらせる事は出来ない。

 

日本の快進撃

 真珠湾攻撃が行われた同じ昭和16年12月8日未明、マレー半島に上陸した日本陸軍は山下奉文陸軍中将の指揮の下でイギリスを相手に快進撃を続けた。さらに日本海軍航空隊は12月10日にマレー沖の航空戦によって、イギリスが世界に誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」並びに巡洋戦艦「レパルス」を撃沈した。
  東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで、日本軍は同じ12月10日に海軍がアメリカ領グアム島を占領すると、フィリピンのルソン島への上陸を皮切りに、フィリピンのミンダナオ島、ウェーク島、イギリス領香港(ホンコン)、マニラ、セレベス島、ラバウル、ニューブリテン島ガスマタ、そして重要な産油地であったオランダ植民地のスマトラ島パレンバンなどに次々と占領し続けた。
 翌年2月15日にはイギリスのアジア支配の拠点であったシンガポールを陥落し、翌3月にはオランダが支配していたジャワ島バタビア(ジャカルタ)を占領してオランダ軍を降伏させた。同じ3月にはビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)を占領し、インドに向かって快進撃を続けるなど、日本軍は各地でアメリカ・イギリス・オランダ軍を破り、大東亜戦争の緒戦を制した。
 なおフィリピンでの戦いに敗れた司令官のマッカーサーは日本軍に追いつめられて逃亡したが、軍歴に消すことのできない汚点を残したことで我が国を深く恨み、後のGHQによる我が国の占領支配に影響を与えたとされている。
 大東亜戦争の緒戦によって、日本軍は開戦後わずか半年で東南アジアと西・南太平洋の広大な地域を占領下に置いた。日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されたが、搾取を中心とした劣悪な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐される様子に歓喜した。
  日本軍が新たに占領した旧植民地に対し、我が国は将来の独立も視野に入れた軍政を展開し、ビルマ(ミャンマー)やインドネシアでは独立のための義勇軍が組織され、軍事訓練が行われた。
 またイギリス軍のインド兵の多くは日本軍の捕虜となった後にインド国民軍に加わり、インドの独立をめざして日本軍と共にイギリス軍と戦った。なお日本軍は大多数の地域で支配者である欧米人から植民地を解放する「解放軍」として受けいれられたが、その一方で東南アジアの植民地の分断支配を任され、現地で欧米人に代わって支配階級に置かれていた華僑を中心とする反発もあった。

 

体制翼賛会
 昭和17(1942)年4月、東条英機内閣の下でで、大東亜戦争中に唯一となった衆議院の総選挙が行わた。この選挙では阿部信行元首相を会長とする翼賛政治体制協議会が推す候補者が定員の466人中381議席(全体の8割強)を獲得して絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府の政策に協力した。こういった経緯から、この選挙は翼賛選挙と呼ばれている。この翼賛選挙によって帝国議会は政府の提案の承認を与えるだけの機関となったする見解が多いが、実際には大日本帝国憲法(明治憲法)や議会活動は停止したことはなく、翼賛政治家以外の代議士も83人誕生している。
 なおこの選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受けた候補者には、臨時軍事費として計上された機密資金を利用した選挙資金が配られていた。民間からの資金提供を受けていないという点では問題があるが、逆に言えば選挙民や財閥などの顔色をうかがう必要がない一方で、資金提供を受けた軍部の意向に逆らいにくい流れがあった。かつて国家社会主義思想が我が国で広がりを見せた際、軍部を中心に「政党政治は腐敗している」と国民に対して言いふらされたが、表向きは「クリーン」な翼賛選挙もその裏では「軍部と癒着」したのみならず民間の意見が取り入れられない環境にあった。
我が国では、毎年正月に皇族の方々や一般の国民が一つのお題に対して和歌を詠む歌会始という行事があるが、大東亜戦争が始まった直後の昭和17(1942)年の歌会始で、昭和天皇は以下の和歌をお詠みになられた。
「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」
  この句は厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という陛下の切実なお祈りのお気持ちを知ることができるが、現実には大東亜戦争は長期化し、結果として我が国は敗戦となった。
  しかし大東亜戦争の緒戦においては我が国は快進撃を続け、開戦後わずか半年でアジアにあった欧米列強の植民地のほとんどを占領し、石油などの重要資源も確保しました。
 もし我が国が優勢な段階でアメリカなどの連合国と講和が出来れば、その後の歴史が大きく変わっただろうが、果たしてそれは可能だったのか。大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験があった。もちろん日露戦争のことです。

 

戦争終結の難しさ
 日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いたが、奉天会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達していた。このまま戦いを続ければ国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられ、国内の政情不安に悩まされたロシアはアメリカの仲裁を受けて講和に応じ、我が国は辛くも勝利を収めることができた。つまりアメリカの仲裁やロシアの政情不安があったため我が国は日露戦争を制することができたともいえる。
  戦争となった場合、勝利を得るために「戦略」を練って戦い続けるのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができない。戦争終結は外交努力であり、それは「政略」を行う政治家の仕事である。
  我が国が日露戦争で勝利できたのもこの「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢となる前に戦争を終わらせるため、ロシアと開戦前から講和への道を探っていた。日露両国に対して当時は中立的な立場であったアメリカを仲介国に選び、当時のセオドア=ルーズベルト大統領と親交のあった金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣したり、明石元二郎による諜報活動が成果を挙げたりするなど、少しでも我が国に有利な展開になるようにとあらゆる努力を重ねたのである。
  開戦前から講和への道を探るなど「政略」を練った政府と、現場において命がけで戦い続けた「戦略」担当の軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割をしっかりと果たしていたからこそ、我が国は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことが可能となったのである。
  戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要であり、日露戦争はそれを実現できた代表例だったが、日露戦争と大東亜戦争とで大きな違いが出来てしまった。
 日露戦争と大東亜戦争とを比較した場合、まず目立つのは「人材の差」である。日露戦争の頃には明治天皇の厚い信任を受けた「維新の元勲」たる元老が存在しており、戦争の際に彼らが指導権を握ることが当然とされていた。

 

統帥権干犯
  しかし昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、元老の権威が必然的に低下したことで、元老が推薦して組織された内閣の指導力も同時に低下し、大日本帝国憲法(明治憲法)制定時には予期していなかった大きな問題が起きた。それは統帥権干犯(かんぱん)のことである。
 確かに明治憲法の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれており、条文を素直に読めば「統帥権(=軍隊を指揮する権利)は天皇のみが有する」という規定だとも読めますが、もちろん実際に天皇ご自身が指揮を取られることはありません。
 そもそも一国の軍備について決定を下すことは統治権の一部であり、統治権は天皇の名のもとに内閣が行うものです。従って、軍部による主張は統帥権の拡大解釈に過ぎず、統帥権干犯問題は軍部による反撃の一つでしかありませんでした。
ところが、当時の野党であった立憲政友会が「政争の具」として軍部と一緒になって当時の内閣を攻撃したことが、憲政を擁護する立場であるはずの政党政治に致命的な打撃を与えてしまいました。
  なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉(かんしょう)できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして我が国では軍部の暴走を事実上誰も止められなくなってしまいました。

 

軍部の暴走
  軍部の暴走はやがて昭和7(1932)年の五・一五事件や昭和11(1936)年の二・二六事件といった大事件をもたらし、また軍部大臣現役武官制が復活したことによって、首相が陸海軍大臣の意向を無視できなくなるなど、我が国の政治は事実上軍部に乗っ取られた状態と化しました。
  これでは戦争遂行のための「戦略」を練ることはともかく、外交努力などの「政略」が期待できるわけがありません。結局、我が国は大東亜戦争で戦況が有利なうちに講和への道を探るための何のイニシアチブも取ることができませんでした。しかも、こうした問題の根幹となった統帥権干犯は、さらなる悲劇を我が国に及ぼしていったのです。
統帥権干犯によって事実上「軍部は政府のいうことを聞く必要がない」ということとなりましたが、では「陸軍と海軍とが対立した場合」はどうなるのでしょうか。実は、陸海軍お互いが同等の統帥権を持っていたがゆえに、その場合の根本的な解決方法は存在しませんでした。例えば陸軍大将でもあった東条英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東条首相は後に陸軍の軍令機関のトップである参謀総長も兼任して何とかリーダーシップを一元化しようとしましたが、海軍の軍令機関のトップたる軍令部総長に就任できない以上は同じことでした。
  かくして我が国では終戦を迎えるまで、戦争終結への外交努力に欠かせない「政略」がないがしろにされたのみならず、陸軍と海軍との意見を調整できる人物や機関が存在しないことで「戦略」すらままならない状況が続いたのです。
  統帥権干犯問題で実権を握ったはずの軍部でしたが、やがてはその軍部すら身動きを封(ふう)じられたのみならず、最後には国家の統治機関の中心部にまでその影響が及(およ)んでしまうという結果となりました。

 

戦争総括
  そして戦争終結へ向けての「政略」が何もなされぬまま我が国の戦局が暗転したことで、苦しい状態が続いていた我が国がさらに追い込まれてしまうようになるのです。
  大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を見せており、もし戦局が有利な段階で諸外国との講和が結ばれていれば、戦争を勝利のうちに終わらせることは十分に可能でした。大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争あるいは日露戦争よりももっと勝てる可能性の高かった戦争だったともいえるのであり、実際にそのような見解も存在しています。
 今回のように大きな歴史の流れを見てゆくと、日清・日露両戦争当時と比べ、大東亜戦争においてはいかに我が国の政治家も軍人も、その中枢の人材が払底(ふってい)あるいは堕落し、自壊するように負けていったかということがよく分かります。
 我が国の未来のためにも、単なる「戦争は良くない」という否定的な見解のみに終始するのではなく、今回のような「大東亜戦争で我が国が勝てなかったのは何故なのか」ということこそが、歴史教育でよく学ばねばならない重要な課題ではないでしょうか。「あの戦争は勝てたのではないか」という観点を、我々は絶対に失うべきではありません。