中国とロシアの動向

中国とロシアの動向
 日本は第一次世界大戦でイギリスの要請に応えるかたちでドイツに宣戦布告し、その結果、ドイツが租借していた青島(チンタオ)の攻略に成功したが、その後に中国国民党の袁世凱政府(えんせいがい)が、日本の青島からの撤退を要求してきた。
 戦争において獲得した権益を相手国に求めるのは当然の権利である。そのため日本は大正4年1月に、袁世凱政府に中国における満州や内蒙古などに日本の権益の強化と保全を目的にした文書を提出した。これは「二十一箇条の要求」と呼ばれ、これらは山東省におけるドイツの権益を日本が継承すること、南満州や東部内蒙古における日本の優越権の承認、旅順・大連および南満州鉄道の租借期間の延長、日中合弁事業の推進などであった。
 中国との交渉は難航したが日本は最後通牒を出し、提案の大部分を中国が承諾したが、この動きが捻じ曲げられて諸外国に伝えられ、日本の立場を後々まで悪化させることになった。中国への提案内容は、当時の国際情勢から正当な要求であり、袁世凱も大筋では妥当な内容としていた。しかし少しでも日本からの干渉を逃れたい袁世凱は、極秘のはずだった日本の提案を外部へ漏らし、日本からの提案を「要求」として日本の不当を喧伝した。この動きに中国世論は敏感に反応し、袁世凱が要求を受けいれた5月9日を「国恥記念日」として排日運動の活発化をもたらした。
 この中国の捏造による影響は日中間だけではなく、欧米列強がヨーロッパ戦線にかかりきりになっていた海外においても、日本が中国に権益拡大要求を強引に押し付けたという印象が定着させた。これは中国とともにアメリカがつくった。
 1853年にペリーが日本に来航して以来、アメリカは日本に一定の理解を示し、日露戦争の終結のポーツマス条約もアメリカに仲介してもらっていた。しかし日本が日露戦争に勝利したことからアメリカは日本に警戒感を持ち、さらに鉄道王ハリマンの提案を日本がはねつけたことから満州などの権益を狙っていたアメリカの対日感情の悪化につながった。このようにアメリカは日本に敵意をむき出しにして、アメリカ本土における日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになり、中国が喧伝した「二十一箇条の要求」を利用して、アメリカは中国を支援することを表明し、アメリカの新聞各紙もこぞって日本を非難した。これに対し日本は明確な対策を講じず、意図的につくられた不当なイメージだけが独り歩きすることになった。こうなったのはかつての元老がその威厳によって日本を支えていた明治の時代と違い、政党が自己保全のために政争を最優先させたため軍事や政治の安定したバランスが崩れていたことによる。
 海外からの謂われなき非難に反論しないことが、日本にとって命取りになった。現代においても「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」といった荒唐無稽なでっち上げだけでなく、「北方領土」「竹島」「尖閣諸島」といった領土問題なども同じである。
 大正5年に袁世凱が急死すると、中国は軍閥割拠の時代となり、多くの軍閥が独自の活動を見せたが、第二次大隈重信内閣の後を受けた寺内正毅(まさたけ)内閣は、軍閥のうち北京政府に積極的に関わろうとした。寺内内閣は西原亀三を北京に派遣して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に巨額の借款を与えた。これを西原借款というが借款の総額は当時の金額で約1億4,500万円で、寺内内閣がこの巨額を北京政府に貸し付けたのは中国における政治・経済・軍事など様々な影響力を拡大する思惑からであった。しかし借款の大半が償還されず、日本はその成果が挙げられなかったどころか、北京政府と対立していた南方革命派の反感を買い反日運動が拡大した。西原借款は多額の財貨を消失させたばかりか、中国における反日感情を高めることになった。このことは日本の歴史教科書には書かれていない。約100年前の中国への投資が日本を苦境に陥らせたという史実を学ぶことは、現在の中国への莫大な投資に対する貴重な教訓になるはずである。


 日露戦争後に国交を修復した日本とロシアは、明治4年から三次にわたって日露協約を結び、お互いの利害関係を調整したが、第一次世界大戦で両国が共に連合国側に属したことから関係はさらに深まった。大正5年、日本とロシアは第四次日露協約を結び、極東での権益の擁護を相互に確認し、両国の軍事同盟的な関係を強化した。また翌年にはイギリスとの間に覚書を交わして、山東省におけるドイツの権益を日本が継承することを承認させた。
 日本の中国進出に対して批判的であったアメリカとの間においても、大正6年に前外務大臣の石井菊次郎とランシング国務長官との間で「石井・ランシング協定」が結ばれ、中国の領土保全・門戸開放、中国における日本の特殊権益の保有とを確認した。しかしこの協定が結ばれた当時は、アメリカが第一次世界大戦に参戦しており、アメリカが日本とこの協定を結んだのは、アメリカが参戦中に中国大陸に対して日本が余計な手出しをしないように抑え込もおとしたからであった。その証拠に、この協定は大戦終了後の大正12年に破棄されている。このように日本とアメリカとの関係は常に不安定で、資源を持たない日本にとって生命線である満州など中国における権益を、アメリカが脅かすようになった。これらの権益は、「ある大国」が滅亡したことによって、さらに危機的な状況を迎えてしまった。
 日露戦争の敗北は、ロシアを支配していたロマノフ王朝にとって大きなダメージとなったが、その後も第一次世界大戦でドイツに敗北を重ねたことや、生活物資の不足にあえいだことなどから不満を爆発させた民衆が、大正6年3月に大規模な暴動を起こし、それがきっかけとなって、ついにロマノフ王朝が倒されました。これを三月革命というが、ロシアが当時使用していた暦に合わせて二月革命とも呼ばれている。
 三月(二月)革命後のロシアは不安定な政治情勢が続いたが、その中から勢力を拡大したのは、共産主義を標榜するレーニンだった。マルクスに由来する「貧富の差を憎むとともに私有財産を否定して、資本を人民で共有する」という耳に心地よい思想が、それまでの帝政に苦しめられてきたロシア民衆の熱烈な支持を得たのである。レーニンは、1917年11月にクーデターによって政治の実権を握ると、世界で初めて社会主義(共産主義)政権であるソビエト政権を樹立した。これを十一月革命、またはロシアの暦に合わせて十月革命とう。
 ソビエト政権は、大正11年にソビエト社会主義共和国連邦を成立させたが、ロマノフ王朝の一族をすべて処刑し、共産主義に賛同しない人民を数百万人も虐殺するなど、血にまみれた恐怖政治を行った。そして広大な領土を持つ共産主義国家が誕生したことは、日本や周辺諸国に甚大な影響を与えた。
 ロシア革命を成功させたソビエト政権はドイツと休戦し、大正7年3月にブレスト=リトフスク条約を結んで、第一次世界大戦の東部戦線から軍を撤退さたが、これはドイツが西部戦線に兵力を集中させることになった。ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア軍を救援する目的で、日本にシベリアへの出兵を要請したが、アメリカをこれ以上刺激したくなかった日本は出兵を拒否した。
 その後、チェコ軍が危機に陥ったことから、アメリカ国内でチェコ軍の救援への世論が高まり、アメリカが日本に出兵を要請してきたことから、寺内正毅内閣はアメリカ・イギリス・フランスとともにシベリアへ派兵した(シベリア出兵)。
 出兵に際してそれぞれの思惑を持つ各国は意思の疎通を欠き、特に日本はアメリカと激しく対立した。アメリカの出兵の本音は「日本が満州北部やシベリアに進出するのを防止すること」であったが、日本は「ソビエトによる共産主義支配の危機が迫った満州を守る」という意思があったからである。シベリア出兵は思ったような効果があげられないまま、大正9年には各国が撤兵を開始した。の本もアメリカからの出兵打ち切りを受けて、撤兵への機運が高まったが、そんな折にある惨劇が起きた。
 樺太の対岸の黒竜江(アムール川)がオホーツク海に注ぐ河口にある沿海州のニコライエフスクには、日本人居留民や日本軍守備隊など約7百数十名が駐留していたが、大正9年1月下旬に革命軍の非正規の戦闘集団(パルチザン)が攻撃を仕掛けてきたのである。パルチザンは日本の守備隊といったんは講和したが、やがて共産主義に同調しないニコライエフスクの市民を革命裁判と称して次々に虐殺するなどの乱暴狼藉を繰り返し、同年3月には日本軍守備隊を全滅させ、一部の日本人居留民を捕虜とした。
日本政府は雪解けを待ってニコライエフスクに救援軍を派遣しましたが、パルチザンは救援軍が到着する前に、捕虜としていた日本人をことごとく惨殺したほか、市民のおよそ半分にあたる約6,000人を反革命派として虐殺し、最後には市外に火を放って逃走しました。
ニコライエフスクにいた約7百数十名の日本人全員が、戦死あるいは虐殺されるという大惨事に対し、我が国内で「元寇以来の国辱だ」と対ソ強硬論が高まったのは当然でした。なお、この悲惨な事件はニコライエフスクの当時の呼称から、尼港事件(にこうじけん)と呼ばれています。

尼港事件に激高した世論を受け、我が国は事件の解決まで北樺太を保障占領することを宣言しました。なぜなら、事件当時に訴えるべき相手方たる政府が、シベリアには公的に存在しなかったからです。
後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は、大正11年までシベリアから撤兵ができませんでした。
シベリア出兵は最終的に当時で約10億円を費やしたほか、将兵約72,000人を現地に派遣し、そのうち約3,500名を失うこととなりましたが、結果としては何も得るものがなかったばかりか、領土的野心を周辺諸国に疑われ、特に日米関係に大きな溝をつくってしまいました。
ところで、我が国の多くの住民や兵士が虐殺された尼港事件ですが、これだけの大惨事でありながら、なぜか我が国の高校での歴史教科書の多くが取り上げていません。そればかりか、チェコ軍の孤立を自国の領土的野心を満たす好機として、我が国が進んで出兵したとか、あるいは我が国がシベリアでズルズルと駐留を続けたことで国際的な非難を浴びたというような、余りにも一方的な記述が見られる教科書もあり、当時の我が国が置かれた深刻な状況を判断することが極めて難しくなっています。
なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14年に日ソ基本条約が締結され、両国の国交が樹立したのを受けて我が国が撤兵しています。

ロマノフ王朝による帝政ロシアの時代に、当時の民衆は支配者たる王朝の圧政に苦しめられ続けました。だからこそ、彼らはマルクスによる「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」共産主義思想に憧れて、ロシア革命を引き起こしたのです。
しかし、共産党による一党独裁の政治を始めたソビエトは、共産主義社会の実現を名目として、反対する民衆を、裁判にかけることもなく有無を言わさず大量に虐殺しました。政治や言論の自由を失った民衆からしてみれば、ロマノフ王朝以上に抑圧された、非民主国家での圧政の日々と言えたかもしれません。
自国での革命に成功したソビエトは、世界の共産化をめざして大正8年にコミンテルンを組織しました。コミンテルンの主な目的は、各国の知識人や労働者をそそのかして、共産主義の革命団体を世界中に旗揚げし、そのすべてをソビエトからの指令によって動かすことで、各国の内部を混乱させて共産革命を引き起こそうというものでした。
コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広めたほか、我が国にもコミンテルン日本支部ともいうべき組織を、日本共産党という名で大正11年に秘密裏に立ち上げました。
そもそも我が国は、ソビエトと国境を接した満州に権益を持ち、あるいは朝鮮半島を自国の領土としていましたから、ロマノフ王朝を皆殺しにするなど、君主制の廃止を何とも思わなかった共産主義による脅威を、天皇陛下に万が一のことがあっては大変なことになると、世界で最も強く感じていました。共産主義への恐怖と内部で密かに進んだコミンテルンの工作とが、大正時代以降の我が国の歩みを大きく狂わせる結果を招くようになるのです。

第一次国共合作と幣原外交の挫折
辛亥革命(しんがい)が起きて清が滅亡し、孫文によって中華民国が建国されたが、その後の中国は軍閥割拠の北方派(北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていた。
中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、大正10年に中国共産党を組織させたほか、大陸制覇に何度も失敗していた孫文に対して言葉巧みに近づきました。大正12年にコミンテルンのボロジンやヨッフェと次々に会談した孫文は、中国全土の統一のためにソ連の援助を受けることを決断し、翌大正13年に共産党と連携しました。これを第一次国共合作といいます。
 しかしこの国共合作はコミンテルンが仕組んだ巧妙な罠でした。新たに孫文の顧問となったボロジンは、中国共産党を裏で操りながら国民党をも動かす地位を得たことで、彼の指示によって多くの共産党員が国民党内に流れ込み、国共合作後の中国情勢に大きな影響を与えてしまうのです。
第一次国共合作と幣原外交の挫折
 大正14年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石は、大正15年未に軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを北伐といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、昭和2年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。この事件は今日では上海クーデターと呼ばれている。
上海クーデターの後に国民政府を立ち上げた蒋介石が共産党と対決する姿勢を明確に示したことで第一次国共合作は事実上崩壊し、蒋介石が率いた革命軍はその後も北伐に向けて進撃を続けたが、中国内における大きな混乱は大陸に権益を持っていた世界各国に深刻な影響をもたらしていました。
上海クーデターより以前の1927年1月、当時は租界と呼ばれた外国人居留地であった漢口や九江(きゅうこう)が革命軍に次々と襲われ、多数のイギリス人が殺害されただけでなく、租界そのものを革命軍に奪われてしまうという事件が発生した。これをイギリス租界奪取事件といいます。この非常事態にイギリスは自国内で多数の軍隊を動員するとともに、かつての北清事変にならって列強各国に出兵を要請した。しかし我が日本は「外交上の理由」でこの要請を拒否してしまう。
第一次国共合作と幣原外交の挫折
大正13年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら貿易などの経済を重視するという外交を展開した。幣原外相による外交は今日では幣原外交、あるいは協調外交と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られるが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が国の外交面での信頼を大きく損ねることになった。
先述したイギリス租界奪取事件においても、協調外交の姿勢を重視した幣原外相はイギリスによる出兵要請を無視したが、これに味をしめた中国の革命軍は昭和2年の3月に南京の我が国を含む外国領事館や居留民を襲撃し、これに怒ったイギリスとアメリカの軍艦が砲撃戦を行いました。これを南京事件といいます。南京事件は在留の日本人が殺害されるなどの大きな被害をもたらしたが、事を荒立てるのを嫌った幣原外相が中国に対して一切報復せずに固く「平和」を守ったため、その「弱腰」ぶりがさらなる悲劇をもたらすことになった。
南京事件の発生からわずか10日後、我が国の水兵と中国民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを漢口事件といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪を働いたりする行為は不法そのものだった。しかし我が国は中国に攻撃を仕掛けることで大陸中が大混乱になり、その結果多くの日本人居留地や居留民が被害を受けることを恐れ、協調外交を口実に一切の報復を行わなかった。
 南京事件や漢口事件が起きたことで日本国内においても幣原外相の「軟弱外交」に対する批判が高まったが、昭和2年は後述する金融恐慌によって内政が大混乱となっており、中国による度重なる租界襲撃に対して一切の報復を行わなかったことが、我が国が世界における信頼を失うことに気が付いていなかった。「過ぎたる協調外交は結果として国を滅ぼしかねない」。これも歴史における大きな教訓ですが、実は幣原外交はこの2年後に復活して、我が国を更なる混乱に巻き込んでしまう。なお、南京事件や漢口事件はいずれも中国共産党の扇動によって起きたとされており、これらが蒋介石による上海クーデターにつながったといわれている。