大日本帝国憲法

 行政機関の整備と同時に憲法制定の作業を開始した政府は、明治15(1882)年に伊藤博文をヨーロッパへ派遣して、憲法調査を自発的に行いました。自国の憲法制定に関して、他国の憲法をそれも自発的に調査するなど他国に例がない。政府の憲法制定に対する強い意欲が感じられる。
 伊藤は約1年半の時間をかけた末に、当時のドイツ帝国の母体となった旧プロイセン王国の憲法が、我が国の国情に照らして一番相ふさわしいとの結論を得て帰国したが、実際に伊藤がベルリン大学教授のグナイストや、ウィーン大学のシュタインなどから受けた教えは、「日本の憲法は自国の歴史や伝統に立脚したものでなければならない」というもだった。
 また当時の日本における最大の懸案は不平等条約の改正でしたが、その実現のためには、国の基本法となる憲法を制定するのが当然であり、憲法制定後も政府主体による強い意志で引き続き政治を行う必要があった。
 そこで政府は、悠久(ゆうきゅう)の歴史を誇る我が国の元首であるとともに至高(しこう)の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行う以外に、国民をまとめると同時に、彼らの支持や理解を得る方法はない、という結論にたっした。だからこそ、「天皇が臣民(しんみん)に授ける」形式の憲法が良いと判断したのでである。
 明治20(1887)年、伊藤博文は井上毅(いのうえこわし)が作成した憲法草案をもとに、伊東巳代治(いとうみよじ)や金子堅太郎(かねこけんたろう)らと検討作業を行い、ドイツ人顧問のロエスレルらの助言も得て翌明治年4月に草案を完成させた。
 完成した憲法草案は、同明治21年に創設された天皇の最高諮問機関である枢密院で、明治天皇ご臨席のもとでさらに審議された。なお、伊藤は枢密院の初代議長に就任するため内閣総理大臣を辞任している。
このような段階を踏んだうえで、明治22(1889)年2月11日の紀元節の日に、大日本帝国憲法明治憲法=めいじ)はついに発布された。この瞬間、我が国はアジア初の憲法を持つ国家(立憲国家)となった。
 憲法発布の当日は祝賀行事が各地で行われ、国民がこぞって憲法の発布を祝った。普段は反政府的な立場をとっていた新聞各紙でさえ、「聞きしに優る良憲法」「大体においては実に称賛すべきの憲法」と評価した。
さらに有色人種のアジアの国家が、明治維新からわずか20年余りで憲法をつくったことに対して、欧米列強からは感嘆の声が上がるとともに、完成した憲法を高く評価しました。明治憲法の発布は、世界史上においても燦然(さんぜん)と輝く画期的な出来事だったのです。
 さて一般的に明治憲法といえば、「天皇に強い権限を与える欽定憲法(きんていけんぽう)」「神聖不可侵とされた天皇は統治権を独占した総攬者(そうらんしゃ)であり、議会すら関与できない天皇大権を持っていた」「臣民とされた国民の権利は法律によって厳しい制限を受けていた」などという評価をされていることが多いが本当のことでしょうか?
まず欽定憲法ですが、これは「君主が定める」という意味であり、形式的な言葉に過ぎません。先述したように、至高の権威をお持ちの天皇の名の下で政治を行うという、政府の強い意志が込められていたことからこそ、「天皇が臣民に授ける」という形式で憲法を制定する必要があったのです。
次に「統治権の総攬者」ですが、憲法の条文(第1条)における「統治ス」は 「治(シラ)ス」、すなわち「お知りになる=公平に治める」という意味の大和言葉(やまとことば)を漢語化したものであり、「権力を私有せず、公共のために世の中を治める」という、従来の天皇のお立場を成文化したものであることから、「天皇大権」を明確に否定している。
また、「総攬」とはただ単に「とりまとめて持つ」という意味であり、これを「我が手に握って実権を持つ」と解釈するのは強引であるうえに、実際の憲法の条文(第4条)では「此(こ)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リテ」と明記されており、仮に実権を握っていると理解できたとしても、天皇ご自身も憲法の規定に従わなければならないのですから、やはり「独裁統治」と解釈するには無理があり過ぎます。
「天皇大権」が明治憲法の冒頭(ぼうとう)で否定されているのは先述したとおりですが、これは憲法の各条文でも同じように明文化されています。例えば、憲法第5条の「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」については、「天皇が立法権を行うには議会の賛成や協力が必要である」という意味であり、天皇が勝手に立法権を行使することは憲法上許されていないことになりますから、これを「議会は天皇を助ける機関に過ぎない」と解釈するのは強引であるといえます。
内閣(明治憲法上は「国務大臣」と表記)に関しても、憲法第55条第1項で「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ、補佐して助言すること)シ其(そ)ノ責(せめ)ニ任ス」と書かれており、これも第5条と同様に、「天皇が行政権を行使するには国務大臣(=内閣)の補佐や助言が必要である」と解釈すべきです。
また、天皇大権と称されているものの一つに「緊急勅令(きんきゅうちょくれい、勅令とは天皇による命令のこと)」がありますが、これも憲法第55条第2項で「国務大臣ノ副署(ふくしょ、署名のこと)ヲ要ス」と書かれており、実際に天皇が直接命令をお出しになられても、後に大臣が署名によって承認しなければ効果がありませんでした。
さらに司法権についても、憲法第57条の「司法権ハ天皇ノ名ニ於(おい)テ法律ニ依(よ)リ裁判所之ヲ行フ」における「天皇の名において」とは、「天皇の権威をもって」裁判所が法に基づいて天皇の代わりに審理すると解釈すべきなのです。
つまり、天皇は立法権・行政権・司法権の三権について何ら権力をお持ちでなく、議会や国務大臣(=内閣)、あるいは裁判所が決めたことに従われるのみということが良く分かりますね。さらに付け加えれば、憲法第3条における「神聖不可侵」とは、天皇の尊厳や名誉を汚さないために、「天皇に政治的責任を負わせない」というのが正しい意味であり、これは、「国王は君臨(くんりん)すれども統治せず」とする立憲君主制(りっけんくんしゅせい)の考え方そのものでもあります。
これまで述べてきたように、明治憲法において天皇は政治的な権力は何もお持ちでなかったのですが、権力とは全く別の概念として、天皇は我が国の長い歴史における権威をお持ちであられた一方で、近代国家として歩むために絶対に必要な憲法を制定した政府には、明治維新から20年余りしか経っていないということもあって、後ろ盾(だて)となる権威がどうしても不足していました。
そこで、歴史的な権威をお持ちの天皇が、憲法における様々な手続きに署名されるという重い現実によって、憲法そのものや、憲法によって規定された議会や国務大臣(=内閣)、裁判所などの決定に「正当性」を加えようとしたのです。
これこそが「天皇によって国がまとまる」という我が国古来の理想的な政治体制であり、現代の日本国憲法における「象徴天皇(しょうちょうてんのう)」とも大きな差はありません。明治憲法の「天皇大権」で成文化されたのは、あくまでも天皇の「権威」であって、決して「権力」ではないことを、私たちは深く理解する必要があるのではないでしょうか。
ただし、天皇大権の一つである「統帥権(とうすいけん、軍隊を指揮する権利のこと)の独立」については、実際には陸軍や海軍の責任者が統帥権を持っていたにもかかわらず、天皇に指揮権があるかのように条文上で解釈できたことが、後々になって我が国の運命を大きく暗転させるきっかけをつくってしまったことは、返す返すも残念なことでした。
なお、統帥権の独立に関する問題については、昭和時代初期の頃に改めて詳しく紹介する予定です。
さて、明治憲法における「天皇大権」の真意は理解できましたが、条文で「臣民」と書かれた国民の自由や権利は制限付きでしか認められず、不十分なものであったというのは本当でしょうか。
明治憲法の条文における「臣民の権利」には、参政権や契約の自由あるいは所有権の不可侵(ふかしん)、信教および言論・出版・集会・結社の自由などが認められており、19世紀末に制定されたという事情を考えれば、かなり多くの権利が認められているといえます。ちなみに生存権(=社会権)がないのは、それ自体が20世紀に考え出された権利だからであり、明治憲法に含めるのは無理がある話です。
次に「法律による制限」についてですが、法律で制限されているということは、逆に言えば「法律で禁じられていること以外は自由である」と同時に、「政府は法律で決められてもいないのに国民の自由や権利を奪(うば)ってはならない」ということも意味しています。
また、これもよく考えれば理解できることですが、この世に「無制限の権利や自由」というものが存在するのであれば、平安時代や戦国時代のように「力あるものが勝つ」という、実に住みにくい社会になってしまいますから、近代法治主義(きんだいほうちしゅぎ)の原則から考えれば、権利や自由が「法律により制限されている」のはむしろ当然であるといえるのです。
さらに、この原則は日本国憲法においても例外ではなく、「公共の福祉」の名のもとに、権利や自由が制限されているのは有名な事実ですね。
立法権・行政権・司法権のいわゆる三権については、政体書の頃から三権分立を理想としていましたが、明治憲法でそれぞれが天皇を補佐することによって、その体制が整うことになりました。
国会は帝国議会(ていこくぎかい)と呼ばれ、対等の権限をもつ貴族院(きぞくいん)と衆議院(しゅうぎいん)からなる二院制(にいんせい)が採用されました。なお、両院は対等ではあったものの、予算の編成は衆議院に先議権がありました。
このほか、憲法において国務大臣は、各自がそれぞれ天皇を補佐する責任を持つとされましたが、実は明治憲法には「内閣総理大臣」や「内閣」の文字はありませんでした。これは、憲法に内閣の文字を入れることで、総理大臣すなわち首相がかつての徳川幕府(とくがわばくふ)の将軍のように力を持ち、天皇を軽んじる可能性があることを、幕府と命がけで戦った経験を持つ伊藤博文が恐れたからだという説があります。
なお、憲法公布と同時に、皇位の継承(けいしょう)やいわゆる摂政(せっしょう)の制度などを定めた皇室典範(こうしつてんぱん)や、貴族院令あるいは衆議院議員選挙法も公布されました。
このうち貴族院は、皇族や先の華族令(かぞくれい)で規定した華族のほか、国家の功労者や学識者などから天皇により任命される議員や、各府県から一人ずつ選出された多額納税者議員から構成されました。なお、衆議院議員選挙法については近日中に改めて紹介します。
法典の編纂(へんさん)は明治初年の頃から始まり、フランスの法学者であったボアソナードらの助言を得て、明治13(1880)年にはフランス法をモデルとした刑法(けいほう)や治罪法(ちざいほう、刑事訴訟法=けいじそしょうほうの前身)が公布されました。
次には、条約改正の目的もあって民法と商法の編纂が進められ、明治23(1890)年に民法・商法・民事訴訟法(みんじそしょうほう)や刑事訴訟法が新たに公布され、法治国家としての体裁(ていさい)が整いました。
ところが、民法の概要が、当時のフランス法的な個人の尊厳(そんげん)を重視する一方で、我が国古来の家族に関する慣習を無視したものであったため、制定前後から様々な意見が飛び交いました。これを民法典論争(みんぽうてんろんそう)といいます。
論争において、憲法学者の穂積八束(ほづみやつか)が自らの論文で「民法出(い)デテ忠孝(ちゅうこう)亡(ほろ)ブ」と書いて厳しく批判した一方で、梅謙次郎(うめけんじろう)は民法をそのまま導入すべきと主張しましたが、最終的には民法の施行(しこう、法律などの効力を発生させること)が延期され、大幅な修正が加えられたうえで、明治31(1898)年に新民法が公布されました。
新民法はドイツ民法を参考として、我が国の家制度(いえせいど)の維持を重視しており、家長(かちょう)たる戸主(こしゅ)に家族の統括者(とうかつしゃ)という地位を与えて、戸主の地位をその権利義務一切を含め、原則として長男のみに一括(いっかつ)して相続させるという家督相続(かとくそうぞく)の制度を採用しました。