元禄文化

 元禄文化
 江戸時代初期の徳川家光の時代を中心とした文化を寛永文化というが、5代将軍・徳川綱吉の時代を中心とした元禄年間(1688年~1707年)前後の文化を元禄文化という。

 江戸時代の初期は、幕府や藩は新田開発や都市建設などに追われ、そのために農民から七公三民の高額な年貢を集めていた。しかし元禄年間の徳川綱吉の時代になると平和な世の中が実現し、公共事業が一段落したため年を追うごとに年貢率が低下した。

 年貢率の低下は生活の余裕をもたらし、それまで食べるのに精一杯だった人々は、暮らしの中に遊びを求めるようになった。年貢は七公三民から三公七民へ大幅に下り、農民の生活は豊かになった。年貢が減り、新田が開発され、農村の商品作物が発展し、それを基盤に都市町人が台頭し、産業の発展および経済活動の活発化を受けて文芸・学問・芸術の著しい発展をみたのである。

 農民の生活が豊かになれば、人々が遊びを求めるようになり、貨幣の動きが活発になり経済が発展した。いわゆる減税による経済効果はかつてないほどの好景気と高度の文化を起こしたのである。この大規模減税は幕府財政にまだ余裕があったからで、あるいは財政赤字にまだ気付かずにいたからである。

 経済の発展は農民のみならず、武士や商人、庶民の間で高水準の多彩な文化をもたらした。この元禄文化は元禄時代を中心に栄え、元禄文化の特色は現世を「浮き世」、すなわち人間社会の現実を肯定的にとらえ、これは実利を重んじる町人の思いが込められていた。

 実証主義による古典研究や自然科学の学問の発達など様々な側面が見られる。また元禄文化は上方(大阪・京都)の町人が中心の文化で、文学では松尾芭蕉近松門左衛門が有名で、歌舞伎では現在でも有名な市川団十郎坂田藤十郎が人気を呈したた。

 しかし元禄文化が栄えると共に、武芸よりも武士としての心構えである儒学が政治と結びつき学問として進化した。

 

学問の潮流

 戦国時代が終わり平和な江戸時代が続いたために学問が非常に盛んになった。幕府は儒学の一派である朱子学を重視した。朱子学は「目下は目上を敬うべき」という道徳論なので、幕府が既成秩序を維持する上で都合の良い学問だった。上下の身分秩序を重視して礼節を尊ぶ朱子学が封建社会の維持にとって最適であり、朱子学の元である儒学が元禄時代の頃までに盛んになった。

 歴代将軍の中でも特に学問を好んだ5代将軍・徳川綱吉は、1690年に湯島聖堂を建て林羅山の孫にあたる林鳳岡(うこう)を大学頭(だいがくのかみ)に任じた。このような幕府の学問に対する姿勢は諸大名にも反映され、多くの藩主が綱吉にならって儒者を顧問に招き学問に励み藩政の向上を目指した。岡山の池田光政会津の保科正之加賀の前田綱紀水戸の徳川光圀が有名で、徳川光圀はテレビ時代劇「水戸黄門」のモデルとなっている。

朱子学
 朱子学は藤原惺窩(せいか)によって広まったが、京都に在住したことから惺窩の一派は京学と呼ばれ、林羅山のほかにも綱吉に儒学を教えた木下順庵、「正徳の治」でその名を知られた新井白石などが有名である。

 このほかの朱子学派としては、戦国時代に活躍した南村梅軒(ばいけん)を祖とする南学があり、土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれた後には野中兼山(けんざん)や山崎闇斎(あんさい)らが出た。
 山崎闇斎は僧侶から儒者となり、我が国古来の神道を朱子学的に解釈した垂加神道を説き、大義名分から皇室を尊敬することを教え、後の尊王論の基礎となった。朱子学以外の儒学としては中国の明の王陽明を始祖とする陽明学を中江藤樹(とうじゅ)や熊沢蕃山(きまざわばんざん)らが学び、本当の知は実践を伴わなければならないという知行合一(ちこうごういつ)による実践主義を重視した。陽明学は理論に偏りがちな朱子学を批判したことやその革新的な内容から幕府に警戒された。朱子学や陽明学はそれぞれ中国の宋や明の時代の学問であったが、これらに飽き足らずに孔子や孟子の原点にまで直接立ち返ろうとした古学派がいた。

 儒学にもいくつもの潮流がある。例えば「陽明学」は、儒学の一派でありながら既成秩序を否定する傾向が強く、幕府に対する反骨精神を涵養する特徴があった。例えば、大阪で圧政に苦しむ庶民のために武装蜂起した大塩平八郎(1837年)は、幕臣でありながら陽明学者でもあった。しかし幕府は、儒学の一派であるという理由から陽明学を弾圧しなかった。

 なお幕府が安心して擁護できたはずの「朱子学」も、水戸藩などで過激化し、いわゆる「尊王思想」が誕生することになる。朱子学をとことんまで追求すると「天皇と朝廷は幕府よりも偉いはずなのに、幕府が朝廷をないがしろにするのはおかしい」という結論になるからである。この思想が「朝廷のために幕府を倒すべし」という尊王倒幕に発展するのであるが、道理からは当然のことであった。

古学派
 古学派のうち、山鹿素行(やまがそこう)は古代の聖賢に立ち戻ることを主張して、礼に基づく武士道を確立するとともに朱子学を激しく批判した。山鹿素行は儒学の流行による中華思想を批判し「中朝事実」を書き、日本人にとっては日本こそが中華であるという立場を明らかにした。なお明治の軍人・乃木希典は、明治天皇に殉死する直前に、若き日の裕仁親王(昭和天皇)に「中朝事実」を献上している。

 また伊藤仁斎(じんさい)・伊藤東涯(とうがい)の父子は京都で仁を理想とする古義学を唱えた。

 荻生徂徠(おぎゅうそらい)は徳川綱吉の側近であった柳沢吉保に仕え、晩年には8代将軍の徳川吉宗にも仕えた。荻生徂徠は古代中国の古典を読み解く方法論を確立したほか、知行地(ちぎょうち)における武士の土着などの具体策である経世論を説いた。荻生徂徠の門人であった太宰春台は荻生徂徠の経世論を発展させ、経済録を刊行して武士も商業を行い藩が専売制度を行って利益をあげる必要性を述べた。
 なお朱子学を批判し幕府の怒りを買った山鹿素行は赤穂藩に流され、藩士たちに学問を教えた。赤穂藩の門下生には若き日の大石内蔵助がおり、大石内蔵助が後に主君の敵として他の元家臣らとともに吉良上野介を討ち果たした。その裁定に悩む幕府に荻生徂徠は大石らの切腹を主張し最終的に認めさせた。
 江戸時代には我が国の歴史に対する編纂も進められた。幕府は林家(りんけ)に命じて、年代を追って出来事を記述していく編年体で本朝通鑑(ほんちょうつがん)をまとめた。
 水戸藩の徳川光圀は藩の総力を挙げて大日本史の編纂を始めた。大日本史は人物や国ごとの業績を中心に記述し、大日本史における全体的な内容は朱子学に基づく大義名分論が主流であり水戸学と呼ばれた。水戸学は尊王思想に発展し、幕末の思想に大きな影響を与えた。ちなみに大日本史は全397巻にのぼる大作であり、着手から250年の歳月をかけて明治39(1906)年にようやく完成した。
  また新井白石は古代史を研究して古史通や読史余論を著している。
国文学

 この時代はいわゆる国文学の研究も盛んになった。戸田茂睡はそれまでの和歌に使用できない言葉があることを批判し、自由な表現を認めるべきとして「和歌の革新」を唱えた。戸田茂睡の説は万葉集などの研究を続けた僧の契沖(けいちゅう)によって認められ、契沖は従来までの和歌の道徳的な解釈を批判して万葉代匠記(まんようだいしょうき)を著した。また北村季吟(きぎん)は源氏物語や枕草子などを研究して、源氏物語湖月抄(こげつしょう)や枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)などの注釈書を著した。これらの古典研究はやがて古代精神への探究へと進み、後に国学という新しい学問の基礎となった。

寺小屋

 戦国時代の終わりころには村に寺子屋をつくろうという気運が民衆の間に培われていた。寺子屋の普及は従来考えられてきたよりも早い年代とされ、言い換えれば、村落における読み書きや算術能力の広がりがあったため文書主義による村請制が可能であった。そこでは単に年貢事務や触書等の理解にとどまらず、場合によっては村からの訴願や証拠書類をそろえたうえでの公事・裁判をになう法的能力さえも期待されたのである。兵農分離の体制は寺小屋なしには不可能だったといえる。
 このように三都のみならず農村にあっても、1村役人・町役人の子弟を中心に読・書・算盤を教える寺子屋が庶民の教育機関として普及した。各地で教え子たちが師匠を慕って記念碑(筆子塚)を建てている。このころから女性の師匠もあらわれ、西鶴の『好色一代女』には宮仕えをやめた主人公が「女子の手習所」を開くため、門柱に「女筆指南」の張り紙を出すシーンが描かれている]。教科書としては『実語教』『塵劫記』また『庭訓往来』などの往来物(手紙文)が利用されることが多かった。
 子ども20人あまりで手習の師匠一家の生計が成り立っ手織り、また村としては寺子屋の師匠と医道の両方できる人、文字ばかりでなく謡曲を教えてくれる人を求めるられた。俳諧の流行においても、寺子屋の果たした役割はきわめて大きいものであった。

出版業

 日本の出版業は1630年代(寛永年間)の京都で始まり、江戸では1650年代(明暦年間)、大坂では1670年代(寛文末)ころに出版が始まった。この三都を中心に出版業が展開し元禄時代に出版物が飛躍的に増加した。大坂や江戸では京都の出版を重版するだけでなく、江戸の俳書や大坂の草子屋本などにみられるように独自の出版活動がみられた。
 印刷方法は安土桃山時代にイエズス会から、あるいは朝鮮からの別系統で活字印刷が伝えられ寛永の頃まではさかんであった。しかしそれ以後は衰えほとんどが木版印刷にもどった。これは字数の少ないアルファベットと異なり、漢字の場合は通常の文でも数千種類と字数が多く、細字まで加えると多種多様な活字を用意しておかなくてはならなかったからである。また木版印刷は紙型を残すことが困難なので新たに活字を組み直すか、組版のまま残すかしなければ再版は難しかった。しかし木版印刷の方が簡便かつ経済的だったのである。
書店
 書店数も増え、江戸では明暦年間までに10軒だったが、万治・寛文のころには26軒、延宝期には58軒、元禄期には80軒に増えた。大坂の書店も同様に増加した。出版物も元禄9年(1696年)には約7,800点まで増え、その種類も仏書・日本古典・漢籍から元禄期には庶民の日常生活に必要な知識を集めた重宝記や井原西鶴などの小説が現れた。
 広範囲に販売や取次・小売を専門におこなう業者もあって、南部藩の城下町盛岡にも本屋があったという記録がある。書籍の行商もあり目録での注文に応じたり、次回村を巡回する時まで貸本するなどもあった。畿内の農村では1か月に5ないし6回という頻度で村を回ったと記録されている。行商には女筆の手本や「源氏物語」、和歌指南など「女物」と称される女性専用の書物を商う女性行商人もいた。
 幕府は1657年に京都で出版取締令を発し、元禄年間には三都で厳しい言論統制を推進した。また同じ頃に結成された書物屋仲間を公認し、これに書物刊行の許可を下す権限を与えるかわりに幕府の出版取締令を厳守する義務を負わせた。
 こうした出版統制政策があっても、出版界が活況を呈したのは、木版印刷術の進歩によるものであったが、基本的には読書人口の急増にともなう需要増加にささえられたものであり、経済発展によって読書をたしなむ余裕のある階層が増えた証拠であった。多様な文芸や諸科学の発展、浮世絵の成立などもこのような出版文化に負うところが大きかった。

自然科学
 江戸時代には様々な産業が発達したが、この当時の実証的な研究態度は自然科学などの科学の発達を促した。天文学や暦学では渋川晴海が、それまでの暦(こよみ)の誤差を観測によって修正し、我が国独自の貞享暦(じょうきょうれき)をつくり、この功績によって渋川晴海は幕府の天文方に任じられている。
 江戸時代初期には様々な治山・治水や都市整備などの事業が行われ、その際に精密な測量が必要だったため、あるいは商業取引の際に重要だったことから和算(わさん)が発達した。関孝和(せきたかかず)は筆算代数式とその計算法や円周率の計算などで優れた業績を残している。
 薬草の研究から始まった本草学は、貝原益軒(えきけん)が大和本草を、稲生若水が庶物類纂(しょぶつるいさん)を著した。なお本草とは薬効のある植物や動物・鉱物のことである。本草学は農業や医療の改善にも貢献し、宮崎安貞は農業全書を書き本書の普及に務めた。
 また地理学の分野では西川如見(じょけん)が華夷通商考(かいつうしょうこう)を著して海外事情を紹介した。また新井白石は、我が国に潜入して捕えられたイタリア人宣教師のシドッチを尋問し、その内容をまとめた西洋紀聞を著した。

文学
 元禄時代の文学は、京都や大坂などの上方の町人文芸が中心であった。小説では井原西鶴が、町人社会の風俗や世相を背景に、恋愛や金銭などに執着する人間の生活を描いた浮世草子を著し、好色一代男や世間胸算用などの作品を残した。
 俳諧では西山宗因(そういん)による奇抜な趣向をねらった談林俳諧に対して、伊賀出身の松尾芭蕉が格調高い芸術による蕉風俳諧を確立した。芭蕉は全国を旅しながら俳諧を広め「奥の細道」などの紀行文を残した。
 武士出身の近松門左衛門は国性爺合戦(こくせんやかっせん)などの歴史的な事柄を扱った時代物や、曽根崎心中などの当時の世相に題材をとった世話物を人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として書き上げた。近松門左衛門の作品は、義理と人情の板挟みに苦しむ人々の姿を美しく描いたもので、大坂の竹本義太夫らによって語られ、義太夫節として広く知れ渡った。

歌舞伎
 出雲阿国によって広まった歌舞伎は、当初は女性や若者によって演じられたが、やがて風俗を乱すとして禁止され、以後は男優だけで演じる野郎歌舞伎(やろう)に変化し、元禄時代には常設の劇場が設けられるようになった。
 当時の有名な歌舞伎役者としては、江戸の市川団十郎が荒事(あらごと)と呼ばれた勇壮で力強い演技で人気を集め、上方では和事と呼ばれた恋愛劇で若い色男を演じた坂田藤十郎や女形の芳沢あやめらがいる。

絵画
 美術面では上方の有力な町人を中心に洗練された作品が生まれた。絵画では大和絵の流れをくむ土佐派の土佐光起(みつおき)が朝廷の絵師となり、また土佐派から分かれた住吉如慶(じょけい)は住吉派を興し、子の住吉具慶は幕府の御用絵師となった。
 京都の尾形光琳は俵屋宗達の画法を取り入れて、紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)や燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)などの大胆な構図できらびやかな装飾画を大成し琳派を興した。 絵画で有名な尾形光琳は八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)などの優れた作品を残しているが、その弟である尾形乾山(けんざん)も、装飾的で高雅な陶器や蒔絵を残した。光琳との合作である寿老図六角皿(じゅろうずろっかくざら)が有名である。

 

浮世絵
 江戸では菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が美人や役者・相撲など都市の風俗を描いた浮世絵の版画を始め、浮世絵は大量に印刷できることから安価で入手できることから庶民の人気を集めた。見返り美人図は菱川師宣の作品である。

工芸
 工芸では京都の野々村仁清が酒井田柿右衛門の技法を受け継いだ色絵を完成させ、京焼の祖となった。作品としては色絵藤花紋茶壺(いろえふじはなもんちゃつぼ)や色絵吉野山図茶壺(いろえよしのやまずちゃつぼ)などが有名である。

染織
 桃山文化期にめざましい発展をとげた絞り染や縫箔による小袖・能衣装のンは均等な文様の繰り返しから流動的で非対称ものへ変化したが、その傾向は江戸時代に入っても受け継がれ、寛文年間には寛文小袖と称される小袖全体を大きな一つの画面と見立てる意匠がうまれた。寛文小袖のデザインは多様で、あらゆるものが大胆に取り上げられ、日本的意匠の確立がみられた。
 高級織物や生糸はそれまでは中国からの輸入品であったが、この時代には国内養蚕業の発達により上質な生糸がつくられ、西陣で高級織物がつくられるなど国産化が進み、求めやすくなったことや経済成長によって需要も増えたことから染織の技術も進展した。
 小袖は花鳥山水を模様とする「友禅染」とよばれる染色技法が流行するようになった。この友禅染の名は京都の画家・宮崎友禅斎によるもので自由に染色した小袖が量産できるようになった。光琳風の精巧優美な模様も描かれるようになり衣服の華やかさを競った町人の間で「元禄模様」として流行した。この技法は加賀にも伝えられて加賀友禅と称された。
 友禅染や刺繍によるぜいたくな染色が流行した一方で、かすりや木綿絞り、縞物や小紋、中形など庶民の日常生活に密着した染物もあらわれ、諸藩の産業振興と相まって素朴で機能美にあふれた衣服も各地でみられるようになった。

振袖

 1657年の明暦の大火は「振袖火事」といわれているように。元禄のころには町人の生活が豊かになり、その風俗は「元禄風俗」と称される派手で華美なものとなった。元禄風俗を示すものとして、元禄模様に代表される華やかな衣生活がある。

 この時代の衣生活が日本服飾史のうえで占める重大な変化としては、本来は庶民的服装であった小袖形式が服飾の基本として位置づけられたことが掲げられる。小袖形式とは現今の「きもの」を指しており、上下一連の衣服で腰に帯を締めて着用するスタイルであり、こうした変化は、服装風俗の主導権が武家から町人に移ったことを意味している。男子のふだん着は、小袖の着流しが一般的になり、新たに羽織も着用されるようになった。女子は帯の幅が広くなり、また、袂の長い振袖があらわれ、色や柄も「元禄模様」と称される華やかなものが好まれた。
 布地は麻にかわって綿織物が普及し、朝鮮国王の回賜品や中国からの輸入品であった木綿は戦国時代に栽培がはじまり、17世紀に入ると急速に生産が拡大し、国内自給が可能となった。麻から木綿への転換は、生産・流通・消費、生活の美意識におよぶ衣料革命となり、麻は礼服や夏服として必需品ではあり続けたものの、木綿小袖は身分を超えて常用される和風の衣装となった。これに対し、絹の着用は、常用は武士や上級町人、名主クラスの富裕層に限られていたが、染色性に優れているうえに肌ざわりもよいため庶民の憧れの的となり、元禄期の経済成長によって可処分所得が増大するとブームとなって、都市庶民のハレの日を飾る衣類となった。
彫刻
  また彫刻では、僧の円空が全国を行脚して、円空仏と呼ばれた独特の作風を持った仏像を残した。仏師としては大仏師康猶が日光東照宮や上野寛永寺などの造像にたずさわり、明からおとずれた氾道生は宇治萬福寺の諸像の制作に従事して明末の技法を日本に伝えたがその影響は限定的であった。
 この時代に光彩を放ったのは上方や江戸の専門仏師よりもむしろ、地方の僧や遍歴の僧であった。そのひとりが松雲禅師元慶であり宝山湛海であった。京都の仏師出身の元慶は諸国行脚ののち五百羅漢制作を発願し五百数体を江戸で完成させた。宝山湛海はきびしい苦行経験を体現させた唐招提寺不動明王像などで知られる。
 こうしたなかで特に注目されるのが、全国を行脚した遊歴の臨済僧円空である。円空は蝦夷地、奥羽、関東、中部など東日本各地を布教するかたわら、ナタやノミの荒々しい感触をのこす技法によって、素朴で力強い神像・仏像を十万体以上も制作した。円空の彫像はこれまでの仏教彫刻にはみられず、またその仏像は奥深い山あいの地に分布している。

 その地は各宗派が未だ十分に及ばない地域であることから、円空は各宗派の勢力圏の空白を埋めるかたちで、民衆救済としての信仰の場を提供する修験者として造仏活動をしたのである。円空は仏師と僧侶に区分される以前の仏師僧(造物聖)の姿であった。