平安文学

古典文学

 文学作品としては日本やインド・中国に伝わる1,000余りの説話を集めた「今は昔」で始まる今昔物語集があり、当時の武士や庶民の生活などが表現されている。なお「弘法にも筆の誤り」「受領は倒れたところの土をつかむ」などは、今昔物語集に由来している。また芥川龍之介の小説・羅生門や鼻、芋粥なども今昔物語集を題材にしている。

 軍記物としては平将門の乱を記した将門記や、前九年の役を記した陸奥話記などがあり、地方武士の戦いぶりが伝わってくる。歴史物語では栄華物語や大鏡が仮名で書かれ、摂関政治の頃を懐かしむ貴族の様子がうかがえる。

 平安時代の前期には文学の世界でも優れた物語が次々と現れた。大陸南部の民話が由来とされる「かぐや姫」として有名な竹取物語や、六歌仙の一人である在原業平を主人公にした伊勢物語などがある。平安時代の中期の貴族社会では、紫式部によって源氏物語が生み出され、また清少納言によって枕草子が書かれた。この枕草子は鎌倉時代の方丈記徒然草とともに日本三大随筆と称されている。
 源氏物語は紫式部が、藤原道長の娘で一条天皇の皇后・藤原彰子に仕えた体験を元にしており、紫式部の豊かな教養をもとに、宮廷貴族の生活を見事に描いた世界最大級の長編小説である。
 いっぽうの枕草子は清少納言が、一条天皇の皇后・藤原道隆の娘・彰子に仕えた体験を随筆風に記しており、簡潔かつ軽妙な表現の中に鋭い観察力が見られる。ふたりがつかえた藤原彰子と藤原定子は同じ一条天皇の皇后であり、両皇后に使えた紫式部と清少納は同時代のライバルである。
 ところで源氏物語には私たちが気づかない「大きな謎」がある。源氏物語は世の常識では「あり得ない作品」なのである。源氏物語は皇子から一般貴族になった光源氏を主人公にしており、光源氏が様々な恋愛をへて出世を重ね、准太上天皇になる物語であるが、この源氏物語が書かれた当時、実際に政権を握っていたのは藤原氏であった。

 藤原氏の時代に、源氏出身の貴族が大出世をする物語を書くことはあり得ないことで、普通ならば、自分の権威を否定する藤原氏が無理にでも中断させて作品を処分するはずである。しかし実際には、藤原道長は源氏物語に註文をつけるどころか、紫式部に貴重な紙や硯(すずり)を与えている。面白くないはずの藤原道長が、紫式部に賞賛を送り、そのことが藤原氏が摂政や関白を独占するきっかけになっている。

 969年に起きた安和の変では「皇族から臣籍に降下した源高明」が首謀者で、 光源氏と全く同じ設定である。また同じく菅原道真は謀略によって北九州の大宰府に追放され、亡くなってから怨霊となり朝廷にタタリをもたらし、後に天神様として祀っている。この藤原氏が摂政や関白を独占するようになったのは、菅原道真を神として祀ったからである。

 栄華の頂点を極めた藤原氏ではあったが、藤原氏が蹴落とした源高明や菅原道真の怨霊やタタリか心配でならなかったのであろう。そこで光源氏を架空の物語の中で活躍をさせ、怨霊を敬い穏やかにしてもらったのであろう。菅原道真は神様となり丁重に祀られ、太政大臣の地位を死後贈られている。在原業平も没後に子孫が繁栄できなかったが、伊勢物語の主人公として活躍している。

 つまり源氏物語には「藤原氏によって没落させられた貴族たち」が怨霊となってタタらないように鎮魂する目的があった。このように考えれば「藤原氏が栄華の頂点に立つのと同じ時期に、藤原氏のライバルが出世をする物語」がこの世に出たことが説明できる。

 その他の文学としては、古今和歌集を編纂したことで有名な紀貫之が、国司としての任を終えて京へ戻るまでを日記に綴った土佐日記がある。土佐日記は紀行文の名作で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という文章で始まっており女性にかこつけて仮名文字で描かれ、男性の漢文日記に対し、仮名文字を用いることで自由に感慨をつづる日記文学が確立した。

 土佐日記の後に藤原道綱の母による蜻蛉日記や、菅原孝標女(すたかすえのむすめ)による更級日記などが生まれた。

 このように紀貫之の例外を除けば、貴族たちは娘を天皇の后にするために教育係をつけさせ、細やかな感情や優れた才能が磨き上げ、競って仮名文学を学ばせた。このことから国風文学の隆盛を迎えることになる。

和泉式部

 あまり知られていないが、和泉式部は意外にも情熱的で恋多き女性であった。紫式部は「紫式部日記」で和泉式部について「歌は面白いが、他人の歌への批評は歌人として評価できない」と批判しているが、和泉式部には紫式部にない能力を持っていた。それは恋に関した、さらに云えば好色の魅力だった。紫式部は「源氏物語」を書いたが、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として美しい肉体を持ち男を夢中にさせた。

 「和泉式部日記」では敦道親王が童子を使い、和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は敦道親王の兄・為尊親王の恋人だったが、為尊親王は和泉式部への「夜歩き」がたたって疫病にかかり死んでしまっていた。

 和泉式部は恋人であった親王が亡くなると、出家しようと思うが、式部日記には「宮さまと深く結ばれたこの体が 宮さまの形見とも思えて さまを変えることができなかった」と書いてある。自分の身体が恋人の形見とは、なんという感覚の女性であろうか。

 敦道親王は兄の為尊親王亡きあと、和泉式部に恋心を抱き二人の間に男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる和泉式部の絶妙な手練手管によって、敦道親王は遂に和泉式部の恋の虜になる。

 「和泉式部日記」には、敦道(あつみち)親王が和泉式部に夢中になる経過を克明に記録している。日記の冒頭は亡き恋人の弟・敦道親王から届いた誘いの橘の花であった。そこで紫式部は「かほる香に よそふるよりは ほとどぎす 聞かばや 同じ声やしたると」と応えた。つまり薫る香にかこつけるよりも、ほととぎすの声を聞きたい、あなたが亡き宮と同じ声をしているかどうかと」、このように2人の和歌のやり取りがおさめられている。

 敦道親王は冷泉天皇の第四皇子であるが、母は関白・藤原兼家の長女で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。敦道親王は多情な和泉式部が心配で、男なしには夜を過ごせぬ和泉式部を自分の邸に引き取るが、このことでプライドを傷つけられた親王の正室(本妻)が家出してしまう。

 当時は一夫多妻制だったので、男性が何人の女性と恋愛関係を持っても非難されることはなかったが、女性の立場からみれば複雑だったであろう。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にとって耐え難いことで、しかも家柄のよい正室の場合には、より耐えられなかったのであろう。

 日記は敦道親王と和泉式部との馴れ初めから、敦道親親王の正室が親王のつれない仕打ちに耐え切れず邸を出るまでの半年余りが綴られている。和泉式部は完全な恋の勝利者であった。

 また「栄華物語」では世間をはばからない二人の恋のありさまを綴っている。しかし衆知となった二人の恋も長く続かず、敦道親王は27歳で死去してしまう。

 当時、和歌に優れていることが貴族の出世に大きく関わっていた。天皇や高級官僚が主催する歌合では、その和歌の優劣が評価につながり出世に結びついた。女性の場合も同様で、和歌への素養、表現で男心をつかむことができた。和歌の世界に身分の差はなく、男女は和歌の才能で価値を判断された。

 和泉式部は越前守・大江雅致の娘で、19歳で高齢の和泉守・橘道貞の妻となった。そのため夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」と名をつけられたが、帰京後は道貞と別居状態になり、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝された。由緒正しい家柄とはいえ皇族とでは身分の違いがありすぎ、身分の違う恋であるとして親から勘当された。為尊親王が死去すると、今度はその弟・敦道親王の求愛を受けた。敦道親王は式部を邸に迎え、正妃(藤原済時の娘)が家出することになる。

 その後橘、道貞との間にもうけた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を発揮し、小式部内侍は母と共に一条天皇の中宮・彰子に仕えた。娘は母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれた。

 和泉式部は40歳を過ぎた頃に、彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚して夫に従い丹後に下った。和泉式部には恋愛遍歴が多いことから、藤原道長は「浮かれ女」と評したが、その作風は恋や哀傷に満ちた情熱的な恋歌が多い。その秀作によって同時代の大歌人・藤原公任に賞賛され、トップクラスの王朝歌人とされた。

 和泉式部には2人の子供がいて、最初の夫との間に生まれたのが小式部である。小式部も自由恋愛主義者で母親と同様に二人の父親の違うこどもを産んだが、二人目の産後、25歳で急死する。彼女を溺愛していた和泉式部が悲嘆に沈んだ歌の数々は、生き続ける人間の心を無常に打つ。

 和泉式部が娘を亡くした歌は胸を打つものがある「とめ置きて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子は増りけり」(母である私と子供を残して娘は死んだが、あの子は死ぬ間際に、私と子供のどちらに心を残して逝ったのだろう。それは決まっている、子供のほうだ。だって私は我が娘を失ってこんなに悲しいのだから)。このような悲痛な歌が出てくるのである。

 百人一首56番の「あらざらむ  この世のほかの思ひ出に  今ひとたびの逢ふこともがな」は、(私の命はもうすぐ尽きてしまうでしょう。せめてあの世への大切な思い出として、私の命が尽きる前にもう一度だけ、あなたにお逢いしたいものです)の意味である。

「あらざらむ」の「あら」は動詞「あり」の未然形で「生きている」の意味で、つまり「あらざらむ」で「生きていないだろう」となる。

 「恋」というテーマの歌は数多くありますが、「あらざらむ」という表現は彼女が最初に使い始めたものと思われます。百人一首の選者である藤原定家や、後世の歌人も多く使っていますね。

辞世の句

 「暗きより  暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」(どうにもならない闇から、闇にさまよいこんでしまいそうだ、どうか山の端の月よ、遥か彼方の道までも照らし出しておくれ)。和泉式部はこの仏教への傾倒が伺われる歌を性空上人という人物に送った。すると上人は歌を返さず袈裟をあげ、和泉式部は袈裟を受け取ると、それを着て極楽往生を遂げたと伝えられている。

 和泉式部の歌は熱く生々しく「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」、女の情念の世界に引きずり込むのである。

 岩手県から佐賀県まで、和泉式部のお墓であるとされる。どこが本当のお墓にせよ、千年たっても忘れられずに、京都の誠心院では毎年3月21日に和泉式部忌の法要が営まれている。

蜻蛉日記

 蜻蛉(かげろう)日記を書いたのは藤原倫寧の娘で右大将道綱の母であるが、名前は不明である。平安中期に書かれた女流作家の日記文学の代表作とされ、題名は日記の文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」からきてている。
 この藤原倫寧の娘は、王朝の三大美人とされているが、蜻蛉日記は藤原兼家の私生活を暴露した回想録といえる。当時の最高権力者・藤原兼家の妻として20余年にわたる兼家への不満、恨み、憎しみを延々と書き綴っている。
 藤原倫寧の娘は、藤原兼家の度々の求婚を受け入れ19歳で妻になる。兼家には時姫という正妻がいて、時姫との間に長男・道隆がすでに生まれていた。
 側室となった娘は道綱を産むが、道綱が生まれると兼家の足は遠のき、さらに次々に愛人・妾が現れる。この間嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けている。また期待を懸けた息子の道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長に比べ出世できなかった。
 「私は身分の違う相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選んだわたしが、どのような運命をたどったのか。その点に興味を持つ読者に、この日記は一つの答えを与えるだろう」と書いてある。
 道綱の母は、関白・藤原兼家をきれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、かつ浮気性の実像を暴いている。暴かれた兼家としては、たまったものではないだろうが、書き続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入る。
 現代風に言えば、超有名人と別れた女性が、その有名人の素顔をマスコミに暴露したのと似ているが、彼女が書いたのは、いかに藤原兼家はひどい男だったかを世間に知らしめるものだった。
「蜻蛉日記」は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から4年の日々をかけて書いたとされている。日記の冒頭には「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が書かれている。
 二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。身分の違いは雲泥の差があり、それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使っている紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった」と冷然と書いている。
 これでは宮廷の王者も全く形なしである。いかにあなたに恋い焦がれているかと兼家はせっせと和歌を送り続けが「どうせ本気じゃなんいでしょう」という返歌を繰り返してやがて二人が結ばれる。
 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むと、その直後、彼女は夫がほかの女性に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれる。
 その後も兼家と顔を合わせると、わざと冷たくあしらい、彼女の気持ちはこじれるばかりだった。兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女性の噂が伝わってきては彼女の心は休まるひまがなかった。
 蜻蛉日記にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になるほどで、これだけ書けば妻といえども夫に嫌われるだろうとも想像出来る。
 これにひきかえ兼家の正妻・時姫は優秀な子の母親として、押しも押されぬ足場を築いていった。兼家は姫の産んだ娘や息子を政略に使い、政敵を倒していった。時姫は、それが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを知りながら黙々と夫の後についてゆく。家庭に波風を立てず、子供らはそれぞれの個性を存分に伸ばしたのである。しかし時姫は兼家がこれから頂点(摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして時姫の他界から10年後に兼家も永眠し、通綱の母はさらにそれから5年後に亡くなり、三人の中では最も長生きしたことになる。

 

蜻蛉日記書き出し現代語訳
 半生を虚しく過ごしてきた女がいた。容貌も人並み以下で、分別も無く、世の中から必用とされないと思いながら、ただ毎日起きて寝て暮らしていた。
 世の中の物語を読んでみると、ありきたりな作り話でさえ人の注文を集めている。私のように人並みでない経験を持った者が日記を書いたら重宝され注目されるかもしれるだろう。最上級の身分の男性と結婚したら、その結婚生活はどんなものなのか、その例となればよいと思う。過去のことはだいぶ忘れたが、不完全でも書かないよりはよいだろうと思って書いた。

蜻蛉日記の3部構成

 第一部では兼家からの求婚されて結婚、息子道綱を出産し、夫に愛人が現れ嫉妬に狂うまでの15年間。
 第二部では、ますます兼家の足は遠ざかり、作者は出家すると言って騒ぎ、息子に泣き言をいわれ出家をやめるまでの3年間。
第三部では兼家からの愛をすっかりあきらめ、息子道綱に将来をたくす3年間である。

歌人

 歌人との交流も多く書いており、蜻蛉日記に掲載された和歌は261首で、なかでも「歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」(何度もため息をつきながら、夜が明けるまでひとりで寝るのはどんなに長いかを知っているのでしょうか)は百人一首に採用されている和歌である。

 蜻蛉日記は女流日記のさきがけとされ、多くの文学に影響を与えた。また自らの心情や経験を初めて客観的に書いたとされている。兼家に対する恨み言を復讐のごとく綴っているが、兼家の和歌を多数収めていることから、兼家が協力したという説もある。

 平安時代の通い婚は、女性が年をとって男が通って来なくなれば、生活費もままならない、という切実なものである。その孤独は風流などとは言えないものだった。

小野小町
  世界の三大美人といえばクレオパトラ、楊貴妃、小野小町であるが、もちろん小野小町を入れているのは日本だけで、世界的にはクレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ(ギリシャ神話)である。しかし小野小町は美人である上に有名な歌人で、代表的な六歌仙のひとりに選ばれるほどである。当時の貴族は、和歌を巧みに詠み、かつ宮廷に仕えていることが教養の象徴であった。
 この小野小町の誕生の地は、秋田県湯沢市小野をはじめ、山形県酒田市周辺、京都府山科区、福井県越前市、福島県小野町、熊本市北区植木町小野、厚木市小野など、日本各地に点在しているが、どれが本当の地かは不明である。
 また小野小町の終焉の地や墓も全国に10ヶ所以上あり本当の場所は分かっていない。この誕生地や終焉の地が数多くあることが小町伝説を特徴している。ちなみに父とされる小野篁は地獄の閻魔大王と親友で、閻魔大王の補助をする為、毎夜、あの世に通じる古井戸を通って地獄とこの世を出入りしていたという伝説がある。
 米の「秋田こまち」、新幹線の「こまち」などは小野小町に由来する名前であるが、美人の代名詞とされる小野小町は、はたしてどのような容貌だったのか。具体的な肖像画が残されていないので、平安時代の美人の条件から想像すると、美白肌で黒髪、引き目で鉤鼻、下膨れのおちょぼ口だったのだろう。
 百人一首に選ばれた歌に「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」がある。これは訳すれば「愛や世間に悩んでいるうちに、わたしの美貌は衰えてしまい、それはちょうど春の長雨が降っているうちに桜が虚しく色あせていくように」である。桜の花を自分の美貌とを重ね合わせ、過ぎ行く月日の残酷さを歌っているが、自分を桜に例えるほど美人だったのだろう。

 また「思ひつつ寝ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」訳:慕う人の事を考えながら眠りにつくと、夢の中にまでその人が出てきた。夢だと分っていれば目を覚まさないのにである。

 このように誰でも経験がある恋心を詠んでいる。千年以上前の人でも、恋する気持ちに変わりないことが分る。この和歌のように清純で清々しい恋の想いを詠んだかと思えば、次のような歌もある。「限りなき 思ひのままに 夜も来む 夢路をさへに 人は咎めじ」訳:貴方を恋う想いは限りなく、夜になったら夢の中を歩いてあなたに逢いに行きましょう。まさか夢路までは人は咎めないでしょう。

 この和歌は前文の同じ夢でも「許されぬ恋でも夢の中を通ってあなたのところに逢いに行きます」と積極的である。小野小町は、有名な歌人で遊び人の在原業平などと関係があったことが返歌から分かっているが、同時代を代表する美男子・在原業平は同時に複数の女性と浮名を流したが、小町の歌は遊びと思い込んでいる貴族にとっては怖くなるような歌である。

 激しく燃え上がった恋も、どちらからともなく終わる事があるが、そのような燃え尽きた心情を詠んだ歌が次の和歌である。
秋風に あふたのみこそ 悲しけれ わが身むなしくなりぬと思へば」翻訳:秋風に揺れている稲穂もやがて刈り取られてしまうと思えば哀しい。男に捨てられて空っぽになった私、あんな男でも昔は信じていたと思えばこれも哀しい。

 

百夜通い
 小野小町の伝説で有名なのは、深草少将との「百夜通い」である。ふとしたことがきっかけで小野小町を見初めた深草少将は執拗に小野小町に迫り、小町は深草少将に「百日百夜、私の屋敷へ一日も休まず通ってきたら、あなたの思いを聞き入れましょう」と条件を出した。
 小町は、華やかではあるが、戯れの恋歌ばかりの貴族文化の中で、本当の愛を求めていたのかもしれない。深草少将は毎日通い続け、雪の降りしきる九十九日目の夜、体調を崩して小町への屋敷にたどり着く前に亡くなってしまう。いっぽうの小町は何日も何日も通い続けてくれる深草少将に心を許し始めていた。九十九日まであと一日であるが、小町は深草少将と会うことを決意する。当時、会うことは結ばれることであるが、待てど暮らせど深草少将はやってこなかった。
 この伝説は「小野小町は熱心に思いをかけてくれる男性を、小町は美貌を鼻にかけ冷たくした女性」という話になってゆくが、誰とも添うことのなかった小町の情熱的な恋心だったかもしれない。

 

晩年
 小野小町の一生はけっして華やかなものではなかった。 小野小町は容姿ばかりでなはく和歌を巧みに詠み、宮廷に仕え、在原業平と歌を交わすくらいだったので、男は次々と和歌で求婚するが、男に求める理想が高すぎたのだろう。

 しかし言い寄る男を振った小町ではあったが、恋の妄執に時間をとられ、小町の美貌は歳とともに衰え、やがて宮中からも出され、小町は食べるアテもなく、物乞いをして生計を立てるようになった。晩年の小町は痩せ衰え、着るものさえ満足にない有様で、貧しさの中で死んでいった。鎌倉時代の説話集には、その年老いた小町の哀愁が「着る物もなく、蓑を衾(ふすま)と頼み、敷ける物なくて藁後を畳とせり。昔、色を好み、人に愛されし事を思ひ出して、涙の雨を降らさずといふ事なし」と書かれている。

 また各地に残る老小町像は、老いてあばらが出るほど痩せこけ、眼窩はくぼみシワだらけである。小野小町の人生は美貌と和歌の才を駆使した栄光の前半と、独り身で老いを迎え貧しさの中に死を迎える悲惨な最期が同居している。

 どんな人間でさえも、若さと老い、美貌と老醜、華やかさと零落といった対極を持つが、小野小町の場合はその落差の大きさに驚かされる。その落差が大きければ大きいほど伝説はドラマチックになる。艶やかな恋の歌で有名だった小野小町の、辞世の句とされる歌は壮絶な人生を語っている。
吾れ死ねば 焼くな埋むるな 野にさらせ 痩せたる犬の 腹を肥やせや」である。小野小町の生涯は忘れ難いものとして多くの人の記憶に残されているが、小野小町の辞世の句はあまりにすごすぎる。それが今でも小野小町が語り継がれる理由なのかもしれない。